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プロローグ
錆付いた非常階段がきぃきぃ悲鳴を上げていた。
オデロンが一段踏むごとに、それは逃げ場を失った鼠の悲鳴じみた音を出した。
“俺も悲鳴をあげたい”オデロンはそう思った。
“悲鳴をあげてここから飛び降り、さっさと家の黴臭いベッドにもぐり込むんだ。
そうだ、途中でスクブスも捕まえて。そうだ、そうしよう。それがいい……”
だが、オデロンの足は上ることを少しもやめようとはしなかった。
一歩一歩、のろのろと、だが確実に目的地に向かっている。
きぃきぃと悲鳴を聞きながら。それを楽しむかのように。
“ちくしょうめ! 嬲られるのは俺なんだぞ!”
オデロンの足は止まらなかった。
あと少しで最上階に着く。非常ドアを開ければ通路に出る。
その突き当りの部屋が社長室だ。
かれの目的地。苦痛の始まり。
オデロンはため息を吐いた。
それは、逃げ場を失った鼠のため息に似ていた。
オデロンはノックもせずに部屋に入っていった。その必要はいつもなかった。
室内は薄暗く、天井のシャンデリアの6本ある蝋燭のうち2本にだけ、淡い青色の
炎が今にも消え入りそうに点いているだけだった。実際、それは死にかけだった。
部屋の壁紙は濃い朱色で、薄闇の中、それはもう黒と言ってもよかった。
ボスは定位置に座って、かれが来るのを待っていた。
かれご自慢の6万6060年製スミロドン〈注――古代に生息していたサーベルタイガーの一種〉
の絨毯の後ろ、特注のプレジデントデスクの向こう側だ。
恐らくは、非常階段を上って来るのをずっと透視ていたのだろう。
その一つしかない目に見つめられると、オデロンは軽い吐き気を覚えた。
旧ソ連の建築家に造らせたこの部屋は、その全てに部屋の主であるゴホルジャイの意向が反映し、
かれの本質以上の恐怖を時として対峙した者に与えるように設計されている。
まるで、いくつもの視線に苛まれるようだ。
オデロンはいつか、この部屋のどこかにいるその建築家を見つけて痛めつけてやろうと心に決めていた。
ゴホルジャイは気に入った魂を必ず部屋のどこかに隠す癖があるのだ。
“あの時代遅れの絵画の中だろうか?”
「遅かったな、オデロン。私はついに、あの階段が腐って崩れ落ちたのかと思ったぞ」
オデロンはすぐさま雑念を振り払い、無難な回答の提出に急いだ。
「いえ、ボス。あれは非常用ですから、そうそう壊れることは――」
「私がなぜおまえを呼んだのか、わかるか? オデロン」
ゴホルジャイは、オデロンの言葉を遮るように続けた。
蛇皮製の椅子からはみ出したかれの尻尾が、カチカチと蠢いている。
“注意しろ! あのムカデの動きには、いい思い出が一つもないぞ”
「これを見ろ」
ゴホルジャイはスミロドンの絨毯の上に、一枚の羊皮紙を乱暴に放り投げた。
オデロンは拾うまでもなく――もちろん拾うのだが――それがなんであるか、見当がついた。
「結果が……、出たんですね、ボス」
「もちろんだ。結果というものは必ず出るものだよ、オデロン。だが、重要なのはそこじゃない。
その中身だ。結果などというのはクソと一緒だ。いずれひねり出される。重要なのは、それにハエが湧くかどうかだ」
オデロンはそれを拾い上げ、すぐさま目を走らせた。
羊皮紙には『MCC社 タレント出演番組、視聴率調査報告書』と書いてある。
ディブナド、グレゴス、ホーリフ、ブラッチ、ダニゲーなど、MCC社所属タレントの名前が全て載っていた。
もちろん、オデロンの名前も。その下には、冠番組名『オデロン・ザ・マッドショー』。
さらにその下、前回放送の番組視聴率が――、1.7パーセント。
なんてことだ!
オデロンは飛び上がった! 思わず鳥型の茶色の翼を瞬時に生やし、思い切り羽ばたかせて天井までいっきに昇って、へばりついた。
「やった、過去最高だ!」
オデロンはその場でスキップした。天井で! 靴の先が破れ、飛び出した鉤爪が、
ボスお気に入りの天井に穴を開けていることなど気にもならなかった。
かれは今、自分を賞賛したくて堪らなかった。その衝動に比べれば、天井の傷跡などたいした問題ではないではないか?
だが、そのささやかな褒賞の代価も、実にささやかに収まってしまった。
突如、オデロンは巨大なムカデに巻きつかれ、床に叩きつけられたのだ。
低い呻き声をあげて起き上がろうとしたオデロンの目の前に、毛むくじゃらの太い足が現れた。
その後ろに、収縮していくムカデの姿がある。
オデロンは恐る恐る、その足の先をゆっくりと見上げた。
一つ目に獅子の顔と体――昔は筋肉質だったらしいが、今では見る影も無く膨れている。中年太りだ――と
両腕と、一本足とムカデの尻尾。我らがMCC社のボス、〈魔嵐の獅子〉〈一足バジリスク〉ことゴホルジャイが仁王立ちしていた。
その顔はひきつり、口の端から残忍な牙が見え隠れしている。
“いい兆候じゃあないな”オデロンの顔もひきつった。
「この馬鹿者が!」
ゴホルジャイの怒声は凄まじい咆哮となって、オデロンを吹き飛ばした。
オデロンは突風に煽られたスズメよろしく、入ってきたばかりのドアに強く背中を打ちつけ、
羽をしまい忘れたこと、次いで、ドアを閉めたことをひどく後悔した。
「貴様、ここで働いてどのぐらい経つ? おまえを雇ったのは寿命わずかな錆付いた非常階段を慰めることじゃないんだぞ!
娯楽性の高い番組を作り、視聴者を喜ばせ、この世界に魔力を満たし、我々の錆をとってやることだ。それなのになんだこの数字は」
オデロンは慌てて弁解しようとした。
「しかし、前回はもっと低くてですね――」
「ああ、そうだ。前回はさらに低かったな。ああ、その前も、その前もだ!
深闇枠とはいえ、これはあまりにも酷い。オデロン、このままじゃあ、我が社は
つまらん番組をたれ流す貞淑な放送会社だと思われてしまう! 貴様のせいでな。
だから私は決めたのだよ」
「何を……でしょうか」オデロンはその先を聞きたくなかった。
“やばい! 早く、早くベッドにもぐり込んで……”
ゴホルジャイの一つ目がぎろりと動き、後ずさる一匹の悪魔を捉えた。
「次の番組視聴率が5パーセントを切ったら――」
オデロンが唾を飲み込むより早く、
「クビだ」
喉が動き、オデロンはその言葉を、ゆっくりと飲み込んでしまった。
そして、シャンデリアの炎が一つ、か細い悲鳴をあげて消えていった。
錆付いた非常階段がきぃきぃ悲鳴を上げていた。
オデロンが一段踏むごとに、それは逃げ場を失った鼠の悲鳴じみた音を出した。
“俺も悲鳴をあげたい”オデロンはそう思った。
“悲鳴をあげてここから飛び降り、さっさと家の黴臭いベッドにもぐり込むんだ。
そうだ、途中でスクブスも捕まえて。そうだ、そうしよう。それがいい……”
だが、オデロンの足は上ることを少しもやめようとはしなかった。
一歩一歩、のろのろと、だが確実に目的地に向かっている。
きぃきぃと悲鳴を聞きながら。それを楽しむかのように。
“ちくしょうめ! 嬲られるのは俺なんだぞ!”
オデロンの足は止まらなかった。
あと少しで最上階に着く。非常ドアを開ければ通路に出る。
その突き当りの部屋が社長室だ。
かれの目的地。苦痛の始まり。
オデロンはため息を吐いた。
それは、逃げ場を失った鼠のため息に似ていた。
オデロンはノックもせずに部屋に入っていった。その必要はいつもなかった。
室内は薄暗く、天井のシャンデリアの6本ある蝋燭のうち2本にだけ、淡い青色の
炎が今にも消え入りそうに点いているだけだった。実際、それは死にかけだった。
部屋の壁紙は濃い朱色で、薄闇の中、それはもう黒と言ってもよかった。
ボスは定位置に座って、かれが来るのを待っていた。
かれご自慢の6万6060年製スミロドン〈注――古代に生息していたサーベルタイガーの一種〉
の絨毯の後ろ、特注のプレジデントデスクの向こう側だ。
恐らくは、非常階段を上って来るのをずっと透視ていたのだろう。
その一つしかない目に見つめられると、オデロンは軽い吐き気を覚えた。
旧ソ連の建築家に造らせたこの部屋は、その全てに部屋の主であるゴホルジャイの意向が反映し、
かれの本質以上の恐怖を時として対峙した者に与えるように設計されている。
まるで、いくつもの視線に苛まれるようだ。
オデロンはいつか、この部屋のどこかにいるその建築家を見つけて痛めつけてやろうと心に決めていた。
ゴホルジャイは気に入った魂を必ず部屋のどこかに隠す癖があるのだ。
“あの時代遅れの絵画の中だろうか?”
