02.デイドリーム
なにひとつとして、善いことなんかなかった。
夏休みさえロクでもないのなら、果たしてこの先いいことなんてあるんだろうか、と夏臣は思う。
クーラーのない屋敷の中で障子を開け放ち、畳の上に汗のしみを作り続けた三十日間とすこし。
あまりにも時間があまりすぎてゲームもマンガも楽しむ気になれなかった。なんともったいない時間の浪費。
夏臣はひとつ大切なことを学んだ。時間を無駄にすると妙な麻薬が退廃的な悦楽を与えてくれる。
おかげで『こうなるはずだったぼくのこういちのなつやすみ』が頭の中でフラッシュバックして新学期早々二日酔いに襲われている。
通学路に散らばった学生の集団がきゃあきゃあと夏休みの思い出を語っている。
その会話のなかで、夏休み初日の肝試し大会がすでに懐かしいものと扱われているのを聞いて、夏臣はちょっとしたウラシマ効果を味わった。
もうあれから一月以上も経ったのだ。信じられない。謀られている。俺の夏はどこへいった。
横断歩道で赤信号が変わるのを待ちながら、夏臣は盛大にため息をついた。肩にかけた学生鞄のなかには現実が詰まっている。
夏休みは終わった。
だから、自分ももう少し気持ちを切り替えて、せめてクラスにひとりは話し相手ができるように明るくならなくてはならない。
いつまでも夕方、涼しくなった風に誘われて土手を散歩しているようではダメなのだ。これ以上老け込んだら本当に白髪が生えてしまう。
総白髪になるまで、あの盲目の少女を探し続ける気は夏臣にもない。だから、今朝、顔を洗ってさっぱりした自分の顔に誓ったのだ。
今日、学校を練り歩いて幽が見つからなかったら、もうあのことは忘れてしまおうと。
あの日以来、どの街角にも影さえない幽が、この学校の生徒だという根拠はひとつもない。
そもそも高校に通っているかどうかさえ怪しいものだ。普通の高校ではなく盲学校のような場所に通っているかもしれないし、イタコ養成訓練施設に泊り込みで暮らしていて毎日滝に打たれて心頭滅却している可能性も捨てがたい。
会ってどうするのか。
またあの凶悪な父親の手で流血沙汰の目に遭わされるかもしれない。
それでも、
「おはよう、竜宮」
まず夏臣はこう思った。ああ、俺以外にも竜宮なんてやついるんだ。ひょっとすると遠い親戚かな?
呼びかける声は甘ったるい女子のもので、どう世界がひっくり返ったって自分と縁があるものではない。
袖を引かれて振り向かされて、知らない女の子が小首を傾げているのを目の当たりにしても、夏臣は現実を受け入れられなかった。
「あ、違うよ。俺じゃないよ。人違いだよ」
掴まれた袖を軽く振り払って歩いていってしまう夏臣に、呼びかけた少女はきょとんとしていた。が、すぐにハッと我に返ると小走りに夏臣の背中に駆け寄る。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ! 竜宮夏臣……だよね?」
「はあ」
夏臣はおそるおそる振り返った。
新手のカツアゲか美人局か。勘弁してほしい、自分には夏の暗黒面だけが寄って来るのだろうか。
「あたしのことわかるよね?」
そういって少女は自分の顔を指差した。夏臣は目を細める。
明るい茶髪のセミロングは毛先が外側に跳ねているクセの強いウルフカットで、勝気な顔つきによく似合っている。少し釣り目気味の顔はいま半笑いで、夏臣の答えを待っている。
知らない子だった。
「知らないんだけど」
正直に思ったままを言うと、クセ毛の少女はカチンと固まり、動かなくなった。
目の前で手の平を振っても反応がないので、立ち去ってみた。
ここであっさり置き去りにしてしまうから友達一人できないことにこの少年まったくもって気づく余地なし。
しかしそれでも気にはかかったのか、十歩進んでから肩越しにうしろを見やって、ぎょっとした。
少女が停止したまま泣いていたからだ。
夏臣は真っ青になって四倍速で戻ってきて、
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、なんでそこで泣くんだ? 意味がわかんねえから……」
周りの生徒たちが無視しながらもこちらに興味をそそられているのを感じて、夏臣は咄嗟に少女の手を掴んで通学路からひとつ隣の路地へズレた。あのままではどんな噂が立つかわかったものじゃない。
ぐすっぐすっと鼻をすする少女の言葉は聞き取りづらかったが、「なんで」とか「意味わかんない」などの批判を呟き続けているのがわかると、いよいよ夏臣の胃は猛烈に痛み出した。
なにがなんだか知らないが、自分に非はないと思う。
なにが悲しくて縁もゆかりもない女子をなだめすかしてやらねばならんのだ。サイダーを買って飲ませてやらねばならんのだ。
もしかしてこのアマはいま夏臣から手渡されたサイダーが飲みたくてこんな一芝居を打ったのではなかろうか。この不況で不良少女もずいぶんけち臭くなったものだ。
くそくらえ。
もう愛想笑いや困った顔をするのも嫌気がさして、ぶすっとした仏頂面のまま、夏臣は少女がサイダーを飲み終わり泣き止むのを待った。
ぷはっとクセ毛の少女は最後の一滴まで飲み干すと目元ではなく口元をぬぐった。
「おいしー」
「…………」
「ありがとね。朝から得しちゃった」
にへらっとクセ毛は笑う。夏臣は深く深くため息をついた。
「もういいか? じゃな」
「じゃな、じゃないよ。一緒にいこうよ。同じクラスなんだし」
「同じクラスぅ……?」
夏臣はしげしげとクセ毛の顔を観察したが、記憶のおもちゃ箱をどれだけひっくり返しても思い出せなかった。
制服は確かに見覚えがあるが、その顔はいままで一度も見たことがない。自信があった。
夏臣はどうしようか迷ったが、思い出したと嘘をついても名前がわからない。それになんだか面倒だ。
だから首を振るしかなかった。
「悪い、やっぱり思い出せない。ていうか知らない。誰?」
再びふるふると少女の瞳に涙が盛り上がってきて、夏臣は身体を強張らせたが、今度は少女もぐっと唇を噛み締めてこらえた。
「――――わかった。じゃあ、これで思い出さなかったら諦めて名前を教える」
「ああ、そうしてくれると助かる。悪いな、夏休み丸々会ってないしな。たぶんおまえ以外のやつも忘れて――」
少女は夏臣に一歩近づくと、ぐっと睨みあげてきた。
なんだか叱られそうな気がして夏臣は怯んだ。彼女が幼稚園のときにお世話になった柳田先生に似ていると不意に思ったが、まさかタイムリープしてきたわけでもないだろう。ドラゴンに続いて時間転翔されては夏臣のチャチな脳細胞はシナプス連結をボイコットしかねない。
少女は眉根を寄せた。
「あたしの目を見て」
言われたとおりに覗き込んだ。髪の色に似た蜂蜜色の綺麗な瞳だ。眼球の底に名前が書いてあったら助かったのだが、現実はそううまくはいかない。
夏臣が首を横に振ると、少女は肩を落とした。
「そっか」
「なんか、悪いな。思い出せなくて」
「いいよ。じゃ、改めて自己紹介」
クセ毛の子はそれまでの泣き顔が嘘のようににかっと笑った。
「霧ヶ峰夜鳥っていいますんで。今度は忘れんなよ?」
「霧ヶ峰……」
「あーあ、最初に会ったとき、名字は長いから夜鳥でいいよって言ったのに。また一から調教しなおしかあ」
「調教っておまえな……俺とどんな関係だったんだよ」
「どんなって……」
夜鳥は唇に手を当ててアスファルトをながめていたが、ちらっと夏臣を見上げて、言った。
「彼女、だけど」
突如襲ってきた強烈な一発に夏臣はすくみあがった。
