桂木薫は、桂木翔子のために、全てをかけた。
献身したと言っていいだろう。
自分が出来る全てを尽くし、自分が捨てられるものは全て捨てた。
何を言われても、何を思われても、かまうことなく、桂木薫は全てを、何もかもを捧げた。
桂木薫は失っていった。
親友を失い。学を失い。信用を失い。恩師からの期待を失い。明日の楽しみを失い。安らぎを失い。一人の時間を失い。眠る事が出来たはずの時間を失った。
割いたのだ。
捨てたのだ。
桂木翔子の、実の姉の心の平安を取り戻すために、彼女の話を聞くために、彼女の暴言を受け止めるために。彼女に物を投げられるために。
彼女がまた元の、優しかったあの頃に戻れるように。
桂木薫は、全てを犠牲にした。
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桂木翔子は、いわゆる、いじめの標的になっていた。
叩かれるわけでもない。
水をかぶされるわけでもない。
靴を隠されるわけでもない。
ただただ、無視される事。
「レスポンスが無い」ということは、想像以上の苦痛である。
自分のアクションに対し、何のレスポンスも返ってこないとき、人は、想像を絶する苦痛を感じる。
返ってこないレスポンスを待つ時、人はその時間を百万年にも感じるだろう。
それは、桂木翔子が、心を壊してしまうのに充分な条件だった。
桂木薫は、いわゆる、良い人間だった。
勉強もでき、スポーツもできる。かといって、それを一切鼻にかける事は無い。
友達も多く、それでいて、一人ひとりを大切にし、友が泣くときは一緒に泣き、笑うときは一緒に笑う。
どんなときにも仲間を見捨てず、どんなものにも立ち向かっていく。
そんな子供だった。
そんな桂木薫が、実の姉のために一肌脱ぐのは、自然な流れである。
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桂木薫は、友達と遊ばなくなった。
姉のために、姉が喜ぶように、どんな事をしたらいいか、いつもそんな事を考えるようになった。
桂木薫は、姉の部屋の前で何時間でも話を聞いた。
姉が何も話さないときは、ただただそこにいた。
朝になるまで、ずっとずっとそこにいた。
姉が泣くときは、学校も休んだ。
宿題なんてする暇はありやしない。
そんな時間は無駄なのだ。
全てが無駄なのだ。
桂木薫は、姉を、光の世界に連れていかなければならないのだ。
日なたの世界へ連れて行かなければならないのだ。
桂木翔子は、弟に、少しずつ心を開くようになった。
といっても、何か十の言葉に、二か三で返す程度のものだったが。
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桂木薫はいろんなものを失っていった。
しかし、そんな事は些細なものに思えた。
肉親のためだからか。
それとももっと真髄にある、ただの自己満足か。
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桂木薫は、桂木翔子のために、全てをかけた。
献身したと言っていいだろう。
自分が出来る全てを尽くし、自分が捨てられるものは全て捨てた。
何を言われても、何を思われても、かまうことなく、桂木薫は全てを、何もかもを捧げた。
桂木薫は失っていった。
親友を失い。学を失い。信用を失い。恩師からの期待を失い。明日の楽しみを失い。安らぎを失い。一人の時間を失い。眠る事が出来たはずの時間を失った。
割いたのだ。
捨てたのだ。
桂木翔子の、実の姉の心の平安を取り戻すために、彼女の話を聞くために、彼女の暴言を受け止めるために。彼女に物を投げられるために。
彼女がまた元の、優しかったあの頃に戻れるように。
桂木薫は、全てを犠牲にした。
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あるとき、一度だけ、ただの一度だけ、桂木薫は、大きな声を出した。
姉は、自分のためだけに生きている弟を、怖いと言った。もう関わるなと言った。
桂木翔子は、桂木薫の全てを拒絶した。
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桂木翔子の問題を根本的に解決したのは、「時間」と「環境」だった。
桂木翔子は、持ち前の明るさを取り戻し、新たな友を得た。
元通りの、いや、それ以上の生活を取り戻した。
かわりに、桂木薫は全てを失った。
姉は、「あのころの事はあまり覚えていない」と言った。
「あまり思い出したくない。思い出させないでくれ。」と言った。
桂木薫は、何も言わなかった。
言えなかった。
あるとき、姉は弟に「私の邪魔をしないで」と言った。
「順風満帆な私の生活に、影を見せないで。」と言った。
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姉は、「あのころの事はあまり覚えていない」と言った。
「あまり思い出したくない。思い出させないでくれ。」と言った。
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姉は、弟に「居なくなって欲しい」と言った。
弟には、何もなかった。
捨て去ったからだ。
桂木薫は、「居なくなった」
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「居なくなる時」、桂木薫の中にあるのは、
悲しみ
ではなかった。
そんな複雑な、ウェットなものではなく、ただただ単純な、単純な。
怒り
だった。
桂木薫は、悟った。
僕は、「俺」だったんだ。
俺は、この怒りを清めなければならない。
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僕が俺になった時、この世界に姉はもういなかった。
僕が俺になった時、既に怒りを清めるすべはなくなっていた。
俺は、僕じゃないので、もっと端的な言い方をしよう。
報復対象が、すでにこの世から姿を消してしまっていたのだ。
この怒りは、憎しみは、どうすればいいんだ。この報復心は、このやるせなさは、この絶対的な他害欲は、どうすればいい。
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「割に合わないんだよ。」
と、エンリケは言った。
「世界を滅ぼすぐらいのことしないと、割に合わないんだ。」
彼の話を、黒髪の女が黙って聞く。
「協力してくれ。」
のちに、桂木薫の大きな大きな報復心は、チョマ子と呼ばれた黒髪の女に利用される事になる。
桂木薫の大きな大きな報復心を更に大きく超えた、黒くねじ曲がった絶対的な「自己愛」によって。
かつて桂木薫を「そう」させたような、「絶対的自己愛」によって。
のちに、桂木薫の大きな大きな報復心は、浄化される事になる。
誰に浄化されるかは、本編を読めとしか言いようがない。