「遅かったな、オデロン。私はついに、あの階段が腐って崩れ落ちたのかと思ったぞ」
オデロンはすぐさま雑念を振り払い、無難な回答の提出に急いだ。
「いえ、ボス。あれは非常用ですから、そうそう壊れることは――」
「私がなぜおまえを呼んだのか、わかるか? オデロン」
ゴホルジャイは、オデロンの言葉を遮るように続けた。
蛇皮製の椅子からはみ出したかれの尻尾が、カチカチと蠢いている。
“注意しろ! あのムカデの動きには、いい思い出が一つもないぞ”
「これを見ろ」
ゴホルジャイはスミロドンの絨毯の上に、一枚の羊皮紙を乱暴に放り投げた。
オデロンは拾うまでもなく――もちろん拾うのだが――それがなんであるか、見当がついた。
「結果が……、出たんですね、ボス」
「もちろんだ。結果というものは必ず出るものだよ、オデロン。だが、重要なのはそこじゃない。
その中身だ。結果などというのはクソと一緒だ。いずれひねり出される。重要なのは、それにハエが湧くかどうかだ」
オデロンはそれを拾い上げ、すぐさま目を走らせた。
羊皮紙には『MCC社 タレント出演番組、視聴率調査報告書』と書いてある。
ディブナド、グレゴス、ホーリフ、ブラッチ、ダニゲーなど、MCC社所属タレントの名前が全て載っていた。
もちろん、オデロンの名前も。その下には、冠番組名『オデロン・ザ・マッドショー』。
さらにその下、前回放送の番組視聴率が――、1.7パーセント。
なんてことだ!
オデロンは飛び上がった! 思わず鳥型の茶色の翼を瞬時に生やし、思い切り羽ばたかせて天井までいっきに昇って、へばりついた。
「やった、過去最高だ!」
オデロンはその場でスキップした。天井で! 靴の先が破れ、飛び出した鉤爪が、
ボスお気に入りの天井に穴を開けていることなど気にもならなかった。
かれは今、自分を賞賛したくて堪らなかった。その衝動に比べれば、天井の傷跡などたいした問題ではないではないか?
だが、そのささやかな褒賞の代価も、実にささやかに収まってしまった。
突如、オデロンは巨大なムカデに巻きつかれ、床に叩きつけられたのだ。
低い呻き声をあげて起き上がろうとしたオデロンの目の前に、毛むくじゃらの太い足が現れた。
その後ろに、収縮していくムカデの姿がある。
オデロンは恐る恐る、その足の先をゆっくりと見上げた。
一つ目に獅子の顔と体――昔は筋肉質だったらしいが、今では見る影も無く膨れている。中年太りだ――と
両腕と、一本足とムカデの尻尾。我らがMCC社のボス、〈魔嵐の獅子〉〈一足バジリスク〉ことゴホルジャイが仁王立ちしていた。
その顔はひきつり、口の端から残忍な牙が見え隠れしている。
“いい兆候じゃあないな”オデロンの顔もひきつった。
「この馬鹿者が!」
ゴホルジャイの怒声は凄まじい咆哮となって、オデロンを吹き飛ばした。
オデロンは突風に煽られたスズメよろしく、入ってきたばかりのドアに強く背中を打ちつけ、
羽をしまい忘れたこと、次いで、ドアを閉めたことをひどく後悔した。
「貴様、ここで働いてどのぐらい経つ? おまえを雇ったのは寿命わずかな錆付いた非常階段を慰めることじゃないんだぞ!
娯楽性の高い番組を作り、視聴者を喜ばせ、この世界に魔力を満たし、我々の錆をとってやることだ。それなのになんだこの数字は」
オデロンは慌てて弁解しようとした。
「しかし、前回はもっと低くてですね――」
「ああ、そうだ。前回はさらに低かったな。ああ、その前も、その前もだ!
深闇枠とはいえ、これはあまりにも酷い。オデロン、このままじゃあ、我が社は
つまらん番組をたれ流す貞淑な放送会社だと思われてしまう! 貴様のせいでな。
だから私は決めたのだよ」
「何を……でしょうか」オデロンはその先を聞きたくなかった。
“やばい! 早く、早くベッドにもぐり込んで……”
ゴホルジャイの一つ目がぎろりと動き、後ずさる一匹の悪魔を捉えた。
「次の番組視聴率が5パーセントを切ったら――」
オデロンが唾を飲み込むより早く、
「クビだ」
喉が動き、オデロンはその言葉を、ゆっくりと飲み込んでしまった。
そして、シャンデリアの炎が一つ、か細い悲鳴をあげて消えていった。
MCC社はいつも騒々しかった。
オデロンが入社した164年前(地獄暦)から、それはまったく変わることがない。
〈ネズミの聖人通り〉を抜けた先の一等地に、地獄洞窟の壁面を掘りぬいて
建てられたこの会社は、自社の発展と共に成長した町並みを見下ろし、
不機嫌そうにうずくまる年老いたチェシャ猫のように
新米悪魔を出迎えたのを、かれは今でもはっきりと覚えている。
真下にある〈ネズミの聖人通り〉はMCC社設立後、そこの社員たちの懐から、
なんとか財布をかすめ取れやしないかと集まってきた勤勉な泥棒たち――やつらは
商人だと言い張ってるが、芋虫炒飯が2銀貨もするものか!――と、
そのカモによって栄えた通りで、そう名づけたのは社長のゴホルジャイだった。
昔、獅子の姿で狩人の罠に捕まったときに一匹のネズミに助けてもらったことへの
恩返しに名づけたそうだ。オデロンが〈ネズミの聖人通り〉を通り抜けて、
会社の魔法で閉じられた自動扉を開けたときも、
今のように蜂の巣を突くような騒々しさがかれを出迎えたものだ。
辺りは撮影機材を抱えて走るクルーや、タレントと打ち合わせをしながら歩く
ディレクターなどでごった返していた。
オデロンが、たった今出てきたばかりのエレベーターにはもうすでに
スシ詰めのように悪魔が入っていて、ボタンをせわしなく何度も押している。
もともと平凡的な上昇志向しかもたないオデロンには、かれらが何を急いでいるのか
まったく理解できなかった。走れば疲れるし、汗水たらすその姿には
優雅さのかけらも見当たらない。入社した時点で、ある一定以上の給与が
保障されているのだから、気ままに仕事をしたらいいだろうにと、
ときには蔑視することもあった。
慌しく走り回る同僚たちを尻目にすると、ただ歩くというだけの行為が
とても甘い優越感にひたらせてくれるのも事実だった。
それはいつしか、かれの数少ない楽しみの一つになっていた。
オデロンはなぜ今まで気づかなかったのだろうかと後悔した。
かれらは今の自分なのだ。いつも走り回っている悪魔はいなかった。
走り回ってもどうにもならないやつは消えてゆき、次に新しい悪魔が走り出す。
“そうだったのだ。あいつらは打ち切り間近の番組スタッフだったのだ。
ちくしょう!おれはなんて愚かなんだ。そのことに早く気づいていれば、
この事態を未然に防げたかもしれないのに……”
オデロンは騒々しい廊下を一人、社長室での件を考えながら陰鬱に肩を落として歩いていた。
社長に告げられた内容は、実質リストラ宣言に他ならないとかれは考えていた。
ミミズ並みの慈悲でもあれば、3%にするべきなのだ。
だが一方では、自分でもそうするだろうとも思う。
今の地獄は不景気だ。
地上からは質の悪い魂しか落ちてこなくなったし、天使の締め付けが厳しくなったという噂も聞く。
そんな中で、ろくな数字も稼げないタレントを雇い続ける理由などないではないか。
そもそも、悪魔に慈悲を求めるほうが間違いなのだ。
オデロンはなんとか反論材料を考えようとした。
しかし、どうにもその試みは自分の状況の逼迫さをかえって露呈させるだけの
結果に終わってしまうようだ。
いつだって正論は厳しい。
かれは自己理性へのやっかみを飲み込んだ。
その後も考えれば考えるほど気分は沈みこみ、しまいには持病の胃痛がうずきだしてきた。
先日、オデロンを診た医者はストレスを原因に挙げていたが、あの診察料では怪しいところだ。
信頼を買うには安すぎる。
かといって、大金を払ってまたストレスだと告げられた日には目も当てられない。
憔悴しきったオデロンとすれ違う悪魔たちは、かれを冷やかそうか
迷ったりした者もいたが、結局はだれもかれに話しかけてこなった。
悪魔は常に、自分のことで精一杯なのだ。だれかをからかうときはきまって暇か、
なにか善からぬことを考えているかのどちらかだ。