あうあうと口が開閉するが、息が声になってくれず、棒を飲んだように立ち尽くす。
血の気が引いていく夏臣を夜鳥は指差してゲラゲラと笑った。
「うっそー! バカじゃん?」
金縛りが解けたように夏臣の身体ががくっとよろけた。
「てめえなあ……本気でビビッたぞ!」
「いやあ信じるとは思わなんだぜ。竜宮、そんなんじゃあこれから先やっていけないぞお?」
「うっせ。もう知るか。勝手にしろ」
肩を怒らせて歩いていく夏臣に夜鳥は適度な距離を開けてついてくる。
「ちょっとちょっと。悪いのはどっち?」
「俺はおまえなんぞ知らん」
「まだそんなこと言う。よーし、お姉さん泣いちゃうぞ?」
「ふん……」
無視して歩き続けたが、黙り込んだ夜鳥が気になり、無視しなければという気持ちが負けた頃に振り向くと、
「うっ……うっ……」
やはり夜鳥は泣いているのだった。冗談なのかマジなのか人生経験乏しい夏臣には判別できない。完全に頭がバグっていた。
そのとき、夏の熱気と女の涙にめちゃくちゃにされた脳みそに、始業のチャイムが滑り込んできた。
ハッと我に返った夏臣はすぐにカッとして、これぞ天啓とばかりに泣いている夜鳥の手首を掴んだ。
「へっ?」
さらさらと流していた涙をひっこめて、夜鳥が目を見開いた。
「ちょ、なに、竜宮?」
「遅刻する! いくぞ!」
「あ、ちょっ――」
夏臣は力任せに、とにかくこの謎めいた賑やか過ぎる朝を終わらせるために路地から校門へと駆け込んだ。
それは、人から見れば、路地から泣いている女の子を無理やり連れてきた男子生徒に見えて。
夜鳥の服は走った拍子に少し乱れていて。
夏臣の顔は真っ赤で。
校門には、生活指導の大杉がきょとんとした顔で立っていた。
夏臣もきょとんと見返した。
大杉が偽りの真実に達したのが、夏臣には電球の点灯として見えた。
「竜宮ああああぁぁぁぁ――――――!」
「ばっかちっげうわわわわわ――――!」
二学期の始業式。
竜宮夏臣は登校から五分で反省室にぶちこまれた。
霧ヶ峰夜鳥が反省室の扉を開けると、なかからゆでダコになった竜宮夏臣がゴロゴロと転がり出てきた。
無理もない、普段は写真部が入り浸っているこの暗室、反省室としての面もあり外から鍵がかけられる。夏、締め切った暗い屋内で換気もせずにいれば室内はちょっとした電子レンジと化す。小一時間も人を放り込んでおけば熱中症患者の一丁アガリだ。学生の懲罰にしてはなかなかガッツのある人権無視っぷりである。
過剰加熱された夏臣は夜鳥の出ている前で声もなくのた打ち回り、壁新聞が貼ってあるボードの真下にガンと激突した。ぞっとするような鈍い音がし、ぐったりとしてそのまま動かなくなる。
夜鳥はそおっと手を伸ばす。
「だ、大丈夫?」
「み……ず……」
夏臣の口から伸びた舌はカッサカサに乾燥し、目玉は血走っていて傍目には欲求不満の変質者か苦行から逃げ出してきた修行僧のようだった。
夜鳥はよっぽど悲鳴ひとつ残してこの場をバックレてしまおうかと思ったのだが、さすがに何の手当てもしてやらないのは哀れすぎた。一寸の虫にも五分の魂。
外跳ね気味の髪を指に巻きつけて、視線を合わせないように弁解する。
「あーあーあー、ごめんって。冗談のつもりだったんだけど、大杉が本気にするからさあ……ほら、外いこ? 水飲まないとホントにやばそ、」
夜鳥の言葉は、夏臣の手を取った瞬間に途絶えた。べっとりと汗をかいた皮膚、夜鳥の手に汗がはりつくと、すぐに乾いて……
「気持ち悪っ!」
パァン、と夜鳥は夏臣の手を払ってスカートにいま触ったものの残滓をなすりつけた。その顔はいまにも泣きそうなほどだ。
「うっわぁ、ちょっと、ひどいひどいひどい、こんな粘っこい汗見たことないよ! ひゃあ~~~~~~~、なに食べたこんな汗出るの? 人間じゃなくね? だってこれ、ああ、幼稚園の頃にナメクジを触ってしまったときのほろ苦い思い出が……うぎゃあああああ!」
ひとり夜鳥は錯乱して喚いている。
お気づきだろうが、夏臣はとっくのとうにカッときていた。
痴漢呼ばわりして体育教師に身柄を引き渡されたのは許そう。ちょっとした冗談がちょっとした笑えないことになる。よくあることだ。小一時間も暗い狭い部屋で意識断絶と格闘させられたこと。許そう。それは反省室に暗室を用いるという軍隊真っ青の制度を採用したいつかの校長が気狂いだけだった。許そう。だが、
ナメクジみたい? 何食って生きてる? 人間じゃない?
いいだろう。
全面戦争勃発だ。
「このクソアマが―――――――――――――――!!!!!」
「わあ――――ごめんごめんごめん、ぎゃあああああああ!!!」
一目散に逃げ出した夜鳥を夏臣は目をギラつかせて追いかけた。猫背にあいまって両手を掲げているものだから完全にゾンビだ。他人が見たらフザけているとしか思えないだろうが、夏臣の理性は暗室の闇と熱気が食い殺してしまった。
幸い暗室の鍵はたったいま夜鳥が開けてくれたばかりだ。ちょうどいい、フタをして帰ろうじゃないか。
明日の朝には暗室前には一晩寝かせた美味しい女子高生のいいにおいが充満していることだろう。
夏臣は夜鳥が飛び越えた窓の熱した桟を掴んだ。火傷しそうな熱さ。関係ない。
熱気すさまじい外に窓から飛び出た夜鳥は、ごくっと生唾を飲み込んでうしろを振り返った。
願わくばあの脳みそを暗室の畳に零してきたと思しき馬鹿が、太陽光を浴びた瞬間に最後の気力を失ってぶっ倒れてくれたらどんなにいいだろう。
そうしたら夜鳥も反省する。もうあんまりふざけてシャレにならない冗談をやらないと誓う。うちの冷蔵庫の中に眠っているアイス三本くれてやってもいい。
ゆらり、と。
夏臣は血走った目で校庭に出てきた。出てきてしまった。追い詰められた。夜鳥が校庭を走っても夏臣といえども男子の一人。すぐに捕まってしまうだろう。
「夜鳥ぃ……」
「ひっ……た、竜宮くん? 声が変だよ、な、な、夏風邪かもしれないね! 早く家に帰ったほうがお互いのためだと……」
時間稼ぎの無駄口が奏した。後ずさった夜鳥の腰がドンと何かにつっかえた。見ると蛇口と、そこからホースが伸びている。僥倖もいいところ。
夜鳥はにやっと笑った。
「そんなに水が欲しいなら……くれてやるっての!」
まっすぐに構えたホースから水鉄砲が一直線に夏臣の顔を直撃した。
「ぶぼっ!」
「あはは、喰らえ喰らえ!」
「ちょ、やめ、ぶふッ」
夏臣の顔は水流でモザイクがかかったようだ。必死に手で抵抗するがそんなものは先端を潰したホースから出る水のパワーに到底及ぶわけがない。
すっかり夏臣を水浸しにすると、夜鳥は蛇口をきゅっと締めた。ホースからちょろちょろと残り水がコンクリートに点々と染みを作る。
「はっはっはっ、わかったかね、このあたしに逆らうとどうなるか」
「…………」
夏臣はもう乾きを訴えることはなかったけれど、ぐっしょりと頭から上履きまで濡れていた。ぽたぽたと水滴を零す前髪の隙間から、恨みがましそうな目が光っている。
「な、なんだよう」
「…………」
「い、いきなり襲いかかってくるのが悪いんだよ」
「…………」
「それに、びっしょびしょだけど、そんなのこの暑さじゃすぐに乾くと……思う、し……」
「…………」
「……あー」
やんなきゃよかった。
夜鳥はだんだんイライラしてきた。言いたいことがあるならハッキリ言えばいいのに、夏臣は、呆れたような目をしてこっちを見てくるだけ。なんなのだ。急に冷められても反応に困る。
