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第4話『二つの孤独』

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 和樹の勤務する私立光源学園。
 そこからバスで十分、電車で二十分ほど行った所に、十二階建てのマンションがある。その七階に、和樹は教師を初めてからずっと住んでいる。
 鍵を開けると、暗闇が伸びている。一人暮らしなので、人の気配はもちろんない。2DKの部屋、その居間へ行き、カバンを下ろし、ネクタイをソファの上に放る。バーカウンターのキッチンと、八畳ほどの部屋。
 部屋の中心にはソファがあり、ローテーブルの上にはパソコン。その向かいにテレビがあり、ベランダへ繋がる窓はカーテンで閉ざされている。
 ため息を吐いて、ソファに座ると、和樹は天井を眺めて日課となった教師としての一日を後悔し始めた。
 後悔というより、どちらかと言えば振り返る、という言葉の方が近いのだが、とにかく和樹は、その行動を後悔と呼んでいた。彼はできるだけ面倒に踏み込まないよう、教師としても、人間としても努めてきた。面倒に直面するということは、人と関わり合うということだ。面倒よりも、彼はそちらの方が嫌なのだ。
 今日も俺はやりすごした。それだけを確認して、和樹は立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。プレミアムモルツ。彼が金を費やすのは、ビールと本と煙草だけだと決めている。そのビールを持って、ベランダに出る。
 夜の明かりがキラキラと光るその景色を見ながら、プルトップを開ける。人間は夜景を見ると、文明の進化を喜ぶのかもしれない。そんなことを考えながら、ビールで唇を濡らす。
 学校で壁に向かって授業をし、家に帰って夜景を肴に一杯やる。この生活を崩してはいけない。人によっては嫌うかもしれないが、和樹はそういう、ルーチンワークな毎日が嫌いではなかった。

  ■

 ――翌日。
 二年B組にて。和樹は授業を行っていた。内容は、舞姫について。舞姫は森鴎外の短編小説だ。ドイツに留学していた官僚の豊太郎が、下宿への帰宅途中にエリスという麗しい踊り子に出会い、恋に落ちる。
 この作品は、落ちるという表現がまさにふさわしいと、和樹は思う。豊太郎はエリスと出会い、同僚たちにその弱みを握られ、官僚をやめさせられてしまう。しかし、新たな職を見つけ、エリスと同棲を始めるが、友人である相沢謙吉の助けで日本に戻る道を見つけ、豊太郎は結局、エリスを見捨ててしまった。「相沢謙吉が如き良友は、世にまた得がたかるべし。されど我が脳裡に一点の彼を憎む心、今日までも残れりけり」この最後の一文には、豊太郎の苦悩が溢れている。
「――という訳で、豊太郎は現代的自我を持ってしまったために、苦しむこととなった」
 ちらりと、和樹は教科書から視線を上げて、生徒達を見る。友達と話す者、寝ている者、ゲームをしている物、真面目に授業を受けている者と様々な生徒達が居る中、和樹は二人の生徒が気になった。
 一人は、星谷巴だ。教室の真ん中に座る彼女は、ちらちらと窓際の方に視線を泳がせ、落ち着かない様子。その視線の先にいるのが、二人目の真中華奈子だ。
 窓際に座る彼女は、ぼんやりと窓の外を眺めている。彼女は基本的に、いついかなるときも、笑顔を絶やさない。その様は、笑顔が転ばぬ先の杖であると言わんばかりの必死さだった。しかし、今の彼女はほとんど無表情というか、遠くにある何かをただぼんやりと眺めているだけに見える。
 和樹の記憶にあるかぎり、巴は華奈子を窺うようなことはしていなかったはずだし。
 華奈子があんな表情を見せたことはなかったはずだ。
 和樹は面倒くさそうに頭を掻いて、人知れずため息を吐いて、何事もなかったかの様に授業を再開した。
「――では、豊太郎の抱いた現代的意識を解説していく」

  ■

 昼休みになると、いつもの様に屋上へ登る。
 閉ざされた箱庭。壁に向かって話す事に疲れた和樹が安息できる場所。
 錆びついた鉄のドアを開けると、そこにはやはり、巴がいた。ベンチに座り、暗い表情で自身の膝を見ている。
 ゆっくりと彼女に近づく。巴は、足音で和樹に気づいたのか、顔を上げて、和樹と目を合わせた。
「よう」
「……先生」
 隣に腰を下ろした和樹は、「元気がないな。どうした」と何の気なしに言った。
「……そう見えます?」
 頷く和樹。巴の言葉には、いつもの明るさがない。
「言いたくないなら言わなくて構わん。生徒の悩み相談なんて、面倒臭い」
 煙草に火を点けながら、和樹は無気力にそう言った。それが和樹の生き方だ。誰かの悩みを聞いたことも、その助力もしたことがない。その言葉に呆れたのか、巴は「……さすがオートマ先生」と皮肉を言った。
「だが、理由はわかる。華奈子とのことだろう」
「え、なんで」巴は目を見開いた。理由を言い当てられた事に心底驚いたのだろう。
「見りゃわかる。お前が華奈子を異常に気にしてることくらい」
 じっと和樹の顔を見ていた巴は、何かを諦めたかの様に「先生って、普段見ないだけで、見たら鋭いんですね……」と呟く。
「……で、なにがあった」
 二人の間に静寂が満ちる。唇をきゅっと噛み締め、言おうか迷っている巴に、和樹は何も言わない。数秒の後、巴は泣きそうな顔をしながら、口を開いた。
「大嫌いって、言われました。あなたの『友達最高』思考は大嫌いだって」
「そうか」
「言われた理由がわからないとモヤモヤするし、大嫌いって言葉はいたいですね……」

