Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
医師と患者

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「はっきり言いましょうか。あなたは生活保護です」
 と、俺の前に座った医師は言った。
 俺は医師の机の上にあるペン立てを見ていた。
「はい……」
 答えるのも億劫だった。医師はそんな俺を一瞥して、手元のカルテをめくった。
「あなたがここへ来られた理由は、睡眠相後退症候群――俗に言えば昼夜逆転とそれに伴う睡眠障害、勤務に支障をきたすほどの鬱症状、度重なる便秘と下痢とそれに伴う腹痛。それに下血――おそらくストレス性によるもの。確かですね?」
 俺は頷いた。医師はカルテをパンと叩いた。
「話にならない。あなた、いったいどうして自分がまだやれるなんてお考えだったのですか?」
 俺は医師を見ただけで、何も答えられなかった。
 自分の思考をどう言葉にしていいのか、思い出せない。
「まず、あなたは確実に重度の鬱病を発症しています。鬱は重度であればあるほどそれを本人が認めたがらないものですが、あなたもそうですね。まだ私の言葉を疑ってらっしゃる。なんだかんだ言って自分のはただの『怠け』だと思っていらっしゃる……そうですね? 誰ですか、あなたにそんなことを言ったのは。私がぶち殺してきて差し上げます」
 そう言って医師はおもむろに事務机の引き出しから自動拳銃を取り出した。俺はそれを見てぞっと総毛立った。期待と恐怖がまぜこぜになったまま、肩の筋肉が強張り、何もいえなかった。医師はその拳銃を手の中で弄んだ。
「冗談です」
「…………」
「ですが、あなたを追い詰めた人間には、撃たれてしかるべき罪があると私は思います。少なくとも、あなたはそう思ってください。責任転嫁は鬱病を治す最高の特効薬ですから」
「そうなんですか……?」
「ええ。だって自分の責任だとあなたはお思いなんでしょう。全てにおいて。自分が生まれなければ全ての問題が解決したと。それはその通りかもしれませんが、その代わりあなたが残した功績も全て無為になるわけですから、結果的には大いなる損失ですね。いずれにせよ、あなたが責任転嫁しなくてもほとんどの人間はそうやって生きているのですから、べつにあなた一人が外道に落ちたところで、大した負荷じゃないんですよ」
 医師はカチカチとモデルガンの引き金を引いた。
「あなたを取り巻く全ての害悪は、あなたのせいではなく、あなたを取り巻く環境の責任です。それは、信じてください。私の見立てでは、あなたは決して悪い人間じゃない」
「…………」
「あなたはね、悪い人間というものを、『人間』として見なしていないんですよ。傲慢なんですね。あいつは人間以下だから俺とは違う、とこう考えているわけです。いや、それはそれで結構。誇り高さは美徳だと私は思っています。ならばなおさら、その誇りがあるなら、自分を卑下するのは矛盾した行為です」
「でも、俺はいたってしょうがないんです。いない方がいいんですよ」
「DVのことですか?」医師はサラッと言った。
「言葉による家族へのDV。確かにあなたがブログに書き上げていた小説仕立ての報告によれば、これはDVに当たるでしょうね。ですがこれも言っておきます、これはあなたのせいじゃない」
 俺は乾いた笑いをあげた。
「俺がやったのに?」
「家庭内暴力は遺伝します」
 医師はまたもやサラッと言った。
「それはあなたも認めているはずです。そのように書いてありますからね。いいですか、あなたの父親はあなたの母親に対するストーカーおよび脅迫行為で起訴寸前まで行った男ですし、あなたの伯母は二人とも離婚しています。その息子、つまりあなたのいとこは三人いますが、一人は離婚して現在独身、もう一人は十五で子供を作ってそれを郷里に置き去りにして逃げてきて家庭内暴力を働いていたあなたの父親の生き写し、そしてその弟も言葉の暴力であなたの母親を泣かせたことがあり、また二十五で無職の高卒です。あなたの父方の祖父母は還暦を迎えたにも関わらず喧嘩をしては流血沙汰を起こしてたびたび警察を呼ばれています。またあなたの曽祖父は家族を捨てて妾と逃げた男です。まだ言いましょうか? まだ書いてありますからね。はっきり言いますよ。あなたの家はきちがい一家です」
