夜野花火の話をしよう。
花火。その名の通り弾けた閃光のごとき少女で、目元と気がちょっとだけ強い。身長は女子にしては高め、実は僕と同じくらい。だから彼女の隣に並ぶのはちょっと嫌なんだ。同じ高さに顔が来るから、話す時に目を見てくる。それがなんとなくわずらわしいんだよな。気恥しいような、こそばゆいような。もっともそれは僕に限った話ではなく、彼女は相対する人間に対していつもそうなのだけど。実直、誠実、清廉。何一つ曲がらないし、何一つ曲げない。僕から見た彼女は常にそんな感じ。なおかつ、秀才と呼ばれる類の女の子。運動も勉強もそつなくこなす、クラスに一人はいるような万能タイプの少女だ。
だからピアノも上手かった。
人間関係ヒエラルキーで言えばほぼ底辺を這いつくばるそれこそ奴隷ような僕と、上流階級でペルシアンでも膝の上にのせてそうな彼女が上手くやってきたのは多分、音楽という共通の話題があったからだ。どういうわけかロック好きな花火は、クラシックピアノをこよなく愛していた。さっぱりした、小気味のいい演奏をするピアニスト。歌い過ぎず、でもあっさりしすぎない。中学時代の彼女はアシュケナージを尊敬しており、そのせいもあってか、キーを叩く彼女の指の規則的運動は、例え耳が聞こえなくても音楽が目に見えるようだった。僕はそれを聴いて、彼女に感想を言う係だ。二人で勝手に放課後の音楽室に入りこんだりして、くだらないCMソングを耳コピして遊んだりした。育毛剤の曲をしっとりしたジャズ風にアレンジしたやつが、花火のお気に入り。
そんな彼女のピアノを、僕は尊敬していた。彼女も僕の方を、気の合う友人くらいには思ってくれていたかもしれない。初でプラトニックな僕達の関係は、僕の心に爽やかな風をもたらしてくれたのだった。僕も花火も往々にして、そんな日がずっと続くと思っていたし、終わりが来るなんて考えもしなかったのだ。だけど、必ず確実に、出会いがあれば別れがあって、始まりがあれば終わりがある。どんな楽曲にだって、必ず二本の終止線が引いてあるように、だからそれも必然だった。ただ、あまりにも早すぎたのだ。もっと長く続くと思っていたのに。もっともっと、楽しい時間が続くと思っていたのに。
コマ送りにしたらほぼ全てのコマが正常な日常の中で、ほんの一コマ、間違いがおこった。僕はその日、学校の帰り横断歩道を渡ろうとしていた。そして、まるで自分は人生の一ページである、というような何食わぬ顔で、一台の車が僕に突っ込んできた。猛スピードだった。避けられそうもないと、瞬間的に判断した。僕は死を覚悟したけど、実際に死線を彷徨ったのは僕じゃなかった。花火だった。
要するに、僕は幼馴染に庇われたのだ。
そして花火は、半身に重荷を背負うことになった。
彼女の右手は、石になった。脚だって、今普通に歩けていること自体驚きなのだ。
数か月の入院の間、僕は謝り続けた。謝り倒した。ごめんという言葉がその意味を失うくらいに、ただただ頭を下げ続けた。そして蝉の声のうるさい日に、僕と花火は短く言葉を交わした。
ごめん。それから、もういいよ。
多分、僕と花火の関係はそこで一旦途切れたのだと思う。そして昨日、また途切れた。
花火の話をするなら、こんなところに落ち着くだろう。
「英語なんて言葉なんだ! こんなもんやれば誰だってできるようになる」
ホワイトボードの前では、中年の光輝く教師がどこかで聞いたような講釈を垂れている。
そんなのはよそにして、ぼんやりとした重みのあるシャーペンを、指と指の間でくるくる回した。でも実際くるくる回っているのはペンなんかじゃなくて、花火の顔だ。今にも崩れていきそうな、限界まで積み上がったテトリスみたいな目をした、僕の幼馴染。
僕が気を使ったから? それとも仔犬を助けようとしなかったからだろうか。やはり、自分の右手に重傷を負わせた僕が、憎いのか。理由はわからない。どれでもないかもしれないし、全部かもしれない。
畢竟、人の心なんて知れたものではないのだ。理解しあうなんて不可能でしかない。とはいえ、僕が花火のことを理解できないのは、そんな哲学的で高尚な話じゃない。
「一番ダメなのは、わからないからと言って理解を諦めることだ!」
わかってるんだよ、そんなこと。僕がわかろうとしていないだけだ。
自分の中で勝手に結論を出してしまうのが、一番簡単だから。事実を知らなくていいなら、可能性の境界線を水彩画みたいにぼやかしてしまえる。今みたいに。拒絶も、受容も、何もかも存在しない。花火から実際の判決を下されない限りは、何もないのと同じなのだ。アマゾンの密林でひっそりと生まれひっそりと死にゆく名もなき虫なんて、僕達人間にとっては存在していないのと何ら変わりない。そういうことだろ?