「そうか」
 立ち上がった巴が、和樹に頭を下げた。
「聞いてくれて、ありがとうございます。……ちょっとだけ、気が楽になった気がします」
 言葉通り、巴の表情にはほんの少しだけ笑顔が戻っていた。
「俺は何もしていない」
 その言葉が聞こえていたかはわからないが、巴は小走りで校内へと戻っていった。その背中を見ながら立ち上がった和樹は、紫煙を肺に取り込んで、空を見上げた。そして舌打ち。
 俺はいつから、生徒の悩みなんて聞く立場になったんだよ。

  ■

 放課後を告げるチャイムが鳴る。
 和樹は、二年B組前の廊下に立っていた。壁に寄りかかり、常に前方を睨みつけるような目付き。人気はないが目立つ不良教師、瀬戸和樹がそんなことをしているからか、廊下を行き来する生徒達の視線を集めてしまっている。
 そこに、二年B組から出てきた真中華奈子が現れた。
「なにしてんの先生?」和樹の顔を覗き込む華奈子。 
「よう」そんな彼女を見て、鼻で笑う和樹。「ちょっと屋上まで来い。訊きたいことがある」
「ふぅん……。まあ、理由はわかってるけど」
 それを了承と受け取った和樹は、先に屋上へ向かって歩き出す。華奈子は黙ってそれに着いていき、二人は屋上へと出た。少しの間、和樹は何を言おうか迷っていると、華奈子の方から口を開いた。
「先生は人間嫌いでしょ。どうして巴ちゃんには優しいの?」
「別に理由はない。生徒を助けるのが教師だろう」
 言って、自分らしくないなと笑う和樹。華奈子も、その言葉が少しだけおかしかったのか、鼻で笑った。
「冗談。先生は生徒いない方がいいでしょ。――私はわかってるよ、先生のこと。先生は私と同じなんだって」
「俺とお前が、同じ?」
 訝しげに華奈子の表情を窺うと、彼女の表情は優しい物だった。まるでアルバムでも見ているような。
「先生さ、イジメを発見したことある?」
「いや。生涯通して、ない」
「私はあるんだよねえ。小学校五年生の時――」


  ■


 真中華奈子は小さな頃から活発で、クラスの中心人物だった。今は小学校から知ってる人間など高校にはいないが、仮にいたとしたら、華奈子のことを「小学校から全然変わってない。ずっとクラスの中心人物」と称するだろう。
 しかし彼女は、人知れず変わった。水面は穏やかでも、水中は大荒れに。
 彼女が自分の人生観を――人格を変えたのは、小学校五年生の時だった。
 その頃の彼女は、本気でクラス全員が友達だと思っていた。全員が全員を無条件に思いやるようなクラスだと。
 そんなある日、彼女は一人の少女を発見する。おかっぱの黒髪と、小さな鼻が可愛らしい少女。名前は麻生燕(あそうつばめ)。同じクラスにいて情けない話、華奈子が彼女に気づいたのは、五年生も後半に入ってからだった。
 クラス全員友達。そんな思考を持つ華奈子が、彼女に話しかけないわけもなく。二人が親しくなるのに時間はいらなかった。
 クラスでは地味な子だが、華奈子といる時は本当に楽しそうに笑った。しかし、なぜか彼女は、学校で華奈子と喋ろうとはせず、それどころか、誰かから話しかけられるようなこともない。
 それを変だなとは、華奈子も感じた。
 その疑問は、ある日突然解消されることになる。

 放課後になり、華奈子は帰宅しようと下駄箱に降りていく。華奈子のクラスの下駄箱前に、見覚えのある後ろ姿。燕だと気づいた華奈子は、声をかけた。
「燕ちゃん」
 その声で振り返った燕は、一瞬だけバツが悪そうな顔をして、「華奈子ちゃん……」と呟く。
「私、急ぐから」
 急いで靴を履き、昇降口から出て行く燕。きっと親に早く帰るよう言われているのだろうな、と大して気にはしなかった。
 靴を履き替えようと、上の方にある自身の下駄箱に手を伸ばすと、慌ててしまわれ奥まで収まっていなかった燕の上履きが床に落ちた。
 急いで上履きを戻そうとしゃがみこんだ華奈子は、地面に落ちた物が、上履きだけではないことに気づいた。鋭い針が鈍く光る、金色の画鋲。それはおそらく、燕の上履きから出てきた物。
「……なに、これ」
 誰がこんなことをしたんだろう。華奈子は気分が悪くなった。

