開かれた戸の先には色のくすんだ赤い絨毯が見える。革がすり切れたベートーヴェン椅子が見える。窓から差し込む陽の染みこんだグランドピアノが、蓋を開け放たれた状態でしんと厳かに弾き手を待っている。
スタンウェイの、学校にあるモノと兄弟のピアノ。セピアでもモノクロでもなく、白と黒のコントラストが記憶に明確で、僕と花火が交代ばんこで弾き続けていた、そういうピアノだ。今目を閉じれば、その光景を瞼の裏に再生することも出来るだろう。だが、そうはしない。そんなことをする必要はない。今からそこに、新たな一曲を付け加えるのだから。
ここまで来ちまったんだ。やるしかない。
躊躇している余裕など、もはや今の僕にはない。
笑いかけている膝に力を込めてピンと伸ばすと、漆黒の鍵盤楽器以外何も見当たらない練習室へと踏み込んだ。羽月が後ろからついてきているのを一目見て安心し、握っていた彼女の手を、乱暴にならないよう振りほどく。手のひらに掻いた汗が外気に触れてすぅっとした。緊張や不安など、羽月にはとっくに気取られているだろう。そう頭では理解できていたのだが、手を離す瞬間にはやっぱりそれを意識して、顔を赤くしてしまう。とはいえそんな雑念が即座に気にならなくなるくたいには、僕も結構ギリギリなのだろう。クーラーの効いた室温がここまで寒く感じるなんて、思いもみなかった。
冷気を切って椅子に腰掛け、時間をとり高さを調節する。きちんと座りなおして目線を上げると、そこには7と4分の1オクターブの世界が横たわっていた。
なんだか懐かしい。
実際にこうするのは一年とちょっとぶりなのだから、そのノスタルジーも当たり前といえば当たり前だ。しかしながら、僕が感じているこの胸の高なりとこの喉の乾きは、それとは少し違う。それよりもずっと昔の、出会いの懐かしさであり、初めての拍動だ。
僕は今、新たな一歩を踏み出そうとしているのだ。
曲目はもう決まっていた。
深く息を吸い込んで、ゆっくりと鍵盤に両手を乗せる。空気より少しひんやりした木製の鍵盤が一ミリだけ下に沈み込んで、クッションのように僕の指を受け止める。同時に、呼吸が荒くなってくる。額に汗が吹き出して、後頭部で世界が回転し始める。動くはずの右手が、硬くなってくる。
瞬間、白い病室のベッドに横たわる、色を失った花火が見えた。
「……ッ!」
光の消えた彼女の瞳は、僕を見ようともしない。
またかよ、くそ。
いつもいつも、図ったようなタイミングでフラッシュバックしやがって。
どんどん着実に急速に、息が上がる。肺が潰れたように苦しくなってくる。喘ぐままに、首が下に折れる。冷や汗が頬を、背中を伝う。まずい、このままだとダメになってしまう。
嘘だろ。
やっぱり、弾けないのか?