見上げた廊下の壁には『飛行禁止』のポスターが貼ってあり、最近売れ出した
〈毒粉〉リリーの写真とともに社内規則が張り出されている。
リリー曰く、「狭い廊下での飛行は、あなたの寿命を縮めます」とのこと。
先日、当の本人が魔(ドラ)薬(ック)のやりすぎでトんでしまい、世間を騒がせたのはいい教訓となるだろう。
それでも彼女は数字をとれるタレントなのだから、オデロンの言えた義理じゃない。
“飛びすぎるのも問題だが、飛ばないのはもっと問題だぞ”
廊下の角を曲がると、その片面はガラス張りになっていて、地獄マグマから出る
赤錆色の光が差し込む中庭が見渡せるようになっていた。中庭では3人の悪魔が
楽しそうに昼食を獲っている。社内には食堂もあるが、あそこでは踊り食いが
禁止されているため、鮮度を好む者の多くは中庭に獲物を放して食事をする。
去り際に一瞥すると、耳まで裂けた口を大きく開けた悪魔が、
哀れなまだらトカゲを飲みこんでいるところだった。
ガラス張りの廊下を抜けて、さらに二回ほど角を曲がると、そこにオデロンの目的地が現れた。
袋小路の突き当たり、黒檀で作られたドアの上には
ネームプレートに、『オデロンズ・スタジオ』とある。
そこはささやかで侘しいオデロンの城だ。
MCC社では番組を持っている社員に、機材とクルー、専用スタジオを
一つ用意してくれる。そこでかれらは一致団結し、地獄の視聴者――退屈で死にそうなやつら。
主として悪魔全体にいえることだが――に娯楽性の高い暇つぶしを提供するという
仕組みになっている。もっとも、その全てが与えられた仕事を全うできるわけではない。
中にはスタッフ同士そりが合わず、翌日には全員行方不明になったり、
魔法の使用を誤り、スタジオそのものが無くなったりといった例もあり、
様々な理由で空き部屋も目立つ。もちろん、打ち切り(リストラ)でもそうだ。
視聴率が悪い制作グループは、番組を打ち切られスタジオから追い出される。
次に新人が入る。オデロンもそうやって入ってきた。
“ここの前任者がどういう結末を迎えたのかは知らないが、初めてこのスタジオに足を
踏み入れたときは、床一面に魔方陣(ラクガキ)がしてあり血と汚物でひどく汚れていた。
打ち切りじゃなさそうなんで験がいいと当時は喜んだが、けっきょくこの有様だ……”
オデロンは外れかかったプレートを直してから、ドアノブを握りしめ、それからゆっくりと回した。
日ごろから立て付けが悪く、ドアは老朽化の改善を音で陳情しようとやっきになっていたが、
オデロンはそれをうまくかわす術をすでに学んでいた。無視するに限る。
室内は暗く、暗闇が適度な湿気を含んでいて、今の気分に実によく合っていて心地よかった。
しかし、これからしなければならないことを考えると気が重くなり、
その余韻を十分に楽しむことはできなさそうだ。
オデロンはしぶしぶ明かりを点けることにした。悪魔が指を弾くと火花が飛び散った。
それは蛾のようにひらひらと火の粉をちらして飛んで行き、それぞれが備え付けの
獣脂蝋燭に羽を休めた。
たちまち部屋中に淡い光があふれ、獣脂特有の不快な香りが漂う。
すると、馴染みのある悲鳴が聞こえて、オデロンの前に影が落ちてきた。
「悪いな。考え事をしてたんだ」
天井から落ちてきたそれに向かって、オデロンはバツが悪そうに言った。
「勘弁してください」と、その悪魔は頭を振りながらもぞもぞと立ち上がった。
「鳥目なんだよ」オデロンは肩をすくめた。
「それにしたって、あなたの大事な共演者を守ってるのは僕なんですから。
いいかげん、明かりを点けるときには一声かけてくれないと困ります」
コウモリ型のフードの下で、頬がふくれているのが見える。
バッドは小柄で齢こそ若いが、優秀な録音技師だ。
暗がりを好む性質で夜目もきくため、スタジオ内に残している共演者たちの
夜間の護衛もかね、ここに住み込みで生活させている。
オデロンは小さな抗議者をよそに、暗闇から浮上してきた、馴染みのある部屋を見回した。
カメラが乗った支持台や曲がったマイクロホンアーム。
バッドが直前までぶら下がっていた7番スポットライトに、その下に散らばる生活ゴミ。
ついに満席になることがなかった閲覧者席――最高は12人だ。その日はホプキンスの家族が
息子の仕事ぶりを見たいと脅しに来ていて――。
そして、『オデロン・ザ・マッドショー』の番組セット。
舞台袖の向こうからいつも閲覧者席を覗き見ては、観客の反応から、放送時の視聴率予想をしていたものだ。
ふいに胸の奥がむずがゆくなったような気がした。
“なんてこった。おれは過去に慰めを見出そうとしているのか”
「バッド」
かれのフードに付いた耳がぴくりと動いた。
「他のやつらを呼んでこい。全員だぞ」
小さな悪魔はオデロンの声に何かを感じとったらしく、嬉々として部屋を飛び出しいて行った。
かれは優秀な録音技師だ。だが、けして才能があるという訳ではない。
従順なことこそ優秀なのだ。
オデロンはかれが早とちりしないことを願った。
もっとも、あながち間違いではなかったが。
しばらくすると『オデロンズ・スタジオ』は、“オデロンズ”でいっぱいになった。
最初に入ってきたのはホプキンスだった。かれは照明を担当していて、小柄な体で
飛び回り、自由な角度から光を当てられる技を持つホタル型悪魔だ。
なかなかのお調子者で、週末はその臀部のライトをミラーボールに変えて
クラブ〈処女の穴はしょっぱい〉に入り浸っている。人気は上々らしいと聞いている
。次はマブルだ。肥満気味の撮影主任で、〈透明の魔法〉を使えるために、
どのアングルでも映りこむことなく撮影できるカメレオン型悪魔だ。大食漢で、
舌癖が悪いところもあるが、歳が近いこともあって、オデロンにとっては
良き相棒のような存在――もちろん、お互いの利害一致によるものであり、地上に
ある友情などといった破たん寸前の国債のようなものでは断じてない――だ。
かれは無言でオデロンにウィンクを投げかけてから、閲覧者席に向かっていった。
続々と集まるスタッフたちは、皆一様に顔をほころばせながら入ってきた。
編集担当のイカ型悪魔〈八足〉タバサと、メイクスタッフの
ウミウシ型悪魔〈闘牛〉ナンシーは談笑しながら入室し、ナンシーが
歩いた後にできる床のぬめりを、コツノ一家の先行者がきれいにふき取りながら入ってくる。
後に続くのは御輿に乗ったアリ型悪魔〈あばた塚の女王〉コツノと、
その大勢の〈小さな息子〉たちだ。かれらはその組織力と人海戦術であらゆることをこなす、とても得がたいADだ。
オデロンはナンシーの軟体肌がピンク色に変色しているのを見て、自分の心配事が的中したことを確信した。
“やはり、みんな勘違いをしている”
かれらは閲覧者用の骨椅子にめいめいに座り、雑談を交えながらもオデロンの言葉を待っていた。
マブルの骨椅子はその肥満体に耐えて、かれが動くたびにギスギス鳴いている。
ナンシーの椅子は粘液だらけだ。ホプキンスとバッドは座る必要がないので、その分の椅子は
コツノの息子たちが使っている。だが、数が多すぎて、その大半は壁際に立つか、
女王の神輿を担ぐか、そのどちらかである。スタッフの瞳は一様に輝いており、
これから語られるであろう朗報の半分を推測して、くずかご海の黒真珠のように潤んでいた。
オデロンは痩せぎすのハトのように、頭を前に垂れながら部下たちの前に歩み出た。
その姿はどう見てもホームに近づく自殺志願者のようにしか見えない。
しかし、黒真珠の瞳どもには受賞者の発表をじらす着飾ったにやけ顔の司会者にでも
見えているのだろうと思うと、オデロンはこの場から逃げ出したくなった。ここにホームがあればいいのに。
オデロンは閲覧者席の前に歩み出た。そこは偶然にも、番組セットの中央、
番組でかれが視聴者に語りかける定位置だった。
「諸君、あ~、よく集まってくれた。こんな地獄日和の、こんな時間に。急な呼び出しにも関わらず――」
「ヘイ、気にすんなよ、リーダー!」
