Neetel Inside 文芸新都
表紙

坂の短編を入れるお蔵
夏のバカンス殺人事件

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 僕たちがリビングで談笑しているとボブが慌てた様子で部屋に飛び込んできた。ボブは海外から来ている黒人の留学生で、二メートルの身長である。彼は恐らく黒人の留学生は心優しいであろうと言う理由からぼくらに好感を抱かれている。
「タイヘンダ!」
 ボブは窓がビリビリと揺れるほどのデシベル量で叫ぶ。あまりに急な事態に辺りは何事かと騒然とした。よく見ると彼のズボンは血まみれで、陰部からえげつない量の血が付着している。何があったのだ。
「セガワサンガ! ヘヤデ シンデル!」
 部屋で芯出る? 芯とは何だ。うんこの事か。そうか、留学生のボブはまだ日本語が苦手だから瀬川さんが部屋でウンコしている事を芯出ると表現したのか。僕がそう納得していると僕の上司で探偵で巨乳でショートカットで僕の貞操を狙っている安藤さんが「死んでるって事じゃない?」と僕の思考を訂正した。ああ、なるほど、死んでるのか。
「死んでる?」
 僕達はガタリと椅子を倒して立ち上がった。その後椅子を戻さねばならなかった。失敗した。もっと落ち着いて立ち上がれば。いや、いまはそんなこと関係ない。
 慌てて瀬川さんの部屋に飛び込むと、なんとベッドの上でケツから大量の血を垂れ流して絶命している瀬川さんの姿があった。女性陣から思わずヒィッと悲鳴が上がる。
「お、落ち着いてみなさん。おちおちおちおちんちんで突いて!」
 安藤さんが回りに呼びかける。お前が落ち着け。
「とりあえず女性の方はリビングに戻ってください」僕が言うと安藤さんだけが首を振る。
「傑(すぐる)君、私は現場に残るわよ」
 安藤さんはどうやら僕と同じく現場検証をするつもりらしい。彼女がいると僕も心強い。その場にいるペンションオーナーの吉川さんと僕と安藤さん、そしてボブが残る。
 瀬川さんはどうやら寝ているところを襲われ、無理やりアナルを犯されて内蔵破裂、出血多量でなくなったらしい。
「酷いわね、これは……。一体誰が犯人かしら」
「女性の可能性は薄いですよね」僕が言うと「それはどうかしら」と安藤さんが否定する。
「女性にペニスがついていないからってアナルを犯すことは不可能ではないわ。巨大ディルドとローションを使えば犯行は可能なはず」酷い発言である。
「死体の肛門裂傷具合から見てもかなり大きいですよね」
「ボクノ ペニスハ ナガサガ 三十センチ アリマスシ ボクハ ゲイデスガ、ボクハハンニンデハ ナイデス」
 股間を血まみれにしたボブが慌てた様子で言い、僕達は笑った。そんな、心優しいであろう留学生のボブが犯人な訳がない。
「問題は容疑者ですよ」オーナーの吉川さんの発言に僕達は頷く。
 犯行時間、皆はリビングでレクリエーションをしていた。いなかったのはたまたま物凄い呼吸を荒げて股間を押さえたまま体調不良を訴えて部屋に戻ったボブと、その少し前にペンションにあるジムで筋トレを終え、男臭い香りと筋肉を露出したまま部屋のシャワーを浴びに行った現役体育大学生の瀬川さんくらいだ。
「でもボブは心優しいですよ」僕が言うと安藤さんも頷いた。
「ええ。犯人な訳が無いのは分ってる」
「私が覚えている限り、長時間リビングにいなかったのはボブと瀬川さんですが、途中ですこし抜けただけの人なら何人かいますよ」
 吉川さんの発言にリビングでのレクリエーションが思い起こされる。確かに部屋に飲み物を取りに行ったり、トイレに行ったり、遊び道具を取りに行ったりと一瞬でも姿を消した人は少なくない。
「その観点で言えば残念ながら地下倉庫に食材を取りに行くと称して姿を消した私にも犯行は可能、と言うことになってしまいますね」
「そんな! 吉川さんが犯人だなんて!」
 思わず身を乗り出した僕を吉川さんはそっと手で制した。
「いえ、この際ですから可能性の話をしましょう。無意味な情は省くべきです」
「そうよ、傑君。推理や捜査は時に冷徹にならなければならないときがあるわ。いくら言い人だからって『~が犯人な訳がない!』と人柄から決め付けてしまう事、それが一番危ないの」
「ソレモ ソウダ」
「そう……ですよね」
 僕は肩を落とした。
 リビングを一度も抜けなかったのは三人。僕と安藤さん、そして奏ちゃんだけだ。
「この三人は他の人の証言もあるし、まず容疑者から抜いても良いってことですよね」
「傑君、たまには私で抜いてもいいのよ」安藤さんがおしりをそっと突き出す。
「ちょっと黙ってもらえませんか」
「やっぱり傑君はあの女じゃないと嫌だって言うの」
 あの女とは奏ちゃんの事だろう。この島に来た時偶然フェリーで再会した僕の幼なじみ。佐和奏。吉川さんとは親戚らしい。仲良くしている僕たちの姿を見て安藤さんは焼きもちを焼いているのだ。
 そう、安藤さんは僕を狙っているのだ。
「安藤さん、今はその話、ちょっとは空気を読んで抑えてもらえませんか。いやマジで本当に」
「ごめん。でもいつでも抜いてあげるから」
「わ、私の事は抜いてくださらないんですか」吉川さんが反応する。
 僕達は無言でリビングに戻る事にした。

