フルーツ・イン・ザ・ルーム
第三章
(13)
高校時代の柿田淳一を知る者なら、みな口をそろえてこう評するだろう。
クソ真面目。
あいつほど融通のきかない真面目なやつはいなかった、と。
柿田の家は、住宅街の区画整理の果てに余ってしまったような狭い土地にあった。夢のマイホームと言うには、夢を詰めるには、物足りない小箱みたいな家だった。小学生のころには、その貧相な見た目をからかわれたりもしたが、柿田にとっては誇れる居場所だった。
なにより、そこに明かりを灯す家族が自慢だったから。
「淳一? お弁当忘れてるわよ」
「ありがとう、母さん」
「今日は淳一の好きなから揚げだからね」母はにっこりと笑った。
本当はもうそこまで好きじゃなんだけどな。昔の好みをずっと覚えている母に心中で苦笑しながらも、柿田はありがたく包みを頂戴した。いってきます、と玄関でローファーを履いて外に出る。いってらっしゃい、と優しく背中を押される。その一言で、どんな朝にでも足を踏み出すことができるような気がした。
柿田の通う高校は、私鉄沿線にある私立校だった。駅から徒歩で校門をくぐる。教室は日常的に喧騒がひどかった。スカート丈が妙に短い女子や、髪を染色した男子がだらしなく談笑している。柿田はそのどの輪にも加わることはなく、自席に座り参考書を広げた。
「よお、柿田。てめえ毎日そんなんで楽しいのかよ」男子のひとりが話しかけてくる。スンと煙草の臭いが鼻先をかすめた。「今日、オレらとカラオケいこーぜ」
柿田は鉛筆の動きを止めて、男子を見た。その後ろでは数人の男女がヘラヘラと笑っている。誘う気など毛頭なく、柿田の反応を面白がっているのは一目瞭然だった。
「遠慮しとく。俺は暇じゃないんだ」
「暇じゃないんだ、キリッ――だってよ」男子が振り返って真似をすると、男女が爆笑した。似てる似てる。イタすぎ。ウチらのことバカにしてんじゃん? と好き勝手言う。男子は笑いながら柿田の肩に手を置いた。「まあ、せいぜい頑張れや。ガリ勉野郎」
男子が去ってから、柿田は再び参考書に目を落とした――つくづく偏差値の低い学校に入ってしまったと思う。三年になった今では、もうその環境には慣れたけれど。
彼は元々、公立の進学校を志望していた。しかし試験前日に凶悪な風邪を患い、実力をまったく発揮できなかったのだ。結果、入学金を支払ったのは、すべりどめのさらに下のクッション程度にしか思っていなかったこの私立高校だった。
だが、周囲は人生を半分諦めた人間ばかりだったが、柿田は違っていた。ろくな友人もつくらずに――友人になれそうな生徒がいなかったこともあるが――大学受験にむけて黙々と耽々と学力の向上に努めてきた。いい大学に入っていい職につく。学歴神話をよどみなく読み上げてみせる。そして、両親に楽をさせてやるのだ。
柿田は、精一杯のかたちで恩返しをするつもりだった。
一日の授業を終え、電車を乗り継いで塾にいき、帰宅するころには夜の十時をすぎていた。廊下は暗かったが、リビングから明かりがもれていた。
「ただいま」鞄を自室に置いてから入る。そのまま食卓に座った。
「おかえり、淳一。父さんの残業よりも遅いんじゃないのか」
テレビを見ていた父が笑う。さえない商社のサラリーマンだったが、柿田は尊敬していた。背丈を軽く追い抜いてしまっても、なおその背中は大きく見えた。
「淳一ったら、そんなに頑張らなくてもいいのにね」母が茶碗にごはんをよそいながら言った。「こんなふうに、みんなで一緒に食べられないもの」
「それじゃ甘いよ。塾のやつらもみんな似たようなもんさ」
「そういえば、淳一はどこの大学を狙ってるのかな」父が言った。
「西央大学」柿田は鮭のソテーをつまみながら答える。熱を失っていて味気ない。「前にも言ったじゃないか。ここからでも通えるし、授業料も私大に比べたら安いしね」
「うちのことは気にしなくていいって言ってるんだけどね」
母は労わるように言う。けど、そんなはずはなかった。家のローンはまだ残っているし、父の収入も世間の平均レベルだ。パートタイマーの母の稼ぎも雀の涙ほどだった。
「いいんだよ。俺が自分で決めたことなんだから」
「そう。でもあんまり無理しちゃだめよ。私は淳一が元気でいてくれればそれでいいの」
柿田のむかいに母が座って、頬杖をついて微笑む。嬉しいような恥ずかしいような気持ちになって、柿田は返事もそこそこに箸を動かした――と、ガチャリとリビングのドアが開かれて、弟の春斗(はると)がまぶたを擦りながら入ってきた。
「あら、起こしちゃった?」母が立ち上がる。
「ママ……おしっこ」と彼女の袖を引っぱって廊下に消えていく。春斗は柿田が小学五年生のときに生まれた、一般的には遅い子だった。かなりの甘えん坊で、いまだに夜中ひとりでトイレにいくのが怖いみたいだった。
晩飯は食べきらなかった。風呂で一日の垢を落としたあとはベッドに直行せず、デスクライトをつけて机にむかった。塾でやった内容の復習、参考書を使っての演習、センター試験の過去問にも少し手をつける。それらが一区切りつくころには、いつも午前三時に達していた。正味の睡眠時間は四時間もなかったが、柿田は音をあげる気もあげさせてもらう気もなかった。すべては自分のため――家族のためだった。
そんな生活が一年つづき、柿田は西央大学を受験した。年が明けるころには、大学なんてどこでもいいと言っていた母は神社という神社を駆け回り、お守りを買い漁ってきた。
試験日当日――白雪が舞い落ちる中で、私鉄の小さなホームまで見送りにきた母は言った。柿田の曲がったマフラーを直しながら。
「頑張ってね。淳一なら絶対できるって、母さん信じてるから」
「そっか。じゃあ百人力かな」
「こんな細腕だけどね。精一杯祈ってあげるわ」
プレッシャーから神経質になり、彼女に当たったこともあった。けれど、その笑顔の前ではなにもかもが許されるような気がした。「兄ちゃんがんばってね」と兄がどこになにをしにいくのかもよく理解していない春斗にも励まされ、柿田は電車のステップを踏んだ。
数週間後。
柿田から電話越しに合格の知らせを聞いた母の声は、涙に濡れていた。
西央大学の荘厳な門を通り抜けると、桜の花びらが目の前を流れていった。右も左もわからぬままメインストリートを歩けば、気づいたときには部活やサークル勧誘のチラシに両手が埋まっている。柿田はそれらを一読もせずに、ゴミ箱にまとめて押し込んだ。
くだらない。青春は義務でも押しつけるものでもない。国内トップクラスの大学に入ったところで、そこがゴールではない。夢の第一歩を、ようやく踏み出しただけなのだ。
とはいえ、目の前の四年間を孤独と戯れるのも味気ないような気がして、柿田は学部内で友人をつくった。石島(いしじま)という、高校にはいなかった話の通じる男だった。
その石島が、出会って数週間後の五月、大学のカフェテリアでこう言った。
「なあ、おまえってなんかバイトしてるか」
「ん?」柿田はコーヒーにガムシロップを入れながら顔を上げた。「してないけど」
「そっか。じゃあさ、一緒にはじめないか?」
「急な話だな」
「そうでもないだろ。ほかのやつらは結構はじめてるぞ」
柿田は考えた――正直、大学生活には暇な時間がたくさん転がっている。机にかじりついていたつい数ヶ月前の日々とのギャップが、彼を少し戸惑わせていた。
「バイトといっても、なんの仕事を考えてるんだ? 石島」
「家庭教師だよ。この前から校門でチラシ配ってるだろ」
柿田は思い出しつつ答えた。「いや、いつも無視するから」
「時給もなかなかいい感じだし、小遣い稼ぎにでも思えばいいんじゃないか」
「そんなもんか」
「俺たち勉強ぐらいしか取り得ないんだからさ、それを活かさない手はないだろ」
「たち、が余計だ」柿田は笑いながら訂正した。
結局、その日のうちに柿田と石島は家庭教師のアルバイトに登録した。
その数日後には、さっそく受け持ちの生徒の案内がきた。大学の講義が終わってから一度家に帰っていたのでは、約束の時間に間に合わない。幸い生徒の家は大学から徒歩でいける区域にあったので、柿田は地図を片手に町を歩いた。
目当ての一戸建てを発見し、インターホンを押す。すぐに母親が出てきて、笑顔で中に通してくれた。大学名の力か、初対面なのにすでに信頼されているような気がした。
生徒の部屋は二階だと言われた。階段を上り、軽く深呼吸をしてからノックする。ところが声は返ってこなかった。再チャレンジも結果は同じ。迷ったあげく、柿田はゆっくりとドア押し開いていくことにした――そして、合点がいった。
「……あー」
どうりで返事がなかったはずだ。
生徒は、ベッドの上ですやすやと寝息を立てていた。やわらかな斜陽の中、制服から着替えることも後回しにして、小さく胸を上下させている――とはいえ、このままでは授業をはじめられないので、柿田はしかたなく起こすことにした。肩を軽く揺すってやると、長い睫毛が震える。眠たそうにからだを持ち上げて、柿田の顔をぼんやりと眺めながら言った。
「……だれ?」
「いや、今日からきみの家庭教師をすることになったんだけど」
「そうなんだあ」生徒はそう納得したあと、瞬きとともに瞳を大きくして、枕元にあった目覚まし時計を両手でつかみ上げた。「って、ええっ!? もうこんな時間!?」
あわてふためく生徒に柿田は言った。
「浅岡美月ちゃんだよな?」
「あっ、はい、そうですっ。その、帰ったら時間があったからちょっと休もうと思って! すみませんでしたっ! 俺様のスパルタ受けたいなら寝るなって感じですよね!?」
「いやいや大丈夫だから。少し落ち着こう、な?」
そう言うと、胸に手を当てて深呼吸をする。なぜかラマーズ法だった。
柿田が担当することになったのは、女子校に通う高校三年生の少女だった。短大くらいまではいかせてやりたいという両親の意向で、申し込んだらしい。彼女の高校は、エスカレーターが高校までしか伸びていないみたいだった。珍しいほうだ。
「そろそろ大丈夫かい?」
「て、てやんでえ。べらんめえ」美月はうわずった声で言った。
「……まあ、まずは自己紹介だな。俺は柿田淳一。大学一年生だ」
「えっ? じゃあ私よりいっこ上なだけ?」
「そうなるな。でも、いちおう教師としてきている以上は役目を果たすから」
「ふぅん? 別にいいけど。たぶん先生苦労すると思うよ?」
年が近いとわかったとたんに敬語が消え失せたな、と柿田は心中で苦笑をもらした。
しかし、苦労するってどういうことだろう――なんてふうに抱いた疑問は、授業をはじめた直後に驚愕に変身した。それは、恐怖すら覚えてしまうものだった。
「ここの確率は……」
「わかった! 丁か半!」
美月は数学が絶望的だった。
「つまりこの故事が伝えたいことは……」
「ふむふむ。サイオーが実は馬だったっていうオチね」
美月は国語が壊滅的だった。
「構文を使って訳すと……」
「ジョンはトゥモローはレインが降るとセイした」
美月は英語がルー大柴だった。
「……きみは高校でいったいなにをしているんだ?」
「え? 友だちと遊んだり、一緒にマンガ読んだりしてるよ」
「勉強はしてないのか?」
「んー、わかんない。でもちゃんと三年生になれたんだからきっと大丈夫だよ」
オールライト、オールライト。美月はそう言って能天気に笑った。
柿田は溜息をついた。これから一年間この少女と付き合うのかと思うと、頭痛すらした。しかし、一度引き受けた仕事を投げ出すのも癪だったので、彼は気合を入れなおした。まずは美月の現在的な学力を正確に把握するしかない――話をそれからだ、と思った。
ちなみに、後日聞かされた話では、石島は男子校レスリング部の部長を担当することになったらしい。常になにか危険な香りが漂うみたいで、「現役女子校生とか勝ち組じゃねーかよ羨ましいふざけんなマジ代わって下さいお願いします」と喚いていた。
かくして、高層ビルに立てこもったテロリストに挑むマックレーン刑事がごとき勇気と覚悟とともにはじまった浅岡美月の指導だったが、結果的にはそれを果てさせるまでに至らなかったことを、柿田は認めなければならなかった。
最初こそ授業は難航し、美月がベッドに逃げ込んだり、美月がトイレに逃げ込んだり、美月が雑談に無理やり引っぱり込むことはあったが、回を重ねて慣れてくると彼女のほうにも意識が芽生えたらしく、桃色の唇から出てくるのは質問がほとんどを占めるようになっていた。彼女の吸収力は新品のスポンジみたいで、目を瞠るものがあった。学力は飛躍的に伸びていった。「先生の教え方がうまいからだよ」と彼女は笑っていたが、それだけではないことは柿田自身がよくわかっていた。
とはいえ、精神的な苦労は絶えなかった。ふとした瞬間に美月からあどけなさが消え、女の顔が覗くことがあったからだ。たぶん彼女は無意識なのだろうが、柿田としては調子を狂わされることが多々あった。石島は羨んでいたけれど、そんなことはない。同性のほうがはるかに相手しやすいと柿田は思う……そういえば、彼はある日突然「穢れを落としに旅に出てきます」というメールを残し一週間ほど大学にこなかったけれど、当事者以外が考えてもしかたがないことなのかもしれない。
「お母さんたち、明日アウトレットにいくけど、淳一はどうする?」
十一月の第二土曜日だった。母が、部屋から出てきた柿田に言った。
「ああ、ちょっと待って」柿田はすばやく携帯の受信フォルダを開いた。浅岡美月の名前が先頭に出てくる。件名は「日曜のこと」とあった。ふたりはアドレスを交換していた。家庭教師の規約では、生徒と私的な繋がりを持つことは禁じられていたが、美月にねだられてしかたなくしたことだった。勉強に関する質問がしたいから、と彼女は説明していたが、もちろんそれだけが理由ではないだろう。「やめておくよ。明日は先約があるんだ」
「石島くん?」
「いや、バイトの……」言ってから、しまった、と思った。
「美月ちゃんって子ね?」母は面白そうに目を細めた。「勉強ばっかりしてたから、女の子に興味がないのかなって心配だったけど、よけいなお世話だったみたいね」
「言っておくけど、デートとかじゃないからな」
「ちがうの?」
「参考書を買うのに付き合ってほしいんだと。オススメ頼むってさ」
「なぁんだ」母の表情がさらによくなった。「淳一ってけっこう朴念仁なのかもね」
いくらなんでも、母の言いたいことはわかった。柿田自身、どうやら美月に好意を寄せられているらしいということは薄々感じてもいた。言葉や仕草の端々にそれは見てとれた。しかし、柿田はあしらうかたちで対応するしかなかった。規約をこれ以上破ることはできなかったし、ほかの応え方がわからないというのもある。
とはいえ、一方的に茶化されるのは趣味じゃない。柿田は反撃に出ることにした。
「それをいうなら、父さんも鈍感っぽいけどな。どうやって結婚までこぎつけたんだ?」
両親が恋愛結婚であることは知っていた。母は思い出すそぶりをしたが、返ってきたのは簡単な答えだった。「がんばったのよ。私が。ええと、確か……八四年だったかなあ」
「その苦労のすえに生まれたのが俺ってわけか。なんか感慨深いな」
「思ってもいないくせに」くすりと笑う。
そうでもないよ――柿田は心の中で返しながら、母の薬指を見た。結婚指輪が、年月を感じさせる光の弾き方をしていた。
高校時代の柿田淳一を知る者なら、みな口をそろえてこう評するだろう。
クソ真面目。
あいつほど融通のきかない真面目なやつはいなかった、と。
柿田の家は、住宅街の区画整理の果てに余ってしまったような狭い土地にあった。夢のマイホームと言うには、夢を詰めるには、物足りない小箱みたいな家だった。小学生のころには、その貧相な見た目をからかわれたりもしたが、柿田にとっては誇れる居場所だった。
なにより、そこに明かりを灯す家族が自慢だったから。
「淳一? お弁当忘れてるわよ」
「ありがとう、母さん」
「今日は淳一の好きなから揚げだからね」母はにっこりと笑った。
本当はもうそこまで好きじゃなんだけどな。昔の好みをずっと覚えている母に心中で苦笑しながらも、柿田はありがたく包みを頂戴した。いってきます、と玄関でローファーを履いて外に出る。いってらっしゃい、と優しく背中を押される。その一言で、どんな朝にでも足を踏み出すことができるような気がした。
柿田の通う高校は、私鉄沿線にある私立校だった。駅から徒歩で校門をくぐる。教室は日常的に喧騒がひどかった。スカート丈が妙に短い女子や、髪を染色した男子がだらしなく談笑している。柿田はそのどの輪にも加わることはなく、自席に座り参考書を広げた。
「よお、柿田。てめえ毎日そんなんで楽しいのかよ」男子のひとりが話しかけてくる。スンと煙草の臭いが鼻先をかすめた。「今日、オレらとカラオケいこーぜ」
柿田は鉛筆の動きを止めて、男子を見た。その後ろでは数人の男女がヘラヘラと笑っている。誘う気など毛頭なく、柿田の反応を面白がっているのは一目瞭然だった。
「遠慮しとく。俺は暇じゃないんだ」
「暇じゃないんだ、キリッ――だってよ」男子が振り返って真似をすると、男女が爆笑した。似てる似てる。イタすぎ。ウチらのことバカにしてんじゃん? と好き勝手言う。男子は笑いながら柿田の肩に手を置いた。「まあ、せいぜい頑張れや。ガリ勉野郎」
男子が去ってから、柿田は再び参考書に目を落とした――つくづく偏差値の低い学校に入ってしまったと思う。三年になった今では、もうその環境には慣れたけれど。
彼は元々、公立の進学校を志望していた。しかし試験前日に凶悪な風邪を患い、実力をまったく発揮できなかったのだ。結果、入学金を支払ったのは、すべりどめのさらに下のクッション程度にしか思っていなかったこの私立高校だった。
だが、周囲は人生を半分諦めた人間ばかりだったが、柿田は違っていた。ろくな友人もつくらずに――友人になれそうな生徒がいなかったこともあるが――大学受験にむけて黙々と耽々と学力の向上に努めてきた。いい大学に入っていい職につく。学歴神話をよどみなく読み上げてみせる。そして、両親に楽をさせてやるのだ。
柿田は、精一杯のかたちで恩返しをするつもりだった。
一日の授業を終え、電車を乗り継いで塾にいき、帰宅するころには夜の十時をすぎていた。廊下は暗かったが、リビングから明かりがもれていた。
「ただいま」鞄を自室に置いてから入る。そのまま食卓に座った。
「おかえり、淳一。父さんの残業よりも遅いんじゃないのか」
テレビを見ていた父が笑う。さえない商社のサラリーマンだったが、柿田は尊敬していた。背丈を軽く追い抜いてしまっても、なおその背中は大きく見えた。
「淳一ったら、そんなに頑張らなくてもいいのにね」母が茶碗にごはんをよそいながら言った。「こんなふうに、みんなで一緒に食べられないもの」
「それじゃ甘いよ。塾のやつらもみんな似たようなもんさ」
「そういえば、淳一はどこの大学を狙ってるのかな」父が言った。
「西央大学」柿田は鮭のソテーをつまみながら答える。熱を失っていて味気ない。「前にも言ったじゃないか。ここからでも通えるし、授業料も私大に比べたら安いしね」
「うちのことは気にしなくていいって言ってるんだけどね」
母は労わるように言う。けど、そんなはずはなかった。家のローンはまだ残っているし、父の収入も世間の平均レベルだ。パートタイマーの母の稼ぎも雀の涙ほどだった。
「いいんだよ。俺が自分で決めたことなんだから」
「そう。でもあんまり無理しちゃだめよ。私は淳一が元気でいてくれればそれでいいの」
柿田のむかいに母が座って、頬杖をついて微笑む。嬉しいような恥ずかしいような気持ちになって、柿田は返事もそこそこに箸を動かした――と、ガチャリとリビングのドアが開かれて、弟の春斗(はると)がまぶたを擦りながら入ってきた。
「あら、起こしちゃった?」母が立ち上がる。
「ママ……おしっこ」と彼女の袖を引っぱって廊下に消えていく。春斗は柿田が小学五年生のときに生まれた、一般的には遅い子だった。かなりの甘えん坊で、いまだに夜中ひとりでトイレにいくのが怖いみたいだった。
晩飯は食べきらなかった。風呂で一日の垢を落としたあとはベッドに直行せず、デスクライトをつけて机にむかった。塾でやった内容の復習、参考書を使っての演習、センター試験の過去問にも少し手をつける。それらが一区切りつくころには、いつも午前三時に達していた。正味の睡眠時間は四時間もなかったが、柿田は音をあげる気もあげさせてもらう気もなかった。すべては自分のため――家族のためだった。
そんな生活が一年つづき、柿田は西央大学を受験した。年が明けるころには、大学なんてどこでもいいと言っていた母は神社という神社を駆け回り、お守りを買い漁ってきた。
試験日当日――白雪が舞い落ちる中で、私鉄の小さなホームまで見送りにきた母は言った。柿田の曲がったマフラーを直しながら。
「頑張ってね。淳一なら絶対できるって、母さん信じてるから」
「そっか。じゃあ百人力かな」
「こんな細腕だけどね。精一杯祈ってあげるわ」
プレッシャーから神経質になり、彼女に当たったこともあった。けれど、その笑顔の前ではなにもかもが許されるような気がした。「兄ちゃんがんばってね」と兄がどこになにをしにいくのかもよく理解していない春斗にも励まされ、柿田は電車のステップを踏んだ。
数週間後。
柿田から電話越しに合格の知らせを聞いた母の声は、涙に濡れていた。
西央大学の荘厳な門を通り抜けると、桜の花びらが目の前を流れていった。右も左もわからぬままメインストリートを歩けば、気づいたときには部活やサークル勧誘のチラシに両手が埋まっている。柿田はそれらを一読もせずに、ゴミ箱にまとめて押し込んだ。
くだらない。青春は義務でも押しつけるものでもない。国内トップクラスの大学に入ったところで、そこがゴールではない。夢の第一歩を、ようやく踏み出しただけなのだ。
とはいえ、目の前の四年間を孤独と戯れるのも味気ないような気がして、柿田は学部内で友人をつくった。石島(いしじま)という、高校にはいなかった話の通じる男だった。
その石島が、出会って数週間後の五月、大学のカフェテリアでこう言った。
「なあ、おまえってなんかバイトしてるか」
「ん?」柿田はコーヒーにガムシロップを入れながら顔を上げた。「してないけど」
「そっか。じゃあさ、一緒にはじめないか?」
「急な話だな」
「そうでもないだろ。ほかのやつらは結構はじめてるぞ」
柿田は考えた――正直、大学生活には暇な時間がたくさん転がっている。机にかじりついていたつい数ヶ月前の日々とのギャップが、彼を少し戸惑わせていた。
「バイトといっても、なんの仕事を考えてるんだ? 石島」
「家庭教師だよ。この前から校門でチラシ配ってるだろ」
柿田は思い出しつつ答えた。「いや、いつも無視するから」
「時給もなかなかいい感じだし、小遣い稼ぎにでも思えばいいんじゃないか」
「そんなもんか」
「俺たち勉強ぐらいしか取り得ないんだからさ、それを活かさない手はないだろ」
「たち、が余計だ」柿田は笑いながら訂正した。
結局、その日のうちに柿田と石島は家庭教師のアルバイトに登録した。
その数日後には、さっそく受け持ちの生徒の案内がきた。大学の講義が終わってから一度家に帰っていたのでは、約束の時間に間に合わない。幸い生徒の家は大学から徒歩でいける区域にあったので、柿田は地図を片手に町を歩いた。
目当ての一戸建てを発見し、インターホンを押す。すぐに母親が出てきて、笑顔で中に通してくれた。大学名の力か、初対面なのにすでに信頼されているような気がした。
生徒の部屋は二階だと言われた。階段を上り、軽く深呼吸をしてからノックする。ところが声は返ってこなかった。再チャレンジも結果は同じ。迷ったあげく、柿田はゆっくりとドア押し開いていくことにした――そして、合点がいった。
「……あー」
どうりで返事がなかったはずだ。
生徒は、ベッドの上ですやすやと寝息を立てていた。やわらかな斜陽の中、制服から着替えることも後回しにして、小さく胸を上下させている――とはいえ、このままでは授業をはじめられないので、柿田はしかたなく起こすことにした。肩を軽く揺すってやると、長い睫毛が震える。眠たそうにからだを持ち上げて、柿田の顔をぼんやりと眺めながら言った。
「……だれ?」
「いや、今日からきみの家庭教師をすることになったんだけど」
「そうなんだあ」生徒はそう納得したあと、瞬きとともに瞳を大きくして、枕元にあった目覚まし時計を両手でつかみ上げた。「って、ええっ!? もうこんな時間!?」
あわてふためく生徒に柿田は言った。
「浅岡美月ちゃんだよな?」
「あっ、はい、そうですっ。その、帰ったら時間があったからちょっと休もうと思って! すみませんでしたっ! 俺様のスパルタ受けたいなら寝るなって感じですよね!?」
「いやいや大丈夫だから。少し落ち着こう、な?」
そう言うと、胸に手を当てて深呼吸をする。なぜかラマーズ法だった。
柿田が担当することになったのは、女子校に通う高校三年生の少女だった。短大くらいまではいかせてやりたいという両親の意向で、申し込んだらしい。彼女の高校は、エスカレーターが高校までしか伸びていないみたいだった。珍しいほうだ。
「そろそろ大丈夫かい?」
「て、てやんでえ。べらんめえ」美月はうわずった声で言った。
「……まあ、まずは自己紹介だな。俺は柿田淳一。大学一年生だ」
「えっ? じゃあ私よりいっこ上なだけ?」
「そうなるな。でも、いちおう教師としてきている以上は役目を果たすから」
「ふぅん? 別にいいけど。たぶん先生苦労すると思うよ?」
年が近いとわかったとたんに敬語が消え失せたな、と柿田は心中で苦笑をもらした。
しかし、苦労するってどういうことだろう――なんてふうに抱いた疑問は、授業をはじめた直後に驚愕に変身した。それは、恐怖すら覚えてしまうものだった。
「ここの確率は……」
「わかった! 丁か半!」
美月は数学が絶望的だった。
「つまりこの故事が伝えたいことは……」
「ふむふむ。サイオーが実は馬だったっていうオチね」
美月は国語が壊滅的だった。
「構文を使って訳すと……」
「ジョンはトゥモローはレインが降るとセイした」
美月は英語がルー大柴だった。
「……きみは高校でいったいなにをしているんだ?」
「え? 友だちと遊んだり、一緒にマンガ読んだりしてるよ」
「勉強はしてないのか?」
「んー、わかんない。でもちゃんと三年生になれたんだからきっと大丈夫だよ」
オールライト、オールライト。美月はそう言って能天気に笑った。
柿田は溜息をついた。これから一年間この少女と付き合うのかと思うと、頭痛すらした。しかし、一度引き受けた仕事を投げ出すのも癪だったので、彼は気合を入れなおした。まずは美月の現在的な学力を正確に把握するしかない――話をそれからだ、と思った。
ちなみに、後日聞かされた話では、石島は男子校レスリング部の部長を担当することになったらしい。常になにか危険な香りが漂うみたいで、「現役女子校生とか勝ち組じゃねーかよ羨ましいふざけんなマジ代わって下さいお願いします」と喚いていた。
かくして、高層ビルに立てこもったテロリストに挑むマックレーン刑事がごとき勇気と覚悟とともにはじまった浅岡美月の指導だったが、結果的にはそれを果てさせるまでに至らなかったことを、柿田は認めなければならなかった。
最初こそ授業は難航し、美月がベッドに逃げ込んだり、美月がトイレに逃げ込んだり、美月が雑談に無理やり引っぱり込むことはあったが、回を重ねて慣れてくると彼女のほうにも意識が芽生えたらしく、桃色の唇から出てくるのは質問がほとんどを占めるようになっていた。彼女の吸収力は新品のスポンジみたいで、目を瞠るものがあった。学力は飛躍的に伸びていった。「先生の教え方がうまいからだよ」と彼女は笑っていたが、それだけではないことは柿田自身がよくわかっていた。
とはいえ、精神的な苦労は絶えなかった。ふとした瞬間に美月からあどけなさが消え、女の顔が覗くことがあったからだ。たぶん彼女は無意識なのだろうが、柿田としては調子を狂わされることが多々あった。石島は羨んでいたけれど、そんなことはない。同性のほうがはるかに相手しやすいと柿田は思う……そういえば、彼はある日突然「穢れを落としに旅に出てきます」というメールを残し一週間ほど大学にこなかったけれど、当事者以外が考えてもしかたがないことなのかもしれない。
「お母さんたち、明日アウトレットにいくけど、淳一はどうする?」
十一月の第二土曜日だった。母が、部屋から出てきた柿田に言った。
「ああ、ちょっと待って」柿田はすばやく携帯の受信フォルダを開いた。浅岡美月の名前が先頭に出てくる。件名は「日曜のこと」とあった。ふたりはアドレスを交換していた。家庭教師の規約では、生徒と私的な繋がりを持つことは禁じられていたが、美月にねだられてしかたなくしたことだった。勉強に関する質問がしたいから、と彼女は説明していたが、もちろんそれだけが理由ではないだろう。「やめておくよ。明日は先約があるんだ」
「石島くん?」
「いや、バイトの……」言ってから、しまった、と思った。
「美月ちゃんって子ね?」母は面白そうに目を細めた。「勉強ばっかりしてたから、女の子に興味がないのかなって心配だったけど、よけいなお世話だったみたいね」
「言っておくけど、デートとかじゃないからな」
「ちがうの?」
「参考書を買うのに付き合ってほしいんだと。オススメ頼むってさ」
「なぁんだ」母の表情がさらによくなった。「淳一ってけっこう朴念仁なのかもね」
いくらなんでも、母の言いたいことはわかった。柿田自身、どうやら美月に好意を寄せられているらしいということは薄々感じてもいた。言葉や仕草の端々にそれは見てとれた。しかし、柿田はあしらうかたちで対応するしかなかった。規約をこれ以上破ることはできなかったし、ほかの応え方がわからないというのもある。
とはいえ、一方的に茶化されるのは趣味じゃない。柿田は反撃に出ることにした。
「それをいうなら、父さんも鈍感っぽいけどな。どうやって結婚までこぎつけたんだ?」
両親が恋愛結婚であることは知っていた。母は思い出すそぶりをしたが、返ってきたのは簡単な答えだった。「がんばったのよ。私が。ええと、確か……八四年だったかなあ」
「その苦労のすえに生まれたのが俺ってわけか。なんか感慨深いな」
「思ってもいないくせに」くすりと笑う。
そうでもないよ――柿田は心の中で返しながら、母の薬指を見た。結婚指輪が、年月を感じさせる光の弾き方をしていた。
(14)
学部の授業を終え、次の講義のためにキャンパスを移動している最中だった。「柿田」と声をかけられ振り返って見ると、リクルートスーツに身を包んだ石島が立っていた。就職活動がはじまっていることは聞いていたが、視覚的に実感するのははじめてだった。
「馬子にも衣装ってやつか」柿田は笑って言った。「今から説明会か?」
「ああ、月島食品だぜ。やっぱ大手は狙わなくちゃな」
「おまえがそれに値する器かどうかは謎だけどな」
「うるせ。大学名でカバーすりゃいいんだよ、そんなもん」
それから軽く雑談し、石島と別れた。体育会系のクラブに入ったからだろう、一年のころと比べるとたくましくなった背中を眺めながら、柿田は時の流れの確かさを感じていた。
大学三年生の一月も、下旬にさしかかっていた――同級生はあわただしく動き回り、社会の入り口に立つ準備を余儀なくされていた。さきほどの石島がその典型例だ。一方の柿田はといえば、公務員試験への勉強を昨年からつづけている。模試の結果も上々で、慢心をせずに対策に励めば、高校受験のときのようなヘマでもしないかぎり、合格の目処(めど)はついていた。夢の実現に、着実に近づいているのを感じていた。
浅岡美月は無事に第一志望の短大に入学し、今年の春に卒業するみたいだった。家庭教師と生徒という関係が解消してからもメールのやりとりはしていたが、ふたりのあいだは進展も後退もしなかった。たまに美月に誘われて会う、といった程度だ。
最後の講義を終えてから、柿田は図書館にむかった。むろん、公務員試験の勉強のためだ。自室でもできないことはなかったが、ひとつ大きな障害があった。弟の春斗である。生意気盛りな年ごろの彼は、兄の邪魔をするのがブームらしく、頭をたたくくらいしか撃退法はなかった。両親が強く注意しないから、なおのことである。
「ただいま」
帰宅すると、夜の九時半をすぎていた。リビングに明かりはついていない。父は出張で関東のほうにいってるし、春斗はもう寝たのだろう。母は入浴中みたいだった。シャワーの音が洗面所からもれてきている。柿田は手を洗おうとそこに入った。
ハンドソープをたっぷり手に延ばし、勢いよく洗い流す――すると、ふと洗面台の隅のほうにリングが置いてあるのが見えた。母の結婚指輪だ。思えば、几帳面なのか習慣になってしまったのか、彼女は洗い物をするときなども外している。
なんとなしに、柿田は手にとって観察してみた。プラチナのリングを通して世界を見ると、生まれる前の、自分の知らない両親を覗き見しているみたいな気分になる。すると、その内側にならんでいる文字が目に入って――
「えっ?」
と、こぼした。
『HからYへ』というのはわかる。父の名は広行(ひろゆき)で、母は洋子(ようこ)だ。
問題は、そのとなりに刻み込まれている年月日が、一九七九年六月七日としか読めないことだった――母が以前、結婚したのは一九八四年だと言っていたのを思い出す。ふたつの情報はまったく一致していないが、現物にそう彫られている以上、指輪のほうが正しいことは疑いようがない。では、母が記憶違いでもしていたのだろうか、とも考えてみたが、そんな大切な思い出をぼやけさせてしまう人とは思えなかった。
となると、母が嘘をついていると考えるのが自然だった。だが、なぜ偽ることを選択したのかはわからなかったし、その場で問いただすこともできなかった。
確かな記録の七九年と、自分が生まれる前年の八四年の周辺――その空白の時間になにがあったのか? 懐疑しはじめた心が小さく波打つのを、柿田は感じた。
とはいえ、日々の生活を営むうちに、しだいに疑念は胸の下層に埋まっていった。ふと思い出すことがあっても、裏表のない母の顔を見ると、話を切り出すことができなかった。
浅岡美月からメールが届いたのは、それから一ヵ月後の二月下旬だった。
駅前の映画館でロードショーがはじまった、「絶対に泣ける」という触れ込みのラブストーリーが見たくてたまらないのだが、カップル以外は入場するべきではないという暗黙の了解ができあがっている現状をネットで把握したので、第二のチケットとして柿田についてきてもらいたいという文面を、婉曲な表現を執拗に駆使しながら伝えてきた。
(さすがにここまでくると、直接言うより露骨だよなあ……)
気長にもほどがある。美月の気持ちにそろそろ回答しなくてはならないのかもしれない。柿田が誘いを受けると、間髪入れずに日時を指定する返事が返ってきた。彼女が携帯の前に張り込んでいる光景が、簡単にイメージできた。
翌週の日曜日に、柿田は駅前のモニュメントの前にいった。よく待ち合わせに使われる場所だ。十分ほど待つと、美月がブーツを鳴らして小走りでやってきた。ショート丈のコートの上にマフラーを巻いている。スカートが可愛らしく揺れていた。
「ごめんっ、待たせちゃった?」
「いや、今きたところだ」
「えへへ……なんか天ぷらな会話だね」
「それをいうならテンプレだろ」
まるでカップルみたい、と呟かれた言葉を聞かなかったことにして、柿田は歩き出した。
映画館の中は、なるほど確かに恋人の聖地みたいになっていた。もう観なくていいんじゃないかと思うほどの、ネタバレ全開のきめ細やかなあらすじを熱心に語る美月を横に座らせて、上映がはじまる。終盤には、暗がりの中からすすり泣きが聞こえてきたが、柿田としては共感できる部分は皆無に等しかった。映画のような劇的な展開など、この世にはない。それまでの自身しか未来の自分をつくっていくことはできない。現実主義的に、そう思っていた。
映画館を出て駅前を歩いていると、「あっ」と美月が前方を指さして言った。「ねえねえ、あそこで献血の募集しているよ? ちょっといってみない?」
「献血か……やったことないな」
「もしかして、血を抜かれるのがこわいの?」美月はにやにやと笑う。
「そんなわけあるか」ちょっとムキになって答えた。
「だったらいこうよ。昨今はですね、おやつがもらえたりするのですよ」
結局、美月に押されるかたちで雑居ビルの三階の献血ルームに入った。血液型別にブースが分かれているみたいだ。美月はO型、柿田はA型のブースにむかった。提供の最中は、針を抜く以外はなんでもできて、彼は備えつきの漫画を読みながら時間が経つのを待った。
そして、美月とともに献血ルームを去ろうとしたときだった――「柿田さん、柿田さん」と声をかけられた。振り返ると、スタッフのひとりが近づいてきていた。
「はい、なんですか?」
「困りますよ。申告された血液型、検出したものと違っていましたよ」
「――えっ?」
思わず大きな声が出てしまう。スタッフはうるさそうな顔をしてから、一枚の紙をさし出してきた。受けとって凝視すると、検査結果には「B型Rh+」と記されていた。
「次からは気をつけてくださいね」
スタッフはそう残して、奥のほうに消えていく。柿田は紙を見つめたまま動けなかった。「どうしたの? 先生」と美月が心配そうに聞いてくるが、耳に入ってこない。
――そんなはずはない。
「淳一はA型だから、しっかりした子に育つわね」と母に言われて以来、ずっとそう信じて生きてきた。周囲にはA型だと公言してはばからなかった。しかし、現代の医療機器による正確な検査結果をつきつけられた今、その認識が見る間に瓦解していくのを感じた。
これまでの勉強で得た膨大な知識の中から、適切なものが浮き上がってくる。中学生のときに理科で習ったメンデルの法則が、当時の教師の声をともなって再生される。
『ええ、だから、ちゃんと遺伝には法則があるんですね。家に帰ったら、お父さんとお母さんの血液型を聞いてみなさい。きみたちの血液型とちゃんと関係しているよ――』
――両親は、A型とO型だ。
そのふたつからは、なにをどうあがいてもB型は生まれない。
もちろん、両親のほうが血液型を間違えている可能性もなくはない。しかし、柿田の中では直感的に結婚指輪の謎と今回のことが繋がった。彼は小さく言った。
「……美月」
「な、なに?」
「悪い。今日はもう終わりだ」
柿田は駆け出した。
私鉄で最寄の駅までいき、柿田は自宅にむかって走った。しかし、ろくに運動をしてこなかったせいですぐに息が上がる。情けなくてたまらなかった。
真っ白な小さな家に帰ってくる。「ただいま」は言わなかった。言えなかった。春斗と父の靴は見当たらない。どうやらふたりで出かけているみたいだ。
リビングに入ると、母が台所で食器を洗っていた。とても、とても小さな背中だった。
「淳一? おかえりなさい」柿田に気づいた彼女は、手を拭きながら聞いてくる。「美月ちゃんとのデートはどうだったの? うまくいった?」
「ああ」軽く笑んだままつづける。「そういえば、アルバムってどこにあるっけ?」
「納戸の奥にあるけど」
「ありがとう」
柿田はすぐさま反転し、迷いなく階段を上って納戸にむかう。言われた場所に薄茶色のアルバムがあった。それを引き出すと同時に、下から声がした。
「淳一っ!」
柿田の様子と質問から意図を察したのだろう。母が悲鳴のような声を上げて、駆け上がってくる。見たことのない悲愴な表情を浮かべた彼女は、柿田の手からアルバムを奪いとると胸に抱き込んで背をむけた。どうしても見せたくないらしい。
「それをかしてくれよ」
「いやっ、やめて……っ。淳一、部屋にもどってっ」
「ただのアルバムだろうが」母の肩を強引に開かせて、アルバムに手をかける。
「淳一ぃ……やめてえ、やめてえ……! おねがいだからあ!」
「もう手遅れなんだよっ」
ついにアルバムを奪い返した。母は弾き飛ばされてタンスにぶつかる。「い、たあ……」と肩を押さえる彼女を無視して、柿田は分厚いページを開いた。
自分の写真がならぶ。幼稚園のお遊戯会、小学校の運動会、中学校の文化祭などなど、枚数は少なくはない。むしろ多いほうかもしれない――だが、決定的に欠落しているものがあった。生まれたばかりの赤ん坊のころの柿田淳一だ。
次に一気にページを飛び越えると、春斗がいっぱいに現れる。生まれて間もない、子猿みたいにつぶれた顔の弟が何十枚も収められている。ここまで子どもを愛している親が、ことさら記念すべき第一子の写真を一枚も残さないというのは、はたしてありえるのだろうか?