ポプキンスが囃し立てる。待ちきれなくなった一人の〈小さな息子〉が、隠し持っていた
クラッカーを鳴らしてしまい、周囲の兄弟たちに袋叩きにされた。
オデロンは両手を挙げて、興奮ぎみの部下たちを制した。
“この反応はしょうがない。おれでさえ、この報告には喜んだのだから。ムカデに叩き落されるまではな”
「え~、諸君の中には勘のいい者も何名か――そう、わかってるよナンシー、もちろんきみもだ――
いるようだが、先ほど、ボスに呼ばれて社長室に行ってきた。つまり、前回放送分の視聴率が出た訳なんだが……」
スタジオは静まり返った。オデロンは咳払いをしてから、言葉を続けた。
「前回は、1.7――」
オデロンが言い終わらないうちにわっと歓声が上がり、スタジオは宴の坩堝と化した。
「やったぞ! 1%越えだ」
今度ばかりは的確に、〈小さな息子〉たちは持参のクラッカーを次々に鳴らし始めた。
ホプキンスとバットンは部屋中を飛び回り、女王お抱えのコツノ合奏隊は『ジェーンの葬式』
を奏で始めた。タバサとナンシーはそれに合わせて軽快に踊りだしたが、
ナンシーはタバサに合わせるのに精一杯だ。
「われらがオデロン公に乾杯」
女王は神輿の上で優雅にワインを嗜み、マブルがその相手役を務めていた。
執事役の〈小さな息子〉が、周囲の兄弟にもワインを注いで回っている。
オデロンには、みなが初の1%越えに心から喜んでいるのがよくわかった。
視聴率が上がれば、それだけ番組に付いてくれるスポンサーも増える可能性がある。
そうなれば否応にも自分たちの懐も潤う。マルバはアブラバエを食べる回数を増やせるだろうし、
タバサは一流ブランドの靴をその足の数だけ買い揃えることができる。女王は愛人の数を増やし、
勢力の拡大に励めるだろう。悪魔たちが今祝福しているのは、そういった成功するであろう未来の自分だ。
それだけに、この話の結末を告げるのが、オデロンにはとても辛くなってきた。
“あの医者は胃痛の原因がストレスだといっていた。もしそれが本当なら、おれはこの後はたして生きているだろうか”
額に浮き出た汗を片手でふき取り、悪魔は懸命に話を切り出した。
「それでだ、……次回の目標を決めておこうと思うんだが」
「3%!」とホプキンスが叫んだ。かれは女王持参のワインですでにまっ赤になり、
できあがっていた。臀部の光が点滅し、ふらふらとハエのように飛んでいる。
みながどっと笑い、マブルが「それは調子に乗りすぎだ」と諫めた。
オデロンも笑おうとしたが、すでに顔がこわばりうまく笑えない。
「1.9%ってところか」
そう言ってマブルが差し出したグラスを、オデロンは震える手で受け取った。
「――5%」
喉が渇いてうまく声が出ない。
「なんだって?」
「……次の目標は、5%でいこうと思う」
一瞬、オデロンの言葉が中に浮いた。そしてまた笑いが起こった。
悪魔たちは冗談が好きだ。それがどんな類のものでも。
「おい、なんだ? ボスに教わったにしては面白いじゃないか。じゃあ、次はおれの番だな。
みんなには言ったかな? あれは〈盲腸のヒキガエルの月〉のことだった。おれが目をつけていた三つ目の悪魔が――」
「……打ち切りだ」
「おい、話はまだ始まったばかりだぞ」
「次回の放送で5%が取れなかったら、番組は打ち切られる」
そのオデロンの言葉は、まるで部屋全体を〈氷河の魔法〉でもかけたかのように凍りつかせた。
ホプキンスの尻からライトが落ちて割れた。ナンシーはすでに全身が蒼白だ。女王は卒倒してしまい、
息子たちが慌てて介抱に駆け寄る。あの冷静なタバサも驚きを隠せずにいるし、バッドは今にも泣き出しそうだ。
隣のマブルも信じられないといった様子で、その両目が飛び出している。
「そんな、馬鹿な……、視聴率は上がってたんだろ? なのに……」
「たしかに上がってはきている。だが、番組を維持し続けるには十分とはいえず……その、以前から低かったこともあって――」
突然、ナンシーが軟体の体を震わせて、わあと泣き出した。
「いやよ、いやっ! 解雇なんてあんまりだわ。無職(スライム)になるなんて私には耐えられないわよ~」
「大丈夫よ、きっと再就職できるわ」
タバサが背中をさすり、手にしたハンカチで彼女の瞳から流れる粘液をふき取りながら言った。
タバサの慰めも間違いではないが、最近の不景気を考慮するとその可能性は低そうだ。
「僕たちどうなるんです?」
「打ち切りってことは、まあ解散だ。その後は新しい雇い主を探さないといけないが、
これがちいっとばかし面倒かもな。とくにお前のような泣き虫はな」
バットにホプキンスが応えていた。
オデロンは懸命に釈明しようとした。自分にはこの悪魔たちが必要だった。
今、かれらを離すわけにはいかない。次の番組を作るためには最低限のスタッフが必要で、
新しいスタッフを入れる余裕などあるわけがない。なんとかかれらを繋ぎとめ、
次の番組制作に意欲的に取り組んでもらわなければ、その先にあるのは身の破滅だ。
「しかし、チャンスが無いわけじゃない。次回の番組をより面白いものにすれば、そうさ、5%なんてすぐ――」
「あなたでは、無理なのではなくて?」
突然の言葉にオデロンは心臓を貫かれたようなショックを受けた。
眠りから目覚めた女王は弱々しく神輿のクッションにもたれてなお、オデロンを冷たい視線と言葉で刺し貫いていた。
「過去の視聴率の低さ、これは全てあなたの力不足でしょうに。私の息子たちはよくやっています。
オデロン公、そろそろお気づきになるべきです。あなたの番組はつまらないと。
私にとって今必要なのは慰めではなく、次の雇い主を探すことになりそうですわね。今日はもう失礼いたします」
〈小さな息子〉たちに担がれて、女王の神輿はスタジオを出て行った。
オデロンは慌てて引き止めようとしたのだが、なんと言って引き止めればいいのかわからず、
そのまま見送ってしまった。彼女は本当に新しい雇い主を探しに行くのかもしれない。
アリ型悪魔の女王は人気が高い。その気になればすぐにでも再就職はできるだろう。
“いつだって正論は厳しい”
コツノ一家の大所帯がいなくなると、スタジオはゴーストタウンのように閑散となった。
次に続いたのはホプキンスだった。
「悪いな、オデロンさん。あんたには恩もあるが、まあ、そこはお互い悪魔だしな。ビジネスライクにいこうよ」
ナンシーはタバサに支えられて出て行った。
「ごめんね~、オデロンちゃん。オカマにはお金が必要なのよ~」
「私はナンシーを送って行くわ。……オデロン、気を落とさないでちょうだいね」
バッドは周囲を見回してから、慌てたようにフードを深く被りなおし、
「ごめんなさ~い」と飛んで逃げていった
“廊下は飛行禁止だというのに……”
オデロンは隣にいる太った悪魔を見た。今や残ったのはかれだけだ。
オデロンの視線に気づき、マバルは肩をすくめた。
「どんな番組でも最終回ってのは来るもんだ」
オデロンは苦笑した。
最終回はやってくる。
だが、はたしてこんな状態で無事に次回の放送を撮れるのだろうか。
もし無事に撮り終えたとして、そのあと自分はどうなるのか。
オデロンは右手で腹部をさすってみた。胃痛は無い。
かれは一人悪態をついた。
結局のところ、ここは地獄だ。
最初に入ってきたのはホプキンスだった。かれは照明を担当していて、小柄な体で
飛び回り、自由な角度から光を当てられる技を持つホタル型悪魔だ。
なかなかのお調子者で、週末はその臀部のライトをミラーボールに変えて
クラブ〈処女の穴はしょっぱい〉に入り浸っている。人気は上々らしいと聞いている
。次はマブルだ。肥満気味の撮影主任で、〈透明の魔法〉を使えるために、
どのアングルでも映りこむことなく撮影できるカメレオン型悪魔だ。大食漢で、
舌癖が悪いところもあるが、歳が近いこともあって、オデロンにとっては
良き相棒のような存在――もちろん、お互いの利害一致によるものであり、地上に
ある友情などといった破たん寸前の国債のようなものでは断じてない――だ。
