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violin kid (未完)

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 僕の父は世界的に有名なバイオリニストだった。
 おかげで、その一人息子である僕も幼いころからバイオリンの演奏に関する英才教育を受けてきた。しかし、はっきり言って、僕は薄い木で作られたその楽器に興味を持つことができないでいた。嫌々弾いていたのだ。そんな人間に美しい音色が奏でられるはずもなかった。 
 だからと言って、バイオリンから逃げるという選択肢は僕には許されなかった。他に情熱を注ぐことのできることや周囲の期待に逆らう胆力もない僕は、天才バイオリニストの息子というレールにそって生きるしかなかった。
 毎日がやりたくもないレッスンの繰り返し。自分の腕前が上達したという実感は微塵もない。僕にとって、それはまるで地獄だった。精神がすり減らされていく日々だった。
 あの悪魔が僕の前に現れたのは、そんなときだった。


 
 その日、父が雇ったバイオリン講師との個人レッスンを終えて自分の部屋に戻ると、侵入者がいた。
 僕のベッドに腰掛けたその男は皮膚が赤黒く、両耳が尖っていた。ニヤリと笑った口もとからは二本の牙が飛び出している。そいつが悪魔だということは一目でわかった。僕のお気に入りの絵本に出てくるのと、同じ姿だった。
「坊や、バイオリンの才能が欲しくないかい?」
 猫なで声で語りかける悪魔の言葉に僕はコクリと頷いた。精神が消耗していた僕は、悪魔と契約したらどうなるか、ということを冷静に考えられる状態ではなかった。すがれるものがあれば何でも構わなかった。
「おや、思ってた以上に素直だねぇ。バイオリニストの子供としてのプライドはないのかい?」
 悪魔はわざとらしく驚いて見せた。父の子供に生まれた後悔なら散々したけれど、と心の中で答えると、それが伝わったのか悪魔は再びニヤリと笑った。
「オーケー、気に入った。今回は特別にサービスしておいてやるよ。バイオリンの才能はタダで君のものだ」
 すると悪魔の指先から赤い光の粒が飛び出して、僕の体の中に入っていった。体の芯が少し熱くなる。
 こうして僕はバイオリンの才能を手に入れた。
 次の日のレッスンで僕は初めてバイオリン講師に褒められた。それどころか夕食の席では両親の前でバイオリンを披露することになり、父からも絶賛を受けた。
 それまで僕にバイオリンを教えた人間のほとんどは、僕にバイオリンの才能がないことを見抜いていた。親切に上達の秘訣を教えることはあっても、その目はゴミを見るような視線を投げかけていた。しかし父は例外で、わが子には隠れたバイオリンの才能があり、いつかそれが開花するという幻想を捨てきれずにいた。
 そんな父の夢は現実のものとなった。ただし、それはあくまで父にとっての現実で、実際に僕がやったのは汚いイカサマだった。後ろめたい感情はあったが同時に嬉しいという思いもあった。バイオリンの演奏を父に褒められたのは初めてだった。 
 しばらくして僕はバイオリン専門の音楽学校に通うことになった。親が名の知れたバイオリニストか、あるいは名門の家柄だという生徒がほとんどの、いわゆるエリート養成学校だった。僕は、そこでも頭一つ飛びぬけていた。
 そこの講師の中には、父の頼みで僕にバイオリンを教えたことがある人たちも大勢いた。彼らは表面上は優しかったが、裏では僕の才能に嫉妬しているのが分かった。しかし表立って僕に敵意を向ける者はいなかった。彼らには、それほどまでに僕の才能が大きなものに見えたのだろう。中には完全に負けを認めて媚びへつらって来る者までいた。
 悪魔は他人の打算的な考えを見破れる能力までサービスしてくれたのだろうか。そう思えるくらい、僕は他人の下らないおべっかを敏感に察知できるようになっていた。
 大人でさえそうなのだから、正面から僕と競い合おうとする生徒はほとんどいなかった。子供っぽいプライドを必死で抑えつけた作り笑いで近づいてくる彼らに対して、僕はいつも申し訳ない気持ちだった。
 僕は本当はゴミなんだよ。君たちのほうが何十倍も素晴らしい才能を持っているのに。
