◆"I love you."/heroin(e)/池戸葉若
バスケットボールの世界では、体格のよさというのはいわずもがな強力なアドバンテージだ。それは、残念ながら努力してどうにかなる類のものでは決してなく、天の配剤が狂った人間にしか与えられない。
もちろん凡庸な俺がそんなものを持っているわけもなく、目の前で日本人離れした巨躯が軽々と宙を舞い、リングを軋ませた。豪快にダンクシュートを決めたのは、まだ俺と同じ齢十七歳にして選手として将来を嘱望されている前村(まえむら)だ。
「おい、佐藤(さとう)」前村が顔を近づけて、監督には聞こえないように不機嫌そうに言ってくる。「わざとディフェンス緩めるなよ。練習にならないじゃないか」
「無茶言うなって。おまえみたいなチェ・ホンマンと競り合うなんてゴメンだ」
俺はひらひらと手を振ってから、ボールを拾い上げて手短な位置にいた仲間にパスをした。そのまま自分も前線に上がる。その途中でちらりと監督のほうを見てみると、監督は前村とその他のレギュラーばかりに指示を飛ばしていた。俺が腑抜けた守りをさらしても、見むきもしない。まあ、口うるさく言われるのも好きじゃないから、別にいいけど――と、不用意に出したパスが前村にカットされた。奴は背もでかければ足も速い。俺は追いかける気力も体力も失って、前村の得点とともに鳴り響くミニゲーム終了のブザーをぼんやりと聞いていた。
「じゃあ佐藤、戸締りよろしくな」
前村や三年生の先輩たちが、これから買い食いする店の話をしながらぞろぞろと出ていく。一年生もすでに退出済みで、部室に残っているのは俺だけだった。日は完全に暮れており、外気の冷たさが壁から染み込んでくる。俺はエナメルバッグから煙草を取り出して、火を当てながら大きく吸い込んだ。天井にむかって白い揺らめきが上っていく。
才能に恵まれず、努力もそこそこに放棄した落ちこぼれバスケ部員としては、こんなふうにはみ出したフリをするのが、自分を歯牙にもかけない社会や、自身を鼓舞することすらできない己への、なにかしらの対抗手段になるような気がしていた。ときどき、無性に笑ってしまいたくなるような考え方だけれど。悪くないと思っていた。
窓から裏手の路上に吸殻を投げ捨てて、戸締りをする。高校の敷地内は薄気味悪いくらいに静かだった。早く帰ろうと、体育館の脇にあるトイレの前を横切ろうとしたとき――なにかがつま先に当たった。かたい感触を残して、ころころと転がっていく。
「なんだこれ?」それを拾ってみると、透明な小壜の中になにやら錠剤が詰まっていた。俺はラベルを見ようとしたが、あたりが暗いせいでよく読めない。なにかアルファベットが並んでいるみたいだが……――と。
ざり、と誰かが立ち止まる音がした。
反射的に顔を上げる。
そこにいたのは、綺麗な黒髪を持つ女だった。わが高校の制服を着ていて、スカートから伸びる細い足は黒タイツに包まれていた。リボンの色から察するに同学年のようだが、確かにどこかで見たことがあるような気がする。
「えっと、俺になんか用か」
なかば呆気にとられた感じで声をかけると、彼女は俺の手中にあるものを発見して、すたすたと歩み寄ってきた。そしてなんの前触れもなく――パン、と俺の顔面を鋭い平手打ちが襲った。痛みと理不尽さに怒りがこみ上がるのに、時間はかからなかった。
「いってぇな! なにすんだ、この!」
「…………っ」
俺がつかみかかろうとすると、今度は彼女の足が見事な軌道を描いて、急所を蹴り上げた。全身が宇宙に吸い込まれたかのような錯覚に揺さぶられ、俺は変な息をもらして崩れ落ちる。さすがに動けない。彼女は俺の頭の先に転がった小壜をかすめとると、少しの呼吸の乱れも見せずに再びすたすたと歩いていってしまう。
その背中が見えなくなっても、俺は地面にうずくまっていた。ようやく直立二足歩行ができるようになるまで、十分はかかった。
翌日。
