指の先
【一章 二節】
家を出て、徒歩十五分ほど。
大通りに出た道を少し歩き、バスの停留所にたどり着いた。
まだ早朝ということもあって、道路を行き交う人の姿は少なく、停留所に並んでいるのも、まだ一人だけ。
「三玲(みれい)さん」
「……あ」
同じ学院の制服を着た彼女は、とても美しい人だった。文庫本を片手に持って佇んでも、それだけで絵になってしまう。
「三玲さん、おはようございます」
「おはよう、弐乃」
端正な顔を持ち上げた時、背まで届いた黒髪が踊った。本を閉じ、片手で眼鏡を直す仕草さえも流麗だ。
「今日は、いいお天気ですね」
挨拶を交わした後で、彼女の隣に並ぶ。
「えっ、あぁ……そうね……」
彼女は目を細めて、私を見た。口元に指を添え、僅かに口を開いた拍子に【コトノハ】が零れ落ちる。
<――私は、弐乃に、なにかを――>
「……」
ずいっと、無言で距離を詰め寄られた。
鼻先が触れそうになるぐらい、近い。
<――あぁ、そうだったわ――>
ぽんっと、一つ納得したように手を打って。
「あのね、叔父さんと、叔母さんが、伝えてくれと言ってたわ」
「え? わたしに?」
「そうよ」
「なにをですか?」
尋ねると、三玲さんは僅かに首を傾げた。
「…………」
「…………」
再び、彼女の口元から【コトノハ】が、落ちる。
<――なんだっけ――>
はてなと、首を傾げる三玲さん。
「……ごめん、私、忘れっぽいから」
「いいえ、ゆっくり思いだしてください」
「有難う。ちょっと待っていてね。忘れないように、手帳に記載しておいたから」
「はい」
三玲さんが淡く微笑んで、鞄の中を探っていく。けれどそうしているうちに、一日限りの花のように、儚く萎んでしまった。
「……手帳を忘れたかもしれない……」
じんわりと、綺麗な顔に涙が浮かぶ。
「……ごめんね、私、本当に忘れっぽくて……しーねーばーいいのに、わたし~♪」
「お気を確かに。思いだしたら、また教えてくださればいいですから」
「……弐乃、やさしい……」
潤んだ睫と瞳が近づいた。
細い両腕が伸ばされて、背に回される。
手にしていた、学生鞄が静かに落ちる。双眸が閉じて。吐息が重なりあう直前にまで、彼女の美しい顔が近づけられて。
ふと。
(……えーと、どうしてこうなったのでしたっけ……)
とか、思った時だった。
「朝から、なにしてん」
少し離れたところから、声がした。
髪を短く切り揃えた、私達と同じ制服を着た女学生。眉をひそめて、こっちを訝しそうに見ていた。
「あっ、四葉(よつは)さん、おはようございます」
「おはよ、弐乃。朝から三玲にからまれて、災難やなぁ」
「失礼なこと言ってくれるじゃない。ばか四葉」
三玲さんが、私に回していた腕を外していく。綺麗な顔を不服そうに歪めていた。
「うっかり、もうちょっとで、出来そうだったのに」
危うくそんな感じで、初めてを奪われるところでした。
「それよりも、鞄が汚れてしまいますよ。はい」
「あ、有難う~」
落とした鞄を拾いあげた時だ。
「――あ」
三玲さんの胸元から、うっすら赤い表紙の手帳が落ちてきた。もう一度屈んで拾い上げる。
「これ、探してた手帳じゃないですか?」
「…………え?」
きょとんと、首を傾げる三玲さん。
「こちらに、私宛ての伝言が書かれていたのでは」
「あぁ、そうだわ。弐乃のお兄さんにね。店頭で宣伝する用の色紙を、お願いできないかって言われてたの」
「……手帳の必要性は……?」
「表紙を見たら思いだしたみたい。ごめんね、頼めそう?」
「そういうことでしたら、大丈夫ですよ。むしろ得意気に、嬉々として書くと思います。あの人は」
「有難う。弐乃、大好きよ」
もう一度、うっかり伸びてくる両腕。
「せやっ!」
だけどそれは、隣から伸びてきた四葉さんの手に、あっさり払い飛ばされてしまう。
「なにするのよ、痛いじゃない」
「せやから、絡みつくのはやめときって。あんた誰彼かまわず、抱きつこうとするんやから」
「嫌いな相手にはしないわよ。四葉にはしないし」
「……喧嘩売ってんなら買うで?」
二人の間で、剣呑な空気が流れていく。しかし頃合い良く、道の先から大型車の駆動音が聞こえてきた。
「はい、時間切れですよ。お二人ともそこまでです」
バスがゆっくりと速度を落とし、目の前で止まる。
さながら喧嘩を仲裁するように、しゅーっと音を上げ、扉が内側へと開かれた。
