Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
太陽の仕事

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 AV女優になるか、介護の道に進むか、もうどちらかしかないと言われた。
 べつにそれが真実だったとは思わない。二十五歳の既卒女性でも雇ってくれる『ちゃんとしたところ』は、探せばあったのかもしれない。でも、誰よりも何よりも、その素人モノのAV出演者を探すスカウトマンの言葉に私が頷いてしまっていた。ああ、そうだなと。私にはもう、そのどちらかしか道はないのだなと。
 でも、どちらになればいいのか分からなかった。普通に考えれば介護だろうが、その職に就いた友達の衰弱ぶりと薄給ぶりを聞いていた私は、どうしても二の足を踏んでしまった。体力にはそれなりに自信がある方だが、希望の見えない世界で神経をすり潰していけるほど鈍磨でもない。では、AV女優か。スカウトマンいわく「全然イケる」そうだったが、別段、私は美人ではない。私が男だったらすれ違いざまに「ああ、ヤリ捨ててぇ」と一瞬思って次の瞬間には忘れている程度の顔だ。おっぱいは確かに、なくはないが、かといって人に揉ませて感じるほど敏感でもない。まあ要するに、普通。
 それに何より、私は演技が下手なのだ。
 大学の頃に付き合っていた彼氏とセックスしている時に、私のあまりに酷い『感じているフリ』のせいで彼が泣いてしまったこともある。
 正直言って、ちょっとマグロなのだ。
 とても、カメラの前に立つことが向いているとは思えない。
 AV女優にも、介護職にもなれない。
 だが、ものは考えようだ。どちらにもなれないなら、いっそどちらにもなってしまえばいいのではないか。妙な話だが、そのどちらも一般企業に就職できない私からすれば最後に残った切り札なのだ。
 そんな仕事があるとすれば、だが。