花火にあんなこと言わせておいて。
「はっ、はっ……」
羽月に大見得切っておいて。
「はぁ、はっ……っ!」
凛さんにピアノを弾かせてくれって頼んでおいて。
「はっ、ぐ、……くぅ……」
ここまで後押しがあっても、僕は無理なのか。
「……っくそ……」
僕はやっぱり。
「英波君っ!」
「っ!」
その声に、思わず頭が跳ね上がる。左手に顔を向ければ、そこには僕と同じくらい、あるいは僕よりもずっと焦った顔をした羽月が、胸の前で手を組んでいた。。
なんで、君がそんな顔をしてるんだよ。
がっちり絡まりあった彼女の指は、力の入れ過ぎだろう、指先が赤くなってしまっている僕がキョトンと眺めていると、思わずこっちが、頑張って、と言いたくなりそうな狼狽具合のまま、羽月はおろおろと視線を泳がせた。ブロンドがひらひらと揺れて、桃色のワンピースを撫でる。十中八九、僕の様子がおかしいせいだろう。僕がこんなことになっているその理由というか事情といった類のものは、花火から聞かされていないのかな。
何をやってるんだ、僕は。
何のためにここに来たんだ? 彼女にあんな顔をさせるためか。
違うだろ。
僕自身のためもある、勿論花火のためもある。
だけど、一番は彼女を悲しませないために。彼女に笑ってもらうために。
いちいち動作が可愛らしくて、笑顔がとろけるくらいに眩しくて、ちょっとしたことにも笑ってくれて、少しドジで天然でだけど優しくて友達思いで、ちょっと悪戯心があって、背が低くて、軽くて、まつげが長くて、白くきめ細やかな肌をしていて、美しい手をしていて、綺麗な髪をしていて、ワンピースが最高に似合っていて、スポーツは苦手で科学と数学は嫌いだけど、ショパンが好きで、バッハとベートーヴェンが好きで、モーツァルトとハイドンも好きで、ドビュッシーもラベルも、ラフマニノフもプロコフィエフも、シャミナードもシューマンも好きで、そして何より母のピアノが大好きで、音楽を愛している彼女に。
羽月に。
手を差し伸べるために、今僕はピアノの前に居るんだ。
まだ不安そうな顔をしている彼女をもう一度だけ一瞥して、鍵盤に向き直る。
「すぅー……、はぁー……」
息を深く吸い込んだら、埃の味がした。凛さんに、後で換気をするように言っておこう。
右手の震えは、止まっていた。
吸い込まれるように、左手の人差し指が鍵盤に落ちていく。
最初の音は、Hだ。
ショパンはかつて、この曲を送る際にこう言ったという。
――僕は君を楽しませるために新しいワルツを送るつもりだった――
それ以外の記述が特にないから、ショパンがこの曲に込めた想いは結局のところ分からない。だけど、同じHが初音の曲でも、『別れの曲』とは全然違う。
これは、ワルツだ。ダンスなんだ。とにかく踊って、楽しませるためのものなんだ。
そう、だからこれは、僕の。
Hから始まる――
『ワルツ』第十四番 ホ短調 遺作。
前奏は、夜の空を地上から駆け上がる稲妻。
情熱の蒼いアルペジオ。
アップテンポで、突き詰めるように高みに昇っていく。登り切って、背伸びをして、空を引っ掻いて、余韻。
右手は――動く。
その確認だけで十分だった。
ステージは開幕した。
短く息を吸い込んで、僕は踊りだす。
バイオレットのステージカーテンを風圧で揺らしながら、音の一つ一つが1・2・3のリズムにのって三拍子を刻みこむ左手。それを耳にしながら僕の右手は、ナチュラルターンで軽快なステップを踏み、澄んだパープルのラインを滑らかに紡ぎだした。
跳ねて、跳ねて、跳ねて、廻る。青から紫へ、紫から赤へ、赤からもう一度青へ。飛び跳ねるたびに、スポットライトの色が少しずつ変化した。一人だけのオンステージだ。そうしておいて、もう一度同じステップを踏む。だけど二回目のステップは、一回目よりもノってきて。周りに振りまく色もやっぱり、どんどんカラフルになっていく。
一旦ステップを止めたかと思いきや、今度は小さな連続のターン。くるくるくるくるくるくると、三拍子の回転が三回続く。機械じかけの人形のように軽やかに廻る。そして、今度は歩幅を広く、派手に明るく華やかに、贅沢に鍵盤を使ってターンする。当然、指が絡まりそうになる。自分で自分の足を踏みそうになる。何度も何度も、こけそうになる。だけど。心から溢れるパッションを、指先に乗せて僕の右手は踊り狂う。