     

 リビングに戻った僕達は驚いた。部屋には奏ちゃんと、吉川さんの奥さんである恵子さんしかいなかったからだ。
「あれ、他のみんなは?」
 僕が尋ねると奏ちゃんがおずおずと話し始める。
「由梨さんと洋子さん達は旦那さんと一緒に犯人探しに出かけちゃって……。他の男性達は『この中に殺人犯がいるかもしれんのだろう? ワシは部屋に戻る!』って……」
「なんだって? この状況でバラバラになったら危険に決まってるのに」
「イソイデ ミナヲ ヨンデクル!」
「ボブ! 一人じゃ危険だ!」
 しかし僕の制止も虚しくボブは階段を上って客室へと姿を消した。ものすごい速度だった。まるでお腹を空かせた狼が目の前にご馳走を発見した時のようだった。
「傑君、上はボブにまかせましょう。心優しいとは言ってもボブは黒人で長身なのよ? 例え仮に犯人に遭遇したとしても、掘られたりなんかしないわ」
 安藤さんの言葉に僕は頷いた。そうだ、ボブが負けるはずが無い。彼は一人でドアを壊す事だって出来そうなほど筋肉があるじゃないか。問題が無い。
「僕たちは単独行動を取らないようにしないと駄目ですね」
 僕が言うと「そうですね」吉川さんも深くうなずいた。
「私、何か体が温まる物を持ってきます。こういう時こそ落ち着かないと……」
 吉川さんは笑顔でそう言って一人奥のキッチンへ消えた。あの人話を本当に聞いていたのか。
「単独行動はしないでおこうって言ったばかりなのに。私も行ってきます。警察にも連絡しないと」奥さんの方は随分とまともだ。
「何かあったらすぐ呼んで下さいね」
「わかりました」
 リビングに僕たち三人だけが取り残される。外から聞こえる夏の虫の声と鳩時計の音が静かになっているだけで、静かなものだ。本当に殺人なんてあったのだろうかと疑わしくなる。
「外、暗いですよね」奏ちゃんが不安そうに窓を眺める。この島にはペンションと、その関連施設しか存在しない。外には街灯もなく、野生動物も多いので夜は下手に出歩くことが出来ない。犯人探しに行くといって消えた四人の安否も気になる。
 僕は携帯電話に目を落とす。時刻はもう十一時。すっかり夜もふけている。そして当然と言うかお決まりと言うか、アンテナは圏外を表示していた。
 きっとこの分だと電話線もやられているだろう。外を迂闊に歩けば犯人の思う壺だ。襲われて殺される。きっと夜だから本土に船も出せないに違いない。何の確証もないし何ならまったく確認もしていないが、きっとそうである。
「きっと大丈夫だよ、ここでこうして固まっておけば、少なくとも朝まで持ちこたえれば、何とかなるはずさ」
 すると僕の左手を安藤さんが握り締めた。
「傑君、私、怖い……。一緒のベッドで寝たい」
「僕はあなたが怖い」
 年上の美人に狙われるのは非常にうれしいが、ここまで性欲を押し出されると普通の一般的男性は引いてしまうと言うことを彼女は学んだほうがよい。しかも彼女は三十歳を目前にしている。このまえ事務所に忘れ物を取りに行った所、スタッフが皆帰宅した事務所の中、鏡の前で安藤さんが「既成事実を作らないと……」と壮絶な表情でつぶやいていた光景を僕は忘れない。
「明日、果たして晴れてくれるでしょうか」
「テレビを見てみよう」
 しかしリビングにテレビがない。
「確認しましょう。私wi-fiルーター持ってるから。なんならワンセグもいけるし」
 安藤さんがどこぞのメーカーのモバイルルーターをポケットから引き出しスマホでアクセスしだす。
「電波あるんですか」
「余裕の五本」
「へぇ……」
 ここで警察に連絡してもらうとさぞかしつまらない展開になりそうだ。なんだか指摘するのも躊躇われて僕はあえて黙っておいた。
 しばらくすると吉川さんと恵子さんが二人してこの糞暑い中何をとち狂ったのか熱々のスープを持って戻ってきた。二人は机の上にトレイを置くと、一人一人スープを配りだす。
「飲みましょう。こういう時こそ体を温めて落ち着かないと」
「熱中症になりますよ」
「いえ、あったまりましょう。あったまればどうにかなるはずです。ひぇぇアチチ」
 吉川さんは必死にスープを飲み始める。一体何が彼をそうさせるのかは僕にはまったくわからなかったが、一つ言えるどうしようもない事実として彼は一切落ち着いてはいない。
 僕はスープを飲みたくなかったので恵子さんに話を振って冷めるまで時間を稼ぐ事にした。
「そう言えば警察に電話するって言ってましたが、どうでした?」
「ええ、本土から警察の方が来てくれるみたいです。時間が時間だし、船の手配には多少時間が掛かるだろうけど二時間後には多分……」
「そうですか」
 予定では犯人が電話線を切りそこから一人また一人と殺され追い込まれた僕たちはやがて疑心暗鬼に陥り互いを疑いだすと言った緊張感あふれる展開になるはずだったのだが、世の中うまくいかない。
「よかったね、飯島君。朝まで待たなくても大丈夫みたい」
 奏ちゃんは心の奥底から深く安堵したようで、パッと華やかな笑顔を僕に向ける。それを見て僕はこの後トイレに行くフリをしてブレーカーを落とし電話線を切ることで一気に緊迫感を増す演出を行うつもりだったがやめることにした。
「警察が来るまで二時間か……。とりあえず皆にその事を伝えて安心させてあげましょう」
 吉川さんはまたも一人立ち上がると二階へ足を運ぶ。僕たちは黙って彼が二階の廊下へ消えるのを見届ける。この男マジか、その様な空気が漂った。いや、しかしさすがに気づくだろう。自分ひとりで二階に行く事の危険性に。僕たちはあえて黙した。
 二階に吉川さんの姿が消える。
「恵子さん、何であんなのと結婚したんですか」
「昔はもうちょっとマシだったんです」
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶって言うけどね」安藤さんはスープをすする。
「僕もさっき同じこと考えてましたよ」
「飯島君、祥三さんどうなるかな」
 不安そうに僕に尋ねる奏ちゃんに僕は笑みを向けた。
「死ぬと思う」
「そう……」
 誰も助けには行かなかった。もはやもう面倒くさい。
 と、その時二階からものすごい悲鳴が聞こえた。おそらく吉川さんの断末魔だろう。
「あの人ったら、またふざけて……」
 確信犯的な恵子さんの一言に僕たちは頷いた。
「すごい悲鳴でしたね」
「断末魔みたいだったわね」
「私、多分あんなに声出ないと思う」
 吉川さんが殺されたとして、犯人は二階にいることになる。行くと死ぬだろう。ここにいるほうが良い。
 するとどたどたと二階から足音が聞こえ、吉岡さんが階段から顔を出した。
「何のんびりやってるんですか皆さん! 大変ですよ! 来て下さい! ボブが!」
 吉岡さんは生きていた。意外な展開である。いやしかし今そんなことはどうでも良い。ボブが何だって? あの心優しいであろう黒人留学生のボブが? 何かあったのだろうか? 大変である。ボブが死ぬと国際問題に発展する。僕達はガタリと椅子を倒して立ち上がった。その後椅子を戻さねばならなかった。失敗した。もっと落ち着いて立ち上がれば。