 久々に、ハローワークから仕事が紹介された。給金も悪くなかったが、何より、その職務内容に私は謎めきを感じた。他に希望する求人もなかった私は、好奇心まじりにそこに応募した。すぐに面接までこぎつけた。
 面接は、私も知っている喫茶店で行われることになった。
 私は拳をぐっと握って、覚悟を決め、その日を迎えた。
 クリスマス前の、寒い寒い冬の日だった。
 黒々と重く立ち込める曇天に頭を押さえつけられるようにしながら、私はコートの襟を立てて寒風をしのぎ、約束の喫茶店に入った。
 チリィン……とドアベルが鳴って、ドアを閉めると中の暖気が私の身体を包んだ。コートを脱いで、人気のない店内を見回すと、カウンターを通り抜けた先にあるボックス席の一隅に座っていた中年の女性が、ぺこりと私にお辞儀した。
 その隣に、青ざめた顔色の若い男性が縛り付けられたように俯いて座っている。
「こ……こんにちは」
 私はおどおどしながら挨拶した。女性はニコリともせずに、どうぞ、と私に椅子を勧めた。私は一礼して席に座った。背もたれにコートをかけるのに手こずる。
「今日は、寒いですね」
 私はブンブン首を縦に振って賛同した。粗相があってはいけない。ちゃんとしなくては。
「な、なんでも、この十年で最大の寒波だとか、言ってますね、ニュース」
「ごめんなさいね、日付を変えようかとも思ったんだけれど」
「いえいえ!」私は千切れるほど首と手を振った。
「全然大丈夫です。近所なんで」
「そう、ならよかった。……なにか飲みます?」
「あ、い、いいんですか……」
「そんな固くならなくていいんですよ。会社の面接というわけじゃないんですから。それに、あなたが引き受けてくれるなら、落とすなんてことありませんから」
 私はごくりと生唾を飲み込んだ。メニューに貫手をかましてしまい床に落っことし、動揺丸出しでココアを頼んだ。ココアはすぐに来た。熱々のそれを舐めて私は「んっ」と声を出してしまった。
 その声に反応した男の人と、目が合う。が、すぐに目をそらされてしまった。
 彼は、若い。私より年下だろう。二十二か、三か……失礼な話かもしれないが、私には、彼がなんらかの薬物をやっているのではないかと思われた。青い顔色にこけた頬。二重の目元は美青年に思えなくもないが、あまりにも生気がなく、なんだか見ているだけで室温が下がっていくような気さえする。こんな場でもなければ、係わり合いになろうとも、一瞥をくれようとも思えないタイプの冴えない感じ。
「何か飲む?」
 と、女性が男性に聞いた。母親らしく、メニューを彼の前に押し出してやる。彼は一瞥をくれただけで、いらない、と答えた。蚊の泣くような声だった。母親はメニューをついたてに戻した。
「それで……あの」
「はい?」
「お仕事の、話なんですけど……」
 私の声が、尻切れトンボに消えていった。
 まさか、あの職務内容はデマカセじゃないのか、とは言いにくかった。
 女性は、私の躊躇いを敏感に感じ取ったらしい。手元のカップを回しながら、ええ、と呟いた。
「あなたには、この子の『体温』の面倒を見てもらいたいんです」
 この子、と呼ばれた男性を、私は思わずチラっと見てしまっていた。
「体温……」
「この子は、作家なんです。その世界ではちょっと名の売れた新人らしいんですが、私にはよく分かりません。本も書いたことはありませんし、読みもしません……ですが、今はこの子の収入で食べています」
 私も詳しいわけではないが、家族を扶養できるほど稼いでいるのなら、ちょっとした新進気鋭の若手というやつなのではないかと思った。
 青年作家は、黙っている。
「ですが、最近、この子はスランプに陥ってしまったらしくて……どうも環境がよくないらしいのです」
「環境……」
「ええ。環境を変えればスランプも治るかもしれないと……そのためには、中途半端な環境ではいけないそうなのです。彼のスランプを治すためには、徹底的に彼を中心とした環境を整えてあげなければ、ならない、と」
「……それと体温が、どう関係しているんですか?」
「スランプの原因は、ストレスによる身体の冷え、だそうです。言葉にするとつまらないことに思えるかもしれませんが、実際に、息子の体温は35度4分が平熱なのです」
「35度……それは確かに、低いですね」
「体温は、人が生きていくエネルギーの示度です」
 女性はテーブルに語るように言った。
「それが低いということは、生きていく力が減退しているということ……冗談ではなく、このままでは息子は『衰弱死』してしまうかもしれません。生きていく力のないこの子は、ひょっとしたら、『ストレス』で死んでしまうかもしれないんです」
 女性の目に涙が浮かんだのを見て、私は思わず身体を固くした。
「……それは、たいへん、ですね」
「ですから、あなたにお願いしたいのです。この子の『体温』の世話を。お金は充分に払います。住み込みになりますが、割りの悪い話ではないはずです。家事はできますか?」
「あ、はい……一応、一人暮らしを五年近くやってますので」
「それなら安心しました。安心してこの子を任せられます」
「……この子を任せる?」
「はい。あなたには、住み込みで働いていただきますから」
「え、でも、お母さんも一緒なんじゃ……」
「いいえ、私はいません」
「そ、それじゃ……二人暮らしってことですか? この人と?」
 この人、と私が言った瞬間、青年作家が私を見た。その目の鋭さに一瞬、私は怯む。だが、その眼差しはすぐに氷が解けるように曖昧模糊とした滲みに戻った。
「家事はやれますし、体温を監視するのも嫌じゃないですけど、知らない男の人と二人きりで一緒に暮らすのは……ちょっと……」
「嫌なんですか?」
「同居人がいると思っていたので……」
「心配いりませんよ。息子はEDですから」
 今度こそ息が止まった。
「――はい?」
「ですから、ED、勃起不全なんです。あなたを襲ったりできませんから、ご安心を」
「そ、れは……えっと……」
「ご不満ですか? やめますか?」
 急に気色ばんだ女性に、私は面食らう。悪名高い圧迫面接に入ったのだろうか。あうあうしてしまうだけで何も言えない私に、女性は深々とため息をついた。ああ、終わった。
「……まあ、確かに、この子に生理的嫌悪感を覚えるというのなら、あなたにこの仕事を託すことはできません」
「い、いや何も生理的嫌悪感だなんて……」
「いえ、少しでも感じるのなら無理です」
 その高圧的な物言いに、私はちょっとカチンと来てしまった。
 思わず、住めます、と言ってしまう。
「い、一緒に住むくらいなんでもないです。できます。やれます」
「本当にやれますか? 私は、あなたに『体温』の面倒を見ろと言っているんですよ?」
「そんなの、身体が冷えないようにあったかい食べ物作るだけじゃないですか。チゲ鍋くらい用意してあげられます。なめないでください」
「息子の体温は、『夜』に下がるんです。その意味が分かりますか?」
 わからなかった。
「どうすれば息子がストレスを感じずに体温を上げられると思いますか? 暖房をつけるだけじゃ足りません。チゲ鍋なんか食べたら繊細な息子はおなかを壊します。いいですか、家事なんて適当でも構いません。私があなたにお願いしたいのは――」
 覆いかぶさるように顔を近づけてきた女性に、私はしり込みして、べったり椅子に背中を貼り付けたまま、その言葉を聞いた。