もぐもぐと言い訳を連ねる夜鳥に、とうとう夏臣が背を向けてしまった。あ、と思ったが、すたすたと夏臣は歩いていってしまう。ワイシャツが遠くなる。
もうヤケだ。
「にゃああああああああああああああああああああああ!」
途端、夜鳥がネズミも逃げ出す大きな奇声をあげたので、夏臣は何事かと振り返った。校庭で練習していた野球部の連中も何事かと注目してくるなかで、夜鳥は手にしたホースから流れ出る水を頭から被った。一人だけの大雨を喰らって、癖毛もへなりと元気をなくしてしまった。
水が止まる。
ずぶ濡れになった夜鳥は水が滴るホースを片手に俯いている。夏臣はドキっとした。さっきのことが頭をよぎった。
「お、おい」
心配げな夏臣の声に、夜鳥は前髪をかきあげた。きらきらと水飛沫が玉になって飛び散る。
そして輝くような笑顔を見せて、言った。
「これでおあいこ。許せよな?」
けらけら笑っている夜鳥に夏臣ははぁーと深いため息をついた。全身から力が抜けて、なんだかなにもかもどうでもよくなってしまった。
「バーカ」
太陽が空気を焼いて夏のにおいが満ち、点々と零れた水溜りが空を映して広がっていく。
夏だった。
「歌方幽?」
夜鳥はタオルでガシガシと髪の毛を拭きながら問い返した。
ちなみにそのタオルは二人の惨状をにやにやしながら見ていた野球部のマネージャーたちから夜鳥が徴収してきたものである。
女子たちに片手を突き出して、ハイ見物代、と言って譲らない夜鳥の逞しさにマネージャーたちも、うしろで見ていた夏臣さえも呆れ返った。いつの時代でもタフなやつはいるものである。
「ああ、その、夏休みの初日に会ったんだけど、そいつチョーカー落としていったんだよ。鈴がついててさ、それを鳴らして周りになにがあるか音の反響でわかるんだと。それなかったら困るだろうと思って」
我ながらよくできた嘘だと夏臣は満足し、ふんと鼻息を荒くした。まさか龍に乗って高度百三十メートルから直滑降して気絶したなんて言えるわけがない。この器量をもってして将来は探偵でもやってみようか。
夜鳥はふうんと相槌を打ってから、さらりと答えた。
「届ければ?」
「は?」
「警察に」
こうして夏臣の嘘は一瞬で瓦解した。
まさに正論である。落し物を拾いました、そうですか、交番に持って行きましょう。
幼稚園児だって挙げた手をぶんぶん振って元気に答えられる簡単な問題だ。
いやそれは……ともごもごしだした夏臣を見て、最初は不思議そうにしていた夜鳥だったが、次第にその顔にニンマリと悪意が広がっていった。
「うっわぁ好きなんだ、そいつのこと。青いねえ」
「いや……」と否定しかけてから、もう面倒くさいのでそういうことでいいか、と夏臣は考え直した。
頬をぽりぽりかいてそっぽを向く。これで完璧に恋する男子の出来上がりだ。さわやかさわやか。
「うっわキモッ! なにその顔……草食ってる牛みたい」
こいつの頭の中には言葉にかけられる類のものがなにもないのだろうか。在庫切れだろうか。
夏臣はぐったりと肩を落とした。一年間分の体力を会って数時間でこの夜鳥にもっていかれた気がする。
「俺のことはいいんだよ。で、どうなんだよ。知ってんのか、知らねえのか」
「知ってる」
あっさりと聞きたい答えが返ってきたので、夏臣は一瞬止まった。
「……ホントか?」
夜鳥のことだからまたなにかつまらない冗談かもしれない。目を細めて夜鳥を睨むが、なにが面白いのかへらへら笑っているばかり。
「ホントホント。目が見えないってのと、歌方って名字だったらたぶんあいつ」
「この学校にいるのか?」
「知らないの? 特別学級あるじゃん、うち。白いブレザー、見たことない?」
「そうなのか?」
「はあー。嘆かわしいねえ。まあ保健室の二つ隣だし、竜宮みたいに話し相手もいないと知らないまま二学期を迎えちゃうんだねえ。かわいそ。かわうそ」
夏臣は素晴らしいスルースキルを発揮した。
「歌方はそこにいるんだな」
「うん。たぶんね。でも人違いかもよ?」
「髪が長くって肌が青白い幽霊みたいなやつだよ」
「ふうん。あ、」
夜鳥が口をまん丸にした。
「なんだよ」
「あれじゃないの?」と、夜鳥はゲタ箱の方を指差した。振り返る。
長い髪の切れ端が、ちょうど校舎の中へと消えていくところだった。
「幽」
「あ、ちょっと竜宮――――ぁ」
夜鳥の声が遠のいていく。構わずに夏臣は駆け出した。足を踏み込むたびに水を吸った上履きがぐちゅぐちゅいって気色悪いのも気にならない。
ちりん、ちりん。
あの音がする。
開かれた玄関口から校舎に飛び込んだ。
始業式を終えて生徒は部活にいったか下校したか、人気はなく、夏臣は何をはばかることもなく鈴の音に向かって突進した。
涼やかな音は誘うように下駄箱から伸びた廊下をこだましている。走った。
べつに会ってどうしたいというわけでもない。話の中だけのチョーカーも手元にはない。
恨んでいるわけでもない。差し歯はまだ口に馴染まずに鈍く痛むが彼女が悪いわけでもない。
なにかが夏臣を突き動かしていた。
野暮ったい言葉で簡単に説明してしまうのは確かにわかりやすい。あんな風に出会えば心惹かれない方がどうかしていた。
だが、それだけではなかった。甲虫が罠だと知りつついつの間にか木に塗られていた樹液に群がるように、羽虫が酔ったようにふらふらと火に吸い寄せられるように。
夏臣は走った。
廊下の端、一年一組の教室の引き戸をバウンドして元通りに閉まるくらいに引きあけて中に飛び込んだ。誰もいない。誰かが締め忘れた窓のそばでカーテンがひらひらとはためいている。
ちりん――
今度は廊下からだ。足元もよく見ないで駆け出し、誰かのジャージ袋やコンセントに差しっ放しの充電器を蹴り飛ばしながら荒々しく廊下に出た。
誰もいない。
まっすぐな廊下、まっすぐな長方形にマヌケな人型の夏臣が取り残されている。
ちりん。また鈴。今度は二組の中から。
夏臣は教室に飛び込む。誰もいない。また鈴の音。カッとした。
邪魔な机を蹴倒して机の中身がぶちまけられる。知ったことじゃない。廊下に飛び出す。誰もいない。また鈴の音が。
空き箱のような教室と廊下を夏臣はジグザグに駆け抜けた。
ただ刃を打ち鳴らすような綺麗な音に惹かれて。
ようやっと中から鈴の音がした一年七組の教室の引き戸に手をかけたところで、ハタと気がついた。俺は馬鹿だ。なにを律儀に幽の通ったとおりに追いかけているんだ。中にいるのが確実なら、前の戸から回りこんでしまえばいいだけ。
三歩で距離を零にして、夏臣は黒板側の引き戸を開けた。
みゃおう。
夏臣はゆっくり息を吸って、考える。他の要素はないか。整理してみよう。窓際のストーブの上、猫がいる。毛の柄はブチ。のんきに前足で毛づくろいなんかしている。まぬけな人間なんかに捕まるなんぞ露ほども考えていないらしい。立派なものだ。けれどきっと飼い主にはもう少し甘えた顔もするのだろう。でなければ首に鈴などつけたまま、この傲岸不遜な猫様があくびなんぞしているわけがない。
首輪に鈴。
みゃおう。
ブチ猫はまた一声鳴くと、開いた窓からひょいっと校庭に出て行った。
ちりんちりん。
夏臣は窓から首を出して、しばらく猫の行方を追っていた。いまさらになって心臓が痛いほど早鐘を打っていたことに気づいた。足は急なトップギアに処理落ちを起こしてガタガタしている。
雨雲にだってなれそうな、大きな大きなため息が出た。
「猫、かよ――」
「逃げられちゃったねえ」
「ああ」
「兄さん、滅多に人を近づけないからなあ」
「…………………………………………あ?」
窓枠に肘を乗せたまま、夏臣は振り返った。