     

 二階に上がった僕たちは異様な光景と漂う異臭に思わず顔をしかめた。
 何と言うか、空気が淀んでいる。重たい。決して近づいてはならないと第六感が警笛を鳴らしていた。
 ボブは、そんな中、二階の廊下のど真ん中で、こちらに背を向けて立っていた。
 肩を上下させ、呼吸を荒げているのがわかる。
「様子がおかしいんですよ」
 こちらに合流した吉川さんが僕に耳打ちする。確かにおかしい。異様だ。良く見ると他の客たちが篭っているであろう客室は皆少しずつドアが開いており、ノブの部分はまるで無理やり引きちぎられた様にひしゃげている。そこからわずかに見える室内の壁は真っ赤だった。
「安藤さん、あれって……」
「血、かもしれないわね」
 誰かが生唾を飲む音が聞こえる。
 ボブはさっきから動かない。こちらには気づいているはずだが。
「どうしてボブは動かないんだろう」
「犯人が近くに潜んでいて恐怖で動けないのかもしれないわ。傑君、気をつけて」
 安藤さんはそういいながら僕の背中をグイグイ押す。こいつ、ナチュラルに一番危険な役を僕にさせようと言う魂胆か。助けを求めて奏ちゃんに視線をやる。弱った小動物みたいな目で彼女はこちらを見つめてくる。
 くそう、そんな顔されたら、今夜のおかずにするしかない。
 僕は腹をくくった。
「ぼ、ボブ、どうしたんだ。何があったんだよ」
「マダ、マダイケルネ……。マダ ヤリタリナイヨ」
 何だ? 槍足りない? そうか、故郷では黒人の陸上選手であるボブは槍投げがしたいのか。
「ボブ、気持ちはわかるけど今は槍投げなんてしている場合じゃないんだ」
 ボブの肩を掴むと彼はガバリとこちらを振り返った。
 ギョッとした。
 ボブは血まみれだった。全身が、主に陰部を中心に血まみれだったのだ。そして彼の陰部は恐ろしいまでに突き出ていた。槍足りないと言っていたがきっと彼は股間に陸上競技用の槍をしまったことに気がつかないでいるのだ。そして槍が原因で怪我をし、股間から血が出ている。にもかかわらず大事にしているであろう競技槍を探している。必死すぎて息を荒げている。もはやまるで意味が分からなかったが恐らくそういう事だろう。瞬間、僕は悟った。
「ボブ、君の槍はここにあるよ」
 僕が彼の陰部をポンと叩くとボブは「オォォウウ! イェス!」と吼えた。
「スグルサン イマハ マダ ビンカンネ」
「そ、そっか、ごめん」
 どうやら傷口に触れてしまったみたいだ。迂闊だった。
「ボブ、いったい何があったんだ? みんなは?」
「ミンナ、シンデルヨ」
 その言葉で一気に場が凍りついた。誰かが息を呑むのがわかる。
 僕たちが下にいたのはほんの三十分くらいだ。三十分。三十分で二階にいた人たちが皆殺しになった。
「ヤラレタンダヨ ムシロヤッタンダヨ」
 錯乱しているのかボブは良くわからないことをつぶやく。
「と、とにかくリビングに行こう、ボブ。ここは危険だ。ドアを壊し皆を殺した犯人がまだいるかもしれない」
「oh,yes……」

