Neetel Inside ニートノベル
表紙

わが地獄(仮)
『もし顎男が異世界チート転生を書いたら』

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 その男は異世界から転生してきたらしい。


 ……という噂が、ある一つの城下町で立っていた。
 なんでもその男はある日突然、森の中に現れ、野盗に襲われていた町娘を助け出し、その街へとやってきたのだという。
 凄まじい剣の使い手で、顔は平凡だが、魔法の知識も豊富で、騎士団といざこざを起こした時もものの数秒で名うての騎士たちをのしてしまったとか。
 そこからあとはお決まりで、騎士団に推薦され、辞退し、いくつかの謀略を経たのちに国王公認の客員剣士として収まった。
 いまは城に住み、急な病で公務を執り行えなくなった王の代わりにこの地方国家を取り仕切っている。
 しかし、その評判は悪い。
 政務能力はそこそこあるようだが、女癖が悪く、奴隷を買ったり女性騎士を手籠めにしたり、城内のメイドをすべて自分が選んだ情婦で取り揃えたり、気に食わない意見を唱えた重臣たちはいずれもそれまでの忠心をかき消したかのような「反逆罪」によって国外追放されている。
 俺の前にいる宿屋のおばさんはため息をついた。
「マスターズ様はね、ずっと国王さまに仕えてきた方なんだ。新しい客員剣士様は腕も立つし頭もいいみたいだけど、この国を守ってきてくれた人たちをみんなどこかへやってしまったよ。なんだかあたしは、あの人は好きになれないねえ」
「そりゃ災難だったね、おばさん。俺ァ、カルバネス山脈を越えてきたんだけど、まさかこっちではこんなことになってるなんて」
「え?」
 おばさんは食器を磨きながら、意外そうに眉をあげた。
「やだね、よしてくれよ。あの剣士様を非難してるわけじゃ……」
「わかる、わかるよ」
 俺は安酒がなみなみと注がれた盃を持ち上げて、おばさんに乾杯した。
「悪口を言うとすぐさま密偵がやってきて、おばさんの身ぐるみを剥ぎ、野盗に襲われたように見せかけてドブん中にぶちこんじまうんだろう。かわいそうに」
「あははっ」
 おばさんは人が好さげな笑顔を浮かべた。
「そんなそんな、怪談じゃないんだから。考えすぎだよ。あの人が来てから、そりゃ万事好都合とはいかないまでも、他国との小競り合いも少なくなったし、いいことだってあったさ、うん」
 しかし、俺はその時にはもう、ここに来る前に訪ねた三軒の宿屋で、密偵が殺したと思しき善良な『不穏分子』の噂を手にしていた。確証も得ていた。
 俺は盃をちろちろと舐める。
「その剣士様が、異世界から来たってのは本当なのか?」
「まさか」
 おばさんは少し困った顔で会話を続けてくれた。
「剣士様が、その、時々妙なことを口走るからね。異国の言葉っていうか……深く追及すると『なんでもない、気にするな』と笑ってはぐらかされてしまうらしいんだけど、どうもその言葉ってのが、どんな長老連も耳にしたことがないような、不思議なものらしくてね……」
「ニホン、とか? エアコン、とか?」
「えあこん……? ああ、何かからくりが好きみたいで、ドワーフたちを呼んで何かをお城にくっつけていたけど、それが確かえあこん……」
「そうか、わかった! ありがとう、おばさん。『踊る子馬亭』に乾杯!」
 俺はお代を置いて、笑顔で宿を出た。乾いた風が吹き抜け、俺の目を塵で曇らせた。それが晴れた後には、宵の口の町を見下ろす、石造りの城がそびえているのが見えた。俺は顎をあげてそれを見上げる。
 どうやら黒らしい。