 俺は何も言えなかった。ただ自分が責められているような気がした。
 医師が俺の手を握る。
「いいですが、高畑さん。私は医学的な話をしています。これは決して慰めなんかじゃない、医学の世界では発狂は『遺伝』するものとして周知の事実なのです。あなたは確かにその血統を色濃く引いています。単刀直入に申し上げて、あなたが社会に適合できる可能性は限りなくゼロでしょう。ですが、それはあなたのせいじゃない。あなたの脳が壊れていることは、最初からなんです。ただ生まれてきただけのあなたには、どうしようもなかった。肌の色は目に見えます。でも脳の傷は馬鹿には見えません」
「…………」
「だから、あなたは今まで受けた迫害を自分のせいだと思わなくていい。もし脳の違いを誰もが理解できる世の中なら、あなたは最初から生活保護を受けていたはずだし、その中で自分の生き方をもっと模索できていたはずなんです。……こんなに身体を悪くする前に」
「…………」
 医師が俺の手を見た。
 拳の部分が青黒くなっている。
 その汚れた箇所を、医師は紙でも引き伸ばすかのように、指で広げた。
「本棚を殴った傷というのは、これですね」
「…………」
「いつから、時折こういう暴力衝動に駆られます?」
「……中学一年の頃から」
「あなたが創作を始めた頃と、あなたの父親が暴れ始めた頃と、符合しますね」
 医師は寂しげに笑った。自分の無力を見たように。
「専門ではありませんが、骨に亀裂が入っていると思います。それがそのまま治っていますね。ボクサーにはなれないでしょう」
「……なりませんよ」
「そうでしょうね。あなたには、最初からなれないものがあまりに多いのに、それを自分で増やしてしまっている。あなたを責めることは出来ません。あなたの周囲には、誰もあなたの話を聞いてくれる人がいなかったのですから」
 医師は俺の手を放した。
「誰にも自分の話を最後まで聞いてもらえない……これも、あなたのせいではありません。あなたと同じ悩みを抱えた人は沢山います。そしてほとんどが、やはり、最後まで自分の話を聞いてもらうことなど出来ません」
「……先生は、俺の話をちゃんと聞いてくれてます」
「どうですかね……もしそう思って頂けているなら、それはあなたの小説のおかげですよ」
 医師は笑って、カルテを叩いた。
「あなたの分析は正しい。口下手な人は、文章がカライ。ただでさえ、普段は黙っているものだから都合のいい存在として足蹴にされるのに、本心をぶちまければ悪者として迫害される。……人間って、嫌な生き物ですね」
「そうですね」
「いい傾向です」医師は笑った。
「そうやって、誰かのせいにしてしまいましょう。それで生きていけるなら……だってそうでしょう? もしあなたが自殺しても、無意味です。なぜなら周囲は最後まで、あなたが死を賭してでも、あなたを無視するでしょうから。……本当にあなたの小説は分析的で、私の方が帽子を脱がないといけないな。自殺サイトを巡っている間にあなたが考えた諸々の考察は、専門家とほとんど変わらない。自殺者は、少なくともその一部は、自分の死を持って何かを伝えたい……自分は『本当に』苦しいのだと。でも、自殺したところで誰にもその苦しみは伝わるわけがないから、自分は『自殺』したりしない……こういうことって、やっぱり小説を書いているうちに自然と身につく考え方なんですか?」
 俺ははにかみながら、首を捻った。
「さあ、どうでしょう。ただ、俺は何かを『伝える』なんて、最初から嘘八千だと思ってるだけです」
「というと?」