「毎晩、息子の身体を裸になって抱きしめて、暖めてあげてほしいと言っているんです」


 え、と。
 私は呆然とした。何度も瞼をパチクリして、わけのわからない現実を少しでもコマ送りにしようとしたが、無駄だった。やっとのことで、咽喉から声が出た。
「裸で?」
「裸で」
「裸で……」
 私は当の青年作家の方を三度見た。少しも話に入ってこないこの男は、ストローの袋を粉々に千切って、山を作っていた。私がウンと言おうとイイエと言おうと、どうでもいいと言うかのように。
 また、カチンと来た。思わず口走っていた。
「やります」
「本当に?」
「だ、だって、こっちだって切羽、詰まってますから」
 女性は、憑き物が落ちたようにストンと椅子に座り直した。相変わらずニコリともしないが、その顔から険が取れたようだった。
「そうですか。分かりました。では、お願いします。準備が出来次第、いまお住まいの部屋を引き払って、この子の仕事部屋に引っ越して頂きます。給金は以前お知らせした通り。ご不満はないはずです」
 そう言うと女性は、息子を連れてとっとと出て行ってしまった。まるで嵐のようだった。まだ心臓がバクバク打っている。私は机の下から足を引っ張られたかのように深々と背もたれに張りついたままだった。そのまま、ゴン、と後頭部を椅子に打ちつける。
 AV女優にも、介護職にも、ましてや『ちゃんとした』社会人にもなれない私にも、できる仕事。
 それは、確かに、あった。

     