そこには思わず心配になるほど肌が白くて、流れる墨を固めたような黒髪の、小柄で儚い幽霊のような少女が目を瞑って笑っていた。
歌方幽がそこにいた。
声が出ない。これは熱にやられた俺が見る、夢か幻なんじゃないだろうか。差し歯を舌で軽く押してみる。ずき、と痛む。
痛みのある夢もあるのかもしれない。
「兄さんになにか用があったの?」
「にいさん――?」
かろうじて質問らしき言葉が口から転がり出た。夏臣の眼が馬鹿になっていなければ、幽は猫には見えない。
猫なのかもしれない。
幽はしゃがみ込んだ夏臣の上から窓から身を乗り出し、くんくんと鼻をひくつかせる。
どうやら自分が夏臣の後頭部に何を当てているのかわかっていないらしかった。夏臣の血圧がどんどん跳ね上がっていく。
「あの子、用務員さんが飼ってる猫らしいんだけど、生意気で偉そうだから兄さん。購買のパンとか絶対あげても食べないよ。たまーに自分で獲ったネズミをくわえながらのしのし歩いてる」
「みえるのか」
夏臣は思考停止したまま喋っているので声に抑揚がまったくない。音声再生ソフトの方がまだ暖かみがある。失望してすぐに希望が叶うと人間は深刻な動作不良に陥るらしい。
「見えないけど、前にわたしにネズミくれたことあるから。なんだろーって触ってたらね、いずみちゃんがそれはネズミです! って叫んじゃってさー。もー大騒ぎ。べつに死んでるんだから大したことないのにねえ」
「そうか」
「そうなの。だから用務員さん以外にはあんまり懐かないし、男子嫌いだから夏臣が捕まえても飼えないよ。残念だったね」
「ああ。……ああ?」
幽は夏臣から身体を離して、
「え? ゲットしようとしてたんじゃないの? あんな大慌てで走り回ってたから、てっきりそうかと」
「ああ――」
夏臣は身体を返して幽と向かい合った。幽は福耳をいじって、
「夏臣の声って目立つんだよね。耳に残るっていうか、振動数が多いっていうか。でもびっくりしたよねーおんなじ学校だったなんてね? どう? 夏休みエンジョイできた?」
「………………………………」
「夏臣?」
猫の話なんてしにきたのではなかった。
夏臣はじっと幽の顔を見つめる。すると不思議なことに、幽は居心地が悪そうにもじもじするのだった。視線には微弱ながらも力があるらしい。
「なに? あ、そういえばこないだはごめんね。うちの父さん血の気が多いからさあ。怪我しなかった?」
「してない」
咄嗟に嘘をついた。ようやく脳細胞の回転数が一定数に達した。自分が歯を折ったことは事実だが、それをわざわざ教えることはない。
気を利かせたつもりだったが、幽は驚きのあまり眼を丸く見開いた。
不意打ちだった。なすすべもなく吸い込まれてしまいそうになる。
一月ぶりに見る、溶けたような碧い眼……。
「夏臣、怪我したの!? 大丈夫!?」
「…………。そんなこといってない」
「声でわかるんだよ。いつもより引きつった感じだから。うわあ、どんな怪我? 病院いった? ごめんね……あの、医療費とかかかってたんならちゃんと払うから……」
しゅうんと幽は肩を落として沈み込んでしまう。俯くと前髪が顔を覆い隠し、夏臣は手を伸ばしてそれをかきあげてしまおうとするのを必死にこらえた。
「そんなことはどうでもいいよ」
大した怪我じゃないとは言っていないから、嘘には聞こえないだろう。それにしても声質を耳にするだけで嘘を見破れるとは……背筋を嫌な冷気が走った。生き物としての本能的な恐怖、とでもいうような。
それを振り払うように、夏臣は言った。
「俺、おまえを探して――」
「え?」
「――た、んだよ」
こんな恥ずかしいセリフをハッキリ喋れるやつがいたらどうかしていると夏臣は思う。尻すぼみに声が消えていってしまった。恥じ入っていることは幽には筒抜けだったろう。
「それって――」
ごくり、と二人分の生唾を飲み下す音。そして、
「――お、お礼参り?」
すぱぁん、と。
夏臣の平手が幽の頭を髪が浮き上がるほどひっぱたいた。
「いっ――――たぁ!」
「そんなんじゃないっ! 俺は――――」
俺は、なんなんだろう。
いったい、何がしたくてこんなに駆けずり回ったのだろう。
幽は次の言葉を待っている。夏臣の声を聞き逃すまいと、耳をそばだててじっとしている。
幽は夏臣より頭ひとつ背が低い。眼を瞑って見上げられていると、まるで――
咄嗟に口走っていた。
「俺、もう一度、あの龍に乗りたい」
言葉にしてみると意外としっくりきた。
言ってしまった以上ひっこみはつかない。どんな返事が戻ってくるかわからないが、一歩も譲るつもりはない。
幽はぴしっと音がするくらいに固まっている。揺さぶってもデコピンしてもまったく反応がない。
夏臣が特大のデコピンを放とうと構えると、
「ハマった?」
「へ?」
幽は目の前にあったデコピン砲を両手でガシッと掴み、
「わかる、わかるよ夏臣くん。わたしには君の気持ちが手に取るように杖で叩きまくったようによくわかる。そうか、そうだよね、そんな気持ちで一夏過ごしたんだったらどうかしちゃうよね」
「は?」
「鞍に座ってるときの龍のうねり、」
「えーと」
「手綱に伝わってくるあの子の呼吸、」
「あの、幽さん、手が、俺の手が」
「噛みつきたくなるたてがみのあのにおい、」
「いたいいたいいたいいたたたたたたたた」
「龍の細長い剣のような身体が切り裂く水の飛沫、波の跳ねる生き物の影を感じさせてくれるあの音、霊水を膝が洗うくすぐったさ、一枚の紙になってしまいそうな直線加速のクラっとクるあの高G――」
幽は天を仰いで恍惚と頬を朱に染めた。握り締めた両手の中で夏臣のデコピン砲はとっくのとうにスクラップになっている。
夢見る少女はぐっと両手を胸の前に寄せて、眼を開けた。
「夏臣、君、うちの部活に入りなよ! ……あれ、夏臣?」
やっと幽が手を放すと、夏臣はその場でうずくまり、哀れな末路を向かえた己の両手を眺めた。
くしゃくしゃにされて捨てられる紙くずの気持ちがよくわかった。
部室に連れて行く、といって幽はずんずんと廊下を闊歩していった。夏臣は小走りにそれを追いかける。
幽は歩くたびにちりんちりんと鈴を鳴らして反響から周囲を把握しているという。しかし、杖も持たずにまっすぐ進んでいくさまは夏臣にひとつの疑惑を抱かせた。
本当は、見えているんじゃないだろうか。
もちろん口に出しては絶対に聞けない。
元は眼が見えたという幽が、どれほどの苦労の末にいまの行動力を得たのか、その断片さえ知りもしない自分がいったいどんな欺瞞の果てにそんなことを聞けるというのか。
学校にいるときは傘立てに入れてあるという盲人用白杖で彼女に殴り殺されたって文句は言えまい。
だが、そう思ってしまうほどに幽の空間把握能力は卓越していた。
月末の文化祭を控え、夏休み越しに準備をしていた気合十分の部やクラスが廊下のいたるところに置きっぱなしにした看板だのハリボテだのマジシャン役が着るタキシードだの銀紙製エクスカリバーだのを苦もなく避けていく。
夏臣は考える。
ひょっとすると大昔のイタコだのシャーマンだのはこういう一種魔法じみた習性を披露することによって神秘性を獲得していたのかもしれない。確かに眼が見える者にとって、眼が見えない者がまったく苦労しないで歩いているのは神様のご加護だと言われたら信じてしまってもおかしくない。
いわんや幽は本当にオカルトの塊を乗り回すおかしなやつだ。常識なんて、あの夏の日に完膚なきまでぶち殺されてしまった。
