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祖母の家の近くには小さな森がこんもりと茂っている。その外れには古ぼけた井戸がある。あんなものとっくに枯れてしまったよ、と祖母は言う。だからあまり近寄らないようにな、とも。
けれどそこは木々に囲まれて、日溜まりの温かい、とても静かな場所だから、晴れの日にたびたび訪れては、石の壁にもたれて本を読んだり、昼寝したり、そんなことをして時間を潰していた。
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その日は朝から井戸まで出かけて、安部公房の「壁」を読んでいた。アリスをモチーフとした超現実的な小説は、頭の中の妙な部分をうにうにと刺激して、なんとも言い表しがたいある種の異様な心地にしてくれる。
それがいけなかったのかもしれない。
旅人の幻覚を見た。
「こんにちは、お兄さん」
旅人は、ボーダーのタイトなTシャツとレギンスとを身にまとった、ショートカットの可愛らしく揺れる小さな女の子だった。肩にかけたピンクのポーチから、星屑のような石が覗いている。
「こんにちは、旅人さん。どこまで行くんだい?」
「友達のところへ遊びに参りました。世界を横に一周してきたのです。ついこの間帰ってきたばかりなのですが、心配しているといけないので……」
そう語る少女の顔はあまりにも嬉しげで、その友達に対する崇拝にも近い好意のほどが伺えた。
「そっか。仲がいいんだね」
旅人は照れたようにほほをぽりぽり引っ掻いて、
「いえ、それほどでもないですよ」
と、すこし誇らしげに笑った。友人との仲を認められたのがよっぽど嬉しかったのか、頼んでもいないのにポーチを開くと、中から例の、あの星屑のような、神秘的な輝きを秘める石を取り出した。日光の下にさらされるとその幻想性はより強まって、石灰色のごつごつとした突起の隙間からまき散らされる青白い燐光――まるで明け方の宇宙じみた空の色のような――が、少女の白くか細い指先を照らして、その例えようもない美しさに息をのんだ。
「お近づきの印にこれをあげましょう」
「……それは?」
「真昼の星です」
ぽん、とてのひらに石がのせられる。僕の無骨な指の上にあってなお色気を失わない静謐な輝きは、いくら見ても飽きることはなかった。
「真昼の星、とは?」
「空より落ちてきた星のことです。昼なおまばゆいこの輝きを称え、古の詩人がそう呼びあらわしたのです」
「空より落ちてきた……? なんとも意味深だね。隕石のことかい?」
「隕石ではないのです」
少女はこほん、と小さく咳払いをする。それからまるで世界の秘密を解き明かす哲学者のような口ぶりで、滔々とよどみなく、きらきらときらめくとある情景を語った。
「西の彼方には星降る砂漠と呼ばれる土地があります。そこは決して夜の明けることのない、砂と石と星だけで構成された不毛な大地です。あらゆる生命の墓場、と畏怖される世界です。
しかしそこはまた同時に、何者にも穢されない、いかにも静かな、いかにも深遠な、胸の奥をさみしくさせる壮麗な景色でもあります。
雨の代わりに星が降るのです。地表一杯に積もった星は、わたしたちの視界を、夜明けを染める薄明のような、無限に広がる宇宙のような、どこまでも薄い群青色で塗りつぶすのです。
そのせつない輝きに、わたしたちはただただ呆けてうっとり見とれることしかできません」
声は次第にささやきへと変わっていって、耳を傾ける僕はいつしか心まで奪われ、脳裏に広がる圧倒的な光景に恍惚とするあまり、しばらく呼吸をすることすら忘れていた。ハッと気づいて、現実に視線を戻せば、目の前近くには少女の顔が迫っていて、思わず後ろにひいてしまって、ごつん、と井戸に頭をぶつけた。
旅人は口をとがらせ抗議する。
「なんで逃げるんですか」
「いやいや、あんな近くに顔があったら、普通はびっくり驚くだろうよ」
「そもそもぼーっとしていたのが悪いんですよ。わたしの話、ちゃんと聞いてくれたんですか?」
「いやいやいやいや、聞いてたよ、もちろん」
「本当ですか?」
ぐい、と少女は再び顔を近づける。さきほどよりももっと近い。零にはほど遠いけれど、一よりはずっと短い、そんな閉じた距離。その小さな唇から漏れる吐息は湿って温かく、ほのかに甘酸っぱい匂いがする。遠近法で、大きな目がさらにまんまるで、そのわずかに潤んだ視線が僕をじっと見つめている。
心臓の鼓動まで空気伝搬してしまいそうな数瞬、ふたり、じっとにらみ合って。
にいっ、と少女は笑った。
「まあ、いいでしょう」
言うと、捕らえる間もなくスッと離れていって、距離に空白が生まれる。安堵するのと同時に、どこか物足りないような、ひっそりと心細いような、不可解な空間が胸に溢れた。
「では、それはお兄さんにプレゼントです」
「ありがとう。……でも、いいのかい? 貴重なものなんじゃないのかな?」
「ご心配には及びません」
ほら、とポーチの中身を見せてくる。中にはたくさんの石がごろごろとしている。そのどれもが青くまばゆく発光していて、燐光がポーチを埋め尽くしている。
「砂漠にまで行けば貴重品でもなんでもないのです。家にもまだまだたくさんありますし」
それに、いつかは必要になりますし……ね。最後に小さくそう付け加えた。けれどその声はあからさまに小さくて、小さすぎて、よく聞こえなかったので本当にそう言ったのかはよく分からない。
「え?」
と聞き返したときには、もう何事もなかったかのようなすまし顔で、
「捨てたりなんかしないでくださいよ。その石の明かりはあなたを正気からを守ってくれます。きっとあなたの先行きにひとすじの光明を投げかけてくれることでしょう」
「うん、もちろん捨てたりなんかしないよ。こうして見ているだけでも楽しいんだ。本当にありがとう」
「お礼などはいいのです。では、わたしはそろそろ行こうと思います。さようなら、おにいさん。楽しかったですよ。またいずれ」
「うん。また会おう」
別れの言葉を交わすと、少女はなんのためらいもなく井戸に飛び込んだ。驚いた僕が慌てて中をのぞき込んだが、眼下にはひたすら闇が広がるばかり。なにかが落ちたような音も、少女の悲鳴も、全てが暗がりに隠れて、なにひとつ見えない。
だから、きっと、幻覚なのだろう。
そう結論づけた。
不思議なこともあるもんだ。
再び本を読み始める。膝の上に置いた石は、いつまでも淡い光をまき散らしていた。