 アパートを引き払った時に、覚悟を決めた。
 夜逃げ人のような大風呂敷に家財をありったけ突っ込み、お気に入りのピンクの傘を剣に見立て、私は白塗りの一軒家の前に立った。
 普通の家だ。
 南向きのベランダで、カラカラとハンガーが揺れている。
 昔は農地だったのかもしれない、段々になった閑静な住宅街。その中腹の方に埋もれるようにして立っているその家が、私の新しい家であり、私の雇い主の住む『仕事場』だ。
 深呼吸を繰り返しているうちに、犬の散歩をしている人が私の背中を往復していった。ちょっと恥ずかしい。
 だが、ここで躊躇していても仕方がない。私は意を決してチャイムを鳴らした。
 誰も出てこない。
 そこで、雇い主の母親から言われたことを思い出す。『彼』は昼夜逆転していることが多いから、昼間は眠っているかもしれないと。緊張して損した。私はスペアキーで勝手に家の中に入った。背中の大風呂敷がガンガンつっかえたがゴリ押しで通った。
 居間に入って、背中の風呂敷をテーブルに落として、一息つく。
 家主は、出てくる気配ナシ。相変わらずの自己中っぷり。もういいや。それ込みのお給金だと思おう。
 とりあえず、家の中を探索してみることにした。年甲斐もなくワクワクしたが、あっさり済んでしまった。テレビとコタツ机のある居間と、そこから繋がった台所。生活感が欠片もないのは箸立てすらテーブルに乗っていないからか。メモが一枚も貼られていない冷蔵庫の中は空っぽで、案の定、食器棚の一番下を空けてみるとインスタントラーメンがズラリ。これじゃ体調が悪くなるのも当たり前だ。私が来たからには、もう少しいいものを食べさせてあげよう。今まで付き合ってきた彼氏はみんな胃袋から落としてきた実績は伊達じゃない。
 居間から繋がっている和室には、綺麗さっぱり何も置いてなかった。ひとまず荷物一式をそこにぶち込んで一仕事したような顔をしてみる。
 二階に上がると、人の気配がした。三つある部屋のうち、一番奥にある部屋から「ガタタタタタタタ」と凄まじい音がする。どうやら彼は仕事中らしい。スランプという話だが、まったくダメというわけではないらしかった。邪魔しちゃ悪いかな、と思ったが、彼の母親から『体温は二時間置きに計るように』言われている。初っ端から職務怠慢は心苦しい。どうしようかドアノブの前で躊躇っていると、いきなりドアが開いて私は悲鳴を上げた。彼は、目を丸くして尻餅をついた私を見下ろしている。
「…………」
「…………」
 気まずい沈黙が下りる。
「……体温?」
「は?」
 私が面食らっていると、彼はため息をひとつ残して私をまたぎ、一階に降りてしまった。呆然とその背中を見送った私は、テーブルにこぼした水が床に滴るように、彼の言葉を遅れながら理解した。
「体温を計りにきたのか?」と言いたかったのだろう。省略しすぎだ。
 私は使い潰したタイヤのように両足を空転させて、慌てて彼の後を追った。とにかく、どうも仕事の方は一段落したようだし、今の内に体温を計ってしまわなければ。下がっているようならば、何か対策を打たねば。お風呂を沸かして湯船にぶち込むのが手っ取り早いかもしれない。
 居間に下りると、誰もいない。目を台所に振ると、彼がカップラーメンに湯を注ごうとしているところだった。壁の時計は一時を回っていた。別に不思議じゃない、腹が減ったらラーメンを喰う。普通のことだ。だが、私にとってその光景は衝撃的だった。
 家政婦がいるのに、カップラーメンを主人が食べていたら、私ってなんのためにいるんだ?
 落ち続けた入社面接のことがフラッシュバックする。何度ももらったお祈りメールが頭のなかで炸裂した。あ、やばい、と自分で思った時にはもうダメだった。私は駆け出していた。
 半分くらい注がれていたカップラーメンの容器と、彼が持っていた薬缶を払い落とした。後から考えれば危険極まりない。家政婦失格という以前に人間としてちょっとヤバイ。
 そんなことは私にも分かっていた。
「…………」
「…………」
 カップラーメンを作ろうとしたら、家政婦に叩き落とされた青年作家は、さすがにその想像力を持ってしてもこの状況が理解できなかったらしい。今度こそビックリして口をポカンと開けている。歯並びいいな、と思いながら、私は搾り出すように言った。
「作りますから。ごはんは、私が作りますから。そこ、座っててください」
 青年作家は、時間が止まったような顔のまま、食卓に着いた。珍獣でも見るような目つきで私を見ているのを頬で感じる。耳が熱い。何やってんだ私は。
 中身をぶちまけたまだ硬いカップラーメンを片付けると、私は冷蔵庫を開けた。
 何も入ってなかった。
 そういえば、さっき見た。
 閉める。
 ゴン、と冷蔵庫のドアに額を打ちつけた私に、背後で彼がビクっと反応するのが気配で分かった。
「何食べたいですか」
 私は冷蔵庫にゼロ距離でガンをくれながら背後の雇い主に尋ねた。
「食材、買ってきます」
「…………」
 ぼそぼそと彼が何か言った。
 全っ然聞こえない。
 私はぐるりと振り返ると、彼をキッと睨んだ。
「なんですか?」
「……べつに、いい」
 ごはんはいらない、ということらしい。そんなワケにいくかボケ。私はテーブルに放置されていた体温計を握ると、それを彼の胸に押しつけた。
「体温、計っておいてください」
「…………」
「何か精のつくもの買ってきます。なんでもいいですよね。キライなものはもう伺ってるんで。じゃ」
 叩きつけるように言い残し、私は和室に置きっぱなしの自分の大風呂敷からポーチを取り出した。生活費は経費で落ちるが、領収書が必要だから忘れないようにしなければ。とにかく、自分がやるべきことをやって、ミスもトチも忘れたかった。
 玄関を出た私に、あの、と呼びかける声があった。私は振り返る。
「なんですか?」
 彼は、よれよれのシャツの脇から体温計を差したまま、私に言った。
「ほうれんそう」
「は?」
「ほうれんそうが食べたい」
「……分かりました」
 私は靴の爪先を二度打つと、門から外へ出た。午後の日差しが早くも傾き始めている。
 ほうれんそうって、料理じゃないし。



