私はエルヴィス・プレスリーやビートルズが苦手だった。
だって彼らは、速すぎるから。
幼いころから私は、ゆっくりしているだとか、ゆったりしているだとか、口々に言われつづけてきた。学校でのランチはいつも、昼休みの終了間際に食い込んでまで口を動かしていても半分以上が残ったままだったし、自転車に乗っていても多忙そうな銀行員に追い抜かされていた。さしずめ、亀みたいな人間だっただろう。
だから、死にたいと思ったときも、私はゆっくりとゆったりとしていた。
ひとえに自殺といっても、調べてみると様々な方法があった。ドラッグ、首吊り、飛び降り、投身、ピストル……しかしどれも、私の志向に沿うようなものではなかった。私にとっては、すべてが急速で唐突で瞬間的に思えたのだ。私の中の時計の針は他人より少し遅いから、それを狂わせるような速さを持つものは不適合だった。ドラッグも首吊りも飛び降りも投身もピストルも、私にしてみればあまりにも高速で、まるで光速で、どんな自死の道も私を待ってくれはしなかっただろう。……前言は誤りだ。私が不適合だった。
それでも私は、私にふさわしい形で死にたいと思っていた。
亀のような私には、亀のような死がふさわしかった。
彼女に出会ったのはそんなときで、私は公園のベンチに座ってサリンジャーを読んでいた。ハープの音のような声が聞こえたかと思うと、彼女は私の前に立っていた。彼女はティアドロップ型のサングラスをしていた。いつも以上に、私の世界が時を刻む拍節を長く、あるいは広くしたような気がした。
私はどんな用かと訊ねた。彼女は、自分は町の娘で、私が死にたがっているという噂を聞いて話しかけてきたのだと言った。認識に誤りがあるといけないので、私はただ死にたがっているわけではないと付け加えておいた。私は私の時間で死にたいのだ、と。
しかし、すると、彼女は昼下がりによく似合う微笑を浮かべて言った。
――私なら貴方の希望どおりに、ゆっくりと静かに貴方を殺せるわ。
願ってもない話だった。もし彼女の言うことが本当なら、ついに私は死ぬことができる。私は二つ返事で彼女の提案を受けることにした。私は彼女が契約書だという紙に判を押した。報酬は分割払いで、私の給料から差し引いていくらしかった。
そして、私と彼女のあいだで、死の契約が成立した。
彼女は私の部屋に上がり込んできて、色々と私物を持ち運んできた。私を殺す準備だと、彼女は言った。なるほど。私は彼女の真摯な姿勢に感心した。どのように殺してくれるのかはわからなかったが、相手と同じ屋根の下で暮らさなければ、それほどの大儀をともなわなければ、彼女の思い描く私の殺害計画は成り立たないのだろうと思った。
彼女は鼻歌を歌いながら、ベランダのパンジーに水をやってあげていた。ほかにも彼女が持ってきた花が色々とあったが、そういうものに疎い私は、どれがなにだかわからなかった。ただ、その中に栽培が禁じられている植物があるような気がした。自然のものが、自然によって死んでいく。そういうのも悪くないと思った。
朝と昼と夜の三食を、彼女は毎日用意してくれた。モダンな色合いのエプロンが彼女らしかった。会社で同僚に手製のサンドウィッチを羨ましがられたけれど、私は決して彼に分けてやろうとは思わなかった。いや、分けてはならなかった。私ならともかく、無辜(むこ)の同僚まで死なせるわけにはいかない。彼女のつくる料理には、毒が入れられていたのだ。食べればわかるのだが、苦い――とにかく苦かった。苦くて、まずかった。間違いなくなにかしらの薬物が混入していた。いつもキッチンで煙を上げ、日々具材と格闘していた彼女は、毒殺の研究に熱心なようだった。きっとこのまま少しずつからだの中に死の欠片が蓄積されていって、いつか致死量に達するのだろうと感じた。
そう考えると、彼女の計画は素晴らしかった。完璧と言ってもいい。私は感謝の意を込めて彼女にハグをした。長い長いハグをした。そうしてからだを離すと、どうしてか彼女は頬を赤くして、少しだけ涙を流していた。
それから何年経ったころだろうか、私と彼女のあいだに子どもが生まれた――私の精力を搾りとって、内側から精気を失わせるのが目的だと彼女は説いた。私は得心がいった。そういうふうに多面的に、角度を変えて物事に取り組んでいく姿勢を好ましくも思った。けれど、その結果が彼女の妊娠だった。
女性にとって人生の一大事だ。私はさすがに悪いと思って、堕ろしてくれてかまわないと言った。私はじきに死ぬのだから、産んだところでお腹の子には父親がいないからだ。それに、彼女の将来を考えても申し訳なかった。しかし、彼女は言った――貴方が死ぬことは、新たな生命を殺す理由にはならない、と。
まったくそのとおりで、私は帽子を脱ぐしかなかった。彼女は優れた倫理観の持ち主だった。心を打たれた私は、せめて私が息絶える日までともに育てていこうと申し出た。
そして。
その子どもは、今年で確か四十になる。
今年――そう、今年の年号はよくわからないけれど。
今――私は今、ベッドの上で天国への階段を上ろうとしている。
ゆっくりと瞬きをするたびに、まぶたの裏に様々な記憶が蘇ってくる。ティアドロップ型のサングラス。二人の名前の書かれた契約書。ベランダのパンジー。モダンな色合いのエプロン……私も彼女もずいぶんと老いた。
ついぞ彼女が用いた殺害方法は確信的には悟れず、わからないままだったが、今はもうそんなことはどうでもいいことのように思える。
彼女は私の希望どおり、私の時間の中で、ゆっくりとゆったりと、殺してくれた。
契約を果たしてくれた。それだけで十分だ。
――私と貴方の契約の、最後の仕上げをするわ。
ベッドの傍らに立って、彼女が言った。綺麗に色を脱いだ白髪が、優しげな顔が、私のぼやけた視界にせまってくる。美しい映像だった。かわいた唇を、なにかがふさぐ感覚があった。ほんのわずかな呼吸困難。それが――たぶん、私が知っている最後の吐息を奪った。
そして私は彼女に殺された。
頬にこぼれた涙が、私のものか彼女のものかはわからなかった。