俺は廊下をまっすぐ闊歩していた。むろん、自分の教室にむかうためだ。しかし昨夜のダメージがいまだ残留しているため、ちょっと内股だが。
昨日、布団の中ではっきりと思い出した――あの女をどこかで見たことがある気がしたのは当然だったのだ。なぜなら、俺はほぼ毎日その顔を視界に入れているのだから。むしろ、そんな曖昧な認識しか脳内になかったという事実のほうが問題だったかもしれない。
城崎真衣夢(きのさきまいむ)。もう何ヶ月も一緒にいるクラスメイトだ。
「おっす、佐藤」教室に入るや否や声をかけてくる前村(このクラスでバスケ部は俺と奴だけだ)の横を無言で抜けて、いざ特攻をしかけようとした――のだが、俺の意気込みはあっさり行き場を失ってしまった。城崎の席は、からっぽだった。
「おい、どうしたんだよ」前村がやってくる。
「……ちくしょう。先制パンチは失敗だ」俺は自分の椅子にへたり込んだ。
「なんだ。あの席がどうかしたのか」
「おう。その席のやつに用があったんだ」
「ああ……っていうか、あそこって誰だった?」前村が本気で思い出せない顔で言う。
「なに言ってんだよ。城崎。城崎真衣夢だろ」
「へえ、そうだったか。いや城崎ってさ、全然目立たないからさ」
まあ、それは否定しない。俺も昨日まで忘れていたからな。
しかし――ちょっと面倒なことになった。城崎が休みだとすると、個人的にタイミングを逃してしまう。どうにか今日中に話をつけたかったのだが、無理かもしれない。
なんて。
考えていたけれど、城崎真衣夢は三時限目と四時限目のあいだの休みに教室に入ってきた。重役出勤にもほどがある。欠席じゃなくて遅刻だったのだ。思えば、そんな風景をこれまでにも何度か見たことがあるような気がする。だらしない生活でも送っているのだろうか?
クラスの面々は、城崎がやってきても誰一人として挨拶する奴はいなかった。彼女は静かに席に座る。音を立てないよう背後に近づいて、俺はその肩をつかんだ。
「よう、城崎。昨日ぶりだな。正確には、昨日の午後六時五十八分ぶりだけどな」
そう言うと、城崎はすっと振りむいて俺をにらんできた。あきらかに昨日の一件を知っている反応だった。やはり、この女だったのだ。「話がある。ちょっと顔貸せよ」
「もうすぐ授業があるわ」俺を見すえたまま、城崎は口を開いた。
「もう三つサボってるじゃんか。昼までいなくても変わんねえって」
「…………わかったわ」
城崎がすんなりと腰を浮かしたのは、少し意外だった。もっと抵抗してくるかと予想していたのだが、もしかしたら彼女としても実際のところ、俺と接触する理由があったのかもしれない。まあ、どうせ俺と似たようなことだろうけど。
校舎の外に出て、城崎を昨日の事件現場の近くまで連れていった。体育館の死角に入り、羽根のように軽い彼女のからだを奥のほうに押しやる。
「なあ、城崎。俺の言いたいこと、わかるよな」
一歩進み出る。黙って視線を横に傾けている城崎に、俺は放った。
「――おまえの持ってる薬、ヤバいんじゃねえか?」
「……なんだ。気づいてたの」城崎は観念したみたいにまぶたを下ろした。
正直な話、彼女のせいで子孫を残せなくなる危機に瀕した事実をつぶさに伝え、糾弾につぐ糾弾をしたかったのだが――どうやら、それができるほど気安い事態ではないみたいだった。学校の成績がいたって芳しくない俺だが、見たものを数時間は覚えている記憶力はあるし、英和辞典の引き方くらいわかる。そう、実はあのとき見えていた――見えてしまっていたのだ。あの小壜のラベルにタイプされた、とある英単語を。
「ヘロインだってよ。聞いたことあるぜ。麻薬の一種だろ、城崎」
しばしの沈黙のあと、城崎は俺の言葉をゆっくりと吸い込むようにしてから、滔々と語りはじめた。「そうね、正解。私が所持しているのはヘロイン。正式名は3,6‐ジアセチルモルヒネ。芥子(ケシ)からとれる阿片(アヘン)を精製したものよ。本来は強力な鎮痛剤であるモルヒネの原料だけど、一般に聞こえてくるのは麻薬としての面かしら。というより、それしかないかもね。でも、静脈注射じゃなくて薬用としての錠剤形態で服用しているから、私としては中毒者としての自覚は特にないのだけれどね」