 しかし、そんな感情も時とともに風化して、いつしか自分の周囲に群がる人々への見下しだけが残った。とは言え僕もそれを表に出すことはなく、周囲から好かれる優等生を演じていた。お互いに本心を仮面で隠していた。
 しかし、あるとき、仮面を被らない一人の男が僕の前に現れた。



 
 彼は庶民向けの下級の音楽学校から、僕たちの学校に編入してきた。親がバイオリニストなわけでもなく、家柄がいいわけでもない。それどころか家は貧乏で、多額の奨学金を受け取っても生活のためにアルバイトをしなければならないような境遇だった。正真正銘、才能だけでここまで上り詰めた人間。そして、これからも、もっと上へと登っていくであろう人間だった。
 彼は学校の中で浮いた存在だった。そもそも編入生というのが珍しかったし、庶民の出身だったこともあって、エリートだらけの他の生徒たちとは話も合わなかった。そして何より我の強い性格が問題だった。彼は他の生徒の演奏にも、平気で文句をつける人間だった。しかし、それに言い返せる人間は誰もいなかった。彼より上手い同年代の奏者は、僕だけだったからだ。
 学内でも選ばれた十数名しか出場できないコンクールでのことだった。僕と彼も選ばれた中に含まれていた。僕が演奏する順番は彼の次だったので、舞台そでの控室では隣の席に座った。
「俺が思うに、このコンクールで俺のライバルになるのは君だけだ」
 いきなりそう話かけてきた彼の顔を僕はじっと見つめた。彼は不敵に笑うと、こう続けた。
「お互い、いい演奏をしようじゃないか」
 僕が何も言えないでいると、彼は席を立ちあがり舞台へと上がっていった。そして見事な演奏が聞こえてくる。激しくて、繊細で、何より心を揺り動かされるような音色だった。あの演奏を聴いて誰より心を揺さぶられた人間は、おそらく僕だったのだろう。彼は本物だった。僕とは違う、本物の才能を持っていた。初めてそれを思い知らされたのがそのときだった。
 舞台そでに帰ってきた彼に、僕は「いい演奏だったよ」と声をかけた。それに対して、彼は「君の演奏にも期待しているよ」と強気な言葉を返した。
 彼と入れ違いでステージに上がった僕は、大勢の観客の拍手で迎えられた。お辞儀をして演奏を始める。いつも通り僕の両腕は自動的に動いてくれた。演奏を終えると、偽物の天才に対して観客たちは拍手喝采。そして、もう一度お辞儀をする。下を向いて客席からは見えなくなった僕の顔には自嘲の笑いが張り付いていた。
 結局、コンクールの結果は僕が一位で彼が二位だった。しかし表彰台の上に立った僕の腹の底から湧きあがってくる感情は、醜い嫉妬以外の何物でもなかった。
「次は負けない」
 隣にいる彼がそう言った。



 それまでの僕は人前以外ではバイオリンに触れることすらしなかった。
 そんな僕がバイオリンを猛練習するようになった原因は彼だった。自分に追いついてくるかもしれない初めての相手に、僕は恐怖していた。練習しなければならない。少しでも上手く演奏できるようにならなくては。そんな強迫観念に、僕は突き動かされた。
 しかし、いくら練習しても僕のバイオリンの腕前は上がらなかった。
 悪魔がくれた才能は所詮は偽物だったのだろうか。それとも僕のようなゴミには、才能を磨く能力などなかったのだろうか。
 どちらにせよ、練習という行為は僕にとって無駄なものだった。それが分かると僕はあっさり練習を止めた。
 相変わらずコンクールでは優勝し続けていたが、彼の名前はいつも僕の一つ下にあった。 
 コンクールで何度か言葉を交わすうちに、彼は学校でも僕に話しかけてくるようになった。正直、彼と一緒にいることは苦痛だったが、優等生の仮面をかぶった僕には彼を拒むことはできなかった。心の内はドロドロした感情でいっぱいだったが、それを隠して友人面をすることは簡単だった。互いを認め合った天才同士の友情は、さぞ美しいものに見えたのだろう。
 そのせいかは知らないが、生徒たちの間では僕と彼が正式なライバルだということが、いつのまにか常識になっていた。実際、僕はともかくとして彼はそのつもりのようだった。
 学内で名前が有名になると、当然ながら彼に嫉妬する人間も増える。それまで僕も他人からの嫉妬を受けてきたが、父親が有名なバイオリニストだったことや、なるべく周囲と軋轢を生まないように振る舞っていたおかげで、僕に対する悪感情を表に出す者はいなかった。だが、彼は違った。何の後ろ盾もない上に、性格は傲岸不遜。周りの人間たちの嫉妬が表面化しないほうが、おかしかった。