答えは――否。残さなかったのではなく、残せなかったのだ。
「母さん」柿田は言った。「俺は、あんたらの子じゃないんだろう?」
「そんなっ、そんなことないっ」目を赤くしながら母は叫んだ。
「わかってるんだ」
柿田は指輪のことと、献血ルームでの出来事を話した。母の顔は歪んでいった。
「教えろよ。本当のことを……」
母はしゃっくりを上げながら俯いていた。まるで抜け殻みたいだったが、しばらくすると訥々と話しはじめた。要領をえなかったが、柿田は自らの推理を台本に聞くことができた。
父と母が結婚したのは、一九七九年のことだった。母は若く、円満な家庭がつくれるものと未来を信じて疑わなかった。しかし、一年ほどして彼女は異常を感じるようになる。
待てども待てども――率直に言えば、どれほど父と濃密な性交をしようとも、妊娠の兆候が表れなかったのである。排卵日にもたくさんしたはずなのに、不発だった。
彼女は父を連れて、産婦人科にいった。不安は的中した。
不妊症――子どもを産めないからだだったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい。広行さん、ごめんなさい」
母は泣いて謝った。実家のほうと、父の両親にも残酷な報告をした。「大丈夫だよ」だとか「まだ産めないと完全に決まったわけじゃない」と励ましの言葉を受けとったが、その声には母に対する隠しきれない失意がにじんでいるように思えた。
自身に絶望しきった彼女は、一二週間ほど放心状態に陥り、ソファに座って窓の外ばかり眺めていた。そんな状態で家事をさせては怪我をするため、父は家庭内外のことをすべて受け持った。テレビは見なかった。どのチャンネルにも子どもが出るからだ。
そして、ある日のことだった――父が取引先から会社にもどってくると、上司から「きみの奥さんが警察に逮捕されたらしいぞ」と言われた。即刻早退し、現場近くの交番まで急いで駆けつけると、うなだれた母と疲れた顔の警官がむかい合っていた。
「洋子が……妻がなにかしたんですか?」
「落としたんですよ」警官があきれた声で言った。
「えっ?」
「他人の赤ちゃんを」
警官と母の話を統合してみると、事実関係はこうだった――母は冷蔵庫になにもないことに気づき、ふらふらと買い物に出かけた。徘徊に近かったかもしれない。すると、その道中で赤ん坊を抱いた母親を見かけたので声をかけた。「かわいいですね、少し抱かせてください」――「いいですよ」というふうな会話だったという。母は、最初こそは目を細めて抱いていたが、いきなり表情を失ったかと思うと、無造作に手を離してアスファルトに赤ん坊を墜落させたらしい。
「幸い赤ちゃんに怪我はなかったんですけどね。親御さんがうるさくて」
「はあ、すみませんでした。よく言って聞かせます。それで、その人の連絡先は……」
その後、父は相応の手続きを踏み、事態を収束させた。母に動機は聞かなかった。彼女をさらに追いつめることは火を見るより明らかだったし、その心情も痛いほど理解できていた。とはいっても、このまま放置しておくのもふたりの将来にとって危険すぎた。
彼は言った。「洋子。あきらめるのはまだ早いよ」
「なんのこと……?」
「きみは子どもがほしいんだろ?」
母はこくりと頷いた。父はその華奢なからだを抱きしめた。
「だったら、めげずに挑戦しよう。何度だって頑張ってみよう。思いは一緒なんだから、きっと実を結ぶはずさ。僕も、僕も……ほしいんだよ……洋子の子どもが」
父は泣いていた。その背中に、そっと小さな手のひらが添えられた。
それからふたりは不妊治療に臨むことになった。とはいえ、そのころにはすでに町内ネットワーク全体に柿田洋子の噂は広まっており、ゴミ出しや買い物の際に母が主婦たちから攻撃を受けはじめていることはわかっていたので、父は転職をして住まいも移した。
その際に購入した、小さいながらも子ども部屋を確保できる一軒家は、ふたりのわずかに残された希望の象徴か、あるいは一種の誓いのようなものだったのかもしれない。
しかし、不妊治療は困難を極めた。医師の言うがままなすがままに、薬剤を投与したり手術を受けたりしたが、いっこうに効果は表れなかった。欠片ほども進展の実感をつかむことができない虚無感と、茫漠と広がる未来に対する不安感が、徐々にふたりの心身を磨耗させていった。もがきつづけるだけの五年間は、泥水のように流れていった。
父も母も、けっして強い人間ではなかった。むしろ、四散しようとする心を互いに必死に繋ぎとめるのが精一杯の、弱いふつうの人間だった。だから、一九八六年の出来事が転機になることは、なかば必然的な流れの上にあったのかもしれない。
同年の秋に、国営放送でとある番組が放送された。日本の孤児施設の窮状を訴えるものだった。その中でとり上げられた施設が近郊にあることを知った母は、休日に父の運転でそこまで出むくことにした。走行中、ふたりはなにも言わなかった。ただ、漠然とした意志の結晶ができあがりつつあるのを感じていた。
施設には様々な年齢の、一様な瞳の子どもたちがいた。ふたりは彼らの視線を受けながら、事情を飲み込んでくれた職員に案内されてある部屋に入った。施設内の子が書いたのだろう、イチゴやメロンなどの各々の好きな果物のクレヨン絵が壁一面に貼られていた。
そしてそこに――男の子がいた。一才半ほどだろうか、自分の境遇などまるで理解していないあどけない表情で、陽だまりの中に座っていた。
「広行さん」母はなにかに打たれたかのように言った。「私、この子を大切にしたい」
父は少し息を呑んだ。「いいのか? あまり急がなくても……」
「いいの……私はこの子を育てたい。ずっと守ってあげたい」
母はそう言って、男の子を抱き上げた。すると、すぐにきゃっきゃっと笑う。確かな温もりの感触と体重が腕を伝って胸に響いた。彼女は男の子を抱いたまま、その場で泣き崩れた。
結果として、柿田夫妻は男の子を引きとった。妥協だとは思いたくなかった。自分たちを悪夢の底にたたき落とした無慈悲な神の、新たなる導きだと考えるようにした。
男の子には淳一という名をつけた。母が考えた名前だった。
その後の生活はおぼろげながらも柿田の記憶にあるとおりだったが、両親は随所随所で真実を悟られないように努めてきたみたいだった。血液型はもちろんこと、結婚した年についても出生に関して違和感を抱かれないように嘘をついた――けれど、それが仇となったのだ。
学部の授業を終え、次の講義のためにキャンパスを移動している最中だった。「柿田」と声をかけられ振り返って見ると、リクルートスーツに身を包んだ石島が立っていた。就職活動がはじまっていることは聞いていたが、視覚的に実感するのははじめてだった。
「馬子にも衣装ってやつか」柿田は笑って言った。「今から説明会か?」
「ああ、月島食品だぜ。やっぱ大手は狙わなくちゃな」
「おまえがそれに値する器かどうかは謎だけどな」
「うるせ。大学名でカバーすりゃいいんだよ、そんなもん」
それから軽く雑談し、石島と別れた。体育会系のクラブに入ったからだろう、一年のころと比べるとたくましくなった背中を眺めながら、柿田は時の流れの確かさを感じていた。
大学三年生の一月も、下旬にさしかかっていた――同級生はあわただしく動き回り、社会の入り口に立つ準備を余儀なくされていた。さきほどの石島がその典型例だ。一方の柿田はといえば、公務員試験への勉強を昨年からつづけている。模試の結果も上々で、慢心をせずに対策に励めば、高校受験のときのようなヘマでもしないかぎり、合格の目処(めど)はついていた。夢の実現に、着実に近づいているのを感じていた。
浅岡美月は無事に第一志望の短大に入学し、今年の春に卒業するみたいだった。家庭教師と生徒という関係が解消してからもメールのやりとりはしていたが、ふたりのあいだは進展も後退もしなかった。たまに美月に誘われて会う、といった程度だ。
最後の講義を終えてから、柿田は図書館にむかった。むろん、公務員試験の勉強のためだ。自室でもできないことはなかったが、ひとつ大きな障害があった。弟の春斗である。生意気盛りな年ごろの彼は、兄の邪魔をするのがブームらしく、頭をたたくくらいしか撃退法はなかった。両親が強く注意しないから、なおのことである。
「ただいま」
帰宅すると、夜の九時半をすぎていた。リビングに明かりはついていない。父は出張で関東のほうにいってるし、春斗はもう寝たのだろう。母は入浴中みたいだった。シャワーの音が洗面所からもれてきている。柿田は手を洗おうとそこに入った。
ハンドソープをたっぷり手に延ばし、勢いよく洗い流す――すると、ふと洗面台の隅のほうにリングが置いてあるのが見えた。母の結婚指輪だ。思えば、几帳面なのか習慣になってしまったのか、彼女は洗い物をするときなども外している。
なんとなしに、柿田は手にとって観察してみた。プラチナのリングを通して世界を見ると、生まれる前の、自分の知らない両親を覗き見しているみたいな気分になる。すると、その内側にならんでいる文字が目に入って――
「えっ?」
と、こぼした。
『HからYへ』というのはわかる。父の名は広行(ひろゆき)で、母は洋子(ようこ)だ。
問題は、そのとなりに刻み込まれている年月日が、一九七九年六月七日としか読めないことだった――母が以前、結婚したのは一九八四年だと言っていたのを思い出す。ふたつの情報はまったく一致していないが、現物にそう彫られている以上、指輪のほうが正しいことは疑いようがない。では、母が記憶違いでもしていたのだろうか、とも考えてみたが、そんな大切な思い出をぼやけさせてしまう人とは思えなかった。
となると、母が嘘をついていると考えるのが自然だった。だが、なぜ偽ることを選択したのかはわからなかったし、その場で問いただすこともできなかった。
確かな記録の七九年と、自分が生まれる前年の八四年の周辺――その空白の時間になにがあったのか? 懐疑しはじめた心が小さく波打つのを、柿田は感じた。
とはいえ、日々の生活を営むうちに、しだいに疑念は胸の下層に埋まっていった。ふと思い出すことがあっても、裏表のない母の顔を見ると、話を切り出すことができなかった。
浅岡美月からメールが届いたのは、それから一ヵ月後の二月下旬だった。
駅前の映画館でロードショーがはじまった、「絶対に泣ける」という触れ込みのラブストーリーが見たくてたまらないのだが、カップル以外は入場するべきではないという暗黙の了解ができあがっている現状をネットで把握したので、第二のチケットとして柿田についてきてもらいたいという文面を、婉曲な表現を執拗に駆使しながら伝えてきた。
(さすがにここまでくると、直接言うより露骨だよなあ……)
気長にもほどがある。美月の気持ちにそろそろ回答しなくてはならないのかもしれない。柿田が誘いを受けると、間髪入れずに日時を指定する返事が返ってきた。彼女が携帯の前に張り込んでいる光景が、簡単にイメージできた。
翌週の日曜日に、柿田は駅前のモニュメントの前にいった。よく待ち合わせに使われる場所だ。十分ほど待つと、美月がブーツを鳴らして小走りでやってきた。ショート丈のコートの上にマフラーを巻いている。スカートが可愛らしく揺れていた。
「ごめんっ、待たせちゃった?」
「いや、今きたところだ」
「えへへ……なんか天ぷらな会話だね」
「それをいうならテンプレだろ」
まるでカップルみたい、と呟かれた言葉を聞かなかったことにして、柿田は歩き出した。
映画館の中は、なるほど確かに恋人の聖地みたいになっていた。もう観なくていいんじゃないかと思うほどの、ネタバレ全開のきめ細やかなあらすじを熱心に語る美月を横に座らせて、上映がはじまる。終盤には、暗がりの中からすすり泣きが聞こえてきたが、柿田としては共感できる部分は皆無に等しかった。映画のような劇的な展開など、この世にはない。それまでの自身しか未来の自分をつくっていくことはできない。現実主義的に、そう思っていた。
映画館を出て駅前を歩いていると、「あっ」と美月が前方を指さして言った。「ねえねえ、あそこで献血の募集しているよ? ちょっといってみない?」
「献血か……やったことないな」
「もしかして、血を抜かれるのがこわいの?」美月はにやにやと笑う。
「そんなわけあるか」ちょっとムキになって答えた。
「だったらいこうよ。昨今はですね、おやつがもらえたりするのですよ」
結局、美月に押されるかたちで雑居ビルの三階の献血ルームに入った。血液型別にブースが分かれているみたいだ。美月はO型、柿田はA型のブースにむかった。提供の最中は、針を抜く以外はなんでもできて、彼は備えつきの漫画を読みながら時間が経つのを待った。
そして、美月とともに献血ルームを去ろうとしたときだった――「柿田さん、柿田さん」と声をかけられた。振り返ると、スタッフのひとりが近づいてきていた。
「はい、なんですか?」
「困りますよ。申告された血液型、検出したものと違っていましたよ」
「――えっ?」
思わず大きな声が出てしまう。スタッフはうるさそうな顔をしてから、一枚の紙をさし出してきた。受けとって凝視すると、検査結果には「B型Rh+」と記されていた。
「次からは気をつけてくださいね」
スタッフはそう残して、奥のほうに消えていく。柿田は紙を見つめたまま動けなかった。「どうしたの? 先生」と美月が心配そうに聞いてくるが、耳に入ってこない。
――そんなはずはない。
「淳一はA型だから、しっかりした子に育つわね」と母に言われて以来、ずっとそう信じて生きてきた。周囲にはA型だと公言してはばからなかった。しかし、現代の医療機器による正確な検査結果をつきつけられた今、その認識が見る間に瓦解していくのを感じた。
これまでの勉強で得た膨大な知識の中から、適切なものが浮き上がってくる。中学生のときに理科で習ったメンデルの法則が、当時の教師の声をともなって再生される。
『ええ、だから、ちゃんと遺伝には法則があるんですね。家に帰ったら、お父さんとお母さんの血液型を聞いてみなさい。きみたちの血液型とちゃんと関係しているよ――』
――両親は、A型とO型だ。
そのふたつからは、なにをどうあがいてもB型は生まれない。
もちろん、両親のほうが血液型を間違えている可能性もなくはない。しかし、柿田の中では直感的に結婚指輪の謎と今回のことが繋がった。彼は小さく言った。
「……美月」
「な、なに?」
「悪い。今日はもう終わりだ」
柿田は駆け出した。
私鉄で最寄の駅までいき、柿田は自宅にむかって走った。しかし、ろくに運動をしてこなかったせいですぐに息が上がる。情けなくてたまらなかった。
真っ白な小さな家に帰ってくる。「ただいま」は言わなかった。言えなかった。春斗と父の靴は見当たらない。どうやらふたりで出かけているみたいだ。
リビングに入ると、母が台所で食器を洗っていた。とても、とても小さな背中だった。
「淳一? おかえりなさい」柿田に気づいた彼女は、手を拭きながら聞いてくる。「美月ちゃんとのデートはどうだったの? うまくいった?」
「ああ」軽く笑んだままつづける。「そういえば、アルバムってどこにあるっけ?」
「納戸の奥にあるけど」
「ありがとう」
柿田はすぐさま反転し、迷いなく階段を上って納戸にむかう。言われた場所に薄茶色のアルバムがあった。それを引き出すと同時に、下から声がした。
「淳一っ!」
柿田の様子と質問から意図を察したのだろう。母が悲鳴のような声を上げて、駆け上がってくる。見たことのない悲愴な表情を浮かべた彼女は、柿田の手からアルバムを奪いとると胸に抱き込んで背をむけた。どうしても見せたくないらしい。
「それをかしてくれよ」
「いやっ、やめて……っ。淳一、部屋にもどってっ」
「ただのアルバムだろうが」母の肩を強引に開かせて、アルバムに手をかける。
「淳一ぃ……やめてえ、やめてえ……! おねがいだからあ!」
「もう手遅れなんだよっ」
ついにアルバムを奪い返した。母は弾き飛ばされてタンスにぶつかる。「い、たあ……」と肩を押さえる彼女を無視して、柿田は分厚いページを開いた。
自分の写真がならぶ。幼稚園のお遊戯会、小学校の運動会、中学校の文化祭などなど、枚数は少なくはない。むしろ多いほうかもしれない――だが、決定的に欠落しているものがあった。生まれたばかりの赤ん坊のころの柿田淳一だ。
次に一気にページを飛び越えると、春斗がいっぱいに現れる。生まれて間もない、子猿みたいにつぶれた顔の弟が何十枚も収められている。ここまで子どもを愛している親が、ことさら記念すべき第一子の写真を一枚も残さないというのは、はたしてありえるのだろうか?
答えは――否。残さなかったのではなく、残せなかったのだ。
「母さん」柿田は言った。「俺は、あんたらの子じゃないんだろう?」
「そんなっ、そんなことないっ」目を赤くしながら母は叫んだ。
「わかってるんだ」
柿田は指輪のことと、献血ルームでの出来事を話した。母の顔は歪んでいった。
「教えろよ。本当のことを……」
母はしゃっくりを上げながら俯いていた。まるで抜け殻みたいだったが、しばらくすると訥々と話しはじめた。要領をえなかったが、柿田は自らの推理を台本に聞くことができた。
父と母が結婚したのは、一九七九年のことだった。母は若く、円満な家庭がつくれるものと未来を信じて疑わなかった。しかし、一年ほどして彼女は異常を感じるようになる。
待てども待てども――率直に言えば、どれほど父と濃密な性交をしようとも、妊娠の兆候が表れなかったのである。排卵日にもたくさんしたはずなのに、不発だった。
彼女は父を連れて、産婦人科にいった。不安は的中した。
不妊症――子どもを産めないからだだったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい。広行さん、ごめんなさい」
母は泣いて謝った。実家のほうと、父の両親にも残酷な報告をした。「大丈夫だよ」だとか「まだ産めないと完全に決まったわけじゃない」と励ましの言葉を受けとったが、その声には母に対する隠しきれない失意がにじんでいるように思えた。
自身に絶望しきった彼女は、一二週間ほど放心状態に陥り、ソファに座って窓の外ばかり眺めていた。そんな状態で家事をさせては怪我をするため、父は家庭内外のことをすべて受け持った。テレビは見なかった。どのチャンネルにも子どもが出るからだ。
そして、ある日のことだった――父が取引先から会社にもどってくると、上司から「きみの奥さんが警察に逮捕されたらしいぞ」と言われた。即刻早退し、現場近くの交番まで急いで駆けつけると、うなだれた母と疲れた顔の警官がむかい合っていた。
「洋子が……妻がなにかしたんですか?」
「落としたんですよ」警官があきれた声で言った。
「えっ?」
「他人の赤ちゃんを」
警官と母の話を統合してみると、事実関係はこうだった――母は冷蔵庫になにもないことに気づき、ふらふらと買い物に出かけた。徘徊に近かったかもしれない。すると、その道中で赤ん坊を抱いた母親を見かけたので声をかけた。「かわいいですね、少し抱かせてください」――「いいですよ」というふうな会話だったという。母は、最初こそは目を細めて抱いていたが、いきなり表情を失ったかと思うと、無造作に手を離してアスファルトに赤ん坊を墜落させたらしい。
「幸い赤ちゃんに怪我はなかったんですけどね。親御さんがうるさくて」
「はあ、すみませんでした。よく言って聞かせます。それで、その人の連絡先は……」
その後、父は相応の手続きを踏み、事態を収束させた。母に動機は聞かなかった。彼女をさらに追いつめることは火を見るより明らかだったし、その心情も痛いほど理解できていた。とはいっても、このまま放置しておくのもふたりの将来にとって危険すぎた。
彼は言った。「洋子。あきらめるのはまだ早いよ」
「なんのこと……?」
「きみは子どもがほしいんだろ?」
母はこくりと頷いた。父はその華奢なからだを抱きしめた。
「だったら、めげずに挑戦しよう。何度だって頑張ってみよう。思いは一緒なんだから、きっと実を結ぶはずさ。僕も、僕も……ほしいんだよ……洋子の子どもが」
父は泣いていた。その背中に、そっと小さな手のひらが添えられた。
それからふたりは不妊治療に臨むことになった。とはいえ、そのころにはすでに町内ネットワーク全体に柿田洋子の噂は広まっており、ゴミ出しや買い物の際に母が主婦たちから攻撃を受けはじめていることはわかっていたので、父は転職をして住まいも移した。
その際に購入した、小さいながらも子ども部屋を確保できる一軒家は、ふたりのわずかに残された希望の象徴か、あるいは一種の誓いのようなものだったのかもしれない。
しかし、不妊治療は困難を極めた。医師の言うがままなすがままに、薬剤を投与したり手術を受けたりしたが、いっこうに効果は表れなかった。欠片ほども進展の実感をつかむことができない虚無感と、茫漠と広がる未来に対する不安感が、徐々にふたりの心身を磨耗させていった。もがきつづけるだけの五年間は、泥水のように流れていった。
父も母も、けっして強い人間ではなかった。むしろ、四散しようとする心を互いに必死に繋ぎとめるのが精一杯の、弱いふつうの人間だった。だから、一九八六年の出来事が転機になることは、なかば必然的な流れの上にあったのかもしれない。
同年の秋に、国営放送でとある番組が放送された。日本の孤児施設の窮状を訴えるものだった。その中でとり上げられた施設が近郊にあることを知った母は、休日に父の運転でそこまで出むくことにした。走行中、ふたりはなにも言わなかった。ただ、漠然とした意志の結晶ができあがりつつあるのを感じていた。
施設には様々な年齢の、一様な瞳の子どもたちがいた。ふたりは彼らの視線を受けながら、事情を飲み込んでくれた職員に案内されてある部屋に入った。施設内の子が書いたのだろう、イチゴやメロンなどの各々の好きな果物のクレヨン絵が壁一面に貼られていた。
そしてそこに――男の子がいた。一才半ほどだろうか、自分の境遇などまるで理解していないあどけない表情で、陽だまりの中に座っていた。
「広行さん」母はなにかに打たれたかのように言った。「私、この子を大切にしたい」
父は少し息を呑んだ。「いいのか? あまり急がなくても……」
「いいの……私はこの子を育てたい。ずっと守ってあげたい」
母はそう言って、男の子を抱き上げた。すると、すぐにきゃっきゃっと笑う。確かな温もりの感触と体重が腕を伝って胸に響いた。彼女は男の子を抱いたまま、その場で泣き崩れた。
結果として、柿田夫妻は男の子を引きとった。妥協だとは思いたくなかった。自分たちを悪夢の底にたたき落とした無慈悲な神の、新たなる導きだと考えるようにした。
男の子には淳一という名をつけた。母が考えた名前だった。
その後の生活はおぼろげながらも柿田の記憶にあるとおりだったが、両親は随所随所で真実を悟られないように努めてきたみたいだった。血液型はもちろんこと、結婚した年についても出生に関して違和感を抱かれないように嘘をついた――けれど、それが仇となったのだ。
(15)
やはり、俺は両親の子どもではなかったのだ――。
すべての真相を知った柿田は、それから部屋に閉じこもって、その事実を反芻することしかできなかった。家族とはいっさい顔を合わせず、ろくな食事も食べなかった。
父が部屋のドアをノックしてきたのは、二日後の夜のことだった。「淳一、開けてくれないか」と言われたので、中に通した。父は小柄なほうだった。ふと、軽く追い抜かしてしまった身長のことを思う。遺伝子を継いでいないのだから当然だったのだ。
「母さんから話を聞いたよ」父は悔しそうに言った。「ショックだったとは思う。でも、これだけはわかってほしい。おまえは春斗と同じくらい大切な――」
「嘘だ」
柿田は冷静に言い放った。父がたじろぐのが見えた。
「春斗のほうが大事なんだろう? そりゃ当たり前だよな」
弟のことは、すでに母から聞いていた。柿田も出産に立ち会ったのだから間違いようがないのだが、春斗は正真正銘の父と母の子どもだった。皮肉なことだが、年月を費やしても反応を示さなかった母のからだは、拍子抜けするくらいに簡単に、たった一回のセックスで身ごもってしまったのだ。神の奇跡というよりは、低レベルな悪戯としか思えなかった。
彼女は悩んだ。淳一という養子を持ちながら本当の子どもを産むことは、なにかしらのかたちで軋轢や障害を生じさせる気がした――しかし、念願の妊娠だったのだ。
そのときの両親の思いを否定するつもりは、柿田にはない。ごく自然な選択だし、血の繋がらない子どものために実の息子を諦めるなんていうのは本末転倒の極みだ。
父は弱々しく言った。「なにを言ってるんだ。本当に、嘘じゃない」
「じゃあ、泣いてくれたのかよ」
「えっ……」
「俺がここにきたとき、春斗が生まれたときみたいに泣いてくれたのかよっ」柿田は叫んでいた。感情的になるべきではないと思いつつも、あふれ出すものがあった。「あんなふうに抱いてくれたか? 休日返上して遊んでくれたか? 甘やかしてくれたか? 俺はそうだったとは思わない。どれだけ気をつけても、愛情には差が出るもんなんだな。そうだろう?」
図星に違いない。父は押し黙った。部屋の中に重たい沈黙が下りていく。しばらくしてから、「出てってくれよ」と柿田は言った。父が素直に従うのが、少し悲しかった。
それから机に突っ伏していると、再びドアがノックされた。腕の中から顔だけを回して見ると、にやにやと笑いながら春斗が入ってくるところだった。なにも知らされていないのだろう、いつもの生意気盛りな表情でこちらを覗き込んでくる。
「兄ちゃん、父ちゃんとケンカでもしたの?」
「してないよ」
「兄ちゃん怒鳴ってやんの。かっこわるいなあ」
「むこういってろ」柿田の声は低くなっていった。
「いやだね。それより一緒にゲームしようよ」
春斗は柿田を揺さぶりはじめた。無視を決め込んだが、いっこうにやめる気配がなかったので、あまりのしつこさに柿田は腹が立った――いや、実際それは、現在までに蓄積していた冷たく暗鬱とした感情の起爆剤として働いただけなのかもしれなかった。
「うるさいなっ。消えろって言ってんだよっ」
怒号を散らして、ふだんと同じように撃退すべく手を振り上げる。春斗はとっさに頭をかばう。だが、柿田は振り下ろすことができずに硬直してしまっていた。ふいに、今までなにをしてきたのだろうと思ったのだ――俺は、兄弟でもなんでもない他人の家の子どもに、こんなふうに暴力をふるってきた。
そう考えはじめると、気泡がごとく悔いが無数に浮かんできた。自らの意志ではとめられなかった――自分はずっと、他人の住まいの一室を占拠してきた。他人の家の食事を勝手に食べて残して、他人の家の風呂やトイレを断りもなく使って、他人の家の電気を我がもの顔で消費して、他人の家の収入で進学して、生きてきて、生きてきて、他人の、他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の――!
「兄ちゃん?」怪訝そうな顔を春斗は浮かべてから、なおも反応を示さない柿田に愛想を尽かしたように部屋を出ていった。「へんな兄ちゃん」
ひとり、柿田はひざから床に崩れた。途方もない欠落感だけがあった。
それまでの自身しか未来の自分をつくっていくことはできない――自らの言葉が再生され、そのあまりの滑稽さに笑えてくる。それまでの自身なんてものは、そもそもつくられてすらいなかったのだ。幻だった。たとえばそれは『柿田淳一』という題名の、春斗が生まれるまでが有効期限のホログラム作品でしかなかった。
――俺は亡霊だ。
――両親の子を求める気持ちが生んだ、亡霊だ。
だったら、消えるのは俺のほうかもしれない。
この出生に関する真実は、地殻変動レベルの多大なる影響を柿田の精神に及ぼし、人格の再構築と表現できるほど一変させたわけであるが、それは結果的に彼が少年時代に経験することのなかった、自我の発達過程における重要な期間を再現するかたちで表にあらわれた。
要するに、柿田はグレた。遅れてきた反抗期だった。
高校のクラスメイトを真似て、頭髪をこれでもかとブリーチした。口調は乱暴なものに変更し、喫煙者の仲間入りも果たした。授業は欠席過多に陥るようになり、勉強は一分もしなくなった。不良と聞いて連想できることはなんでも試した。
本当の肉親を探そうとは思わなかった。二十年近くも経っている。今さら会いにいったところで、彼らには人生のディレクションできあがっているはずだし、柿田としてもなにを話せばいいのか想像がつかなかった。子を捨てた罪を糾弾する? 無意味だし、時間と金の浪費でしかない――だが、かといって家で延々とふて寝するわけにもいかなかった。柿田は自暴自棄のまま街をぶらついては勝率三割にも満たないストリートファイトを繰り返し、ネットカフェでからだを休める日々を送った。幸い、資金には余裕があった。遊びにもおしゃれにも興味がなかったため、家庭教師のアルバイト代はかなり貯蓄されていたのだ。
しかし、そんな生活をいつまでもつづける気はなかった。
三月の中旬に柿田は退学届を提出した。もはや柿田家には、この町にはいられないと感じるようになっていた。どこか遠くへ、誰も自分のことを知らない場所にいきたかった。
大学の門を出る際に、背後から石島に呼びとめられた。
「柿田。おまえ、大学辞めるんだってな」
「それがなんだ? てめえには関係ねえだろ」
「夢はどうしたんだよ」
そう言われ、以前に両親に恩返しをしたいという夢を石島に語ったことを思い出した。
「そんなものはねえよ。はじめから、妄想だったんだ。ただの」
「意味がわからないぜ……」
「わかれなんて言ってねえだろ」吐き捨てるように言って、歩き出した。「じゃあな。これでもおまえと会うこともないだろうな」
「柿田っ」
石島が叫ぶ。ほかの学生が一瞥して素通りしていった。
「諦めるなよっ。妄想でもなんでも、おまえが願ったことに変わりはないだろ? それでいいじゃないかよ、それだけでもう十分じゃないのかよっ」
柿田は立ち止まらずに、夢の墓地をあとにした。
その翌日に、荷造りを完了していた柿田は、両親たちが寝息を立てている早朝に音を立てないように玄関を出た。薄く光に浸りはじめた空の下で、真っ白な小さな家を振り仰ぐ。
「まあ、子ども部屋はひとつが限界だよなあ」と煙草に火をつけ、柿田は新聞配達員とすれ違いながら歩みはじめた。寒の戻りの朝風が、目頭の熱を冷やしてくれた。
それから私鉄に乗って総合駅にいった。新幹線のホームに入ると、大型のキャリーケースを横に置いて、美月が携帯をいじりながらベンチに座っているのが見えた。「美月」と声をかけると、彼女は目をぱちくりさせた。
「えっ? なんで先生がここにいるの?」
美月が春からの新生活のために町を出ることは、メールを通して知っていた。新幹線の乗車時間も聞いて、ひそかに同じ車両のチケットを購入していたのだ。
「すげえな……こんな見た目になってもわかるんだな」
柿田はブリーチしすぎた髪をつまみながら苦笑した。
「ん? そりゃあわかりますけど? 三年間見てきましたけど?」
「となりいいか?」
「どぞどぞ。特等席ですぞ」
美月がつくってくれたスペースに腰を下ろす。それからしばらく沈黙が漂ったが、柿田はおもむろに口を開いた。「美月、おまえ俺のこと好きか?」
「ええっ?」瞬時に沸騰した美月だったが、少しして小さく答えた。「……うん」
「家庭教師やってたころから?」
「うん」
「短大に入ってからも?」
「うん」
「今も?」
「うん……好き」
「そうか」柿田は立ち上がり、美月にむかって言った。「なら、俺を連れていってくれ」
彼女はその目を見つめ返してから、やわらかに微笑んで聞いた。
「いいよ。でも、教えて。どうして連れていってほしいの?」
柿田は逡巡したが、そこは隠すべきではないと思い、すべての経緯を教えた。最初こそは驚いていた美月だったが、しだいに優しげな表情で話に耳を傾けるようになった。柿田は胸が熱くなるのを感じた。本当は、こうやって真実の自分を理解してくれる相手に出会いたかったのかもしれなかった。
アナウンスが聞こえ、新幹線がホームに滑り込んでくる。ちょうど乗る予定の六号車が目の前でとまったので、そのまま美月とともに車両内へ足を踏み入れた。
――そのときだった。
「まってっ!」
ホームの出入り口のほうから聞き慣れた声が聞こえた。母だ。きっと、柿田の不在や部屋の状態から今回のことを察知し、ここまで飛んできたのだろう。スライド式のドアは開いたままだったが、彼女は外側で立ち止まった。息を切らしながら柿田とむき合う。遠くのほうから駅員が二名こちらに駆けてきていた。改札を強引に突破してきたに違いなかった。
「……母さん」
「お願い。これだけは覚えていて――」母は頬に涙を伝わせながら、儚げに笑った。覚えているはすがないのに、柿田は、孤児院で自分をはじめて抱いたときの彼女の顔に似ているような気がした。「――あなたは淳“一”……私の、一番最初の、子ども」
ピリリリと機械的な音を合図にドアが閉じる。流れはじめる視界の端に、駅員に肩をつかまれる母の姿が残った。柿田は拳を震わせつつ、「ちがう」と呟くことしかできなかった。ちがう、俺はあんたの息子なんかじゃない。その資格がないんだ。
すると、背中にやわらかな重みが触れた。振りむくと、美月が身を預けてきていた。
「美月……?」
「大丈夫、オールライトだよ」柿田の胸に腕を回しながらささやく。「大丈夫だから。先生がどんなふうに昔の自分を思っていても、未来の自分が見えなくても……自分がわからなくなっちゃっても、私がちゃんと知っているから、大丈夫だよ」
「そうなのか……?」
「言ったじゃん。三年間、見てきたって。先生の変わらないところ、知ってるよ」
「たとえば?」
「笑うとき右の頬が左より少し上がるところ。真剣な話するとき耳の裏を触るところ……」
「おいおい、そういうのは癖って――」
「ぶっきらぼうだけど、本当は優しいところ」
柿田は言葉のつづきを出せなかった。すると、美月はふふっと弾むように笑んで言った。
「さて、私たちの関係も変わったことだし、先生なんて呼び方やめたほうがいいよね? なにがいいかな? やっぱりそれっぽく、じゅ、淳一なんて呼んじゃう?」
「いや……それは」さきほどの母の表情が脳裏をよぎり、眉間にしわが寄る。今後、ふつうに名前を呼ばれるたびに胸をしめつけられそうになるのは避けたいと思った。
美月は柿田の心情を汲みとったのか、曖昧に笑ってから考える仕草をした。
「じゃあ、ジュンちゃんっていうのはどう?」
「ジュンちゃん?」
「うん。かわいいでしょ?」
不思議だった。かわいいかどうかはともかく、抵抗なく感覚におさまる。「まあ、なんていうかいいんじゃねえの? おまえらしくてさ」と美月にむき直った。すると彼女は顔をじっと見つめてきたかと思えば、きょろきょろとあたりを見渡してから言った。
「そういえば、さ。誰もいないね」
「あ? ああ」柿田は首を傾げながらも肯定する。ほかの乗客はすでに座席を見つけているみたいで、車両の連絡通路には澄んだ走行音しか響いていなかった。
「ということは、人に見られる心配はないよ、ね」
なにが言いたいのか聞こうとしたときだった。美月がフライイングボディアタック気味に飛び込んできて、唇を重ねてきた――というよりは歯と歯を激突させるような勢いで正直痛かったが、それも最初の瞬間だけでゆっくりと感触を確かめ合うものに落ち着く。柿田は引きかけた腕を美月の肩に回し、目を細めて彼女を受け入れた。
これから、自分を知る者はこの女だけになるのだと思った。
それでいい。それでいいのだと思った。
◇
「私ね、ジュンちゃんには感謝してるんだ」美月が夜空を見上げて言った。「ただの塾の事務員として入った私が講師になれたのは、ジュンちゃんが家庭教師についてくれたおかげだもん。教え方とか、今だってほとんどジュンちゃんの真似ばっかしてる」
確かに、美月は最初こそは講師ではなかった。しかし指導法に悩んでいたある講師に、彼女らしいと言えばらしいが、差し出がましくも助言を与えたことがきっかけで、その秘めたる力量を買われて指導者に転身を果たしたのだ。それが柿田のおかげだという話は、はじめて耳にしたが。
「たいしたことじゃねえよ。おまえの実力だろ」
柿田は片足を上げ、煙草をクラークスのソールですりつぶし、道端に捨てた。まったくつまらないことを思い出してしまった。完全に捨て去ったはずの過去だ。今さらどうすることもできないし、する気もないけれど、どうしてか胸が過敏に反応してうずく。家族というものに対して心がむかってしまう。その端緒は記憶の糸を辿ってみれば、まぎれもなく梨元保奈美と出会ってからだった。
円満だが偽物の家庭で育った柿田と、本物だが凍土がごとき家庭を持った保奈美。
どちらが不幸かなんて比べられないことはわかっているけれど、それぞれの痛みは別次元的に存在していて、十全な理解など不可能なのかもしれないけれど――気づいたときには、柿田の口は言葉を紡いでいた。「なあ、美月」
「なあに?」
「もしも、もしもの話だけどよ。ひとりのガキがいてさ、家庭が自分の居場所だと信じられないくらいに壊れかけてて、そのことをおまえが知っていたとしたら、どうする?」
「えらく限定的なシチュだね」微苦笑を浮かべつつ、美月はつづける。「どうするって言われてもよくわかんないよ。でも、大事なのはできるできないじゃなくて、ジュンちゃんが救ってあげたいかどうかだと思う。その子のことを、思ってあげられることだと思う」
思ってあげられること――か。
それはたぶん、同情や憐憫ではないだろう。
「……って、おい。なんで俺の話になってんだよ」
「え? そういうフリだと思ってた。ツンデレ的な?」
かっ、勘違いしないでよ? アンタのことじゃなくてただのたとえ話なんだからねっ!? とどこぞの二次元に息吹くヒロインの模倣をする美月にむかって、
「んなわけねえだろうが。キモい真似すんなよ」
不機嫌をあらわにした柿田だったが、彼女は無視して言った。
「でもさ、私はジュンちゃんなら助けられる気がする」
虚を突かれたが、かろうじて返す。「俺がそんなヒーローみたいなタマに見えるか?」
「見えるよ。タマタマに見えるよ」
「冗談だろ」
「だったらもっとおもしろいこと言うって」美月は笑った。「なんだかんだ年とってもさ、ジュンちゃんは『ぶっきらぼうだけど本当は優しい』ままなんだよね」
「どういうこった」
「だってさ、その子のことを気にしちゃってる時点で、ふつうにいいお兄さんじゃん?」
柿田はなにも言い返せなかった。ただ、胸でせめぎ合うなにかを感じた。それを具体的に脳内に書き出すことも、実体的にあぶり出すこともできなかったが、しかしその感情の混在が不愉快極まりない状態であることはわかっていた。彼はベンチから立ち上がった。
「やっぱ冗談だぜ」空き缶をダストボックスに放る。「俺、帰るわ」
「そっか。じゃあ、もう会うこともない感じかな」
「だろうな」片方の頬を吊り上げながら、柿田は背をむける。
「ジュンちゃん」少し迷ったような声がかけられたのは、そのときだった。「ねえ、最後にもう一回だけさ、『愛してるぜ、美月』って言ってみてくれない?」
それは、彼女に追い出される前の最後の愛の言葉だった。
「なんだよいきなり」
「……別に? 思いつきってやつです」
「はぁん」納得と怪訝を半々に顔に出力してから言った。「アイシテルゼ、ミヅキ」
「こら、なんなのその馬みたいな顔」
「馬場って野郎の真似だよ」そう言うと、美月はかすかに目を大きくして黙った。「こんなセリフ俺に吐かせんじゃなくてよ、そいつにちゃんと言ってもらえ」
それがきっとおまえにとって正しいんだからよ――という一文は喉の奥にしまい込んで、柿田は再び夜道に足を踏み出す。背後から美月の声が聞こえた。目には見えないが、微笑んでいるような気がした。
「へたくそー、そんな変な声じゃないもん」
そして小さくつづけた。
「……バイバイ、ジュンちゃん」
柿田はひらひらと片手を振りながら、土手のほうへと進路をとった。歩きながら煙草をふかすと、だいたい二本目の火がフィルターにかかるぐらいで廃工場が見えてくる。中に入り奥の螺旋階段を上りきったところで柿田はふと立ち止まった。
美月と妙な会話をしてしまったけれど、保奈美のことを思う思わない以前に彼女の心情はどうなのだろうか。瑠南たちに罵詈雑言を散弾銃がごとく浴びせまくったあげくに、特に雄大には暴力行為をはたらいてしまったのだ。嫌われていてもおかしくない。
(……ってなんで嫌われるのがイヤみたいに考えてんだよ)
癪に感じて、柿田は勢いよくドアノブをつかみ事務所の中に入った。
そして――茫然とつぶやいた。
「なんだよ、これ」
もぬけの殻。
暗闇の中、保奈美と甘夏の姿はどこにもなかった。
やはり、俺は両親の子どもではなかったのだ――。
すべての真相を知った柿田は、それから部屋に閉じこもって、その事実を反芻することしかできなかった。家族とはいっさい顔を合わせず、ろくな食事も食べなかった。
父が部屋のドアをノックしてきたのは、二日後の夜のことだった。「淳一、開けてくれないか」と言われたので、中に通した。父は小柄なほうだった。ふと、軽く追い抜かしてしまった身長のことを思う。遺伝子を継いでいないのだから当然だったのだ。
「母さんから話を聞いたよ」父は悔しそうに言った。「ショックだったとは思う。でも、これだけはわかってほしい。おまえは春斗と同じくらい大切な――」
「嘘だ」
柿田は冷静に言い放った。父がたじろぐのが見えた。
「春斗のほうが大事なんだろう? そりゃ当たり前だよな」
弟のことは、すでに母から聞いていた。柿田も出産に立ち会ったのだから間違いようがないのだが、春斗は正真正銘の父と母の子どもだった。皮肉なことだが、年月を費やしても反応を示さなかった母のからだは、拍子抜けするくらいに簡単に、たった一回のセックスで身ごもってしまったのだ。神の奇跡というよりは、低レベルな悪戯としか思えなかった。
彼女は悩んだ。淳一という養子を持ちながら本当の子どもを産むことは、なにかしらのかたちで軋轢や障害を生じさせる気がした――しかし、念願の妊娠だったのだ。
そのときの両親の思いを否定するつもりは、柿田にはない。ごく自然な選択だし、血の繋がらない子どものために実の息子を諦めるなんていうのは本末転倒の極みだ。
父は弱々しく言った。「なにを言ってるんだ。本当に、嘘じゃない」
「じゃあ、泣いてくれたのかよ」
「えっ……」
「俺がここにきたとき、春斗が生まれたときみたいに泣いてくれたのかよっ」柿田は叫んでいた。感情的になるべきではないと思いつつも、あふれ出すものがあった。「あんなふうに抱いてくれたか? 休日返上して遊んでくれたか? 甘やかしてくれたか? 俺はそうだったとは思わない。どれだけ気をつけても、愛情には差が出るもんなんだな。そうだろう?」
図星に違いない。父は押し黙った。部屋の中に重たい沈黙が下りていく。しばらくしてから、「出てってくれよ」と柿田は言った。父が素直に従うのが、少し悲しかった。
それから机に突っ伏していると、再びドアがノックされた。腕の中から顔だけを回して見ると、にやにやと笑いながら春斗が入ってくるところだった。なにも知らされていないのだろう、いつもの生意気盛りな表情でこちらを覗き込んでくる。
「兄ちゃん、父ちゃんとケンカでもしたの?」
「してないよ」
「兄ちゃん怒鳴ってやんの。かっこわるいなあ」
「むこういってろ」柿田の声は低くなっていった。
「いやだね。それより一緒にゲームしようよ」
春斗は柿田を揺さぶりはじめた。無視を決め込んだが、いっこうにやめる気配がなかったので、あまりのしつこさに柿田は腹が立った――いや、実際それは、現在までに蓄積していた冷たく暗鬱とした感情の起爆剤として働いただけなのかもしれなかった。
「うるさいなっ。消えろって言ってんだよっ」
怒号を散らして、ふだんと同じように撃退すべく手を振り上げる。春斗はとっさに頭をかばう。だが、柿田は振り下ろすことができずに硬直してしまっていた。ふいに、今までなにをしてきたのだろうと思ったのだ――俺は、兄弟でもなんでもない他人の家の子どもに、こんなふうに暴力をふるってきた。
そう考えはじめると、気泡がごとく悔いが無数に浮かんできた。自らの意志ではとめられなかった――自分はずっと、他人の住まいの一室を占拠してきた。他人の家の食事を勝手に食べて残して、他人の家の風呂やトイレを断りもなく使って、他人の家の電気を我がもの顔で消費して、他人の家の収入で進学して、生きてきて、生きてきて、他人の、他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の他人の――!