 ○


 執務室の革張り椅子に腰かけた俺の耳に、かん高くて耳障りな、神経質そうな男の喚き声が響いてきた。
「ジョセフィーヌ! レイアメトラ! ナスカリオン! どこにいる!? 僕を一人にするなと命じてあるだろう!」
 俺はつま先で、ジョセフィーヌと呼ばれた奴隷少女の顔をした者の腹を転がした。ガラス細工のような目が中空を見つめている。
 扉の向こうから足音が聞こえてくる。俺は頬杖を突いて目を閉じる。五歩、四歩、三歩、二歩、一歩、
 扉が開く。
「おい、どうして誰も……ファッ!?」
「よっ」
 俺は友達面をして、知りもしない男に手を挙げてみせた。
 男は俺をまず無視し――ひどいもんだぜ、たった一度しかない初対面なのに――何百人の農民を酷使すれば買えるのか想像もつかない高価なバギ山羊の毛で織られたじゅうたんに転がる、美少女たちのむくろを見た。そして奇声を上げた。
 俺は両手の指を耳に突っ込んで、不愉快な音を減量した。
「マルティリア! モードカルラ! コネリパシオン! ほかにもほかにも……くそっ、なんで死んでるんだ!? 誰が死んでいいなんて許可した!?」
「びっくり人間」俺はぼそっと呟いた。「誰かの生き死にまで自分の認可にできるかよ」
 初めて、男が俺を見た。鼻が低く、肌だけが苦労知らずのたまご色、ぼさぼさの髪にもう少しどうにかならないのかと言いたくなる剣呑な目つきを湛えている。
「……貴様、わかっているのか。私が誰なのか知っているのか? 屑が……人間の分際でよくもこんな……貴様がやったんだろう!」
「もちろん!」
 俺は元気よく答えて、借りていた椅子から立ち上がった。
「俺がこの惨劇を作り出した真犯人です。こんにちは。今日は晴れてよかったよ。雨の中、こんな血なまぐさい現場にいたんじゃ、悲しくなってきちゃうもん」
「死ね」
 男が無表情のまま、すらりと腰に帯びた剣を抜き放ち、しかしそれで勇敢に斬りかかってくることなどせずに、俺のその切先を突きつけた。
 何かをぼそっと呟くと、その剣先から紅蓮の炎が俺にめがけて迸った。
 俺はその炎を避けもせずにじっと見ていた。
 餓えた狼のように殺気だっていた炎が、俺の眼前で少女の夢のようにふっと消えた。
 男はぽかん、と間抜け面を見せている。俺は舌打ちした。
 俺も焼きが回ったら、こんな情けねえザマをさらすのかな。まァいいや。いまは仕事を成し遂げよう。
「馬鹿な、って顔だな。え? 有名だぜ、その魔法。因縁つけてきた騎士の一人を、それで焼いちゃったんだって? ひどいことするよな、いくらなんでも過剰防衛。どんな口車をまわしたのか知らないが、人を殺して平然としてるのはよくないな」
 俺の足元にも死体が転がっているので、すぐさま反論が飛んでくるのは読めていた。だから俺は奴の意識が論理武装に入る前に、奴の常識を吹き飛ばした。
「そう思うだろ、山田太郎くん」
 突然この町に現れた無名の剣士……山田はげぇっといきなりえずいた。消し去ったはずの過去が突然現れたら、誰でも気分が悪くなる。埋葬したものが蘇ったら、闘うなんて選べないよな、普通。
 山田は面白いくらい真っ青になって、俺のことを見ていた。
「お前……なんで……そんな……ありえない……おかしい……これは夢だ……」
「残念ながら、お前がどんなに望んでも、俺は消えたりしないんだなあ」
「黙れ! くそ、くそくそ!! 意味がわからない……お前はなんだ!? お前も異世界漂流者なのか!?」
「うん」
 山田は二の句が継げない。
 俺は人差し指をひょいひょいと振ってやった。
「俺もお前と同じだよ。トラックに轢かれて、それが神様の手違いだなんだって言われて、土下座されて、この世界に飛ばされた。お詫びにって剣と魔法のタレントを貰ってね」
 俺は暖炉のマントルピースにもたれかかって、にやにや笑いを抑えきれないまま、山田のことを見続けた。