いきなり幽がブラウスの胸元からおもむろに神代の勾玉を取り出して、ねえ夏臣すごいでしょ、これがあると頭の中に半径30Mの3Dマップが浮かび上がってくるの、昔の人はいろいろできたんだねえ。そう言われても心臓の鼓動が跳ね上がらない自信がいまの夏臣にはある。
二人は部室棟を通り過ぎた。
「おい、部室にいくんじゃないのかよ」
そもそも夏臣はまだなんの部へ連行されているのか聞いていない。
「いいのいいの。うちの部室は旧校舎のそばにあるから」
「旧校舎の……ああ、もしかして体育倉庫か?」
「そう。よくわかったねぇ」
「体育館横に倉庫があるから、あっちのは何が入ってんのかなって思ってたんだよ。俺はてっきり横のシャッターから軽トラかなんか突っ込んであるのかと思ってた」
くだんの旧校舎が見えてきた。
帝立美津治高等師範学校の旧校舎は六十年前の大戦を生き残った稀有な建物である。
モルタル二階建て時計塔校舎はあちこち煤けて掃除もされていないが、焼け野原になったこの周辺で唯一ほぼ無傷で残っていたため、戦争の記憶の継承を慮った地主の波雲家が一切の破壊や取り壊しを禁じて今日まで保存されている。
その誉れ高い旧校舎の横に体育倉庫は艱難辛苦を供にした重鎮のごとく控えていた。
体育倉庫のシャッターは固く閉じられている。幽と夏臣は両開きの鉄扉の前に回り込んだ。
あちこち錆びや剥げが目立つ扉は外壁に比べてやや新しい。おそらく本来の鉄扉は戦中に鉄資源として徴収されて戻ってこなかったのだろう。戦争は扉だろうとワンコだろうと使えるものは使い尽くす大消費空間だからだ。総力戦は勝っても負けても虚無が産まれる。
鉄扉には、部室長屋の戸のように表札が貼り付けられていた。
テラフォーミング部。
もちろん見たことがない部名だった。
幽が扉を引いて暗い奥へと入っていった。夏臣は慌てて追いかけようとして、鼻先に違和感を覚えた。
冷気だ。
冷凍室を開けたときのような、スーパーの生鮮食品コーナーを通るときのような冷たい空気が体育倉庫からは流れ出しているのだった。
夏臣は踏み込むのをためらった。
足元で、白い陽の光が暗闇に切断されて終わっている。
いまなら引き返せる。
踵を返して尻尾を巻いて校庭を走り抜ければ、そこにはいつもの街と日常が夏臣を出迎えてくれる。
なにかとんでもない間違いを犯しているような気が、
「なにしてるの?」
抵抗する暇もなかった。
闇から伸びた白い手が、かき抱くようにして夏臣の手を引きずり込んだ。
パッと豆電球に光が灯り、倉庫内が明るくなった。
見るべきものはたくさんあった。まず中央の大テーブルにドンとジオラマが鎮座している。細部まできっちりと作りこまれ、公園の砂場は塗装だけでなくちゃんと本物の砂が撒かれていたし、小火騒ぎのあった駅ビルの幽霊に似た煤跡まで再現されていた。
琴多摩市のミニチュアモデルだ。縮尺は300分の1というところか。だが夏臣の目には入らなかった。
大テーブルの横にはボールラックが置かれている。しかしそこにはバレーボールはひとつもなく、三着の白いレインコートがかけられ、一番上の段にはなぜか風鈴がずらりと吊るされている。だが夏臣の目には入らなかった。
床には大小さまざまなダンボール箱と用途不明のガラクタが散らばり、跳び箱は最上段が傾いて床に落ちていて、天井には運動会のときに吊るす各国の国旗のように注連縄が張り巡らされていた。だが夏臣の眼には入らなかった。
たったひとつのものにその眼を釘づけにされていたからだ。
倉庫の奥に冷気の原因が待ち構えていた。
雪だるまだ。
泥汚れひとつもない純白の雪だるまが、どんぐりの目と木の枝の口で夏臣に笑いかけている。かなり大きい。胴体部分の球体の上から三分の一あたりまで、ハードルがやぐらのように組み立てられて、雪だるまを囲っている。注連縄にくっついている稲妻形の紙片がハードルやぐらからも垂れているのにもなにか重大な意味があるのだろう。
この雪だるまは、単騎で夏から体育倉庫を守護しているのだった。
「どしたの? 黙っちゃって」
「なにあれ」
「ああ、雪だるま? あれ、うちの冷房」
「…………………」
「霊峰久慈の雪でできた土御門家謹製のアイスドール。退魔招福暑気成敗、うちで一番高価な備品だよ。さわっちゃだめ。ねえ、それより、そのへんに釘矢くんいない? あ、その人ってうちの部長なんだけど」
そのとき、上段が外れた跳び箱のなかから、ごん、と重いものを打ちつけたような音がした。
夏臣は近づいて中を覗き込んでみた。
右手にビーカー、股に一升瓶を挟んだ男子生徒のとろんとした眼と眼が合った。
「――入部希望だァ?」
真鍵釘矢は、積み重なったマットの上にあぐらをかいて、酒をなみなみとビーカーに注いだ。怪我でもしているのか、左腕を吊っているので、ビーカーは足の裏で挟んでいる。
「そういやァ歌方、おまえこないだ親父にシバかれたとか言ってたな。あんときに『氷菓』に乗せたってガキか」
「ガキって……」
夏臣はぶすっとして、シラフにしか見えない酔っ払いを睨んだ。
「ほとんど同い年みたいなもんだろ」
「おまえ十六になったか?」
「まだだけど」
「じゃ、未成年は黙ってな。俺ァ天下無敵の十七歳だぜ。酒も煙草も子作りだって自由自在よ。へっ! 聞いたか歌方、十五だとよ十五。しょんべんくせえ、龍だって嫌がるってんだよ」
幽は深々とため息をついた。
「気にしないでね夏臣。釘矢くんは飲むとめんどくさいから」
「めんどくせえってなんだよ」
「はいはい。校則違反者はおとなしくしててね」
「けっ、校則がなんだってん……うっぷ」
釘矢はしばらく額に手を当てて俯いていたが、深呼吸ひとつするといくらか青ざめていた顔色に朱が戻った。それを見計らって夏臣は言葉をついた。
「俺はもっと龍に乗りたいって幽に頼んだら、ここに連れてこられたんです。まだよくわかってないから、この部活のことについて聞きたいんですけど」
「歌方に聞けよ」
「龍の素晴らしさをリピートされるだけで話にならなかったんですよ」
リピートじゃないよ! と幽が喚いたが二人は無視した。幽が一度興奮すると歯止めが利かなくなるタチであることは、釘矢も熟知しているらしい。
幽は頬を膨らませてそっぽを向き、雪だるまの冷気を独り占めしようと両手を広げた。あまり効果はない。
「へえ……」
釘矢は興味のない芸術作品を眺めるような目を夏臣の全身に滑らせた。
ビーカーを床に置く。
「おまえ、ガイア理論って知ってるか?」
「はあ……地球もひとつの生命ってやつですよね。合ってます?」
「合ってる。地球にも血管みたいに流れを運ぶラインがあってな。それを龍脈と呼ぶ」
「あ、それはちらっと聞きました」
「なんだ、じゃあほとんどわかってんじゃないか。龍脈には龍がいる。しかしこいつが曲者でな、好戦的なんだよ」
「はあ……気が荒いと何か問題なんすか?」
釘矢はもじゃもじゃ頭に手を突っ込んで嬉しそうにガリガリとかき回した。
「龍ってのはな、放っておくとどんどん凶暴化して手がつけられなくなるんだ。そして龍脈に悪影響を及ぼし始めて、最後には天災として発現する」
「天災……地震とか大雨とかですか」
「噴火とか洪水とかもな。で、それはまずいってんで俺たち龍が視えるやつら――見鬼っていうんだが――そういうやつらがガス抜きをしてやるんだ」
「ガス抜き?」
「いまヘンなこと想像したろ?」
夏臣は鼻で笑って、ガキじゃあるまいし、と言ってやった。釘矢はくく、と笑って、
「言うねえ。嫌いじゃないぜそーゆーの」
「そんなことより、ガス抜きって具体的には何をするんです。龍に乗って遊んでやるってことですか?」