「兄ちゃん?」怪訝そうな顔を春斗は浮かべてから、なおも反応を示さない柿田に愛想を尽かしたように部屋を出ていった。「へんな兄ちゃん」
ひとり、柿田はひざから床に崩れた。途方もない欠落感だけがあった。
それまでの自身しか未来の自分をつくっていくことはできない――自らの言葉が再生され、そのあまりの滑稽さに笑えてくる。それまでの自身なんてものは、そもそもつくられてすらいなかったのだ。幻だった。たとえばそれは『柿田淳一』という題名の、春斗が生まれるまでが有効期限のホログラム作品でしかなかった。
――俺は亡霊だ。
――両親の子を求める気持ちが生んだ、亡霊だ。
だったら、消えるのは俺のほうかもしれない。
この出生に関する真実は、地殻変動レベルの多大なる影響を柿田の精神に及ぼし、人格の再構築と表現できるほど一変させたわけであるが、それは結果的に彼が少年時代に経験することのなかった、自我の発達過程における重要な期間を再現するかたちで表にあらわれた。
要するに、柿田はグレた。遅れてきた反抗期だった。
高校のクラスメイトを真似て、頭髪をこれでもかとブリーチした。口調は乱暴なものに変更し、喫煙者の仲間入りも果たした。授業は欠席過多に陥るようになり、勉強は一分もしなくなった。不良と聞いて連想できることはなんでも試した。
本当の肉親を探そうとは思わなかった。二十年近くも経っている。今さら会いにいったところで、彼らには人生のディレクションできあがっているはずだし、柿田としてもなにを話せばいいのか想像がつかなかった。子を捨てた罪を糾弾する? 無意味だし、時間と金の浪費でしかない――だが、かといって家で延々とふて寝するわけにもいかなかった。柿田は自暴自棄のまま街をぶらついては勝率三割にも満たないストリートファイトを繰り返し、ネットカフェでからだを休める日々を送った。幸い、資金には余裕があった。遊びにもおしゃれにも興味がなかったため、家庭教師のアルバイト代はかなり貯蓄されていたのだ。
しかし、そんな生活をいつまでもつづける気はなかった。
三月の中旬に柿田は退学届を提出した。もはや柿田家には、この町にはいられないと感じるようになっていた。どこか遠くへ、誰も自分のことを知らない場所にいきたかった。
大学の門を出る際に、背後から石島に呼びとめられた。
「柿田。おまえ、大学辞めるんだってな」
「それがなんだ? てめえには関係ねえだろ」
「夢はどうしたんだよ」
そう言われ、以前に両親に恩返しをしたいという夢を石島に語ったことを思い出した。
「そんなものはねえよ。はじめから、妄想だったんだ。ただの」
「意味がわからないぜ……」
「わかれなんて言ってねえだろ」吐き捨てるように言って、歩き出した。「じゃあな。これでもおまえと会うこともないだろうな」
「柿田っ」
石島が叫ぶ。ほかの学生が一瞥して素通りしていった。
「諦めるなよっ。妄想でもなんでも、おまえが願ったことに変わりはないだろ? それでいいじゃないかよ、それだけでもう十分じゃないのかよっ」
柿田は立ち止まらずに、夢の墓地をあとにした。
その翌日に、荷造りを完了していた柿田は、両親たちが寝息を立てている早朝に音を立てないように玄関を出た。薄く光に浸りはじめた空の下で、真っ白な小さな家を振り仰ぐ。
「まあ、子ども部屋はひとつが限界だよなあ」と煙草に火をつけ、柿田は新聞配達員とすれ違いながら歩みはじめた。寒の戻りの朝風が、目頭の熱を冷やしてくれた。
それから私鉄に乗って総合駅にいった。新幹線のホームに入ると、大型のキャリーケースを横に置いて、美月が携帯をいじりながらベンチに座っているのが見えた。「美月」と声をかけると、彼女は目をぱちくりさせた。
「えっ? なんで先生がここにいるの?」
美月が春からの新生活のために町を出ることは、メールを通して知っていた。新幹線の乗車時間も聞いて、ひそかに同じ車両のチケットを購入していたのだ。
「すげえな……こんな見た目になってもわかるんだな」
柿田はブリーチしすぎた髪をつまみながら苦笑した。
「ん? そりゃあわかりますけど? 三年間見てきましたけど?」
「となりいいか?」
「どぞどぞ。特等席ですぞ」
美月がつくってくれたスペースに腰を下ろす。それからしばらく沈黙が漂ったが、柿田はおもむろに口を開いた。「美月、おまえ俺のこと好きか?」
「ええっ?」瞬時に沸騰した美月だったが、少しして小さく答えた。「……うん」
「家庭教師やってたころから?」
「うん」
「短大に入ってからも?」
「うん」
「今も?」
「うん……好き」
「そうか」柿田は立ち上がり、美月にむかって言った。「なら、俺を連れていってくれ」
彼女はその目を見つめ返してから、やわらかに微笑んで聞いた。
「いいよ。でも、教えて。どうして連れていってほしいの?」
柿田は逡巡したが、そこは隠すべきではないと思い、すべての経緯を教えた。最初こそは驚いていた美月だったが、しだいに優しげな表情で話に耳を傾けるようになった。柿田は胸が熱くなるのを感じた。本当は、こうやって真実の自分を理解してくれる相手に出会いたかったのかもしれなかった。
アナウンスが聞こえ、新幹線がホームに滑り込んでくる。ちょうど乗る予定の六号車が目の前でとまったので、そのまま美月とともに車両内へ足を踏み入れた。
――そのときだった。
「まってっ!」
ホームの出入り口のほうから聞き慣れた声が聞こえた。母だ。きっと、柿田の不在や部屋の状態から今回のことを察知し、ここまで飛んできたのだろう。スライド式のドアは開いたままだったが、彼女は外側で立ち止まった。息を切らしながら柿田とむき合う。遠くのほうから駅員が二名こちらに駆けてきていた。改札を強引に突破してきたに違いなかった。
「……母さん」
「お願い。これだけは覚えていて――」母は頬に涙を伝わせながら、儚げに笑った。覚えているはすがないのに、柿田は、孤児院で自分をはじめて抱いたときの彼女の顔に似ているような気がした。「――あなたは淳“一”……私の、一番最初の、子ども」
ピリリリと機械的な音を合図にドアが閉じる。流れはじめる視界の端に、駅員に肩をつかまれる母の姿が残った。柿田は拳を震わせつつ、「ちがう」と呟くことしかできなかった。ちがう、俺はあんたの息子なんかじゃない。その資格がないんだ。
すると、背中にやわらかな重みが触れた。振りむくと、美月が身を預けてきていた。
「美月……?」
「大丈夫、オールライトだよ」柿田の胸に腕を回しながらささやく。「大丈夫だから。先生がどんなふうに昔の自分を思っていても、未来の自分が見えなくても……自分がわからなくなっちゃっても、私がちゃんと知っているから、大丈夫だよ」
「そうなのか……?」
「言ったじゃん。三年間、見てきたって。先生の変わらないところ、知ってるよ」
「たとえば?」
「笑うとき右の頬が左より少し上がるところ。真剣な話するとき耳の裏を触るところ……」
「おいおい、そういうのは癖って――」
「ぶっきらぼうだけど、本当は優しいところ」
柿田は言葉のつづきを出せなかった。すると、美月はふふっと弾むように笑んで言った。
「さて、私たちの関係も変わったことだし、先生なんて呼び方やめたほうがいいよね? なにがいいかな? やっぱりそれっぽく、じゅ、淳一なんて呼んじゃう?」
「いや……それは」さきほどの母の表情が脳裏をよぎり、眉間にしわが寄る。今後、ふつうに名前を呼ばれるたびに胸をしめつけられそうになるのは避けたいと思った。
美月は柿田の心情を汲みとったのか、曖昧に笑ってから考える仕草をした。
「じゃあ、ジュンちゃんっていうのはどう?」
「ジュンちゃん?」
「うん。かわいいでしょ?」
不思議だった。かわいいかどうかはともかく、抵抗なく感覚におさまる。「まあ、なんていうかいいんじゃねえの? おまえらしくてさ」と美月にむき直った。すると彼女は顔をじっと見つめてきたかと思えば、きょろきょろとあたりを見渡してから言った。
「そういえば、さ。誰もいないね」
「あ? ああ」柿田は首を傾げながらも肯定する。ほかの乗客はすでに座席を見つけているみたいで、車両の連絡通路には澄んだ走行音しか響いていなかった。
「ということは、人に見られる心配はないよ、ね」
なにが言いたいのか聞こうとしたときだった。美月がフライイングボディアタック気味に飛び込んできて、唇を重ねてきた――というよりは歯と歯を激突させるような勢いで正直痛かったが、それも最初の瞬間だけでゆっくりと感触を確かめ合うものに落ち着く。柿田は引きかけた腕を美月の肩に回し、目を細めて彼女を受け入れた。
これから、自分を知る者はこの女だけになるのだと思った。
それでいい。それでいいのだと思った。
◇
「私ね、ジュンちゃんには感謝してるんだ」美月が夜空を見上げて言った。「ただの塾の事務員として入った私が講師になれたのは、ジュンちゃんが家庭教師についてくれたおかげだもん。教え方とか、今だってほとんどジュンちゃんの真似ばっかしてる」
確かに、美月は最初こそは講師ではなかった。しかし指導法に悩んでいたある講師に、彼女らしいと言えばらしいが、差し出がましくも助言を与えたことがきっかけで、その秘めたる力量を買われて指導者に転身を果たしたのだ。それが柿田のおかげだという話は、はじめて耳にしたが。
「たいしたことじゃねえよ。おまえの実力だろ」
柿田は片足を上げ、煙草をクラークスのソールですりつぶし、道端に捨てた。まったくつまらないことを思い出してしまった。完全に捨て去ったはずの過去だ。今さらどうすることもできないし、する気もないけれど、どうしてか胸が過敏に反応してうずく。家族というものに対して心がむかってしまう。その端緒は記憶の糸を辿ってみれば、まぎれもなく梨元保奈美と出会ってからだった。
円満だが偽物の家庭で育った柿田と、本物だが凍土がごとき家庭を持った保奈美。
どちらが不幸かなんて比べられないことはわかっているけれど、それぞれの痛みは別次元的に存在していて、十全な理解など不可能なのかもしれないけれど――気づいたときには、柿田の口は言葉を紡いでいた。「なあ、美月」
「なあに?」
「もしも、もしもの話だけどよ。ひとりのガキがいてさ、家庭が自分の居場所だと信じられないくらいに壊れかけてて、そのことをおまえが知っていたとしたら、どうする?」
「えらく限定的なシチュだね」微苦笑を浮かべつつ、美月はつづける。「どうするって言われてもよくわかんないよ。でも、大事なのはできるできないじゃなくて、ジュンちゃんが救ってあげたいかどうかだと思う。その子のことを、思ってあげられることだと思う」
思ってあげられること――か。
それはたぶん、同情や憐憫ではないだろう。
「……って、おい。なんで俺の話になってんだよ」
「え? そういうフリだと思ってた。ツンデレ的な?」
かっ、勘違いしないでよ? アンタのことじゃなくてただのたとえ話なんだからねっ!? とどこぞの二次元に息吹くヒロインの模倣をする美月にむかって、
「んなわけねえだろうが。キモい真似すんなよ」
不機嫌をあらわにした柿田だったが、彼女は無視して言った。
「でもさ、私はジュンちゃんなら助けられる気がする」
虚を突かれたが、かろうじて返す。「俺がそんなヒーローみたいなタマに見えるか?」
「見えるよ。タマタマに見えるよ」
「冗談だろ」
「だったらもっとおもしろいこと言うって」美月は笑った。「なんだかんだ年とってもさ、ジュンちゃんは『ぶっきらぼうだけど本当は優しい』ままなんだよね」
「どういうこった」
「だってさ、その子のことを気にしちゃってる時点で、ふつうにいいお兄さんじゃん?」
柿田はなにも言い返せなかった。ただ、胸でせめぎ合うなにかを感じた。それを具体的に脳内に書き出すことも、実体的にあぶり出すこともできなかったが、しかしその感情の混在が不愉快極まりない状態であることはわかっていた。彼はベンチから立ち上がった。
「やっぱ冗談だぜ」空き缶をダストボックスに放る。「俺、帰るわ」
「そっか。じゃあ、もう会うこともない感じかな」
「だろうな」片方の頬を吊り上げながら、柿田は背をむける。
「ジュンちゃん」少し迷ったような声がかけられたのは、そのときだった。「ねえ、最後にもう一回だけさ、『愛してるぜ、美月』って言ってみてくれない?」
それは、彼女に追い出される前の最後の愛の言葉だった。
「なんだよいきなり」
「……別に? 思いつきってやつです」
「はぁん」納得と怪訝を半々に顔に出力してから言った。「アイシテルゼ、ミヅキ」
「こら、なんなのその馬みたいな顔」
「馬場って野郎の真似だよ」そう言うと、美月はかすかに目を大きくして黙った。「こんなセリフ俺に吐かせんじゃなくてよ、そいつにちゃんと言ってもらえ」
それがきっとおまえにとって正しいんだからよ――という一文は喉の奥にしまい込んで、柿田は再び夜道に足を踏み出す。背後から美月の声が聞こえた。目には見えないが、微笑んでいるような気がした。
「へたくそー、そんな変な声じゃないもん」
そして小さくつづけた。
「……バイバイ、ジュンちゃん」
柿田はひらひらと片手を振りながら、土手のほうへと進路をとった。歩きながら煙草をふかすと、だいたい二本目の火がフィルターにかかるぐらいで廃工場が見えてくる。中に入り奥の螺旋階段を上りきったところで柿田はふと立ち止まった。
美月と妙な会話をしてしまったけれど、保奈美のことを思う思わない以前に彼女の心情はどうなのだろうか。瑠南たちに罵詈雑言を散弾銃がごとく浴びせまくったあげくに、特に雄大には暴力行為をはたらいてしまったのだ。嫌われていてもおかしくない。
(……ってなんで嫌われるのがイヤみたいに考えてんだよ)
癪に感じて、柿田は勢いよくドアノブをつかみ事務所の中に入った。
そして――茫然とつぶやいた。
「なんだよ、これ」
もぬけの殻。
暗闇の中、保奈美と甘夏の姿はどこにもなかった。
(16)
留守を預けていたあいだになにがあったのか。柿田は考えようとするが、うまく頭は回らなかった。動揺という名の泥につかまり、フルアクセルは空転を繰り返す。
浮かんでくるのは甘夏の考えの読めない顔だった。身代金を独り占めするために、自分が不在のあいだに保奈美を別の場所に連れ出したという憶測が、現在では最有力候補になる。ちくしょうが、と柿田は歯軋りする。誘拐に消極的だと感じた場面もあったが、そんなことはない。あの堅気とは違う眼差しの老人はしたたかで、それにもまして自分が間抜けだっただけ。計画から蹴落とされたのは自分だったのだ。思えば、瑠南たちに近づき保奈美と距離を縮めていったのも、より彼女を油断させるためかもしれなかった。
「あああっ! ふざけんじゃねえ!」
八つ当たりぎみにソファを蹴り飛ばす――とはいえ、諦めるのはまだ早い。時間的にそこまで遠くまでいっていないはずだから、捕獲できる可能性はある……なんて考えている間も惜しいような気がして、柿田は顔を上げた。
と。
「入れ違いだったんですね」
いきなり背後から声が聞こえ、振り返る。
ドアのところに保奈美と甘夏が立っていた。ふたりは手を繋いでいた。
「ど……」柿田はうろたえつつ言った。「どこにいってやがったんだ、てめえらっ」
「どこって、柿田さんを探しに外へ……」
「なんでだよ」
怒気さえ孕んだ声で言った。本来なら最悪の事態にならなかったことに安堵すべきだったかもしれないが、そこには自分でもよくわからない種類の感情があった。
「えっ?」
「なんで探そうなんて思ったんだよ! 俺はいなかったんだぞ? 逃げようと思えば逃げられたかもしれないじゃねえか! 誘拐なんてそれで終わりだったろうが!」柿田は甘夏のほうもにらみつけてつづけた。「ジジイ、てめえもそうだぜ。ガキを連れてひとりトンズラできたはずだ! なんでそうしなかった!」
甘夏は肩をすくめて半笑いで言った。「それはおかしな質問だな。私はきさまの共犯者なんだろう? それ以外に理由なんているのか?」
「ふざけんじゃ――」
「私なんですっ」保奈美がかばうように言った。「私が柿田さんを探しにいこうって言ったんです。甘夏さんはついてきてくれただけで……だから、そんなふうに怒鳴らないで」
「そういう話じゃねえ」
「心配だったんですっ。瑠南ちゃんとケンカして、なんだかすごく苦しそうに見えたから。傷ついてるんじゃないかって……心配になったんです」
柿田は返す言葉を失ってしまった。保奈美の願いを聞き入れたわけでは、けっしてない。ただ、さきほどの美月との会話の中で感じた胸でせめぎ合うなにか――それが再び顔を出してきて、「なんで心配するんだよ」と呟くことしかできなかった。「なんで俺のことなんか心配しやがる……」
「この子の行動は、きさまを思ってのことだ」甘夏があきれ気味に口を開いた。「なんでもクソもないんだ、そういう感情は。はじまりは見えないのさ。友人も恋人も――家族も、気づいたときにはそうなっている。人を思うっていうのは、むしろ思う前にできてるものだ」
「……ずいぶんとクセえこと言うじゃねえか」
「でも、それわかる気がします」保奈美がやんわりと微笑みながら言う。「私の柿田さんに対する、その、思いっていうのも、同じなのかもしれない……少し、ちょっと、恥ずかしい気もしますけど。きっと、ほんとは瑠南ちゃんだって一緒のはずですよ」
「きさまだって本当はわかってるんじゃないのか?」
甘夏がすべてを見透かしたような瞳をむけてきた。心の揺らぎを正確に観測するレンズ。柿田はたまらず目をそらす。肯定しているようにとられたかもしれなかった。
「もう我慢できません」
そう佐恵子が言ったのは、午後四時をすぎたころだった。固定電話を眺めていた目を、蒲郡は彼女に移した。吉見やほかの捜査官も似た反応を示している。
「我慢できないです」佐恵子はもう一度、小刻みに肩を震わせながら呟いた。カーテン越しに入射してくる茜色の斜光が、鬼気迫る表情を燃えているかのように照らしていた。
吉見が聞く。「えっと、どうしたんですか?」
「どうしたじゃないですよおっ!」佐恵子の放った怒声は、リビングの壁を重く伝った。「保奈美はっ、保奈美はどこなんですか? 必ず助けてくれるって! どれだけ待てばいいんですか? 毎日まいにち置物みたいにここにいるだけで、ちゃんと捜査してるんですか? 警察ってこんな役立たずだったんですかっ」
「お、落ち着いてください」
「落ち着く? 他人事だからそんなことが言えるのよ。保奈美は今だって怖い思いしているはずなのに……もう、ほんとは、殺されているかもしれないのに……」自分の言葉に怯えるように、頭髪を握りしめながら膝をフローリングの上に下ろす。
「やめましょう、佐恵子さん。考えるべきじゃないです」
差し伸べた吉見の手を、佐恵子は怨念すら映した眼差しで振り払った。
蒲郡はその様子を見て思った――どうやらやはり、一人娘の失踪という事態は彼女に対して外面以上の負荷(ストレス)をかけていたみたいだ。たぶん、ギリギリまで溜め込んでしまうタイプなのだろう。さっきまで平静な手つきでコーヒーを淹れていたと思ったら、いきなりこんなヒステリーを起こしてしまったのだから。吉見の驚きは理解に苦しまない。
とはいえ、それがすべて保奈美への愛情から起因していることを考えると、申し訳ない気持ちが胸で深くにじむ。自分たちが不甲斐ないことは事実なのだ。
すると、玄関のほうから鍵を開ける音がした。義孝だ。スーツ姿の彼は、蒲郡たちに軽く会釈を流してから廊下に消えようとした。その背中に佐恵子が追いすがった。
「義孝さんっ。帰ってきてくれたのね」
「な、なんだ?」
「今日早いのは、一緒に保奈美を探してくれるからでしょ?」
「違う」佐恵子の腕を引き剥がしながら言った。「資料を部屋に置いてきてしまったから、とりにきただけだ。またすぐに出る。あと夕飯はいらないから、ひとりで片付けておいてくれ」
「え……違うの? なんで違うの? 違うって、なに」
「だから仕事で」
「あなたの子どもは仕事なの? 保奈美はいないの?」
「なにいってるんだ、佐恵子。僕の言ってること、わかるか」
あはは、と佐恵子は笑った。胡桃の殻が触れ合うような、乾いた笑いだった。
「わかってないのはあなたのほうよっ! 保奈美がいないのに平気な顔して会社にいって、私の気持ちや保奈美の気持ちぜんぶ無視して、わかろうともしてないじゃない!」
「おい、自重しろよ。人がいるんだぞ」
蒲郡らを横目にとらえながら、義孝は佐恵子の両肩をつかむ。しかし、彼女の表情はさらに嫌悪に歪んでいった。「結局、あなたはそうなのよね。ずっとそう」
「なに?」
「気にしてるのは世間体ばかり。家族でさえも、その道具」乱れた黒髪を整えようともせずに肩を揺らす。「私、知ってるのよ? あなたが本当は女性が大っ嫌いってこと。どんな教育を受けてきて、どんなふうにそう思うようになったのかはわからないけど、結婚して数ヶ月経つころにはもう気づいていたわ。ああ、この人は私をセックス可能な家政婦ぐらいに……いいえ、もっと下の存在にしか思ってないんだって。でも、私もばかだった。それでも一度得た安定にしがみついていた」
義孝の顔色が変わった――それは、佐恵子の指摘が事実に相違なかったからだった。彼が結婚に対して唯一求めていたものは、「幸せな家庭を持つ一人前の男」と書かれた看板だけだった。交際費ホテル代結婚式費用及び将来的な生活費養育費その他諸々のすべてを含んだ、高額な買い物だった。すべては世間体のためで、つりあいのとれる容姿なら同居人(あいて)は誰でもよかったのだ。
「もし、保奈美が男の子だったら少しは違ったのかしら。あなたの唯一認める種だったなら……でもね、今はあの子が女でよかったって思う。私は自分の子どもに、あなたみたいな大人になってほしくないから」そう言ってから、佐恵子は憐れむように頬を緩めた。「あの子はあなたのそういう考え見抜いていたみたいだけどね。どうして保奈美が黒いランドセルを背負っているか知ってる? 少しでもあなたに男の子を感じてほしいからなんだって。六歳の女の子がね、そう言ったのよ。黒が好きだからなんて、嘘。あの子が好きな色はパステルピンク。いなくなった日も、その色のカーディガンを着てた……」
「なんだその話。聞いてないぞ」義孝は目元をひくつかせながら唸った。
「だから、聞く気すらなかったんでしょう? 笑わせないでっ。仕事と自分の格にしか興味のない寂しい人。人生をかけた壮大なオナニーよね」
「女のくせに、うるさい! 黙れっ!」
冷静なイメージが瞬時に崩落する。義孝は眼鏡の奥の眼球を剥きながら、佐恵子を押し倒した。そして、いつかと同じように顔面を殴ろうと拳を振り上げたときだった。
「旦那さん」
蒲郡が手首をつかまえていた。ぎりぎりと、見た目以上の力で。
「それ以上は我々が出る幕になります」
「なんだあんたは。これは夫婦の問題だっ」
「十中八九大事な世間体とやらが粉々になりますが、それでも?」
義孝は大きく舌打ちすると、佐恵子から離れた足で二階に上っていき、書類――さきほどの資料だろう――を手に無言で家を出ていった。
静寂が耳に重くのしかかってくる。幾多の犯罪者にむき合ってきた刑事たちは、ひとりの傷ついた女性にかける言葉を探し当てられずにいた。しかし、しだいにささやかな音が生まれてくる。それが、佐恵子が涙をすする声だと気づくのに時間はかからなかった。
「なんで」呆けたように小さく口を動かす。「なんで私はまともな家庭が持てないの……」
今回だけでないような――かすかに引っかかる言い方だったが、根掘り葉掘り聞くのは警察官の業務領域でも権限でもない。そういうのは占い師にでも任せておけばいい。
「吉見」蒲郡は佐恵子を見下ろしながら言った。「彼女を頼む。落ち着かせてやれ」
「えっ、無茶言わないでくださいよ」
「俺は無茶は言うが無理は言わない」
「考えてみたらなんの弁解にもなってないっ!?」
「とにかく、俺は出てくる」コートを片手に玄関にむかう。
「なにしにいくんですか?」
「聞き込み調査だ。刑事(デカ)は現場百回ってな」
ドヤ顔で逃げる気だ……という吉見の愚痴は馬耳東風に処して、蒲郡は外に出る。
西日が真正面から目を刺してきて眩しい。手で庇をつくりながら、犯行現場と目される君鳥小学校の方向を見た。これまで何度も回って収穫はないに等しかったが、だがそれは、今回も徒労に終わる理由にはならないのである。
――とは言ったものの、やはり今日も全打席空振り三振で切り上げるしかないみたいだった。目撃情報はなく、遺留品などの足跡も見つけることができない。町内の人々から返ってくる反応は、きまって「知らない」の言葉とジェスチャーのコンボだった。去っていく犬の散歩中の婦人の背中を眺めながら、蒲郡は人知れず溜息をはいた――その次の瞬間だった。
視界の端に、ふたつの小さな影が走った。
「ん?」
そちらに近づいていき、十字路に出る。すると、遠くの曲がり角をふたりの小学生らしき子どもが駆けていくところだった。蒲郡ははっとして表情を引きしめた。豆ほどのサイズでなおかつ後ろ姿しか視認できなかったけれど、あれはきっと杏藤瑠南と梅村雄大だ。
即座に、脳内に学校側に提出させた児童名簿がスライドしてくる。うろ覚えではあるが、確かふたりとも住所は別の方角にあったはずだ。それだけでも疑問なのに、くわえて、予想どおりというべき否か“あのふたりのセット”なのである――注意しろ、と再び刑事の勘が指図するのを感じた。異議を申し立てる気は微塵もなかった。
ふたりを追いはじめた蒲郡だったが、しかし尻尾をつかむことは難しかった。
発見しては見失う――それを繰り返すだけの、いたちごっこを演じさせられていた。根性では勝っているつもりだったが、すばやさで圧倒的に負けていた。そして、町の外れまで辿り着いたところで、ついに完全に行方がわからなくなってしまった。というより、そもそもの問題として、追跡の道筋はこれで正しかったのだろうか? と考える。途中からただ闇雲に走っていたような気がするのだ。
「はあ、はあ……ちくしょうめ」
息を切らしながら顔を上げると、緑色の土手が見える。蒲郡は風に当たりたくて、芝を踏みしめながら上っていった。色を散らしていく美しい夕空と、きらめく河川が広がる。長く眺めているのも悪くなかったが、疲労感が早い帰還を促していた。
きびすを返そうとすると、
「最近おもしれえことねえよな」
通りかかった数人の男子高校生の会話が耳に入った。
「ならさ、オレんちの残った花火でもしねえ?」
「季節外れだな。秋だぜ?」
「どうせ線香花火ばっかなんだろ。アガらねえって」
「いやいや、パァン! って飛ぶド派手なやつもあんだよ」
「へえ。だったらクラスの女子とかも誘ってみるか?」
「いいな。でも、その前にどこでやる気?」
「ここでいいんじゃね? 広さあるし、ちょうど水もあるしな」
そこまで聞いて、蒲郡は高校生たちに声をかけた。
「きみたち」
「え? なんすか?」
「この土手で花火はやめなさい。万が一火事が起こるかもしれん。川を汚すのも駄目だ」
いちおうの職務の一環として注意したところ、高校生たちは互いに見合ったあと、小声でなにやらぶつくさ言いながら歩いていく。つくづく守り甲斐のない市民だと思う――その一方で、梨元保奈美を必ず救い出さなければならないと改めて強く感じた。
たとえ彼女が、梨元家の絆ではなかったとしても。
留守を預けていたあいだになにがあったのか。柿田は考えようとするが、うまく頭は回らなかった。動揺という名の泥につかまり、フルアクセルは空転を繰り返す。
浮かんでくるのは甘夏の考えの読めない顔だった。身代金を独り占めするために、自分が不在のあいだに保奈美を別の場所に連れ出したという憶測が、現在では最有力候補になる。ちくしょうが、と柿田は歯軋りする。誘拐に消極的だと感じた場面もあったが、そんなことはない。あの堅気とは違う眼差しの老人はしたたかで、それにもまして自分が間抜けだっただけ。計画から蹴落とされたのは自分だったのだ。思えば、瑠南たちに近づき保奈美と距離を縮めていったのも、より彼女を油断させるためかもしれなかった。
「あああっ! ふざけんじゃねえ!」
八つ当たりぎみにソファを蹴り飛ばす――とはいえ、諦めるのはまだ早い。時間的にそこまで遠くまでいっていないはずだから、捕獲できる可能性はある……なんて考えている間も惜しいような気がして、柿田は顔を上げた。
と。
「入れ違いだったんですね」
いきなり背後から声が聞こえ、振り返る。
ドアのところに保奈美と甘夏が立っていた。ふたりは手を繋いでいた。
「ど……」柿田はうろたえつつ言った。「どこにいってやがったんだ、てめえらっ」
「どこって、柿田さんを探しに外へ……」
「なんでだよ」
怒気さえ孕んだ声で言った。本来なら最悪の事態にならなかったことに安堵すべきだったかもしれないが、そこには自分でもよくわからない種類の感情があった。
「えっ?」
「なんで探そうなんて思ったんだよ! 俺はいなかったんだぞ? 逃げようと思えば逃げられたかもしれないじゃねえか! 誘拐なんてそれで終わりだったろうが!」柿田は甘夏のほうもにらみつけてつづけた。「ジジイ、てめえもそうだぜ。ガキを連れてひとりトンズラできたはずだ! なんでそうしなかった!」
甘夏は肩をすくめて半笑いで言った。「それはおかしな質問だな。私はきさまの共犯者なんだろう? それ以外に理由なんているのか?」
「ふざけんじゃ――」
「私なんですっ」保奈美がかばうように言った。「私が柿田さんを探しにいこうって言ったんです。甘夏さんはついてきてくれただけで……だから、そんなふうに怒鳴らないで」
「そういう話じゃねえ」
「心配だったんですっ。瑠南ちゃんとケンカして、なんだかすごく苦しそうに見えたから。傷ついてるんじゃないかって……心配になったんです」
柿田は返す言葉を失ってしまった。保奈美の願いを聞き入れたわけでは、けっしてない。ただ、さきほどの美月との会話の中で感じた胸でせめぎ合うなにか――それが再び顔を出してきて、「なんで心配するんだよ」と呟くことしかできなかった。「なんで俺のことなんか心配しやがる……」
「この子の行動は、きさまを思ってのことだ」甘夏があきれ気味に口を開いた。「なんでもクソもないんだ、そういう感情は。はじまりは見えないのさ。友人も恋人も――家族も、気づいたときにはそうなっている。人を思うっていうのは、むしろ思う前にできてるものだ」
「……ずいぶんとクセえこと言うじゃねえか」
「でも、それわかる気がします」保奈美がやんわりと微笑みながら言う。「私の柿田さんに対する、その、思いっていうのも、同じなのかもしれない……少し、ちょっと、恥ずかしい気もしますけど。きっと、ほんとは瑠南ちゃんだって一緒のはずですよ」
「きさまだって本当はわかってるんじゃないのか?」
甘夏がすべてを見透かしたような瞳をむけてきた。心の揺らぎを正確に観測するレンズ。柿田はたまらず目をそらす。肯定しているようにとられたかもしれなかった。
「もう我慢できません」
そう佐恵子が言ったのは、午後四時をすぎたころだった。固定電話を眺めていた目を、蒲郡は彼女に移した。吉見やほかの捜査官も似た反応を示している。
「我慢できないです」佐恵子はもう一度、小刻みに肩を震わせながら呟いた。カーテン越しに入射してくる茜色の斜光が、鬼気迫る表情を燃えているかのように照らしていた。
吉見が聞く。「えっと、どうしたんですか?」
「どうしたじゃないですよおっ!」佐恵子の放った怒声は、リビングの壁を重く伝った。「保奈美はっ、保奈美はどこなんですか? 必ず助けてくれるって! どれだけ待てばいいんですか? 毎日まいにち置物みたいにここにいるだけで、ちゃんと捜査してるんですか? 警察ってこんな役立たずだったんですかっ」
「お、落ち着いてください」
「落ち着く? 他人事だからそんなことが言えるのよ。保奈美は今だって怖い思いしているはずなのに……もう、ほんとは、殺されているかもしれないのに……」自分の言葉に怯えるように、頭髪を握りしめながら膝をフローリングの上に下ろす。
「やめましょう、佐恵子さん。考えるべきじゃないです」
差し伸べた吉見の手を、佐恵子は怨念すら映した眼差しで振り払った。
蒲郡はその様子を見て思った――どうやらやはり、一人娘の失踪という事態は彼女に対して外面以上の負荷(ストレス)をかけていたみたいだ。たぶん、ギリギリまで溜め込んでしまうタイプなのだろう。さっきまで平静な手つきでコーヒーを淹れていたと思ったら、いきなりこんなヒステリーを起こしてしまったのだから。吉見の驚きは理解に苦しまない。
とはいえ、それがすべて保奈美への愛情から起因していることを考えると、申し訳ない気持ちが胸で深くにじむ。自分たちが不甲斐ないことは事実なのだ。
すると、玄関のほうから鍵を開ける音がした。義孝だ。スーツ姿の彼は、蒲郡たちに軽く会釈を流してから廊下に消えようとした。その背中に佐恵子が追いすがった。
「義孝さんっ。帰ってきてくれたのね」
「な、なんだ?」
「今日早いのは、一緒に保奈美を探してくれるからでしょ?」
「違う」佐恵子の腕を引き剥がしながら言った。「資料を部屋に置いてきてしまったから、とりにきただけだ。またすぐに出る。あと夕飯はいらないから、ひとりで片付けておいてくれ」
「え……違うの? なんで違うの? 違うって、なに」
「だから仕事で」
「あなたの子どもは仕事なの? 保奈美はいないの?」
「なにいってるんだ、佐恵子。僕の言ってること、わかるか」
あはは、と佐恵子は笑った。胡桃の殻が触れ合うような、乾いた笑いだった。
「わかってないのはあなたのほうよっ! 保奈美がいないのに平気な顔して会社にいって、私の気持ちや保奈美の気持ちぜんぶ無視して、わかろうともしてないじゃない!」
「おい、自重しろよ。人がいるんだぞ」
蒲郡らを横目にとらえながら、義孝は佐恵子の両肩をつかむ。しかし、彼女の表情はさらに嫌悪に歪んでいった。「結局、あなたはそうなのよね。ずっとそう」
「なに?」
「気にしてるのは世間体ばかり。家族でさえも、その道具」乱れた黒髪を整えようともせずに肩を揺らす。「私、知ってるのよ? あなたが本当は女性が大っ嫌いってこと。どんな教育を受けてきて、どんなふうにそう思うようになったのかはわからないけど、結婚して数ヶ月経つころにはもう気づいていたわ。ああ、この人は私をセックス可能な家政婦ぐらいに……いいえ、もっと下の存在にしか思ってないんだって。でも、私もばかだった。それでも一度得た安定にしがみついていた」
義孝の顔色が変わった――それは、佐恵子の指摘が事実に相違なかったからだった。彼が結婚に対して唯一求めていたものは、「幸せな家庭を持つ一人前の男」と書かれた看板だけだった。交際費ホテル代結婚式費用及び将来的な生活費養育費その他諸々のすべてを含んだ、高額な買い物だった。すべては世間体のためで、つりあいのとれる容姿なら同居人(あいて)は誰でもよかったのだ。
「もし、保奈美が男の子だったら少しは違ったのかしら。あなたの唯一認める種だったなら……でもね、今はあの子が女でよかったって思う。私は自分の子どもに、あなたみたいな大人になってほしくないから」そう言ってから、佐恵子は憐れむように頬を緩めた。「あの子はあなたのそういう考え見抜いていたみたいだけどね。どうして保奈美が黒いランドセルを背負っているか知ってる? 少しでもあなたに男の子を感じてほしいからなんだって。六歳の女の子がね、そう言ったのよ。黒が好きだからなんて、嘘。あの子が好きな色はパステルピンク。いなくなった日も、その色のカーディガンを着てた……」
「なんだその話。聞いてないぞ」義孝は目元をひくつかせながら唸った。
「だから、聞く気すらなかったんでしょう? 笑わせないでっ。仕事と自分の格にしか興味のない寂しい人。人生をかけた壮大なオナニーよね」
「女のくせに、うるさい! 黙れっ!」
冷静なイメージが瞬時に崩落する。義孝は眼鏡の奥の眼球を剥きながら、佐恵子を押し倒した。そして、いつかと同じように顔面を殴ろうと拳を振り上げたときだった。
「旦那さん」
蒲郡が手首をつかまえていた。ぎりぎりと、見た目以上の力で。
「それ以上は我々が出る幕になります」
「なんだあんたは。これは夫婦の問題だっ」
「十中八九大事な世間体とやらが粉々になりますが、それでも?」
義孝は大きく舌打ちすると、佐恵子から離れた足で二階に上っていき、書類――さきほどの資料だろう――を手に無言で家を出ていった。
静寂が耳に重くのしかかってくる。幾多の犯罪者にむき合ってきた刑事たちは、ひとりの傷ついた女性にかける言葉を探し当てられずにいた。しかし、しだいにささやかな音が生まれてくる。それが、佐恵子が涙をすする声だと気づくのに時間はかからなかった。
「なんで」呆けたように小さく口を動かす。「なんで私はまともな家庭が持てないの……」
今回だけでないような――かすかに引っかかる言い方だったが、根掘り葉掘り聞くのは警察官の業務領域でも権限でもない。そういうのは占い師にでも任せておけばいい。
「吉見」蒲郡は佐恵子を見下ろしながら言った。「彼女を頼む。落ち着かせてやれ」
「えっ、無茶言わないでくださいよ」
「俺は無茶は言うが無理は言わない」
「考えてみたらなんの弁解にもなってないっ!?」
「とにかく、俺は出てくる」コートを片手に玄関にむかう。
「なにしにいくんですか?」
「聞き込み調査だ。刑事(デカ)は現場百回ってな」
ドヤ顔で逃げる気だ……という吉見の愚痴は馬耳東風に処して、蒲郡は外に出る。
西日が真正面から目を刺してきて眩しい。手で庇をつくりながら、犯行現場と目される君鳥小学校の方向を見た。これまで何度も回って収穫はないに等しかったが、だがそれは、今回も徒労に終わる理由にはならないのである。
――とは言ったものの、やはり今日も全打席空振り三振で切り上げるしかないみたいだった。目撃情報はなく、遺留品などの足跡も見つけることができない。町内の人々から返ってくる反応は、きまって「知らない」の言葉とジェスチャーのコンボだった。去っていく犬の散歩中の婦人の背中を眺めながら、蒲郡は人知れず溜息をはいた――その次の瞬間だった。
視界の端に、ふたつの小さな影が走った。
「ん?」
そちらに近づいていき、十字路に出る。すると、遠くの曲がり角をふたりの小学生らしき子どもが駆けていくところだった。蒲郡ははっとして表情を引きしめた。豆ほどのサイズでなおかつ後ろ姿しか視認できなかったけれど、あれはきっと杏藤瑠南と梅村雄大だ。
即座に、脳内に学校側に提出させた児童名簿がスライドしてくる。うろ覚えではあるが、確かふたりとも住所は別の方角にあったはずだ。それだけでも疑問なのに、くわえて、予想どおりというべき否か“あのふたりのセット”なのである――注意しろ、と再び刑事の勘が指図するのを感じた。異議を申し立てる気は微塵もなかった。
ふたりを追いはじめた蒲郡だったが、しかし尻尾をつかむことは難しかった。
発見しては見失う――それを繰り返すだけの、いたちごっこを演じさせられていた。根性では勝っているつもりだったが、すばやさで圧倒的に負けていた。そして、町の外れまで辿り着いたところで、ついに完全に行方がわからなくなってしまった。というより、そもそもの問題として、追跡の道筋はこれで正しかったのだろうか? と考える。途中からただ闇雲に走っていたような気がするのだ。
「はあ、はあ……ちくしょうめ」
息を切らしながら顔を上げると、緑色の土手が見える。蒲郡は風に当たりたくて、芝を踏みしめながら上っていった。色を散らしていく美しい夕空と、きらめく河川が広がる。長く眺めているのも悪くなかったが、疲労感が早い帰還を促していた。