車内に入り、空いていた席に並んで座る。それと同時に四葉さんが、つまらなそうに呟いた。
「あーあ、土曜に学校って憂鬱やわぁ。昼に終わるんなら、いっそのこと休みにしたらええのにな」
「四葉、それ先週も言ってたじゃないの。毎回、同じことを言うものだから、覚えてしまったわ」
「物忘れ激しいくせに、いらんことばっか覚えとるんやなー」
「なによ」
私を間に挟んで、二人が眉をひそめて牽制しあう。
「それ以上言い合うと、頬を抓って差し上げますよ。容赦しませんからね」
「弐乃ってさぁ、おとなしそうな顔して、えげつないよなぁ」
「私が悪者みたいに言わないでください」
言い返すも、四葉さんは気にした風もなく、八重歯を見せて笑っていた。
「違うて。悪者やのうて "おかん" みたいな感じやなって」
それもまた、失礼だと想うのですが。
「……手のかかる身内をお世話していれば、自然とこうなってしまったんですよ」
「身内て、あの、格好良いあんちゃんのこと?」
「格好良い? 誰ですか、それ」
兄をそんな風に言われると、ものすごく、首を傾げたくなってしまう。
「えー、見た目かなりえぇ感じやんか」
「外見から中身を差し引けば、とてもそんなこと言ってられなくなりますよ」
「せやかて、無職で "ぷー" しとるわけでもないんやろ?」
「そうですけど。収入が不安定ですし、才能もなくて先が見えているのですから、きちんとした定職について欲しいと願う次第で……」
「やっぱ、それっぽいよなぁ」
「うん。弐乃のこと、お母さんって呼んでもいい?」
「おかーん!」
「ふふ。出来の悪い子は "ぐー" で殴りますよ?」
「すんませんでした」
「ごめんなさい」
うな垂れるお二人の額に軽く、でこぴんをお見舞いをしておいた。
私の兄は、少しばかり顔が知れている。
特に外見だけは優秀な人なので、学園に授業参観に来た時などは、周りの衆目を集め、帰り際には質問責めにあったこともある。
(……正直に言えば、少し嬉しいというか、誇らしいというか、そういう気も確かにありましたけど……)
自宅に帰り、二切れの紙片が置いてあるのを見つけたのと同時に、そんな気持ちは一気に覚めた。
『妹の友人の前にて、恥をかいてはいけぬと思い、
己も気合を入れるべく、新服を購入して馳せ参じた次第。
ふっ、格好良かったであろう。
そして、すまんが、代金を払っといてくれ』
机の上には手紙と、普段着ているものと値段が二桁違う、洋服の代金を記した紙が置かれていた。
瞬間、堪忍袋の尾が切れるという言葉の事実を、初めて理解した。今すぐ返してこなければ、兄妹の縁を切ると告げると、兄は即座に洋服屋に駆け込み、土下座して、どうにか現金の九割を回収してきたので、ご飯は翌日から作ってあげた。
「でも、彼は博識だわ」
左隣を見ると、三玲さんが、綺麗な顔で微笑んでいた。
「博識? 誰のことですか、それ」
「貴女のお兄さん。私が読んでいた海外作家の文学集にも、すべて目を通されていたのよ。お話していると、とても楽しかったし、お勧めの本まで教えていただいたわ」
「せやせや。なんたって小説家やもんなぁ。いろんなこと知っとって、話しとったら、おもろいもんな」
両隣に座るお二人が、楽しげに言う。
なにか胸の奥が、ちくりと疼いた。
「実生活で役に立たない知識を、広く浅く、知ってる程度です。自分の売る本より、集めた資料の方が値が張るんですよ」
「えー、あんちゃんの本、売れてへんの?」
「売れてません。ですよね、三玲さん」
「そうねぇ……」
彼女の叔父さん夫婦は、小さな書店を開かれている。三玲さんは学園に通う為に、実家を出て、そちらに居候しているとのことだった。
「そこそこ、売れてる気もするわよ」
「本当ですか?」
「えぇ、著者近影を引き伸ばしたのとか、宣伝用に置いておくとね、地味に減ってくの。他にも、地元の作家ですって書いておくと、興味本位で買ってく人がいるみたい。返品希望の声も多いのだけど、装飾に不都合がある本以外は、基本的に受け付けてないから」
にっこり。笑顔で、真顔で告げられた。
「……なにか、いろいろと、すみません……」
「いいのいいの。だから新しい色紙の方、お願いね」
三玲さんは美人で、慎ましやかで、少し忘れっぽいところがあるけれど。しっかり商人の血筋が流れる女性(ひと)だった。