「俺は文章書きでしたからね……言葉の恐ろしさは知っています。言葉ってね、本当は弱いものなんです。でもそれを無視できる強さがないと、絶対に勝つことができない無敵性を帯びてくる。本当は無視すれば済む弱いものなのにね。だから、俺は文章書きだったからこそ、言葉なんかこれっぽっちも信じてない。行動が全てです。結果はどうあれね。だから、『自殺』っていう『言葉』も信じてない。人間は自分が見たくないものは無視するものです。本当に聞かなきゃいけない言葉は、無視したくなるようなものばかりなのにね」
「良薬口に苦し、ですか」
「そんなものですね」
「…………」
 医師はペンをトントン叩いて、
「いまの言葉、自殺防止のセミナーで使ってもいいですか?」
「どうぞ。俺の言葉なんかでよければ」
「ありがとうございます」医師は真面目な顔で頭を下げてから、まじまじと俺を見つめた。
「こうして喋っていると、とてもあなたが生活に破綻をきたしたようには思えなくなってきますよ。こんなに冷静な人が……」
「自分のフィールドですからね、今は」俺も俺の調子がよくなってきていることを悟ってはいた。
「自分にやれることなら、どこまででもやれます。それこそ死ぬまででもやるでしょう。でも出来ないことは、最初から出来ません。いつまで経っても」
 俺の脳裏には仕事のことがよぎっていた。
 医師の目も、それを見透かすかのように光っていた。
「アルバイトをやめたことは、正解だと思います」
 俺は曖昧に笑った。医師の目には、きっと一瞬で俺が二十も歳を喰ったように見えただろう。俺は俺のフィールドを失った。
「世の中には、アルバイトを軽んじたり、いつやめてもいいもの、バックレてもいいもの、そんな風に捉える人もいます。あなたのご立派な公務員のご友人のようにね。ですが、本当に世の中からそういう人たちがいなくなったら、この社会は成り立たない。バイトとパートが総抜けしたら正社員だけではなんの店舗も回せない。それがあなたが三年間、骨身を削って通った業界の現実です。あなたの指摘も考えも正しい。あなたはご自分に向いていない仕事を、一日も休まず勤め上げた。それの何が悪いんです? 何が恥ずかしいんです? 私は……」医師の手が震え始めていた。
「……あなたの周囲にいる人たちが、憎い。なぜ、こんなにも頑張った男に、なんの言葉もかけてあげなかったのか……家族も、友人も、社会も」
 医師は顔を拭った。
「駄目ですね、私の方が参ってしまいそうだ。本当に、あなたの小説は凄い。自分のことのように、胸に刺さってくる……」
「大したものじゃないですよ」俺は笑った。
「金にはなりませんでしたから」
 医師は細い息を吐いた。
「……それでも、私はあなたの小説が好きですよ。医師と患者の立場を超えて、先生と呼ばせてください」
「いや、それは本当にちょっと」
「…………」
 医師はしばらく黙って、俺を静かなまなざしで見直していた。
「最後に希望を与えてあげます。私は医者ですからね。それが仕事なんです」
 俺は笑った。
「はい、受け取ります」
 医師もニッコリと微笑んだ。
「脳障害にしろ、躁鬱病にしろ、私の見立てでは、あなたのそれは不可逆性を持ってない。つまり、完治は無理でも、一時的に良くなることはあるはずです。そうでなかったらあなたはもっと早く死んでいたはず。あなたの人生は、透明な嵐の中にいるようなものかもしれませんが……私はあなたを応援しています。あなたの努力を認めています。どれだけ自分が惨めに思えても、諦めないで下さい。私は、あなたに『諦めろ』と言う人間の敵です。あなたには、味方がいることをどうか忘れないで下さい」
 俺は目を伏せた。
 医師は俺の手を掴む。
 強く、強く。
「冷静で理知的で疑い深いあなたに最後のダメ押しを致しましょう。……私はね、あなたのような人を専門に視てきました。青春の全てを賭けて、私は、あなたたち『兵隊アリの脳』を持った人たちを研究してきました。社会に適合できる『働きアリ』ではなくね。ですから、あなたが幸福に生きていってくれない限り、それは同時に私の全人生も否定されたことになるんです。私はね、高畑さん」
 ぎゅっと掴まれる。
「負けたくないんですよ」

       

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Neetsha