「いや実際、びっくりしたよ。いざ夢と希望のドラクエワールドに来てみたら、あっちこっちに神様から借りたチートを振り回して自分の国を作ってるやつが沢山いるんだものな。どこの町へ行っても答えは一緒さ、急にどこからともなくやってきたやつが、支配階級を打ち倒すなり取り入るなりして権力を牛耳り始めたってな。お前だけじゃないんだぜ? この世界を謳歌してるのは」
「……それのどこが悪い?」
 山田はひきつったように笑って、地団太を踏んだ。
「僕は前世で地獄のような苦しみを得てきたんだ! 死んだのは神の手違いなんだし、その償いを受け取る資格があるはずだ!」
「それにしたってお前、この国にいる美少女をさ、全部お前んとこ集めちゃったら、そりゃみんないい気はしないよ」
「は? 何を言ってるんだ、彼女たちは自分から僕のところへやってきたんだ。僕はその切っ掛けを作っただけだろ」
「いや、『だろ』とか言われても……俺はべつにお前と会話する気ないから、俺の気持ちを変えようとしても無駄だよ? 俺はお前のこと屑だと思ってるし、死ねばいいって感じてるもん。自分が目につけた女の子の婚約者をね、戦事特権とか使って国境付近にまとめて送って勝ち目のない戦いをさせて殺しちゃうことはね、立派に俺に嫌われる程度のことなんだよ」
「気持ち悪ィ……」
 山田は本当に気分が悪そうだった。かわいそう。
「お前何が言いたいわけ? 結局お前だってチート使ってんだろ? 自分だけ正義面して気持ちよくなってんじゃねえよ。俺がいなくなったらお前もここで同じことするんだろうが! しなくたって、そんなのお前の自己満足で、俺にはそんなの関係ねぇ!」
「その通り!」
 俺は山田を拍手した。心の底から褒め称えた。
「そうなんだなあ。俺がこうしているのはすべて俺の自己満足。お前の意見は正しいよ、おめでとう! 俺はいまからお前を借り物の力を使ってブチ殺すし、その行為はただのエゴ。だから俺はお前の死骸を見てもゲタゲタ笑って済ませるし、後悔なんて少しもしない。――ジョセフィーヌちゃん泣いてたぞ。あんな男に抱かれたくなかったって」
「うるせえ、どいつだ! 何色の髪したやつだ!」
「金髪の子だよ。いや驚いたよ、お前の女の誰に話を聞いても、お前の悪口しか出てこないんだもん。そりゃそうだよな、自分のことは何も語らず、女の子を喜ばせる冗談も言えず、ただ権力を振りかざし身体を奉仕させ逆らうことは許さない。お前の論理武装は絶対だ。この異世界で最も先鋭的な『自分を守る思考術』を、お前はチートもクソも関係なくその脳味噌の中に詰め込んでここへぶっ飛ばされてきたんだ」
「そういうテメエはなんなんだよ!? 偉そうなことばっか言いやがって!!」
 山田がかぶっていた帽子を床に叩きつけて、自分の足で踏みにじった。俺そのものを踏みにじろうとしないのは、いまヤツの心の中に『こいつのチートは俺より強いのか?』という答えに値千金を出しても足りない疑問が渦を巻いているからだろう。教えてやりたいね、お前の方が強いよって。
 だって俺、神様からチートもらってねえし。
 俺はマントルピースをトントン叩いた。
「さて、楽しいコミュニケーションもここまでだ」
「これのどこがコミュニケーションだ! 俺は不愉快にしかなってない!」
「あっはっは、そりゃ悪かった。でもさ、コミュニケーションってその程度のもんなんじゃない? たとえ自分が愉快でも、相手は不快かもしれないし、逆もまたしかり。いいんだって、適当で。失敗してもいいんだ、こんな会話のやり方なんて。少なくとも『俺が望む俺を称える俺が聞きたい最高の言葉』を、相手に無理やり言わせて悦に入るお前のやり方は、いっぱしの男がすることじゃないね」
「だから、そういうテメエはなんなんだよ!!」
「俺は俺さ」