「ああ……そうかい」たぶん頬が引きつっていたと思う。ぺらぺらと注射だの中毒だの口走り、そこに一抹の疑問も抱かない城崎真衣夢という女子高生に、俺ははっきり言ってドン引きしていた。ちょっと、いやかなり頭がおかしな子なのかもしれない。
「やっぱりおまえ、それを使ってんのかよ……からだに悪いぜ。しかも違法だ」
「ふぅん。それをあなたが言うんだ、佐藤くん」
「あん?」
「知ってるのよ? 生意気にも煙草を吹かしちゃって、ねえ?」
「えっ。どこで見た」
「昨日。ちょっと接近すれば臭いでわかるわ。こう見えて鼻が利くのよ」
そんなもんかな、と思ってから後悔した。白を切っていればよかったものを、わざわざ墓穴を掘るような言い方をしてしまった。すると、城崎は涼しげな顔で人差し指を立ててきた。「じゃあ、ここでひとつ提案」
「提案?」
「そう。私は佐藤くんが煙草を吸っていることをバラさない。その代わり、佐藤くんは私がヘロインを使っていることをバラさない。対等な交換条件よ」
「おい待て」俺は思わずさえぎった。「対等なわけがあるか。俺はせいぜい注意で済んで、最悪でも短期間の停学だ。それに比べておまえの場合、ふつうに退学処分で、もしかしなくてもそのまま刑務所いきだぞ?」
「別にあなたには関係ないじゃない」城崎は突然、冷ややかな視線を俺に突き刺した。俺はなにも言えなくなってしまう。「私が心身ともに破滅の道に進もうが、一生を棒に振ろうが、あなたに迷惑をかけるわけでもないんだし」
「確かに、究極的にはそうなんだろうけどさ……」
「もう、堅苦しいことはなしにしましょう。秘密を握り合った仲なんだから。約束して――佐藤智明(ともあき)は城崎さんがヘロインを使っていることをバラしません。その代わり、城崎さんは俺が煙草を吸っていることをバラしません――はい、復唱」
「……あー」
ぶっちゃけ、俺はもうこの会話に疲れていた。俺に迷惑がかかるわけでもないという城崎の論に納得しかけたことは真実だったし、なによりこの危険なアロマ漂う時間を早く終わりにしたかった。俺は求められるがままに復唱した。
しかし。
「はい、いい声いただきました。これからよろしく」
城崎はどこからかボイスレコーダーを取り出して、堕天使のような笑みを浮かべた。機嫌よさそうに颯爽と、俺の横をすり抜けて校舎へと歩いていく。
俺はというと、完全に停止していた。
――完璧に言質をとられた。ていうか、これって実はヤバいんじゃないのか? もし城崎が捕まったとき、俺もなんかの罪に問われたりするんじゃないのか? なんとか義務違反とかで。違ったとしても、どちらにせよ面倒なことになるし……えー。ええー。
「………………」
墓穴を掘るどころか、自分からその中にダイブしてしまったみたいだった。ふてくされた俺は、そのまま体育館の陰で煙草を一本吸った。
それから、俺と城崎の奇妙な関係がはじまった――とか、どこぞの小説みたいな言い方をしてしまったが、実際は別々の場所で不徳の行為にふけっていた者が一ヶ所に身を寄せ合っただけだった。城崎とは、決まって俺が部活を終えたあとに落ち合い、適当な校舎の暗がりでそれぞれの時をすごした。
立ち上るのは紫煙と、薄気味悪い笑い声。
城崎はヘロインを飲み下して、とても幸福そうな顔をしていた。本当に幸せなわけがない。そういう作用だ。それでも、ふだんの学校生活では拝めないような、いつもの仏頂面からは想像もできないような、艶かしい表情だった。アスファルトに座り込み、うっすらと頬を上気させて、まるで薬とセックスをしているみたいに。