落ち着いたら、再びの旋律。もう一度、踊る。滑らかに、しなやかに、気持ちをなだめて、躍動する。
それを終えると、曲調がガラリと変わる。同じワルツは変わらない、だけど一転パステルカラーのステージライト。三拍子の刻むリズムもどこか柔らかい。それに合わせて伸びのあるメロディー。つかの間の甘い時間。だけどこれは嵐の前の静けさだ。
静穏な日差しもほどほどに、ステージは戦慄する。再び暗転、右手のストリングスの鳴り響く中、今までリズムを刻んでいた左手が、低音から高音へ、舞台中央へと躍り出る。傾斜のきつい階段を、狂おしい旋律で駆け上る。
だが、嵐はすぐに通り過ぎるもの。風が収まったかと思えば、再び淡い光が戻り、誰にも邪魔されず右手は伸びやかに踊った。まるで、何かを抱きしめるかのように包み込む。左手の分散和音と、抱きしめ合う。
そうして、Hからのホ短調に回帰する。しかし再会の踊りは長くは続かない。何故なら、もうそこには幕を下ろす準備があるからだ。僕もそれに気づく、知っている。だから、フィナーレの準備をする。
終わる。
とにかく、たぎるような情炎で、右手も左手も、白と黒の宇宙を端から端まで駆けまわる。下から上へ、夕闇に向かってステップを踏んだかと思えば、音の粒が流星群のように上から下に駆け下りる。
終わってしまう。
こんなにも音楽を惜しいを感じたのは、いつ以来だろう。
ああ、廻る、廻る、廻る。床に打ち付けるステップの音は、次第に強まっていく。
フィナーレなんだ。
右手で、ホ短調のアルペジオをかき鳴らす。
直後に、ドミナント、トニック。
ダメ押しに、もう一度ドミナント。
スポットライトを全て集めて。
僕は最後のステップを全力で。
「……っ!」
弾き切った。
ペダルを外した後の余韻の響きに耳を傾けつつ、両腕をだらんと垂らして、僕は天井を仰ぎみた。少し年代物のファンが、空調があるにもかかわらず健気にくるくると回っている。何も考えられずに、しばらくただそれを眺めた。
なんだ、弾けるじゃないか。
ミスタッチもあったし、指が回っていないところばかりだったけれど。
全然納得のいく演奏なんかじゃなかったけど。
でも。
花火。
僕、ピアノ弾けたよ。
「……すごい」
それは多分、羽月の声だったのだろう。そしてその後に聞こえた溜息はきっと、凛さんのものだったに違いない。それと同時に、二人分の拍手が部屋にこだました。
いつの間にか視界に靄がかかったみたいで、目が熱かった。顔を下ろせば、きっと何かが溢れ出るだろうことは明白だった。だから、そのまま僕は言う。
「羽月。自分がしたいことをする、そういう選択を、恐れちゃダメだ」
今くらい、僕の言葉にも説得力があるだろう。
それくらいのエネルギーなら、彼女に与えられたはずだから。
「自分の幸せを願う人を、そういう人を幸せにしたいなら、手っ取り早く幸せになってしまえばいい。だからさ、羽月。いるはずだ、一番君の幸せを願っている人が、君のそばには二人――」
「二人……?」
「君の、お父さんと、お母さんだよ」
「!」
だから、羽月、君に不幸せになる権利なんてない。
だって、それは君を愛すみんなを不幸せにしてしまうまうから。
「それと、もう一人」
「……」
「花火のために」
あいつもきっと、君が不幸になることなんか望んじゃいない。
「それから、最後に」
そして、何より。
「僕も、君のこと――」
これで、いいかな。
まあ、上出来なほうだろう。
羽月のピアノを聞いて、それに刺激されて。それでもまだ足りなくて、花火のピアノにも後押しされて。静先生や、凛さんに散々助けてもらって。
僕は、もらいっぱなしだった。
これで、少しは返せたのかな。
きちんと、手を差し伸べられたのかな。
わからないけれど。
「あ……」
眼の前が真っ白になってきた。
なんでだろう。
もう、なんででもいいや。
ワルツ、楽しかったし。
「え、英波君?」
「お、おい安倍君、大丈夫か!」
羽月、ピアノ続けてくれるかな。
「英波君、英波君っ」
そうだ、一回羽月と一緒に、ピアノ弾いてみたいなあ。
「――、――――!」
弾いてくれるかな? きっと笑顔で、はいって言ってくれるだろうな。楽しみだな。
「――!」
ああ。
……このまま、さよならは嫌だなあ。
そうして、僕の意識は暗転した。