かれは無言でオデロンにウィンクを投げかけてから、閲覧者席に向かっていった。
続々と集まるスタッフたちは、皆一様に顔をほころばせながら入ってきた。
編集担当のイカ型悪魔〈八足〉タバサと、メイクスタッフの
ウミウシ型悪魔〈闘牛〉ナンシーは談笑しながら入室し、ナンシーが
歩いた後にできる床のぬめりを、コツノ一家の先行者がきれいにふき取りながら入ってくる。
後に続くのは御輿に乗ったアリ型悪魔〈あばた塚の女王〉コツノと、
その大勢の〈小さな息子〉たちだ。かれらはその組織力と人海戦術であらゆることをこなす、とても得がたいADだ。
オデロンはナンシーの軟体肌がピンク色に変色しているのを見て、自分の心配事が的中したことを確信した。
“やはり、みんな勘違いをしている”
かれらは閲覧者用の骨椅子にめいめいに座り、雑談を交えながらもオデロンの言葉を待っていた。
マブルの骨椅子はその肥満体に耐えて、かれが動くたびにギスギス鳴いている。
ナンシーの椅子は粘液だらけだ。ホプキンスとバッドは座る必要がないので、その分の椅子は
コツノの息子たちが使っている。だが、数が多すぎて、その大半は壁際に立つか、
女王の神輿を担ぐか、そのどちらかである。スタッフの瞳は一様に輝いており、
これから語られるであろう朗報の半分を推測して、くずかご海の黒真珠のように潤んでいた。
オデロンは痩せぎすのハトのように、頭を前に垂れながら部下たちの前に歩み出た。
その姿はどう見てもホームに近づく自殺志願者のようにしか見えない。
しかし、黒真珠の瞳どもには受賞者の発表をじらす着飾ったにやけ顔の司会者にでも
見えているのだろうと思うと、オデロンはこの場から逃げ出したくなった。ここにホームがあればいいのに。
オデロンは閲覧者席の前に歩み出た。そこは偶然にも、番組セットの中央、
番組でかれが視聴者に語りかける定位置だった。
「諸君、あ~、よく集まってくれた。こんな地獄日和の、こんな時間に。急な呼び出しにも関わらず――」
「ヘイ、気にすんなよ、リーダー!」
ポプキンスが囃し立てる。待ちきれなくなった一人の〈小さな息子〉が、隠し持っていた
クラッカーを鳴らしてしまい、周囲の兄弟たちに袋叩きにされた。
オデロンは両手を挙げて、興奮ぎみの部下たちを制した。
“この反応はしょうがない。おれでさえ、この報告には喜んだのだから。ムカデに叩き落されるまではな”
「え~、諸君の中には勘のいい者も何名か――そう、わかってるよナンシー、もちろんきみもだ――
いるようだが、先ほど、ボスに呼ばれて社長室に行ってきた。つまり、前回放送分の視聴率が出た訳なんだが……」
スタジオは静まり返った。オデロンは咳払いをしてから、言葉を続けた。
「前回は、1.7――」
オデロンが言い終わらないうちにわっと歓声が上がり、スタジオは宴の坩堝と化した。
「やったぞ! 1%越えだ」
今度ばかりは的確に、〈小さな息子〉たちは持参のクラッカーを次々に鳴らし始めた。
ホプキンスとバットンは部屋中を飛び回り、女王お抱えのコツノ合奏隊は『ジェーンの葬式』
を奏で始めた。タバサとナンシーはそれに合わせて軽快に踊りだしたが、
ナンシーはタバサに合わせるのに精一杯だ。
「われらがオデロン公に乾杯」
女王は神輿の上で優雅にワインを嗜み、マブルがその相手役を務めていた。
執事役の〈小さな息子〉が、周囲の兄弟にもワインを注いで回っている。
オデロンには、みなが初の1%越えに心から喜んでいるのがよくわかった。
視聴率が上がれば、それだけ番組に付いてくれるスポンサーも増える可能性がある。
そうなれば否応にも自分たちの懐も潤う。マルバはアブラバエを食べる回数を増やせるだろうし、
タバサは一流ブランドの靴をその足の数だけ買い揃えることができる。女王は愛人の数を増やし、
勢力の拡大に励めるだろう。悪魔たちが今祝福しているのは、そういった成功するであろう未来の自分だ。
それだけに、この話の結末を告げるのが、オデロンにはとても辛くなってきた。
“あの医者は胃痛の原因がストレスだといっていた。もしそれが本当なら、おれはこの後はたして生きているだろうか”
額に浮き出た汗を片手でふき取り、悪魔は懸命に話を切り出した。
「それでだ、……次回の目標を決めておこうと思うんだが」
「3%!」とホプキンスが叫んだ。かれは女王持参のワインですでにまっ赤になり、
できあがっていた。臀部の光が点滅し、ふらふらとハエのように飛んでいる。
みながどっと笑い、マブルが「それは調子に乗りすぎだ」と諫めた。
オデロンも笑おうとしたが、すでに顔がこわばりうまく笑えない。
「1.9%ってところか」
そう言ってマブルが差し出したグラスを、オデロンは震える手で受け取った。
「――5%」
喉が渇いてうまく声が出ない。
「なんだって?」
「……次の目標は、5%でいこうと思う」
一瞬、オデロンの言葉が中に浮いた。そしてまた笑いが起こった。
悪魔たちは冗談が好きだ。それがどんな類のものでも。
「おい、なんだ? ボスに教わったにしては面白いじゃないか。じゃあ、次はおれの番だな。
みんなには言ったかな? あれは〈盲腸のヒキガエルの月〉のことだった。おれが目をつけていた三つ目の悪魔が――」
「……打ち切りだ」
「おい、話はまだ始まったばかりだぞ」
「次回の放送で5%が取れなかったら、番組は打ち切られる」
そのオデロンの言葉は、まるで部屋全体を〈氷河の魔法〉でもかけたかのように凍りつかせた。
ホプキンスの尻からライトが落ちて割れた。ナンシーはすでに全身が蒼白だ。女王は卒倒してしまい、
息子たちが慌てて介抱に駆け寄る。あの冷静なタバサも驚きを隠せずにいるし、バッドは今にも泣き出しそうだ。
隣のマブルも信じられないといった様子で、その両目が飛び出している。
「そんな、馬鹿な……、視聴率は上がってたんだろ? なのに……」
「たしかに上がってはきている。だが、番組を維持し続けるには十分とはいえず……その、以前から低かったこともあって――」
突然、ナンシーが軟体の体を震わせて、わあと泣き出した。
「いやよ、いやっ! 解雇なんてあんまりだわ。無職(スライム)になるなんて私には耐えられないわよ~」
「大丈夫よ、きっと再就職できるわ」
タバサが背中をさすり、手にしたハンカチで彼女の瞳から流れる粘液をふき取りながら言った。
タバサの慰めも間違いではないが、最近の不景気を考慮するとその可能性は低そうだ。
「僕たちどうなるんです?」
「打ち切りってことは、まあ解散だ。その後は新しい雇い主を探さないといけないが、
これがちいっとばかし面倒かもな。とくにお前のような泣き虫はな」
バットにホプキンスが応えていた。
オデロンは懸命に釈明しようとした。自分にはこの悪魔たちが必要だった。
今、かれらを離すわけにはいかない。次の番組を作るためには最低限のスタッフが必要で、
新しいスタッフを入れる余裕などあるわけがない。なんとかかれらを繋ぎとめ、
次の番組制作に意欲的に取り組んでもらわなければ、その先にあるのは身の破滅だ。
「しかし、チャンスが無いわけじゃない。次回の番組をより面白いものにすれば、そうさ、5%なんてすぐ――」
「あなたでは、無理なのではなくて?」
突然の言葉にオデロンは心臓を貫かれたようなショックを受けた。
眠りから目覚めた女王は弱々しく神輿のクッションにもたれてなお、オデロンを冷たい視線と言葉で刺し貫いていた。
「過去の視聴率の低さ、これは全てあなたの力不足でしょうに。私の息子たちはよくやっています。
オデロン公、そろそろお気づきになるべきです。あなたの番組はつまらないと。
私にとって今必要なのは慰めではなく、次の雇い主を探すことになりそうですわね。今日はもう失礼いたします」
〈小さな息子〉たちに担がれて、女王の神輿はスタジオを出て行った。
オデロンは慌てて引き止めようとしたのだが、なんと言って引き止めればいいのかわからず、
そのまま見送ってしまった。彼女は本当に新しい雇い主を探しに行くのかもしれない。
