指の先
【一章 四節】
深夜に差し掛かった頃、自宅の黒電話が鳴り響く。
己は読んでいた書籍を机の隅に置き、持ち込んでおいた電話の子機を手に取った。
『よぉ、草一郎!』
されば、耳にあてるよりも早く、粗野な大男の声が聞こえてきた。遺憾ながらも予想通りである。
「遅かったな。もっと早くかけてこい」
『てめぇ。まずは礼の一つでも言ったらどうだ』
「感謝してやるから、早く本題に入ってくれ。己も眠くなってきたのでな」
捲くし立ててやると、露骨な舌打ちが一つ。その後に耳障りな、低い笑い声が追従する。
『んじゃ、まずはどっちから聞きてぇんだ』
「 "ひなこ" という人物の詳細について、なにか分かったことがあれば頼む」
『おう、運がよかったな草一郎。その名前で役所に戸籍登録されてたのはほとんど居なかった上、十代の嬢ちゃんになると、一人だけだ』
「本名は?」
『如月雛子(きさらぎ ひなこ)・十七歳だ』
「ふむ……如月雛子か」
一度聞いた名は忘れえぬ自信はあるが、とりわけその名前を、しばし記憶に留めておこうと意識する。十七という年齢もまた、弐乃が告げた通り、一般的な高校生の年齢と符合する。
『んでよ。この嬢ちゃんが、どうかしたのか?』
「まだ言えん。確証がついたら話す」
昼間、弐乃が学園の音楽室で見たという【コトノハ】の持ち主。それが真なれば、この少女が "切り裂き魔" である可能性は確かに存在する。そう思い、己は弐乃から話を聞いた後で、すぐに五郎に連絡を取ったのだった。
「もう少し情報が欲しいが」
『あんまり無茶言うんじゃねぇ。ざっと調べて分かるのは、親の職業と、一家の現住所ぐらいだろうがよ」
「まぁそうだな。では聞いてやろう。彼女の両親の仕事はなんなのだ?」
『……相変わらず、いちいち偉そうだな、てめぇはよ。父親はここの県議員の一人。まぁそれなりに裕福な家庭やってんだろう』
「ふむ。では住所は?」
『……おい。これが一応、部外秘ってことぐらい分かってるよな?』
「当然だ。その為に貴様に連絡した」
『あぁ、そうかよ』
露骨なため息が、受話器の先から聞こえてきた。しかしその後に、如月一家の現住所は、二駅ほど離れた高級住宅街の一角であることが告げられた。頭の中に刻み込んでおく。
「他には無いのか?」
『ねぇよ。んなことまで時間かけてられっか』
「よし。ではもう一人、蓮見弥生という女生徒の住所も頼む。他にも分かっていることがあるなら話しておけ」
『へいへい。こっちの嬢ちゃんはてめぇと違って、随分と苦労してるみたいだぜ。てめぇもたまには苦労しろ』
「どういうことだ」
「生活保護を受けて一人暮らしらしいぜ。一応、保証人の住所も聞いとくか?』
「両親の住所か?」
『いや、苗字が違うし、団体名だな』
「……実親は、既に亡くなっているということか?」
『そうだ』
なにかが、ふと気にかかった。言ってみれば単なる勘に過ぎぬが、五郎の声もまた、粗野な大男にしては幾分、低くなったようである。
「電話が遅くなった理由は、それか?」
『うるせぇよ。だからてめぇは、せめて礼ぐらい言いやがれっ!』
受話器から耳を離す。喧しい奴め。
『亡くなった両親についてだがな。蓮見弥生の父親は、どこぞの暴力団員の一員だったらしい。なにをやらかしたのかは調べが足りてねぇが、現在は "行方不明" だ』
「……ふむ。何年前だ?」
『七年前だ。今頃はどこかの土の下だろうよ』
その年月の記号は、忌むべき年と同じであった。己の心臓を、見えない刃が削りゆくのを意識した。
<――ニイサマ、オカエリ、ナサイ――>
『この父親が、随分な借金を残してやがったらしい。その三年後に、今度は母親の方が無理をしすぎたのか……過労死という報告書が挙がってる。唯一に残った嬢ちゃんは、どこぞの施設に入ったが、まぁ、そこも居心地が悪かったのかはしらねぇが、今は一人暮らしだ』
*
電話を切り、椅子に背もたれる。目を閉じ、いくらか瞑目していた頃合に、書斎の扉が軽く叩かれた。
『――入ってもよろしいですか』
「どうした?」
年季のはいった木製扉が開かれ、寝具を纏った弐乃が室内に踏み入る。異様に口達者なところはあるが、外見はまだまだ、子供の雰囲気を残した妹である。
「兄さん、珈琲をお持ちしました」
「助かる。いただこう」
手ずから受け取った珈琲は、舌を焦がす手前に熱く、甘味のない無糖。まさに今、喉を通すのに、最も心地良いよく感じられる飲み物である。
「先ほど、電話が鳴っているのが聞こえましたが……」
「あぁ、編集だ。明日の打ち合わせを少し、な」