きびすを返そうとすると、
「最近おもしれえことねえよな」
通りかかった数人の男子高校生の会話が耳に入った。
「ならさ、オレんちの残った花火でもしねえ?」
「季節外れだな。秋だぜ?」
「どうせ線香花火ばっかなんだろ。アガらねえって」
「いやいや、パァン! って飛ぶド派手なやつもあんだよ」
「へえ。だったらクラスの女子とかも誘ってみるか?」
「いいな。でも、その前にどこでやる気?」
「ここでいいんじゃね? 広さあるし、ちょうど水もあるしな」
そこまで聞いて、蒲郡は高校生たちに声をかけた。
「きみたち」
「え? なんすか?」
「この土手で花火はやめなさい。万が一火事が起こるかもしれん。川を汚すのも駄目だ」
いちおうの職務の一環として注意したところ、高校生たちは互いに見合ったあと、小声でなにやらぶつくさ言いながら歩いていく。つくづく守り甲斐のない市民だと思う――その一方で、梨元保奈美を必ず救い出さなければならないと改めて強く感じた。
たとえ彼女が、梨元家の絆ではなかったとしても。
(17)
柿田の超短期的家出から二日後の夜のことだった。
「お風呂に入りたいです」
保奈美がもじもじしながら言った。しきりに腕だったり髪の毛だったりを気にしている様子だ。可愛らしい鼻を動かして、眉根を寄せる。
「なんだよ、いきなり」柿田は視線を寄越した。
「いきなりじゃないです。どのくらい入ってないと思ってるんですか? ほら、嗅いでみてくださいよ。絶対くさいですよ……」
言われて、彼女の黒髪をすくいとって鼻先を埋める。確かに、人間である以上は生命ゆえのにおいというのがあるかもしれないが、どちらかというと甘い果実のような香りがした。美月とはまた違った、幼さの残る少女の芳香だ。
「問題ねえな。第一、風呂なんざ贅沢だぜ」
「必要な出費は贅沢って言わないんですよ」
引っかかる言葉を耳に留める。「出費だと? てめえまさか」
一度頷いてから、保奈美は言った。
「銭湯にいきましょう、柿田さん」
「おいおいおい。いくらなんでも誘拐犯に言うセリフじゃねえだろ」
「? どうしてですか?」
「人質外に出してどうすんだよ」
「私、別に逃げませんよ。ほら、この前だって」
そうだった、と柿田は舌を弾いた。この少女は、自分が心配だからという理由で、脱走する絶好のチャンスを惜しげもなくふいにしてしまったのだ。そこには純粋な思いしかなく、そして今も、無垢な表情の裏にはなにも隠されていないのだろう。
「んなこと言ってもな」難しい顔をつくり、煙草を燻らす。「てめえはいいかもしれねえが、こっちにしてみれば一般人に目撃されるリスクは無視しきれねえんだわ」
「そこはたぶん問題ないと思います」
「あん? えらく自信あるじゃねえか」
「実証済みですもん。ね? 甘夏さん」
保奈美が小首を傾げて見たほうで、甘夏はゆっくりと頷いた。
「確かにちょうど同じ時間帯だが……人なんてまったく会わなかったな」
実際そのとおりで、街路灯のまばらなこの区域は夜間の人通りなどほとんどない。それはこの町で生活してきた柿田自身がよくわかっていることでもあった。
保奈美に倣い、腕のにおいを嗅いでみる。生ゴミほどではないが、さすがに浮浪者じみた異臭がまとわりついている。髪も脂っぽい指通りだ。端的に言って、気持ち悪い。
「柿田さんだってやっぱり気にしてるんじゃないですか。いきましょうよ、銭湯」
「彼女の言うとおりかもしれない。たまには悪くないと思うぞ。不快な状態のままだと精神的に支障が出る。計画もうまくいかない可能性がある」
甘夏は保奈美の味方のようだ。
「てめえら、いつもグルになりやがって……」
柿田は唸りつつも、今回の外出における利益と危険を脳内の天秤にかける。結果は、僅差で入浴する利益のほうが勝った。正直なところ、溜まった垢を綺麗さっぱり洗い落としたいという個人的願望が力添えを行ったことは、否定できない部分があったが。
「しかたがねえな。あんま長湯はできねえけど、文句ぬかすなよ?」
喜色満面で保奈美は頷いた。「はいっ。大丈夫です」
「オーライ。じゃあ俺についてきやがれ」
柿田たちは注意を払いながら、隠密のように外に出た。こっそりと土手を這い上がり左右を見るが、人の姿はなく、夜道は静まり返っている。ひとまずは安心と言ったところか。
「よさそうだな」歩きながら柿田は煙草をくわえた。「てめえら、いくぞ」
「ポイ捨てはやめてくださいね」
「あん? なんだよ――」そう言って、思い出す。保奈美とはじめて言葉を交わした夕暮れ時にこの土手で同じような会話をした。あそこからすべてがはじまり、ずいぶんと長い時間がすぎたように感じるけれど、きっとこの町にも自分たちにもたいした変化はないのだろう。そう思いつつ、柿田は煙草を箱にもどした。「――いい子ぶるのもいい加減にしろよな」
しばらく歩くと、こじんまりとした銭湯に到着した。『吉の湯』という看板の左右で、男湯と女湯の戸が分けられている。昔ながらという感じの佇まいだ。
柿田は、鼻歌を歌いながら女湯に入っていこうとする保奈美を呼び止めた。
「おい、なに当たり前みたいにそっちいこうとしてんだ」
きょとんとして彼女は言う。「え、だってこっちが女湯で……」
「ふざけんな。てめえは俺たちと一緒にこっちに入るんだよ」
青い暖簾を指さすと、保奈美の表情が引き気味になった。
「え……柿田さんってそういう趣味が……」
「バーロー。見張りに決まってんだろ。分けて入ってるあいだにトンズラされちゃたまんねえからな」溜息を吐いてつづける。「あと、ガキのはんぺんみてえな裸で勃つかってんだ」
「そんな! でも、店の人が許さないですよっ」
「ここの番頭はモーロクジジイだ。煙突の煙と一緒に天に召されていくのをたびたび目撃されてる。男か女かなんて見えてねえし、犬が入ってきても客だと思うだろうよ」
「ほかのお客さんとかいるかもしれないし……」
「前にきたことあるが、二時間入ってもワンマンライブ状態だったぜ。てめえの言う実証済みってやつだな」ニヤリと笑って保奈美を見る。
「ううう……」彼女はふと甘夏に視線を移し、ぱっと輝かしい顔になって言った。「あっ、甘夏さんはどう思いますか? こんなの非常識ですよねっ?」
「ちっ」
ジジイに逃げやがったか、と甘夏を見る。彼は九割九分九厘の確率で保奈美に肩入れするから、反論されるのは必須だ――と思っていたのだが。
「ふむ。別に私は若造の言うとおりでいいと思うぞ」
「ですよね柿田さんの言うとおりで……って、えええっ!?」
思いもよらない返答に保奈美はもちろんのこと、柿田も少々面食らう。とはいえ、障害が消え去ったことは素直に喜ぶべきだろう。放心状態の保奈美の手を引いた。
「決定だな。ほれいくぞ、ガキ」
予想どおり、番頭は難なくパスできて、脱衣所の籠はひとつも使用されていなかった。シャツを脱ぎ落とした柿田は、保奈美がやけにゆっくりとカーディガンのボタンを外しているのに気がついた。「のろのろすんな。はやく入るぞ」
「こ、こっち見ないでくださいよ……」ためらいがちに言う。
「まだそんなこと言ってんのか。見ねえからさっさとこいや」
浴場には湯気が立ち込めていた。壁面に描かれた富士山が雰囲気抜群だ。三人は適当な鏡の前に陣取り、とにかくからだの汚れを落とす作業からはじめる。勢いよく泡を流し終えた柿田は、となりがやけに静かなことに気がついた。
「おい、ガキ。なにちまちまやってんだよ。そんなんじゃ終わらねえぞ」
「そんなこと言ったって……」
保奈美は極限にまでからだを縮めて、細々とボディソープを玉の肌に滑らせていた。赤らめた頬を見るかぎりやはり年相応の意識があるのだろうが、柿田のとってはそんなことは関係なかった。横からシャワーを盛大に浴びせてやる。
「わわっ、なにするんですかっ」逃げていく泡を追うように手を動かす。
「からだは終了だな。次は髪だろ。ほれ、はやく洗え」
こんどは頭にシャワーヘッドをむける。保奈美は、「もうっ、柿田さんは強引すぎます……」と愚痴りながらもシャンプーを手のひらに伸ばして洗いはじめた。しばらくすると、泡立てすぎて視界を遮られてしまったらしく、手をうろうろと動かし出した。
「なにやってんだよ。ガキじゃあるめえし」
「ガ、ガキって柿田さんは呼んでるじゃないですか」
「まあそれもそうだな。しかたねえ。じっとしてろ」
「なな、なにするんですか?」
「続きをしてやるってんだよ。てめえの髪は長いからな、もっと丹念に洗わねえと」
「あ……頭だけ見てくださいよ」という言葉に生返事を返して、柿田は保奈美の黒髪に五指を入れる。クセがまったくなく、まるで潤いの中を自然に感覚が下っていくようだった。もし自分が美容師だったなら、金を払ってでも扱いたいぐらいかもしれない。
「なんだか思い出しちゃいます」どこかほぐれた声で、保奈美は言った。「前はお母さんと一緒にお風呂に入っていて、よくこうやって髪を洗ってもらってました」
柿田は少し考えてから返した。「……やっぱり家に帰りてえんじゃねえのか?」
「どうでしょう。私にもよくわかりません。お母さんやお父さんの顔が見たいっていう気持ちもあると思いますけど、きっと居場所はないですから……」
「じゃあ、どこにあると思ってんだ」
「それは……」
「どこにもないとか考えてるわけじゃねえのか」
かすかに自問するようになっているのを、柿田は感じた。経緯は違えど、家庭という大多数の人間にとっての安らぎの地を喪失している点で、やはり共鳴するものがあった。最近ではそれを否定する感情もなくなってきていることもまた、理解していた。
「いえ、居場所がないなんてことは絶対にないと、信じていたいです」
信じていたい――か。
どうしてか胸がうずいた。まだそんな痛みを感じられるほどの息が心にあったことに驚きつつも、柿田は言った。「たとえば、そいつはどこにあるんだろうな」
「今は、私にとって瑠南ちゃんはとっても大きな存在です。大好きな友だちです。彼女のそばにいられればいいなって思いますし、それに……」
ちらりと柿田のほうをむく気配があった。
「もしかして、あの汚ねえ事務所も居場所だと思ってんのか?」
「……いけませんか」保奈美はせつなげに唇を動かす。
「絶対っていう判断基準はねえとは思うけど、正解不正解がないってわけでもねえよな」
それは――もしかしたら、自分に対しての言葉かもしれなかった。
ちょうど洗髪に区切りがついたので、柿田は丁寧にシャンプーを落としはじめる。保奈美は黙りこくっていた。どこか重たい空気が漂いかけている気がして、ふと柿田は言った。特に、眼下に広がる小学五年生女子の全国平均よりもいささか控えめらしい起伏を見つつ。
「まあ、じきに成長するから心配するなよ」
「可及的速やかに死んでください」
「ええっ」
歴史上、類を見ないトーンの低さだった。意外と気にしているらしい。
「どうせ私にはブラなんて一生必要ないですよ」
「そ、そこまでは言ってねえよ。つか、冗談に決まってんだろ。とにかく、その背中から噴出してる犬夜叉の奈落が生む瘴気みたいな黒いオーラをおさめやがれ」
そう残して、逃げるように湯に入る。一方の保奈美はゆっくりと立ち上がり、別のぬるめに設定された湯船に首まで浸からせた。湯が黒く汚染されていっているのは、目の錯覚であると思いたい。
と――となりに甘夏が入ってきた。
「まったくきさまは、なにをやっているんだ」
あきれ気味に言われる。柿田はむっとしつつ、頬を歪めて返した。
「エロジジイに言われる筋合いはねえな」
「どういうことだ?」
「あんだけガキのサイドについてたてめえが、一緒に風呂に入るとなると文句ひとつ垂れねえんだぜ? 正直に白状しろよ。ガキの裸が見たかったんだろ?」
甘夏は動じた様子もなく、ふっと笑った。「目的が違うな」
「あん? そりゃどういう」
「きさまには関係のないことだ。安心しろ。計画の邪魔はしないさ」
彼の、なにか自分とは異なるものを見ているみたいな眼差しが引っかかった。
「はあ? なに遠くから言ってんだよ。てめえは共犯者だろうが」
「だからこそだ」甘夏ははぐらかすように言うと、立ち上がりながらつづけた。「私はもうそろそろ出る。老体に長風呂は意外とくるからな。そっちは適当に切り上げてきてくれ」
「わかった」
甘夏が曇りガラスのむこうに消えるのを見送ってから、柿田は考えた――今さらながらに、彼の素性の知れなさが気にかかりはじめていた。しかし、ただ自分と同じように誘拐を目論んでいたということ以外は有意のピースとして数えられるものはなく、すぐに思惟を諦めて、十分ほど半身浴を堪能したのちに脱衣所にむかった。
銭湯からの帰り道は、秋の涼気に包まれている。
土手を歩きながら、柿田は今後のことについて思案した――そろそろ身代金の請求を果たさなければならない。それはつまり、誘拐事件に終止符を打つことを意味する。軍資金は底が見えてきた気配があるし、機は熟していると言っていいだろう。
甘夏の登場、保奈美の告白、瑠南と雄大の参入と、色々とハプニングが起きすぎて当初の計画からあまりに踏み外した結果、要らぬことを考えてしまったきらいがあるけれど、それでも最終的な目的は忘れていなかった。それ以外のなにかは前にも後ろにもないはずだ。
(あいつらともオサラバできるわけだ)
前方に視線を伸ばす。十数メートル先を、甘夏と保奈美がならんで歩いている。保奈美は機嫌を直しつつあるらしく、ふたりは柔らかい表情を見せ合っている。その姿を眺めながら、ふいにとある印象が浮かんでくるのを柿田は感じた。
――あのふたりは、まるで――
と。
暗がりのむこうから、白い自転車をひいた人影がやってくるのが見えた。人と遭うこと自体いただけないのに、それ以上に嫌な予感が全身を駆け抜けた。そして、こんなときだけ高性能で働く第六感を心底呪いたいと柿田は思った。
警邏中の警官だった。
彼は、すれ違おうとする甘夏と保奈美を凝視していた。まずい、と思う。当然といえば当然のことであるが、事件はいまだ公になっていなくても、付近の交番勤務者には梨元保奈美の情報は顔写真つきで伝わっているはずなのだ。
なんとかふたりから意識をそらさせ、その間に逃がさなければならない。柿田は自発的に職務質問のターゲットになることを決めた。これまでも呼び止められた経験は豊富にあったので、自信は持っていた。上半身裸になり、ボトムスも半脱ぎの状態にして、とりあえずダイナミックに三点倒立を披露してみる。
だが、警官は柿田に見むきもしなかった。スタンドを立て、甘夏たちに声をかける。
「ちょっと待ちなさい!」
「なんだ?」甘夏が凄みのある声で振り返る。
「その女の子、梨元保奈美ちゃんだろう?」そう聞くと、保奈美が甘夏の陰から怯えた顔をのぞかせる。それを見て警官は確信したみたいだった。「やっぱりそうだな! おまえが卑劣な誘拐犯か! おとなしくその子を離しなさい!」
甘夏と警官は取っ組み合いを開始した。
「なにくそ!」
「甘夏さんっ」保奈美の悲鳴が響く。
くんずほぐれつの互角の闘いだ。とはいえ、この状態でただ観戦していて許されるわけがなかった。加勢は急務だ。柿田は服を正すと、一呼吸置いてから、雄叫びを上げてふたりのところへと一直線にダッシュした。
「うおおおおおおおおおおおおおあああああああああああっ!」
「抵抗するな――って、なに?」
気づいたときには遅きに失した。
「積年の恨みだクソ野郎おおおおおおおおおおおおおおおっ!」
飛ぶ。
柿田は、渾身のドロップキックを警官の横腹に突き刺した――彼は自転車を巻き込みながら土手を転げ落ちていき、最後に茂みに埋まった。
起き上がって甘夏たちにむき直る。
「あんだけ落ちたらしばらくは再起不能ははずだ! 今のうちにずらかるぞてめえら!」
「はっ、はいっ」
三人は全速力で走った。捜査の落とし穴にはまってしまったことを悔やんでいる暇などなかった。とにかく廃工場をめざして足を動かすことしか考えなかった。
――その他方で、警官は茂みの中から這い出ると、最後の力を振り絞って無線機を口に当てて言い放った。「応答願います! 梨元保奈美誘拐事件の被害者および容疑者二名と接触! 容疑者二名と接触! しかし、取り逃がしました!」
柿田は事務所のドアを押し開いて、ソファになだれ込んだ。遅れて保奈美が、甘夏が入ってくる。全員が限界まで息をきらしていた。たいした距離ではなかったかもしれないが、喫煙者と子どもと老人には少々こたえる運動量だった。汗もかなりかいてしまって、銭湯にいった意味をもはや半分ほど失ってしまっている。
「やっべえ……とんでもねえことに、なっちまった……」
柿田は煙草に火をつける。しかしあわてる肺と吸引が連動せずに咳き込む。
「で、でも……柿田さん、とってもかっこよかったですっ。なんだか本物のプロレスラーさんを見ているみたいでした」保奈美が笑顔を見せてくる。
「だろ? あんな見事に決まるとは思ってなかったけどな!」
柿田も声を上げて笑った。同時に、こんなふうに笑えたのはいつかたぶりだろうと思った。状況的には確実に悪化したはずなのに、不思議な爽快感があった。
「ジジイも老いぼれのくせによくやったじゃねえか。勲賞モンだぜ?」
甘夏のほうをむくと、彼は震えるように笑った。
その――次の瞬間だった。
呻き声をもらして、冷たい床に老人は崩れ落ちた。
柿田の超短期的家出から二日後の夜のことだった。
「お風呂に入りたいです」
保奈美がもじもじしながら言った。しきりに腕だったり髪の毛だったりを気にしている様子だ。可愛らしい鼻を動かして、眉根を寄せる。
「なんだよ、いきなり」柿田は視線を寄越した。
「いきなりじゃないです。どのくらい入ってないと思ってるんですか? ほら、嗅いでみてくださいよ。絶対くさいですよ……」
言われて、彼女の黒髪をすくいとって鼻先を埋める。確かに、人間である以上は生命ゆえのにおいというのがあるかもしれないが、どちらかというと甘い果実のような香りがした。美月とはまた違った、幼さの残る少女の芳香だ。
「問題ねえな。第一、風呂なんざ贅沢だぜ」
「必要な出費は贅沢って言わないんですよ」
引っかかる言葉を耳に留める。「出費だと? てめえまさか」
一度頷いてから、保奈美は言った。
「銭湯にいきましょう、柿田さん」
「おいおいおい。いくらなんでも誘拐犯に言うセリフじゃねえだろ」
「? どうしてですか?」
「人質外に出してどうすんだよ」
「私、別に逃げませんよ。ほら、この前だって」
そうだった、と柿田は舌を弾いた。この少女は、自分が心配だからという理由で、脱走する絶好のチャンスを惜しげもなくふいにしてしまったのだ。そこには純粋な思いしかなく、そして今も、無垢な表情の裏にはなにも隠されていないのだろう。
「んなこと言ってもな」難しい顔をつくり、煙草を燻らす。「てめえはいいかもしれねえが、こっちにしてみれば一般人に目撃されるリスクは無視しきれねえんだわ」
「そこはたぶん問題ないと思います」
「あん? えらく自信あるじゃねえか」
「実証済みですもん。ね? 甘夏さん」
保奈美が小首を傾げて見たほうで、甘夏はゆっくりと頷いた。
「確かにちょうど同じ時間帯だが……人なんてまったく会わなかったな」
実際そのとおりで、街路灯のまばらなこの区域は夜間の人通りなどほとんどない。それはこの町で生活してきた柿田自身がよくわかっていることでもあった。
保奈美に倣い、腕のにおいを嗅いでみる。生ゴミほどではないが、さすがに浮浪者じみた異臭がまとわりついている。髪も脂っぽい指通りだ。端的に言って、気持ち悪い。
「柿田さんだってやっぱり気にしてるんじゃないですか。いきましょうよ、銭湯」
「彼女の言うとおりかもしれない。たまには悪くないと思うぞ。不快な状態のままだと精神的に支障が出る。計画もうまくいかない可能性がある」
甘夏は保奈美の味方のようだ。
「てめえら、いつもグルになりやがって……」
柿田は唸りつつも、今回の外出における利益と危険を脳内の天秤にかける。結果は、僅差で入浴する利益のほうが勝った。正直なところ、溜まった垢を綺麗さっぱり洗い落としたいという個人的願望が力添えを行ったことは、否定できない部分があったが。
「しかたがねえな。あんま長湯はできねえけど、文句ぬかすなよ?」
喜色満面で保奈美は頷いた。「はいっ。大丈夫です」
「オーライ。じゃあ俺についてきやがれ」
柿田たちは注意を払いながら、隠密のように外に出た。こっそりと土手を這い上がり左右を見るが、人の姿はなく、夜道は静まり返っている。ひとまずは安心と言ったところか。
「よさそうだな」歩きながら柿田は煙草をくわえた。「てめえら、いくぞ」
「ポイ捨てはやめてくださいね」
「あん? なんだよ――」そう言って、思い出す。保奈美とはじめて言葉を交わした夕暮れ時にこの土手で同じような会話をした。あそこからすべてがはじまり、ずいぶんと長い時間がすぎたように感じるけれど、きっとこの町にも自分たちにもたいした変化はないのだろう。そう思いつつ、柿田は煙草を箱にもどした。「――いい子ぶるのもいい加減にしろよな」
しばらく歩くと、こじんまりとした銭湯に到着した。『吉の湯』という看板の左右で、男湯と女湯の戸が分けられている。昔ながらという感じの佇まいだ。
柿田は、鼻歌を歌いながら女湯に入っていこうとする保奈美を呼び止めた。
「おい、なに当たり前みたいにそっちいこうとしてんだ」
きょとんとして彼女は言う。「え、だってこっちが女湯で……」
「ふざけんな。てめえは俺たちと一緒にこっちに入るんだよ」
青い暖簾を指さすと、保奈美の表情が引き気味になった。
「え……柿田さんってそういう趣味が……」
「バーロー。見張りに決まってんだろ。分けて入ってるあいだにトンズラされちゃたまんねえからな」溜息を吐いてつづける。「あと、ガキのはんぺんみてえな裸で勃つかってんだ」
「そんな! でも、店の人が許さないですよっ」
「ここの番頭はモーロクジジイだ。煙突の煙と一緒に天に召されていくのをたびたび目撃されてる。男か女かなんて見えてねえし、犬が入ってきても客だと思うだろうよ」
「ほかのお客さんとかいるかもしれないし……」
「前にきたことあるが、二時間入ってもワンマンライブ状態だったぜ。てめえの言う実証済みってやつだな」ニヤリと笑って保奈美を見る。
「ううう……」彼女はふと甘夏に視線を移し、ぱっと輝かしい顔になって言った。「あっ、甘夏さんはどう思いますか? こんなの非常識ですよねっ?」
「ちっ」
ジジイに逃げやがったか、と甘夏を見る。彼は九割九分九厘の確率で保奈美に肩入れするから、反論されるのは必須だ――と思っていたのだが。
「ふむ。別に私は若造の言うとおりでいいと思うぞ」
「ですよね柿田さんの言うとおりで……って、えええっ!?」
思いもよらない返答に保奈美はもちろんのこと、柿田も少々面食らう。とはいえ、障害が消え去ったことは素直に喜ぶべきだろう。放心状態の保奈美の手を引いた。
「決定だな。ほれいくぞ、ガキ」
予想どおり、番頭は難なくパスできて、脱衣所の籠はひとつも使用されていなかった。シャツを脱ぎ落とした柿田は、保奈美がやけにゆっくりとカーディガンのボタンを外しているのに気がついた。「のろのろすんな。はやく入るぞ」
「こ、こっち見ないでくださいよ……」ためらいがちに言う。
「まだそんなこと言ってんのか。見ねえからさっさとこいや」
浴場には湯気が立ち込めていた。壁面に描かれた富士山が雰囲気抜群だ。三人は適当な鏡の前に陣取り、とにかくからだの汚れを落とす作業からはじめる。勢いよく泡を流し終えた柿田は、となりがやけに静かなことに気がついた。
「おい、ガキ。なにちまちまやってんだよ。そんなんじゃ終わらねえぞ」
「そんなこと言ったって……」
保奈美は極限にまでからだを縮めて、細々とボディソープを玉の肌に滑らせていた。赤らめた頬を見るかぎりやはり年相応の意識があるのだろうが、柿田のとってはそんなことは関係なかった。横からシャワーを盛大に浴びせてやる。
「わわっ、なにするんですかっ」逃げていく泡を追うように手を動かす。
「からだは終了だな。次は髪だろ。ほれ、はやく洗え」
こんどは頭にシャワーヘッドをむける。保奈美は、「もうっ、柿田さんは強引すぎます……」と愚痴りながらもシャンプーを手のひらに伸ばして洗いはじめた。しばらくすると、泡立てすぎて視界を遮られてしまったらしく、手をうろうろと動かし出した。
「なにやってんだよ。ガキじゃあるめえし」
「ガ、ガキって柿田さんは呼んでるじゃないですか」
「まあそれもそうだな。しかたねえ。じっとしてろ」
「なな、なにするんですか?」
「続きをしてやるってんだよ。てめえの髪は長いからな、もっと丹念に洗わねえと」
「あ……頭だけ見てくださいよ」という言葉に生返事を返して、柿田は保奈美の黒髪に五指を入れる。クセがまったくなく、まるで潤いの中を自然に感覚が下っていくようだった。もし自分が美容師だったなら、金を払ってでも扱いたいぐらいかもしれない。
「なんだか思い出しちゃいます」どこかほぐれた声で、保奈美は言った。「前はお母さんと一緒にお風呂に入っていて、よくこうやって髪を洗ってもらってました」
柿田は少し考えてから返した。「……やっぱり家に帰りてえんじゃねえのか?」
「どうでしょう。私にもよくわかりません。お母さんやお父さんの顔が見たいっていう気持ちもあると思いますけど、きっと居場所はないですから……」
「じゃあ、どこにあると思ってんだ」
「それは……」
「どこにもないとか考えてるわけじゃねえのか」
かすかに自問するようになっているのを、柿田は感じた。経緯は違えど、家庭という大多数の人間にとっての安らぎの地を喪失している点で、やはり共鳴するものがあった。最近ではそれを否定する感情もなくなってきていることもまた、理解していた。
「いえ、居場所がないなんてことは絶対にないと、信じていたいです」
信じていたい――か。
どうしてか胸がうずいた。まだそんな痛みを感じられるほどの息が心にあったことに驚きつつも、柿田は言った。「たとえば、そいつはどこにあるんだろうな」
「今は、私にとって瑠南ちゃんはとっても大きな存在です。大好きな友だちです。彼女のそばにいられればいいなって思いますし、それに……」
ちらりと柿田のほうをむく気配があった。
「もしかして、あの汚ねえ事務所も居場所だと思ってんのか?」
「……いけませんか」保奈美はせつなげに唇を動かす。
「絶対っていう判断基準はねえとは思うけど、正解不正解がないってわけでもねえよな」
それは――もしかしたら、自分に対しての言葉かもしれなかった。
ちょうど洗髪に区切りがついたので、柿田は丁寧にシャンプーを落としはじめる。保奈美は黙りこくっていた。どこか重たい空気が漂いかけている気がして、ふと柿田は言った。特に、眼下に広がる小学五年生女子の全国平均よりもいささか控えめらしい起伏を見つつ。
「まあ、じきに成長するから心配するなよ」
「可及的速やかに死んでください」
「ええっ」
歴史上、類を見ないトーンの低さだった。意外と気にしているらしい。
「どうせ私にはブラなんて一生必要ないですよ」
「そ、そこまでは言ってねえよ。つか、冗談に決まってんだろ。とにかく、その背中から噴出してる犬夜叉の奈落が生む瘴気みたいな黒いオーラをおさめやがれ」
そう残して、逃げるように湯に入る。一方の保奈美はゆっくりと立ち上がり、別のぬるめに設定された湯船に首まで浸からせた。湯が黒く汚染されていっているのは、目の錯覚であると思いたい。
と――となりに甘夏が入ってきた。
「まったくきさまは、なにをやっているんだ」
あきれ気味に言われる。柿田はむっとしつつ、頬を歪めて返した。
「エロジジイに言われる筋合いはねえな」
「どういうことだ?」
「あんだけガキのサイドについてたてめえが、一緒に風呂に入るとなると文句ひとつ垂れねえんだぜ? 正直に白状しろよ。ガキの裸が見たかったんだろ?」
甘夏は動じた様子もなく、ふっと笑った。「目的が違うな」
「あん? そりゃどういう」
「きさまには関係のないことだ。安心しろ。計画の邪魔はしないさ」
彼の、なにか自分とは異なるものを見ているみたいな眼差しが引っかかった。
「はあ? なに遠くから言ってんだよ。てめえは共犯者だろうが」
「だからこそだ」甘夏ははぐらかすように言うと、立ち上がりながらつづけた。「私はもうそろそろ出る。老体に長風呂は意外とくるからな。そっちは適当に切り上げてきてくれ」
「わかった」
甘夏が曇りガラスのむこうに消えるのを見送ってから、柿田は考えた――今さらながらに、彼の素性の知れなさが気にかかりはじめていた。しかし、ただ自分と同じように誘拐を目論んでいたということ以外は有意のピースとして数えられるものはなく、すぐに思惟を諦めて、十分ほど半身浴を堪能したのちに脱衣所にむかった。
銭湯からの帰り道は、秋の涼気に包まれている。
土手を歩きながら、柿田は今後のことについて思案した――そろそろ身代金の請求を果たさなければならない。それはつまり、誘拐事件に終止符を打つことを意味する。軍資金は底が見えてきた気配があるし、機は熟していると言っていいだろう。
甘夏の登場、保奈美の告白、瑠南と雄大の参入と、色々とハプニングが起きすぎて当初の計画からあまりに踏み外した結果、要らぬことを考えてしまったきらいがあるけれど、それでも最終的な目的は忘れていなかった。それ以外のなにかは前にも後ろにもないはずだ。
(あいつらともオサラバできるわけだ)
前方に視線を伸ばす。十数メートル先を、甘夏と保奈美がならんで歩いている。保奈美は機嫌を直しつつあるらしく、ふたりは柔らかい表情を見せ合っている。その姿を眺めながら、ふいにとある印象が浮かんでくるのを柿田は感じた。
――あのふたりは、まるで――
と。
暗がりのむこうから、白い自転車をひいた人影がやってくるのが見えた。人と遭うこと自体いただけないのに、それ以上に嫌な予感が全身を駆け抜けた。そして、こんなときだけ高性能で働く第六感を心底呪いたいと柿田は思った。
警邏中の警官だった。
彼は、すれ違おうとする甘夏と保奈美を凝視していた。まずい、と思う。当然といえば当然のことであるが、事件はいまだ公になっていなくても、付近の交番勤務者には梨元保奈美の情報は顔写真つきで伝わっているはずなのだ。
なんとかふたりから意識をそらさせ、その間に逃がさなければならない。柿田は自発的に職務質問のターゲットになることを決めた。これまでも呼び止められた経験は豊富にあったので、自信は持っていた。上半身裸になり、ボトムスも半脱ぎの状態にして、とりあえずダイナミックに三点倒立を披露してみる。
だが、警官は柿田に見むきもしなかった。スタンドを立て、甘夏たちに声をかける。
「ちょっと待ちなさい!」
「なんだ?」甘夏が凄みのある声で振り返る。
「その女の子、梨元保奈美ちゃんだろう?」そう聞くと、保奈美が甘夏の陰から怯えた顔をのぞかせる。それを見て警官は確信したみたいだった。「やっぱりそうだな! おまえが卑劣な誘拐犯か! おとなしくその子を離しなさい!」
甘夏と警官は取っ組み合いを開始した。
「なにくそ!」
「甘夏さんっ」保奈美の悲鳴が響く。
くんずほぐれつの互角の闘いだ。とはいえ、この状態でただ観戦していて許されるわけがなかった。加勢は急務だ。柿田は服を正すと、一呼吸置いてから、雄叫びを上げてふたりのところへと一直線にダッシュした。
「うおおおおおおおおおおおおおあああああああああああっ!」
「抵抗するな――って、なに?」
気づいたときには遅きに失した。
「積年の恨みだクソ野郎おおおおおおおおおおおおおおおっ!」
飛ぶ。
柿田は、渾身のドロップキックを警官の横腹に突き刺した――彼は自転車を巻き込みながら土手を転げ落ちていき、最後に茂みに埋まった。
起き上がって甘夏たちにむき直る。
「あんだけ落ちたらしばらくは再起不能ははずだ! 今のうちにずらかるぞてめえら!」
「はっ、はいっ」
三人は全速力で走った。捜査の落とし穴にはまってしまったことを悔やんでいる暇などなかった。とにかく廃工場をめざして足を動かすことしか考えなかった。
――その他方で、警官は茂みの中から這い出ると、最後の力を振り絞って無線機を口に当てて言い放った。「応答願います! 梨元保奈美誘拐事件の被害者および容疑者二名と接触! 容疑者二名と接触! しかし、取り逃がしました!」
柿田は事務所のドアを押し開いて、ソファになだれ込んだ。遅れて保奈美が、甘夏が入ってくる。全員が限界まで息をきらしていた。たいした距離ではなかったかもしれないが、喫煙者と子どもと老人には少々こたえる運動量だった。汗もかなりかいてしまって、銭湯にいった意味をもはや半分ほど失ってしまっている。
「やっべえ……とんでもねえことに、なっちまった……」
柿田は煙草に火をつける。しかしあわてる肺と吸引が連動せずに咳き込む。
「で、でも……柿田さん、とってもかっこよかったですっ。なんだか本物のプロレスラーさんを見ているみたいでした」保奈美が笑顔を見せてくる。
「だろ? あんな見事に決まるとは思ってなかったけどな!」
柿田も声を上げて笑った。同時に、こんなふうに笑えたのはいつかたぶりだろうと思った。状況的には確実に悪化したはずなのに、不思議な爽快感があった。
「ジジイも老いぼれのくせによくやったじゃねえか。勲賞モンだぜ?」
甘夏のほうをむくと、彼は震えるように笑った。
その――次の瞬間だった。
呻き声をもらして、冷たい床に老人は崩れ落ちた。
(18)
一瞬、なにが起きたのかよくわからなかった。いや、実際は、甘夏の顔が青褪めたかと思えば胸を押さえて前方右斜め四十五度の方向に倒れたというところまで、視覚は事細かに情報をとり込んだのだが、『よくわからない』という一種の思考の空白(タイムラグ)をあえてつくり出すことで理解への備えを整えたかっただけだった。
柿田の口から煙草がこぼれ落ちる。それを気に留めてなどいられなかった。すぐさま駆け寄って甘夏を仰向けにした。「おい、ジジイ! どうしやがった、てめえ!」
「甘夏さんっ、大丈夫ですか!?」
保奈美がそばにひざをつくと、苦しげに表情を歪ませながらも声をしぼり出した。
「く……か、鞄から、壜を持ってこい、若造……」
「わかった」
すぐさま甘夏の鞄を手にし、口を広げる。まさぐる手間も惜しいような気がして、テーブルの上に中身をぶちまけると、手帳や古い革財布のほかに小壜が落ちてきた。そういえば、当初軍資金を強引に共有化した際に、見たような気がする。ともかくそれが薬剤だということはラベルからうかがい知れたが、だからこそ、柿田は強く歯軋りをせざるをえなかった。
「ジジイ。この野郎、ふざけやがってっ」
「柿田さん、どうしたんですか?」保奈美が切迫した顔をむけてくる。
「てめえがからだのどっかに爆弾抱えてんのはよぉくわかったぜ。だがな……だったらよ、どうして肝心の薬がこんだけしか残ってねえんだよっ!」
突きつけた小壜の中で、わずか二錠の錠剤が弾き合う音が鳴った。医学的知識など皆無に等しい柿田でもわかる――どれほど薬効が高いとしても、たったこれだけで現在の甘夏の症状を完全に沈静化させることは無理だった。そしてそれは、今後似たようなことが起きた場合には、八方塞がりで打つ手がないこともまた示していた。
しかし、甘夏はあろうことか笑った。さも、わかっていると言いたげに。
「ギャグのつもりかよっ。なんでなにも言わなかったっ」
「待ってください柿田さん!」保奈美が柿田以上の大声で言った。「今はそんなことを言っている場合じゃないでしょう? はやく、それを甘夏さんに飲ませてあげないと……!」
「んなことわかってらあ! 交代しろやっ」
保奈美の腕力には甘夏の上体は重すぎると判断して、柿田が嚥下しやすい体勢をとらせ、彼女が錠剤二錠とペットボトルの水を甘夏に与える。彼の喉が尺取ると、即効とまではいかないが、徐々に呼吸が落ち着いていき、顔色に余裕が見えてくる。とはいっても、いまだに弱々しさは拭いきれず、常に再発の危険性を孕んでいる以上は、息をつくことはできないけれど。
「おいガキ、足を持て。ちったあ根性見せてもらうぜ」
せいの、と保奈美と協力してひとまず甘夏をソファの上に横たえさせる。その拍子に足がテーブルにぶつかり、さきほどの甘夏の持ち物が落下した。舌打ちをしつつ、柿田は手帳のほかに革財布を拾い上げる――と、ふとカード入れからはみ出しているものに目が引き寄せられた。それは一枚の写真だった。擦り切れて、何度も触れられたことは瞭然の、さらに柿田にしてみれば失笑を禁じえないような、写真だった。
「ジジイ……てめえはよ、最初っからつかみどころのねえ不可解な野郎だったけど、今回ばかりはマジで意味がわからねえ。ちんぷんかんぷんだぜ」写真を裏返し、甘夏たち――とりわけ保奈美に見えるようにして言った。「俺は視力に自信がねえから、見間違いじゃなけりゃあいいんだが、こいつに写ってるのってガキじゃねえのか?」
「えっ、そんな」保奈美が写真に顔を近づける。「ほんと……私だ」
「なんでてめえがこんなもん持っていやがる」
甘夏は黙っている。苦しさゆえ、というわけだけではなさそうだ。
「傷み具合は相当だし、どれだけ少なく見積もっても写真のガキは今から二年は幼いぜ。誘拐のターゲットの写真を入手したってわけじゃあ、どうにもなさそうだな」
どういうことか教えろよ。そう言って一歩前に出ると、保奈美が割って入ってきた。
「ちょっと待ってください」戸惑いの中にも芯のようなものが、瞳の奥に透けて見える。いつからこんな目をするようになったのかは覚えていないし、記憶する気もないが、はじめからそうではなかったことは確信をもって断言できた。「なにも今そんなことを聞かなくたっていいじゃないですか。甘夏さんを安静にしてあげることが先です」
「おまえは気になんねえのか。当事者中の当事者だぞ」
「それは、そうですけど……」
「私を心配する必要はない」甘夏の声が聞こえ、ふたりは彼に視線を揃えた。彼は、いまだに自力で起き上がるまでは回復していないが、口調は安定の兆しがある。「むしろ、黙っていたらそのまま地獄へ寝堕ちしてしまいそうだ……しゃべらせてくれないかい」
ためらいもなく、まるで再考不可能の決定事項であるかのように『地獄』と口にしたことに疑問を抱きつつも、柿田は次の言葉をうながした。「いいぜ」
「……こうなることを回避する体(てい)をとり繕いつつも、本当は望んでいたのかもしれないな。いつだって、本当の気持ちがどこにあるのか、わからないまま生きてきた。それをほんの少しだけ、かいつまんで話してみるとするか。生意気な若造と――保奈美ちゃん。大切なきみに」
◇
直接的に戦火を体験したわけではなかった。ただ、敗北を喫したあとの、復興へむけて歩みはじめた希望感と、その実、完膚なきまでに破壊された文明が放つどこかすさんだ空気が綯い交ぜになった時代のことは知っていた。そして甘夏博光(ひろみつ)は、後者の雰囲気を感じることのほうが圧倒的に多かった。犯罪が日常的に起こる町、土ぼこりの舞う人いきれを眺めつつ、幼心ながら「希望なんてのは嘘っぱちだ」と思っていた。とはいえ、幼少期の世界なんてものは金魚鉢なみに狭いもので、徐々に視野や考え方は広がっていくものだが、生の初期段階で世の歪曲を知っていたことが問題だったのだろう。彼自身もまた、捩じれていった。
精神的に。
その捩じれの結果というべきか、彼は、若いころから町のゴロツキとして名を馳せていた。せっかく新憲法や教育基本法で小中学校の義務教育が制定されたにもかかわらず、ろくに学校にいかずに悪さばかりしていた。暴行恐喝といったタイピカルな悪事はもちろんのこと、年上の女のところに入り浸ったり、暴力団と関係を持ったりと反道徳的な行為には一通り手をつけたと記憶している。人間としては最低級だった。