     

 僕たちは再びリビングに集う。だがその空気は先ほどとは違い、重苦しい物だった。
 リビングに降りる前、全員で生存者がいないかどうか、室内を慎重に確認をした。犯人の姿もなければ、生存者もいなかった。ただ、血が放つ独特の腐臭と下半身を一突きされている被害者の姿、そして漂う生々しい性の香り。
「警察が来るまで二時間。連絡してもう三十分経ったから、正確にはあと一時間半」
 僕が言うと奏ちゃんは恐怖から頭を抱え込んだ。
「たった三十分で五人が死んだんだよ? 一時間半もこんなところですごせるわけない」
 うつむく彼女の肩を支えてやる。大きな瞳に、大粒の涙が浮かんでいた。
 許せない。こんな可愛い子をここまで怯えさせるなんて。
「そうは言っても一時間半耐えなきゃいけないと言う現状に変わりはないわ。悲観しても仕方がないじゃない。今は建設的な話をしましょう」
 さすが修羅場をくぐっているだけあって安藤さんは冷静だった。普段は違う意味で狂気性を放つ彼女であるがこういう時は妙に頼もしい。
「今私たちに出来ることって何かしら」
「それなら提案が……」
 吉川さんがおずおずと手を上げる。
「まずは田中夫妻、佐藤夫妻と合流するのはどうでしょう。安否も気になりますし」
「確かにそうですね。でも……」僕は窓の外を見る。窓の外はここ以上に未知の危険が待っているはずだ。ミイラ取りがミイラになる可能性だってある。
「外は暗く、視界も悪いです。犯人だけじゃない、獰猛な野生動物に襲われる可能性だってある」
 僕が指摘すると吉川さんはフッと鼻で笑った。瞬間、鼻水がピュウと飛び出る。机に鼻水が飛び、誰かが「ひぃぃ」と悲鳴を上げた。
「飯島さん、野生動物なんていやしませんぞこの島には。ペンションしてるのに人を襲うような獰猛な野生動物なんていたらやばいでしょ。ぷぷぷ」
 正論ではあるがそれとはまったく無関係に僕の個人的感情から限りなくこいつをぶち殺してやりたい。
「しかし暗くて危険です」
「それはほら、こうしてやれば」
 吉川さんは言うやいなや、窓の近くにあった壁をコンコンとノックする。一箇所だけ妙に音が響く箇所があり、彼はそこの壁をスライドさせた。すると中から隠しスイッチが姿を現す。
「それは?」
「皆さんには黙っていたのですが、外灯のスイッチです。電気代がかさむから普段は使わないんですけどね」
 彼がスイッチを押すと、どこからかモーターの稼動音が響き、外の木々に設置されていたであろう外灯が光をともした。島中がまるで眠らない街新宿歌舞伎町の様に明るくなる。
「これで暗さは解決ですな」
 僕たちは恐怖した。この非常事態にもかかわらず電気代がもったいないと言う理由だけで外灯があると言う事実を隠し島内の電気を今まで消しっぱなしにしていたこのおっさんの神経に。 
 とにかく、これで道は開かれた。あとは誰が外にいるであろう佐藤夫妻、田中夫妻を呼んでくるかだ。
「私と飯島さんが行きましょう」
 吉川さんがしゃしゃり出る。何が気に食わないっておっさんが場を仕切りだしたのも気に食わないが僕を無条件で危険な場所へ行くメンバーへ付け加えている事だ。
「飯島さんと奏、それに安藤さんが犯人の可能性は低い。ボブは黒人だから優しいですし、恵子が犯人だったとしても三対一……しかもボブがいれば大丈夫でしょう。そうなると私が犯人だったとき、一番危険が伴うのは飯島さんですが」
「いえ、僕はかまいませんよ」
「それは良かった」
「ボクハ ゲイナノデ ジョセイハ オソワナイデス。 ジョセイハ」
「わかってるさ、ボブ」
 自分と妻が犯人である可能性がある事を淡々と述べた上でリスクが一番低い作戦の提案をしてくる吉川さん。人間としての感情論とかもうちょい交えて欲しいところではある。