 翌日の学校では、燕の机に落書きがされていた。『死ね』というお決まりの文句に始まり、事実無根の罵倒までが連なる最悪の寄せ書き。
 それを見て呆然とする燕。そんな彼女を笑っていたのは、華奈子の友人達だった。華奈子は、昨日の画鋲も彼女達の仕業だろうと確信し、訊いた。
「どうしてあの子をいじめるの? 悪いことしたの?」
 返ってきた答えは、当時の華奈子にとって、終末を告げる言葉だった。

「なんか気にいらなかったから」

 華奈子はその時、確かに世界が割れる音を聞いた。私が見ていた世界は、本当は汚い物だったんだと。彼女は落胆した。
 私はなぜ、この子達と友達をしていたのだろうか。
 そして、次に華奈子は『彼女達の敵になったら、今度は私が的になる』と考えた。彼女は自分の保身の為に、燕を救う道を諦めた。見てみぬ振りを貫くことを、今までと変わらぬ演技をしようと決めた。


  ■


「――まあ、こんな感じ」
 語り終わった華奈子を見て、和樹は何も言わなかった。
「だからさ、巴ちゃんに教えてあげようと思って。『人間は醜い。友達じゃない』ってさ」
 それたけ言って、華奈子は立ち上がり、和樹の前に立った。また笑顔の仮面をはめて、本心を悟られないようにするかのように。
「先生も同じでしょ? 人の醜さを知ってるから、嫌いなんでしょ?」
 和樹は、まるで嫌いなメニューが食卓に出されたような嫌悪感を表情に出し、華奈子を睨んだ。
「俺とお前を、一緒にするな」
「……え」まさかそんなことを言われるとは考えていなかったのだろう。華奈子は寂しそうに頭を落とす。
「俺とお前は違う。お前が嫌いなのは自分だろ。俺は自分を嫌ってはいない」
「でも、人間は嫌いでしょ……?」
「ああ。俺は確かに嫌いだがな。お前は嫌いになれていないだろ。――嫌いなら、なぜ未だに友達を作る」
「それ……は」
 必死に次の言葉を紡ごうとする華奈子だが、言葉が浮かばないらしく、口が微かに動くだけ。
「お前がまだ人間を嫌いきれてないからだ。――お前、寂しいんだろ。友達は欲しい、けど周りは信用できない。だからコミュニティーの外にいる俺か」
 言いながら和樹は、巴の言葉を思い出していた。『先生と生徒は違いますよ。先生とのコミュニケーションは練習みたいな物ですから。外で失敗しても大丈夫ですけど、中で嫌われたら最悪なんです』
 華奈子もきっと、巴と同じような考えだったのだろう。
「違う! 私はそんなこと、考えてない!!」
 華奈子の仮面が剥がれる。彼女は顔を真っ赤にし、校庭に届きそうなほど大きい声で叫んだ。
「巴にちょっかい出したのは同族嫌悪か。過去の自分を見ているようで、イライラするんだろう。『友達最高』思考はそんなに恥ずかしいか?」
 華奈子は泣きそうな顔で、和樹を見ていた。今にも捨てないで、と言いそうな顔。
「図星か……」
 立ち上がり、華奈子の横を通り抜け、屋上から出て行こうと扉を少しだけ開けた。
「友達が欲しいなら、ちょうどいいヤツがいる。少なくとも、俺よりは信頼に足るだろ」
 和樹がドアを全開にすると、中から巴が姿を表した。まさか巴がいると思っていなかった華奈子は、ただ巴の姿を眺めるしかできないらしい。和樹は巴の腕を引き、屋上に引き入れると、「後はお前らの問題だ。過去に向き合えよ」そう言って、巴と入れ替わるようにして屋上から出て行った。
 取り残された二人は、しばらく互いに見つめ合っていたが、巴が何かを喋ろうと、俯き気味に華奈子に近づいた。
「……聞いてた?」
 頷く巴。華奈子は目元を押さえ、「なんで訊いちゃうかな……」と苛立ったような声で呟く。
「ご、ごめんなさい。……先生と屋上に行くのが、見えたから」
 深々と頭を下げ、謝罪する。しかし、華奈子は悔しそうとも恥ずかしそうとも取れない表情をし、早足で屋上から出て行った。
「待って真中さん!」
 巴の呼び止めも虚しく、屋上にはドアの閉まる音だけが響いた。
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