もういいよ。
花火は確かにそう言った。だからそこで終わっているのだ。
もう彼女とは話さないと決めた。別に構わない。一瞬、本当に一瞬、花火との時間を楽しいと思った僕なんて、拘泥するほどのものじゃない。楽しかった思い出は、楽しかった思い出のままであればいい。それが一番なのだから。
真実を知ってしまうより恐いことなんてない。
だって償いを求められても、どうしようもないんだ。彼女の右手はもう動かない。
醜いな、僕は。
「よし。これから夏期講習に突入していくが、一年の夏休みだからといって気を抜くなよ。伸びようと思うやつは一か月でも一週間でも伸びるが、そうじゃないやつはいつまでたっても伸びないからな」
気がつくと、授業は終わっていた。緊張の解けた空気が狭い部屋に満ちている。
僕は模試の英訳問題の採点ミスで盛り上がっている同級生たちを一瞥して、ひそやかに予備校の教室を後にした。
どうせ夏休みに入ってしまえば、昼休みなんてものはなくなる。すなわち花火と顔を合わせる必要もなくなるということだ。
うん、勉強に専念するか。それが一番楽だ。
階段を降りて切れかけた蛍光灯の下を通り過ぎ街路に出ると、押し寄せるようにして生温い空気がクーラーで冷えた服の隙間に忍び込んで来る。相変わらず夏の夜ってやつは反省の色が見られない。太陽が成りを潜めている今くらい、地上を快適にする努力をしてみたっていいはずだ。
とまあ、格別に生産性の無いモノローグで意識を散在させていたところ、勉強に専念すると決めた心を揺らがせる要因が、さっそく視界に飛び込んできた。
「……おや」
初めて会った時と同じ、小学生の落書きにルネサンスの女神を描き加えたかのごとく、景色から浮いている女の子。僕は見つけてしまったのだ、住宅街の中にあるひっそりとした公園に、不自然に輝くブロンドを。通り過ぎるか、ちょっかいを出すか、僕の中で天秤が揺れ、一瞬で結果が出る。落ち込んだ気分より、彼女がなんでここにいるか知りたい好奇心のほうが上回った。
「おーい!」
黄色いポールが何本か立つ入口から、きぃきぃと物寂しい音を立ててブランコを漕ぐ羽月へと声をかける。聞こえたようで、彼女ははっと顔をあげるなり、漆黒に浮かぶお月さまよろしく目を真ん丸にした。
「英波君?」
それでも立ち上がろうとしない羽月に歩み寄って、辺りを見回す。どうやら一人らしい。
「何やってんだ? こんなところで」
「えと、ちょっと遠出した帰りなんです」
「女子一人でブランコなんて、襲ってくれって言ってるようなもんだぜ?」
「……それは、はい。ごめんなさい」
しゅんとうなだれる様子を見ていると、抱きしめたくなる。抱きしめて、ごめん、今のは嘘! と耳元で囁きたくなってしまう。ただ、そのような邪なリビドーを除いて考えても、今日の羽月はどこかおかしい。元気がない。
「なんかあったのか?」
「いいえ。今後の予定を考えていただけです」
「本当に?」
「私は英波君と違って嘘なんてつきません」
「じゃあ、今後の予定ってなんだよ」
「……英波君には秘密です」
ああ、なるほどね。この感じは、もう慣れた。ロックモードだ。何を聞いても、教えてくれないパターンに入ってしまっているのだ。なのに、そんなガードにも今日は隙があるような気がする。どうしたというのだろう。勿論その隙に付け入るような真似はしたくないからしないけど、話す時は僕を見上げる顔も、見る見るうちに俯いていってしまう。
ふうん。僕はこういう時、力を持つのは言葉じゃないと思う。ぶっちゃけ、言葉で解決できるだけの自信が僕にないだけなのだが、その上僕の気が滅入ってたということもあるのだろうけれど、それでもやっぱり、相手が羽月だからかな、こういう冒険もしたくなってしまう。
「――」
イメージは、バイオリンの切れのある響き。ビブラフォン用にアレンジが施された、クレーメル盤。
ピアソラの、フーガ・イ・ミステリオ。
僕の大好きな曲。落ち込んだ時でも、これを聴くと元気になれる。そういう名目で、羽月にも一度聴いてもらったことがあった。
僕は、ハミングで頭の中の旋律をなぞり出す。おっかなびっくり、音程を外さないかおどおどしていたけれど、飛び跳ね、止めるところは止め、決めるところで決めるタンゴのような、心を燃え上がらせるメロディー。それを歌いあげるうちに、そんな矮小な悩みはどこかへ飛んでいってしまったみたいだ。ステージ上でバイオレッドのライトに照らされた怪しさを絡ませながら、難しい音形を必死で歌う。歌が得意なわけじゃないし、好きなわけでもないんだけど、僕はとにかく歌いながら、羽月の目を見た。
なあ、この曲、覚えてるよな?