 俺と山田は睨み合った。
 山田から何か言ってくるかと思ったが、だんまりを決め込まれた。
 それが少しだけ不気味で、俺は嫌な汗をかいた。
 何か策でもあるのか? 俺は何か間違えたのか?
 だとしても、やるしかない――お互いに、それが勝負。
 俺は会話の続きを打った。
 奴の沈黙が、ただ恐怖と保留の結論であることを願って。
「さて、山田太郎くん」
「エンパシフィーゴだ!」
「いやいや、なにそれ。スゲェダサイし。自分で考えたの? 俺なら――まァいいやそんなこと。山田太郎くん。とうとうあんたは最後まで俺が君の愛しの女の子たちの死骸を踏みつけにしていることをシカトしてくれたわけだけど……ほっといていいの? お前の最高の悪夢をぶち壊した俺のこと」
 山田は顔を歪ませた。笑ったらしい。
「女なんかまた連れて来ればいい。俺は最強なんだ」
「人の話を聞けよ。チートはお前だけじゃないんだって」
「そんなのテメェが言ってるだけだろ!!」
「ああ、そう。じゃ、やっぱり気づいてないわけだ」
「何が」
「これまでの会話が全て時間稼ぎだったってこと」
 空気が凍った。
「……は? 何言ってんのお前」
「俺にもちょっとわかんない」俺はとぼけた。
 山田が喚く。
「言えよ。言え!」
「いやですぅ」
 俺は左手を翻し、自分のローブの懐から、懐中時計を取り出した。その文字盤を味わうように見つめてみせる。そして何も言わずにしまう。
 山田は焦った。
「なんで時計見た。なんでだ」
「お前が俺なら、どうしてだと思う?」
 山田は、おそらく、前世と現世の全ての中で、一番頭を使ったことだろう。
 やがて、言った。
「……くそっ、まさか!!」
 俺は頷いた。
「そう、一撃必殺の呪殺結界だよ。お前の魔力感知能力はこの城がせいぜい。その周囲に時限型の魔力の楔を埋め込ませてもらった。普段は衛兵に警備させてるみたいだけど、他国の貨幣を握らせたらあっさり転んだよ。お前って、あんまり信頼されてないみたいだぜ。お前が思ってる以上にさ。あ、それからもう心配はしなくていい。ここに転がってるのはドワーフに作ってもらったゴーレムだから。女の子たちはみんな逃げたよ、お前を置いて」
 何か言いかけた山田の先を打って、俺は奴に地獄のような目つきを見させて三本の指を突きつけた。
「3」
 山田が俺の指を見る。
「2」
 気づいた。山田が駆け出す。
 窓に。
「1」
 窓ガラスをぶち破る音。城の天井を吹っ飛ばして上空へ飛翔魔法を使わなかったのは、魔法結界が高度無視の範囲能力だと知っているから。単純に横飛翔で範囲外に出るしかない。
 全部の魔法を使える奴は、知識の欠損がなくて助かるよ。
 窓から外へと飛び出し、飛翔魔法を打とうとした山田の背中に向かって、俺は掌を握った。
「0」
 山田の身体に、半透明の蔦が絡みついた。飛翔魔法に対して反応する特殊な植物だ。元はと言えば鳥や、鳥に扮した魔法使いを捕食するために進化した魔物の一種なのだが、それを城壁に仕掛けておいたのが誰かと言えばこの俺だ。マントルピースから身体を離し、空中で釘づけになっている貴族の服を着た男の背中に、よくよく狙って片手をかざす。二本指を立てて、魔力を集中。
「プロテクション!!」
 山田があらゆる敵性魔法を打ち消す防御呪文を唱えた。神経質で甲高い笑い声が無人の城内に木霊する。俺はあくびをして、ローブから空いた左手で一つの種をつまんだ。たった一度だけプロテクションを貫ける『ストライク』を唱えたことになる魔法の種だ。地下カジノで死ぬほど頑張って稼いで買った俺の虎の子だ。もうあと三つしか残ってない。まさかこれを使う羽目になるとは……生き物って凄いなあ。
 俺は言った。
「ばいばい」
 俺の魔弾が、山田の心臓を貫いて、澄み切った青空に綺麗な臓物をぶちまけた。