「そうでしたか。では今晩はあまり無理をしないでくださいね。兄さんは根を詰めると倒れてしまうのだから、ほどほどに」
「わかっている」
「私は今日、この辺りで床につきますので」
「うむ、おやすみ」
「おやすみなさい、兄さん」
折り目正しく一礼をして、弐乃は部屋を後にする。耳を澄ませ、壁を挟んだ向こう側から、襖の扉を閉める微かな音を聞き届けた。
「さて、あの人はまだ起きているか……」
机の中に閉まっておいた電話の子器を手に取った。登録しておいた番号を押し、先ほど弐乃に告げた編集の番号を押す。
「…………」
乾いた呼び出し音が数回。続けて艶のある、甘ったるい声が耳に届く。
『――はぁい! こちら地獄の編集部ぅ!』
「八千代(やちよ)さん、己だ」
『きゃっ! 草一郎せんせ! こんな夜中になんですかっ、愛の告白ですかぁ』
「それはない」
『じゃ、原稿の締切はこれ以上伸びませんからねぇーっ! ってか伸ばしたら、ぶっ殺しますよぉうぅっ!』
「いざという時には、その発言を録音して法廷に提出させて頂こう」
『売れない物書き先生には、これぐらいが丁度いいんですぅぅー! それよりぃ、今度こそ明日には、原稿持ってこれるんでしょうねぇ~?』
「原稿は持っていく。しかしすまんが、打ち合わせの日程を翌日に延ばして頂きたい」
『あぁ~ん!? いまぁ、なんつったんですくわぁ~~っっ!?』
甲高い、氷柱のような声が耳に突き刺さった。珈琲を飲んで温まっていた身体が、不快に冷えていく。
「落ち着きたまえ。これには事情があってだな……」
『はぁ? もぉ忙しいんでぇ、切りますよぉ?』
『だから待ちたまえ、少し話があると言っている」
『……毎度思うんですけどぉ。草一郎せんせはぁ、なんでそんなに偉そうな物言いができるんですかぁ~。売れない物書きなんて、働かない無職と一緒ですからねぇっ! あまり無茶苦茶言うと、物理的に押しかけて首ちょん切ってあげちゃいますよ~~っ?』
「……勘弁してくれ」
内心、血を吐く思いであったが、残る熱い珈琲を一気に飲み干し、堪え続ける。
「頼む。少しだけ話に付き合ってく……ださい」
『もぉ~、仕方ないですねぇ~。それで~、なんの御用ですかぁ?』
「うむ。 "天使の指先" という呼称を持つ女学生について聞いたことはないかね」
『はい~? なにかの小説ですかぁ?』
「いや、実在する人物だ。この街に住んでいて、己の妹と同じ学園に通う女学生だ」
『弐乃ちゃんと同じ学生さんですかぁ。あそこってぇ、この辺りだと偏差値高くて有名なんですよねぇ。やっぱり最近は中高一貫で、エスカレーター式の私立が人気ですねぇ~』
「その辺りの話はどうでも良い」
一つ咳払いをして、話題を戻す。
「それで、天使の指先についてだが」
『はいはい、天使の指先ですかぁ~……なにか聞き覚えがあるような~……んー、芸能関係?』
「いや、そうでもないようだ。聞いた話ではピアノの腕前が素晴らしく、そのような呼ばれ方をしているそうなのだが。権威のある賞を受け取ってもいて、海外留学なども決まっているらしい。本名は――」
『あ~、はいはいはいっ! 思い出しましたっ!! 地元の高校生の女子ですよねぇ~、別部署の友達から、取材したよってゆー話を、ちみっと聞いたような気もしますぅ~。すごいですよね~。どこかの売れなくて、締切を延ばしまくりの地元作家さんとは、大違いですよね~~っ!!』
言葉の棘が突き刺さるのを、努めて無視する。
そろそろ己の精神も限界である。
「八千代さん。その友人と話す機会を設けてくれないだろうか。いくつか聞きたいことがあるのだが」
『えー、それってつまり、私と打ち合わせする代わりに、私の友達とおデートするってことですかぁ。せんせったらもー……いい度胸してんなぁ? こら……あ~ん?』
「頼むから、突然殺気を放たないでくれ……では、例の女性徒に取材をしたものが、掲載されている雑誌名を教えてほしい」
『仕方ないですねぇ~。それぐらいなら一肌脱いであげないこともないですよぉ。なんて、いやんっ☆ 明日の打ち合わせに真面目に来てくれるなら、雑誌一部探して、持ってってあげてもいいですよ? せ・ん・せ』
「…………」
八千代さんは、今年でいくつになるのだったか。
確か己よりも二つ歳上で………
『せんせ。淑女の年齢を脳内計算してますね。解が浮かび次第、殺して焼いて埋められると思ってください。では、そゆことで、また明日~っ』
がちゃん。
「……切られた」
まったくもって女性とは、真に恐ろしき生き物である。