*
停留所を巡っていく間に、車内の席はすべて埋まり、立ち並ぶ乗客の数も増えていた。
学園から一つ前の停留所で扉が開いた時、腰を大きく曲げたお婆さんが、杖をつきながら入ってくる。
「……」
左右をほんの少し、見回していた。
空いている席を、探しているようだった。
<――あぁ、譲った方が、いいのかな――>
<――席を、どうぞ――>
<――よかったら、座りますか――>
不完全な言葉が、乗り合わせた人の口元から、零れ落ちていた。
それは確かな優しさなのだけど、見知らぬ乗客がいる中で、声をかけるのを躊躇っている。そうして言葉になり損ねた【コトノハ】が、空しく落ちて、砕けていくのだ。
「おばーちゃん! こっち空いてるで!」
そんな中で一人、四葉さんが、手をまっすぐに伸ばしていた。集う視線など気にせず席を立ち、笑顔で手招きする。私も席から立ち上がりかけると、手で制された。
「ええよ、弐乃と三玲は座っとき。お婆ちゃん、こっちこっち」
「すまないねぇ」
「ほい、手ぇ、だして」
身体を支えるように手を貸しながら、彼女は席を譲った。
「お隣、失礼しますね」
「はい、どうぞ」
お年寄りが腰を下ろすと同時に、再び、扉が閉まる音が聞こえた。心持ちゆっくりと、バスが発車していく。
*
学園前の停留所に降り立った時、三玲さんが、四葉さんの頭を撫でていた。
「四葉、さっきのは、ちょっと感心したわ」
「……な、なんや? いきなり気色悪ぃなぁ……」
「先ほど社内で、お婆さんに席を譲ったじゃないですか」
「へ? あー、別に、当たり前のことやんか」
「それが咄嗟にできない人は、沢山いるわよ」
「……ん」
少し、照れくさそうに顔を背ける四葉さん。頬が赤く染まっていた。
「いい子、いい子」
「せ、せやかてっ! 頭撫でるなんて、子供みたいな恥ずい真似せんとって!」
「分かっててやってるのよ」
「うわっ、性格悪っ!」
「――まぁまぁ、そう怒らずに。褒められた時は、素直に受け取っておくものだよ。君」
不意にもう一つ、大きな掌が、四葉さんの上に重なっていた。
「へ?」
「面と向かって褒められるなど、滅多にないことだからね。素直に受け取っておきたまえ」
「……誰?」
「単なる、同じバスの乗客者さ」
頭一つ背の高いところにある、綺麗で中性的な顔立ち。 胸元を飾るスカーフの色は、高等部の生徒を示す色。
呆然とする私達を気にすることもなく、その方はとっても楽しそうに、四葉さんの頭をよしよし撫で続けている。
「君たち、今年の四月に入学したばかりの、一年生?」
「そーですけど……」
「やっぱり。私は可愛い女の子が大好きでね。自慢じゃないけど、興味対象にある女子の顔と名前は、即座に一致するんだ。君たちみたいな、可愛い三人組の名前が浮かばないなんてね。変だと思った」
「…………」
お日様のように眩しい笑顔だった。それを、真正面から向けられている四葉さんの表情は、色鮮やかに染まっていく。
「君たちの名前、聞いてもいいかな?」
「ちゅ、中等部の一年、笹谷四葉(ささたによつは)ですっ!」
「馬鹿と同じクラスの、東條三玲(とうじょうみれい)です」
「同じく、結式弐乃(ゆいしきにの)と申します」
「なるほど、覚えたよ。私は高等部三年、蓮見弥生(はすみやよい)。気が向いたら覚えてやって」
「は、はーい……」
四葉さんが気の抜けた、甘い返事をした時だった。
「弥生っ!!」
鋭い声が飛んできた。校門の方からだった。
驚いて振り返ると、髪を染めた女性が、こっちを険しく睨んでいる。弥生さんと同じ、高等部であることを示すスカーフが、胸元を飾っていた。
「なにしてるのよっ! 待たせないでっ!!」
「……あー、ごめんね。友達が呼んでるみたいだから。またね」
苦笑するような表情を浮かべて、弥生さんは校門まで駆けていった。
その際に一つ、【コトノハ】が落ちて、砕けるのを視た。
<――うるさいな。まったく、雛子は――>
「……なんや、あの茶髪女、感じわるっ!」
「四葉さん、落ち着いてくださいね」
「そうそう。四葉が惚れっぽいのが悪いのよ」
「そ、そんなんやにゃいしっ!?」
「噛んでるし」
「やかましっ!」
「――はい、そこまで。続きは教室で」
また喧嘩を始めそうな二人の首根っこを掴み、足早に、引き摺るようにして進む。
(……あら……?)