 外に出ると先ほどの暗闇とは打って変わり、森中が光り輝いていた。海辺のほうまで見渡すことが出来る。これなら、不意に襲われる心配は低そうだ。
「佐藤さん! 田中さん!」
 僕たちは叫んだ。だが返事がない。これだけ島の状況が一変しているのだ。一度ペンションに戻ってきてもおかしくないはずなのに。あたりを見渡しても四人の姿はどこにも確認できなかった。
「海のほうにいるのかもしれません。何せ夜の海はロマンティックですから」
 いまいち何をほざいているのか良く分からない吉川さんに先導され、僕たちは夜の浜辺へと向かう。見上げた夜空に浮かんだ星空はわずかだったが、この仰々しい外灯が完全に消えていればさぞかしすばらしい光景がそこにあったに違いなかった。
「ああ、星空ですか。普段はすごくきれいなんですよ。島の灯りをつけないのはこの星空を崩したくないと言うのが理由でもあります」
 もっとも、こんな殺人が起こってしまったらもう経営も怪しいでしょうけどね。悲しげにつぶやく吉川さんの背中は妙に丸く、僕は今度故郷にいる親父に電話しようと思った。
 五分も歩かないうちに浜辺に出る事ができた。白い砂浜にはゴミ一つなく、静かな波音がただ空間を彩る。まるで殺人などなかったかのように穏やかだ。
「誰もいませんね」
「ええ、本当に」
 しばらく歩くと船着場へと到着する。そこで吉川さんはあわてたように駆け出して何かを確認した。
「大変です!」
「どうしたんですか?」
「船が、船がないんです!」
「船……?」
 僕たちは送迎フェリーでここまで来た。自家用船があったなんて初耳だ。
「船なんて持ってたんですか? 昼間はなかったのに」
「何言ってんですか! 昼間は恵子が使ってたんですよ! 自家用船なんて当たり前でしょう! じゃないとどうやって夜間本土に行くっていうんです」
「知らんがな」
 なぜ切れているのだこのおっさんは。理解に苦しむ。もはや最初から船があるって言っておけば皆で島を逃げ出せて被害を最小に抑えられたのに、とかこの場で言うのは野暮と言うものなのだろう。実は船持ってました。パクられてました。だと思いました。
「くそう、きっと佐藤さん達だ!」
「えっ?」どういう事だ。
「フェリーの鍵がないから妙だとは思ったんだ。きっと彼らが船を奪って自分たちだけ逃げたに違いない!」
 吉川さんは一通り叫ぶと、がっくりとひざをついた。
「二十年ローンで買ったんだ……なのに」
 彼は悔しそうに涙をこぼす。僕はもう色々と突っ込むことに疲れたので彼の横で体育座りをした。
 佐藤さんや田中さんが四人だけで逃げ出したのは互いに犯人ではないと言う何らかの確証があったからだろう。そして犯人と共に島を脱出するリスクよりも、自分たちだけで安全に逃げ出す事を選んだ。酷い話だがまぁ多分そういうことだ。一番酷いのはもちろん自家用船があったのに脱出の提案一つせず船の鍵がなくなっても疑問も抱かず確認一つしないこのおっさんだ。
 いよいよらしくなってきたじゃないか。残された六人。内、犯人が一人。
 見当たらない凶器、ケツを掘られた被害者、生々しい性の香り、破壊されたドアノブ。
 僕はハッとして立ち上がった。そうか、最初から答えは出ていたじゃないか。
「戻りましょう、吉川さん」
「えっ」
 きょとんとする彼に僕は手を差し伸べた。
「みんなが危ない」

     

 急いでペンションに戻っている最中、異変は起きた。
 島の電気が、落ちたのだ。
「はて、電気代は納めているはずだが」
「何言ってんですか! 犯人が電気を止めたに決まっているでしょう!」
 暗闇の中、吉川さんの案内を頼りに何とか無事ペンションまでたどり着いた。もしあの時、浜辺で真相に気づいていなければ、行動が遅れてしまい恐らく森の中で犯人に襲われていただろう。
 僕たちが出て行くとき、ペンションの電気はついていた。しかし今は真っ暗だ。危険の伴うペンション内で電気を消すなんて自殺行為、普通行わないだろう。何かあったに違いない。
 僕たちが戻ったことに犯人はまだ気づいていないだろう。危険だが、ここは隠密行動を取るべきだ。最悪、生存者はもういないと考えておいたほうが良い。
「恵子! 安藤さん! 奏! ボブ! いないのか」
 吉川さんは叫ぶとドタドタと足音を鳴らしてペンションに入って行った。僕が馬鹿だった。そう、僕が馬鹿だったのだ。
 ペンション内には耳に痛いくらいの静寂が漂っていた。異様な重苦しい空気が蠢き、暗闇が渦を巻いている。
 リビングまでやってきた。暗かったが、そこに皆の姿はないのはかろうじてわかった。
「何があったのでしょうか……」
「分かりません。それよりまず灯りをつけましょう。このままじゃ危険です。吉川さん、ブレーカーはどこに?」
「それならさっきの入り口に」
「先言えや」
 僕らが入り口に戻ろうとしたその時、階段からぬっと巨大な人影が姿を現した。僕たちは思わず身構える。犯人だろうか。
「スグルサン モドッテタノデスカ」
「その声はボブ! 良かった、無事だったのか」
 僕たちはホッと安堵のため息をつく。間に合ったのだ。
「フタリトモ ブジデ ヨカッタ」
 そしてボブの巨体はぐらりと揺れる。
「ハヤク ニゲテ クダ……サイ……」
 ボブはそれだけを言うとその場に倒れた。
「ボブ!」
 僕たちは慌ててボブに近寄った。
 ボブは横腹を刺されていた。
「もうだめだぁ! 私たちはここで死ぬんだぁ!」
「落ち着いてください、吉川さん」
「おちおちおちおちんちんでついてください? 飯島さんまでゲイだったのですかぁ! もうだめだぁ!」
 僕は吉川さんのボディにブローを決めると彼を黙らせた。
 犯人は、あの人だ。