 ○


 取っておいた宿屋に戻ると、ベッドの上で黒猫が毛づくろいをしていた。
「お疲れ様、新宮。見事、悪しき魔王を打ち倒してくれたようだね!」
 猫が喋った。俺は向かいのベッドに腰を下ろして、ため息をついた。
「なんとかな」
「ここから見ていたよ、君の活躍を。いやはや、神がばら撒いた忌まわしき過ちをよく殺してくれたね。さすがはぼくが見込んだ英雄だ!」
「あんたが助けてくれれば、俺もこんなに頑張らなくていいんだけどな、女神さま」
「何を言ってるんだい?」
 黒猫が小首を傾げる。
「それじゃ彼らと同じじゃないか。誰かに借りた力を振り回してるだけの彼らと。ぼくはね、お父さんが作ってしまった不良債権を、自分の考えたやり方で清算したいんだよ。だから君を欲した。自分の力だけで戦える力を持った君を」
「買いかぶりだと思うけどな。実際、ヒヤヒヤもんだぜ。自分で鍛えに鍛えたとはいえ、俺が使える魔法は一度きりの『防御』と『攻撃』だけ……これだけの手札で漂流者を倒せってのは、ちょっと厳しいな。一度やれたからって二度目もあると期待されるのは、ちょい困る」
「またまたあ。謙遜しちゃってえ」
 黒猫が俺の膝に猫パンチしてくる。
「たった一言で相手の心理を束縛し、ありもしない結界を恐怖させ窓へと誘導。あらかじめ仕掛けてあった『空中捕食』で山田=エンパシフィーゴ=太郎を固定。射程圏内から圧縮魔力を撃ち、プロテクションはストライクシードで突破、見事撃墜。惚れ惚れしたよ!」
 でもさ、と黒猫が続ける。
「最後のは少し納得がいかなかったなあ。ちょっと山田=エンパシフィーゴ=太郎氏は頭が悪すぎやしないかい? 本当に君のハッタリは看破できないものだったんだろうか?」
 俺はため息をついた。
「何言ってんだ、『俺はお前を殺す』って面と向かって宣言した上でのブラフだぞ。しかも『自分を殺せる可能性が限りなく高い』蓋然性を持った人間に言われたんだ。時間制限三秒つきでな。まともな思考なんてできるわけないだろ? 俺が相手ならびびりあがるね」
「そういうものかな?」
「そういうものだよ。……誰かに言うなよ。手品は種が割れたらおしまいだ」
「ふふ、じゃあもしぼくが人間に化けて、このネタを吹聴したら」
 黒猫が俺の膝の上で求愛ダンスを踊る。
「新宮は新しいトリックを用意してくれるのかな? 楽しみだなあ、わくわくするなあ。ありがとう新宮、新宮はぼくの生き甲斐だよ!」
「……それでいいのか女神サマ? もっとこう、世界平和とか、安寧秩序とかを目指していってほしいね、こんなところで油を売ってないでさ」
「女神が油も売れなくなったら、世界なんて滅ぼしちまうのさ」
 そう言って、黒猫はくすくすと笑う。本当にやりそうで怖い。
「さて、新宮。ぼくはおなかが空いたよ。これから君のお金でご飯を食べようと思う」
「クソヤロウ! 金ねえって言ってんだろ!」
「ああん、言葉責め? そういう感じ? 悪くないなあ、いつも威張ってるから鬱憤たまってるんだよねぼく……それはともかく、ねえ新宮、こないだのことなんだけど、やっぱり教えてくれないかい」
「何を」
「どうして君が、ぼくの誘いに乗ったのかを」
 俺は手の中の猫の、琥珀色の目をじっと見降ろした。
 そう。
 俺は死んだ。そして転生することになった。その時に、いまは黒猫になっている、同い年くらいに見えた金髪美少女にこう囁かれたのだ。
 ――何も考えずに生きていけるのと、苦しみながら生きていくの、どっちがいい?
 と。
 俺は黒猫の喉を撫でてやった。ごろごろと猫がヨロコぶ。そして言った。
「フェアじゃない、って思ったから」
「……ぼくが?」
「いや、何も考えずに生きていけるのが」
「君はそう思うんだね。でも、どうして? ぼくの誘いを蹴って、彼らと同じ存在になることは、確かにフェアじゃないだろう。でもそれは、君があらゆる危険や苦痛を背負ってまで否定しなければならないことなのかい? もっとラクな道があるのに、それを見切って、あくまで自分のやり方を通す――ぼくは好きだよ、そんな君が。でも同時に、心配だ」
 俺は黒猫を見た。
「……優しいな、女神様」
「それがお仕事なもんで」黒猫は照れた。
 俺はしばらく、自分でも答えに悩んだ。
「……たぶんさ、俺は覚えてるんだよ」
「何を?」
「自分がいつどこで、どんなズルをしたのかを」
 ぽつり、と続ける。
「怖いんだよな、そういうの。自分が積み重ねてきたものが、たとえ本物が混じってるとしても、偽物が適度に配置されてて、それを見るたびに俺は『ああ、俺って肝心な時に逃げ出した臆病者なんだな』って思うのが、怖い」
 俺は安宿の天井の木目を見上げた。
「それぐらいなら、最初から『絶対に逃げない』って決めてかかってれば、たとえ負けても、駄目でも、俺は嘘をつかなかったって言える。そのことだけには、胸を張れると思うから」
 ちょっと長いセリフになって、俺は恥ずかしくなった。
「……笑えよ。覚悟はしてる」
「ううん、笑わないよ」
 黒猫は言った。
「でも、新宮。それは辛い道だよ。やめたくなったら、いつでもやめなくちゃ駄目だ。じゃないと新宮が壊れてしまう」
 俺は黒猫と見つめ合った。
「……試してるのか?」
 黒猫は笑った。
「さあね」



 FIN

       

表紙

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Neetsha