アリ型悪魔の女王は人気が高い。その気になればすぐにでも再就職はできるだろう。
“いつだって正論は厳しい”
コツノ一家の大所帯がいなくなると、スタジオはゴーストタウンのように閑散となった。
次に続いたのはホプキンスだった。
「悪いな、オデロンさん。あんたには恩もあるが、まあ、そこはお互い悪魔だしな。ビジネスライクにいこうよ」
ナンシーはタバサに支えられて出て行った。
「ごめんね~、オデロンちゃん。オカマにはお金が必要なのよ~」
「私はナンシーを送って行くわ。……オデロン、気を落とさないでちょうだいね」
バッドは周囲を見回してから、慌てたようにフードを深く被りなおし、
「ごめんなさ~い」と飛んで逃げていった
“廊下は飛行禁止だというのに……”
オデロンは隣にいる太った悪魔を見た。今や残ったのはかれだけだ。
オデロンの視線に気づき、マバルは肩をすくめた。
「どんな番組でも最終回ってのは来るもんだ」
オデロンは苦笑した。
最終回はやってくる。
だが、はたしてこんな状態で無事に次回の放送を撮れるのだろうか。
もし無事に撮り終えたとして、そのあと自分はどうなるのか。
オデロンは右手で腹部をさすってみた。胃痛は無い。
かれは一人悪態をついた。
結局のところ、ここは地獄だ。
そのバーは〈闇なべ〉という名前だった。〈ネズミの聖人通り〉から
裏路地に入り、さらに角を2回ほど曲がり、花崗岩の岩をくりぬいた
階段を下へとおりていく。突き当たりにドアがあり、そこまでくると
上の溶岩光はとどいておらずひどく薄暗かった。ぼんやりした黄緑の
発光色で、ドアに“光り物厳禁!”と書いてある。
「有名人(スター)はお断りだとよ」
肥満ぎみの悪魔はオデロンを見てにやけながらドアを開けた。
オデロンは肩をすくめた。マブルに誘われるがままについてきたが、
この悪魔がどんどん治安の悪いほうへと進んでいくものだから、
少々肝を冷やしていたところだ。皮肉の一つくらいどうってことはない。
「今のおれになら、フクロウだってぶつかるさ」
マブルに続いて店内に入ると、そこはさらに暗かった。まるで墨で作った
綿アメを詰め込んだかのように暗い。静かな調べが店内に流れてはいるが、
それがどこからなのかオデロンには見当がつかなかった。何もかもが
暗いため、マブルが“洒落た店だ”と言った理由を探すのはかなり
骨が折れそうだ。いくつかの影がゆらゆらと揺れているのが見える。
オデロンは客か店員だろうと思うことにした。
マブルはオデロンをカウンター席に誘った。途中、オデロンは2度ほど
何かもぞもぞ動くものにつまずいたが、なんとか椅子らしき物に
腰を落ち着けることができた。
「それで? これからどうするんだ」
マブルは指を鳴らしてバーテンダーを呼んだ。
「それで、とは?」オデロンは声のするほうへ応えた。まだ目が慣れないのだ。
「おいおい、オデロン。まさか、おれがおまえを口説くために
ここに連れてきたんだと思ってやしないだろうな、ええ?
ここなら誰も他のやつの顔なんか見やしないし見えやしない。
おれたちの今後を話すのに最適だろう」
「ああ」とオデロンは納得した。確かに〈闇なべ〉なら会話を盗み聞きされる
心配は少ないように思えた。ましてや、相手の顔が見えないならなおさらだ。
そのとき、二匹の間にすうっと二つの白い光が浮かび上がってきた。
オデロンは照明かと思い、目を凝らして見て心臓が飛び出しそうになった。
顔がある! 二つの光は眼光だったのだ。
「あら、マブルちゃん。しばらく見ないうちにそっちのほうになったわけ?」
「いや、違うんだシーラス。そういう話じゃないんだ、勘違いするなよ」
光の届かない場所に棲む魚類特有の、白く濁ったような目で、
シーラスは二匹を交互に見つめた。顔から下は暗闇に溶け込んで
よく見えなかったが、なかなかの美人らしかった。彼女は「はじめまして」
とオデロンに微笑んでみせた。口の端が大きく裂けて、
細かい無数の牙がちらちら光る。実に魅力的だ。
「だって、こちらの方、ちょっと素敵なんですもの」
白い瞳に見つめられて、オデロンは悪い気がしなかった。
「なんだって!? この前はおれが一番だと言ってたじゃないか」
「運命の出会いって唐突にくるものなのよ、マブルちゃん。
暗い場所なら、なおさらね」
「いつか君の体を見せてくれるって言ってたのになあ……。
〈ローテンラヴ〉を二つくれ」
マブルは肩を落としてつぶやいた。
「あら、まさか本当に見たいわけじゃないでしょう?」
シーラスは悪戯な笑みを見せながら背後の暗がりに沈んでいった。
マブルは少しショクを受けたような顔をしていたが、彼女がいなくなると、
とたんにニヤニヤしだした。
「彼女の体は透けてるって噂だ。つまり、腹の中が丸見えなんだ。
丸見えだぞ、おい! 食事中だったりすると未消化の物が
見えたりするらしいが、なに、そいつと目を合わせなきゃ
問題無いだろうさ。おっと、きたきた」
グラスが運ばれてくると、オデロンたちはひとまず乾杯した。
焼け付くようなアルコールが喉に流し込まれると、落ち込んだ気分が
なんだか少し楽になってきた。このまま飲み続けていれば、
嫌なことも無くなりそうな気さえしてくる。
もっとも、酔いが醒めたときには、全てが無くなっていそうだけども。
「正直、前回のはいけそうな気がしてたんだよ。
まだ誰もやったことがないジャンルだったろ?
うまくいけば悲鳴ぐらい聞けると思ったんだ。本当さ」
「まあ、実際悪くなかったと思うぜ。過去最高点を叩き出したわけだしな。
だが、次もあのままってわけにはいかないだろうな。
一部の――それも極々一部、ノミの鼻くそ程度の――ファンのために
植物を拷問するのはおしまいだ。
クヌギの木を火あぶりにしたときのことを覚えてるか?
あいつら『ぷすぷす』としか言わないで木炭になっちまいやがった。
『ぷすぷす』だぞ! ああ、でも、その後のバーベキューは美味かったよなぁ」
マブルはそのときの味を反芻するかのように、恍惚とした表情を
浮かべてグラスを傾けていた。オデロンもグラスを傾け、
中に入っている氷を見つめた。それはからからと音をたててゆれ、
淡い藍色に発光するブランデーの光を
反射して輝いた。深海に眠るダイヤモンドのようだ。
きっと誰かが落としたのだろうと、オデロンは思った。
“おれでないことを祈ろう”
「つまり、他のやつらと同じように魂を拷問するだけの
番組に戻せって言いたいのか」
酔いが回ってきたのだろうか。
オデロンは頬が少し熱くなっているのを感じた。
「何がいけないんだ?」
「どこもそれしかやってない」
「地獄だしな。安定した数字がとれる。いいじゃないか」
マブルは諭すように言って、ブランデーを口にした。気がつけば、
流れる曲は入店時とは違うものになっていた。どちらにしろ物悲しい調べだった。
奥の暗闇からはある種のゲームに勝った悪魔が、
意気揚々と相手のホステスを連れ出そうとしている。
「おれ達は悪魔だ、オデロン。地上から堕ちてきた魂を
拷問するのが仕事だ。そうだろ? そのうち、誰かがそれを
魔力に乗せて放送することを思いつき、MC社のような会社が
どんどん作られていった。それから退屈だった時間は一変した。
規則正しく亡者のケツを叩いていた悪魔が、
サンバのリズミでケツを叩くようになった。血の池に放り込むときにゃ、
何回跳ねさせることができるか競う番組もある。
エミーバーンはあれで有名になったな、覚えてるだろ?
だが、やることは何も変わってやしない。地獄と一緒だ。
悪魔は変わらない。永劫、罪深き魂を蹂躙することに喜びを感じ、
常に悪であれ。悪魔法1条にして原則だ」
「ご高説をどうも」
「ふてくされるのはよせ! 何がそんなに気にいらないってんだ」
「じゃあ聞くがね。おまえはつまらないと感じたことはないのか?
どいつもこいつも拷問、拷問、口を開けば拷問だ。
水気のないナメクジみたいな魂をいたぶって何が楽しい?
パンチか? キックか? 次はどんな方法で悲鳴を搾り出すんだ?