 生徒たちの間では彼に対するデタラメな流言飛語が飛び交った。持ち物は隠され、トイレの個室に入っているときに上から水をかけられるのは毎度のことだった。
 しかし、彼は強かった。下らない誹謗中傷や嫌がらせは笑い飛ばしたし、コンクールの当日にトイレでずぶ濡れにされたときは、その格好のままで舞台に上がり、見事な演奏を披露した。
 あるコンクールでは、彼のバイオリンが何者かによって無残に破壊されてしまったこともあった。それには、さすがの彼も困った様子だった。
「すまないけど、君のバイオリンを貸してもらえないかい?」
 プライドの高い彼が僕にする、初めての頼みごとだった。断りたかったが、結局、僕は彼の願いを聞き入れた。
 他の生徒たちと一緒に、バイオリンがないせいでコンクールを辞退する彼を嘲笑うことができたなら、どんなに幸せだったろうか。また、バイオリンを貸したせいで、自分まで下らない嫌がらせの対象になるのではないかという心配もあった。しかし、彼の頼みを断ることは、どうしてもできなかった。
 彼に嫉妬するような人間と同類だと思われることが、僕には恐ろしかった。なんてことはない、僕は自分の正体がバレるのが怖かったのだ。彼の前では、同じ天才でありたかったのだ。
 そのコンクールの結果は、彼が一位で、僕が二位。成長を続ける彼のバイオリンの技量は、そのころには僕と互角以上になっていた。数回に一度は、彼に最優秀賞を奪われた。まだ優劣が完全に逆転したわけではないが、そうなるのも時間の問題だった。
 「すまないね、バイオリンを貸してもらったのに」
 バツの悪そうな顔でそう言った彼に、僕は心の中の嫉妬が爆発しそうになるのを抑えつけながら、答えた。
「手を抜かれるほうが、僕は嫌だよ。それに、次は負けない」
 嘘だった。自分が勝てるとは思えなかった。僕が彼に勝ったことなど、一度もない。
 初めから負けていたのだ。
 



 彼が事故にあったのは、学校の卒業する半年ほど前のことだった。
 アルバイト先の工事現場で、鉄骨の下敷きになったのだ。命に別状はないが、大怪我を負ったそうだ。
 バイオリニストのくせに、工事現場のアルバイトなんてするからだ。ハハハ。貧乏人が出しゃばるから、そういう目に遭うんだよ。いい気味だ。当然の結果だ。普段の行いが悪いから、バチが当たったんだ……。
 彼の不幸を嘲笑う周囲の生徒たちの声は、自然と耳に入った。それらは、僕の胸の奥底にある本心と同調していた。もちろん、表に出すことはなかったが。
 僕は彼が入院する病院に見舞いに行った。無論、彼を心配する演技の一部だった。病院に向かうバスの中で、自分はバイオリンの才能だけでなく、いつのまにか全てが偽物になってしまったのだなと考えた。今さら、何も感じない。自嘲の笑いすら枯れ果てていた。しばらくすると、病院に到着した。
 病室のドアを開けると、彼は「やぁ」と気軽な挨拶をして出迎えてくれた。思っていたより、元気そうに見えた。
 ただし、その左腕には白いギブスが付けられていた。バイオリニストとしては、致命的な怪我だった。
「その……大丈夫なのか? その左腕は」
 僕はその質問を我慢できなかった。彼はしばらく無言で窓の外を眺めてから、おもむろに口を開いた。
「正直なところ……かなり難しいそうだ。指の腱が何本か完全に切れてるらしい。リハビリしても、今までみたいに演奏することは、多分無理だな」
 その言葉を聞いたとき、僕は自分の両足の指先から力が抜けていくのを感じた。何とか倒れないようにしながら、心にもない慰めの言葉を、彼にかけた。
「無理なわけあるか。可能性はゼロじゃないんだろう? それなら、死ぬ気でやってみろよ。それに左手がダメなら……右手で弦を押さえればいい。左利き用のバイオリンは高いけど、それぐらい僕が出してやる。いや、リハビリの費用もだ。僕は全額負担することに決めたぞ。今、決めた。下らんプライドを理由に断るのはなしだからな、この貧乏人め」
 僕の大仰な長台詞を聞いた彼は、狐につままれたような顔をした。そして、次の瞬間声を上げて笑い出した。
「……ふっはははは。君がそんな熱血漢だったとは、まったく知らなかったよ。似合わなすぎる……あはははは」
「笑ってる場合か! まったく、こっちは真面目に言ってるんだからな!?」
 そう言いつつも、彼につられて僕は半笑いになっていた。ひとしきり笑い終えた彼は、僕にこう言った。
