荒野に一本の道が果てもなく続いており、歩いても歩いても地平線の向こうには蜃気楼すら見えてこない。喉が渇いてしょうがないが沿道には自販機すら立っていない。私を拾ってくれそうな貨物トラックも乗り合いバスも、背後から追い越そうとしないし、前方から迎えに来てくれることもない。ここらにはまるでひと気がない。不便すぎるだろ、ここ……
半ば崩れ落ちるように地面に両手をつくと、ゆったりと深い自分の呼吸に命の危険を感じ、目を閉じて体力の回復に努めようとした。邪念が思い浮かんでは消えていく。私はいったい何に巻き込まれてこうなったのだ。
しばらく不毛な推論を戦わせていた。ふとした人の気配に目を開くと、確かに何者かの影が私を見下ろしているようだとわかった。どこかで聞いたような低い声が、上から降ってきた。
「我は悪魔である、これからいくつかの選択肢が……む。なんだ、また貴様か」
悪魔は私に水分といくらかの気力を分けてくれた。こいつと会うまでは会話も自分の中で一人二役だったから、それなりに元気も出てきた。
「ここは一体どこなのよ」
「天界と地上界のはざまだ。たいていの人間は天使たちの管理する輸送船に乗せられて一直線に天界へと導かれるはずだが、貴様はどうしてこんなところにいる」
「……ここに何故いるかですって? そんなの私が聞きたいくらいよ」
「ふむ、死に瀕した人間の記憶は定めて曖昧になるものだから致し方ないか。では貴様に聞こう、これから……」
「まって。待って! あんた今なんて言った? 『死に瀕した人間は』ですって? それってわたしのこと? い、一体なんの話よ」
「想像しているとおりだ。貴様は『天使たちの管理する輸送船』と聞いた瞬間からうすうす感づいているはずだぞ」
悪魔は例のごとく、感情の起伏など微塵も感じられないような声で冷徹に言った。
「貴様の記憶を辿ってみるといい。ここにいると自覚した瞬間より以前の記憶を。きっと貴様は地上で死んでいる」
今の今まで考えないようにしてきたひとつのシナリオがあった。悪魔の態度は淡々とそれを指し示している。
「……つまり、私はあの世への階段を上ろうとしてるってわけ。お世辞のひとつもいえないのね、悪魔って。せめてお気の毒くらい言ったらどうなの」
「我が貴様を気遣う理由などないわ。減らず口が戻ったな。そんな奴には尚のことだ」
「それで、これから私が向かうのは天国かしら? 地獄かしら?」
表情こそ微細な変化しか起こらないが、それは私でなければ気付かなかっただろう。悪魔は鼻を鳴らして、少し楽しそうに言う。
「それは今から決まるのだよ」
悪魔の尻には先端に岩でもくりぬけそうな矛のついた、鞭のようにしなる尻尾が生えていた。この間はランプの中に潜ませていた下半身が露わになっているのだ。筋肉質なのは上半身と同じ。獣のような体毛と蛇の鱗のような光沢のある黒い肌も同じ。つい股間に目がいったがナニかがぶら下がっているようなことはなかった。
「話を聞いているのか、貴様。ぼうっとして」
悪魔の長口舌がひと区切りついたところで、はっと我に返って頭を振る。
「ごめん。それで、私はこれからどうすればいいの?」
「この先に待つ天使の審判に身を委ねるしかあるまい。そこで貴様の行く先が天界か地獄かに決まるのだ」
「いちおう聞いとくけどさ、地上に戻る方法ってないの?」
悪魔は私の顔を見つめたまま動かない。
「な、なによ……」
「意外に思ってな。貴様のような奴は地上に未練など少しもないものだと思っていたのだが」
「聞くだけよ、聞くだけ」
私はなんとなく気恥ずかしくなって、顔があったかくなってくるような気がした。なにこの無意味な羞恥心。ぶんぶんと手のひらを横に振ってごまかした。
「ないことはない。が、それは大いなる危険を伴う。貴様はもちろん、その協力者も天界から目をつけられることになる。実質は不可能な話だ」
「そっか。それじゃ、黙って死んどいた方がいいか」
こいつの言う通り、とくべつ未練なんかないしなあ……
「見えたぞ。やつらだ」
悪魔の視線の先を辿っても、果てしない地平線が遠くに見えるだけでなにもわからない。
「あんたさすが悪魔だわ」
「天使たちとは顔を合わせてあまり気分のいいものではない。奴らは見た目こそ綺麗ななりをしているが、その実狡猾で融通の利かぬ。我はどうにもいけ好かぬから、ここからは独りでゆけ」
「ついて来てくれないの?」
見知らぬ土地、それも人外の理に支配される土地である。仮に悪魔とはいえいなくなれば心細かった。
「ひと癖ある捻くれ者の集団だ。奴らは機械的で、任務に忠実な性格をしている。そういう社会に奴らは属しておる」
「どうして不安を煽るようなこと言うかね……」