まだまだ地獄に魂はどっさりあるぞ。
もう飽き飽きだ! いや、おれだって昔は楽しんでたさ。
……ただ、最近はそうでもないってだけだ。
もっと楽しいことがあるんじゃないかって。
うまく言えないけど……。コレ、けっこう強いんだな」
グラスの口をなぞりながら、オデロンはため息をついた。
自分でも馬鹿なことを言っている気がしたので、
マブルの顔は見たくなかった。
仄かなブランデーの光に照らされたカメレオンの目玉が、
ぐるぐると不安そうに動いてる。
「まあいいさ、今夜は飲めよ。どのみちリーダーはおまえだ。
おれは最後までつきあうぜ」
「ありがたいね。けど、安心してくれ。次で最後なんだ」
オデロンはけっしてネガティブではなかった。
けれども、次回の放送時に視聴率を3倍にする夢のような
名案が浮かばない以上、首をどんなにひねってみても次が
自分にとっての最終回である気がしてならなかった。
硝酸のようなアルコールの熱がひいていくと、
不安の鉤爪が心臓を捉えている感触がより鮮明に浮かび上がってくる。
まるで四六時中、無数の飢えたヒルに希望を吸われ続けているような気分だ。
それから2匹の悪魔は次回の『オデロン・ザ・マッドショー』の
企画を熱心に話し合った。オデロンはいまだにぶつくさ不満を
こぼしたが、マブルの意見はとうてい無視できるものではなく、
結局のところ、話は『くすぐり地獄』や
『便器隠し』など、魂の拷問方法の選別に終始していた。
そのとき、〈闇なべ〉の入り口からカウンターまで光がすっと差し込んできた。
オデロンは反射的に入り口をふり返ったが、逆光で誰が入ってきたのか
よく見えなかった。それでも後に聞こえてきたダミ声と、
マブルが酷い悪態をついたので、誰が入ってきたのかすぐに見当がついた。
「おやおやおや、まさか? 誰かと思えばオデロンじゃないか」
「ダニゲーか」
オデロンは目を細めて唸った。戸口に立っている同僚の
トカゲ型悪魔は、その鱗が外の弱い溶岩光の中でも
メッキ的な銀光を放っていた。好調ぶりをひけらかすように、
両脇にはどこかでひっかけてきた派手な女悪魔を2匹つれ、
それとダニゲーの腰の高さまでしかないAD,
ネズミ型悪魔ラッド・ラッドが鼻をひくひくさせて入ってきた。
オデロンは思わず、入り口のドアをにらまずにはいられなかった。
“光り物厳禁じゃなかったのか!”
一行は店内に入り、暗がりに沈みこんだが、
ダニゲーだけはまだおぼろげに光っていた。
「まさか、こんなところで会うなんてな。
鳥目が治ったなんて聞いてないぜ」
ダニゲーはさも、オデロンが自分と同じ店にいるのが
場違いなように驚いてみせた。
それからオデロンの隣の空席とグラスに目を移して
嘲るような笑みを浮かべた。
「相手にも逃げられたか」
オデロンはさっとマブルのほうを向いたが、そこには何も見えなかった。
オデロンは非難するようにその場所をにらんでから、
やがてため息をついて向き直った。
「ああ、ほんと、信じられないよ」
だが、ダニゲーはオデロンの言葉を聞いていなかった。
喉元までもってきた言葉を吐き出したくてうずうずしてるのが見え見えだ。
嫌な予感がする。
“ああ、まさか。勘弁してくれ”
「そういやあ会社でな、おまえんとこのコウモリ小僧を見かけたんだが
ずいぶん慌てててたな。ありゃなんだ?」
「帰り道を忘れたんだろ。よくあることさ。
超音波の跳ね返りが悪いんだとよ」
オデロンは精一杯の虚勢を張ってみせたが、トカゲの瞳はちろちろと
残忍な光を灯しはじめていた。口元をすばやく舌が舐めていった。
「だろうな。来週にはおまえのスタジオが消えて無くなるんだってなあ、
オデロン。そりゃあの小僧も帰り道がわからなくなるだろうよ。
どうしたその顔は? おれが知らないとでも思ったか、え?
あの錆だらけの恋人は助けてくれなかったか。とうとうボスに見限られたな!
それとも、おっきなネコちゃんの毛繕いしてやるのを忘れちまったのか?」
同伴の女悪魔達が声をあげて笑い出した。ダニゲーは自分の煽り文句の
反応にご満悦のようだ。ラッド・ラッドは“おっきなネコちゃん”の件に
ビクついていたが、周囲にネコがいないとわかると、後を追って笑い出した。
それから悪魔たちは奥の暗がりに消えていった。
だが、ダニゲーが自分の尻尾をひっこ抜き、また生やすという特技を
披露するたびに拍手喝采や、ラッド・ラッドのおべんちゃらが聞こえてくる。
分厚い静寂の層が下品な騒音に破られたことで、カウンターの奥から
シーラスが堪らないといったように這い出してきた。
オデロンは彼女に代金を2人分払って出口に向かった。
背後からダニゲーが呼びかける。
「もう帰るのか? しっかり楽しんでいけよオデロン。これが最後なんだろ?」
ダニゲーの周囲でまた笑い声が上がった。
そのときにはオデロンはドアの半分を開けていたので、逆光に差し込まれ
今度はかれが目を細める番になった。
もし、ダニゲーがオデロンの顔をまともに見ることができたなら、
その瞳の奥に意志の光が燃え上がるのを見たことだろう。
「悪いなダニゲー、次で最後なんだ」
オデロンはそう言って、暗く深い鍋底に蓋をした。
裏路地に入り、さらに角を2回ほど曲がり、花崗岩の岩をくりぬいた
階段を下へとおりていく。突き当たりにドアがあり、そこまでくると
上の溶岩光はとどいておらずひどく薄暗かった。ぼんやりした黄緑の
発光色で、ドアに“光り物厳禁!”と書いてある。
「有名人(スター)はお断りだとよ」
肥満ぎみの悪魔はオデロンを見てにやけながらドアを開けた。
オデロンは肩をすくめた。マブルに誘われるがままについてきたが、
この悪魔がどんどん治安の悪いほうへと進んでいくものだから、
少々肝を冷やしていたところだ。皮肉の一つくらいどうってことはない。
「今のおれになら、フクロウだってぶつかるさ」
マブルに続いて店内に入ると、そこはさらに暗かった。まるで墨で作った
綿アメを詰め込んだかのように暗い。静かな調べが店内に流れてはいるが、
それがどこからなのかオデロンには見当がつかなかった。何もかもが
暗いため、マブルが“洒落た店だ”と言った理由を探すのはかなり
骨が折れそうだ。いくつかの影がゆらゆらと揺れているのが見える。
オデロンは客か店員だろうと思うことにした。
マブルはオデロンをカウンター席に誘った。途中、オデロンは2度ほど
何かもぞもぞ動くものにつまずいたが、なんとか椅子らしき物に
腰を落ち着けることができた。
「それで? これからどうするんだ」
マブルは指を鳴らしてバーテンダーを呼んだ。
「それで、とは?」オデロンは声のするほうへ応えた。まだ目が慣れないのだ。
「おいおい、オデロン。まさか、おれがおまえを口説くために
ここに連れてきたんだと思ってやしないだろうな、ええ?
ここなら誰も他のやつの顔なんか見やしないし見えやしない。
おれたちの今後を話すのに最適だろう」
「ああ」とオデロンは納得した。確かに〈闇なべ〉なら会話を盗み聞きされる
心配は少ないように思えた。ましてや、相手の顔が見えないならなおさらだ。
そのとき、二匹の間にすうっと二つの白い光が浮かび上がってきた。
オデロンは照明かと思い、目を凝らして見て心臓が飛び出しそうになった。
顔がある! 二つの光は眼光だったのだ。
「あら、マブルちゃん。しばらく見ないうちにそっちのほうになったわけ?」
「いや、違うんだシーラス。そういう話じゃないんだ、勘違いするなよ」
光の届かない場所に棲む魚類特有の、白く濁ったような目で、
シーラスは二匹を交互に見つめた。顔から下は暗闇に溶け込んで
よく見えなかったが、なかなかの美人らしかった。彼女は「はじめまして」
とオデロンに微笑んでみせた。口の端が大きく裂けて、
細かい無数の牙がちらちら光る。実に魅力的だ。
「だって、こちらの方、ちょっと素敵なんですもの」
白い瞳に見つめられて、オデロンは悪い気がしなかった。
「なんだって!? この前はおれが一番だと言ってたじゃないか」
「運命の出会いって唐突にくるものなのよ、マブルちゃん。
暗い場所なら、なおさらね」
「いつか君の体を見せてくれるって言ってたのになあ……。
〈ローテンラヴ〉を二つくれ」
マブルは肩を落としてつぶやいた。
「あら、まさか本当に見たいわけじゃないでしょう?」
シーラスは悪戯な笑みを見せながら背後の暗がりに沈んでいった。
マブルは少しショクを受けたような顔をしていたが、彼女がいなくなると、
とたんにニヤニヤしだした。
「彼女の体は透けてるって噂だ。つまり、腹の中が丸見えなんだ。
丸見えだぞ、おい! 食事中だったりすると未消化の物が
見えたりするらしいが、なに、そいつと目を合わせなきゃ
問題無いだろうさ。おっと、きたきた」
グラスが運ばれてくると、オデロンたちはひとまず乾杯した。
焼け付くようなアルコールが喉に流し込まれると、落ち込んだ気分が
なんだか少し楽になってきた。このまま飲み続けていれば、
嫌なことも無くなりそうな気さえしてくる。
もっとも、酔いが醒めたときには、全てが無くなっていそうだけども。
「正直、前回のはいけそうな気がしてたんだよ。
まだ誰もやったことがないジャンルだったろ?