だったが、それでもやはり人間である以上は食べていかなくてはならず、労働は避けては通れない道になりつつあった。特に、順調に『復興』を進め、むしろ『成長』への過渡期の情熱に溢れていた当時の日本においては、その風潮はもはや全体意思と言っていいものだった。甘夏は職を転々としたが、基本的に肉体を資本にする仕事がメインだった。ホワイトカラーへの憧憬など微塵もなかった。クソ食らえとさえ思っていた。綺麗なスーツは、彼の汚れた原風景とあまりにもかけ離れていたのだ。
しばらくして、甘夏は身をかためることになった。喫茶店で知り合った、年下の女が相手だった。子どもはほどなくして生まれた。未熟児の気があったが、元気な女の子だった。
「名前は佐恵子がいい。それ以外は認めねえ。文句はねえだろ? 敏子(としこ)」
赤ん坊の頬をつつきながら、甘夏は妻にむかってにやりと口を曲げた。
「昨晩ずっとぶつぶつと考えたすえにできた名前だもんね。私としては文句のつけようはないなあ」敏子は意地悪い顔で返してくる。
ばれたところで問題はないはずなのに、なぜだか甘夏は顔に熱がこもるのを感じた。
「なんだよ。俺がテメエの娘の名前考えちゃ悪いのかよ」
「べっつにー? なんにも悪うございやせん」
「このアマ。どうだかな」甘夏は煙草をくわえ、マッチを手繰り寄せる。
「あっ、それはだめ」
敏子にとめられ、甘夏は怪訝な顔でむかった。
「亭主が家で煙草吸っちゃあいけねえのか」
「もうあんたは亭主であると同時に、父親でもあるんだよ」そう言っても理解の及ばない甘夏に敏子はつづけた。「赤ん坊に悪い影響が出るかもしれないって、このまえ聞いたんだ」
「へえ。博識だな、おまえ。東大生だって裸足で逃げ出すぜ」
「ちょっと、ばかにしてるでしょ」
「俺のほうがばかだから別にいいだろ」
「それもそうか」
「あっさりと納得すんじゃねえ」
「あはは。でもさ、博光にはそのケンカで鍛えたからだがあるじゃん。ほらほら、私と佐恵子のためにもっと働いて、じゃんじゃんお金稼いできてよっ」
バンバンと背中をたたかれ、痛い痛いとこぼしつつも甘夏は笑った。さすがにそのときは、そのときばかりは、精神の捩じれが直ったように思えた。希望というもののかたちに触れかけた気がした。妻と娘の笑顔を守っていくことができるのは自分しかいないと、これからまっとうな人生が歩んでいくのだと、自信をつかむことができたような気がした。――だがそれは、むしろ自信過剰に近いもので、希望に触れかけたことより陥った錯覚であり、己の人間性を過大評価した上での妄想でしかなかった。
年をとり、佐恵子の成長にともない家庭というものが質量を増していくうちに、甘夏の中でプレッシャーが肥大していくのだった。元来粗暴で、楽をして生きていくことを信条としていた彼に、本質とでも表すべきかつての自分が怠惰をささやいてくるのは、はじめから時間の問題だったのかもしれない。同時に仕事はうまくいかなくなり、しだいに酒に溺れていった。
「ちくしょうめ。イカサマだってのはわかってるんだ、いつか化けの皮剥いでやる」
ギャンブルで負けた帰り、甘夏はカップ酒を片手に道を歩いていた。すると、横道のほうから帰宅途中らしい女子中学生ふたりが近づいてくるのが見えた。片方は佐恵子だ。黒いセーラー服がよく似合っている。彼女は二年生になっていた。酔っていた勢いもあり、友人共々おどかしてやろうと思い、甘夏は電信柱の陰に隠れて待った。
だが、ふたりの会話が聞こえてきて、それを実行するには至らなかった。
「こんどパパと一緒に遊園地いくんだ。そのあとデパートに連れていってもらってね、なんでも好きなもの買ってくれるって! ああ、なにがいいかなあ迷っちゃう」
「いいなあ公美(くみ)ちゃんのお父さん優しくて」
「甘夏さんのパパってどんな人?」
「……別にいいよ。うちのお父さんは」曖昧に佐恵子は笑った。「話すほどでもないから」
「いいじゃん、聞かせてよ。毎月プレゼントもらっているでしょう?」
単純な話、あの公美とかいう女子は佐恵子をおよそ勝ち目のない比べ合いに引きずり込んで、父親の金回りのよさを、ひいては家庭そのものの豊かさを自慢し、幸福を確認したいだけなのだろう。甘夏はそう理解しつつ、娘のほうも友人のくだらない真意に気づいているだろうと思った。頭のいい子だからだ。
佐恵子は少し黙ってから答えた。感情を凍てつかせた低い声だった。
「ほんと、なんでもないの。ほんとうに、いないほうがいいくらい」
「えっ。どういうこと?」
「そのままの意味。いなくなればいいのよ、あんな人。毎日まいにち仕事もろくにしないでお酒ばっかり呑んで、お母さんに迷惑かけてる。いなくなれって、いつも、思ってる」そこまで言ってから、冷たく眼を細めて公美に振りむいた。「だから公美ちゃん。私のお父さんはあなたのお父さんとは比べ物にならないくらいクズで、どうしようもない役立たずで、その娘である私だって、あなたよりもずっと不幸で、幸せとは無縁なの」
これで満足? というふうに首をかしげると、公美は目を丸くしつつも頷いた。
「じゃあ、私これから寄っていくところあるから」
また明日。そう残し、町のほうへと歩いていく佐恵子の美しい後ろ姿――それを、甘夏は拳を握りしめて見ていた。湧き上がってくるのは、羞恥に起因した憤怒だった。娘の口から自分の評価を直接聞くのははじめてだったが、まさかここまでばかにされているとは思っていなかったのだ。怒りのボルテージは上がる一方だった。父親の責務はほとんど果たしていないくせに、プライドだけは一丁前にあった。それこそ、実に迷惑な話ではあるけれど。
(俺をコケにしやがって。泣いたって許さねえ)
甘夏は大またで佐恵子のあとを追う。気配を感じて振り返りかけた彼女の腕を捕まえる。
「きゃっ」
「佐恵子っ。散々ぬかしてくれやがったじゃねえか、ああっ?」
すぐに、さきほどの会話を聞かれたのだとわかったのだろう。露骨に軽蔑の意を瞳ににじませて、吐き捨てるように呟いた。「盗み聞きしてたんだ……サイテイ」
「話をそらすな。問題はそのひねくれた口だ」
「別に、本当のことじゃない、ばかっ」
「おまえっ。親父にむかってなんだその口の利き方は! そんなふうに育てた覚えはねえぞ!」
「お父さんに育ててもらった覚えなんてないっ」雪崩を起こしたような言葉だった。「さっきの話聞いてたんならわかるでしょ? 私はあなたのことが大ッ嫌いなの!」
「……! このやろう!」
佐恵子の髪を引っぱり上げると、甘夏はカップ酒の中身をすべて彼女の頭にかけた。アルコール度数の高いそれは、女子中学生の感覚を焼く。「うああうっ」呻いても容赦しない。酒まみれになった顔を無理やり上げさせて、リード代わりに髪をつかんだまま歩き出す。
「こい! 説教してやる……親不孝者には折檻だ!」
「いだあっ、いたいい。やめてっ」
「うるせえ! 黙ってこい!」
通行人がなにごとかと目をむけてくるが、「俺はこいつの親父だ、なんか文句あんのか!」と怒鳴り散らしてずんずん進んでいく。当時は世間一般の認識として、親の、特に父親の権威は強力で、現代ではDVや虐待めいたことでも教育・説教という一言で片づけられてしまっていた傾向があったため、通行人にさほど気にかける仕草は見られなかった。
二階建てアパルトマンの外階段を、佐恵子を引きずりながら上る。二〇三号室が甘夏家の住居だった。中に入ると、内職中の敏子が疲れた目をむけてきた。おかえり、と言う。
それを無視し、玄関前の台所に佐恵子を薙ぎ倒して、平手打ちを見舞った。二発、三発と乾いた音が連続する。それでも甘夏の身勝手な怒りはおさまらなかった。
「このばか娘が! 調子にのりやがって!」
「やめてっ、博光! 佐恵子、泣いてるじゃない!」
敏子が血相を変えて駆け寄り、佐恵子を引き離す。佐恵子は腫らした頬に涙を刻みながらも、フーッ、フーッ、と手負いの獣のように甘夏をにらみつけていた。
すると悲しそうに鼻を動かしてから、敏子は言った。「酒くさい……あんた、まさか佐恵子に」
「こいつが悪いんだ。親父を尊敬できないこいつが」
「昼間っから酒呑んで、ほっつき歩いて……どうせまたスッてきたんでしょ」
「今日はいけそうな気がしたんだ。それより佐恵子だぜ。俺を、親父をばかにして、失礼な口をたたきやがった。おまえも一発……」
「そうね、佐恵子が言ったことはだいたいイメージがつく」敏子は、自分にしがみついている佐恵子の頭を包み込んでから、甘夏のほうをむいた。彼女と同じ眼をして。「でもね、私はこの子の味方。あんたとは違うの」
「なんだと」
「ぜんぶ佐恵子の言うとおりよっ。えらそうなこと言って、そのくせ一銭だって稼いできやしないで、せっかく私が貯めたお金もドブに捨ててきてっ。佐恵子があんたを尊敬できないんじゃない、あんたが尊敬できない父親なの。大黒柱が聞いてあきれるわっ!」
その言葉は甘夏の安っぽいプライドに直撃した。そして安っぽいがゆえに、揺らいだ。
「て、てめえまでナメた口利くのか。ふざけるなっ!」
勝手にからだが動いていた、と申し開きする用意もないが、次の瞬間には敏子を蹴り飛ばしていた。「お母さんっ」と身を寄せる佐恵子もろとも、さらに畳に転がす。この程度のことは、数年前から日常茶飯事だった。いつも腕力をもって、妻子を支配していたのだ。
しかし、ふたりの反抗的な、まるで非人間を見るような眼差しは変わらなかった。むしろ光を大きくしていくのが、煮えくり返った腸(はらわた)をさらに加熱する。
「でてけ」息を荒げながら言った。「おまえらふたりともでてけ! てめえらみてえなクソアマが住んでいいところじゃねえんだ、ここは! もう目の前に現れるな!」
「言われなくても」敏子は財布やらバックやらをかき集めると、叫んだ。「言われなくてもでていってやるわよ、こんなゲスのところ!」
佐恵子を連れてどかどかと玄関にむかう。すれ違いざまに佐恵子が見せた、深い憎悪が何層にも重なった眼が、少しだけ心の襞に引っかかった。
結局――その夜はふたりは帰ってこず、翌日も姿を見せなかった。
そして三日目の午後。帰宅してすぐ、家の様子に違和感を覚えた。なんともいえない喪失感だったが、その正体はすぐにわかった。敏子と佐恵子の衣類がないのだ。箪笥や押入れの中を確認してみると、貴重品の類も持ち出されていた。
(本当にでていきやがったのか)
ちゃぶ台の上に一枚の紙が置かれていた。それは離婚届だった。必要な記載事項はすべて埋められており、あとは甘夏が署名捺印をするだけで法的効果を発揮する。この二日間に彼女たちのあいだでどんな相談がされたのか知るよしもなかったが、つまり――つまりはそういうことらしい。完全に赤の他人になるということ。
追いかけるだとか、抵抗めいたことはしなかった。甘夏の想像には、それが女々しい行為に映ったのだ。彼は再び、ひとりで暮らしはじめた。
とはいったものの、一から十まで以前のようにとはいかなかった。捩れ返ってしまった精神はしかし、原形とは異なるふうに捩じれた。一度変形させた金属細工を、自らの手で元のかたちに戻すことが困難なように。その差異を後悔や回顧と表現することを、甘夏はあとになって理解するのだが。『失ってはじめて気づく』と言われれば、それはもはや使い古された常套句で、陳腐かつ耐食性に欠けるメッセージではあるけれど、それ以外のなにものでもないのかもしれなかった。
彼はしばしば、希望について考えるようになった。紆余曲折の果てに手に入れかけて、愚かにも自分から放棄していったもの。その大切さ。
――昔の俺は、ただ妬んでいただけじゃないのか。希望は嘘だなんて、土ぼこりの中にいることが嫌で嫌でたまらなくて、天邪鬼になることでしか誤魔化せなくて、思っただけじゃないのか。本当は憧れていたんじゃないのか――。
離婚から四年目にして、ついに「出直したい」と感じるようになったのだった。
やり直しではなく、出直し。今はもう行方の知れない元妻と子をとり戻すのではなく、希望をゼロから見つけにいくことを、甘夏は決意した。
半年後、職場の同僚を介して知り合った女性と再婚をした。彼女は子どもをほしがらなかったが、それでもかまわないと思った。どちらかといえば、なぜか、胸を撫で下ろしたときのような感覚があったことを認めなければならなかった。
甘夏はとにかく、真面目ないい夫であることに努めた。もう同じ失敗はしたくない、二度とつかんだものを手放したくはない――そういった強迫観念にも似た思いに突き動かされていた。実際のところ生活は苦しくなかったし、妻ともデートをしたりして、良好な関係を保っていた。どこにも綻びはなかった……そのはずだった。
ある日曜日、妻が唐突に言った。
「ねえ、わたしたち別れましょうよ」
「えっ」驚いて彼女の目を見返すが、思考は読めない。「どうしてだい?」
「さあ? どうしてかしらね」
甘夏は焦った。なにか知らないうちに、再び失態を犯していたのかと。
「問題があるのか? 私のなにがいけないのか、不満があるのなら言ってくれ」
「不満はないわ。博光さんはいい人だし、適度に自由がきいていて、快適な日々」
「なら――」
「しいて言うなら、理由はそういうところ」彼女の指先が甘夏の胸に触れた。「そういう、わたしにいつも気を遣って、不満を抱かせないようにしているところかしら」
「意味がわからないんだが……」
「端的に言うわ。あなたはわたしを見ていない。わたしというフィルターを通して見える、なにかをずっと目で追ってきたんだと思う。それを守ってきたの。そういえば、再婚なのよね。もしかして、前の奥さんと……お子さんじゃない? どう? 当たってる?」
彼女と結婚するにあたり、前の家族構成は伝えなかったため、佐恵子の存在を指摘されたことには愕然とした。ふつうに考えれば、子のひとりやふたりいてもおかしくないのだけれど、その次の言葉が問題だった。
「あなた、わたしが子どもほしくないって言ったとき、ほっとしたでしょう」
ぎくりとした。隠しおおせたつもりだったが、彼女の勘を甘く見ていたのだろうか。
「そ、そんなわけないだろう?」
「いいえ。あなた自身、子どもがほしくなかったのよ。あなたにとって子どもは、本当に大切にしたいと思っていたのは、前の家庭の子どもだけ。わたしとの子どもは代替品じみていて、それでいて前の子の存在が薄れていくような気がして、怖かった」
そう、だから――と彼女はつづけた。甘夏は反論することができなかった。
「あなたには未練がある。前の家族に。ものすごく、大きな未練が」
「そうなのか? だから、私はいけないのか……?」
「ええ。わたしはね、映写機なんてまっぴらなのよ」
かすかに笑って言うと、彼女は部屋を出ていく。甘夏はその場から動くことができなかった。自分でも気づいていない心理の奥底を暴かれた気がした。
未練――再スタートをきったはずの自分の原動力は、いや、原動力とも呼べない操り糸は、ただそれだけの寂しい感情でしかなかった。
なかったのだった。
本心を悟ることができた部分は、確かにあったかもしれない。その後、二度目の離婚をしてからは気力を失い、なにをするでもなく年月はすぎていった。わずかばかりに残った敏子や佐恵子の写真を眺めながら、甘夏博光はゆっくりと老いた。
そんな平坦な日常を波打たせたのは、一本の電話だった。めったにかかってくることはなかったので、訝しみながらも受話器をとった。
「もしもし、甘夏」
『懐かしい声……少し落ち着いた?』
相手の声を聞いた瞬間、全身に電流が走った――敏子だったのだ。
戸惑いつつも話を聞くと、彼女は再婚せずに女手ひとつで佐恵子を育て上げたらしい。その苦労を推し量ることはできなかったが、素直に褒めてやりたい気持ちになった。自分にその資格がないことは、十二分に理解していたから、口にはできなかったけれど。
そして、佐恵子が結婚したことを報告された時点で、敏子に行動に納得がいった。娘が一人前の社会人になり、嫁にいったことで、それまでの使命感が跡形もなく消え去ってしまったのだろう。一心不乱に娘を育ててきた敏子には、交流する人間もいないに違いない。そうして生まれた孤独感と心細さが、いちおうはかつて愛し合った男の電話番号を突きとめさせたのだ。あるいは、美化された記憶が生んだ気の迷いだったのかもしれない。
「そうか……佐恵子も立派になったな」
呟いてからはっとした。結婚したということは、じきに子どもが生まれるだろう。戸籍上はなんの繋がりはなくとも、血を分けた孫がこの世に誕生するのだ。
佐恵子が産んだ命――それを思うだけで、涙が溢れそうになった。かつてつかみ損ねた希望が大きくなり、また新たな希望を生み出す。ほかならぬ彼女自身の希望を。
彼女はちゃんとその子を育んでいけるのだろうか。少年時代に親から酷い目にあわされた人間は、己の子どもにも同じような行為に及ぶことが多いという。でも、大丈夫だと思った。なぜなら彼女は、佐恵子は、頭のいい――素敵な子だからだ。
その日から、甘夏の生きる目的は孫に会うことになった。
会いたい。佐恵子の希望に会いたい。理想としては、佐恵子に謝罪し許してもらったうえで穏やかに孫と対面させてもらうのがベストであるが、しかし、彼女が去り際に見せた鬼と見まごう眼差しはいまだに脳裏に焼きついていて、思い出すごとにそれは不可能な計画のように思えてきた。確実に罵詈雑言を浴びせられたあげくに追い返される。ともすれば、再び彼女の心に傷をつくってしまうかもしれない。
考え直すときもあった。今さらどの面を下げて「孫に会いたい」などとぬかすのか。結局のところなにも改善されていない自らの身勝手さにあきれ返ったけれど、それでも、隠れて連絡をとり合っていた敏子から定期的に送られてくる孫――保奈美の写真が増えていくうちに、思いは際限なく膨らんでいくのだった。
どんなかたちでもかまわない、と保奈美に会いにいく決心がついたのは、二〇〇九年に入りしばらく経ってからだった。手元にある写真が二年前より更新されておらず、敏子が、最近はろくに撮っていないと心配していたことが気にかかっていたし――それに加え、以前から疾患を抱えていた心臓の病状が去年を界に急に悪化したことが契機となった。残された時間の短さを考えると、どうしても会えずに終わる恐怖心が先行した。
秋の朝に、日帰りを想定して甘夏は国鉄に乗った。手帳や財布のほかに、旅の用心として強心剤を革鞄に入れ、また、いつか保奈美に手渡せる日を夢見てコツコツと貯めた十一年分のお年玉、二十万円を底のほうに忍ばせて。
佐恵子たちが暮らす町に着き、駅で入手した地図を片手に在学中の小学校をめざす。変質者だと思われようが、ひと目会うだけでよかった。校門の前で張り込んでいると、終業のチャイムが鳴り、生徒たちが吐き出されてくる。同時に、むこうの塀の陰にいかにも怪しげな風貌の若い男が垣間見えたが、関係ないと無視して門に意識を傾注した。
そして、そのときはきた。
ついに会うことのできた孫娘は、佐恵子の面影を色濃く残す美しい少女だった。なにもかもがそっくりで、心を奪われた甘夏は無意識的に近づいていった。
◇
私は本当に身勝手な男だよ――そう甘夏はかすれた声で言った。
「保奈美ちゃんがここに誘拐されてきたとき、私は通報するべきだった。きみを助け出してやるべきだったんだろう……だが、私はここで若造の共犯者になることを選択した。そのほうが、少しでも長くきみと一緒にいられると思ったんだ」
「てめえがこのガキの祖父(ジジイ)だと?」柿田はすぐに疑問点にいきあたる。「しかしだぜ。最初に家族関係を聞いたとき、こいつは祖父は両方とも死んだって……」
「実際そのとおりなんだろう。佐恵子の中では、父親は存在していない。私は死んでいるんだ。わかっていたから驚きもなかった。許されようなんて思っていなかったよ」
「そんなしけたツラしてよく言うぜ」
軽く笑ってから、柿田はとなりを見た。保奈美が信じられないといったふうに、睫毛を震わせている。小さくミリ単位で唇を動かした。耳は拾えなかったが、呟こうとしたことはわかった。すると彼女はもう一度、はっきりと聞こえる声で言った。
「おじい、ちゃん……? 甘夏さんが、私の……おじいちゃんなの」
「そうだよ」うっすらと目を細めて答える。「今まで騙していて、悪かったね」
ふいに保奈美は甘夏の胸に顔をうずめた。鼻をすする音を混じらせながら言う。
「私、生まれたときからおじいちゃんがいなくて……無理なお願いだとはわかってましたけど、ずっと会いたかったんです。お母さんのお父さんは、どんな人なんだろうって……」
そのあとは言葉にならなかった。保奈美は静かに泣きながら、ときおり「おじいちゃん、おじいちゃん」と繰り返した。その小さな頭を、甘夏は力の入らない手で優しく撫でる。
ふたりを一歩引いた状態で見つめながら、柿田は思った。
(感動の対面……といきたいところだがな)
自分たちが窮地に立たされていることに変わりはない。なにかしらの決断をしなくては、なにかを捨てる覚悟を決めなくてはならないのだ。彼は手元の携帯電話を一瞥し、目をそらした。
一瞬、なにが起きたのかよくわからなかった。いや、実際は、甘夏の顔が青褪めたかと思えば胸を押さえて前方右斜め四十五度の方向に倒れたというところまで、視覚は事細かに情報をとり込んだのだが、『よくわからない』という一種の思考の空白(タイムラグ)をあえてつくり出すことで理解への備えを整えたかっただけだった。
柿田の口から煙草がこぼれ落ちる。それを気に留めてなどいられなかった。すぐさま駆け寄って甘夏を仰向けにした。「おい、ジジイ! どうしやがった、てめえ!」
「甘夏さんっ、大丈夫ですか!?」
保奈美がそばにひざをつくと、苦しげに表情を歪ませながらも声をしぼり出した。
「く……か、鞄から、壜を持ってこい、若造……」
「わかった」
すぐさま甘夏の鞄を手にし、口を広げる。まさぐる手間も惜しいような気がして、テーブルの上に中身をぶちまけると、手帳や古い革財布のほかに小壜が落ちてきた。そういえば、当初軍資金を強引に共有化した際に、見たような気がする。ともかくそれが薬剤だということはラベルからうかがい知れたが、だからこそ、柿田は強く歯軋りをせざるをえなかった。
「ジジイ。この野郎、ふざけやがってっ」
「柿田さん、どうしたんですか?」保奈美が切迫した顔をむけてくる。
「てめえがからだのどっかに爆弾抱えてんのはよぉくわかったぜ。だがな……だったらよ、どうして肝心の薬がこんだけしか残ってねえんだよっ!」
突きつけた小壜の中で、わずか二錠の錠剤が弾き合う音が鳴った。医学的知識など皆無に等しい柿田でもわかる――どれほど薬効が高いとしても、たったこれだけで現在の甘夏の症状を完全に沈静化させることは無理だった。そしてそれは、今後似たようなことが起きた場合には、八方塞がりで打つ手がないこともまた示していた。
しかし、甘夏はあろうことか笑った。さも、わかっていると言いたげに。
「ギャグのつもりかよっ。なんでなにも言わなかったっ」
「待ってください柿田さん!」保奈美が柿田以上の大声で言った。「今はそんなことを言っている場合じゃないでしょう? はやく、それを甘夏さんに飲ませてあげないと……!」
「んなことわかってらあ! 交代しろやっ」
保奈美の腕力には甘夏の上体は重すぎると判断して、柿田が嚥下しやすい体勢をとらせ、彼女が錠剤二錠とペットボトルの水を甘夏に与える。彼の喉が尺取ると、即効とまではいかないが、徐々に呼吸が落ち着いていき、顔色に余裕が見えてくる。とはいっても、いまだに弱々しさは拭いきれず、常に再発の危険性を孕んでいる以上は、息をつくことはできないけれど。
「おいガキ、足を持て。ちったあ根性見せてもらうぜ」
せいの、と保奈美と協力してひとまず甘夏をソファの上に横たえさせる。その拍子に足がテーブルにぶつかり、さきほどの甘夏の持ち物が落下した。舌打ちをしつつ、柿田は手帳のほかに革財布を拾い上げる――と、ふとカード入れからはみ出しているものに目が引き寄せられた。それは一枚の写真だった。擦り切れて、何度も触れられたことは瞭然の、さらに柿田にしてみれば失笑を禁じえないような、写真だった。
「ジジイ……てめえはよ、最初っからつかみどころのねえ不可解な野郎だったけど、今回ばかりはマジで意味がわからねえ。ちんぷんかんぷんだぜ」写真を裏返し、甘夏たち――とりわけ保奈美に見えるようにして言った。「俺は視力に自信がねえから、見間違いじゃなけりゃあいいんだが、こいつに写ってるのってガキじゃねえのか?」
「えっ、そんな」保奈美が写真に顔を近づける。「ほんと……私だ」
「なんでてめえがこんなもん持っていやがる」
甘夏は黙っている。苦しさゆえ、というわけだけではなさそうだ。
「傷み具合は相当だし、どれだけ少なく見積もっても写真のガキは今から二年は幼いぜ。誘拐のターゲットの写真を入手したってわけじゃあ、どうにもなさそうだな」
どういうことか教えろよ。そう言って一歩前に出ると、保奈美が割って入ってきた。
「ちょっと待ってください」戸惑いの中にも芯のようなものが、瞳の奥に透けて見える。いつからこんな目をするようになったのかは覚えていないし、記憶する気もないが、はじめからそうではなかったことは確信をもって断言できた。「なにも今そんなことを聞かなくたっていいじゃないですか。甘夏さんを安静にしてあげることが先です」
「おまえは気になんねえのか。当事者中の当事者だぞ」
「それは、そうですけど……」
「私を心配する必要はない」甘夏の声が聞こえ、ふたりは彼に視線を揃えた。彼は、いまだに自力で起き上がるまでは回復していないが、口調は安定の兆しがある。「むしろ、黙っていたらそのまま地獄へ寝堕ちしてしまいそうだ……しゃべらせてくれないかい」
ためらいもなく、まるで再考不可能の決定事項であるかのように『地獄』と口にしたことに疑問を抱きつつも、柿田は次の言葉をうながした。「いいぜ」
「……こうなることを回避する体(てい)をとり繕いつつも、本当は望んでいたのかもしれないな。いつだって、本当の気持ちがどこにあるのか、わからないまま生きてきた。それをほんの少しだけ、かいつまんで話してみるとするか。生意気な若造と――保奈美ちゃん。大切なきみに」
◇
直接的に戦火を体験したわけではなかった。ただ、敗北を喫したあとの、復興へむけて歩みはじめた希望感と、その実、完膚なきまでに破壊された文明が放つどこかすさんだ空気が綯い交ぜになった時代のことは知っていた。そして甘夏博光(ひろみつ)は、後者の雰囲気を感じることのほうが圧倒的に多かった。犯罪が日常的に起こる町、土ぼこりの舞う人いきれを眺めつつ、幼心ながら「希望なんてのは嘘っぱちだ」と思っていた。とはいえ、幼少期の世界なんてものは金魚鉢なみに狭いもので、徐々に視野や考え方は広がっていくものだが、生の初期段階で世の歪曲を知っていたことが問題だったのだろう。彼自身もまた、捩じれていった。
精神的に。
その捩じれの結果というべきか、彼は、若いころから町のゴロツキとして名を馳せていた。せっかく新憲法や教育基本法で小中学校の義務教育が制定されたにもかかわらず、ろくに学校にいかずに悪さばかりしていた。暴行恐喝といったタイピカルな悪事はもちろんのこと、年上の女のところに入り浸ったり、暴力団と関係を持ったりと反道徳的な行為には一通り手をつけたと記憶している。人間としては最低級だった。
だったが、それでもやはり人間である以上は食べていかなくてはならず、労働は避けては通れない道になりつつあった。特に、順調に『復興』を進め、むしろ『成長』への過渡期の情熱に溢れていた当時の日本においては、その風潮はもはや全体意思と言っていいものだった。甘夏は職を転々としたが、基本的に肉体を資本にする仕事がメインだった。ホワイトカラーへの憧憬など微塵もなかった。クソ食らえとさえ思っていた。綺麗なスーツは、彼の汚れた原風景とあまりにもかけ離れていたのだ。
しばらくして、甘夏は身をかためることになった。喫茶店で知り合った、年下の女が相手だった。子どもはほどなくして生まれた。未熟児の気があったが、元気な女の子だった。
「名前は佐恵子がいい。それ以外は認めねえ。文句はねえだろ? 敏子(としこ)」
赤ん坊の頬をつつきながら、甘夏は妻にむかってにやりと口を曲げた。
「昨晩ずっとぶつぶつと考えたすえにできた名前だもんね。私としては文句のつけようはないなあ」敏子は意地悪い顔で返してくる。
ばれたところで問題はないはずなのに、なぜだか甘夏は顔に熱がこもるのを感じた。
「なんだよ。俺がテメエの娘の名前考えちゃ悪いのかよ」
「べっつにー? なんにも悪うございやせん」
「このアマ。どうだかな」甘夏は煙草をくわえ、マッチを手繰り寄せる。
「あっ、それはだめ」
敏子にとめられ、甘夏は怪訝な顔でむかった。
「亭主が家で煙草吸っちゃあいけねえのか」
「もうあんたは亭主であると同時に、父親でもあるんだよ」そう言っても理解の及ばない甘夏に敏子はつづけた。「赤ん坊に悪い影響が出るかもしれないって、このまえ聞いたんだ」
「へえ。博識だな、おまえ。東大生だって裸足で逃げ出すぜ」
「ちょっと、ばかにしてるでしょ」
「俺のほうがばかだから別にいいだろ」
「それもそうか」
「あっさりと納得すんじゃねえ」
「あはは。でもさ、博光にはそのケンカで鍛えたからだがあるじゃん。ほらほら、私と佐恵子のためにもっと働いて、じゃんじゃんお金稼いできてよっ」
バンバンと背中をたたかれ、痛い痛いとこぼしつつも甘夏は笑った。さすがにそのときは、そのときばかりは、精神の捩じれが直ったように思えた。希望というもののかたちに触れかけた気がした。妻と娘の笑顔を守っていくことができるのは自分しかいないと、これからまっとうな人生が歩んでいくのだと、自信をつかむことができたような気がした。――だがそれは、むしろ自信過剰に近いもので、希望に触れかけたことより陥った錯覚であり、己の人間性を過大評価した上での妄想でしかなかった。
年をとり、佐恵子の成長にともない家庭というものが質量を増していくうちに、甘夏の中でプレッシャーが肥大していくのだった。元来粗暴で、楽をして生きていくことを信条としていた彼に、本質とでも表すべきかつての自分が怠惰をささやいてくるのは、はじめから時間の問題だったのかもしれない。同時に仕事はうまくいかなくなり、しだいに酒に溺れていった。
「ちくしょうめ。イカサマだってのはわかってるんだ、いつか化けの皮剥いでやる」
ギャンブルで負けた帰り、甘夏はカップ酒を片手に道を歩いていた。すると、横道のほうから帰宅途中らしい女子中学生ふたりが近づいてくるのが見えた。片方は佐恵子だ。黒いセーラー服がよく似合っている。彼女は二年生になっていた。酔っていた勢いもあり、友人共々おどかしてやろうと思い、甘夏は電信柱の陰に隠れて待った。
だが、ふたりの会話が聞こえてきて、それを実行するには至らなかった。
「こんどパパと一緒に遊園地いくんだ。そのあとデパートに連れていってもらってね、なんでも好きなもの買ってくれるって! ああ、なにがいいかなあ迷っちゃう」
「いいなあ公美(くみ)ちゃんのお父さん優しくて」
「甘夏さんのパパってどんな人?」
「……別にいいよ。うちのお父さんは」曖昧に佐恵子は笑った。「話すほどでもないから」
「いいじゃん、聞かせてよ。毎月プレゼントもらっているでしょう?」
単純な話、あの公美とかいう女子は佐恵子をおよそ勝ち目のない比べ合いに引きずり込んで、父親の金回りのよさを、ひいては家庭そのものの豊かさを自慢し、幸福を確認したいだけなのだろう。甘夏はそう理解しつつ、娘のほうも友人のくだらない真意に気づいているだろうと思った。頭のいい子だからだ。
佐恵子は少し黙ってから答えた。感情を凍てつかせた低い声だった。
「ほんと、なんでもないの。ほんとうに、いないほうがいいくらい」
「えっ。どういうこと?」
「そのままの意味。いなくなればいいのよ、あんな人。毎日まいにち仕事もろくにしないでお酒ばっかり呑んで、お母さんに迷惑かけてる。いなくなれって、いつも、思ってる」そこまで言ってから、冷たく眼を細めて公美に振りむいた。「だから公美ちゃん。私のお父さんはあなたのお父さんとは比べ物にならないくらいクズで、どうしようもない役立たずで、その娘である私だって、あなたよりもずっと不幸で、幸せとは無縁なの」
これで満足? というふうに首をかしげると、公美は目を丸くしつつも頷いた。
「じゃあ、私これから寄っていくところあるから」
また明日。そう残し、町のほうへと歩いていく佐恵子の美しい後ろ姿――それを、甘夏は拳を握りしめて見ていた。湧き上がってくるのは、羞恥に起因した憤怒だった。娘の口から自分の評価を直接聞くのははじめてだったが、まさかここまでばかにされているとは思っていなかったのだ。怒りのボルテージは上がる一方だった。父親の責務はほとんど果たしていないくせに、プライドだけは一丁前にあった。それこそ、実に迷惑な話ではあるけれど。
(俺をコケにしやがって。泣いたって許さねえ)
甘夏は大またで佐恵子のあとを追う。気配を感じて振り返りかけた彼女の腕を捕まえる。
「きゃっ」
「佐恵子っ。散々ぬかしてくれやがったじゃねえか、ああっ?」
すぐに、さきほどの会話を聞かれたのだとわかったのだろう。露骨に軽蔑の意を瞳ににじませて、吐き捨てるように呟いた。「盗み聞きしてたんだ……サイテイ」
「話をそらすな。問題はそのひねくれた口だ」
「別に、本当のことじゃない、ばかっ」
「おまえっ。親父にむかってなんだその口の利き方は! そんなふうに育てた覚えはねえぞ!」
「お父さんに育ててもらった覚えなんてないっ」雪崩を起こしたような言葉だった。「さっきの話聞いてたんならわかるでしょ? 私はあなたのことが大ッ嫌いなの!」
「……! このやろう!」
佐恵子の髪を引っぱり上げると、甘夏はカップ酒の中身をすべて彼女の頭にかけた。アルコール度数の高いそれは、女子中学生の感覚を焼く。「うああうっ」呻いても容赦しない。酒まみれになった顔を無理やり上げさせて、リード代わりに髪をつかんだまま歩き出す。
「こい! 説教してやる……親不孝者には折檻だ!」
「いだあっ、いたいい。やめてっ」
「うるせえ! 黙ってこい!」
通行人がなにごとかと目をむけてくるが、「俺はこいつの親父だ、なんか文句あんのか!」と怒鳴り散らしてずんずん進んでいく。当時は世間一般の認識として、親の、特に父親の権威は強力で、現代ではDVや虐待めいたことでも教育・説教という一言で片づけられてしまっていた傾向があったため、通行人にさほど気にかける仕草は見られなかった。
二階建てアパルトマンの外階段を、佐恵子を引きずりながら上る。二〇三号室が甘夏家の住居だった。中に入ると、内職中の敏子が疲れた目をむけてきた。おかえり、と言う。
それを無視し、玄関前の台所に佐恵子を薙ぎ倒して、平手打ちを見舞った。二発、三発と乾いた音が連続する。それでも甘夏の身勝手な怒りはおさまらなかった。
「このばか娘が! 調子にのりやがって!」
「やめてっ、博光! 佐恵子、泣いてるじゃない!」
敏子が血相を変えて駆け寄り、佐恵子を引き離す。佐恵子は腫らした頬に涙を刻みながらも、フーッ、フーッ、と手負いの獣のように甘夏をにらみつけていた。
すると悲しそうに鼻を動かしてから、敏子は言った。「酒くさい……あんた、まさか佐恵子に」
「こいつが悪いんだ。親父を尊敬できないこいつが」
「昼間っから酒呑んで、ほっつき歩いて……どうせまたスッてきたんでしょ」
「今日はいけそうな気がしたんだ。それより佐恵子だぜ。俺を、親父をばかにして、失礼な口をたたきやがった。おまえも一発……」
「そうね、佐恵子が言ったことはだいたいイメージがつく」敏子は、自分にしがみついている佐恵子の頭を包み込んでから、甘夏のほうをむいた。彼女と同じ眼をして。「でもね、私はこの子の味方。あんたとは違うの」
「なんだと」
「ぜんぶ佐恵子の言うとおりよっ。えらそうなこと言って、そのくせ一銭だって稼いできやしないで、せっかく私が貯めたお金もドブに捨ててきてっ。佐恵子があんたを尊敬できないんじゃない、あんたが尊敬できない父親なの。大黒柱が聞いてあきれるわっ!」
その言葉は甘夏の安っぽいプライドに直撃した。そして安っぽいがゆえに、揺らいだ。
「て、てめえまでナメた口利くのか。ふざけるなっ!」
勝手にからだが動いていた、と申し開きする用意もないが、次の瞬間には敏子を蹴り飛ばしていた。「お母さんっ」と身を寄せる佐恵子もろとも、さらに畳に転がす。この程度のことは、数年前から日常茶飯事だった。いつも腕力をもって、妻子を支配していたのだ。
しかし、ふたりの反抗的な、まるで非人間を見るような眼差しは変わらなかった。むしろ光を大きくしていくのが、煮えくり返った腸(はらわた)をさらに加熱する。
「でてけ」息を荒げながら言った。「おまえらふたりともでてけ! てめえらみてえなクソアマが住んでいいところじゃねえんだ、ここは! もう目の前に現れるな!」
「言われなくても」敏子は財布やらバックやらをかき集めると、叫んだ。「言われなくてもでていってやるわよ、こんなゲスのところ!」
佐恵子を連れてどかどかと玄関にむかう。すれ違いざまに佐恵子が見せた、深い憎悪が何層にも重なった眼が、少しだけ心の襞に引っかかった。
結局――その夜はふたりは帰ってこず、翌日も姿を見せなかった。
そして三日目の午後。帰宅してすぐ、家の様子に違和感を覚えた。なんともいえない喪失感だったが、その正体はすぐにわかった。敏子と佐恵子の衣類がないのだ。箪笥や押入れの中を確認してみると、貴重品の類も持ち出されていた。
(本当にでていきやがったのか)
ちゃぶ台の上に一枚の紙が置かれていた。それは離婚届だった。必要な記載事項はすべて埋められており、あとは甘夏が署名捺印をするだけで法的効果を発揮する。この二日間に彼女たちのあいだでどんな相談がされたのか知るよしもなかったが、つまり――つまりはそういうことらしい。完全に赤の他人になるということ。
追いかけるだとか、抵抗めいたことはしなかった。甘夏の想像には、それが女々しい行為に映ったのだ。彼は再び、ひとりで暮らしはじめた。
とはいったものの、一から十まで以前のようにとはいかなかった。捩れ返ってしまった精神はしかし、原形とは異なるふうに捩じれた。一度変形させた金属細工を、自らの手で元のかたちに戻すことが困難なように。その差異を後悔や回顧と表現することを、甘夏はあとになって理解するのだが。『失ってはじめて気づく』と言われれば、それはもはや使い古された常套句で、陳腐かつ耐食性に欠けるメッセージではあるけれど、それ以外のなにものでもないのかもしれなかった。
彼はしばしば、希望について考えるようになった。紆余曲折の果てに手に入れかけて、愚かにも自分から放棄していったもの。その大切さ。
――昔の俺は、ただ妬んでいただけじゃないのか。希望は嘘だなんて、土ぼこりの中にいることが嫌で嫌でたまらなくて、天邪鬼になることでしか誤魔化せなくて、思っただけじゃないのか。本当は憧れていたんじゃないのか――。
離婚から四年目にして、ついに「出直したい」と感じるようになったのだった。
やり直しではなく、出直し。今はもう行方の知れない元妻と子をとり戻すのではなく、希望をゼロから見つけにいくことを、甘夏は決意した。
