ある日僕が小学校に行ったら、いきなり隣の席の真央ちゃんが「あなたは今日から私の愛人ね」と言ってきた。真央ちゃんは目が大きくて背が高くて、クラスの男子から一目置かれる存在だった。
「愛人って何?」僕が訪ねると真央ちゃんは呆れたように溜息を吐いた。
「そんな事も知らないの? 愛人っていうのはね、結婚している人が作る恋人のことよ」
「結婚しているのにわざわざ恋人を作るの?」
「大人には色々あるのよ」
真央ちゃんは遠い目をしてそう言った。僕はそんな少し大人びているようで、子供から見ても分かるくらいませている真央ちゃんがちょっと好きだった。
その日から真央ちゃんは僕のことを愛人と呼ぶようになった。とはいっても僕と真央ちゃんの付き合いに何か変化があったわけじゃない。僕は真央ちゃんの右隣の席で、真央ちゃんは僕の左隣の席の住人だった。それだけだった。
それから五年ほど経って、僕と真央ちゃんは中学生になった。なぜか僕と真央ちゃんは相変わらず隣同士の席で、小学校を卒業しても、僕は真央ちゃんから「愛人」と呼ばれ続けていた。真央ちゃんが僕のことを愛人呼ばわりする意味はわからなかったが、やっぱり真央ちゃんがちょっと好きだった僕は愛人と言う呼称を否定することは出来なかった。
「おい、芳川、ちょっと来い」
そんなある日、同じクラスでサッカー部の追分君から呼び出しをくらった。一体何だろうと僕が思いながら追分君についていくと、校舎の裏側に来たあたりで追分君がいきなり殴りかかってきた。追分君の振り向きざまの鋭いパンチに驚いた僕は思わず尻餅を付いてしまった。幸いにもパンチは空振りに終わったので怪我は免れた。
「何するんだよ!」僕が叫ぶと追分君は怖い顔で言った。
「お前、俺の真央に手をだしたろう」
「出してないよ!」僕はビックリして反論した。
あたりに人の気配は無く、校舎の窓は全部閉められていたから誰も僕らに気づく人はいなかった。
僕の返答を聞いた追分君はさらに声を荒げて言った。
「お前、真央に愛人って呼ばれてるじゃねぇか」
「それは誤解だよ! 僕は君に殴られる筋合いなんか無いんだ」
僕は追分君に、何故僕が愛人と呼ばれているのか理由を必死に説明しながら、彼をなだめなければならなかった。
そのとき僕は思った。真央ちゃんは冗談や気まぐれで僕を愛人呼ばわりしていたのではなく、僕を愛人呼ばわりすることで恋人に焼きもちを焼かせようとしているのではないかと。
確かに小学生の頃から真央ちゃんはよくモテたし、僕でも分かるくらいませている真央ちゃんが僕を使って男子に焼きもちを焼かせて楽しもうと考えていたとしても不思議じゃなかったのだ。
僕にとっては非常に迷惑な話だったが、僕はやっぱりどうしようもなく真央ちゃんが少し好きだったため、真央ちゃんを叱ることも彼女に文句を言うことも出来なかった。
その日から僕はたびたび真央ちゃんの彼氏と言う人間から殴り合いの喧嘩を申し込まれるようになった。喧嘩を売ってくる相手は毎回違う男子で、僕はそのたびに相手に事情を説明して説得しなければならなかった。
そんな日々がずっと続いた。平穏だった僕の日常は波乱に見舞われ、時には三十人も仲間を連れてくる人間を相手にしなければならなかった。もちろんまともに闘っても勝ち目が無いため、喧嘩を売ってくる相手は全て説得した。
それらの喧嘩の騒ぎはいつしか教師や他の生徒に知れ渡り、なぜか僕はまったく手を出していないにも関わらず問題児として見られるようになった。
そのような日々を過ごしながら一年、二年と月日が経ち、やがて僕は大学生になった。
都内の国公立大学にどうにか入学した僕の横にはなぜか今でも真央ちゃんが同じ講義を取り、僕の隣の席に座っていた。
ただ一つ違うのは、小学生だったあの頃と比べて真央ちゃんは驚くほど綺麗になったことだった。
大学に入っても真央ちゃんの行動や恋愛事情はまったく僕の耳に入ることはなく、それでいて相変わらず真央ちゃんの彼氏は定期的に僕に喧嘩を売ってきていた。
「ねえ真央ちゃん、どうして僕を愛人って呼ぶようになったのさ」
ある大学の昼休み、学生が集まる噴水前で僕は真央ちゃんに尋ねた。その日は驚くほどの快晴で、空には雲ひとつ無く、暖かい日差しが柔らかく降りそそいでいた。
「何でかしら」
お手製のお弁当を食べていた真央ちゃんは首をかしげた後、お箸を唇に当てながらこう言った。
「たぶんだけどね、私ってさ、ちょっと自分より先のものが好きなのよ。自分には手に入らないものって言うのかな。だから小学校の頃の私は大人に憧れてたんだわ。愛人って大人が作るものじゃない。だから大人に近づきたくてあんたを愛人って呼ぶようになったんじゃない? 知らないけど」
真央ちゃんはそう言うとおはしでウインナーをつまみ口に入れた。
「それよりさ、最近私サークルの先輩に言い寄られてるんだわ。愛人よく喧嘩してるでしょ。だからその先輩も追い払っちゃってよ」
「そんなの出来ないよ」
誰のせいで喧嘩させられてると思ってるんだ、とは言えなかった。
「まぁでも、そのうちその先輩も愛人に喧嘩ふっかけるよきっと」
真央ちゃんは少しイジワルそうな表情でそういった。
「何でさ」僕は思わず尋ねた。
「だって今まで愛人に喧嘩売ってるのさ、皆私に言い寄ってきた奴だもん。鬱陶しいから無視するとさ、必ず愛人と喧嘩してやんの。なんでだろうね」
僕はとっさに思いついたことを言った。
「隣の席だからだよ。ずっと隣の席なんておかしいと思ったんじゃない」
真央ちゃんはなるほど、と頷いたあと僕の肩をポンポンと叩いた。
「まぁ元気出せよ。なんたって私の愛人なんだから」
そして優しい微笑を浮かべた。
僕はそんな真央ちゃんが、ちょっと好きなんだ。