うまくいけば悲鳴ぐらい聞けると思ったんだ。本当さ」
「まあ、実際悪くなかったと思うぜ。過去最高点を叩き出したわけだしな。
だが、次もあのままってわけにはいかないだろうな。
一部の――それも極々一部、ノミの鼻くそ程度の――ファンのために
植物を拷問するのはおしまいだ。
クヌギの木を火あぶりにしたときのことを覚えてるか?
あいつら『ぷすぷす』としか言わないで木炭になっちまいやがった。
『ぷすぷす』だぞ! ああ、でも、その後のバーベキューは美味かったよなぁ」
マブルはそのときの味を反芻するかのように、恍惚とした表情を
浮かべてグラスを傾けていた。オデロンもグラスを傾け、
中に入っている氷を見つめた。それはからからと音をたててゆれ、
淡い藍色に発光するブランデーの光を
反射して輝いた。深海に眠るダイヤモンドのようだ。
きっと誰かが落としたのだろうと、オデロンは思った。
“おれでないことを祈ろう”
「つまり、他のやつらと同じように魂を拷問するだけの
番組に戻せって言いたいのか」
酔いが回ってきたのだろうか。
オデロンは頬が少し熱くなっているのを感じた。
「何がいけないんだ?」
「どこもそれしかやってない」
「地獄だしな。安定した数字がとれる。いいじゃないか」
マブルは諭すように言って、ブランデーを口にした。気がつけば、
流れる曲は入店時とは違うものになっていた。どちらにしろ物悲しい調べだった。
奥の暗闇からはある種のゲームに勝った悪魔が、
意気揚々と相手のホステスを連れ出そうとしている。
「おれ達は悪魔だ、オデロン。地上から堕ちてきた魂を
拷問するのが仕事だ。そうだろ? そのうち、誰かがそれを
魔力に乗せて放送することを思いつき、MC社のような会社が
どんどん作られていった。それから退屈だった時間は一変した。
規則正しく亡者のケツを叩いていた悪魔が、
サンバのリズミでケツを叩くようになった。血の池に放り込むときにゃ、
何回跳ねさせることができるか競う番組もある。
エミーバーンはあれで有名になったな、覚えてるだろ?
だが、やることは何も変わってやしない。地獄と一緒だ。
悪魔は変わらない。永劫、罪深き魂を蹂躙することに喜びを感じ、
常に悪であれ。悪魔法1条にして原則だ」
「ご高説をどうも」
「ふてくされるのはよせ! 何がそんなに気にいらないってんだ」
「じゃあ聞くがね。おまえはつまらないと感じたことはないのか?
どいつもこいつも拷問、拷問、口を開けば拷問だ。
水気のないナメクジみたいな魂をいたぶって何が楽しい?
パンチか? キックか? 次はどんな方法で悲鳴を搾り出すんだ?
まだまだ地獄に魂はどっさりあるぞ。
もう飽き飽きだ! いや、おれだって昔は楽しんでたさ。
……ただ、最近はそうでもないってだけだ。
もっと楽しいことがあるんじゃないかって。
うまく言えないけど……。コレ、けっこう強いんだな」
グラスの口をなぞりながら、オデロンはため息をついた。
自分でも馬鹿なことを言っている気がしたので、
マブルの顔は見たくなかった。
仄かなブランデーの光に照らされたカメレオンの目玉が、
ぐるぐると不安そうに動いてる。
「まあいいさ、今夜は飲めよ。どのみちリーダーはおまえだ。
おれは最後までつきあうぜ」
「ありがたいね。けど、安心してくれ。次で最後なんだ」
オデロンはけっしてネガティブではなかった。
けれども、次回の放送時に視聴率を3倍にする夢のような
名案が浮かばない以上、首をどんなにひねってみても次が
自分にとっての最終回である気がしてならなかった。
硝酸のようなアルコールの熱がひいていくと、
不安の鉤爪が心臓を捉えている感触がより鮮明に浮かび上がってくる。
まるで四六時中、無数の飢えたヒルに希望を吸われ続けているような気分だ。
それから2匹の悪魔は次回の『オデロン・ザ・マッドショー』の
企画を熱心に話し合った。オデロンはいまだにぶつくさ不満を
こぼしたが、マブルの意見はとうてい無視できるものではなく、
結局のところ、話は『くすぐり地獄』や
『便器隠し』など、魂の拷問方法の選別に終始していた。
そのとき、〈闇なべ〉の入り口からカウンターまで光がすっと差し込んできた。
オデロンは反射的に入り口をふり返ったが、逆光で誰が入ってきたのか
よく見えなかった。それでも後に聞こえてきたダミ声と、
マブルが酷い悪態をついたので、誰が入ってきたのかすぐに見当がついた。
「おやおやおや、まさか? 誰かと思えばオデロンじゃないか」
「ダニゲーか」
オデロンは目を細めて唸った。戸口に立っている同僚の
トカゲ型悪魔は、その鱗が外の弱い溶岩光の中でも
メッキ的な銀光を放っていた。好調ぶりをひけらかすように、
両脇にはどこかでひっかけてきた派手な女悪魔を2匹つれ、
それとダニゲーの腰の高さまでしかないAD,
ネズミ型悪魔ラッド・ラッドが鼻をひくひくさせて入ってきた。
オデロンは思わず、入り口のドアをにらまずにはいられなかった。
“光り物厳禁じゃなかったのか!”
一行は店内に入り、暗がりに沈みこんだが、
ダニゲーだけはまだおぼろげに光っていた。
「まさか、こんなところで会うなんてな。
鳥目が治ったなんて聞いてないぜ」
ダニゲーはさも、オデロンが自分と同じ店にいるのが
場違いなように驚いてみせた。
それからオデロンの隣の空席とグラスに目を移して
嘲るような笑みを浮かべた。
「相手にも逃げられたか」
オデロンはさっとマブルのほうを向いたが、そこには何も見えなかった。
オデロンは非難するようにその場所をにらんでから、
やがてため息をついて向き直った。
「ああ、ほんと、信じられないよ」
だが、ダニゲーはオデロンの言葉を聞いていなかった。
喉元までもってきた言葉を吐き出したくてうずうずしてるのが見え見えだ。
嫌な予感がする。
“ああ、まさか。勘弁してくれ”
「そういやあ会社でな、おまえんとこのコウモリ小僧を見かけたんだが
ずいぶん慌てててたな。ありゃなんだ?」
「帰り道を忘れたんだろ。よくあることさ。
超音波の跳ね返りが悪いんだとよ」
オデロンは精一杯の虚勢を張ってみせたが、トカゲの瞳はちろちろと
残忍な光を灯しはじめていた。口元をすばやく舌が舐めていった。
「だろうな。来週にはおまえのスタジオが消えて無くなるんだってなあ、
オデロン。そりゃあの小僧も帰り道がわからなくなるだろうよ。
どうしたその顔は? おれが知らないとでも思ったか、え?
あの錆だらけの恋人は助けてくれなかったか。とうとうボスに見限られたな!
それとも、おっきなネコちゃんの毛繕いしてやるのを忘れちまったのか?」
同伴の女悪魔達が声をあげて笑い出した。ダニゲーは自分の煽り文句の
反応にご満悦のようだ。ラッド・ラッドは“おっきなネコちゃん”の件に
ビクついていたが、周囲にネコがいないとわかると、後を追って笑い出した。
それから悪魔たちは奥の暗がりに消えていった。
だが、ダニゲーが自分の尻尾をひっこ抜き、また生やすという特技を
披露するたびに拍手喝采や、ラッド・ラッドのおべんちゃらが聞こえてくる。
分厚い静寂の層が下品な騒音に破られたことで、カウンターの奥から
シーラスが堪らないといったように這い出してきた。
オデロンは彼女に代金を2人分払って出口に向かった。
背後からダニゲーが呼びかける。
「もう帰るのか? しっかり楽しんでいけよオデロン。これが最後なんだろ?」
ダニゲーの周囲でまた笑い声が上がった。
そのときにはオデロンはドアの半分を開けていたので、逆光に差し込まれ
今度はかれが目を細める番になった。
もし、ダニゲーがオデロンの顔をまともに見ることができたなら、
その瞳の奥に意志の光が燃え上がるのを見たことだろう。
「悪いなダニゲー、次で最後なんだ」
オデロンはそう言って、暗く深い鍋底に蓋をした。