死ぬしかねえ死ぬしかねえ死ぬしかねえ、と三度呟くと本当に死ぬよりほかないような気がしてきたので、顔面、朱に塗って全裸、ケツにキュウリさして梁にロープかけてぶらぶら揺れるわっかを見てると無性に涙、溢れて、ひぐひぐと嗚咽が止まらない。だけど思考はといえばなにも考えていなくて考えることができなくてまとまらないバラバラの意識はくるくる回る粒子みたいに妙な手触りを持ってそれが無性に辛い夜は死ぬしかねえ死ぬしかねえ死ぬしかねえ、でもこれさえ乗り切れば明日の朝になればきっと幸せな世界が待っているはずだなんて考えてみても病んで凍えた脳髄は馬鹿みたいに死ぬしかねえ死ぬしかねえ死ぬしかねえ、鬱真っ盛りの月曜は月があの眼球みたいな月が高く高く昇ってわたしを見下してくるのでどうしようもない。
にゃあ。
ひざのうえ、クロが鳴く。黄金色の左目がわたしを見ている。それは月に似ている。思わず潰してしまいたくなる。フォークを握る。手に汗をかいている。すべる。上手く握れない。てのひら、ももになすりつけて、どうにか乾かそうとする。
にゃあ。
クロが再度鳴いて、ようやくわたし、ハッとする。あんまり恐ろしくて、からだひるがえし、ケツ丸出しで逃げだしてしまった。
死ぬしかねえ。
布団かぶってひたすら耐えるが零れる意識は死ぬしかねえ。楽しいことを思い出そうと必死にあたま、回転させて、溢れる記憶は死ぬしかねえ。
死ぬしかねえ。
暗闇の中、自己同一性がバラバラに解体されていく。屠殺工場で解体されていく。ひどく手際のいい、オートメーション化された工場は豚が管理している。ぶひぶひ、キミ達の脳髄は我々が飼育しているぶひ。せめて上質な美味い脳髄を作り出すぶひね。キミの脳髄は一等級ぶひ、これは金持ちに売れるぶひ。おや、キミのはダメダメぶひね。廃棄ぶひ、廃棄ぶひ、ぶひぶひ。
臭えんだよ、その鼻息、臭えんだよ。てめえ、こら、豚、おい。
豚の肥大した鼻の穴の奧底、塗りつぶされた漆黒は夜空だ。そこには月が輝いて、ぎらぎらわたしを見つめている。わたしの脳髄を見つめている。ぶひぶひ。キミは人間かい? それともロボットかい? まったく、こりゃあ脳髄とすら呼べないぶひね。自らの存在価値とか、考えたことってあるぶひ?
てめえ、いい加減ぶっ殺すぞ(笑) 気がつけば、右手にはナイフ。月光を反射してぎんぎらぎんぎら輝いている。研ぎ澄まされて高く澄み渡ったその物体は、わたしのてのひらによく馴染んだ。振り上げて、振り下ろして、軌跡は迷いのない直線。まっすぐ落ちて、ぐさり、まっかな血液をまき散らした豚の眼球をよく見てみればそれは豚のものではなくまさしく人間のもので襲いかかるデジャヴはこんな綺麗な月夜の底の教室で立ち尽くすわたしと立つこともできない誰かのイメージが三角形の万華鏡できらきらときらめいて見とれるわたしの脳髄にうつった影は赤い血の色をしていた。
今刺し殺したのは誰なんだ? 下を見る勇気はないので、わたし、ひたすら月を見あげている。月にはウサギがいる、と誰かが言っていた。けれど、現在、現実、この世界のお月さまには豚がいて、ぶひぶひぶひぶひ臭い息を吐き出している。
ぶひぶひ、ここで一句。『痩せ蛙負けるな藤田死ぬしかねえ』……おそまつさまでした。ぶひ。
ぺこり、おじぎする豚のにやついた笑いに腹がたってしかたがないのだ。だってだってしかたがないのだ。泣いた。わたし、泣いた。ぽろぽろ涙あふれた。泣いてどうにかなるのか。否。しかし、泣かないとどうにかなりそうだ。胸が詰まった。一瞬間が開いて、嘔吐。吐いてげろげろとわたし。ゆかに儚くぶちまけた物質は一切にしらじらと無関心で、まるでこの世界そのものみたい。吐瀉物。ほんのり赤い。ほんわか臭い。ほんとうに、どうしようも、ない。
とりあえず口をすすぐことにする。立ち上がって、ふらふら、台所までたどり着いて、じゃあじゃあ、じゃあじゃあ、嫌な音がひびく。水を口に含んで、それから、びしゃびしゃと力なく吐き出した。
がちゃり。ふいに音がして、ドアが開いた。
「へーい、藤田、……どうしたよ、これ」
「へーい、加賀。飲み過ぎたよう」
とっさに嘘、とうぜん見抜かれて、でも加賀はそれを口にしない。いいやつだから。わりと。
「この酔っぱらいめ。ほら、いろいろ片づけておいてやるから、きみはそこで寝てなさい」
「あざますあざます。超感謝。加賀だいすき。結婚してくれ」
「いいけど、藤田、判子もってる?」
「持ってないけど? なんで?」
「判子ねえと婚姻届だせねえぞ」
「ま、まじか。がびーん!」
「だからがびーん言うなって」
なんて無駄話をしながら加賀は、わたしの素敵なげろげろを片づけてくれる。くれるんだよ。ねえ。