「ふん、つべこべ言わずにさっさと蹴散らして来い。弱点は既に教えたからな」
振り返ると悪魔の姿は消えていた。再び振り返りさっきまで歩いていた方向に向き直ると、目の前の一本道がY字に枝分かれしていて、その交差点に看板と、背中に純白の羽の生えた人が立っていた。
おそるおそる近寄ってみる。天使は見上げるほど背が高い。白く長い布を体に巻きつけた身なりをしていて、左肩から先の片腕を露出させていた。頭の上には月桂冠。子供のころに読んだギリシャ神話の漫画を思い出した。立ったまま眠っているのか目をつぶっていて、ピクリとも動く様子がない。視線を足下に落とすと、素足にはサンダルのようなものを突っかけていて、そこで初めて気付いたが彼は地上から少しの距離だけ浮遊していた。どうりで、純白の羽は先ほどからゆったりと空を掻いている。案外地上に足を着けたら私と同じくらいの背格好かもしれない。
しばらく観察しても何の反応も見せないので、次に看板の前に立った。明らかに看板である。地面に打ち込まれた杭に平板が釘止めされてある。どう見ても看板だ。しかし、文字らしきものなどは何も記されていない。
――どうしろっていうのよ、全く。ため息をつくと、すぐ近くから邪悪な視線を感じた。背筋におそろしい寒気がはしり、弾かれるようにそちらを振り返ると、先ほどから何も変わらぬ様子の天使がそこにいた。
今度は後ずさりして、天使も看板も両方が視界に入るように移動した。そして再び看板を見やると、さっきまでは木目が走っていただけのところに日本語が浮かび上がり、なんだかバカにされているような気分になる。――ああ、あの世もグローバル化の時代か。この看板にはユニバーサルデザイン賞を授与してあげたいね。
立看板曰く。
ここは天界と地獄との分岐点です。
どちらの道がどちらへ通じているのか、我々の遣わした天使に尋ねますよう。あなたはどちらの道を選ばれても自由です。
いくつか注意事項があります。
一度選択した道を引き返すことは叶いません。
我々の遣わした天使への質問はイエス、ノーで答えられる質問に限らせていただきます。
我々の遣わした天使へそれ以外の形で質問しても返答はありません。
我々の遣わした天使への質問は一度に限らせていただきます。
我々の遣わした天使は決まって真実を言うように命を受けております、云々。
「……これがあいつの言ってた審判? いやまさか。こんなの、こうやって片方の道を指差して、こっちの道は天界へ通じていますか。って聞けば終わりじゃないか」
「NO」
その声が聞こえた瞬間、喉の奥に馬鹿でかいツララを突っ込まれたような気がした。電子音みたいで生気のないその声は、明らかに天使から発せられてものだと直感できた。
私は左腕を斜め前に伸ばした格好のまま固まった。
「え……」
今のが既に質問に対する答えだったとしたら、私はすぐさまその返事を頼りに天界へと続く道を推理しなくてはならなかった。それにしても、間髪入れない天使の対応には、いつか役所の受付でたらい回しにされたときのような理不尽を感じた。あれはどちらの管轄だとか、事前の申請がなかったから対応できないとか、およそ困った人を突き放すような冷たい態度には相当の苛立ちを覚えたものだ。今回も、空恐ろしさのあとには苦々しい怒りが湧いてくる思いがした。
「えっと、左でノーなら、右がイエスってことで、天国への道はこっち。で、合ってんだよね……」
天使を見上げても、憮然としてぐうとも返事をしない。
「――質問は一度に限らせていただきます、か」
看板は今では表示を変え、大きく『お進みください』と映し出していた。
左の道を進んでゆく途中、ものすごい勢いで、質量のある何かが音も立てずに私のすぐ横を通り過ぎていった。後ろ姿はあの鉄面皮であった。ゆっくりと羽ばたいて、あとにいくつかの羽根を舞い散らしていった。
再び、Y字の分岐路。再び看板と天使。今度は天使のほうが二人に増えていて、いやな予感がした。
「天使業も随分と閑職らしい。私みたいな迷子をからかって遊んでるくらいだからな」
立看板曰く。さっきと全く同じ内容に加え、二人目の天使の説明書きが追記されていた。
なお、警備上の都合、ここより警戒態勢を強化しております。つきましては我々の遣わした天使を一名増員しておる次第であります。彼は絶対に偽りしか口にしない天使であり、質問は彼にして頂いてもかまいません。
重ねて記しますが質問の回数はくれぐれも一度に限らせていただきます、云々。
何より私を苛つかせるのは、その二人の天使の見分けがつかないようにしてあることだ。同じ顔、同じ服、同じ羽、同じ背格好。ほくろの位置が云々とかいったこともこの際同一なのであろう。きっとそういう風にできているのだ。