 推理に情や思い込みをはさむべきではない。
 安藤さんは確かそう言っていた。
 そう、犯人は男だと、どこかで思い込んではいなかっただろうか。
 僕たちのアリバイは完璧だと。
 
 一人になった僕は暗いリビングで犯人が来るのを待った。
 そして、奴が姿を現す。
 暗闇の中、その小柄な体は異様に堂々としていた。
「飯島君! 無事だったのね!」
 こちらに駆けてこようとする『奴』を、僕は手で制する。
「それ以上近づくんじゃない」
「えっ?」

「やっぱりキミが犯人だったのか、奏ちゃん」

 奏ちゃん、いや、奏は僕の発言に動きを止めた。
「何言ってるの、飯島君」
「気づいたんだよ」
 僕は続ける。
「僕と安藤さんと奏ちゃん。この三人には完璧なアリバイがあるように思えた。でも実は一人だけ穴があったんだよ。君は、アリバイ工作をした。そして僕たちはまんまとだまされたんだ」
 そう、僕と安藤さんと奏は犯行当時、全員の証言の下、リビングからまったく出入りしていないことが証明されている。
 そもそもその前提が間違っていたのだ。
「君は犯行当時、瀬川さんの部屋に居たんだ。そして瀬川さんに性交渉をもちかけ、隙を見て殺した。君は多分こういったんだ。私、アナルを舐めるのが大好きなんですって。そしてケツをくぱぁした瀬川さんの尻穴にディルドをぶっ刺した」
「無理に決まっているじゃない! そんな事! 急に何言い出すのよ! 意味が分からないわ! それに、それならボブの方が可能性が高いでしょう!」
「知らないのか? ボブはずっと陰部を怪我していた。陸上競技用の槍を股間にしまっていた為だ。彼の陰部がいつも血で汚れていたのはそのためだよ」
「意味不明すぎて突っ込みどころ満載だけど、それじゃあ仮に私が犯人だとして、私のアリバイは? 皆が私がリビングに居たって言ってたじゃない!」
 その言葉に、僕はゆっくりと、首を振った。
「実は、誰もキミの姿を見ていた人はいない。正確には、はっきりと視認していた人は、だけれど」
 そう、彼女は空蝉の術を使ったのだ。
「リビングでのレクリエーションの時間。あの時、このソファに座っていたのはダッチワイフだった。そうだろう?」
 僕は暗闇の中まったく見えなかったけれど彼女からにじみ出る動揺の色を見逃さなかったはずだ。
 近年、シリコンゴム製のダッチワイフはすさまじい進化を遂げている。従来の空気嫁──風船式ダッチワイフとは違い、その質感はまさに人間。精巧に作られたものは近くで見ないと人形だと判別できないほどだと言う。
「君は恵子さんが吉川さんと共にキッチンにいる間、彼女に変装をしていたんだ。前もって空き部屋に用意していたダッチワイフを抱えた君はごくさりげなく人形の腰に手を回して一緒に歩き、話かけ、いかにも恵子さんと奏ちゃんが話している風を装ってソファに着席をする。そしてそのまま部屋に荷物を取りに行くフリをしてその場を後にした。しばらくして恵子さんはキッチンから出てくるが、誰もそれを疑問に思わない。こうして君は誰にも気づかれることなく、入れ替わることに成功したんだ」
「でも、いくらなんでも人形が座っていたら気づくでしょう!」
「気づかないんだ、それが」
「どうしてそう言えるの!」
 僕はカッと眼を見開いた。
「なぜなら犯行当時、安藤さんが僕を悩殺しようとかなり際どい服装で僕の隣に座り谷間やら太ももやらを強調してその場にいた男性全員の視線を釘付けにしていたからだ!」
 僕は知っていた。そう、この僕自身ですら、自らの股間にテントを張っている事に。
「君は男の欲望と言う性質を良く知っていた。だから分かっていたんだ。ダッチワイフの存在より異質な女性のエロボディが着目を集めると。そして女性たちは皆、欲望を掻き立てられる男性たちに嫉妬し、ダッチワイフどころではないと」
 奏は何も言わない。僕は彼女を強く指差した。
「つまり僕たちはまんまと君の掌の上で踊っていたというわけなんだ!」
「じ、じゃあ、第二の殺人はどうだって言うの? どうやったらあの一瞬で、あれだけの数の男性を殺せるって言うのよ」
 僕はこぶしを握り締めた。
「答えてよ! 飯島君!」
 僕はそっと、辺りの様子を伺う。誰も居ない。この推理の穴を保管してくれる人物は誰も居ない。
 しまった。そのことをまるで考えていなかった。
 いや、そもそも奏が瀬川さんを殺した理由とか、瀬川さんと性交渉するに至った流れとか、話の本筋とか何か色々根本的なものを全く考えていたなかった。
 でも、もう引けない。
「一体あのドアを壊したのは誰だって言うの? 私には無理よ!」