そして、校門のところで気がついた。鋭い声を発した彼女が立っていたところ。
砕けていない、球体を保ったままの、強い意思が落ちている。【コトノハ】だった。通りすぎる際に、砕け割れ。
内に秘められた、言葉になり損ねた想いが、溢れ出た。
<――触れるな、触れるな、触れるな――>
<――誰も触れるな。離れろ。消えてしまえ――>
<――私の "天使の指先" に、誰も触れるな!――>
教室に入って、いくつかの雑談を交わしていた。いつも通りの時刻に、授業開始を告げる鐘が鳴り響き、私たちは席につく。
……。
それから五分が経ち、さらに待って、十分。
「……せんせい、遅くない?」
呟かれた声に、私たちは一様に反応した。
「遅いよねぇ」
「なにかあったのかな」
「ちょっと見てこよっか」
声が連鎖し、誰かが席を立ったのと同時だった。
「――すまない、遅くなった」
扉を開く音がして、先生が教室に入ってきた。急いで階段を上って来たのかもしれない。教壇の前に立ち、出席簿を置いてから、ため息を零すように告げた。
「……では、日直、号令を頼む」
「はい。きりーつ、れい―――着席」
全員が椅子から立ち上がり、再び座す。両隣の教室からも同じ音が聞こえてきた。なにか、あったのかもしれない。
「それでは出席を取る――」
変わらない日常、繰り返される一日。
最後の一人の名前が呼ばれると、先生の、少しわざとらしい咳払いが混じった。
「ん……授業をする前に、少し話しておきたいことがある」
指先で、繰り返し、眼鏡を持ちあげる。
少し神経質で、眼鏡を持ち上げた回数を追えば "不機嫌度" がわかる、なんて言われている先生だった。
(今日は朝から、最高記録ですね……)
恐らく、皆が同じことを思ったのではないか、と思う。
静かな教室に、緊張感が増していた。
「ついさきほど学園に向けて、警察から連絡があった。昨日の深夜から早朝、刃物で背中を切り裂かれた女学生がいたらしい。当校の生徒ではなく、近隣にある他校の生徒だが」
……。
教室内がざわついていく。両隣の教室でも、同様の説明をしていたのかもしれない。なにか落ち着かない空気が、肌を突き刺すように伝わってきた。
「……ねぇ、それってさぁ」
「もしかして」
「うん……」
周囲を不安そうに見渡して、小声で囁き交わす私たち。先生が苛立たしげに、指先で教壇を叩いた。
「騒ぐな。静かに。まずは話を聞きなさい」
「せんせー」
「ん? どうした、笹谷?」
四葉さんが、遠慮なく手を挙げていた。バスの中で席を譲った時と同じように、臆することなく立ちあがり、平然と告げる。
「その犯人って、"切り裂き魔" やったりするん?」
……。
空気が、綺麗に冷え切った。
「……笹谷、お前は相変わらず遠慮がないな」
「へ?」
「いや、まぁ、いい」
四葉さんは真っ直ぐだ。良い意味でも、悪い意味でも。
【コトノハ】が零れたのを見たことがないのは、彼女だけだった。
「まだ詳しい話は分からんがな、同一犯の可能性はあるそうだ。さきほど学園の電話に、警察から直接かかってきた。気をつけてくれとのふざけたお達しだ。今日が土曜なので昼には解散となるが、くれぐれも――」
「でも先生、確か昨日の新聞に "切り裂き魔" は、顔見られてしもーて、捕まんの時間の問題や言われとったで?」
「重ねて言うがな笹谷、遠慮という言葉を、お前の辞書に刻んでおけ。それとも、物理的に叩き込んでやろうか?」
眼鏡が二回、持ち上げられる。
"要注意" の合図に、四葉さんが慌てて席に座り込んだ。
「……とにかくだ。本日から放課後の活動が禁止される。部活動も無期限の活動停止だ。詳しい話は全校集会で、学園長が話をされる。以上だ。では、一限目をはじめるぞ」
*
どこか重苦しかった空気も、二科目の授業を終えれば、何処かに消えていた。清掃活動を行いながら、帰りに何処に寄ろうかという話が飛び交っている。
「なぁー、弐乃ー、三玲~」
四葉さんが、机を持ち運びしながら、問いかけてきた。
「帰りにバス停前の "はっちゃん" でたこ焼き食べて帰らん~?」