「ふむ」
決まって真実を言う天使、絶対に偽りしか口にしない天使。二人のいずれかに一度だけ質問をして、天界への道を聞き出さなければならないのか。
しかし、一体どんな質問を? 何を聞いたってその答えに対する信頼度は五十パーセントに過ぎないぞ。ホントを言う天使かウソを言う天使か見分けをつけない限り、どんな答えも信頼するに値しないんだから。「あんた嘘つきかい?」って聞いたら答えはするだろうけど、肝心の道を聞くことはできないし。それに嘘つきに嘘つきですかって聞いてもハイって言うわけないじゃないか。「あんた正直者かい?」って聞いたら二人ともハイって答えるじゃないか。ううむ……
まあ、どんな質問をしたとしても結局は二者択一だから、最終的には運に身を任せればいいか。とりあえず喋らせて、いちかばちか……
そのとき、看板の表示が切り替わる。
あなたの真意は、あなたが天界への道を歩み始めた当初より監視されています。もし不確定な思いを胸に道を選ぶようなことがあれば、その道は決まってあなたを不確定な行き先へと導くでしょう。
――要はお宅さんの気に入らない質問だったら地獄行きってことかい。くそったれ。私が嫌いなら今すぐ落とし穴でも作って、さっさと地獄に送ってしまえばいいのに。なにがしたいんだこいつら。
「ねえ、地獄ってどんな場所?」
私の言葉に、二人の天使は目をつぶったまま押し黙っていた。
<2話>意地わるな天使
○
「地獄はさておき、クレタ島のことなら少しは知っているぞ」
その声は悪魔である。まさに神出鬼没。彼は私を挟んで天使とにらめっこである。
「……あんた、天使と会いたくないんじゃなかったの」
「むろん顔すら見たくもない。しかし我が一方的に嫌っているだけだ。こうして改まって観察してみると、……やはり胸くそ悪い面構えであるよ」
そこに種族の違いがあれば美的感覚も当然異なる。それは異界の住人も同じことなのだろう。あたしにゃあんたの方がよっぽど心臓に悪い顔してるんだが。
「で、貴様。何を油を売っているのだ。蹴散らせと命じておいたはずだぞ?」
「めいじられたおぼえはない」
ふざけんな。私はあんたの下僕でも何でもない。
「ふん。見損なったぞ。この程度の言葉遊びでお手上げとはな」
「言葉遊びと、見え透いた謀略だよ。私は天国とは縁がないらしい。こんなの考えても無駄じゃないか」
ふあわと欠伸をして、Y字路の真ん中に寝転がる。いわゆる不貞寝である。
「あえて聞かなかったことでもあるが」悪魔はそう前置きして、私に質問をする。
「貴様は天界と地獄と、自身はどちらに行くべきだと考えておるのだ」
とくべつ考えるまでもない質問だったから、寝転んだまますぐに返事をしてやった。
「どっちでもいいよ。天国だろうと、地獄だろうと。現に私は死んだっていうのにこうやって生きてるし。あの世には天使と悪魔がいて、それぞれの社会のルールに従って生活してるって、笑える話だね。ばかばかしい。死んでも生きてる。ああばかばかしい」
悪魔は黙っている。
「それよりあんたはどこに住んでるわけ? 悪魔っていうからには、やっぱり地獄? ねえ」
寝返りを打ち、肘を突いて上半身を起こす。足元から見上げても悪魔はまるで無表情で、何を考えているものか想像すら及ばない。
「悪魔の寝床として地獄は少々暑すぎるのでな。我らは魔界を故郷としておる。終着の地、停滞と残像の夢幻空間である。貴様の言うような規則もなければ、そのうえ無秩序でもある」
「ふうん、現実逃避にはよさそうな場所だね」
悪魔はじっと私を見下ろし。何かに興味を惹かれるのが珍しい奴だと知っていたから、それが気になった私は尋ねた。
「あのさ、なにか私に言いたいことでもあるの?」
悪魔は返事の代わりに話題を変えようとする。
「クレタ島の住人であるが」
「はい?」
「やつらから直接聞いた話だ。すべてのクレタ人は、ウソしか言わないのだそうだ」
「だったら何なのよ」
「天使どもは何としても貴様を地獄に落とそうと躍起になっておる。しかし我が貴様に教えられるのはこれきりだ。先で待っているぞ」
そう言い残すと悪魔は消えた。
○
気がつくと眠りこけていた。あの世には昼も夜もないらしい。どれだけ眠っていたかもよくわからない。目覚めの体はあちこち痛かった。
「この天使のうちどちらか一人はクレタ島出身ってわけ」
仕方がないから考えてみる。
「言わばもう一人は正直村の住人ってとこかね」
二人の天使に見分けはつかない。
「ふむ」
ようは、どちらの天使に質問しても同じ回答を得られればいいわけだ。……えーと?
