「もしもセックスに快感が、死ぬ事に痛みがなかったら人類はどうなると思う?」
彼女は俺に聞いた。
俺は動揺した。彼女は『セックス』という単語を俺との会話の中で使うタイプじゃないし、そもそも女の子の口から直接『セックス』という言葉を聞いたのも俺は初めてなのだ。俺は動揺を隠そうとしながら彼女の問いに答えた。
「どうなるだろうな。セックスに快感がないんだったら生まれてくる子供が減るだろうし、死ぬのに痛みがなかったら自殺する人が増えるだろう。結果として人類は減るんじゃないか」
俺がそう答えると彼女はわずかに残念そうな顔をした。
「そういうことを聞きたいんじゃないよ」
「どういうことだ?」
「もしもセックスに快感が、死ぬ事に痛みがなかったら人類は幸せになるのか不幸になるのか、ってことを聞きたいの」
彼女はコップの水に手を伸ばしながらそう問い直した。彼女はベッドに座っている。コップの水はベッドの隣にある台の上にあった。
俺たちは病院の個室にいる。俺は学校の帰りに入院している幼なじみの彼女のお見舞いに来ているのだ。
「難しいな。多くの人がしてるセックスの快感がなくなるんだから不幸になる、と言いたいところだけど同時に死ぬ事に痛みがなくなるんだから死にたい人は死ねて幸福になるのかもな。人類全体で考えればどうなるかな」
俺がそう言うと、水を飲み終えた彼女は今度はわずかにうれしそうな顔をして言った。
「突然こんなこと言ったのに思ってたよりちゃんと考えてくれたね」
「学校の勉強よりは考えるのが楽しかった」
俺の言葉に彼女は微笑んだ。
「どうしてそんなことを考えてたんだ?」
彼女は窓の外を見ていた。大きな木があり、小鳥が止まっているのが俺の座っている位置からも見える。小鳥は目のまわりが白かったのでおそらくメジロだろう。
「生きる意味を考えてたら思い浮かんだんだ。思い浮かんだ時には人類ってよくできてるな、って感心したよ。でもそれと同時に生物の惨めさを知った。所詮人類だって生物であって、どんなに頭が良くなったってセックスの快感や死の痛みからは逃れられないだって」
「そんなもんなのかな」
「そうだよ。それから逃れられないってことは、生きるってただ種を増やすだけのことなんだよ。それ以上でもそれ以下でもない。だからそれから逃れられたら人類は幸せになれるかなって思ってね」
彼女はメジロを見つめながら言った。
「やけに厭世的に聞こえるけどなんかあったか?」
今日の彼女はいつもの彼女とは少し違って見えた。
「何もないよ。ただ暇だったからそんなことを考えただけ」
彼女はいつもの笑顔に戻ってそう答えた。
彼女は俺たちの市にある大学病院に入院していた。俺の通っている高校からそう遠くない場所にあるから、俺は学校が終わってから彼女を訪ねた。俺は彼女に会いたかったし、彼女もいつも俺を歓迎してくれた。
俺たちが初めて出会ったのは記憶にないほど幼い頃だ。家が隣同士で歳も同じだったから俺たちの母親が俺たちを一緒に遊ばせた。俺の最初の記憶は彼女と遊んでいる記憶だ。最初の記憶の時点で俺と彼女とはもう仲が良かった。彼女の最初の記憶も俺と遊んでいる記憶だそうだ。
俺たちはそんな歳からいつも一緒にいたんだ。
「小鳥がいるね」
さっきから見つめていたメジロを目で追いながら彼女は言った。
「ああ。メジロだろ?」
「メジロっていうんだ、この鳥」
「目の周りが白いだろ? だからメジロって言うんだ」
「そーなんだ。一つ勉強になったよ」
俺はちらっと彼女につながっている点滴袋の文字を見た。それを帰ってからインターネットで調べてみた。抗がん剤の名前だった。これでようやく合点がいった。俺がたまたま聞いた話は本当だったんだ。
彼女の余命は三ヶ月だ。彼女はそのことを知っている。だが彼女は俺がこのことを知っていることを知らない。
俺は最近になって看護師の会話でそれを知ってしまった。
彼女は俺にこのことを知られたくないようだった。
だから俺は知らないふりをすることにした。