「がほっ」
マックのボックス席できょうこが咳き込む。
それは決してここが三重県四日市市であるということには関係がない。四大公害の一つがすぐに思い起こされる地名ではあるが、今や四日市市はただの栄えた都市である。
「がっはー、気管に入ったー! ごほっ」
「あらあら。大丈夫? 慌てて飲むから……」
そう言いながらサヤがきょうこの背中をさする。
二人の手には例によってLサイズのドリンクが握られていた。自転車の旅、しかも夏場となれば、このようなこまめな水分補給をしないと命に関わる可能性すらある。
時刻はもう夕方の4時を回ろうとしていたが、この時期の耐久力のある日差しはまだまだ粘りそうだった。窓の外ではオレンジ色にもなっていない殺人的な光線が街を焼いている。
「大丈夫かきょうこ。どうせ今日はもうこれで泊まるんだし、ゆっくり回復してくれ」
「そうねぇ。まさか浜松から四日市までこんなに早く着いちゃうとは思わなかったわ」
浜松から四日市までは約150キロ程度の距離がある。朝方出発したとして、約7時間で150キロ。真奈がテーブルに突っ伏して頭から煙を出しているのはそのハイペースが原因だろうとうかがえる。
「……ごめんよ……みんな。私さえぶっ倒れなければ今日中にもうちょっと進めたのに……」
煙と共に、真奈はそんな言葉をくゆらせた。
「ごほごほっ。いやいや気にすんなよ真奈。どうせ四日間で京都に着く予定だったんだし、あと100キロちょいくらい明日でなんとかなるだろー」
「そうだといいな。今日はこれで寝たとして、明日は最後の山の鈴鹿峠越えだな。箱根よりは楽だって聞くけど、どうなんだろうな」
ようやく気管からコーラを排出しきったきょうこが、さっき自分がされていたように真奈の背中をさする。
鈴がたった今口に出した鈴鹿峠は、東京京都間での箱根につぐ難所だ。標高こそ箱根よりも低いものの、観光地を通過する箱根とは違って何も無い山中を行かなければならないので、精神的な意味での難所と言える。
「鈴鹿といえばサーキットのイメージが強いけど、やっぱり峠を攻めてる人とか多いのかしら……、なんとか豆腐店の人とかがいないといいわね♪」
「ふふふ……明日の鈴鹿はこのきょうこ様、いやさ、頭文字Kが焦がすぜ……」
「暑苦しいからやめてくれ」
きょうこが一人だけ絵柄の違う顔になっているのを、すかさずに鈴がチョップではたいてもとの絵柄に戻す。
「……それにしても鈴鹿を超えればもう滋賀県か……なんだかんだここまで来ちゃったなあ……」
ようやく体力の戻ってきたらしい真奈が、先程よりは幾分ハリのある声でつぶやいた。のろのろと上体を起こすと、自分のドリンクのカップに手を伸ばしてちゅうちゅう吸い始める。
「確かになー。明日の夕方までには京都に着くと思うと、なんかあっという間だったような気がするよ」
「そうねぇ……。でも、10里を行く者9里を半ばとす、って言うし、まだ何があるかわからないわよ」
すっかりしみじみモードの鈴に、妙に不吉なことを言うサヤ。
だが確かに旅というのは最後まで何が起こるかわからないものだ。
「まあここまでも淡々と来れちゃったしなー。結局マック来てばっかだだったし!」
きょうこが不吉な空気を弾き飛ばすように、不自然なくらいに元気に言い放った。
「……きっとなんとかなるさ……。……というよりも、何かあっても私は何もできません……」
飲み物を飲み終わって再びテーブルに身体を預けた真奈が言う。
窓の外では、日差しがようやくオレンジ色に染まってきていた。