「いや、笑ってごめんよ。普段の君のイメージとあまりにかけ離れた言動だったから、ついね。しかし、左手がダメなら右手か……思い切ったことを言うもんだなぁ。だが……うん、そうだな。諦めるにはまだ早い。諦めるのは、やるだけやってからだな」 
「諦めるなんて選択肢はないよ。僕が許さないからな」
「ふはは、どうしてしまったんだ? 今日の君は本当に熱血だ。頭でも打ったのか?」
「君のほうこそ、らしくないからだよ。僕の親友は、そんな弱音を吐く男じゃあなかったはずだ」
 僕の言葉を聞いた彼は、呆けた顔をした。しばらくして、彼はまた笑った。顔がほころんだと言うほうが適切だろうか。
「僕、おかしいこと言ったか?」
「いや、俺は最高の親友を持ったなぁと思っただけさ。ありがとう。君のおかげで何とか立ち直れそうだ」
 彼は僕のことを真っ直ぐに見つめた。屈託のない、真人間の顔に見えた。
「礼はバイオリンを弾けるようになってから言ってくれよ」
「ああ……そうだな。今のは無しだ」
 そう言って、彼は僕に向かって笑いかけた。今まで見せたことがないような、とびきりの笑顔で。笑い返さなくてはと思ったが、無理だった。足が震えている。目の奥が熱っぽい。今笑ったら、全部溢れ出してしまいそうだ。今まで押さえつけて、隠し続けてきたものが、全て。
 僕はその場から逃げだすための言い訳をした。
「そろそろ、僕は帰るよ。卒業演奏会の練習をしなきゃならないから」
「ああ。今日は見舞いに来てくれて、ありがとう。この怪我じゃ、さすがに卒業には間に合わないからな。僕の分まで、君が弾いてくれ」
「うん、わかった。君もがんばれよ。必ず弾けるようになる。僕が保証するよ」
「はは、そいつは頼もしい」
 明るい表情の彼に見送られて、僕は病室を後にした。病院を出て、再びバスに乗る。
 彼のリハビリが、どうか成功しませんように。彼が、どうか二度とバイオリンを弾けませんように。いや、弾けるようになることは構わない。どうか、彼の演奏が見る影もないガラクタに成り下がっていますように。
 帰路の間、僕はずっと心の中でそう念じ続けていた。心の底からの、僕の本心だった。
 全て偽物だ思っていた自分の中に、ただ一つだけ、本物の気持ちがあった。それは、彼への嫉妬心であり、劣等感であり、憎しみだった。だが、もうそれからも解放される。
 いつの間にか、僕は家の玄関の前に立っていた。帰り道の記憶が途中からなかった。無意識の内に、体が動いていたらしい。
 家の門を開ける。広い庭を横切って、玄関まで速足で向かう。学生の身分で、一戸建てで独り暮らしができるのは、父の財産のおかげだった。靴を脱ぎ棄てて、いつもバイオリンの練習に使っている防音室へ向かう。バイオリンの練習のためではない。全てをブチ撒けるためだった。防音室の扉を閉じると、自然と笑いがこぼれた。
 ああ、腹が痛い。実に愉快だよ。まったく。あんな言葉、本当に信じたのか? だとしたら、君は実に愚かだ。救いようがない。本当のことを言ってやる。全て嘘だよ。君はもう終わりだ。バイオリンを弾けなくなった天才バイオリニストだって? お笑い草だ。そんなものに、何の存在価値があるんだ? リハビリで治るわけがない。元の状態には、絶対に。ああ、実に残念だよ。君のあの、すばらしく耳障りな演奏を聴けなくなるなんてねぇ。せいせいする。目の上のたんこぶが取れた気分だ。すがすがしい。もう誰も僕を脅かす者はいないんだ。僕が一番なんだ。君は地面に這いつくばって、最高の親友とやらが活躍する姿を見てるがいいさ。思い切り見下して、嘲笑ってやるからさ。君だって、本当は嫉妬していたんだろう?そうに決まってる。そして、あげくの果てに、僕のことを見下すようになったんだ。ちょっと演奏が上手くなったからって、調子に乗りやがって。思い上がりやがって。当然の報いだ。そうだ。僕は悪くない。悪いのは君だ。君が現れたから、僕は――。
 次の日の朝、僕は防音室で目を覚ました。あのまま、笑い疲れて眠ってしまったらしい。寝違えた首が痛かった。洗面所へ行って、顔を洗う。
 鏡を見ると、両目を真っ赤に腫らした自分がいた。



 
 それから数か月後。
 卒業演奏会の日の朝、僕は久々に母に髪をといてもらった。母は演奏会に出席するため、その前日に僕の住む家に来て一泊していた。
「あなたも、成長したわねぇ。すっかり立派になっちゃって。お父さんに見せれないのが、残念だわ」