 僕は状況を良く思い出して、一つずつ整理する。
「あのドアを壊したのは、ボブだ」
「ボブが?」
「ああ」僕はうなずいた。「心優しいボブは皆に危険を知らせようと必死だった。だからドアを勢いで壊してしまったんだ」
 でもボブはそこで見た。惨殺されている男性の死体を。
 そうなると男性たちはそれ以前に死んでいたことになる。第一の犯行から、ボブがドアを開きに行くまではそれほど時間はなかったはずだ。
 そこでピンと来た。
「僕と吉川さんと安藤さんが遺体を調べていた時間は三十分程度。僕の記憶では、君はたしかリビングへ戻る人たちの最後尾を歩いていた」
「え、ええ、確かにそうだけれど」
「つまり君は背後から一人一人部屋へ呼び出し殺したんだ。二階の一番奥に位置する瀬川さんの部屋から、階段を下るまでの間に」
「そんなことできるわけないじゃない! すぐ気づかれるわよ」
「いいや、出来る!」
「どうしてそう言い切れるの!」
「君は空蝉の術をつかった。つまり君は忍者だ! 影分身の術だってばよ! そう、分身すればすべての犯行は可能となる!」
 そう、ジャパニーズヒーローニンジャであればそれくらいは容易だ。
「意味わかんないでしょ! 部屋には鍵だって掛かっていたのよ? 辻妻があわなさすぎるでしょ!」
「マスターキーを使ったんだろう。吉川さんの鍵の管理はザルだ」
 すると奏はあきれたという風に首を振った。まるでお話にならないと言いたげに。
「飯島君、極限の状態で追い込まれているのは分かってる。私だってそうだもの。でも、普通に考えておかしいって気づいて、その推理。大体、証拠もないじゃない」
「証拠ならあるさ」僕はすかさず答えた。「探せば」
 そう、どこかにシリコン製のダッチワイフが残っているはずだ。残っていないとおかしい。困る。実に困る。
「飯島君、聞いて。あなた達が出て行ってすぐ、ボブがトイレに行くといって姿を消し、そして突然電気が消えたの。混乱する中、安藤さんと恵子さんはいつの間にか気絶させられていた。上手く逃げ出した私は部屋で息を潜めてた。二人は多分どこかでつかまっている。だから助けようとしていたの。そこでボブと遭遇して、もみ合いになって私はナイフで彼を──」
 実に苦しい言い訳だ。僕は悲しくなった。これ以上、彼女の見苦しい姿は見たくない。
「僕は、君が好きだった」
「えっ?」
 奏はピタリと動きを止める。
「覚えてる? 奏ちゃん。僕が高校に進学すると同時に、引っ越したときの事」
「突然どうしたのよ。今はそんな話をしている場合じゃ……」「いいから、覚えてるか」
 僕が言葉を重ねると、彼女は少し間を置いて「忘れる訳ない」と小さくつぶやいた。
「忘れる訳ない。当たり前に一緒にいて、これからも毎日顔を合わせるんだって、そう思っていた飯島君が何も言わずに消えてしまったんだから」
「突然だったんだ。本当に突然、親の転勤が決まった。両親は慌てふためいて、ご近所さんへもろくに挨拶にいけなかった。当時の僕は携帯なんて持っていなかったし、訳がわからないまま荷造りをして、夜逃げするように引っ越してしまったんだ」
「寂しかったんだから」
「僕は、ずっと君が好きだった。引越ししてもずっと、年上の魅惑的な女性に迫られても、僕の心の中にはずっと君が居たんだ」
 だから、ここで会えた時、息が止まるほどうれしかった。
 僕はゆっくり奏に近づくと、静かに抱きしめた。そっと柔らかな感触が僕の腕に入り込んで、胸元は彼女の気配でいっぱいになる。一瞬キュッと硬くなった彼女の体は、やがてだんだんと弛緩して力が抜けていった、髪から漂う花のような香りが不自然にこの場には似つかわしくなく、僕はただそれが哀しくて仕方がなかった。
 刺されても良かった。彼女が伊賀の者で、忍者の末裔で、連続猟奇殺人犯だとしても、奏はどうしようもなく僕の好きな人だった。そんな彼女に刺されて死ぬのであれば本望だ。
 でも、彼女は僕を刺すことはなかった。
「飯島君、私は本当に犯人じゃ──」
 僕は彼女の言葉を唇でふさいだ。もう、これ以上苦しい言い訳は聞きたくない。
「いいじまくん……」
 とろけそうな表情の彼女の頬を、唇を、僕は優しく指でなぞった。そのままゆっくりとソファに誘導し、横にする。
 僕は何度も彼女の唇に、頬に、首筋にキスをした。軽く音を立てると、奏の息遣いはやがて甘いものへと変わって行く。やがて耐え切れなくなったのか声が漏れ、切なさと快楽を孕んだ声と共に蒸気してゆく。
 僕は服の上からゆっくりと彼女の臀部を撫でた。
 夏の夜、静かなペンションに、僕達の嬌声だけが響く。