「いや」
釘矢はくいっとビーカーを煽って空にした。
酒臭い息をぷはあと吐く。においだけでくらりとする。
釘矢は透明なビーカーを掲げて豆電球の光に透かした。ちゃちなガラスの安いプリズム。
「レースをするんだ」
どこかで何かが、カチリとはまった。
釘矢は夏臣の眼の色が変わったことにも気づかずに喋り続ける。
「この世界には裏側がある。カーボン紙みたいにそっくりな世界が……俺たちは異界と呼んでるんだがね、そこに何柱か龍を呼んでレースをする。龍はその町によって数が違うが、この町には五柱いる」
釘矢は立ち上がると、夏臣がもたれかかっていた大テーブルの上にあるジオラマを指差した。
「見ろ。この町の模型だ。赤い粉が振り撒いてあるだろう? これが龍脈だ。このうねった道筋を俺たちは龍に乗って走る」
夏臣には視えるような気がした。
見知った町、見慣れた通り。深夜を過ぎてそこい集まるレインコートを着た集団。その集団が守るように囲んでいる龍の背中には、手綱を握った黒髪の少女……反対側の路地から同じような人々とべつの龍がやってくる。
「――と、こんなところだ。簡単だろ? 最終目的は競馬出走の乗馬部っつーか、実践派っつーか」
どうだ、と釘矢は振り返って、
「まあ、退屈はしないで済むだろうぜ」
夏臣は拳を握り締めた。切っていない爪が手の平に食い込んだが、気にならなかった。
「部長、俺」
がらっ、と扉が開いて熱気が入ってきた。誰かが逆光の中に立っている――と、何かが飛んできて夏臣の顔を直撃した。よろけた拍子に転がったビーカーを踏んづけてガラクタと埃の中に転倒した。
ばらばらと夏臣の後を追うように何かの破片が散乱した。よく見ればそれは、龍の模型の残骸だった。
釘矢はその惨状を見て、
「波雲ォ。おまえいきなりこれはひどいだろう」
「部長に当てようと思ったんですよ」
「それもひどいよ」
「いって……」
夏臣は顔を押さえて立ち上がった。危うく差し歯が吹っ飛ぶところだった。きっと下手人を睨みつける。
「てめえ何しやが」
そこで、下手人が波雲いずみだということに夏臣は気づいた。
波雲いずみ。
地主である波雲家の長女で、成績優秀、品行方正。童顔とポニーテールがかもし出す可愛さを三角眼鏡で台無しにしている学年代表。入学式では校長よりも長い挨拶をして二人貧血で倒れさせた。夏臣は一組なので七組の波雲とはあまり接点がないが、その噂はいくつか聞いている。
「代表、あんたもここの部活に……?」
波雲はつかつかとジオラマテーブルを迂回して、雪だるまに近づいた。そこで夏臣と釘矢は幽が体育座りして眠り込んでしまっていることに気づいたのだ。
波雲が幽の肩をそっと揺さぶる。
「先輩、起きてください」
「んん?」
「先輩にも聞いてもらいたい話があります」
「先輩っ?」
素っ頓狂な声をあげたのは夏臣だ。
「幽、おまえ二年だったのか?」
そういえば部長の釘矢をくんづけで呼んでいたりしていたのだった。夏臣は意図的に気づかないようにしていたのかもしれない。
「言ってなかったっけ。あ、でも普通に幽って呼び捨てでいいよ」
波雲はへこんでいる夏臣にお構いなしに、鋭い視線を釘矢にぶつけた。
「部長、話は聞きました」
「入ってこいよ」
「…………。一般人に龍神騎走のことを話すのは指定条項に違反していることはわかっていたはずです」
「一般人じゃねえよ。こいつも見鬼だ。ホレ、夏休み前に歌方が龍に乗せたやつがいたろ。あいつだよ」
波雲が眼を瞠った。一気に顔から険が取れてあどけない表情になったが、すぐに無表情の氷に覆われてしまう。
「あなたが竜宮夏臣、ですか」
同級生に敬語を使われて夏臣はへどもどする。釘矢が怪訝そうな顔をした。
「知ってんのか?」
「彼は竜宮家の次男です」
「えっ!」
釘矢がまじまじと顔を見てくるので、夏臣はそっぽを向いた。家の話はあまりしたくない。
波雲はつかつかと夏臣に歩み寄る。
「来る部活が違うでしょう竜宮くん。あなたは弓道部の方が向いていると思いますが」
「関係ねえだろ、家のことと俺のことは。つうかよく知ってたな、うちのこと」
「……覚えてないんですか?」
「は?」
「ならいいです。部長、彼を私たちの活動に参加させることは許可しません。これは波雲家当主としての命令です」
「なっ……ちょ、ちょっと待てよ! そんな勝手に……」
「あなたは龍神騎走のことを何も知らない。そのまま何もかも忘れてしまいなさい」
せっかくうまくいきそうな流れだったのに、それを一言でぶち壊されてはたまらない。夏臣は唾を飛ばして反論した。
「俺は部長にもちゃんと説明を受けたし、一度龍に乗ったことだってある! 代表に文句を言われる筋合いはねえぜ」
「では、部長はあなたにこれが死ぬ危険性があるとハッキリ口に出しましたか?」
夏臣は言葉に詰まった。
「なんだって?」
「部長はあなたにこれが国家からその土地の管理官に命ぜられたつとめであると説明しましたか? 龍神騎走を行い龍脈の乱れを治めるためには一切の個人的事情が抹殺されることは? その歴史と年間死亡者の数は? あなたは何も知らないのです。生きることも死ぬ覚悟もない」
「んなことわからねえだろ!」
第一、と波雲は人差し指を立てた。
「あなたは乗馬の経験がありますか?」
「……は?」
「ないでしょう。あなたの家柄なら当然です。そんな暇があったら弓でも引いていたでしょうから。一から新たにジョッキーを育てる暇も余裕も我々にはない。メリットもない。騎手の数は足りています。あなたが出しゃばる理由はない、あなたの個人的なわがまま以外の理由では」
「そんな……部長!」
何か言いかけた釘矢を遮って、波雲が言葉を挟んだ。
「部長、あなた私の練習メニューを妨害しているだけじゃなく、彼の肩を持つんですか?」
釘矢は吊った腕をさすって、やれやれと肩をすくめた。
「悪いな竜宮、俺ァまだおまえの部長になった覚えはないよ」
「ちょ、さっきまで普通に話してたじゃないですか! なのに、」
「俺は、おまえが入りたいっていうからうちの部活を説明しただけだ。べつに入ってくれなんて頼んでないぜ、天才ジョッキーでもあるまいし」
夏臣は眠そうに目をこすっている幽を振り仰いだ。
「……幽!」
「お願い、いずみちゃ」
「だめです」
「だめだった」
「もう少し! もう少し粘ってみてくんねえかな! 早すぎるだろうがよ!」
いつの間にか、夏臣と三人には等間隔の距離が開いていた。
波雲が冷笑を浮かべて夏臣を斜に見すえる。
「力もないくせに必要とされているなどと勘違いしないことです。この世界はギブアンドテイク。血の流れるようなギブの末のテイクなのです」
釘矢はにやにやしていた。
「今回はご縁がなかったようで」
幽は、何か言おうとしていたが、言葉が見つからなかったようで、結局は黙り込んでしまう。
目の前で鉄扉が閉まった。
夏臣は固く閉じられた扉を前に呆然と立ち尽くす。中から話し声が聞こえ、やがて笑い声に変わっていった。
「…………なんなんだよ」
丸めた背中のすぐ後ろで、野球部のイガグリ頭がカキーンと白球を青空に打ち上げている。
夏臣は開かない扉を見上げている。
名もないセミが鳴いていた。
夏臣たちの通う高校の裏門からまっすぐに歩いていくと、いつのまにか道が曲がりくねり始める。土塀がそれこそ蛇の通り道のようにくねくねと折れ曲がり、アップダウンも緩やかながらも波のようにうねっているため平衡感覚が破壊される。戦前、道に迷った子どもが見つかったときには気が狂っていたという噂話もあり、新興住宅街に住んでいる平凡な家庭の人々は絶対に近寄らない。