目で訊く。すると、僕の意図は通じたみたいだ。戸惑っていた彼女の顔が、瞬く間に子供のそれになって。
「――!」
二つ目の旋律、ビブラフォンのパートを、彼女が重ねてきてくれる。
僕はもう嬉しくて、サブに回った第一バイオリンをがむしゃらに弾き続ける。
結局ビオラもチェロもコントラバスもいないから、キャストは圧倒的に不足しているのだけど、旋律が旋律を追いかけるフーガの見事な構成を、僕と羽月は二人で追いかけっこした。
同じ音形を重ねているだけの、全くの輪唱、それこそカエルの合唱を長くしたようなものなのに、なんて見事なんだろう。たった二つだけでも、こんなにも恰好いいミルフィーユになる。
追いつきそうで追いつかない、そんな応酬を繰り返して、主旋律ごとに転調していく。そして四回目の繰り返しの後。三拍置いて、重なる、二つのメロディー。ここまではずらしておいて、ここからは全員でシンクロする。
バラバラに見えたベクトルが、実は一致していたことに気づく。心を一つにして突き進むカタルシスが、身体中に広がっていく。
羽月と目を合わせて、恰好悪く微笑む。
彼女も、笑い返してくれる。
二人で奏でる音楽は、こんなにも楽しい。
そして二人だけで奏でていたはずの音楽は、もうとっくに二人だけのものではなくなっていた。僕はバイオリンを持っているし、彼女はビブラフォンを奏でるバチをその手に持っている。周囲では自動演奏のように他の楽器が鳴り響いていて、公園はもうコンサートホールだった。観客が大勢居て、僕も羽月もはち切れそうなテンションで楽器をかき鳴らす。
あっという間だった。
まさかアドリブまでやり切ってしまうとは思ってもみなかった。僕はこの曲を何度も繰り返し聴いていたからよかったものの、羽月はさすがだ。でも、そんなことなんかどうでもよくて。
終わってみると、羽月は立ち上がって僕の傍まで来ていた。
わっと拍手が湧いて――そしてここはやっぱり、公園なのだった。
羽月と顔を見合わせて、お互いに熱い息を吹きかけ合う。
「……やっぱり、いいな、この曲」
「……ですね」
そしてしばらく見つめ合って、糸が切れたみたいに僕らはけたけた笑いだした。
何をやってるんだろうなって。それは羽月も思っていたことだろう。よく警察に声かけられなかったと思うよ。ヘタすりゃ不審者だ。
でもそれでお前が笑うから、お前がそんなにいい顔をするから。
僕は音楽の偉大さってのを再認識するよ。
「英波君のせいで今後の予定、忘れちゃいました!」
「そうかい、そりゃお気の毒だったね」
「もう、笑ってる場合じゃないんですよ!」
そんなことを言いつつも、やっぱり顔はにやけてる。僕をばしばし叩いてくるけど、羽月は笑ってる。何でなのかはよくわからないけど、そうなるようになってしまっている。
「なあ!」
「なんですか?」
「羽月に見せたいものがあるんだ。明日、学校が終わってから、ちょっと付き合ってくれよ」
「……なんだろう? わかりました。楽しみにしてます」
キョトンとしてる羽月に、僕はあれを見せたいと思った。
そして同時に、もうすぐ夏休みなんだということを再認識して、そして夏休みがやってくるということは、昼休みがなくなると同時に放課後もなくなるのだということに、僕は気付いたのだった。