     

 都内にある国立病院の一室。白いカーテンが外からの日差しを浴び、まっさらな風が室内に吹き込んでいた。
 ボブはそこで大型ベッドに横たわっていた。静かに窓の外を眺め、目を細めている。
「ボブ、怪我の調子はどう?」
 そこでようやく僕達が来たことに気づいたのか、ボブは笑みを浮かべた。
「アンドウサン、スグルサン」
「ホームステイがとんでもないことになっちゃったね」
 僕が言うとボブはふっと笑って首を振った。
「ソンナコト ナイデス。オフタリニハ ホントニカンシャ シテイマス マジデ。スグルサンタチガイナケレバ イマゴロ ボクハ シンデイマシタ」
「感謝は私じゃなくて傑君だけで良いわよ。実際、私は何も出来なかったんだし」
 安藤さんは笑顔だけれど、その表情は浮かない。
 犯人は奏ちゃんだった。予期しない犯人の姿に、誰もが言葉を失った。
 今、彼女は警察で事情聴取を受けている。
 犯行動機は一切不明。謎と多大な被害者だけが残った凄惨な事件だった。
 事件の夜が更け、明け方、僕は警察と合流し安藤さんと恵子さんが地下倉庫で縛られているのを救出した。吉川さんは怪我をしていたことからそのまま奥さんと共に病院へ連れて行かれ、わき腹を刺されたボブは幸いにも一命を取り留めた。
 事件は解決した。だけどこれは、本当の解決じゃない。それは誰もが思っている。
 吉川夫妻はあのあとペンションを閉め、今は都内にある敷地で小さなカフェをしているらしい。島にあった発電設備がそのまま電気会社に購入され、膨大な資金が入ったらしいが、詳しくは知らない。
「ボブはこれからどうするんだ?」
「ボクハ マダ ニホンニノコリマス。ハレテ ムザイホウメンッテコトニ ナッタンダシ ツギノエモノヲ サガサナイト」
「そっか」
 言っている意味はまるで分からなかったが、なんとなくノリで僕はうなずいた。
「フタリハ コレカラ ドコニ?」
「吉川さんが始めたっていうカフェに傑君と行くのよ。ケーキが美味しいって評判らしくて。今度雑誌にも載るんですって」
「ソレハ スゴイ」
「それじゃあボブ。僕たちはこれで」
 ボブに別れを言って僕たちは出口へと向かった。
「スグル サン」
 呼び止められ、振り向く。
「マジデ アリガトウ ゴザイマシタ。 イロイロナ イミデ」
 僕と安藤さんは顔を見合わせると少し笑った。

 病院を出た僕たちは人の波に流されるように大通りを歩く。
「それで、その後捜査の進展はどうなんですか?」
 すると安藤さんは浮かない様子でうなずいた。
「うん、未だに凶器のディルドとダッチワイフが見つかっていないんですって。現場には被害者の物とは別の体液が残されていて、このままだと証拠不十分で起訴は見送られるかもしれない」
「殺人犯が、再び野に放たれるって事ですか」
 その時、彼女が生きてゆける道はあるのだろうか。ホッとしたような、哀しいような、やるせない感情だけが僕の中に残った。
「ええ。それに吉川さんの証言では、あの一族は先祖代々商人の家計でね。伊賀の者だと言う根拠も見つからないらしいの」
「へぇ……」
 不穏な空気だけが、まだ消えうせていない。野暮ったい空気をぬぐおうとしたのか、安藤さんが「あー、もう」と声を出した。
「もう事件の事は忘れましょ。ほら、傑君も。せっかく美人な上司と美味しいケーキを食べるんだから元気出して」
「安藤さん……ありがとうございます」
「どういたしまして」
 こんなとき、この人のひたすら前向きな姿勢に助けられる。それをただありがたく思った。
「ところで傑君。ケーキを食べるついでに、あなたの童貞も食べちゃいたいんだけど」
「もうないですよ」
「えっ?」
「もう、童貞は居ないんです」
 大切なモノは、大切だった人に捧げた。
「それってどういう?」
「秘密です」
 僕が走ると「あ、待ちなさいよ!」と安藤さんも後を追いかけてきた。
 この世界から事件は消えないかもしれない。
 でも、僕と安藤さんが居る限り、絶対に解決してみせる。
 青空の下、小さく僕は誓った。

 ──了

       

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Neetsha