その奇怪な道に沿って立ち並ぶ旧家のひとつが竜宮家の屋敷である。とはいえそれほど豪邸というわけではない。人に口頭で説明するなら、田舎町の老舗旅館、といったところか。
弓の技ひとつで繁栄してきた竜宮家の質実剛健さが、住居からも香り立っているようだった。
「ただいま」
夏臣は引き戸から身体を斜めに入れ込んだ。返事はない。ぴかぴかに磨かれた廊下を歩いて、母の姿を探す。
母は居間でテレビを見ていた。ブラウン管の中では温泉の脱衣場でおばさん探偵が頭を抱えて名推理を働かせている。
「ただいま」
「あ、おかえり。今日は遅かったね」
母はちらっとこっちを見てから木の椀に盛られたせんべいに手を伸ばした。
「この暑いなか、よくせんべいなんか食えるな」
「そう? ああ、あんたとお父さんはだめなのよね。そういうの気にするのよ。あたしと秋鷹は平気なんだけどねえ」
うまくできてること、と母はバリバリとせんべいを噛み砕く。夏臣はそのまま自室に引きさがろうとしたが、
「あ、そうだ夏臣。あとでお兄ちゃんにカケを持ってってあげて」
カケとは弓を射るときにはめる手袋のことである。親指の付け根に弦枕といって、弦をひっかける溝がある。弓道では、実際に弦を摘んで矢を射ることはない。
「あの子、お気に入りのカケだからって大事にしてるくせにいつも忘れるのよね。でも人から借りたカケをはめてるときの方が成績いいのよねえ。お母さん弓やらないからわからないんだけど、どうなの?」
「どうって」
夏臣は母の顔を見ていない。暗い目が、箪笥の横にある仏壇を向いている。
三年前に死んだ兄の顔は、とても大人びて見えていたのに、いまでは夏臣が鏡の中を見るとそっくりそのままのものが写っているのだった。
「ねえ」
母が笑顔を向けてくる。夏臣は、どうしてもそれを直視できない。
「兄さんのカケ、ちゃんと届けてね」
「ああ」
夏臣は障子を閉めた。
竜宮家の次男坊が学校から帰ってくると、母は欠かさずにこのやり取りをする。休日は、兄は彼女と旅行にいったことになっている。兄が彼女なんて作るようなやつじゃなかったことは母が一番よく知っていただろうに。
父は母の穏やかな狂気を見てみぬフリしている。まったくなんの反応も示さなければ、いつか母の傷が治癒すると本気で思っている。どうかしていると夏臣は思う。人の心は口内炎じゃないのだ。
兄が事故で死んでから三年が経った。
ただの一度も、狂った母は弟を兄と間違えたことはない。
兄の部屋はそのまま残されている。襖を開ければ、埃ひとつない部屋が夏臣を出迎えるだろう。几帳面な性格だった兄の机は母が片付けるまでもなく整っていて、壁一面に大会で優勝した賞状が所狭しと額に入れて収められている。
兄の射を見て人は皆こう言った。
――的が矢を吸い寄せているようだ。
ただ当てる、というだけではない。兄の射は美しかった。寄り集まった筋肉が兄の脳というパイロットを得ることによって、もっとも正しく美しい軌跡を残して動くのだ。兄はよく歩いている後ろ姿を見かけられただけで惚れられていた。笑いながらラブレターを破り捨てていた兄の姿を夏臣はいまだに覚えている。
兄は弓のことしか考えていなかった。食事をしているときも風呂に入っているときも、きっと弓と矢と契機が手の届くところにあればフルチンだろうと矢をつがえ、的を射抜いただろう。完璧に、余すところなく。
友達も恋人も作らなかった。寝るときはベッドや布団には横たわらず、弓を抱いて壁にもたれて眠っていた。左手をわしわしと開閉させるクセは、弓を求めて弓手が勝手に彷徨っているのだった。
そのあまりにも鋭すぎる感性と気性が死を呼び寄せたのだと夏臣は信じている。
彼岸の土はいつだって凶人を手招いているのだ。
兄は尖りすぎていた。三年前に死ななくても長生きできるようなタイプではなかった。
十六年、なんのために生きていたのか、他人にはわからない生涯。
だが、それに、その強さと高みに。
憧れなかったと言えば嘘になる。
畜生、と夏臣は毒づいた。
ベッドの上に寝転がった風呂上りの身体は芯から火照っている。
波雲いずみのせいで入部の試みはいまのところ白紙だ。部長はもう夏臣のことなど忘れて今頃やっぱりビーカーで酒を煽っているかもしれない。
幽は――それほど残念がってはいなかったように見えた。いつも眼を瞑っている彼女は夏臣から見れば立ったまま眠っているのと変わらない。ただ、それでも少し、あの倉庫の鉄扉が閉まるとき、気落ちしていたように見えたのは夏臣の勝手な願望だろうか。
胸の中をドス黒い感情が渦巻いている。行き場のない感情。おもちゃを取り上げられた子どものよう。だがいま夏臣を癒せるのは金で買えるものではなかった。
風が吹いたような気がしたのだ。
あの銀の龍の背に乗ったとき。それまで停滞していた、三年前のあの日から淀んでいたものが吹き散らされたのだ。
少なくとも、あの龍の上にいたとき、自分は兄を超えていた。死んだ兄にはできない、そしてきっと兄が生きていたら羨むような熱の中にいた。
なのに――
息が苦しい。頭が重い。不安と怒りがない交ぜになって、やり場のない濁りが脳髄に染み渡っていく。
眼を瞑った。
リモコンで電気を消しても、完全な暗闇にはならなかった。
何も見たくないのに、瞼の裏を透かして、部屋の光景が見えるような気がした。
消えて欲しかった。でなければ、消え去りたかった。今朝の暗室がいまとなっては懐かしい。
じりじりと嬲られるような時間の流れと共に、夏臣は眠りに落ちた。
久しぶりに兄の夢を見た。
一時間目が終った。夏臣は教科書もノートも筆箱も出さずにぼうっとしている。
「ねえ」
前の座席から、夜鳥が肩越しに振り返ってきた。
「昨日さあ、結局どうなったの……てか、あんた顔色悪くない?」
「そうか?」
夏臣は自分の顔を触ってみたが、ぺたんと頬がへこんでいる。特に気分は悪くない。
「元からこんなだろ。まあ、いろいろあったけど」
「たとえばどんな」
「誘導尋問するな。ロクなことじゃねえよ」
夏臣の顔色を敏感に察知したのか、
「ふうん」
と夜鳥は前を向いてしまった。そう素っ気なくされると構ってほしくなるのが人情というもの。夏臣は白いブラウスの襟首を掴んで引っ張った。
「なあ」
「ぐえ」
なによ、と夜鳥が首の皮を掴まれた猫の状態で言う。
「俺っていらねえかな」
「はあ? あんた何言われたの」
「べつに」
「べつにってことないでしょうが」
「べつに」
夜鳥は夏臣のハンガーを振り払って、
「あのね。他人がなんて言おうとさ、あんたはあんたがいないと困るでしょ。だからあんたはいるのよ」
「なんじゃそりゃ」
どうやら少し怒っているらしい。
夜鳥は怖い顔で早口に、
「へこんで人恋しくなってるやつにあたしが毎回言う決めゼリフ。人間なんて不完全なもんよ。風邪も引くし転びもするの。どんなに生まれ持ったカードがあんたみたいにブタでも手持ちのモンで勝負するしかないでしょうが」
とまくし立てた。
夏臣はポカン、とした。クラスのみんなもポカンとしていた。
大演説をぶちかました夜鳥は、むっとした表情のまま一秒ずつ顔色を赤のグラデーションに染めていき、チャイムと共にぷいっと黒板に向き直ってしまった。
夏臣は、授業中ずっとうしろから夜鳥のクセ毛を見つめて、考えをまとめた。昨日のことを映画のように最初から最後まで鮮明に思い出す。記憶のフィルムの絡まりを手探りでほどいていく。