「大丈夫だよ……父さんに届くぐらいの凄い演奏をしてみせるから」
「……ふふ、本当に成長したわねぇ」
 母はそう言って後ろから僕を抱きしめた。香水の甘い匂いがする。それに混じって、赤ん坊のころに嗅いだことのある、懐かしい匂いもした。温もりの中に身を委ねながら、ふと考える。僕って実は、マザコンなのだろうか。正直、それはあまり気分のいい話ではないな。色々と気持ちの整理もついたことだし、卒業したら彼女の一人でも作ろうか。今まで、バイオリン一筋だったわけだし。
「あの、母さん?そろそろ離してくれないと、遅刻しちゃうんだけれど」
「……ええ?ああ、そう、ごめんなさいね。私ったら、ちょっと感動しすぎちゃって」
 恥ずかしそうに笑う母親の姿を見ていると、僕はあることを思い出した。悪魔にバイオリンの才能をもらうずっと以前、下手糞な演奏のせいで父に怒られた僕を慰めてくれたのは、いつも母だった。今でこそバイオリンに詳しくなったが、母はもともと音楽の世界とは関係のない人間だった。だから、バイオリンの才能がなかった当時の僕が甘えることができたのは、母だけだったのだ。そういう意味では、父が母を選んでくれたことには、感謝をすべきなのだろうか。両親ともバイオリニストだなんて、ゾッとしない。
 僕の相手も、バイオリンとは関係のない人がいい。なんとなく、そう思えた。いや、そうなると、やはり僕はマザコンなのだろうか。理想のタイプの女性が、母親みたいな人間だなんて。
 そこで、僕は思考を停止した。これ以上考えても、身もだえしたくなるだけだ。
「演奏会の順番、最後なんでしょ? 本当に立派なものよねぇ」
 僕の気も知らないで、母親が微笑んだ。

 数時間後、演奏会はすでに佳境に差し掛かっていた。
 舞台そでの控室で順番が回って来るのを待っていると、自分の気分が高揚していることが分かった。
 心臓の鼓動が早くなっているが、緊張はまったくしていない。いつもは無感情に演奏をするだけなのに、このときは自分の順番が待ち遠しかった。すぐにでも、観客の拍手を浴びたいと思った。
 生まれて初めて、バイオリンの演奏を心から楽しむことができるかもしれない。そんな期待が、僕の中にはあった。
 やがて、僕の一つ前の奏者が演奏を終えた。舞台そでからは、観客の拍手にお辞儀をしているその人の姿が見えた。その表情は非常に満足げだ。ふん、どいつもこいつも、そんな小さな拍手でいい気になりやがって。爆雷のような拍手を僕が聞かせてやる。せいぜい、格の違いを思い知るがいいさ。
 椅子を立ち上がった僕は、前の奏者と入れ違いで、舞台の中央に立つ。自分を照らす舞台照明が、いつもより眩しく感じられた。拍手で僕を迎える観客に、お辞儀をする。皆が自分を見ている。その視線が心地良かった。
 お辞儀を終えると、静寂の中で僕は目をつむって深呼吸をした。観客たちの視線は、肌で感じられた。その中の一つは、母のものだ。もしかしたら、父の視線も会場のどこかで僕を見ているのかもしれない、と思った。
 いいだろう。そんなに見たいというなら、見せてやる。ひれ伏すがいいさ、僕の才能に。
 僕は目を開いて、バイオリンを構えた。今まさに演奏を開始しようとした、そのときだった。
 舞台の照明が、消えた。
 辺りは暗闇に包まれて何も見えない。観客席からは、ザワつきが聞こえた。
 一瞬、驚きはしたが、僕は眉をひそめただけだった。単なるアクシデントだと思ったからだ。せっかく、いい気分で演奏ができると思ったのに、水を差しやがって。呑気に腹を立てている、そのときだった。
 暗闇の中から、バイオリンの音色が聞こえた。もちろん僕の演奏ではない。だが、聞き覚えのある音色だった。
 スポットライトの一つが、舞台上に向けられた。照らし出されたのは僕ではない。
 彼だった。

 会場のザワつきは、彼の演奏が始まるとすぐに収まった。それほどまでに、彼の演奏は素晴らしかった。誰もが彼のバイオリンに聴き入っている。僕もその内の一人だった。彼は今まで通り、左手で弦を押さえて演奏をしていた。しかし、彼の演奏に魅了されていた僕は、なぜこんな短期間で怪我が回復したのかという疑問を考えることもできなかった。今までの彼への嫉妬や劣等感や憎しみすらも、心の隅に押しやられた。彼の演奏が、僕の心を侵食したのだ。もはや、天才どころではない。彼は神に愛された男だった。あるいは、悪魔に愛された男か。
