そんな事を考えているうちにノックの音がした。木曽先輩が扉を開けにいった。また男子高校生がカモになってしまうのだろうか。
しかし扉の先には思いがけない人がいた。その人は昨日俺の情動を激しく突き動かした人だった。
彼女と俺は目を合わせた。思わぬところで会って、二人とも少々狼狽していたので沈黙を続けた。その様子を見て、木曽部長は
「なになに、二人は知り合いなの」
と声をかけてきた。俺は弱く頷いた。友人とはとても言えないが、一応知り合いと言えば知り合いだろう。そしてこう言った。
「クラスメイトですよ。まだ、お互いに名前も知りませんが……。」
すると彼女から意外な返答が帰ってきた。
「私は君の名前を知ってます。夢川新一って言うんですよね。私の名前は名和春香です。よろしくお願いします」
俺は戸惑いながらも頷いた。彼女は俺の反応を見て微笑した。俺は何故彼女が俺の名前を知っていたのかと思案した。これはもしかしてと、希望的観測も広がる。
だが、部長はそんな事はおかまいも無しに勧誘にはしり始めた。
「名和さん、文芸部に入りにきたんだよね。さっそくこの書類を」
俺は部長の言葉を制して、彼女から離れさせ耳元でささやいた。
「あなたは、こんなか弱い乙女からも金を搾り取る気なんですか。この人でなしの悪魔め」
「別に彼女は私目当てで来たわけじゃないから、本当に文芸部に入りたいんでしょう。何の問題もないじゃない。立派な部員にさせてみせるんだから」
俺は憤慨した。
「そっちのほうがひどいじゃないですか。文学少女に何を吹き込むつもりですか。純粋な乙女をあなたみたいなろくでなしのオタクに仕立て上げるのはやめてください」
この俺の失言には部長も怒ったようだった。部長は名和さんがいることも忘れて大声で怒鳴った。
「あんたねえ。言い方ってものがあるでしょう」
そんな俺たちの険悪な雰囲気を見て名和さんは心配そうに小声で声をかけてきた。
「あの、私何かまずい事でもしたでしょうか」
俺は彼女の細やかな気遣いに感謝しつつ、さわやかに返答した。
「いや、そんな事はありませんよ。ただ、しかし部長がちょっとね。名和さんは文学が好きで文芸部に来たんですよね。それなのに」
彼女がきょとんとした顔をして俺のほうを眺めている事に気づいた俺はその行動の意味が理解できなかった。すると彼女はとんでもない事を言い出した。
「えっ。この学校の文芸部というものは漫画を描いたり、読んだりするところではないのですか」
一瞬俺は、自分の聴覚を疑った。次は脳を疑った。部長がにたにたと笑うのを見ながら俺はわなわなと体を震わせていた。
その後、彼女と部長はしばらくの間、漫画やアニメについて語り続けた。名和さんは実に生き生きと喋っていた。
世の中の知識には知って得するものと、損するものがある。この場合は明らかに後者だろう。俺は記憶からこの忌まわしい事実を消し去ろうと暫し努力したが無駄だった。勉強で覚えたいことはなかなか覚えられないのに、思い出したくないものほど覚えてしまうのは記憶のアイロニーだろう。
名和さんが出て行ったあとも俺は呆然として椅子に座りながら部室に残っていた。
部長が図々しくも隣に座ってきて言った。
「意外だったかな。名和はとてもオタクには見えないからね」
俺は部長に尋ねた。
「知ってたんですか。どうしてですか」
「何となくね。勘で分かったの。それで君はそろそろ出て行ったらどう。どうせ辞めるんだし」
俺は暫時黙っていた。が、しかし考えているうちに、俺の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっきまで、この俺には欠けていた勇気である。俺は、辞めるか辞めないかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの俺の心情から、辞めるなどという事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。俺は声を絞り出した。
「いいえ、この部活に残りますよ。部室からはもう出て行きますが」
部長は驚いて、理由を尋ねてきた。
「何でしょうかね。やけっぱちとでも言いましょうか。それに、ここには本がたくさんありますし」
俺の返答を聞いて部長は微笑みながら言った。
「おもしろいね。君」声を絞り出した。
「いいえ、残りますよ」
部長は驚いて、理由を尋ねてきた。
「何でしょうかね。やけっぱちとでも言いましょうか。それに、ここには本がたくさんありますし。俺の家にはあんまり本がないんですよ。父親は買った本をすぐ売ってしまうんです。」
俺の返答を聞いて部長は微笑みながら言った。
「おもしろいね。君」
俺は部屋から出て行った。いつの間にかもうずいぶんと暗くなっていた。