「また? 四葉、それ先週も言ってたじゃないの。毎回、同じことを言うものだから以下略」
「えぇやんか。あたしら三人とも帰宅部やしー。帰ったらすぐ昼飯やろ? たこ焼き一つ買うて、三人で分けて食うたら、ちょうどえぇしな。懐的にも、腹持ち的にも」
四葉さんがそう言って、屈託なく笑った。
彼女は母子家庭で、下に小さな兄弟が二人いる。母親が一日働いているそうなので、家族みんなで頑張っているらしい。
「それならついでに、たい焼きも食べたいわね」
三玲さんもまた、書店を営む、叔父さん夫婦のお手伝いをする為に、まっすぐ家まで帰っていた。
そして私も両親がおらず、同居人の兄が一切家事をしない『駄目もやし』なので、土曜日はまっすぐ帰るのが常だった。
「いいですね。餡子はつぶあんですか? こしあんですか?」
「そりゃ、こしあんやろ。普通は」
「なに言ってんの? つぶあんでしょう。常識よ?」
二人の間で、火花が散った。
究極の二択。人生の決断を迫るような勢いだ。
「弐乃! 弐乃はどっちがえぇと思う!?」
「大丈夫! 私、弐乃のこと信じてるわっ!」
決死の形相を浮かべる二人に向け、私は告げた。
「それなら、両方入れてもらえばいいと思いますよ」
さりげなく言ってみたら、
「……りょう、ほう……やて?」
「現代のたい焼きは、そこまで進化していたのっ!?」
「半端ない! 半端ないでぇ!」
「いやだわ、私、惚れちゃいそう……っ!」
「実に楽しそうだな、そして暇そうだな。お前ら」
先生のお声が掛かった。
眼鏡が二回、持ち上げられていた。
「笹谷。集会が始まる前に、体育館に行って椅子並べてこい」
「えーっ! なんでー!」
「ん? 反抗期か?」
眼鏡がさらに一回、持ち上げられる。
「……なんでもないですぅー」
「よろしい。働いてこい」
「でもせんせー、いつもは、くっそおもんない校長の話を二十五分、立ちっぱで聞くだけやないですかー。なんで今日に限って椅子並べんとあかんの?」
相変わらず素直に告げると、教室内からも賛同の声があがる。主に『くっそおもんない校長の話を二十五分』のところに。
「今日は途中で、生徒によるピアノの演奏が入るらしくてな。さすがに立ち聞きは辛いだろうという、校長の配慮だ」
「……正直言うと、はよ帰りたいんですけどー?」
「さっさと行け。お供を連れていっても構わんぞ」
告げて、先生は教室を出ていった。
隙を見て、さりげなく逃げる私たち。
「にーのー? みーれーいー?」
がしっと、肩を、背後から掴まれた。
振り返れば、とっても素敵な笑顔が浮かべた、四葉さん。
「ほな、いこか」
*
そういう訳で、私たちは三人、一階にある体育館へと向かっていた。他の教室からも、数名一組になった生徒の姿が見える。
「せんせって、なにかとうちに対して口喧しく言うけど、もしかして、あたしのこと好きやったりするんかなー、なんて」
「四葉はもう少し、現実を見た方がいい」
「うっさいわっ」
もう何度目かしれない、激しい火花を散らすお二人。
本当に、喧嘩するほど仲がいいんだなと、呆れてしまう。
「どうでもいい事で喧嘩しないでくださいね。頬を抓りあげて、そのまま投げ飛ばしますよ」
「わかっとる……って、え? 投げ? え?」
「私も、やる時はやりますからね」
「弐乃……恐ろしい子!」
そんな風に、いつものやりとりをしながら廊下を歩いていれば、
「やぁ、笹谷四葉くん、結式弐乃くん、東條三玲くん。今朝に引き続き、奇遇だね」
正面の階段から、お日様のように眩しい笑顔を浮かべた、あの上級生が手を振っていた。
「いいねぇ、綺麗な女の子が三人、仲睦まじく歩いているのを見るだけで、あぁ、なんていうかもう――いいねぇ」
「弥生先輩~っ」
四葉さんが、忠実な子犬のように駆け寄っていく。
「先輩も、椅子運びに呼び出されたんですか?」
「いや、私はピアノの調律にね。なにか全校集会で、いきなり弾いてくれって頼まれたんだ」
「えっ、ピアノ弾くの、先輩なんですか」
「そうみたいだよ。たいして上手くもないのにね」
そんな風に言いながらも、弥生先輩はやっぱり、楽しそうに見える笑みを浮かべていた。