 彼は唯一無二の本物だった。僕とは違う。
 彼の演奏が終わると、爆雷のような拍手が起こった。本来なら、それは僕に対して送られるはずのものだ。今までの僕ならそう思っただろうが、そのときは違った。僕は自分が完全に敗北したことを悟っていた。僕が彼以上の拍手を受けることは絶対にない。
 観客たちは、彼の演奏の余韻に浸っていた。僕だけが絶望感で崩れ落ちそうになっていた。
 「やぁ」
 照明が元通りになった舞台の上で、彼は気軽な感じで声をかけてきた。僕は何も答えられない。
「何て顔をしてるんだ、君は?幽霊でも見たのか? いや……まぁ、傷が治ったことを言わなかったのは、悪かったよ。すまない。あんなに励ましてくれたのに。なにぶん、この演奏会の練習で時間がほとんどなかったものでね」
 彼の顔を見ると、目の下に大きなくまができていた。心なしか、以前よりも少し痩せて見える。しかし、彼はすがすがしい顔をしていた。そんな彼に向かって、僕は何とか言葉を絞り出す。
「……なんで、そんな……左腕は、治るはずが……」
「んん、これか。まぁ、人間の体ってのは意外とスゴいんだよ。もしかしたら、医療ドキュメンタリーの取材が来るかもしれないな。あるいは、バラエティ番組か何かかも。ははっ」
 彼はそう言って、左手を閉じたり開いたりした。僕はその答えにまったく納得できなかった。
「……おい、ふざけるなよ。あの怪我がそんな簡単に治るはずがないだろ。もしかして、無理して動かしてるんじゃないのか?君のバイオリニストとしての人生は、卒業した後も続くんだぞ?こんな演奏会のために無理なんかして、一生弾けなくなったら――」
 こんな状況ですら、僕の上辺だけの友達ごっこは完璧だった。同時に、最後の望みもかけていた。願わくば、彼が二度とバイオリンを弾けませんように、と。
「いや、大丈夫だ。本当に平気だよ」
 彼はあっさりとその希望を打ち砕いた。僕は再び質問をした。
「あの怪我は、嘘だったのか?」
「いや、本当に腱は切れてた。普通なら一生バイオリンが演奏できなくても、おかしくない状態だったよ」
「じゃあ、どうして治ったんだ?」
「悪魔と契約したんだ」
 彼の言葉の意味は、すぐに理解できた。同時に、自分の中で何かが崩れる音が聞こえた。
「こんなことを言うと、頭がおかしいやつだと思われるかもしれないけど、君には話すよ。三日前の晩に、悪魔が俺の病室に現れたんだ。それで、取引をすれば、俺の左腕を元みたいに動くようにしてやるって言われた。信じられないだろ? 俺自身、あれは幻覚じゃないかって疑ってる。けど、俺の左腕はこうしてちゃんと動いている」
 そこで彼は、一瞬言葉を切った。
 そのとき僕は、彼を軽蔑していた。悪魔なんかに頼るなんて、見損なったよ。君はそんな汚いやつじゃないと思っていたのに。プライドはないのか。最低な人間だ。君はこの世のクズだ。
 そうやって彼を貶め、自分と同じ人の領分を犯した罪人だと思いこむことで、僕は何とか己を保とうとしていた。彼が僕と同じ人間のクズであるならば、僕はこの残酷な運命に耐えられた。
 だが、彼の次の言葉はそんな僕に止めを刺すものだった。
「そのために、残りの寿命半分を引き換えにした」
「――えっ?」
 僕は頭をハンマーで殴られたような衝撃を感じた。寿命の半分と引き換え? 何を言っているんだ、この男は。
「……後悔はしていないよ。俺には、バイオリンしかない。こんな決断をしたこと、君は怒るかもしれない。でも、自分なりに考えた結果なんだ。これが、一番俺らしい生き方だって」
 待てよ。待ってくれ。僕にはタダでバイオリンの才能をくれた悪魔が、本物の才能を持っている君から、何で寿命の半分も奪う必要があるんだ。おかしいじゃないか。なぜそこで差が生まれるんだ? いや、良い方向に考えるべきだ。僕は子供だったから、悪魔もサービスしてくれたんだよ。そうに違いない。あるいは、彼が悪魔の機嫌をそこねるようなことをしたんだ。それで、ぼったくられたのだ。とにかく、僕が何も奪われなかったのは、運がよかっただけなんだ。絶対、そうだ。
 悪魔にとって奪う価値があるものを、僕は何一つ持っていなかった。
 なんてことは、あるはずがないんだ。
 僕はからっぽなんかじゃない。そんなはず、ない。
 ――でも、もしある日突然、バイオリンの才能がなくなったら、僕には何が残るのだろうか?