半年後、職場の同僚を介して知り合った女性と再婚をした。彼女は子どもをほしがらなかったが、それでもかまわないと思った。どちらかといえば、なぜか、胸を撫で下ろしたときのような感覚があったことを認めなければならなかった。
甘夏はとにかく、真面目ないい夫であることに努めた。もう同じ失敗はしたくない、二度とつかんだものを手放したくはない――そういった強迫観念にも似た思いに突き動かされていた。実際のところ生活は苦しくなかったし、妻ともデートをしたりして、良好な関係を保っていた。どこにも綻びはなかった……そのはずだった。
ある日曜日、妻が唐突に言った。
「ねえ、わたしたち別れましょうよ」
「えっ」驚いて彼女の目を見返すが、思考は読めない。「どうしてだい?」
「さあ? どうしてかしらね」
甘夏は焦った。なにか知らないうちに、再び失態を犯していたのかと。
「問題があるのか? 私のなにがいけないのか、不満があるのなら言ってくれ」
「不満はないわ。博光さんはいい人だし、適度に自由がきいていて、快適な日々」
「なら――」
「しいて言うなら、理由はそういうところ」彼女の指先が甘夏の胸に触れた。「そういう、わたしにいつも気を遣って、不満を抱かせないようにしているところかしら」
「意味がわからないんだが……」
「端的に言うわ。あなたはわたしを見ていない。わたしというフィルターを通して見える、なにかをずっと目で追ってきたんだと思う。それを守ってきたの。そういえば、再婚なのよね。もしかして、前の奥さんと……お子さんじゃない? どう? 当たってる?」
彼女と結婚するにあたり、前の家族構成は伝えなかったため、佐恵子の存在を指摘されたことには愕然とした。ふつうに考えれば、子のひとりやふたりいてもおかしくないのだけれど、その次の言葉が問題だった。
「あなた、わたしが子どもほしくないって言ったとき、ほっとしたでしょう」
ぎくりとした。隠しおおせたつもりだったが、彼女の勘を甘く見ていたのだろうか。
「そ、そんなわけないだろう?」
「いいえ。あなた自身、子どもがほしくなかったのよ。あなたにとって子どもは、本当に大切にしたいと思っていたのは、前の家庭の子どもだけ。わたしとの子どもは代替品じみていて、それでいて前の子の存在が薄れていくような気がして、怖かった」
そう、だから――と彼女はつづけた。甘夏は反論することができなかった。
「あなたには未練がある。前の家族に。ものすごく、大きな未練が」
「そうなのか? だから、私はいけないのか……?」
「ええ。わたしはね、映写機なんてまっぴらなのよ」
かすかに笑って言うと、彼女は部屋を出ていく。甘夏はその場から動くことができなかった。自分でも気づいていない心理の奥底を暴かれた気がした。
未練――再スタートをきったはずの自分の原動力は、いや、原動力とも呼べない操り糸は、ただそれだけの寂しい感情でしかなかった。
なかったのだった。
本心を悟ることができた部分は、確かにあったかもしれない。その後、二度目の離婚をしてからは気力を失い、なにをするでもなく年月はすぎていった。わずかばかりに残った敏子や佐恵子の写真を眺めながら、甘夏博光はゆっくりと老いた。
そんな平坦な日常を波打たせたのは、一本の電話だった。めったにかかってくることはなかったので、訝しみながらも受話器をとった。
「もしもし、甘夏」
『懐かしい声……少し落ち着いた?』
相手の声を聞いた瞬間、全身に電流が走った――敏子だったのだ。
戸惑いつつも話を聞くと、彼女は再婚せずに女手ひとつで佐恵子を育て上げたらしい。その苦労を推し量ることはできなかったが、素直に褒めてやりたい気持ちになった。自分にその資格がないことは、十二分に理解していたから、口にはできなかったけれど。
そして、佐恵子が結婚したことを報告された時点で、敏子に行動に納得がいった。娘が一人前の社会人になり、嫁にいったことで、それまでの使命感が跡形もなく消え去ってしまったのだろう。一心不乱に娘を育ててきた敏子には、交流する人間もいないに違いない。そうして生まれた孤独感と心細さが、いちおうはかつて愛し合った男の電話番号を突きとめさせたのだ。あるいは、美化された記憶が生んだ気の迷いだったのかもしれない。
「そうか……佐恵子も立派になったな」
呟いてからはっとした。結婚したということは、じきに子どもが生まれるだろう。戸籍上はなんの繋がりはなくとも、血を分けた孫がこの世に誕生するのだ。
佐恵子が産んだ命――それを思うだけで、涙が溢れそうになった。かつてつかみ損ねた希望が大きくなり、また新たな希望を生み出す。ほかならぬ彼女自身の希望を。
彼女はちゃんとその子を育んでいけるのだろうか。少年時代に親から酷い目にあわされた人間は、己の子どもにも同じような行為に及ぶことが多いという。でも、大丈夫だと思った。なぜなら彼女は、佐恵子は、頭のいい――素敵な子だからだ。
その日から、甘夏の生きる目的は孫に会うことになった。
会いたい。佐恵子の希望に会いたい。理想としては、佐恵子に謝罪し許してもらったうえで穏やかに孫と対面させてもらうのがベストであるが、しかし、彼女が去り際に見せた鬼と見まごう眼差しはいまだに脳裏に焼きついていて、思い出すごとにそれは不可能な計画のように思えてきた。確実に罵詈雑言を浴びせられたあげくに追い返される。ともすれば、再び彼女の心に傷をつくってしまうかもしれない。
考え直すときもあった。今さらどの面を下げて「孫に会いたい」などとぬかすのか。結局のところなにも改善されていない自らの身勝手さにあきれ返ったけれど、それでも、隠れて連絡をとり合っていた敏子から定期的に送られてくる孫――保奈美の写真が増えていくうちに、思いは際限なく膨らんでいくのだった。
どんなかたちでもかまわない、と保奈美に会いにいく決心がついたのは、二〇〇九年に入りしばらく経ってからだった。手元にある写真が二年前より更新されておらず、敏子が、最近はろくに撮っていないと心配していたことが気にかかっていたし――それに加え、以前から疾患を抱えていた心臓の病状が去年を界に急に悪化したことが契機となった。残された時間の短さを考えると、どうしても会えずに終わる恐怖心が先行した。
秋の朝に、日帰りを想定して甘夏は国鉄に乗った。手帳や財布のほかに、旅の用心として強心剤を革鞄に入れ、また、いつか保奈美に手渡せる日を夢見てコツコツと貯めた十一年分のお年玉、二十万円を底のほうに忍ばせて。
佐恵子たちが暮らす町に着き、駅で入手した地図を片手に在学中の小学校をめざす。変質者だと思われようが、ひと目会うだけでよかった。校門の前で張り込んでいると、終業のチャイムが鳴り、生徒たちが吐き出されてくる。同時に、むこうの塀の陰にいかにも怪しげな風貌の若い男が垣間見えたが、関係ないと無視して門に意識を傾注した。
そして、そのときはきた。
ついに会うことのできた孫娘は、佐恵子の面影を色濃く残す美しい少女だった。なにもかもがそっくりで、心を奪われた甘夏は無意識的に近づいていった。
◇
私は本当に身勝手な男だよ――そう甘夏はかすれた声で言った。
「保奈美ちゃんがここに誘拐されてきたとき、私は通報するべきだった。きみを助け出してやるべきだったんだろう……だが、私はここで若造の共犯者になることを選択した。そのほうが、少しでも長くきみと一緒にいられると思ったんだ」
「てめえがこのガキの祖父(ジジイ)だと?」柿田はすぐに疑問点にいきあたる。「しかしだぜ。最初に家族関係を聞いたとき、こいつは祖父は両方とも死んだって……」
「実際そのとおりなんだろう。佐恵子の中では、父親は存在していない。私は死んでいるんだ。わかっていたから驚きもなかった。許されようなんて思っていなかったよ」
「そんなしけたツラしてよく言うぜ」
軽く笑ってから、柿田はとなりを見た。保奈美が信じられないといったふうに、睫毛を震わせている。小さくミリ単位で唇を動かした。耳は拾えなかったが、呟こうとしたことはわかった。すると彼女はもう一度、はっきりと聞こえる声で言った。
「おじい、ちゃん……? 甘夏さんが、私の……おじいちゃんなの」
「そうだよ」うっすらと目を細めて答える。「今まで騙していて、悪かったね」
ふいに保奈美は甘夏の胸に顔をうずめた。鼻をすする音を混じらせながら言う。
「私、生まれたときからおじいちゃんがいなくて……無理なお願いだとはわかってましたけど、ずっと会いたかったんです。お母さんのお父さんは、どんな人なんだろうって……」
そのあとは言葉にならなかった。保奈美は静かに泣きながら、ときおり「おじいちゃん、おじいちゃん」と繰り返した。その小さな頭を、甘夏は力の入らない手で優しく撫でる。
ふたりを一歩引いた状態で見つめながら、柿田は思った。
(感動の対面……といきたいところだがな)
自分たちが窮地に立たされていることに変わりはない。なにかしらの決断をしなくては、なにかを捨てる覚悟を決めなくてはならないのだ。彼は手元の携帯電話を一瞥し、目をそらした。
(19)
甘夏の心臓はどうにか夜を越すことに成功した。だが、次の夜はわからない。
日中、保奈美が彼に寄り添って寝息を立てる中、柿田は今後の作戦について考えたが、瑠南たちがやってくる時間になってもまとまらなかった。
「やっほー。今日もやってきたよ」
元気よく入ってくる彼女を、柿田は諌める。
「おい、ちったあ黙ってこれねえのか」
「あ、ごめん」保奈美が寝ているのを見て、声をひそめる。
「そっちじゃねえ。……ジジイのほうだ」
「甘夏さん?」瑠南は深く眠っている甘夏の顔色から、すぐになにかあったことを察したらしい。真剣な眼差しで振り返って言った。「どうしたの」
柿田は、銭湯に出かけたところから現在までの経過を説明した。甘夏が実は保奈美の祖父だったことも含めて。雄大は保奈美と同様に寝耳に水だったみたいだが、瑠南のほうはといえば、意外なほど冷静に事実を受けとめていた。
「あんまし驚かねえのな」柿田は言った。
「まあね……薄々気づいていたっていうか、そんな気はしてたんだ。なんかこのおじいさんはあんたとは違うなって。単純に身代金がほしいわけじゃないんじゃないかなって」
「なに考えてんのかわかんなかったもんな」
「そういう曖昧で消極的な推理じゃないよ。みんな気づかなかったみたいだけど……甘夏さん、ホナちゃんを見るときにとっても優しい目をしてたから」
まったく気にもしなかったことを言われ、柿田は少し目を伏せる。すると、横で話を聞いていた雄大がだしぬけに口を開いた。「で? どうするんだよ」
「あ? どうするって」
「このままぼんやりしてていいわけじゃないんだろ? おれ、病気とか全然わかんないけど病院につれていったほうがいいんじゃねえの」
「そんなことわかってる。でも」柿田は苦渋を表情ににじませた。「そうすると、なにもかもが終わっちまう。救急車にしろ俺たちで病院に運んでいくにしろ、どうやっても足がつく。もう一度ポリ公にツラが割れてるんだ。うまく捜査網をすり抜けられる気がしねえ」
つまり――それは二律背反(ジレンマ)だった。
甘夏の命を助けるという選択は、同時に代償としてこの誘拐を失敗に終わらせる。保奈美は真の意味での救いを得ることができぬまま、また自分や当の甘夏も警察に逮捕されるだろう。反対に保身に回れば、身代金を奪い逃走することを第一に考えれば、自然、甘夏を慮っている余裕などない。彼を見捨て、このまま死んでいくのを観察する結果となる。どちらにせよなにかを失う。天秤は左右に揺れながら、ふるい落とすものを今か今かと待っているのだ。
体重ではない、人間の重み。それに今、柿田は押しつぶされそうになっていた。
(俺に選ぶことができるのか……? こんな俺に……)
「私はなにも口出ししないよ」柿田の葛藤を読みとって、瑠南は静かに言った。「本音を言うとね、甘夏さん……ホナちゃんのおじいちゃんを助けてあげたいとは思うんだけどね。でも決めるのはきっとあんただと思う。あんたしか決められないんだと思う」
「……俺はバカだぜ。今だって、全然頭が回らねえんだ」
「勉強できるじゃん」
「別モンだ。昔は一緒だって勘違いしてたけどよ」
「だったらそっちのほうがいいじゃないの?」
「は?」
「変に小賢しいこと考えなくて済むから。あんたがあんたのままで動けるから」
バカで最高じゃん。そう笑う瑠南から視線を外して、柿田は窓の外を見た。
遠くの山際のあたりが薄紫色に光を残しているだけで、空のほとんどが闇に沈んでいた。目を凝らせば星が見えるほどかもしれない。今日という日が、早くも終わりを迎えようとしている――その前に行動を起こさなければ、本当にすべてが手遅れになるような気がした。
「バカで最高、ね。部外者(てめえ)は黙ってろよ」柿田はおもむろにポケットから携帯電話をとり出して、キーに指を這わせた。「被害者(ガキ)や共犯者(ジジイ)が中心みてえに話が進んでいくのも気に食わねえ。決めるのは俺だ。俺が主犯(ヒーロー)だ」
TELボタンに力を込める。
蒲郡たち捜査班サイドにとって、先日の朗報は砂漠で水を得たようなものだった。
警邏中の巡査のひとりが、梨元保奈美を連れ回していた二人組の男と接触したというのだ。その場でとり押さえることができなかったのは確かに恥じ入るべき点だが、手がかりがつかめずに堆積する一方だった焦燥感を幾分か和らげられたことのほうが大きかった。捜査員のモチベーションは確実に持ち直しつつある。
(とはいったもののな……)
蒲郡はソファに腰を下ろしている佐恵子を一瞥した。彼女は、捜査が前進したことを告げても以前みたいに表情を変えなくなっていた。小さく頷いて「お願いします」と頭を下げるだけで、心をどこかに放り投げてしまったみたいだ。やはり、過日の夫との事件が精神に深手を負わせているのだろうと思った。内憂外患とはまさに現在の彼女の状態を指すのかもしれない。
「大丈夫ですかね、佐恵子さん」吉見が耳打ちしてくる。「かなりきてますよ」
「しようがないな」
「あの、ちょっと冷たくないですか? 慰めぐらい」
「俺たちの仕事か? そういう同情は」蒲郡は先輩の目になって吉見を見すえた。「誰も望んじゃいないんだ。たとえばおまえが患者だったとして、医者に同じ病気になってほしいと思うか? 同じ境遇に陥って傷の舐め合いをしたいと思うのか? 違うだろ。唯一求めることは『自分にはできない病の根治』だろう? そういうことだ。医者は積み重ねた医療技術。俺たちは国家機関としての捜査能力。つまりは弱者を救う力。必要なのはそれだけだ。それだけが本当に価値のある行動だ」
「……わかりました」吉見は神妙な面持ちで頷く。
その後、なればと巡査から聴取した内容を確認することになった。吉見は手帳をとり出すが、蒲郡はすべて頭の中に入っていた。常に第一線で戦ってきた彼だからこそのスタイルと言える。
容疑者のひとりは中肉中背で、髪をブリーチした若い男。もうひとりは老人という話だった。彼らは土手を徒歩で移動していたという証言から、あまりこの地域から離れていない場所をアジトにしているらしいことが窺知できる。しかし、ふたりの関係性はどうもちぐはぐな感じがして、これまでの経験からも接点は類推できず、疑問を落としていた。
なので、今日はこれから巡査に赴いてもらい、さらに深い話を聞く手はずになっていた。
「失礼します」少しして、彼はやってきた。ひとまずは既存の情報との記憶違いがないかを確かめたあと、さらに掘り起こすことにした。
「もっとこう、リアルに思い出してみてくれ。目だけじゃなくてもいい。耳とか」
「耳ですか……」困ったようにつぶやいたかと思えば、すぐに顔を上げた。「ああっ! 思い出しましたよ! 確か梨元保奈美が叫んでいました、でも……」
「どうした? 言いにくいことでもないだろう」
「それはまあ、そうなんですけど。果物の名前だったんです」
意味がわからなかった。それでも、貴重な手がかりだと思い直した。
「彼女はなんて言ったんだ?」
「アマナツ、です」
――ガタン! とリビングのほうから物音が聞こえた。
蒲郡が振りむくと、廊下に出てきた佐恵子がからだをわななかせつつも、はっきりとこちらを凝視していた。さすがに無視できない反応だ。近づき、問いかける。
「佐恵子さん。どうしたんですか、なにか心当たりがあるんですか?」
「アマナツ……そんな……」
佐恵子は頭を抱えてしまう。知人、というよりは因縁のある相手みたいだ。詳しく聞かせてもらおうと思い、蒲郡は彼女の肩にそっと手を置いた――と。
固定電話の着信音が響き渡った。
すばやく蒲郡は時計を確認する。午後七時。誘拐犯が過去に接触してきた時刻と近い。人間は基本的に慣れた行動を好む。先方で間違いなさそうだ。
「犯人だ! 気を引き締めろ!」
「はいっ」吉見や他の捜査員が動き出す。
「佐恵子さん、お願いできますか。あなたの出番です」
足元の佐恵子に言う。すると彼女は、さっきまでの無気力さが嘘のように、ばたばたと四つん這いで電話に突進した。こちらの指示も待たずに受話器をとる。
そして叫ぶ。
「やめてよ! もうやめてよ! どうしてこんなことするの? どれだけ私を苦しめれば気が済むのよ! そんな卑怯な手を使ってまで私を虐めないでよおぅ!」
半狂乱になっている。まずいと感じた。「佐恵子さんっ」
「謝るからあ、もう許してくださいぃ……! 虐めないで、虐めないで……」
こんどは涙を流しはじめる。そうして生まれた無言のあいだに、むこう側で唇を開く気配があった。ちなみに、すでに蒲郡らはヘッドホンを装着し終えている。
『……残念だがよ。俺はアマナツヒロミツじゃないぜ』
前例通り、若い男の声だ。しかし、その声音には憐れむような優しげな余韻がある。非道な犯人像とは違う。……正直、蒲郡は混乱しかけているのを否めなかった。知らない事情が裏で複雑に絡み合っている。だが、全容がまったく把握できないのだ。
『あんたの気持ちはわからないでもねえ。でもな、そいつの気持ちも結構なモンなんだ』
佐恵子が再び声を荒げた。「わけわからないこと言わないで! いいから早くあの人に代わってちょうだい! 直接、問いたださなくちゃ……」
『……そりゃ無理な相談だな』
「突っぱねてるのね? お願いだから代わってっ」
『落ち着けよ。まずは俺の話が先だろうが』
かすかに声に苛立ちが混じる。蒲郡の中の危険信号が薄く灯る。
「私はあの人と話がしたいの!」
『――娘がどうなってもいいのか』
「……っ」
その言葉に正気に引き戻された佐恵子が息をつまらせた――直後だった。
パアァン、と。
「なっ……!」
マイクの奥で、火薬の炸裂する音が木霊した。それは、現在の状況下ではどうしても最悪の展開――つまり、誘拐犯はどういうルートか拳銃を入手していて、弾み、もしくは意図して発砲したということを想像させるものだった。おそらく、取引の前提的なカードである保奈美には命中させていないだろうとは思えるが、そうとしても危険度が一気に増したことは不動の事実だ。
「ほなみっ? 保奈美を殺さないでえっ」
佐恵子が悲鳴を上げる。もう一度、似た破裂音が鼓膜を撃ち抜く。ひあっ、と佐恵子の全身が跳ね、その拍子に手から受話器が滑り出る。そして落下したそれが、不運にも安置枠内の通話終了ボタンを押してしまう。あわてて拾い直すがもはや遅く、回線は途切れていた。彼女のミスに起因するとはいえ、信じがたいほどの、あまりにも残酷な偶然。
捜査員たちの中にはうなだれてしまう者もいた。そうでなくとも、大半が表情を苦悶に歪ませている。絶望の二文字が脳裏をよぎってしまっていた。
ただひとり――蒲郡を除いて。
彼は呟いた。
「待て」
「えっ?」吉見が見る。
「今の――なにかおかしくないか」
「おかしいって、確かに銃声が……」
「いや、おかしい」
蒲郡は考える。警察官を生業としている以上、やはり凶悪な犯罪者と対峙しなければならないときがあるわけで、その際に最大の牽制となってくるのが、いわずもがな拳銃だ。当然それを的確に扱うためには訓練を要し、防音具をつけていることを差し引いても、ベテランの彼の耳は銃声の特徴を知悉している。変な表現ではあるが、その耳がささやいてくる――これは銃声ではない。もちろん拳銃にだって種類があり、音に差異は存在するが、さきほどのものは根本的に別のカテゴリに入るものだ。高く響くこと目的としているように、まるで殺傷能力を考慮していないように弱く、そんなふうに火薬を使うものといえば――
「そうか」蒲郡はすくっと立ち上がった。「やつらの居場所がわかった」
「えっ、それってほんとですか?」
「いや……確証はないが」
しかし、巡査の話と破裂音、そしてもうひとつ自分だけが持っているとある断片を集めれば、思い当たる場所はそこに限られてくる――というより、そう思えてしかたがない。ドラマに出てくる名探偵のような推理ではなく、一介の刑事として磨き上げた勘だった。
「いくしかない気がするな」
「? いくってどこに……」
すると突然、蒲郡は全員に聞こえるように声を張った。「おまえたち! これから俺がむかうところについてきてくれ! あと、誰か応援の要請も頼む!」
「――はいっ!」
蒲郡を微塵も疑いもしない。捜査員らはすばやく玄関にむかう。
背後から放たれる声があった。
「待って! 私も連れていってください!」
茫然自失としていた佐恵子が追ってくる。吉見が迷いつつも返した。
「しかし、危険を伴うかもしれませんよ」
「構いません! 私は、私は……」
「本当にいきたいんですね?」蒲郡が横から言う。彼女が即座に首を縦に振ると、はじめから予期していたようにつづけた。「ならいいでしょう。容疑者と関係があるようですし」
外に出てセダンに乗り込んだ。ドライバーは蒲郡。助手席に佐恵子、後ろに吉見だ。赤色灯をルーフにとりつけ発進させると、ほかの捜査員の車もしっかりと追尾してくる。彼らは住宅地を脱し、一般車を退けながら大通りを走り抜ける。そのころには応援のパトカーが合流し、計五台の大名行列になっていた。
河川にかかる鉄橋の手前で右折し、土手を進む。夜の闇の奥のほうに小さな光が舞っているのを発見すると同時に、ついさっき聞いたばかりの破裂音が飛んでくる。
吉見が声を上げる。「あっ! この音っ」
そうだ、と確信めいたものを蒲郡は感じた。
そう――あの破裂音は銃声なんかじゃない、花火の音だ。
蒲郡が思い出すのはいつかの夕方。杏藤瑠南と梅村雄大を追いかけ見失い、辿り着いたこの土手で男子高校生の話を聞いた。ここで花火をしようという談笑に水を差したのは蒲郡で、彼らはぶつくさと反省の色も見せずに去っていった――それは逆に考えれば、彼らは忠告を無視して予定通りに花火をはじめる可能性が高いということ。
読みは的中した。受話器越しにはっきりと聞こえるのなら、音源とアジトはほとんど隣接していると言っていい。実は遥か遠方の地で同じように花火をしている輩がいるのかもしれないが、巡査の話からアジトは周辺地域にあるとされているため、その説は棄却される。
そして、このあたりでアジトに仕立てられそうな建物はひとつしかない。
幽霊が出ると噂され、誰も近づかない――あの廃工場だ。
土手の脇から下っていくと、ようやく花火を楽しんでいた者たちはパトカーに気がついたようだ。サイレンを鳴らしていたことを考えると、よっぽど青春に没頭していたらしい。
蒲郡たちはドリフトをしながら次々と停車していく。運転席から出て見ると、思ったとおり先日の男子高校生らに加えて数人の女子がぽかんと口を開けていた。五台の検挙する気満々のパトカーに突如として囲まれたわけだから、無理もない反応ではあったけれど。
高校生のひとりが言う。脂汗を流し、ぱくぱくと鯉みたいに。
「なななななんすか? おおお俺たちなにもしてないっスよ?」
「そそそそうだよねヨシくん? わわわたしたち別に花火とかしししてないよね?」
「ばばばっかおめ! そそそそそんなわけねえだろっ?」
「吉見」蒲郡は冷静に言った。「むこうの川辺」
すたすたと吉見はそこにいって帰ってくる。手には川水に捨てたと見られる花火――手持ちや筒型のもの――が証拠品として持たれていた。
「……まあ、どう考えてもしてましたね、花火。そもそも、見えてましたし」
男子高校生が震える。「ちょちょちょ、俺たちやややばいんスか?」
「本当ならこっぴどく絞ってやるところなんだがな」蒲郡はにやにやと笑い、言う。「今はきみたちに構っているヒマはないんだ。……というかね、今回に限ってだけど、きみたちには感謝状を贈りたいぐらいだよ」
これに懲りたら早く帰りなさい。そう告げると、
「さーせんしたああああああ!」
「もうヨシくんのばかあああ!」
高校生たちは逃げていく。彼らが土手のむこう側に消えてから、蒲郡は目の前にそびえ立つ廃工場をにらみつけた。「ついに追いつめたぞ。どちらにとっても正念場だ」
甘夏の心臓はどうにか夜を越すことに成功した。だが、次の夜はわからない。
日中、保奈美が彼に寄り添って寝息を立てる中、柿田は今後の作戦について考えたが、瑠南たちがやってくる時間になってもまとまらなかった。
「やっほー。今日もやってきたよ」
元気よく入ってくる彼女を、柿田は諌める。
「おい、ちったあ黙ってこれねえのか」
「あ、ごめん」保奈美が寝ているのを見て、声をひそめる。
「そっちじゃねえ。……ジジイのほうだ」
「甘夏さん?」瑠南は深く眠っている甘夏の顔色から、すぐになにかあったことを察したらしい。真剣な眼差しで振り返って言った。「どうしたの」
柿田は、銭湯に出かけたところから現在までの経過を説明した。甘夏が実は保奈美の祖父だったことも含めて。雄大は保奈美と同様に寝耳に水だったみたいだが、瑠南のほうはといえば、意外なほど冷静に事実を受けとめていた。
「あんまし驚かねえのな」柿田は言った。
「まあね……薄々気づいていたっていうか、そんな気はしてたんだ。なんかこのおじいさんはあんたとは違うなって。単純に身代金がほしいわけじゃないんじゃないかなって」
「なに考えてんのかわかんなかったもんな」
「そういう曖昧で消極的な推理じゃないよ。みんな気づかなかったみたいだけど……甘夏さん、ホナちゃんを見るときにとっても優しい目をしてたから」
まったく気にもしなかったことを言われ、柿田は少し目を伏せる。すると、横で話を聞いていた雄大がだしぬけに口を開いた。「で? どうするんだよ」
「あ? どうするって」
「このままぼんやりしてていいわけじゃないんだろ? おれ、病気とか全然わかんないけど病院につれていったほうがいいんじゃねえの」
「そんなことわかってる。でも」柿田は苦渋を表情ににじませた。「そうすると、なにもかもが終わっちまう。救急車にしろ俺たちで病院に運んでいくにしろ、どうやっても足がつく。もう一度ポリ公にツラが割れてるんだ。うまく捜査網をすり抜けられる気がしねえ」
つまり――それは二律背反(ジレンマ)だった。
甘夏の命を助けるという選択は、同時に代償としてこの誘拐を失敗に終わらせる。保奈美は真の意味での救いを得ることができぬまま、また自分や当の甘夏も警察に逮捕されるだろう。反対に保身に回れば、身代金を奪い逃走することを第一に考えれば、自然、甘夏を慮っている余裕などない。彼を見捨て、このまま死んでいくのを観察する結果となる。どちらにせよなにかを失う。天秤は左右に揺れながら、ふるい落とすものを今か今かと待っているのだ。
体重ではない、人間の重み。それに今、柿田は押しつぶされそうになっていた。
(俺に選ぶことができるのか……? こんな俺に……)
「私はなにも口出ししないよ」柿田の葛藤を読みとって、瑠南は静かに言った。「本音を言うとね、甘夏さん……ホナちゃんのおじいちゃんを助けてあげたいとは思うんだけどね。でも決めるのはきっとあんただと思う。あんたしか決められないんだと思う」
「……俺はバカだぜ。今だって、全然頭が回らねえんだ」
「勉強できるじゃん」
「別モンだ。昔は一緒だって勘違いしてたけどよ」
「だったらそっちのほうがいいじゃないの?」
「は?」
「変に小賢しいこと考えなくて済むから。あんたがあんたのままで動けるから」
バカで最高じゃん。そう笑う瑠南から視線を外して、柿田は窓の外を見た。
遠くの山際のあたりが薄紫色に光を残しているだけで、空のほとんどが闇に沈んでいた。目を凝らせば星が見えるほどかもしれない。今日という日が、早くも終わりを迎えようとしている――その前に行動を起こさなければ、本当にすべてが手遅れになるような気がした。
「バカで最高、ね。部外者(てめえ)は黙ってろよ」柿田はおもむろにポケットから携帯電話をとり出して、キーに指を這わせた。「被害者(ガキ)や共犯者(ジジイ)が中心みてえに話が進んでいくのも気に食わねえ。決めるのは俺だ。俺が主犯(ヒーロー)だ」
TELボタンに力を込める。
蒲郡たち捜査班サイドにとって、先日の朗報は砂漠で水を得たようなものだった。
警邏中の巡査のひとりが、梨元保奈美を連れ回していた二人組の男と接触したというのだ。その場でとり押さえることができなかったのは確かに恥じ入るべき点だが、手がかりがつかめずに堆積する一方だった焦燥感を幾分か和らげられたことのほうが大きかった。捜査員のモチベーションは確実に持ち直しつつある。
(とはいったもののな……)
蒲郡はソファに腰を下ろしている佐恵子を一瞥した。彼女は、捜査が前進したことを告げても以前みたいに表情を変えなくなっていた。小さく頷いて「お願いします」と頭を下げるだけで、心をどこかに放り投げてしまったみたいだ。やはり、過日の夫との事件が精神に深手を負わせているのだろうと思った。内憂外患とはまさに現在の彼女の状態を指すのかもしれない。
「大丈夫ですかね、佐恵子さん」吉見が耳打ちしてくる。「かなりきてますよ」
「しようがないな」
「あの、ちょっと冷たくないですか? 慰めぐらい」
「俺たちの仕事か? そういう同情は」蒲郡は先輩の目になって吉見を見すえた。「誰も望んじゃいないんだ。たとえばおまえが患者だったとして、医者に同じ病気になってほしいと思うか? 同じ境遇に陥って傷の舐め合いをしたいと思うのか? 違うだろ。唯一求めることは『自分にはできない病の根治』だろう? そういうことだ。医者は積み重ねた医療技術。俺たちは国家機関としての捜査能力。つまりは弱者を救う力。必要なのはそれだけだ。それだけが本当に価値のある行動だ」
「……わかりました」吉見は神妙な面持ちで頷く。
その後、なればと巡査から聴取した内容を確認することになった。吉見は手帳をとり出すが、蒲郡はすべて頭の中に入っていた。常に第一線で戦ってきた彼だからこそのスタイルと言える。
容疑者のひとりは中肉中背で、髪をブリーチした若い男。もうひとりは老人という話だった。彼らは土手を徒歩で移動していたという証言から、あまりこの地域から離れていない場所をアジトにしているらしいことが窺知できる。しかし、ふたりの関係性はどうもちぐはぐな感じがして、これまでの経験からも接点は類推できず、疑問を落としていた。
なので、今日はこれから巡査に赴いてもらい、さらに深い話を聞く手はずになっていた。
「失礼します」少しして、彼はやってきた。ひとまずは既存の情報との記憶違いがないかを確かめたあと、さらに掘り起こすことにした。
「もっとこう、リアルに思い出してみてくれ。目だけじゃなくてもいい。耳とか」
「耳ですか……」困ったようにつぶやいたかと思えば、すぐに顔を上げた。「ああっ! 思い出しましたよ! 確か梨元保奈美が叫んでいました、でも……」
「どうした? 言いにくいことでもないだろう」
「それはまあ、そうなんですけど。果物の名前だったんです」
意味がわからなかった。それでも、貴重な手がかりだと思い直した。
「彼女はなんて言ったんだ?」
「アマナツ、です」
――ガタン! とリビングのほうから物音が聞こえた。
蒲郡が振りむくと、廊下に出てきた佐恵子がからだをわななかせつつも、はっきりとこちらを凝視していた。さすがに無視できない反応だ。近づき、問いかける。
「佐恵子さん。どうしたんですか、なにか心当たりがあるんですか?」
「アマナツ……そんな……」
佐恵子は頭を抱えてしまう。知人、というよりは因縁のある相手みたいだ。詳しく聞かせてもらおうと思い、蒲郡は彼女の肩にそっと手を置いた――と。
固定電話の着信音が響き渡った。
すばやく蒲郡は時計を確認する。午後七時。誘拐犯が過去に接触してきた時刻と近い。人間は基本的に慣れた行動を好む。先方で間違いなさそうだ。
「犯人だ! 気を引き締めろ!」
「はいっ」吉見や他の捜査員が動き出す。
「佐恵子さん、お願いできますか。あなたの出番です」
足元の佐恵子に言う。すると彼女は、さっきまでの無気力さが嘘のように、ばたばたと四つん這いで電話に突進した。こちらの指示も待たずに受話器をとる。
そして叫ぶ。
「やめてよ! もうやめてよ! どうしてこんなことするの? どれだけ私を苦しめれば気が済むのよ! そんな卑怯な手を使ってまで私を虐めないでよおぅ!」
半狂乱になっている。まずいと感じた。「佐恵子さんっ」
「謝るからあ、もう許してくださいぃ……! 虐めないで、虐めないで……」
こんどは涙を流しはじめる。そうして生まれた無言のあいだに、むこう側で唇を開く気配があった。ちなみに、すでに蒲郡らはヘッドホンを装着し終えている。
『……残念だがよ。俺はアマナツヒロミツじゃないぜ』
前例通り、若い男の声だ。しかし、その声音には憐れむような優しげな余韻がある。非道な犯人像とは違う。……正直、蒲郡は混乱しかけているのを否めなかった。知らない事情が裏で複雑に絡み合っている。だが、全容がまったく把握できないのだ。
『あんたの気持ちはわからないでもねえ。でもな、そいつの気持ちも結構なモンなんだ』
佐恵子が再び声を荒げた。「わけわからないこと言わないで! いいから早くあの人に代わってちょうだい! 直接、問いたださなくちゃ……」
『……そりゃ無理な相談だな』
「突っぱねてるのね? お願いだから代わってっ」
『落ち着けよ。まずは俺の話が先だろうが』
かすかに声に苛立ちが混じる。蒲郡の中の危険信号が薄く灯る。
「私はあの人と話がしたいの!」
『――娘がどうなってもいいのか』
「……っ」
その言葉に正気に引き戻された佐恵子が息をつまらせた――直後だった。
パアァン、と。
「なっ……!」
マイクの奥で、火薬の炸裂する音が木霊した。それは、現在の状況下ではどうしても最悪の展開――つまり、誘拐犯はどういうルートか拳銃を入手していて、弾み、もしくは意図して発砲したということを想像させるものだった。おそらく、取引の前提的なカードである保奈美には命中させていないだろうとは思えるが、そうとしても危険度が一気に増したことは不動の事実だ。
「ほなみっ? 保奈美を殺さないでえっ」
佐恵子が悲鳴を上げる。もう一度、似た破裂音が鼓膜を撃ち抜く。ひあっ、と佐恵子の全身が跳ね、その拍子に手から受話器が滑り出る。そして落下したそれが、不運にも安置枠内の通話終了ボタンを押してしまう。あわてて拾い直すがもはや遅く、回線は途切れていた。彼女のミスに起因するとはいえ、信じがたいほどの、あまりにも残酷な偶然。
捜査員たちの中にはうなだれてしまう者もいた。そうでなくとも、大半が表情を苦悶に歪ませている。絶望の二文字が脳裏をよぎってしまっていた。
ただひとり――蒲郡を除いて。
彼は呟いた。
「待て」
「えっ?」吉見が見る。
「今の――なにかおかしくないか」
「おかしいって、確かに銃声が……」
「いや、おかしい」
蒲郡は考える。警察官を生業としている以上、やはり凶悪な犯罪者と対峙しなければならないときがあるわけで、その際に最大の牽制となってくるのが、いわずもがな拳銃だ。当然それを的確に扱うためには訓練を要し、防音具をつけていることを差し引いても、ベテランの彼の耳は銃声の特徴を知悉している。変な表現ではあるが、その耳がささやいてくる――これは銃声ではない。もちろん拳銃にだって種類があり、音に差異は存在するが、さきほどのものは根本的に別のカテゴリに入るものだ。高く響くこと目的としているように、まるで殺傷能力を考慮していないように弱く、そんなふうに火薬を使うものといえば――
「そうか」蒲郡はすくっと立ち上がった。「やつらの居場所がわかった」
「えっ、それってほんとですか?」
「いや……確証はないが」
しかし、巡査の話と破裂音、そしてもうひとつ自分だけが持っているとある断片を集めれば、思い当たる場所はそこに限られてくる――というより、そう思えてしかたがない。ドラマに出てくる名探偵のような推理ではなく、一介の刑事として磨き上げた勘だった。
「いくしかない気がするな」
「? いくってどこに……」
すると突然、蒲郡は全員に聞こえるように声を張った。「おまえたち! これから俺がむかうところについてきてくれ! あと、誰か応援の要請も頼む!」
「――はいっ!」
蒲郡を微塵も疑いもしない。捜査員らはすばやく玄関にむかう。
背後から放たれる声があった。
「待って! 私も連れていってください!」
茫然自失としていた佐恵子が追ってくる。吉見が迷いつつも返した。
「しかし、危険を伴うかもしれませんよ」
「構いません! 私は、私は……」
「本当にいきたいんですね?」蒲郡が横から言う。彼女が即座に首を縦に振ると、はじめから予期していたようにつづけた。「ならいいでしょう。容疑者と関係があるようですし」
外に出てセダンに乗り込んだ。ドライバーは蒲郡。助手席に佐恵子、後ろに吉見だ。赤色灯をルーフにとりつけ発進させると、ほかの捜査員の車もしっかりと追尾してくる。彼らは住宅地を脱し、一般車を退けながら大通りを走り抜ける。そのころには応援のパトカーが合流し、計五台の大名行列になっていた。
河川にかかる鉄橋の手前で右折し、土手を進む。夜の闇の奥のほうに小さな光が舞っているのを発見すると同時に、ついさっき聞いたばかりの破裂音が飛んでくる。
吉見が声を上げる。「あっ! この音っ」
そうだ、と確信めいたものを蒲郡は感じた。
そう――あの破裂音は銃声なんかじゃない、花火の音だ。
蒲郡が思い出すのはいつかの夕方。杏藤瑠南と梅村雄大を追いかけ見失い、辿り着いたこの土手で男子高校生の話を聞いた。ここで花火をしようという談笑に水を差したのは蒲郡で、彼らはぶつくさと反省の色も見せずに去っていった――それは逆に考えれば、彼らは忠告を無視して予定通りに花火をはじめる可能性が高いということ。
読みは的中した。受話器越しにはっきりと聞こえるのなら、音源とアジトはほとんど隣接していると言っていい。実は遥か遠方の地で同じように花火をしている輩がいるのかもしれないが、巡査の話からアジトは周辺地域にあるとされているため、その説は棄却される。
そして、このあたりでアジトに仕立てられそうな建物はひとつしかない。
幽霊が出ると噂され、誰も近づかない――あの廃工場だ。
土手の脇から下っていくと、ようやく花火を楽しんでいた者たちはパトカーに気がついたようだ。サイレンを鳴らしていたことを考えると、よっぽど青春に没頭していたらしい。
蒲郡たちはドリフトをしながら次々と停車していく。運転席から出て見ると、思ったとおり先日の男子高校生らに加えて数人の女子がぽかんと口を開けていた。五台の検挙する気満々のパトカーに突如として囲まれたわけだから、無理もない反応ではあったけれど。
高校生のひとりが言う。脂汗を流し、ぱくぱくと鯉みたいに。
「なななななんすか? おおお俺たちなにもしてないっスよ?」
「そそそそうだよねヨシくん? わわわたしたち別に花火とかしししてないよね?」
「ばばばっかおめ! そそそそそんなわけねえだろっ?」