「そうだ。四葉くん。よかったら一緒に逃げないかい」
「あはは。サボったらあかんですよ」
「真面目なんだねぇ、君は」
口元に指を添えて、絵になる仕草で笑いつつ、
「好きだなぁ。そういう子」
反対の手が、ゆっくり、四葉さんの頬に伸びていく。
「弥生」
「いっ!?」
けれど、その指先が触れる前に、止められた。
弥生先輩の頭を、側面から現れた白い爪が十本、しっかり突き刺している。あまりにも綺麗なそれは、付け爪だろうか。
「なに、やってるの」
髪を薄茶に染めた上級生だ。今朝に見た、あの人だった。
「そこの一年、弥生に触らないで。とっとと、消えて」
「いや、今のはどっちかというと、私から触ろうとしたんだけど」
「煩い!! 弥生は黙ってて!!」
「やかましーのは、あんたやろ」
四葉さんが、胸を張って、もう一人の先輩に告げていた。
肌に張り付くような、空気の気配。
「誰か知らんですけど、偉そうにしすぎやないですか?」
「……なっ」
言ってしまった。真正面から。堂々と。
「……こっ、のっ、中坊のくせに、生意気っ!!」
「先輩こそ、本当に高等部なん? 大人げなさすぎや―――」
がっし!
三玲さんと協力して、腕を左右から取り囲む。
「先輩、大変申し訳ありませんでした」
「馬鹿が、失礼しました」
「ちょ! 二人ともなにす、ぐっ――!?」
口を塞いで、強制送還。
「駄目ですよ四葉さん。これから六年間も、こちらの学園でお世話になる予定なんですからね」
「そうそう。いい加減、世渡りというものを覚えなさいよ」
「む~~っ!」
それから私たちは、体育館に逃げ込んだ。
模範的な生徒よろしく椅子並びをこなし、先輩方の逆鱗に触れないよう気をつけて、教室に戻ったのだった。
体育館に集まってから、二十分が経過していた。
学園長先生の語る、古きよき、昔の時代。
以前にも耳にした内容だったので、そこは半分聞き流しつつ、お昼ご飯と夕飯の献立を考えていた。
『では続きまして、現在、我々の地元において、非常に悪質な傷害事件が発生しておりますことについて、お話いたします。既に、先生方より伝えられていると思いますが、この事件の犯人は未だ捕まっておらず、県警より厳重に注意をして欲しいとの要請がありました。特に一件目の事件においては、日中に起きているとのことですので、できる限り、人目のつかないところで行動するのは、避けるようにしてください。なお、不審者を見かけた場合は速やかに――』
……夕飯も、冷やし素麺でいいかしら。
兄さんのお給料が入るまで、まだかかるでしょうし。
『それにしても、本当にけしからぬ事件であります。現在 "切り裂き魔" と思わしき人物による犯行は、四件発生しているわけですが、最初の二件に至っては、赤子の手首を切り取り、持ち去るなどという、真に狂人の仕業としか思えぬ行為です。三件目の事件は、幸い未遂で済んだそうですが、残念ながら、続いて今回の事件が起きてしまいました。正直なところを申し上げますと、個人的に、県警についての能力を疑問視する声を挙げたいところで――』
朝に出した蜆汁も暖めなおして、片付けてしまおう。お刺身でも一品添えていれば、文句も言われないでしょうしね。
『えー、暗い話題をお話してしまいましたが、次は大変にめでたい話題に移りたいと思います。先日、音楽業界でとても権威のあられる先生より、我が校の生徒が特別推薦を頂けることになりました――蓮見弥生さん、前へ』
その名前は、今朝、耳にしたばかりの名前だった。
「はい」と少し低い声。
やっぱり背が高くて、どこか中性的な、男性然とした魅力に満ちている先輩だった。
<――弥生さま、麗しくて素敵――>
<――あぁ、正直、世の男共が霞んでしまわれます――>
あちこちから、そんな【コトノハ】が聞こえてきた。良い意味でも悪い意味でも、有名な先輩だったのかもしれない。
(……確かに、格好いい人ですよね……)
壇上にあがっても堂々としていて、こちらを見渡す瞳にも、力
が宿っているように見えた。どこかの、ふらふらしている同居人にも見習って欲しいと思う。