 答えは見つからなかった。何も残らない? いや、違う。混乱しているだけだ。じっくり考えれば、きっと見つかるはずだ。じっくり考えなければ見つからない程度のものしか僕は持っていないのか?
 「君の演奏にも期待しているよ」
 いつかのようにそう言って、彼は舞台そでへと歩いていった。
 舞台の上には、僕一人が取り残された。

 じんわりと、額に汗がにじむ。
 突き刺さるような観客たちの視線がヒリヒリと痛い。熱のこもった視線だ。さっきまでは心地よいと思えたのに、今は逃げ出したい気分だった。きっと彼に勝るとも劣らない演奏を、僕に期待しているのだろう。やめてくれ。偽物の僕に、そんな演奏ができるはずがないじゃないか。初めて彼と言葉を交わしたコンクールでは、僕は彼の次に演奏して一位を取った。しかし、あのときとはもう違うのだ。力量は完全に逆転してしまった。それを取り戻すことは、二度とできない。
 でも、やるしかなかった。
 僕は震える手で、バイオリンを構えた。
 ふと観客席に目を向けると、その中に母親を発見した。誇らしげな表情で、こちらを見ている。しかし、その目は息子ではなく、一人のバイオリニストとして僕を見ていた。
 そしてその隣には、父親がいた。父さん、来れるはずがないのに。僕は泣きたい気分になった。あの人には、今の僕はどう見えているのだろうか。才能に溢れた、自慢の息子と思ってくれるだろうか。
 自分にそんな資格がないことは分かっていたが、両親の目の前でだけは本物でありたいと僕は願った。
 僕は自分の手元に視線を戻した。
 彼には絶対に敵わないが、少なくとも、今この場で演奏をやり遂げることはできる。それが自分にできる唯一のことだ。今まで騙し続けてきた両親への、せめてもの償いなのだ。
 僕は父さんと母さんを、このままずっと騙し続けなければならない。自分たちの息子が、下らない偽物のガラクタだなんてことは知らせるわけにはいかないのだ。僕が死ぬまで、それは続くだろう。
 口の中にたまった唾を飲み込んで、演奏を始めようとした。
 しかし、僕の手はピクリとも動かなかった。
 いつもは悪魔にもらった才能が自動的に動かしてくれる僕の両腕は、凍りついたように静止したままだった。
「おやまぁ、なんてタイミングが悪いんだろうなぁ」
 意地の悪い声が、どこからか聞こえた。視線を上げると、あのときの悪魔が僕のそばにいた。舞台上にいるにもかかわらず、観客は無反応だった。どうやら僕以外には見えていないらしい。
「サービス期間は終了だ、坊や。天才でいたいなら、払うものを払ってもらわなくちゃなぁ」
 その言葉の意味はすぐに理解できた。あいつは初めから、こうするつもりだったのだ。バイオリンの才能をタダでくれたと思わせておいて、それが僕の人生にとってかけがえのないものになったときに、その代償を払わせる。もし断れば、僕は――からっぽのただの人に戻ってしまう。いや、それ以下だろう。
 バイオリンを弾けなくなった、天才バイオリニストだって? お笑い草だ。そんなものに、何の存在価値があるんだ?