「吉見」蒲郡は冷静に言った。「むこうの川辺」
すたすたと吉見はそこにいって帰ってくる。手には川水に捨てたと見られる花火――手持ちや筒型のもの――が証拠品として持たれていた。
「……まあ、どう考えてもしてましたね、花火。そもそも、見えてましたし」
男子高校生が震える。「ちょちょちょ、俺たちやややばいんスか?」
「本当ならこっぴどく絞ってやるところなんだがな」蒲郡はにやにやと笑い、言う。「今はきみたちに構っているヒマはないんだ。……というかね、今回に限ってだけど、きみたちには感謝状を贈りたいぐらいだよ」
これに懲りたら早く帰りなさい。そう告げると、
「さーせんしたああああああ!」
「もうヨシくんのばかあああ!」
高校生たちは逃げていく。彼らが土手のむこう側に消えてから、蒲郡は目の前にそびえ立つ廃工場をにらみつけた。「ついに追いつめたぞ。どちらにとっても正念場だ」
(20)
梨元家との通話が切れるまでの経緯は、柿田にとってとにかく意味不明だった。
保奈美の母が甘夏の存在になんらかのかたちで思い至ったのだろう、繋がるや否や波濤がごとくまくし立ててきたこと自体は理解できる。甘夏と彼女の因縁を思えばこそ。
まずは落ち着かせなければと思った。恐喝という少々乱暴なやり口ではあったが、黙らせたところまではよかった――だが、外から破裂音が聞こえた瞬間からすべてが狂った。あれよあれよという間に電波は相手を見失ってしまったのだ。
携帯を握りしめつつ、柿田は窓に寄る。「なんだってんだ、ちくしょうっ」
見ると、土手の下の開けた空間で数人の男女が花火をして遊んでいた。高校生くらいだろうか。すぐ隣で決死の戦いが繰り広げられていることなど毫末ほども知らないのだろう。怒りすら湧いてくるが、無意味な感情であることはわかっている。
「どうしたの?」瑠南が訊ねてくる。
「どうもこうも、突然切れやがった。わけわかんねえ」
「……もしかしたら、今の音を銃声と勘違いしたのかもしれんな」横から言われ見ると、甘夏がうっすらと目を開けていた。あいかわらず、正常とは程遠い顔色をしている。
「ジジイ、起きたのか」そう言ったあとで、考え直した。「いや……起きてやがったのか」
となれば、梨元佐恵子――彼にとっては甘夏佐恵子――と柿田の会話はもれて聞こえていたのかもしれない。彼女はかなり大きな声で叫んでいたから――苦痛と憎悪に彩られた日々の記憶にがんじがらめにされた精神が、悲鳴を上げていたから。
「若造、私は許されようなんて思ってないって言ったな」
「……ああ」
「本当はあれは嘘だ」込み上げるなにかを抑えるように言う。「ひょっとしたら彼女の中で悪い記憶は薄れていたり、たいした思い出じゃなくなっているんじゃないかって、そういう淡い期待をしていたんだ。期待というか、利己的な願望か。……でも、思い違いだった。暴力的なまでの、かつて私がしていたぐらいの、ひどい思い違いだった。あの子の心の傷の深さを私はもっと考えるべきだった。もうなにをしても、私はあの子を傷つけることしかできない。この町にきたことが、すでに間違いだった。いや、生きていること自体が間違いだったんだ……」
すまない、すまない佐恵子――そうこぼしながら、甘夏は泣いた。慰謝の言葉は誰の口からも出てこなかった。悲しい事実だけれど、『因果応報』であることは確かだからだ。
保奈美が目を覚ましたのはそのときだった。リアドロ人形のような端整な顔が微動し、ゆっくりとまぶたが光を招いていき、呟く。「おじいちゃん? 泣いてる」
寝ぼけたゆえの行動だろう、添い寝したまま、指でそっと甘夏の涙をすくう。けれど彼の涙はさらに溢れた。保奈美が佐恵子に瓜二つであることを思えば、その優しさは、むしろ彼の胸を無惨に切り裂いてしまうものだから。もう手に入らないものが目の前にあり、目の前にあるものはもう手に入らないのだから。
「おいガキ。今はほっといてやれ」柿田は手招きする。「こっちこいや」
「なんですか?」
「娘の安否確認作戦、第二弾だ。元気……ていうのもアレだが、無事な声を聞かせてやれ。銃声と間違われて勝手に錯乱されちゃあたまんねえからな。今ここで、交渉のテーブルを蹴飛ばされるわけにはいかねえんだ」
柿田はリダイヤルを試みる。しかし呼び出し音が単調に続くだけだ。おかしい。まるで家を出払っているみたいだ――とそのとき、夜の無音を押しのけて聞き覚えのある、けれどもっとも聞きたくない音が流れてきた。間違えるはずもない、パトカーのサイレンだ。
「おいおいマジかよ」
柿田は窓に張りつく。まだ距離はありそうだが、相対的な音量は上がってきている。無人の梨元家という要素が、その音が自分と無関係でないことを教唆してくる。ただ、どういうふうにここに目星をつけたのかわからなかったが、理由探しをする暇は一秒もない。
「ちょっとこれ、かなりヤバイんじゃないの?」瑠南が見上げてくる。
「これで呑気に構えてられるほどバカじゃねえよ」言い返してから、柿田ははっとする。彼女と雄大は避難させなくてはならない。もし誘拐事件に関与していたことが明るみに出れば、将来に暗影を投ずるどころか、真っ暗闇に落とすことになるかもしれない。「……あとな、無関係なガキを巻き込むほどバカでもねえ。てめえらは裏からすぐに逃げろ」
「え、なんで?」
「なんでって……だから、てめえらは無関係で」
「ここまで付き合っておいて『逃げろ』だなんて、カッコつけたいならよそでやってくんない? サムいんだけど」
「残る気かよ。言っとくけどな」
「言われなくてもわかってるって。あんたさ、私にも戦う理由があること忘れてない?」
保奈美が笑顔でいられるように――だったか。とはいえ、
「いくら親友つっても無茶がすぎるぜ」
「かもね。でも、本気じゃなきゃ無茶もできない」
そう言った瑠南の瞳は純粋な意志を映していて、この事態を軽く見ているふうでもなかった。すると彼女は、ふいにうしろを振り返ってつづけた。
「梅村もそう思うでしょ?」
そろそろとドアにむかおうとしていた雄大の肩が跳ねた。汗びっしょりの顔を回す。「あーうんまーそうだな……サッカーの試合でもそういう気分になるときあるな……」
「逃げてんじゃないよ。ホナちゃんにチキンだって思われたいの」
見るからにむっとした。「誰がチキンだって? おまえ、おれのことナメてるだろ」ずかずかと近づいていって、瑠南の肩を押す。「逃げるかよ。ションベンしたくなっただけだ」
対して彼女は悪どく笑んだだけだった。
さしずめ雄大は意地といったところだろう。瑠南とは違い、色恋沙汰めいた不純物が見え隠れしているような気がしないでもなかったし、本音を尊重して帰してやるべきかもしれなかったが、正直なところ、柿田としてはこれ以上ふたりに思慮を割いている余裕などなかった――ついに赤色灯が土手の上に現れたからだった。
(俺も腹をくくるしかなさそうだな……)
拳をかたく握る。
◇
月明かりが廃工場を鈍く照らし出している。蒲郡は拡声器を吉見から受けとると、誘拐犯らが潜んでいるであろう上階の事務所にむかって言った。
「そこにいるのはわかっているぞ。種明かしをしてほしいかい?」
反応はない。念のため内部への侵入を控えさせているが、この正面以外の出入り口および抜け穴にはくまなく捜査員を配置しているため、逃走しようとすれば網にかかる連絡(おと)が入るシステムになっている。よって、彼らはまだ中にいるようだ。
「観念しなくてもいい。とりあえず顔を見せてくれないか。話をしよう」
少しして窓が開き、髪をブリーチした若い男が出る。特徴は巡査の証言と一致する。
「はじめましてだな。私は蒲郡というんだが、きみは?」
返答はこなかったが、代わりにジェスチャーを返してきた。口のあたりで両手を数回広げている……となると拡声器を欲しているみたいだ。確かに、意思疎通のツールが公平でないことは、対話にあたって心理的な支障をきたすこともあるだろう。用意するのはやぶさかではなかったが、しかし受け渡す方法に困難は潜んでいた。
「メガホンがほしいようだね。だけど、どうそちらにあげたもんかな」
「――私がいきます」
背後からの声に振り返ると、佐恵子が立っていた。
吉見が驚く。「いくって、メガホンを渡しにですか?」
「はい。私が持ってあそこにいきます。そして保奈美の代わりに人質にしてくれるようお願いします。そうすれば、あの子は助かりますよね。それに……」
「それに、アマナツヒロミツと対面することができるから、ですか?」蒲郡が問うと、かすかに止まったあとに「はい」と言った。やはり、どうしても気にかかる。「こんなときに聞くのもなんでしょうが、簡単でいいので彼との関係を教えてくれませんかね」
「それは、言いたくありません」
「どうしてもですか」
「できれば、ですけど……とにかく私にいかせてください」
一見、佐恵子の案は最善策に見えるが、むしろ最悪の事態になる可能性を孕んでいると蒲郡には感じられた。彼女の目に垣間見える、大きな憎しみの一端がそうさせる。アジトのほうで争いが勃発するのは避けたいところだ。安全は守らなければならない。
「そうは言ってもですね」と返しかけたときだった。捜査員たちが一斉にざわついた。
なにごとかと反転して見ると――正面入り口の闇から、ひとりの少女が出てきていた。
「杏藤瑠南ちゃんじゃないかっ」吉見が反応する。「ああっ、もしかしてきみも誘拐犯に脅されていたのか! おおかた、警察に通報すれば保奈美ちゃんに危害を加えるとか言われたんだろう? だから彼女を守るためにしかたなく……かわいそうに、恐かったね。でも大丈夫。僕たちが保護してあげるから、さあこっちにおいで!」
「なにひとりでキモい妄想してんの? マジないんですけど」
「ええっ」吉見は傷つき後退する。
「まあ、ホナちゃんを守るためっていうのは間違いじゃないけど? ちょっと私のことナメてかかってるような気がするな。脅されてるとか、ちげえよ、ふざけんなって感じ」
「じゃ、じゃあなにをしにここへ……?」
「そりゃあもちろん――」
「もちろんメガホンを受けとりにきたってところかな」蒲郡がつづきをさえぎると、瑠南はいけすかなそうな顔をすると同時に、不敵に微笑んだようにも見えた。「そしてこれは強制されたわけでもなんでもなくて、きみの意志。そうだろう?」
「百点だね、バカ刑事」
「やっぱり関与してたんだな。嘘までついて、ご苦労様と言いたいが」
「うるさいよ似非ゴルゴ。さっさとブツを渡してよね」
蒲郡はもうひとつ拡声器を持ってこさせ、差し出す。瑠南はそれを乱暴にひったくると、全身満身渾身のありったけの力を込めてあっかんべーを見舞い、くるりと背をむける。
直後に呼び止める声があった。「待って、杏藤さん!」
「おばさん」佐恵子を見る。
「全然話がわからないんだけど、どういうことなの。どうしてあなたが……」
質問には答えず、瑠南は言う。
「ねえ、おばさんにとってホナちゃんってなに?」
「え……なにを言って」
「答えられないの?」
挑発的に言われ、ぐっと表情が引き締まった。「娘よ」
「ただの?」
「いいえ。私の大切な、ひとり娘。あの子は私の最後の希望。ずっと見てきたわ。保奈美を守るためなら、どんなふうになっても、どんなことをされても構わない」
「ふぅん」瑠南の目が冷たく細められる。「じゃあさ、誘拐される前まで帰りが遅かったことにはなんかコメントはないの? もしかして、気にしてなかった?」
佐恵子が言葉をつまらせるのがわかった。それでも、特別怒りを覚えることはなかった。すべてが保奈美(ひとり)を中心に回っているわけでもないし、家庭における佐恵子の心理状況を鑑みれば、そういう狭量な考え方は働かないけれど――できれば気づいていてほしかったというのが本音だった。
「まあ、まだこれからなんだろうけどさ……ホナちゃんはおばさんとは別のことを思っていると思うよ。私の口からは、ぜんぶ当て推量にしかならないから、言えないけど」
そう残し、瑠南は蒲郡たちの前から姿を消す。螺旋階段を上って事務所に帰還し、柿田に拡声器を渡した。「はい、もらってきてあげたよ」
「それはまあ礼を言うけどよ。ガキの母親となに話してやがった」
どうやら窓から見下ろされていたみたいだ。
「別に? たいしたことないって」
「瑠南ちゃん」保奈美が気弱そうに聞いてきた。「お母さん、どうだった? ずっと心配かけてきたと思うから……私、お母さんがまた泣いちゃったりしてたら……」
そう言いつつ自分が涙ぐんでいる。瑠南はかける言葉を探しはじめるが、思わぬことに先に雄大が口を開いた。「梨元っ! えっと、とりあえず元気だせよ! 元気があればなんでもできるって言うだろ? 空元気でも全然オッケーだからさ、だから……泣いたりなんかするなよ! おまえの母さんも大丈夫だよ、たぶん!」
きょとんとする保奈美。その背中に軽く体重が接してくる。瑠南が雄大から引き離すようにして、けれどその反面、優しげな手つきで抱いてきていた。不思議と安らぐ感触だ。
「うわーうわー。絶対クラスのほかの女子には言わないよね、それ」
「うっせーよ! だからなんなんだよ」
「ホナちゃんは渡さないからね」
「はあっ? 意味わかんねーし!」
そのまま口ゲンカに突入しようとするふたりのあいだで、いつもなら右往左往しているだけだった保奈美は、思わず笑みがこぼれてしまうのを感じた。今回ばかりは、なんだかとても温かくて心地がよかったから。
「瑠南ちゃん、梅村くん。ありがとう」
意表を突かれたみたいにふたりは赤面して、ぴたりと口論が止む。「……ホナちゃんズルイよ」と瑠南が小声で呟くのが聞こえたが、よくわからなかった。ただ、いちおうは小突き合いへの発展を阻止できたみたいなのでよしとしておく。
保奈美は柿田をみた。彼はすでに拡声器の調整を完了させていた。スイッチを入れる。
「アーアー、お待ちかねだったか? つうか、声出てるよな?」
蒲郡が応答する。「問題ないよ。しかしまあ、電話とはまた違って聞こえるね」
「んなこたあどうでもいいだろ、くだらねえ」
「じゃあ、少し真面目な話をしよう――きみの名前は?」
「言いたくねえな。つうか、まずは自分から名乗るってのが礼儀ってやつじゃねえのか?」
「失礼。私は西津田署の蒲郡という者だ」
「まあ、知ってるけどな」
蒲郡は腹を立てる素振りもなく、苦笑した。「なんだか、たいそうなめられたもんだな。杏藤瑠南から聞いたのかい?」
「そんなところだ」
もう一度笑ってから、じゃあ話をつづけようと言う。
「仕事はしてるのかな? 前に住んでいたところは?」
「……仕事はねえ。絶賛無職の身だ。前は、このあたりで女と暮らしてたけど、もう縁もゆかりもねえ赤の他人だ。今ごろ馬と仲良くやってるだろうさ」
「へえ? その彼女との日々は幸せだったのかな」
「幸不幸で判断するなら、悪くはなかったと思う。けど、そういうのとはたぶん違うものがあいつとのあいだにはあったんじゃねえかな。生温い泥みたいなものが」
「生温い泥、か。詩人だね」
「ほざけ」
「すまないすまない。こう年をとると、頭がかたくなっちゃうんだ」悪びれるふうでもなく、蒲郡は質問を再開する。「親御さんとか兄弟とか、ご家族はどうしているのかな?」
ぎしり、と。
柿田の表情が石化する。それに相反して色褪せたはずの記憶が、捨てたはずの過去が、無意識の中で蠢きはじめる。かろうじてしぼり出した声は、震えていた。
「……そんなもんは、いねえ」
「それは、亡くなってしまったということでいいのかい」
「違う。いねえんだ。だけど、本当は……本当に“いない”のは、俺だ」
亡霊なんだ――そう呟いた柿田の様子の変化は、遠目からでもわかるものだったのだろう。蒲郡はトーンを和らげた。「言いたくないのなら、強制はしない。代わりといってはなんだが、角度を変えさせてもらうよ。きみはどんな子どもだった?」
「何なんだよ」胸の抉られるような痛みを抑えながら、にらみつける。さすがに我慢ならなかった。「いったいなにがしてえんだよっ。俺のなにが知りてえんだ、てめえはっ」
「“きみのなにか”じゃなくて、“きみ”が知りたいんだよ」
柿田は、ふいに懐に入り込まれた感じがした。
「私から先に言ったら答えやすいかな? 私……私はそうだな。毎日まいにち外で走り回ってワンパクして、毎日まいにちゲンコツを食らっていたよ」
そしてそこから言葉が引きずり出される。自然と口が動いてしまう。
「……俺は、昔は今とは百八十度違う人間だった。悪さなんて一切しないし、宿題を忘れたこともなかった。ずっと真面目ないい子どもであろうとしてた」
そう――すべては両親のためであった。柿田の行動原理はいつもそうだった。あのころ笑っていた少年は、優しい母と気のいい父のことが大好きだったのだ。
「ちなみに得意科目はなんだった?」
「数学だな。揺るぎない答えがあるのが好きだった」少し喉の震えが治まったみたいだった。加えてうっすらと、わからない問題とそれを指さす母の微笑ましそうな顔が浮かんだ。どうしてか振り払うことのできない映像。幸福の残像。
それからも問答はつづいた。
本はよく読んでいた?――雑食だったけどそれなりに。
好きな食べ物は? ――昔はから揚げ、今は特にない。
楽しかった思い出は? ――誕生日パーティ。ハッピーバースデーディア……って歌。
運動会ははりきっていた? ――嫌いだった。
友だちは多いほうだった? ――少なかった。
その中で親友と呼べるのは? ――大学に、ひとりだけ。
どれくらい答えていったのか覚えていない。ただ、時間が経つにつれて、柿田はこれまでの人生をゆっくりと指でなぞっているような気持ちになった。その節目節目で、忘却に処されたはずの感情が鮮やかに洗い出され、再生し、想起されていく。顧みることを拒んでいた二十数年間の歩みに近づいていく。たとえその過程が、立てこもり犯に油断を与えて逮捕にこぎつけやすくするための蒲郡の方策だったとしても、不思議と気にならなかった。今このときだけは、対峙しているのは自分自身だと思えた。
柿田淳一とは何者なのか。なにになりたい人間なのか。
その問いは、現在の自分にとっては途方もなさすぎて、明確な答えは導き出せそうにない――けれど、美月とすごした生温い泥のような数年間は、実は自覚しないまま生み出した一種の猶予(シンキングタイム)だったのかもしれない。そのためだけに彼女に理不尽な時間の浪費を強いていたのかと考えると、頭はてこでも上がらないが、おそらく自分はそれを望んでいたのだと思う。迷い、立ち止まっていられる時間を。
大学を去るときの石島の言葉を思い出す。願ったことに変わりはない、自分がそうしたというだけで、それだけで十分じゃないのか――。本心ではそう思えられればいいと感じていて、思いたかったのかもしれない。しかし、それはできなかった。未熟だったと言ってしまえば、それはとてもわかりやすく了然としているが、どれほど年を重ねたところで、きっと同じ場面で同じ選択をしていたはずだ。何度撮り直しても同じで、やり直しは無意味で。
そして、“やり直し”に価値を見出してはいけないのだろう。
甘夏博光は、“出直す”ことを誓った。誰もができる選択ではないかもしれない。でも、選択のチャンスは誰にでもあるのだと思う。保奈美にも、佐恵子にも……自分にも。
きっと、全員にとって今がそのときだ。
(――もう、チャンスはこの夜しかねえんだ)
そう思った直後だった。
「きみが保奈美ちゃんを誘拐した目的はなんだい」
蒲郡が事件の核心を狙う問いを投げかけてきた。柿田は、こちらを見ている保奈美と、その奥で弱々しく胸を上下させている甘夏を見やってから口を開く。
「まあ、当然のことながら金だった」
「わかるよ。ないと困るからね――」
「でもな、変わっちまった」
「なに?」はじめてではないだろうか。蒲郡の声に怪訝の色が混じった。
「自分でもバカみてえだとは思うんだけどサ、甘ちゃんのどうしようもなくしょうもねえ都合で変えられちまったんだよ」
柿田はいったん退き、保奈美の腕を引き寄せて再び窓際にもどる。にわかに下界はざわついた。彼女の登場に驚いたというよりは、安否の確認をとれたことに対する安堵のほうが大きかったのかもしれない。保奈美! と佐恵子の叫ぶ声が上がった。
保奈美が見上げてくる。「あの、柿田さん? 私は……」
「しゅべり疲れた。俺は少し休憩するから代われ」
「そ、そんなわけには」
「――おまえの願いはなんだ? おまえにしか伝えられないことがあるんじゃねえのか」
彼女ははっと息をつまらせ、それから神妙に頷いた。なにか言いたそうにしているのは背中で感じていたのだ。拡声器を受けとり、小さな口を近づける前に、その唇は「柿田さん、ありがとう」と動いたように見えた。
そして彼女は一歩進み出る。
「代わりました。梨元保奈美です」
「……とりあえず確認したい。怪我はないかい?」
「はい、平気です――けど。あの刑事さん、お願いしてもいいですか?」
「? あ、ああ」蒲郡は、調子が狂わされているのを顕著に感じていた。理由は簡単だ。今回の誘拐事件は、過去のどのケースにも当てはまらない側面を併せ持っている、異例中の異例だという認識が強かった。「なんでも言ってごらん?」
「お母さんに代わってくださいませんか……」
特に奇妙なわけではない。蒲郡はおとなしく佐恵子に拡声器を譲った。
「保奈美っ? 本当に痛いところはないの?」
「うん。お母さんは、本当に優しいんだね……」
「そんなの当たり前じゃないっ」
「それってやっぱり、昔おじいちゃんに優しくしてもらえなかったから、その反動があったりするのかな……」
佐恵子の表情が不穏げに翳る。「いるの? いるのね、あの人が。保奈美、怪我してないなんて嘘つかなくていいのよ。あの人が暴力を振るわないはずがない。私にはわかるの、ずっとずっとそうだったからっ。いい? そこからもう絶対に近づいちゃ――」
「やめてよ!」
いつも柔和な娘の怒声など耳にしたのは、はじめてだったかもしれない。ショックを受けているあいだにも彼女はつづける。
「やめて、そんなこと言うのは。おじいちゃんは、私に優しくしてくれたよ? 自分のぶんのパンも分けてくれたし、勉強も見てくれた。私の気づかないところで、ずっと温かくしてくれた。おじいちゃんは、私の味方でいてくれたの」
でも――と保奈美は言った。
「そのおじいちゃんは今、病気で死んじゃいそうになってる……」
「あの人が……嘘」衝撃に声が揺れていた。腐っても肉親ということなのだろうか。いや、そんなはずはないと思い直す。あれほど凶暴だった男が病ごときで命を落としかけていることに、違和感を否めないだけなのだ、と。
「おじいちゃんを許せない気持ちもわかる。私がお母さんの立場だったら……って思う。けどね、おじいちゃんもいっぱい悲しい思いしてきたんだよ。お母さんやおばあちゃんのことで何十年も悩んできて、お母さんにすまないって、泣いてたの……」
「泣く?」はは、と笑ってしまう。泣きたいのはこっちのほうだ。どうして今さらになって現れて、そんなふうに振舞うのか――父親みたいなことをするのか。
「すべてをなかったことにはできないよね。でも、ちょっとだけでいいから、ちゃんと顔を見せてあげてっ? おじいちゃんを、救ってあげてっ!」
蒲郡を含め、ほとんど全員が呆気にとられていた。ふだん大声を滅多に出さないからであろう、保奈美はハアハアと息を切らしながらも、拡声器を再び両手で握りしめる。
「おじいちゃんは頑張って頑張ってここまできた。だから、私も頑張りたい」
――“寄り道”は、終わりにするの。
「私ね、お父さんがお母さんを殴った夜のことぜんぶ知ってるよ。そのときから、ふたりがどんどん遠くなっていったことも。私はただ怯えるだけだった。でも、今は逃げちゃダメなんだって思えるよ。お母さんたちは“夫婦の問題”だって言うかもしれないけど、きっとこれは私たち“家族の問題”なんだよ……」
「保奈美……」
「私も一緒に考えるから、一生懸命考えるから。私はみんなが笑っていられれば、それ以上望むものはないの。だから――なのに――もう」
言葉が尻すぼみに消えていく。おそらく、こう話しているあいだにも頭脳は、様々な感情や思いの混雑と錯綜でパンクしそうになっているのだろう。小学五年生の思考・表現能力の限界なのかもしれない――と。
いきなり彼女は酸素を肺にかき集めて、最後に力のかぎり放った。
「お母さんのばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああっ!!」
脈絡もなにもない。そのHz(ヘルツ)は計り知れなかった。夜空を振動が駆け抜けた。ひょっとすれば、町中の人間に聞こえていたかもしれない。
この一撃で疲労困憊した保奈美の肩に、柿田は手を置いた。「よくやったじゃねえか」
「あ、ありがとうございます……」
「甘ちゃんっていうの、訂正しねえといけねえかな」
「……だったら、もっと訂正してほしいことがありますよ」
「あん?」
「さっき言ってた、亡霊っていうの」柿田の手に触れる。そしてかたちを確かめるように、可愛らしい指できゅっと力を込めてくる。「柿田さんは生きています。こうやって、私に温度を伝えてきてくれています。昔なにがあったのかはわからないですけど、私は知っていますよ、柿田さんの温かさを」
彼は、かすかに押し黙ってから返した。「なあ、ストックホルム症候群って知ってるか?」
「? なんです?」
「ちょっとシチュエーションが違うかもしれねえが。監禁する側とされる側のあいだに信頼関係っていうか、妙な親近感が湧いちまうもんらしいぜ。まやかしのな。今のてめえはきっとそれだろうさ」
「違います」即答だった。春の陽光のような眼差しが覗く。「この気持ちは本物です」
「はっ」柿田は笑った。笑うしかなかった。「まあ、ガキに慰められるのも悪くねえか」
そっと保奈美から拡声器を奪い、窓のアルミサッシに片足を叩きつけ、身を乗り出す。
「よう、ポリ公。さっきの話のつづきをしようぜ。なんだったっけか」
拡声器は蒲郡に返還されていた。「誘拐の目的だが」
「いいぜ? 教えてやるよ」
片頬を吊り上げつつ、保奈美のからだを抱き寄せる。「きゃ」という声は相手にしない。
そして声帯に鞭を打つ。
「極悪非道にして悪逆無道っ! 元ヒモのクズ野郎にして稀代のダメ人間っ! 計画はハプニングだらけの、今世紀最悪の誘拐犯が要求するのはァ――」
一呼吸。次の瞬間にすべてを懸けた。
「――梨元保奈美の幸せだぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああっ!!」
彼女を見捨てられなくなったのは、いつからだろう――。最初からだったのかもしれないし、つい最近が始点なのかもしれない。けれど確かなのは、彼女にかつての自分を重ね合わせていたこと。たとえ傷の形状や深さは違っても、透けて交わる遠い日の影が見えていたのだ。助けてやりたいというのには、自己救済の意味もあったのだろう。
拡声器を土手にむかって放り投げ、柿田は間髪入れず叫ぶ。地声でも強烈に響いた。
「能無しどもっ、逮捕してえなら上がってこいよ! 俺は逃げも隠れもしねえ! ただな、これだけは覚えておきやがれ! てめえらは事件を解決したんじゃねえ! 俺や保奈美を新たなスタートラインに、出直すためのポジションに、希望を見つける未来の記念すべき第一日目に連れていくだけなんだからな!? いいか、絶対に忘れるんじゃねえぞ!」
その口上は、保奈美に、佐恵子に、甘夏に――そして自分にむけたようでもあった。余韻が長く尾を引いていく。この夜のむこう側へと。
(……そうだ)
果物は出るのだ。腐るのを待つだけの部屋(はこ)から。
出直すのだ。それぞれが笑っていられるように。
(そうなんだ)
――――俺たちはみんな、“家族”になりたいんだ。
と。
誰よりも早く動いたのは蒲郡だった。トランシーバーに唾を飛ばす。
「総員、突入しろおっ! 犯人確保! 犯人確保だ!」
吉見や廃工場の周囲に隠れていた捜査員たちが、一斉に内部へと走り出す。螺旋階段が折れてしまうじゃないかと思うくらいの人数が、雄叫びとともに事務所に雪崩れ込む。
そのあとのことはよく記憶していない。まっさきに柿田はうつ伏せに取り押さえられ、もみくちゃにされたからだ。甘夏は危殆ということで、ひとまず外に搬送されていった。付き添っていたのは佐恵子だったように思う。瑠南と雄大には、いちおう保護というかたちがとられたみたいだった。意外なのは、保奈美が微々ながらも抵抗したことだった。
「そんな、柿田さんだけ……!」
「ダメだよっ」吉見があわてて距離をとらせる。
「なぁ、ポリ公さんよ」柿田は軽薄に言った。「俺のズボンの右ポケットにあるもんとってくんねえか。見てのとおり、自由なんざてんで利かねえからよ」
「ど、どういうつもりだ? 危険なものじゃないだろうな」
「疑り深いな。別にこんぐらい融通利かしてもいいだろ」
吉見は溜息をつくと、ゆっくりとポケットをまさぐる。
出てきたのは――小さなぬいぐるみだった。
「保奈美」柿田はあごをしゃくって見せた。「約束を果たすぜ。瑠南とおそろのイラックマのストラップだ。受けとれよ」
不承不承といった感じの吉見から、小さな手のひらに渡る。
「そういえば、やっと名前で呼んでくれましたね」保奈美は、ストラップを大事そうに抱えてから、花咲くような笑顔を浮かべて言ったのだった。「はい、一生の宝物にします」
「まあ……勝手にしろよ」
柿田はニヤリと笑った。そのとき、上の捜査員たちからかけられる圧力が妬ましそうに強くなったのは、気のせいではないだろう。
梨元家との通話が切れるまでの経緯は、柿田にとってとにかく意味不明だった。
保奈美の母が甘夏の存在になんらかのかたちで思い至ったのだろう、繋がるや否や波濤がごとくまくし立ててきたこと自体は理解できる。甘夏と彼女の因縁を思えばこそ。
まずは落ち着かせなければと思った。恐喝という少々乱暴なやり口ではあったが、黙らせたところまではよかった――だが、外から破裂音が聞こえた瞬間からすべてが狂った。あれよあれよという間に電波は相手を見失ってしまったのだ。
携帯を握りしめつつ、柿田は窓に寄る。「なんだってんだ、ちくしょうっ」
見ると、土手の下の開けた空間で数人の男女が花火をして遊んでいた。高校生くらいだろうか。すぐ隣で決死の戦いが繰り広げられていることなど毫末ほども知らないのだろう。怒りすら湧いてくるが、無意味な感情であることはわかっている。
「どうしたの?」瑠南が訊ねてくる。
「どうもこうも、突然切れやがった。わけわかんねえ」
「……もしかしたら、今の音を銃声と勘違いしたのかもしれんな」横から言われ見ると、甘夏がうっすらと目を開けていた。あいかわらず、正常とは程遠い顔色をしている。
「ジジイ、起きたのか」そう言ったあとで、考え直した。「いや……起きてやがったのか」
となれば、梨元佐恵子――彼にとっては甘夏佐恵子――と柿田の会話はもれて聞こえていたのかもしれない。彼女はかなり大きな声で叫んでいたから――苦痛と憎悪に彩られた日々の記憶にがんじがらめにされた精神が、悲鳴を上げていたから。
「若造、私は許されようなんて思ってないって言ったな」
「……ああ」
「本当はあれは嘘だ」込み上げるなにかを抑えるように言う。「ひょっとしたら彼女の中で悪い記憶は薄れていたり、たいした思い出じゃなくなっているんじゃないかって、そういう淡い期待をしていたんだ。期待というか、利己的な願望か。……でも、思い違いだった。暴力的なまでの、かつて私がしていたぐらいの、ひどい思い違いだった。あの子の心の傷の深さを私はもっと考えるべきだった。もうなにをしても、私はあの子を傷つけることしかできない。この町にきたことが、すでに間違いだった。いや、生きていること自体が間違いだったんだ……」
すまない、すまない佐恵子――そうこぼしながら、甘夏は泣いた。慰謝の言葉は誰の口からも出てこなかった。悲しい事実だけれど、『因果応報』であることは確かだからだ。
保奈美が目を覚ましたのはそのときだった。リアドロ人形のような端整な顔が微動し、ゆっくりとまぶたが光を招いていき、呟く。「おじいちゃん? 泣いてる」
寝ぼけたゆえの行動だろう、添い寝したまま、指でそっと甘夏の涙をすくう。けれど彼の涙はさらに溢れた。保奈美が佐恵子に瓜二つであることを思えば、その優しさは、むしろ彼の胸を無惨に切り裂いてしまうものだから。もう手に入らないものが目の前にあり、目の前にあるものはもう手に入らないのだから。
「おいガキ。今はほっといてやれ」柿田は手招きする。「こっちこいや」
「なんですか?」
「娘の安否確認作戦、第二弾だ。元気……ていうのもアレだが、無事な声を聞かせてやれ。銃声と間違われて勝手に錯乱されちゃあたまんねえからな。今ここで、交渉のテーブルを蹴飛ばされるわけにはいかねえんだ」
柿田はリダイヤルを試みる。しかし呼び出し音が単調に続くだけだ。おかしい。まるで家を出払っているみたいだ――とそのとき、夜の無音を押しのけて聞き覚えのある、けれどもっとも聞きたくない音が流れてきた。間違えるはずもない、パトカーのサイレンだ。
「おいおいマジかよ」
柿田は窓に張りつく。まだ距離はありそうだが、相対的な音量は上がってきている。無人の梨元家という要素が、その音が自分と無関係でないことを教唆してくる。ただ、どういうふうにここに目星をつけたのかわからなかったが、理由探しをする暇は一秒もない。
「ちょっとこれ、かなりヤバイんじゃないの?」瑠南が見上げてくる。
「これで呑気に構えてられるほどバカじゃねえよ」言い返してから、柿田ははっとする。彼女と雄大は避難させなくてはならない。もし誘拐事件に関与していたことが明るみに出れば、将来に暗影を投ずるどころか、真っ暗闇に落とすことになるかもしれない。「……あとな、無関係なガキを巻き込むほどバカでもねえ。てめえらは裏からすぐに逃げろ」
「え、なんで?」
「なんでって……だから、てめえらは無関係で」
「ここまで付き合っておいて『逃げろ』だなんて、カッコつけたいならよそでやってくんない? サムいんだけど」
「残る気かよ。言っとくけどな」
「言われなくてもわかってるって。あんたさ、私にも戦う理由があること忘れてない?」
保奈美が笑顔でいられるように――だったか。とはいえ、
「いくら親友つっても無茶がすぎるぜ」
「かもね。でも、本気じゃなきゃ無茶もできない」
そう言った瑠南の瞳は純粋な意志を映していて、この事態を軽く見ているふうでもなかった。すると彼女は、ふいにうしろを振り返ってつづけた。
「梅村もそう思うでしょ?」
そろそろとドアにむかおうとしていた雄大の肩が跳ねた。汗びっしょりの顔を回す。「あーうんまーそうだな……サッカーの試合でもそういう気分になるときあるな……」
「逃げてんじゃないよ。ホナちゃんにチキンだって思われたいの」
見るからにむっとした。「誰がチキンだって? おまえ、おれのことナメてるだろ」ずかずかと近づいていって、瑠南の肩を押す。「逃げるかよ。ションベンしたくなっただけだ」
対して彼女は悪どく笑んだだけだった。
さしずめ雄大は意地といったところだろう。瑠南とは違い、色恋沙汰めいた不純物が見え隠れしているような気がしないでもなかったし、本音を尊重して帰してやるべきかもしれなかったが、正直なところ、柿田としてはこれ以上ふたりに思慮を割いている余裕などなかった――ついに赤色灯が土手の上に現れたからだった。
(俺も腹をくくるしかなさそうだな……)
拳をかたく握る。
◇
月明かりが廃工場を鈍く照らし出している。蒲郡は拡声器を吉見から受けとると、誘拐犯らが潜んでいるであろう上階の事務所にむかって言った。
「そこにいるのはわかっているぞ。種明かしをしてほしいかい?」
反応はない。念のため内部への侵入を控えさせているが、この正面以外の出入り口および抜け穴にはくまなく捜査員を配置しているため、逃走しようとすれば網にかかる連絡(おと)が入るシステムになっている。よって、彼らはまだ中にいるようだ。
「観念しなくてもいい。とりあえず顔を見せてくれないか。話をしよう」
少しして窓が開き、髪をブリーチした若い男が出る。特徴は巡査の証言と一致する。
「はじめましてだな。私は蒲郡というんだが、きみは?」
返答はこなかったが、代わりにジェスチャーを返してきた。口のあたりで両手を数回広げている……となると拡声器を欲しているみたいだ。確かに、意思疎通のツールが公平でないことは、対話にあたって心理的な支障をきたすこともあるだろう。用意するのはやぶさかではなかったが、しかし受け渡す方法に困難は潜んでいた。
「メガホンがほしいようだね。だけど、どうそちらにあげたもんかな」
「――私がいきます」
背後からの声に振り返ると、佐恵子が立っていた。
吉見が驚く。「いくって、メガホンを渡しにですか?」
「はい。私が持ってあそこにいきます。そして保奈美の代わりに人質にしてくれるようお願いします。そうすれば、あの子は助かりますよね。それに……」
「それに、アマナツヒロミツと対面することができるから、ですか?」蒲郡が問うと、かすかに止まったあとに「はい」と言った。やはり、どうしても気にかかる。「こんなときに聞くのもなんでしょうが、簡単でいいので彼との関係を教えてくれませんかね」
「それは、言いたくありません」
「どうしてもですか」
「できれば、ですけど……とにかく私にいかせてください」
一見、佐恵子の案は最善策に見えるが、むしろ最悪の事態になる可能性を孕んでいると蒲郡には感じられた。彼女の目に垣間見える、大きな憎しみの一端がそうさせる。アジトのほうで争いが勃発するのは避けたいところだ。安全は守らなければならない。
「そうは言ってもですね」と返しかけたときだった。捜査員たちが一斉にざわついた。
なにごとかと反転して見ると――正面入り口の闇から、ひとりの少女が出てきていた。
「杏藤瑠南ちゃんじゃないかっ」吉見が反応する。「ああっ、もしかしてきみも誘拐犯に脅されていたのか! おおかた、警察に通報すれば保奈美ちゃんに危害を加えるとか言われたんだろう? だから彼女を守るためにしかたなく……かわいそうに、恐かったね。でも大丈夫。僕たちが保護してあげるから、さあこっちにおいで!」
「なにひとりでキモい妄想してんの? マジないんですけど」
「ええっ」吉見は傷つき後退する。
「まあ、ホナちゃんを守るためっていうのは間違いじゃないけど? ちょっと私のことナメてかかってるような気がするな。脅されてるとか、ちげえよ、ふざけんなって感じ」
「じゃ、じゃあなにをしにここへ……?」
「そりゃあもちろん――」
「もちろんメガホンを受けとりにきたってところかな」蒲郡がつづきをさえぎると、瑠南はいけすかなそうな顔をすると同時に、不敵に微笑んだようにも見えた。「そしてこれは強制されたわけでもなんでもなくて、きみの意志。そうだろう?」
「百点だね、バカ刑事」
「やっぱり関与してたんだな。嘘までついて、ご苦労様と言いたいが」
「うるさいよ似非ゴルゴ。さっさとブツを渡してよね」
蒲郡はもうひとつ拡声器を持ってこさせ、差し出す。瑠南はそれを乱暴にひったくると、全身満身渾身のありったけの力を込めてあっかんべーを見舞い、くるりと背をむける。
直後に呼び止める声があった。「待って、杏藤さん!」
「おばさん」佐恵子を見る。
「全然話がわからないんだけど、どういうことなの。どうしてあなたが……」
質問には答えず、瑠南は言う。
「ねえ、おばさんにとってホナちゃんってなに?」
「え……なにを言って」
「答えられないの?」