(――それでも、兄さんの方が――)
浮かんできた想いを、慌てて振り払う。
長いお話のせいで、正常な判断がつかなくなっているのかもしれなかった。
『えー、蓮見弥生さんは、御趣味でピアノを習われていたとのことで、その腕前が発表会に来られていた方々の目に留まられたそうですね。専門雑誌にも掲載されており、二つ名に "天使の指先" という、素晴らしい評価を与えられております。
それでは弥生さん、後輩たちに向けて、一言を』
「はい」
弥生さんが入れ替わり、深々と一礼をした後で、マイクのある壇上へと立つ。
「高等部三年の、蓮見弥生と申します。
海外留学のため、学園を発つことが決まり、このような形で発表させて頂く機会を得ました。既に荷物もまとまっていて、来週にはこの地を発つ予定です」
先輩が告げると、あちこちから、悲鳴じみた【コトノハ】が聞こえてきた。というか、
「弥生さま、行かないでー!」
普通に、そんな声も聞こえてきたり。
だけど彼女は、ともすれば台本を読むように、淡々と語っていく。
「私が初めてピアノに触れたのは、こちらの学園の高等部に転入してからのことでした。知識もなく、音楽室にあるピアノを見よう見真似で弾いていたのですが、今では大層な二つ名を与えられて、恐縮しています」
それはきっと、嘘ではないのだろうけど、
先輩の言葉に、熱は篭っていないと思えた。
<――あーあ、雛子のやつ、泣きそうな顔しちゃって――>
本当に伝えたい想いは、
【コトノハ】と化して、零れ落ちていたから。
<――かわいいの。唇噛んで、必死に耐えてる――>
絶えることなく、伝えることなく、落ちていく。
ひび割れ、砕けて、私の耳元へと運ばれる。
<――私がいなくなったら、君は、どうなるのかな――>
挨拶の後、彼女がピアノを一曲弾き終えて、万雷の拍手を受けるまで。弥生先輩は、眼下に並ぶ私たちの、たった一人だけを、想い続けていた。
「先輩のピアノ良かったわ~、でも凄いよなぁ。高等部に入ってからってことは、たった二年習っただけで、海外留学の推薦もらえたり、天使の指先や呼ばれたりしたわけやろ? はー、やっぱ天才は違うんやなー」
恍惚とした表情で、廊下の天井を見上げながら呟く四葉さん。三玲さんが、つまらなそうに言う。
「ばかじゃないの」
「なんやの、怖い顔して」
「大体ね、音楽の細かい良し悪しなんて、四葉には分からないでしょ。それに、あの先輩がピアノを弾いていることも知ったばかりなのに "昔から知ってましたよ" 的な物言い、なんなの?」
「……う」
容赦のない言葉の雨に、さすがの四葉さんも怯んだ。
「それにね、貴女の我侭に振り回される、私と弐乃の身にもなって欲しいわよ」
「私は別に構いませんよ」
応えて、窓の外を見た。
朝方と変わらず、気持ちの良い、晴れた青空が広がっていた。
『伝説が生まれた現場を、見にいかん?』
そんな四葉さんの一言をきっかけに、放課後、私たちは高等部の校舎を彷徨っていた。
廊下を歩いていても、特に誰かとすれ違うことは無い。他の生徒は既に、先生に言われた通り、まっすぐ学園を後にしているようだった。
「この階にもありませんね、音楽室。最上階でしょうか」
高等部の校舎は広かった。入学した最初の頃に案内されたことはあるけれど、細かい教場の位置取りなどは、とても覚えていない。
「あぁもう、虱潰しとか面倒くさいわね」
「そんな怒らんとってや」
「言葉じゃなくて、態度で示しなさいよ」
「たい焼き一個奢りますん」
「……し、仕方がないわねっ!」
あっさり懐柔されてしまう、三玲さん。
「……三玲て、時々ほんま、安いよなー……」
「なにか言った?」
「べつに~。なんも言うてへんー」
お二人は言い争いながらも、階段を上っていく。
(……相変わらず、仲がよろしいですねー)
思いつつ、その一段後ろを、私も続くのだった。
「……やっと、見つかったわね……」
「上から探せば良かったですね」
音楽室は、最上階の五階、廊下の突き当りに存在した。
「時には手間かかった方がえぇもんやて」
「やかましい。後でちゃんとたい焼き奢るのよっ」