 ご希望通りにほうれんそうも近所のスーパーで買ってきたが、もちろんそれだけ喰わせておくわけにもいかない。家事は適当でもいいと言われていたが、そんな甘い考え方をしているからストレス性の低体温症なんて引き起こすのではないかと思う。どうもあの母親は家事をナメている節を感じる。家政婦として雇われた以上は、全力を尽くしたかった。
 せっかく見つけた、初めての仕事だから。
 冬の日は短い。彼の家に戻るとすでに日没だった。靴を脱ぎざまに「お邪魔します」と呟いてしまう。まあ、べつに家族になるわけでもなし、お邪魔しますでもいいか。
 台所にいくと、彼が座っていた。
「36度」
「は?」
「…………」
 ぷいっと顔を背けられる。なんだコイツ。私が何したって言うのさ。36度? ……ああ、体温か。相変わらず、言葉が少ない。それでも作家か。私は買い物袋を置くと、ふうと一息ついた。短気はよくない。
「36度なら、大丈夫ですね。お夕飯作るのにちょっと時間頂くので、部屋に戻っててもいいですよ。あ、それとも今お風呂沸かします?」
「もう沸かした」
 言葉に詰まった。
「……あ、そう」
 よく見れば服もパジャマに変わっているし、髪がまだ湿っている。一番風呂はもう済ましたのね。水どうしよ。抜こっかな。
 まあいいや、とりあえず夕飯作らないと。私は腕まくりをして、前の家から持ってきた愛用のエプロンをつけて食事の支度に入る。
 私が準備している間、彼はずっと食卓に座っていた。じいっと見られている気配を感じて、ちょっとおぞましく感じてしまう。どっか行っててくれないかな。テレビ見るとかでもいいから。だが、なんとなく予想した通り、料理が出来るまで彼は食卓を動くことはなく、私も彼にどっかいけという勇気が湧かず、肉じゃがとほうれん草の野菜炒めと白身魚と納豆ご飯を出した時にはもう、私は心身ともにズタボロだった。食べ終わったら流しに置いといてください、と言い残して風呂に直行した。ところどころカビた風呂場を湯船からぼんやり見上げている時に、水を抜き忘れたことを思い出した。うわ。うわあ。なんか、触られるよりも穢れた気分。ぷかぷかと浮いていた自分のものか相手のものかも知れない縮れ毛を湯船からすくってポイした。
「……ふう」
 それでも浸かっちゃったものは仕方ない。死ぬわけでもなし、目を閉じて振り込まれたばかりの通帳の額面を思い出せば疲れも吹っ飛ぶ。生活費が完全に向こう持ちである以上、稼げば稼いだだけそっくりそのまま私の給料になるのだから、考えてみればこれほどボロい仕事もない。これで文句を言ったら殺されても文句は言えない。
 ちゃぷん、と水を手ですくっては、零す。どんどんどん、と足音が聞こえた気がした。彼が食べ終わって、二階に戻ったのかもしれない。足音がしたと思える方向に目を向けながら、ぼんやり思う。
 ホントに起たないのかな。
 事と次第によっては覚悟しなければならないのかもしれない。もしかすると何もかもただの狂言なのかもしれないし。そう思うと私も随分無茶をしたような気がする。まともな神経を持っていたら、きっとこんな仕事に就いたりしないのだろう。
 心臓が、早鐘を打っている。
 のぼせる前に、お湯を出た。