聞けば、あの日の城崎は体育館脇のトイレで至福のときを味わい、そのまま帰ろうとしていたらしい。しかし校門で小壜をなくしたことに気づき、慌てて戻ったところに俺がアホ面を下げて突っ立っていた、ということだった。アホ面って言うな。
彼女のヘロインの入手経路はある意味特殊だった。彼女の父親は町医者で、いわゆる地域のかかりつけ医をやっているらしく、さらには祖父も診療所を開いていたらしい。そして、その祖父の古びた自宅兼診療所に遊びにいったとき、物置のような部屋であの小壜を見つけたのだと言った。きっと医薬品としてのものだったのだろう。とりあえずは彼女が変な人間と関わっていないことを知って、なぜか俺はほっとした。
ただ、どうして城崎がヘロインに頼るのかは、わからなかった。
「――佐藤くんは、ちゃんと自分の人生を歩んでる?」
となりから城崎が問うてきた。夜だから少しだけ息が白い。俺は、体育館裏の切れかけた蛍光灯にむかって煙を吐き出しながら、その質問の意味をぼんやりと思った。
「あー……まあ。こうやって生きてるしなあ。歩んでるんじゃね?」
そう、と城崎は呟いたあと、黒髪を垂らした。
「羨ましいわ。私は、私の人生があるようには思えないから。私は、私の物語のヒロインにはなれないから。……ときどきね、とても苦しくなるときがあるのよ」
「へええ」俺は彼女の言うことの一端すら理解していなかった。
「私はこうして息をしているけれど、目で見て世界を認識しているけれど、立ち上がって歩くこともできるけれど……それは本当に私の機能なのかなって、私の眼球なのかなって、私の意志なのかなって――本当に、私はいるのかなって、思うの。たとえば漫画みたいに誰かと意識を交換できて、その人が見る世界を体験できたなら、私は安心できる。今私が見ている世界は確かにあるけれど、それは私だけのものだから。私は世界で私だけが生きているみたいに感じる。実在か非実在かわからない私の世界で、私はいるかどうかもわからない私を生きている。……そういうことはふだんは意識して考えないようにしているけれど、たまに唐突にはじまるのよ」
「ほおお」俺は、なにかしらの思春期的な思考の産物なのだろうと勝手に解釈した。俺は彼女みたいに物事を難しく考えることができないし、そもそも城崎真衣夢じゃなかった。
ヘロインの小壜を包み込んだ彼女の小さな両手は、小刻みに震えている。
「そういうときって、もうとまらなくて、どこかわからないけどとにかく痛いの。全身なのかもしれないし、からだの外なのかもしれない。でも痛い。痛くて痛くて、悲鳴なんて出ないくらいの劇痛で、私は自分でそれを鎮める術を知らない」
「……だからヘロインってわけか?」
「たぶん、そう。そのつもりなのよ、きっと」
「別にいいんじゃねえの? 麻薬でもなんでも、それで城崎が助かるなら。おまえがなにと闘っているのか知らないけどさ、逃げちまえばいいんだよそんなもん」
おまえの言だと、俺には関係ないみたいだしな。
なんとなく気休めにでもなればと口にした思いつきだったが、「佐藤くん」と城崎は俺のほうに顔を傾けてきた。「適当なことを言わないでほしいわ」
それは――はじめて見る、彼女の笑顔だった。
薬物に導かれた筋肉の弛緩なんかじゃない、城崎真衣夢の笑みだった。
そして俺はたいした根拠もなく、これからもそれが見られるような気がしていた。
期末テストが近づいてきて、バスケ部の練習が一週間ほど休みになった。そうなると俺が遅くまで学校に残る理由はなくなり、城崎との密会も活動休止へと自然に追いやられた。もともと学校という共通のフィールドの中だけでしか互いを認識していなかったし、わざわざ教室で話しかけることもない関係(城崎いわく、二人の秘密を他人に勘繰られないようにするためらしい)だから、別にかまわないけど。
「だりいけど、赤点はとりたくないからな」