「はいはい。ほな、失礼しまーす」
四葉さんが扉に手をかける。少したてつけの悪くなった扉が、大きな音を立てて開かれていった。
「やっぱり、誰もいませんね」
しん、とした空気が満ちているだけ。楽器は奥に続く小部屋に整理されているのだろう。教室内の窓際に一台、探していたピアノが置いてあるだけだ。
「つ、ついに見つけたで! あれが、伝説のピアノ……っ!」
「いつのまに伝説になったのよ」
「せやかて、あのピアノを弾いたら、眠れる音楽的才能が、目覚めるかもしれへんやろ?」
「馬鹿じゃないの。あぁそういえば、四葉って音痴よね」
「やかましっ」
三玲さんが呆れる視線を送るなか、遠慮なくピアノの蓋を持ち上げる四葉さん。白黒の鍵盤に手を添える。
「ちょっと、四葉」
「勝手に弾いたら、不味いですよ」
「ごめん、ちょっとだけ見逃して。なんたって、あたしの音楽的才能が目覚める瀬戸際なんや! ……えーと "ド" って、どれやったっけ?」
「音楽的才能で、当ててみればいいんじゃない?」
「むっ……やったろうやんか!」
(だから、勝手に弾いたら不味いのでは……)
先生に見つかった時、どう言い訳をしたものだろうと悩んでしまう。そして「ぽろん」と、一つの音が弾けた。そこから、
<――♪――>
流れるような、音の旋律が、はじまった。
<――あぁ、ついに、見つけた――>
(え?)
美しい音の螺旋が、部屋に満ちる。
<――見つけた、見つけた、見つけた、見つけた、
見つけた、見つけた、見つけた、見つけた ――>
小さく、丸い、虹色の塊が、鍵盤の底より現れる。
儚い音を立て、床に落ち、一斉に砕け散ってゆく。
<――ついに、見つけた――>
<――なんて美しいのだろう。なんて綺麗な――>
<―― !!! 天使の指先 !!! ――>
<――欲しい。あそこに在る、十指が欲しい――>
口から呟き零してしまうのを、
血を吐くほどに耐えているような、想いが響く。
さらに、さらに、さらに、砕け散る。
<――あれは、私の物だ。誰にも、やるものか――>
<――私が、切り落とさねば、いけない――>
<――不要な物は、捨てねばならぬ――>
<――美しい物だけを、箱の中に閉じ込めよう――>
<――除かねば。その醜悪な肉塊から――>
<――あぁ!――>
<――こんなにも! 恋焦がれる!――>
<――母様!
貴女もこんなお気持ちだったことでしょう!――>
<――くだらぬ蝶々の羽きれと、
それに彩られた、父の眼球のみを愛した母様!――>
<――私もついに、心の底より求めるものを、
この場に見出すことが、叶いました――>
悲鳴。慟哭。衝撃。そして歓喜。
自身の存在証明を見つけた、二度とはない悦び。
想いは甲高い声になりかける。
冷徹な心が、それを低く、ほの暗い底へ、押し殺す。
<――祝福を。愛がないのであれば、せめてもの――>
(……ぁ、ぅ……)
容易に砕けぬ想いを詰め込み、世界に留まり続けた【コトノハ】たち。
言葉である事を断念され、破棄された不完全な存在は、必要とされず、地上に捨て去られた。それは、故に嬉々として、声を聞くべきことの出来る耳朶の中へ、滑り込む
たとえば私。もしくは、今は亡き彼の人へ。
(なにこれ……誰の……)
身体が揺らいで、支えを求めた。
左手が力強く鍵盤の上に乗ってしまう。爆発するような音が溢れ、残る右手は、吐き気を覚えはじめた自分の口元を抑える。
<――指が欲しい。なんとしてでも、
あの十指を手にいれたい――>
ひどく、気分が悪くなっていく。
理解の及ばない、怨念じみた声に、吐き気が増してくる。今朝に食したものを、吐き戻してしまいそうだ。
「弐乃、ちょっと、どうしたの?」
「なんか、顔色が悪いで――――」
二人の言葉もまた、遠くに消えていく。
身体が冷え、心臓が急き、四肢の感覚が曖昧になっていく。意識を白い霧が覆い尽くす。
なにも見えず、聞こえなくなっていく。
(この【コトノハ】を零した人って、まさか……)
一つの想像が浮かぶ。
これは "切り裂き魔" だ。
口にすることの出来ない、歪んだ想いを持つ者だ。