布団をかぶりながら、わたし、加賀のちょこちょこと動く姿をじっと見ていた。
「つうか、せっかく一緒にメシ食い行こうと思って来たのに」
加賀の声の残念そうな色合いが、わたしの心を切なくさせる。
「あした!」
と、ふいの声は大きく響いて。
「また、あした、行こう」
ばつが悪くて、ちいさくなった声。目ん玉まんまるに驚いていた加賀は、ふっと笑って、
「いいよ」
と、言った。
「じゃ、じゃあさ、焼き肉。焼き肉行こう」
「焼き肉? なんで?」
「なんだかひどく豚を食べたい。食い散らかしたい。そんな気分なのです」
「へぇ、豚ねえ……」
と、加賀は不思議そうな顔つきをしながら、
「ま、いいよ。行こうぜ。藤田のおごりな」
「そ、それはちょっと無理かなー」
「無理ってこたあないだろー。私そんなに食べない方だし」
「いやあ、今月ちょっとピンチというか。残金一万切ってるというか」
「い、いちまん……。藤田さん、今月があとどれだけ残ってるのか、知ってます?」
「し、知らない。知ってるけど知らない。知りたくない……」
「つうか、そんなんで焼き肉行けるのか。具体的にいくら残ってんの?」
「さ、」
「……さ?」
「さんぜんさんびゃくごじゅうに円……っす」
ほわほわとかんまんなちんもくがながれる。ひっそり、ひんやり、しいん。
「緩慢こ! 緩慢こ!」
気まずくてわたし、とっておきのギャグぶちかました二連続は、あっさり空振りのツーストライクノーボール。追い込まれる。崖っぷちぎりぎりのがぶり寄りは、切ない夕暮れのメロディーだった。意味なし。
「藤田」
と、加賀は冷静な口ぶりで言った。
「仕方がないから、明日は焼き肉おごってやるから」
「あざますあざます。さすがは加賀ちんやでえ!」
「ただし」
つぶやいた一言、絶対零度。芯までひんやり、おてがるクール。ぱいずり、ぱいずり。
「来月には全部返してよ」
「もちろんさ!」
と、水素よりもずっとずっと軽い言葉吐いて、けれど加賀は慣れたもんだ、眉根ひとつ変えやがらない。
「絶対だからね」
「う、……うん」
「返せなかったらどうする?」
「か、身体で払う」
ぱいずり、ぱいずり。と、おずおず仕草つければ、うん、うなずいた加賀、なぜか嬉しそうな顔で。
「よし、じゃ、そういうことで。今日は酒飲んで寝るべ」
「さ、酒! 飲むべ飲むべ。つうか、きみ、明日仕事だべ? 酒飲んで大丈夫だべ?」
「ま、まあ、ほどほどにしておくよ。ほどほどにね。あはは」
笑って。
「じゃ、ちょっくら買ってくるから。待ってれ」
「いえす、さあ」
がちゃり。ドアが閉まった。
ふいに誰もいなくなった部屋で、加賀はやっぱりいいやつだなあ、と、ぼんやり思った。わりと。だけど、ね。
○
それから、帰ってきた加賀とふたりで飲んで、加賀はやっぱり飲みまくって、これは絶対に明日やばいなあ、と思ったけど、あえて口に出さないでいたらげろり、今度はあっちが吐きやがってまだ酔いの抜けてない身体でわたし、あいつのゲロを片づけてやった。
「うっへっへ、藤田、脱げよ、こら脱げよ、へいへーい」
「ままま、まて加賀、血迷うんじゃねえ。せめてこのゲロはぞうきんでふかせろ」
「ぐへ、ぐへぐへぐへ、……お、おえっぐ、おおおおおお」
げろり。
「あ、お前バカ! このバカ! もう寝てろよお前、つうか寝てくださいお前」
「はいはい、おやすみおやすみ、おやすみなさーい」
「おいてめえ、それはわたしの布団だ! 入りたいんなら口すすげ口を!」
「えー。めんどーいー」
「めんどくないから。スタンダップ! へい、立ち上がれ、加賀!」
「ぐー。ぐー。……寝てます」
「そういう小学生みたいなこといいから。ちょっとお口くちゅくちゅするだけだから、お願いだから立っておくれよう、加賀」
なんというか、そういう感じだった。
○
その後、なんとか加賀に口をすすがせ、ふたり、布団に潜りこんでいる。せなかあわせ。加賀の体温はひだまりのように暖かくて、なんだか無性に泣きたくなった。
にゃあ。
クロがうらやましげに布団を睨んでいるので、中に入れてやる。
にゃあ。
ぐるりとまるまったのをそっと抱きしめると、これもやっぱり暖かいのだ。血液のさらさらと流れる小川のような音を、夜の底に聞いた。
死ぬしかねえ。
呟くと、ふしぎと涙が溢れて溢れてしかたがない。ひぐ。漏れる嗚咽を噛みしめてこらえる。枕を濡らす液体がひどく愛おしかった。そんな自分に気がついて、わたし、また泣いた。ひぐ。
○
翌日、仕事から帰ってきた加賀と焼き肉に行った。美味しかった。豚トロ、カルビ、肩ロースいぇいいぇい。
――いぇいいぇい。