「だああ」
再び寝転がる。そんなことが可能か?
悪魔の言っていたことを思い出してみよう。クレタ島の住人は嘘しか言わない。それをクレタ人の誰かから直接聞いたといっていたな。――だからなんだ。親切な嘘つきだよ……
すべてのクレタ人が嘘しか言わないんだったら、それを教えてくれたクレタ人は悪魔に嘘をついたってことだ。
――ん?
悪魔は騙されたのか。『クレタ人は嘘しか言わない』という『嘘』を信じたのだ。
すると、本来クレタ人は正直者ばかりだということになる。
「ちょっと待て」
どきっと心臓が跳ねた。体を起こして、腕を組む。
おいおい、クレタ人は嘘つきなんじゃなかったか?
仮に本当は正直者だったとして、そうするとクレタ人は悪魔に嘘をつくことができないから、クレタ人の言ったことはやはり『本当に嘘だった』ということで、そのクレタ人は悪魔に嘘をついていたことになって……
――堂々巡りだ。答えにならない。
「なんだよあいつ、けっきょく私を混乱させたいだけなのか。くそ悪魔めっ」
再び寝転がって、目を閉じた。
○
眠っている間に夢を見た。死んでも夢って見られるんだな。
延々と続く荒野の一本道に、ようやく変化が見えて、その分かれ道には一人の男が立っていた。枯れ枝のような見た目の小男は「俺は嘘つきだよ」と前置いてから、旅人に言った。
「希望にすがるか、絶望にただようか、好きなほうを選びな。進むべき道を、おしえてやるから」
旅人を、やけにぎらついた目でねめつける。案の定、旅人は私自身だった。目が覚めた。
死人に希望も絶望もあるか。でもなぜか睡眠欲だけは旺盛だ。死んでも睡眠は必要らしい。おなかは空かないんだけど喉は渇く。不思議だ。
……性欲? どうでもいいじゃないかそんなの。しらねーよ。
○
天使たちは、相も変わらず。
私は彼らの前に仁王立ちで腕を組んでいた。勝ち誇って口元が吊り上っている。
看板が表示を変える。そこには『お進みください』の文字。
○
悪魔がそこにいた。手頃な石に腰を落ち着けて、しなる尻尾がふにふにと左右に揺られている。私が猫だったら、飛びついてしまいそうだ。そんな魅力がある。
「遅いぞ」
悪魔は振り返りもせず言った。
「眠たかったんだよ」
「ふん」
なんだか悪魔が、デートの待ち合わせ場所でやきもきしている少年のようにも見えた。ふん、ってなんだおまえ、ベタな奴だな。
「地獄はさておき、クレタ島のことなら少しは知っているぞ」
その声は悪魔である。まさに神出鬼没。彼は私を挟んで天使とにらめっこである。
「……あんた、天使と会いたくないんじゃなかったの」
「むろん顔すら見たくもない。しかし我が一方的に嫌っているだけだ。こうして改まって観察してみると、……やはり胸くそ悪い面構えであるよ」
そこに種族の違いがあれば美的感覚も当然異なる。それは異界の住人も同じことなのだろう。あたしにゃあんたの方がよっぽど心臓に悪い顔してるんだが。
「で、貴様。何を油を売っているのだ。蹴散らせと命じておいたはずだぞ?」
「めいじられたおぼえはない」
ふざけんな。私はあんたの下僕でも何でもない。
「ふん。見損なったぞ。この程度の言葉遊びでお手上げとはな」
「言葉遊びと、見え透いた謀略だよ。私は天国とは縁がないらしい。こんなの考えても無駄じゃないか」
ふあわと欠伸をして、Y字路の真ん中に寝転がる。いわゆる不貞寝である。
「あえて聞かなかったことでもあるが」悪魔はそう前置きして、私に質問をする。
「貴様は天界と地獄と、自身はどちらに行くべきだと考えておるのだ」
とくべつ考えるまでもない質問だったから、寝転んだまますぐに返事をしてやった。
「どっちでもいいよ。天国だろうと、地獄だろうと。現に私は死んだっていうのにこうやって生きてるし。あの世には天使と悪魔がいて、それぞれの社会のルールに従って生活してるって、笑える話だね。ばかばかしい。死んでも生きてる。ああばかばかしい」