夜の八時を回ったあたりだった。俺は独り言をいいながら、問題集を勉強机の上に広げていく。家で勉強するなんてこういうとき以外はまずない。とりあえず机にむかう前にベランダで一服しておくかと思い、エナメルバッグの中を探った……しかし、ない。底を覗いてみても煙草は見当たらなかった。どこかに落としたのだろうか? まだ四本残っていたのに。まあ、学校で見つかったとしても知らぬ顔の半兵衛になればいいだけの話だ。
「仕方ない。買いにいくか」近所のコンビニが年齢確認をしないことは確認済みである。
俺は部屋着から着替えて玄関を出た。住宅地から通りに出ると、市バスの停留所のベンチに、誰かが座り込んでいるのが目に入った。うっすらと明かりに照らされているのは、ダッフルコートを羽織った黒い髪の女だった。
「よう。こんな時間になにしてんだ?」俺は彼女――城崎真衣夢に話しかける。「おまえの家ってここらへんだったのか?」
「………………」返事がない。俯いて動かない。
俺はこのまま城崎を置いていくのも気が引けて、とりあえず彼女の横に腰を下ろした。バス停には容赦なく夜風が吹き込んできて、とにかく寒い。しばらくするとバスがやってきた。こちらを見てくる運転手に乗車の意思がないことを伝えると、バスは去っていく。するとようやく、城崎が少しだけ唇を動かした。「……佐藤くん」
「おう。やっと喋ったか」気づかれていないかもと思っていたので、俺はほっとする。
「私は、やっぱりここにいないわ」
「え?」
「そして、あなたもここにはいない。なにも実在していない。でも違うの? どれだけ待ってもあなたはいるの? 消えないの? 私はいないのに」
城崎の呟く意味がわからなかった。俺は肩をつかんだ。「おい、どうしたんだよ」
「痛い」
「あっ、わりい」俺は手を離した。だが、それは違った。
「痛い、痛い、痛いぃっ……」
「城崎? おいっ」彼女の様子は尋常じゃなかった。ただ単に身体に異常があるふうでもない。俺はいやでも思い出さざるをえなかった――彼女がヘロインを使う理由を。なにがあったのか知らないが、今がそのときなのだ。
「薬は? 薬は持ってるか?」まずは沈静化させなければ。
城崎は震える手でポケットから小壜を取り出した。それを奪い取った俺は、一錠を彼女の口をふさぐようにして押し込んだ。ごくりと城崎の白い喉がうごめく。
それでも、彼女の震えは治まらない。俺は、小壜を手にしたまま動けなかった。どこまでがセーフティゾーンなのかまるでわからないからだ。
それとも、あるいは――彼女はすでにアウトだったのかもしれない。
城崎は俺から小壜を奪い返すと、突き動かされるがごとくヘロインを服用した。
……正直、俺はそのときのことをよく覚えていない。ただ、彼女の表情だけははっきりと目に焼きつけていた。その、薬に輪姦されていた彼女の表情だけは。
「ああ……幸せ」城崎はオルガスムスを迎えたばかりのように頬を染めて、制御が切れたみたいに笑っていた。笑いながら、ぼろぼろと涙を流していた。「ああ……幸せ」と「ああ……幸せ」と、ずっと彼女はわらっていた。
その翌日は、城崎は学校にこなかった。
そのまた翌日は、城崎自身はこなかった。
祖母がきた。
親ではなく、祖母がきて。
城崎真衣夢は自殺したとのたまった。
夕暮れに染まった教室には、花瓶がひとつ置かれていた。俺はそれを眺めていたが、大きく伸びをして両足をどかんと机に乗せた。誰もいないからやりたい放題だ。
城崎の通夜には、いちおうクラスのほとんどの面々が出席した。そしてその全員が、どのように振舞えばいいのかわからないようだった。それはそうだ。誰も彼女のことを知らなかったのだから――誰も、彼女の秘密を知らなかったのだから。とはいえ、彼女の部屋から見つかったボイスレコーダーにはなにも録音されていなかったみたいだから、俺もその他大勢と同じフリをしなければならないのだろうけど。
「佐藤、あんまり気を落とすなよ」焼香の順番待ちをしているときに、前村が言ってきた。俺が不思議な顔をすると、奴は首をかしげた。「おまえと城崎って、付き合ってなかったのか? 授業中とか、ちらちらとお互いのこと見てるからさ、てっきり……」