夏臣は立ち上がった。教壇に立った教師がちら、と眼鏡の奥から不審げな視線を送った。
「竜宮、どうした」
「ちょっと」
カバンも持たずに教室を出た。
誰かが、ちょっとって理由じゃねえだろ、と呟いた。
昼休み、この暑さだというのに一秒でも身体を動かさないでいると死ぬ連中が校庭でバスケをしたり白球を打ち上げたりしている。夏臣はそんな彼らに目もくれずゴミ箱を抱えて犬走りを闊歩していた。中ではカサカサと紙がこすれる音がしている。
目指すは旧校舎の体育倉庫。テラフォ部の部室だ。あの部長のこと、どうせ昼休みも酒をかっくらって米とアルコールのにおいを振り撒いている可能性が高い。
鉄扉を開けた。
釘矢は、今日も左手を包帯で吊って、ハードルやぐらにもたれてビーカーを煽っていた。夏臣を見ると面白そうにニンマリと笑った。
「よお、諦めが悪いやつは嫌いじゃないよ」
夏臣はつかつかつか、と詰め寄って、
「俺を入部させてください」
「ダメだね――」
にべもなかった。だが夏臣は怯まない。
「理由はなんです? 波雲が言うことだからですか?」
ここでそうだと釘矢が答えれば夏臣のプランは崩れ去る。
釘矢は、採光窓から射し込んでくる窓の形を残した光にビーカーをかざして、
「いや。ジョッキーが足りてるっていうのが大きな理由かな。龍に乗れるのはこの町で俺たちだけじゃない。たとえば洛陽寺の和尚なんかも乗れるし、駅前の占い師もジョッキーやってる」
「でも、いまここには部長、波雲、幽しかいないんでしょう?」
釘矢は肩をすくめ、
「それが?」
「それなら、俺は必要な人材でしょう」
夏臣は頭の中の原稿を採光窓の中に視た。
「部長、覚えてますか。昨日、波雲がなんて言ったか」
「入部は認めない」
「ええ、そして、俺のことを庇おうとしたのかしてなかったのか知りませんが、なにか言いかけた部長にこう言ったんですよ。自分の練習メニューを妨害しているのに、その上こいつの肩を持つのか、って」
釘矢は空になったビーカーを大テーブルの端に置いた。
「言ったね。覚えてる」
「なぜです?」
「この腕のことに決まってるだろ。夏にちょっと崖から落ちてな。もうすぐくっつくんだが」
「一人乗りのレースで部員が怪我して、どうして波雲の練習メニューが妨害されるんです。まさか騎乗するときにケツを押し上げてもらわなきゃならないってわけでもないでしょう」
「――――」
「対人戦の練習があるにしたって幽もいるし、三人練習があるにしても、さっき話に出た外野のジョッキーに協力を頼むとか、あるいはそこだけカットしたっていい。でも波雲は、部長のせいで何もかもストップしたって顔してました」
「気のせいだろ」
「俺、これでも弓術家の倅なんでね。門下生で怪我して稽古できないやつの目ってたくさん見てきたんですよ。自信があります」
釘矢の顔は逆光で見えない。
夏臣は言った。
「龍神騎走は騎手とその守り手、二人で一匹の龍に乗るレースなんだ」
釘矢は何も言わない。自分が素っ頓狂なことを言っている気がしてきて、夏臣は丹田に力をこめ、心の底から吹いてくる臆病風を追い払った。
「自分で言うのも悲しいんですが、俺の家、それほど有名じゃないんですよ。弓に興味がない一般人だったらまず知らない。なのに波雲は知っていた。なぜか」
夏臣は倉庫のなかの冷えた空気を吸い込んで、
「守り手が使う武器が弓だからです」
釘矢はまだ首を縦に振らない。肩をすくめて、
「あいつの家はここら一帯の元締めだぜ。地産の名家のことぐらい知ってて当然だろ」
「じゃ、部長はなんなんです? 真鍵なんて古い家柄、俺知らないですよ。それとも弓をやってたとでも?」
「ああ」
「嘘ですね」
「――――わかんのか」
「カンですけどね。でも二人乗りに気づいたのはカンじゃないですよ」
夏臣はしゃがみ込んで、まだ掃除されていない昨日波雲が投げつけて壊した模型の一部を拾った。よく見渡せば、倉庫の中の棚にはいくつかの龍の模型が飾ってあるのだった。
「見てください。この鞍、昨日パッと見たときは意識に残らなかったんですけど、前後で二人乗れるようにあぶみがある。よかった、記憶が違ってなくて。不安だったんですよ」
手の平の上で、小さな鞍を夏臣は指で突いて転がした。
釘矢が言った。
「防人(さきもり)と駆人(さきがけ)」
「え?」
「龍に乗るコンビのポジションだ。ご明察、波雲は俺の防人だ。だから駆人の俺が龍に乗れなきゃ陸地で弓の稽古しかできないんだ。しかし、竜宮、おまえホントに弓できるんだろうな」
夏臣はパッと顔を輝かせて、
「これが証拠になるかと思って持ってきたんですが」
足元のゴミ箱をひっくり返して中身をぶちまけた。
倉庫の床にうろこ状に紙片が広がる。
「準優勝ばかりですけど」
それは、額にさえ収められていない十数枚の表彰状だった。釘矢の鋭い目がそれを一瞥し、
「抜け目ねえな」
「褒めてるんですか、それ」
「もちろん。よし、いいだろう。入部試験はパスってとこだな」
夏臣は顔をしかめて、
「まるですべて自分の手の平の上だった、みたいな言い方よしてくださいよ。俺の手柄ですよ」
「ふん、調子に乗るなよ。おまえ、弓のおうちのお坊ちゃんのくせに、これから人に向けて矢を射ることになるんだからな」
実はまだ、夏臣はその覚悟を決めていなかった。
だが、待ったをかけることはできない。
「やりますよ、それが俺の役目なら」
「口は達者だな。ま、死人は心配するほど頻繁には出ないから安心しな。お互い龍に乗ればプロだからな。ところで、おまえ結構熱いやつみたいだが、間違っても間違ってるなんて言うなよ。このレースは、本来は贄も餞も生命のところを血と勝負で埋め合わせてるんだ。ぬるい偽善振りかざしやがったらタダじゃ済まさないぜ」
「わかってます。ぬるいやり方じゃ本物の足元にも届かないってことは、よく知ってるから」
「ふむ。――じゃ、お望みどおり、幽のバックにつけてやるよ」
男二人はにやっと笑った。しかし夏臣はふと笑みをひっこめて、
「いまさらなんですけど、幽って盲目なのに龍に乗ってて大丈夫なんですか?」
「さあ」
「さあって……眼が見えなかったら敵も見えないのに」
「あいつの眼は特別製なんだよ。龍やら霊魂やらはバッチリ視える。だから、あいつが視えないのは駆人と防人。この世のものだけだ」
「そいつらから幽を守るのが、俺のつとめってわけですね」
「すっかりやる気か。威勢がいいや。よし、祝杯といこう。――なにまだ十六じゃない? 構うこたあねえ、おかみが許さなくても俺が許す。ほら飲め飲め」
ビーカーの目盛りで飲んだ量を覚えようと考えたことさえ忘れた頃に、倉庫の鉄扉がズズズっと開いた。入ってきた幽は鼻をひくつかせ、波雲はこめかみをひくつかせた。
「わあ、お酒くさい」
「ちょっと部長――って竜宮くん、あなたまで?」
夏臣はすっかりゆでダコになって床に伸びている。にやにや笑いを浮かべて手足をもぞもぞさせているのが気色悪い。
「うぃーっす……おうおう、代表ォ、やっぱし俺ここ入ることにしたから。止めても無駄だからな」
だからそれは、といいかけたところで波雲の眼鏡がキラリと光った。
「部長。あなた喋りましたね、防人のこと」
「そいつが勝手に気づいたんだィ。なあ?」くだを巻かれた雪だるまは黙して語らない。
「いいだろ代表、幽ァ」
幽は鼻をつまんでパタパタと片手を振り、
「ハイハイ。部長のうしろはタイヘンだよ、運転荒いから」
「いや、違う違う。俺、おまえの防人になるんだ」
幽がピタリと止まった。
「嫌だけど」
最初は、冗談だと思っていた。