悪魔は黙っている。
「それよりあんたはどこに住んでるわけ? 悪魔っていうからには、やっぱり地獄? ねえ」
寝返りを打ち、肘を突いて上半身を起こす。足元から見上げても悪魔はまるで無表情で、何を考えているものか想像すら及ばない。
「悪魔の寝床として地獄は少々暑すぎるのでな。我らは魔界を故郷としておる。終着の地、停滞と残像の夢幻空間である。貴様の言うような規則もなければ、そのうえ無秩序でもある」
「ふうん、現実逃避にはよさそうな場所だね」
悪魔はじっと私を見下ろし。何かに興味を惹かれるのが珍しい奴だと知っていたから、それが気になった私は尋ねた。
「あのさ、なにか私に言いたいことでもあるの?」
悪魔は返事の代わりに話題を変えようとする。
「クレタ島の住人であるが」
「はい?」
「やつらから直接聞いた話だ。すべてのクレタ人は、ウソしか言わないのだそうだ」
「だったら何なのよ」
「天使どもは何としても貴様を地獄に落とそうと躍起になっておる。しかし我が貴様に教えられるのはこれきりだ。先で待っているぞ」
そう言い残すと悪魔は消えた。
○
気がつくと眠りこけていた。あの世には昼も夜もないらしい。どれだけ眠っていたかもよくわからない。目覚めの体はあちこち痛かった。
「この天使のうちどちらか一人はクレタ島出身ってわけ」
仕方がないから考えてみる。
「言わばもう一人は正直村の住人ってとこかね」
二人の天使に見分けはつかない。
「ふむ」
ようは、どちらの天使に質問しても同じ回答を得られればいいわけだ。……えーと?
「だああ」
再び寝転がる。そんなことが可能か?
悪魔の言っていたことを思い出してみよう。クレタ島の住人は嘘しか言わない。それをクレタ人の誰かから直接聞いたといっていたな。――だからなんだ。親切な嘘つきだよ……
すべてのクレタ人が嘘しか言わないんだったら、それを教えてくれたクレタ人は悪魔に嘘をついたってことだ。
――ん?
悪魔は騙されたのか。『クレタ人は嘘しか言わない』という『嘘』を信じたのだ。
すると、本来クレタ人は正直者ばかりだということになる。
「ちょっと待て」
どきっと心臓が跳ねた。体を起こして、腕を組む。
おいおい、クレタ人は嘘つきなんじゃなかったか?
仮に本当は正直者だったとして、そうするとクレタ人は悪魔に嘘をつくことができないから、クレタ人の言ったことはやはり『本当に嘘だった』ということで、そのクレタ人は悪魔に嘘をついていたことになって……
――堂々巡りだ。答えにならない。
「なんだよあいつ、けっきょく私を混乱させたいだけなのか。くそ悪魔めっ」
再び寝転がって、目を閉じた。
○
眠っている間に夢を見た。死んでも夢って見られるんだな。
延々と続く荒野の一本道に、ようやく変化が見えて、その分かれ道には一人の男が立っていた。枯れ枝のような見た目の小男は「俺は嘘つきだよ」と前置いてから、旅人に言った。
「希望にすがるか、絶望にただようか、好きなほうを選びな。進むべき道を、おしえてやるから」
旅人を、やけにぎらついた目でねめつける。案の定、旅人は私自身だった。目が覚めた。
死人に希望も絶望もあるか。でもなぜか睡眠欲だけは旺盛だ。死んでも睡眠は必要らしい。おなかは空かないんだけど喉は渇く。不思議だ。
……性欲? どうでもいいじゃないかそんなの。しらねーよ。
○
天使たちは、相も変わらず。
私は彼らの前に仁王立ちで腕を組んでいた。勝ち誇って口元が吊り上っている。
看板が表示を変える。そこには『お進みください』の文字。
○
悪魔がそこにいた。手頃な石に腰を落ち着けて、しなる尻尾がふにふにと左右に揺られている。私が猫だったら、飛びついてしまいそうだ。そんな魅力がある。
「遅いぞ」
悪魔は振り返りもせず言った。
「眠たかったんだよ」
「ふん」
なんだか悪魔が、デートの待ち合わせ場所でやきもきしている少年のようにも見えた。ふん、ってなんだおまえ、ベタな奴だな。