挑発的に言われ、ぐっと表情が引き締まった。「娘よ」
「ただの?」
「いいえ。私の大切な、ひとり娘。あの子は私の最後の希望。ずっと見てきたわ。保奈美を守るためなら、どんなふうになっても、どんなことをされても構わない」
「ふぅん」瑠南の目が冷たく細められる。「じゃあさ、誘拐される前まで帰りが遅かったことにはなんかコメントはないの? もしかして、気にしてなかった?」
佐恵子が言葉をつまらせるのがわかった。それでも、特別怒りを覚えることはなかった。すべてが保奈美(ひとり)を中心に回っているわけでもないし、家庭における佐恵子の心理状況を鑑みれば、そういう狭量な考え方は働かないけれど――できれば気づいていてほしかったというのが本音だった。
「まあ、まだこれからなんだろうけどさ……ホナちゃんはおばさんとは別のことを思っていると思うよ。私の口からは、ぜんぶ当て推量にしかならないから、言えないけど」
そう残し、瑠南は蒲郡たちの前から姿を消す。螺旋階段を上って事務所に帰還し、柿田に拡声器を渡した。「はい、もらってきてあげたよ」
「それはまあ礼を言うけどよ。ガキの母親となに話してやがった」
どうやら窓から見下ろされていたみたいだ。
「別に? たいしたことないって」
「瑠南ちゃん」保奈美が気弱そうに聞いてきた。「お母さん、どうだった? ずっと心配かけてきたと思うから……私、お母さんがまた泣いちゃったりしてたら……」
そう言いつつ自分が涙ぐんでいる。瑠南はかける言葉を探しはじめるが、思わぬことに先に雄大が口を開いた。「梨元っ! えっと、とりあえず元気だせよ! 元気があればなんでもできるって言うだろ? 空元気でも全然オッケーだからさ、だから……泣いたりなんかするなよ! おまえの母さんも大丈夫だよ、たぶん!」
きょとんとする保奈美。その背中に軽く体重が接してくる。瑠南が雄大から引き離すようにして、けれどその反面、優しげな手つきで抱いてきていた。不思議と安らぐ感触だ。
「うわーうわー。絶対クラスのほかの女子には言わないよね、それ」
「うっせーよ! だからなんなんだよ」
「ホナちゃんは渡さないからね」
「はあっ? 意味わかんねーし!」
そのまま口ゲンカに突入しようとするふたりのあいだで、いつもなら右往左往しているだけだった保奈美は、思わず笑みがこぼれてしまうのを感じた。今回ばかりは、なんだかとても温かくて心地がよかったから。
「瑠南ちゃん、梅村くん。ありがとう」
意表を突かれたみたいにふたりは赤面して、ぴたりと口論が止む。「……ホナちゃんズルイよ」と瑠南が小声で呟くのが聞こえたが、よくわからなかった。ただ、いちおうは小突き合いへの発展を阻止できたみたいなのでよしとしておく。
保奈美は柿田をみた。彼はすでに拡声器の調整を完了させていた。スイッチを入れる。
「アーアー、お待ちかねだったか? つうか、声出てるよな?」
蒲郡が応答する。「問題ないよ。しかしまあ、電話とはまた違って聞こえるね」
「んなこたあどうでもいいだろ、くだらねえ」
「じゃあ、少し真面目な話をしよう――きみの名前は?」
「言いたくねえな。つうか、まずは自分から名乗るってのが礼儀ってやつじゃねえのか?」
「失礼。私は西津田署の蒲郡という者だ」
「まあ、知ってるけどな」
蒲郡は腹を立てる素振りもなく、苦笑した。「なんだか、たいそうなめられたもんだな。杏藤瑠南から聞いたのかい?」
「そんなところだ」
もう一度笑ってから、じゃあ話をつづけようと言う。
「仕事はしてるのかな? 前に住んでいたところは?」
「……仕事はねえ。絶賛無職の身だ。前は、このあたりで女と暮らしてたけど、もう縁もゆかりもねえ赤の他人だ。今ごろ馬と仲良くやってるだろうさ」
「へえ? その彼女との日々は幸せだったのかな」
「幸不幸で判断するなら、悪くはなかったと思う。けど、そういうのとはたぶん違うものがあいつとのあいだにはあったんじゃねえかな。生温い泥みたいなものが」
「生温い泥、か。詩人だね」
「ほざけ」
「すまないすまない。こう年をとると、頭がかたくなっちゃうんだ」悪びれるふうでもなく、蒲郡は質問を再開する。「親御さんとか兄弟とか、ご家族はどうしているのかな?」
ぎしり、と。
柿田の表情が石化する。それに相反して色褪せたはずの記憶が、捨てたはずの過去が、無意識の中で蠢きはじめる。かろうじてしぼり出した声は、震えていた。
「……そんなもんは、いねえ」
「それは、亡くなってしまったということでいいのかい」
「違う。いねえんだ。だけど、本当は……本当に“いない”のは、俺だ」
亡霊なんだ――そう呟いた柿田の様子の変化は、遠目からでもわかるものだったのだろう。蒲郡はトーンを和らげた。「言いたくないのなら、強制はしない。代わりといってはなんだが、角度を変えさせてもらうよ。きみはどんな子どもだった?」
「何なんだよ」胸の抉られるような痛みを抑えながら、にらみつける。さすがに我慢ならなかった。「いったいなにがしてえんだよっ。俺のなにが知りてえんだ、てめえはっ」
「“きみのなにか”じゃなくて、“きみ”が知りたいんだよ」
柿田は、ふいに懐に入り込まれた感じがした。
「私から先に言ったら答えやすいかな? 私……私はそうだな。毎日まいにち外で走り回ってワンパクして、毎日まいにちゲンコツを食らっていたよ」
そしてそこから言葉が引きずり出される。自然と口が動いてしまう。
「……俺は、昔は今とは百八十度違う人間だった。悪さなんて一切しないし、宿題を忘れたこともなかった。ずっと真面目ないい子どもであろうとしてた」
そう――すべては両親のためであった。柿田の行動原理はいつもそうだった。あのころ笑っていた少年は、優しい母と気のいい父のことが大好きだったのだ。
「ちなみに得意科目はなんだった?」
「数学だな。揺るぎない答えがあるのが好きだった」少し喉の震えが治まったみたいだった。加えてうっすらと、わからない問題とそれを指さす母の微笑ましそうな顔が浮かんだ。どうしてか振り払うことのできない映像。幸福の残像。
それからも問答はつづいた。
本はよく読んでいた?――雑食だったけどそれなりに。
好きな食べ物は? ――昔はから揚げ、今は特にない。
楽しかった思い出は? ――誕生日パーティ。ハッピーバースデーディア……って歌。
運動会ははりきっていた? ――嫌いだった。
友だちは多いほうだった? ――少なかった。
その中で親友と呼べるのは? ――大学に、ひとりだけ。
どれくらい答えていったのか覚えていない。ただ、時間が経つにつれて、柿田はこれまでの人生をゆっくりと指でなぞっているような気持ちになった。その節目節目で、忘却に処されたはずの感情が鮮やかに洗い出され、再生し、想起されていく。顧みることを拒んでいた二十数年間の歩みに近づいていく。たとえその過程が、立てこもり犯に油断を与えて逮捕にこぎつけやすくするための蒲郡の方策だったとしても、不思議と気にならなかった。今このときだけは、対峙しているのは自分自身だと思えた。
柿田淳一とは何者なのか。なにになりたい人間なのか。
その問いは、現在の自分にとっては途方もなさすぎて、明確な答えは導き出せそうにない――けれど、美月とすごした生温い泥のような数年間は、実は自覚しないまま生み出した一種の猶予(シンキングタイム)だったのかもしれない。そのためだけに彼女に理不尽な時間の浪費を強いていたのかと考えると、頭はてこでも上がらないが、おそらく自分はそれを望んでいたのだと思う。迷い、立ち止まっていられる時間を。
大学を去るときの石島の言葉を思い出す。願ったことに変わりはない、自分がそうしたというだけで、それだけで十分じゃないのか――。本心ではそう思えられればいいと感じていて、思いたかったのかもしれない。しかし、それはできなかった。未熟だったと言ってしまえば、それはとてもわかりやすく了然としているが、どれほど年を重ねたところで、きっと同じ場面で同じ選択をしていたはずだ。何度撮り直しても同じで、やり直しは無意味で。
そして、“やり直し”に価値を見出してはいけないのだろう。
甘夏博光は、“出直す”ことを誓った。誰もができる選択ではないかもしれない。でも、選択のチャンスは誰にでもあるのだと思う。保奈美にも、佐恵子にも……自分にも。
きっと、全員にとって今がそのときだ。
(――もう、チャンスはこの夜しかねえんだ)
そう思った直後だった。
「きみが保奈美ちゃんを誘拐した目的はなんだい」
蒲郡が事件の核心を狙う問いを投げかけてきた。柿田は、こちらを見ている保奈美と、その奥で弱々しく胸を上下させている甘夏を見やってから口を開く。
「まあ、当然のことながら金だった」
「わかるよ。ないと困るからね――」
「でもな、変わっちまった」
「なに?」はじめてではないだろうか。蒲郡の声に怪訝の色が混じった。
「自分でもバカみてえだとは思うんだけどサ、甘ちゃんのどうしようもなくしょうもねえ都合で変えられちまったんだよ」
柿田はいったん退き、保奈美の腕を引き寄せて再び窓際にもどる。にわかに下界はざわついた。彼女の登場に驚いたというよりは、安否の確認をとれたことに対する安堵のほうが大きかったのかもしれない。保奈美! と佐恵子の叫ぶ声が上がった。
保奈美が見上げてくる。「あの、柿田さん? 私は……」
「しゅべり疲れた。俺は少し休憩するから代われ」
「そ、そんなわけには」
「――おまえの願いはなんだ? おまえにしか伝えられないことがあるんじゃねえのか」
彼女ははっと息をつまらせ、それから神妙に頷いた。なにか言いたそうにしているのは背中で感じていたのだ。拡声器を受けとり、小さな口を近づける前に、その唇は「柿田さん、ありがとう」と動いたように見えた。
そして彼女は一歩進み出る。
「代わりました。梨元保奈美です」
「……とりあえず確認したい。怪我はないかい?」
「はい、平気です――けど。あの刑事さん、お願いしてもいいですか?」
「? あ、ああ」蒲郡は、調子が狂わされているのを顕著に感じていた。理由は簡単だ。今回の誘拐事件は、過去のどのケースにも当てはまらない側面を併せ持っている、異例中の異例だという認識が強かった。「なんでも言ってごらん?」
「お母さんに代わってくださいませんか……」
特に奇妙なわけではない。蒲郡はおとなしく佐恵子に拡声器を譲った。
「保奈美っ? 本当に痛いところはないの?」
「うん。お母さんは、本当に優しいんだね……」
「そんなの当たり前じゃないっ」
「それってやっぱり、昔おじいちゃんに優しくしてもらえなかったから、その反動があったりするのかな……」
佐恵子の表情が不穏げに翳る。「いるの? いるのね、あの人が。保奈美、怪我してないなんて嘘つかなくていいのよ。あの人が暴力を振るわないはずがない。私にはわかるの、ずっとずっとそうだったからっ。いい? そこからもう絶対に近づいちゃ――」
「やめてよ!」
いつも柔和な娘の怒声など耳にしたのは、はじめてだったかもしれない。ショックを受けているあいだにも彼女はつづける。
「やめて、そんなこと言うのは。おじいちゃんは、私に優しくしてくれたよ? 自分のぶんのパンも分けてくれたし、勉強も見てくれた。私の気づかないところで、ずっと温かくしてくれた。おじいちゃんは、私の味方でいてくれたの」
でも――と保奈美は言った。
「そのおじいちゃんは今、病気で死んじゃいそうになってる……」
「あの人が……嘘」衝撃に声が揺れていた。腐っても肉親ということなのだろうか。いや、そんなはずはないと思い直す。あれほど凶暴だった男が病ごときで命を落としかけていることに、違和感を否めないだけなのだ、と。
「おじいちゃんを許せない気持ちもわかる。私がお母さんの立場だったら……って思う。けどね、おじいちゃんもいっぱい悲しい思いしてきたんだよ。お母さんやおばあちゃんのことで何十年も悩んできて、お母さんにすまないって、泣いてたの……」
「泣く?」はは、と笑ってしまう。泣きたいのはこっちのほうだ。どうして今さらになって現れて、そんなふうに振舞うのか――父親みたいなことをするのか。
「すべてをなかったことにはできないよね。でも、ちょっとだけでいいから、ちゃんと顔を見せてあげてっ? おじいちゃんを、救ってあげてっ!」
蒲郡を含め、ほとんど全員が呆気にとられていた。ふだん大声を滅多に出さないからであろう、保奈美はハアハアと息を切らしながらも、拡声器を再び両手で握りしめる。
「おじいちゃんは頑張って頑張ってここまできた。だから、私も頑張りたい」
――“寄り道”は、終わりにするの。
「私ね、お父さんがお母さんを殴った夜のことぜんぶ知ってるよ。そのときから、ふたりがどんどん遠くなっていったことも。私はただ怯えるだけだった。でも、今は逃げちゃダメなんだって思えるよ。お母さんたちは“夫婦の問題”だって言うかもしれないけど、きっとこれは私たち“家族の問題”なんだよ……」
「保奈美……」
「私も一緒に考えるから、一生懸命考えるから。私はみんなが笑っていられれば、それ以上望むものはないの。だから――なのに――もう」
言葉が尻すぼみに消えていく。おそらく、こう話しているあいだにも頭脳は、様々な感情や思いの混雑と錯綜でパンクしそうになっているのだろう。小学五年生の思考・表現能力の限界なのかもしれない――と。
いきなり彼女は酸素を肺にかき集めて、最後に力のかぎり放った。
「お母さんのばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああっ!!」
脈絡もなにもない。そのHz(ヘルツ)は計り知れなかった。夜空を振動が駆け抜けた。ひょっとすれば、町中の人間に聞こえていたかもしれない。
この一撃で疲労困憊した保奈美の肩に、柿田は手を置いた。「よくやったじゃねえか」
「あ、ありがとうございます……」
「甘ちゃんっていうの、訂正しねえといけねえかな」
「……だったら、もっと訂正してほしいことがありますよ」
「あん?」
「さっき言ってた、亡霊っていうの」柿田の手に触れる。そしてかたちを確かめるように、可愛らしい指できゅっと力を込めてくる。「柿田さんは生きています。こうやって、私に温度を伝えてきてくれています。昔なにがあったのかはわからないですけど、私は知っていますよ、柿田さんの温かさを」
彼は、かすかに押し黙ってから返した。「なあ、ストックホルム症候群って知ってるか?」
「? なんです?」
「ちょっとシチュエーションが違うかもしれねえが。監禁する側とされる側のあいだに信頼関係っていうか、妙な親近感が湧いちまうもんらしいぜ。まやかしのな。今のてめえはきっとそれだろうさ」
「違います」即答だった。春の陽光のような眼差しが覗く。「この気持ちは本物です」
「はっ」柿田は笑った。笑うしかなかった。「まあ、ガキに慰められるのも悪くねえか」
そっと保奈美から拡声器を奪い、窓のアルミサッシに片足を叩きつけ、身を乗り出す。
「よう、ポリ公。さっきの話のつづきをしようぜ。なんだったっけか」
拡声器は蒲郡に返還されていた。「誘拐の目的だが」
「いいぜ? 教えてやるよ」
片頬を吊り上げつつ、保奈美のからだを抱き寄せる。「きゃ」という声は相手にしない。
そして声帯に鞭を打つ。
「極悪非道にして悪逆無道っ! 元ヒモのクズ野郎にして稀代のダメ人間っ! 計画はハプニングだらけの、今世紀最悪の誘拐犯が要求するのはァ――」
一呼吸。次の瞬間にすべてを懸けた。
「――梨元保奈美の幸せだぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああっ!!」
彼女を見捨てられなくなったのは、いつからだろう――。最初からだったのかもしれないし、つい最近が始点なのかもしれない。けれど確かなのは、彼女にかつての自分を重ね合わせていたこと。たとえ傷の形状や深さは違っても、透けて交わる遠い日の影が見えていたのだ。助けてやりたいというのには、自己救済の意味もあったのだろう。
拡声器を土手にむかって放り投げ、柿田は間髪入れず叫ぶ。地声でも強烈に響いた。
「能無しどもっ、逮捕してえなら上がってこいよ! 俺は逃げも隠れもしねえ! ただな、これだけは覚えておきやがれ! てめえらは事件を解決したんじゃねえ! 俺や保奈美を新たなスタートラインに、出直すためのポジションに、希望を見つける未来の記念すべき第一日目に連れていくだけなんだからな!? いいか、絶対に忘れるんじゃねえぞ!」
その口上は、保奈美に、佐恵子に、甘夏に――そして自分にむけたようでもあった。余韻が長く尾を引いていく。この夜のむこう側へと。
(……そうだ)
果物は出るのだ。腐るのを待つだけの部屋(はこ)から。
出直すのだ。それぞれが笑っていられるように。
(そうなんだ)
――――俺たちはみんな、“家族”になりたいんだ。
と。
誰よりも早く動いたのは蒲郡だった。トランシーバーに唾を飛ばす。
「総員、突入しろおっ! 犯人確保! 犯人確保だ!」
吉見や廃工場の周囲に隠れていた捜査員たちが、一斉に内部へと走り出す。螺旋階段が折れてしまうじゃないかと思うくらいの人数が、雄叫びとともに事務所に雪崩れ込む。
そのあとのことはよく記憶していない。まっさきに柿田はうつ伏せに取り押さえられ、もみくちゃにされたからだ。甘夏は危殆ということで、ひとまず外に搬送されていった。付き添っていたのは佐恵子だったように思う。瑠南と雄大には、いちおう保護というかたちがとられたみたいだった。意外なのは、保奈美が微々ながらも抵抗したことだった。
「そんな、柿田さんだけ……!」
「ダメだよっ」吉見があわてて距離をとらせる。
「なぁ、ポリ公さんよ」柿田は軽薄に言った。「俺のズボンの右ポケットにあるもんとってくんねえか。見てのとおり、自由なんざてんで利かねえからよ」
「ど、どういうつもりだ? 危険なものじゃないだろうな」
「疑り深いな。別にこんぐらい融通利かしてもいいだろ」
吉見は溜息をつくと、ゆっくりとポケットをまさぐる。
出てきたのは――小さなぬいぐるみだった。
「保奈美」柿田はあごをしゃくって見せた。「約束を果たすぜ。瑠南とおそろのイラックマのストラップだ。受けとれよ」
不承不承といった感じの吉見から、小さな手のひらに渡る。
「そういえば、やっと名前で呼んでくれましたね」保奈美は、ストラップを大事そうに抱えてから、花咲くような笑顔を浮かべて言ったのだった。「はい、一生の宝物にします」
「まあ……勝手にしろよ」
柿田はニヤリと笑った。そのとき、上の捜査員たちからかけられる圧力が妬ましそうに強くなったのは、気のせいではないだろう。
(21)
六時限目の授業の終了を告げるチャイムが鳴る。中学生にしてみれば無酸素室からの脱出と同義だ。二年C組の面々は、とたんに遊びの約束や部活の話に花を咲かせはじめる。担任が入ってきてHRが開始されても、静まる気配はまったくなかった。
保奈美は、黒髪をふたつに縛っていた左右のヘアゴムを外し、軽く頭を振った。髪の流れがナチュラルになり、開放感が訪れる。それからセーラー服のリボンを直したり、ハイソックスをソックタッチで整えているあいだに、担任の話は終わっていた。他事をしつつも重要事項は聞き逃さないようにしているから、今日はたいした連絡はないみたいだ。
「ホーナちゃん? いっしょに帰ろ?」
声のしたほうを見ると、萌々子が立っていた。小学生のころから仲のいい友だちだ。
「いいよ。でもちょっと待って」
「なんかあるの?」
「瑠南ちゃん部活がお休みらしいから、一緒に帰る約束してるんだ」
と。
「――おまたせ」
そうこう説明しているうちに、当の瑠南が教室にやってきた。今年度になってクラスは離れてしまったけれど、昼休みにはいつも集まることができるから、寂しくない。
保奈美は鞄を持って席を立ち、彼女たちと昇降口へむかう。外に出ると、すでに校庭のあちこちで部活動が練習をはじめていた。体育館のほうからも力強いかけ声が聞こえる。とはいえ、最も熱気と活気があるのはサッカー部だろう。指導者とタレントに恵まれ、ここ数年で急成長し、公式大会をはじめとする対外試合で好成績を次々と収めている。
すると彼らの蹴ったボールが転がってきた。保奈美が拾い上げると同時に、「おーい、それこっちにくれっ」と声変わりを終えたばかりの声が飛んでくる。雄大だった。前は同じくらいだった背丈には差がつき、顔つきは精悍さを醸し出しつつある。
「う、うん――えいっ」
保奈美は見よう見まねでスローインするが、あらぬ方向に転々と転がっていく。しかし雄大は簡単に追いつき、そのままドリブルしながら近づいてきた。
「まったく、おまえはあいかわらず運動音痴だよなあ」
瑠南が口を尖らせる。「なによ梅村。そんなこと言うためだけにこっちきたの」
「いや、別にそういうわけじゃねーよ」
「じゃあなに?」萌々子が首をかしげる。
「……まあ、こんど試合があるから、よかったらおまえたち見にこいよって」
若干恥ずかしそうに言う雄大。瑠南がすかさずツッコミを入れる。
「私“たち”? ホナちゃん“だけ”じゃなくて?」
「へんな勘繰りすんなっ」
「ほんとにいってもいいの?」保奈美は聞く。サッカー部の試合観戦は以前に一度いったことがあるのだが、そのときは、FWとして先発出場した雄大が妙に調子を狂わしてしまって、ポストプレーは失敗する、周りを使えない、独り善がりなシュートは枠外ばかりという散々の出来で途中交代させられてしまったのだ。チームは勝ったが、試合後に雄大のところにいくと「お、おまえが見てるからだ!」と怒られてしまったため、気にしていた。「私がいかないほうが、梅村くん頑張れるじゃないのかな?」
雄大は思い出したというふうに、苦い表情をつくった。「あ、あのときは違うんだ。いや違うって言うか……ゴメン。梨元は全然悪くねえよ」
むしろよかった――その言葉はうまく出てこなくて、けれど口の動きだけは保奈美に気づかれたみたいで、彼女は疑問符を浮かべて覗いていくる。
「? なにか言った?」
「なっ、なにも! つうか近えーよ!」
あとずさると同時に、ちょうどグラウンドの仲間が呼んできたので、これ幸いとばかりに雄大は離脱を図る。「とにかく来週の土曜日、空いてたらでいいからな!」
走り去ったあとに、瑠南が難しい顔をして呟きはじめた。
「なんか最近攻勢に出てきてるなあいつ……。私もなにかしないと……」
よくわからなかったが、安易に触れてはいけないような気がして、保奈美たちは黙って歩みを再開させた。校門を越えて遊歩道を進んでいると、萌々子が口を開いた。
「ねえねえ、明後日の日曜日みんなで買い物いかない?」
保奈美は首を横に振った。「ごめんね、予定があるの」
「えー? なになにー」
「お墓参りにいくんだ」
そう――その日は命日だった。
甘夏博光の。
彼のことを思い出すと、三年前、誘拐事件が迎えた終焉とその後の顛末も浮き上がる。
結果的にいえば、甘夏は病院に搬送されたもののすでに手の施しようがないほど死に隣接していた。息を引きとったのは、その二日後だ。しかし、その最期はけっしてバッドエンドではなかったと思う。ベッドの横には保奈美がいて、そして佐恵子が付き添っていたのだから。今でも彼女の甘夏に対する気持ちはよくわからないままで、問いかけようとは思えないけれど、あのときだけはきっと『娘』としてそこにいたのだろうと、保奈美は感じる。
その佐恵子はといえば、甘夏の葬儀のあとに義孝と離婚した。もはや、彼との関係を修復する気はなかったのかもしれない。自ら家族を取り壊し、彼女を選んだ保奈美とともに――新しい家族を築いていくことを、出直すことを決意したのだった。
その際に、保奈美の苗字は佐恵子の旧姓である小園(こその)に変わった。小学校からの知り合いにはたまに「梨元」と呼ばれ、気まずい空気になってしまうこともあるが、いちいち気にしようとは思わない。それは過去でしかないからだ。
佐恵子は、友人を通して見つけた企業で再就職を果たした。専業主婦をしていたころとはかけ離れ、バリバリのキャリアウーマン然としているが、たぶんそれが本来の彼女の姿なのだろうと思う。帰りが遅いことが多くて、ときには愚痴のひとつでもこぼしたくなるし、母子家庭としての辛さはそれなりに体感しているけれど、保奈美は、今の輝きのある母のほうが断然好きだった。
裕福と言えなくなって、身の回りには様々なマイナスの変化が起きたけれど、朝は洗濯など家事のサポートをしつつ、昼は瑠南や雄大や萌々子という大切な友だちに囲まれて、夜は母とマンションの小さな食卓で笑い合う、そんな生活が大好きなのだ。
「そういえば、前々から気になってたんだけど」萌々子はびしっと保奈美の鞄にぶら下がっているものを指さした。「なんでそんな古いストラップつけてるの?」
「おかしいかな……」保奈美は軽く笑む。
「うん。だってイラックマって私たちが小学生のときに流行ってたやつじゃん。今JCのあいだでアツいのはね、こびとコレクションなんだよ!」シュールな造作の人形が、萌々子が突き出した手の中でにやついている。正直、どこがツボなのかよくわからない。しかし彼女は瑠南にも矛先をむける。「瑠南ちゃんもだよ! みんなで持とうよ!」
保奈美は、瑠南と目を見合わせてあははと笑い、言った。
「でもいいんだ。私にとってこれは、とっても大事なものだから」
あの日、未来への道標を授けてくれた――優しい青年から受けとったものだから。
保奈美は空を見上げた。
もうあの人のところに、手紙は届いているだろうか。
◇
かさり、と音を立てて柿田淳一は手紙を折り畳み、鞄の中にしまう。これでもう何十通目だろうか。定期的に送られてくる、学校での生活や身近にあった他愛ない出来事が綴られたそれらの束を見ていると、まるで足長おじさん(ジョン・スミス)にでもなった気分になる。“施設”という意味では立場が逆転しているし、大学進学のための資金援助もしていないけれど。
被害者から加害者にむけての手紙は、世間的には目を疑うレベルのものかもしれないが、ふたりのあいだには特例措置が設けられていた。保奈美が強く要望したためだ。
それを思うと、三年前の誘拐事件の後日談は特例異例のオンパレードだっただろう。捜査を妨害したともいえる瑠南や雄大は、動機その他諸々の観点から、厳重注意で済まされたみたいだし、自身の裁判では保奈美が被告人を擁護する発言を連発して、傍聴席や報道陣を賑わせた。『正義? 悪? 少女を救った誘拐犯!?』という見出しで一時期お昼のワイドショーに引っぱり出されたが、すぐに首相の辞任や重大な事件が起きて、大衆の短期記憶から忘れ去られていった。とはいえ保奈美や自分にとっては、そちらのほうが都合がいいと思う。余計なしがらみは無用だ。
やることがなくなり黒色の短髪をいじっていると、部屋のドアがノックされた。
「柿田ァ、入るぞ」刑務官の門石(かどいし)が嬉しそうに近づいてくる。入所したころから、彼にはなぜか気に入られていた。「もうそろそろ時間だな。荷造りはできたか?」
「まあな。おかげさまで、中身なんてないようなもんだけどよ」
ガハハと一笑する。「おまえ、そりゃあ贅沢ってもんだ」
「これから娑婆に出るってのに、心許ねえ気はしねえか?」
「ぬかせ。外で女が待ってる奴のセリフじゃないだろ」
「いつのまに俺に女ができたんだよ。自然発生か? ボウフラの類か?」
「? だって柿田おまえ、この前可愛ええ彼女が面会にきてたろ?」
「ああ……ちげえよ。あいつはわざわざ結婚報告にきやがったんだ」
また豪快に笑う。門石は笑い上戸なのだ。正直、年がら年中辛気臭い刑務所にはマッチしていない。「なら昔の女かい。ほかの男にとられて悔しかったんじゃないのか」
「別に。あいつの旦那は人間じゃねえからな」
「わけがわからないぞ」
「馬なんだよ、牡馬。もうガキが腹ん中にいるらしいぜ。生命の神秘だよな」
「……なんか知らんが、触れちゃいけない事情があるのか……」
すると、再びドアが開いて別の刑務官が顔を出した。ジェスチャーを門石に送る。彼はうんうんと頷いて、柿田にむき直った。
「よっしゃ! 準備が整ったみたいだぞ、柿田!」
「ようやくかい。やれやれだぜ」
柿田は鞄を持って立ち上がり、門石について部屋をあとにする。薄暗い廊下を抜けて、玄関口から青空の下に出る。目の前には護送車用の大きな門がそびえている。
歩きながら、門石が口を開いた。「まあ、これで刑期満了。晴れて自由の身になるわけだが、だからって調子に乗ってまた悪さするんじゃないぞ」
「誰にむかって言ってんだ」
「誰でもさ。俺は毎回、こう言っちまうんだ」
「心配性だな」
「心配なんだよ」
柿田は鼻で笑う――よくもまあ、俺の周りにはこんなやつばっかりだ。
門の前までくる。人が出入りできるのは、横の非常口みたいな扉だけみたいだ。最後に門石と握手を交わして、塀の外側に足を踏み出す。少し肌寒い、秋の風が吹いている。
ふと見ると、道路の反対側に白いワゴンが停まっていた。
何人も乗れるようなファミリー車だ。
そしてそのとなりには――優しげに微笑む女性と、気のよさそうな男性と、中学生くらいの男の子が、立っている。
フルーツ・イン・ザ・ルーム<了>
六時限目の授業の終了を告げるチャイムが鳴る。中学生にしてみれば無酸素室からの脱出と同義だ。二年C組の面々は、とたんに遊びの約束や部活の話に花を咲かせはじめる。担任が入ってきてHRが開始されても、静まる気配はまったくなかった。
保奈美は、黒髪をふたつに縛っていた左右のヘアゴムを外し、軽く頭を振った。髪の流れがナチュラルになり、開放感が訪れる。それからセーラー服のリボンを直したり、ハイソックスをソックタッチで整えているあいだに、担任の話は終わっていた。他事をしつつも重要事項は聞き逃さないようにしているから、今日はたいした連絡はないみたいだ。
「ホーナちゃん? いっしょに帰ろ?」
声のしたほうを見ると、萌々子が立っていた。小学生のころから仲のいい友だちだ。
「いいよ。でもちょっと待って」
「なんかあるの?」
「瑠南ちゃん部活がお休みらしいから、一緒に帰る約束してるんだ」
と。
「――おまたせ」
そうこう説明しているうちに、当の瑠南が教室にやってきた。今年度になってクラスは離れてしまったけれど、昼休みにはいつも集まることができるから、寂しくない。
保奈美は鞄を持って席を立ち、彼女たちと昇降口へむかう。外に出ると、すでに校庭のあちこちで部活動が練習をはじめていた。体育館のほうからも力強いかけ声が聞こえる。とはいえ、最も熱気と活気があるのはサッカー部だろう。指導者とタレントに恵まれ、ここ数年で急成長し、公式大会をはじめとする対外試合で好成績を次々と収めている。
すると彼らの蹴ったボールが転がってきた。保奈美が拾い上げると同時に、「おーい、それこっちにくれっ」と声変わりを終えたばかりの声が飛んでくる。雄大だった。前は同じくらいだった背丈には差がつき、顔つきは精悍さを醸し出しつつある。
「う、うん――えいっ」
保奈美は見よう見まねでスローインするが、あらぬ方向に転々と転がっていく。しかし雄大は簡単に追いつき、そのままドリブルしながら近づいてきた。
「まったく、おまえはあいかわらず運動音痴だよなあ」
瑠南が口を尖らせる。「なによ梅村。そんなこと言うためだけにこっちきたの」
「いや、別にそういうわけじゃねーよ」
「じゃあなに?」萌々子が首をかしげる。
「……まあ、こんど試合があるから、よかったらおまえたち見にこいよって」
若干恥ずかしそうに言う雄大。瑠南がすかさずツッコミを入れる。
「私“たち”? ホナちゃん“だけ”じゃなくて?」
「へんな勘繰りすんなっ」
「ほんとにいってもいいの?」保奈美は聞く。サッカー部の試合観戦は以前に一度いったことがあるのだが、そのときは、FWとして先発出場した雄大が妙に調子を狂わしてしまって、ポストプレーは失敗する、周りを使えない、独り善がりなシュートは枠外ばかりという散々の出来で途中交代させられてしまったのだ。チームは勝ったが、試合後に雄大のところにいくと「お、おまえが見てるからだ!」と怒られてしまったため、気にしていた。「私がいかないほうが、梅村くん頑張れるじゃないのかな?」
雄大は思い出したというふうに、苦い表情をつくった。「あ、あのときは違うんだ。いや違うって言うか……ゴメン。梨元は全然悪くねえよ」
むしろよかった――その言葉はうまく出てこなくて、けれど口の動きだけは保奈美に気づかれたみたいで、彼女は疑問符を浮かべて覗いていくる。
「? なにか言った?」
「なっ、なにも! つうか近えーよ!」
あとずさると同時に、ちょうどグラウンドの仲間が呼んできたので、これ幸いとばかりに雄大は離脱を図る。「とにかく来週の土曜日、空いてたらでいいからな!」
走り去ったあとに、瑠南が難しい顔をして呟きはじめた。
「なんか最近攻勢に出てきてるなあいつ……。私もなにかしないと……」
よくわからなかったが、安易に触れてはいけないような気がして、保奈美たちは黙って歩みを再開させた。校門を越えて遊歩道を進んでいると、萌々子が口を開いた。
「ねえねえ、明後日の日曜日みんなで買い物いかない?」
保奈美は首を横に振った。「ごめんね、予定があるの」
「えー? なになにー」
「お墓参りにいくんだ」
そう――その日は命日だった。
甘夏博光の。
彼のことを思い出すと、三年前、誘拐事件が迎えた終焉とその後の顛末も浮き上がる。
結果的にいえば、甘夏は病院に搬送されたもののすでに手の施しようがないほど死に隣接していた。息を引きとったのは、その二日後だ。しかし、その最期はけっしてバッドエンドではなかったと思う。ベッドの横には保奈美がいて、そして佐恵子が付き添っていたのだから。今でも彼女の甘夏に対する気持ちはよくわからないままで、問いかけようとは思えないけれど、あのときだけはきっと『娘』としてそこにいたのだろうと、保奈美は感じる。
その佐恵子はといえば、甘夏の葬儀のあとに義孝と離婚した。もはや、彼との関係を修復する気はなかったのかもしれない。自ら家族を取り壊し、彼女を選んだ保奈美とともに――新しい家族を築いていくことを、出直すことを決意したのだった。
その際に、保奈美の苗字は佐恵子の旧姓である小園(こその)に変わった。小学校からの知り合いにはたまに「梨元」と呼ばれ、気まずい空気になってしまうこともあるが、いちいち気にしようとは思わない。それは過去でしかないからだ。
佐恵子は、友人を通して見つけた企業で再就職を果たした。専業主婦をしていたころとはかけ離れ、バリバリのキャリアウーマン然としているが、たぶんそれが本来の彼女の姿なのだろうと思う。帰りが遅いことが多くて、ときには愚痴のひとつでもこぼしたくなるし、母子家庭としての辛さはそれなりに体感しているけれど、保奈美は、今の輝きのある母のほうが断然好きだった。
裕福と言えなくなって、身の回りには様々なマイナスの変化が起きたけれど、朝は洗濯など家事のサポートをしつつ、昼は瑠南や雄大や萌々子という大切な友だちに囲まれて、夜は母とマンションの小さな食卓で笑い合う、そんな生活が大好きなのだ。
「そういえば、前々から気になってたんだけど」萌々子はびしっと保奈美の鞄にぶら下がっているものを指さした。「なんでそんな古いストラップつけてるの?」
「おかしいかな……」保奈美は軽く笑む。
「うん。だってイラックマって私たちが小学生のときに流行ってたやつじゃん。今JCのあいだでアツいのはね、こびとコレクションなんだよ!」シュールな造作の人形が、萌々子が突き出した手の中でにやついている。正直、どこがツボなのかよくわからない。しかし彼女は瑠南にも矛先をむける。「瑠南ちゃんもだよ! みんなで持とうよ!」
保奈美は、瑠南と目を見合わせてあははと笑い、言った。
「でもいいんだ。私にとってこれは、とっても大事なものだから」
あの日、未来への道標を授けてくれた――優しい青年から受けとったものだから。
保奈美は空を見上げた。
もうあの人のところに、手紙は届いているだろうか。
◇
かさり、と音を立てて柿田淳一は手紙を折り畳み、鞄の中にしまう。これでもう何十通目だろうか。定期的に送られてくる、学校での生活や身近にあった他愛ない出来事が綴られたそれらの束を見ていると、まるで足長おじさん(ジョン・スミス)にでもなった気分になる。“施設”という意味では立場が逆転しているし、大学進学のための資金援助もしていないけれど。
被害者から加害者にむけての手紙は、世間的には目を疑うレベルのものかもしれないが、ふたりのあいだには特例措置が設けられていた。保奈美が強く要望したためだ。
それを思うと、三年前の誘拐事件の後日談は特例異例のオンパレードだっただろう。捜査を妨害したともいえる瑠南や雄大は、動機その他諸々の観点から、厳重注意で済まされたみたいだし、自身の裁判では保奈美が被告人を擁護する発言を連発して、傍聴席や報道陣を賑わせた。『正義? 悪? 少女を救った誘拐犯!?』という見出しで一時期お昼のワイドショーに引っぱり出されたが、すぐに首相の辞任や重大な事件が起きて、大衆の短期記憶から忘れ去られていった。とはいえ保奈美や自分にとっては、そちらのほうが都合がいいと思う。余計なしがらみは無用だ。
やることがなくなり黒色の短髪をいじっていると、部屋のドアがノックされた。
「柿田ァ、入るぞ」刑務官の門石(かどいし)が嬉しそうに近づいてくる。入所したころから、彼にはなぜか気に入られていた。「もうそろそろ時間だな。荷造りはできたか?」
「まあな。おかげさまで、中身なんてないようなもんだけどよ」
ガハハと一笑する。「おまえ、そりゃあ贅沢ってもんだ」
「これから娑婆に出るってのに、心許ねえ気はしねえか?」
「ぬかせ。外で女が待ってる奴のセリフじゃないだろ」
「いつのまに俺に女ができたんだよ。自然発生か? ボウフラの類か?」
「? だって柿田おまえ、この前可愛ええ彼女が面会にきてたろ?」
「ああ……ちげえよ。あいつはわざわざ結婚報告にきやがったんだ」
また豪快に笑う。門石は笑い上戸なのだ。正直、年がら年中辛気臭い刑務所にはマッチしていない。「なら昔の女かい。ほかの男にとられて悔しかったんじゃないのか」
「別に。あいつの旦那は人間じゃねえからな」
「わけがわからないぞ」
「馬なんだよ、牡馬。もうガキが腹ん中にいるらしいぜ。生命の神秘だよな」
「……なんか知らんが、触れちゃいけない事情があるのか……」
すると、再びドアが開いて別の刑務官が顔を出した。ジェスチャーを門石に送る。彼はうんうんと頷いて、柿田にむき直った。
「よっしゃ! 準備が整ったみたいだぞ、柿田!」
「ようやくかい。やれやれだぜ」
柿田は鞄を持って立ち上がり、門石について部屋をあとにする。薄暗い廊下を抜けて、玄関口から青空の下に出る。目の前には護送車用の大きな門がそびえている。
歩きながら、門石が口を開いた。「まあ、これで刑期満了。晴れて自由の身になるわけだが、だからって調子に乗ってまた悪さするんじゃないぞ」
「誰にむかって言ってんだ」
「誰でもさ。俺は毎回、こう言っちまうんだ」
「心配性だな」
「心配なんだよ」
柿田は鼻で笑う――よくもまあ、俺の周りにはこんなやつばっかりだ。
門の前までくる。人が出入りできるのは、横の非常口みたいな扉だけみたいだ。最後に門石と握手を交わして、塀の外側に足を踏み出す。少し肌寒い、秋の風が吹いている。
ふと見ると、道路の反対側に白いワゴンが停まっていた。
何人も乗れるようなファミリー車だ。
そしてそのとなりには――優しげに微笑む女性と、気のよさそうな男性と、中学生くらいの男の子が、立っている。
フルーツ・イン・ザ・ルーム<了>