 セミダブルのベッドの上に、彼が寝そべっている。かけ布団から覗く肩は、剥き出し。私はパジャマのまま、サスペンドのよく利いたベッドに膝をついた。私のパジャマ、急に知らないところに放り出されてビックリしてないかな。私もすっごい、ビックリしてるし。
 なんでこんなことになってるんだろ。
 あまりにも『今日』が長すぎて、『昨日』が思い出せない。
 なんだか、もう何十年もこの生活を続けているような錯覚さえする……今からこんな調子で、やっていけるのか不安になる。
 でも、やらなければ。
 これは、仕事なんだから。
 彼は、さっきまで仕事をしていたのか、虚脱したような顔で天井を見上げている。私なんて、いないかのように。
 私は意を決して、布団をめくりあげた。
 中に収まっていた彼の身体が、あらわになる。視線が、磁力を帯びたように彼の下半身に飛ぶ。
 わ。
 本当に、起っていなかった。そして心配になるくらい、小さい。皮はしっかりと被っていた。戯れに掴んだらそのまま潰れてしまいそうだ。
 視線を感じて、はっと顔を上げると、彼の目玉がこちらを向いていた。責める色も、恥ずかしがっている色もそこにはなかった。ただ、私を見ていた。その目はこう言っていた。好きにしろ。なんとでも思え。俺は何も感じない。
 どうも、私は、
 一方的な態度というものに、つい反逆的になってしまうサガがあるらしい。
 負けてたまるか、と思った。
「し、失礼します」
 それでも震える声で前置きし、パジャマを脱いだ。下着姿になる。ふ、とサイドテーブルに乗った体温計に目が行った。まだ表示が残っている。
 34.8度。
 生唾を飲み込んで、ブラとパンツを脱いだ。
 全裸になる。
 顔から火が出るほど恥ずかしかった。よくもまあ彼は股間丸出しで平然としていられるものだと思う。ここはハワイのビーチかと疑いたくなるほどリラックスしておられる。なんだかこっちが馬鹿みたいだ。でも、馬鹿でいいのだろう。この恥ずかしさで上がる体温を、私は彼に売ったのだから。
 ゆっくりと近づいて、抱きしめる。
 うっ、と声が思わず出た。
 冷たい……
 彼の身体は、雪の中から掘り出したばかりかのように、冷え切っていた。触れ合っているだけで体温を奪われていくのを感じる。
 手を掴まれた。押し倒される。不思議と恐怖はなかった。萎え切ったそれが常に視界の隅にチラついていたからかもしれない。
 決して貧しくはない乳房を、吸われる。
「……っ」
 乳房の表面を撫でては離れていく彼の鼻面がくすぐったい。強く抱き締められて身動きが取れない。
 身体を扱う手つきは、優しい。撫でられて浮き彫りになった身体を感じていると、まるで自分が尊いものになったような気がする。
 しがみつくように、彼は私をそのままの意味で抱いた。私は乳房にしゃぶりつく彼の頭を撫でて、あやす。
 彼の顔は苦しげだった。この世に蔓延るすべての悪から逃げる場所が私の身体しかないかのように、すがってくる。吐く息は興奮のそれというよりも苦痛のそれ。ぐずるような喉から溢れる唸りは手負いの獣じみていた。

 何が、そんなに苦しいのだろう。
 ただ生きているだけで、何が。
 こんなに傷つくまで、いったいどれだけの悲しみを、その身に。その心に。
 どうして――

「ううっ……ああぁぁっ……」
 泣き出す一歩手前の呻きを漏らしながら、彼は私の肩を掴み、顔を乳房に埋める。生暖かくなってきた吐息と、熱を持ち出した身体。氷のような無表情と拒絶が融けて、子供のような本性が剥き出しになる。
 湿った犬歯が、私の肩に突き立った。
「んんっ……!」
 痛みと共に、肩が濡れる感触。血が溢れたのだろう。
「ううっ……」
 彼は、そうしないと私がここにいることを確かめられないかのように、強く強く、私の肌という肌を噛んでいった。時に弱く、時に強く。
 私は、自分から彼を抱き締めた。
 男性のものにしては細すぎる肩が、こわばる。
「大丈夫だよ」
 脈の音を聞こうとするように、私は彼の首筋に自分の頬を当てた。
「大丈夫。大丈夫だから」
 私の手の中で、捕まえられたウサギが生を諦めるように、彼の身体から力が抜けていく。
 氷が融けていく音が、聞こえた気がした。







 彼が寝静まってからも、私の仕事は続く。
 放っておくとすぐに冷えてしまう彼の身体を抱き締めて、朝陽を待つ。
 いつか、ただのつまらない太陽の光だけで、彼のこころが融ける日が来るまで。
 私は、太陽の代わりを務め続ける――

       

表紙

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Neetsha