「ちげーよ」
そのときの俺は言った。同時に、気づいた。
そうだ――俺と城崎は、付き合ってなかったんだ。
俺は城崎が死んだと聞いても、悲しくなかった。通夜で、遺影の中であいかわらずの仏頂面を決めている城崎を見ても、涙は出てこなかった。ただ、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感だけがあった。彼女の顔を思い浮かべるたび、それは深まった。
だから、きっと。
城崎が抱えていたものがなんなのか、まったく知らずじまいだから。知ろうとしなかったから――おまえが自分の物語のヒロインになれないんなら、他人の物語のヒロインになればよかったじゃないか、とか。
「愛してる」とか、「月がきれいですね」とか、「死んでもいい」とか。
総じて「アイラブユー」なんて、とても言えないけれど。
俺は、それなりにあいつのことが好きだったんだと思う。
「……つってもまあ、試験勉強はしなきゃなんないんだけどな」
気づいたところでどうにもならない物語は、これでおしまいだ。
城崎のせいでごたごたして全然手についていないが、悪あがきぐらいはしなければならない。俺は長らく置きっぱなしだった教科書たちを持って帰ろうと、机の中に手を潜り込ませた。そこで、妙な異物感にぶつかった。
「ん? なんだ?」奥のほうになにか入っていて、教科書にぶつかっている。俺はひとまず机の中身をぜんぶ外に出してから、その異物感の正体を探った。
出てきたのは、煙草のパッケージだった。
その平面には細いサインペンだろうか、こまごました字でこう書いてあった。
『からだに悪いから没収。バスケだって頑張ればなんとかなるわよ。応援はしないけど』
「……うわあ、マジかよ」俺はおかしくもないのに、いつのまにか笑っていた。
煙草は四本残っていた。
なくしたと思っていた煙草は、知らないあいだに城崎にとられていたのだ。あいつは意外と子どもっぽいところがあったらしい。こんな悪戯にもならない、小細工なんかしやがって。他人(ひと)のこと言えた義理じゃないくせに、いっちょまえに説教垂れやがって。
「まったく、適当なこと言ってんじゃねえよ」
城崎は、俺に迷惑がかかるわけでもないと言った。だが、それは間違いだった。
大迷惑だ、ばかやろう。こんな――死んだクラスメイトに恋煩いしているだなんて、恥ずかしくて誰にも顔むけできないじゃねえか。
――そうして、目の前で日本人離れした巨躯が軽々と宙を舞った。
俺はそれに体当たりをくらわしてやった。「おらあっ!」
しかし前村のからだはびくともせず、あえなくボールはリングに吸い込まれていく。逆に俺は反動で見事に吹っ飛ばされて、体育館の床を転げ回った。
「おい、佐藤」前村が顔を近づけて、監督には聞こえないように不機嫌そうに言ってくる。「今の完全にファウルだぞ? 監督は全然見てないけど、本当ならバスケットカウントだ」
ペネトレイトで誘ってきてんのはおまえじゃねえか、とも思ったが、俺は無言で上半身を起こした。すると、前村が肩をぽんと叩いてきてさわやかに笑った。
「でも、前よりは張り合いがあっていいな。おまえ、結構いい筋してるよ」
「……なんで上から目線なんだよ。上からなのは身長だけにしとけよ」
あと下手な慰めはやめろ。うざい。
俺は立ち上がり、ボールを仲間にパスした。そのまま自分も前線に上がる。
――……なあ、城崎。
おまえは逃げたんだよな。なにかから逃げつづけて、麻薬に逃げて、それでも追いつかれてしまったから最後に大技かまして逃げきってやったんだよな。
なら、俺はその対極のほうに走ってみようかと思う。
でも、なにをすればいいのかよくわからないから、当面は、そこにいるチェ・ホンマンに一泡吹かせてやることを目標にあがいてみるさ。