 僕は久々に、自嘲の笑いを顔に浮かべた。
「どうしたんだい?演奏をしなきゃいけないんだろう? それとも、今さら自分の力を信じてみる気にでもなったのか? ははは。そいつは感動的だなぁ。やってみな、坊や。できるものならねぇ」
 悪魔も、僕に合わせて笑った。
 舞台照明が、嫌に眩しく感じられた。両足を地につけている感覚はない。ふわふわと浮き上がったような、あるいは奈落の底に落ちていくような。そんな感じだ。
 ふいに天と地が逆さまになった。
 ああ、これなら弾けるかもしれない。天地がひっくり返ったのなら、ガラクタのような僕にも、本物の天才にしか生み出せない音色を奏でられるかもしれない。
 僕は自分の手を動かそうとした。悪魔の才能によってではなく、自分の意思でバイオリンを弾こうとしたのだ。
 しかし、僕の手にはバイオリンはなかった。頭上を見ると、そこにバイオリンが浮いていた。手を伸ばしたが、届かなかった。
 遠くのほうで、誰かが悲鳴を上げていた。喧噪が聞こえる。「おい、倒れたぞ」「救急者だ、早く」
 うるさいなぁ、静かにしてくれないか。
 僕はバイオリンを弾かなければならないんだ。
 みんな、黙って聞いていてくれよ。
 こんなガラクタの演奏に、そんな価値はないって言うのか?
 

 ああ、そうだよ。

 血相をかかえて僕のほうに近づいてくる彼が見えた。
 どうしたんだ、そんな顔をして。いつもの余裕面はどうしたんだ。
 ところで、さっきの返事は君がしたのか?ひどいじゃないか。親友なら、「君はガラクタなんかじゃない」とか、慰めの一言があってもいいんじゃないのか?
 ――違うな。あれは君の声じゃなかった。父や母の声でもなければ、あの憎たらしい悪魔の声でもない。
 あれは、僕自身の声だ。
 「おい、大丈夫か? しっかりしろ」
 今度は彼の声が聞こえた。僕はそのまま意識を失った。



 
 ベッドの上で目覚めると、目に入ってきたのは、心配そうな表情をする母親と彼の顔だった。起き上がって周りを見回したが、見覚えのない部屋だった。二人はベッドのそばで、丸椅子に座っていた。
 「……ここは?」
 僕の質問に、母が答えた。
「病院よ。あなた、ステージの上でいきなり倒れたの」
 僕は、舞台の上で彼とした会話を思い出した。そして悪魔に言われたことも。僕は彼の顔を見た。何を言おうか考えていると、彼のほうが先に口を開いた。
「本当にすまなかった。驚かせるつもりがなかったと言えば嘘になるけど、まさかこんなことになるなんて。すまない。舞台の上で変なことを言ってしまったことも、謝るよ」
 彼の顔を見ると、目のしたのくまがいっそう濃くなっていた。
「ああ、いいんだ。別に君のせいじゃない。本当に……ところで、演奏会はどうなったの?」
 その質問に、母と彼は戸惑った表情をした。一瞬の沈黙のあと、彼が答える。
「演奏会は……君抜きで終わった。伝統あるものだから、一人の生徒のために中断させるわけにはいかないって。君が卒業演奏会で演奏する機会は、もうないんだ」
「伝統? あんな登場の仕方をした男が、よくもまぁそんな台詞を口にできるな」
 僕の言葉に、彼はギョッとした顔になった。その隣では、母がうろたえている。しかし、すぐに彼は笑い出した。僕もそれに合わせて笑った。
「なんだ、全然、こたえていないじゃないか」
「当たり前だよ。僕はこれから世界中で演奏会を開くようなバイオリニストになるんだ。卒業演奏会に参加できなかったぐらいで、落ち込んでいられるか」
 笑い合う僕たち二人の横で、母が訳がわからないというような表情をしていた。それは、僕たち二人の間にしか通じ合わないものが――たとえ、偽りの友情だったとしても――確かにあったということだろうか。僕には分らない。
 ひとしきり笑ったあと、彼が言った。
「それにしても、本当に大丈夫か? その様子じゃあ、緊張で倒れたってこともなさそうだし。どこか体でも悪いんじゃないのか?」
「大丈夫だよ。それより、君のほうこそ辛いんじゃないか?演奏会の練習で寝てないんだろ、その目の下のくまは。僕のことはいいから、家に帰って早く休め。左手が治ったのに、体を壊したんじゃ元も子もないぞ」
「ああ、そうするよ。君が倒れた理由を教えてくれたならな」
「問題ない。ただの疲労だよ」
「……君は、二日も眠っていたんだぞ」
 彼の目は真剣だった。僕のことを本気で心配してくれているのは、嫌でも伝わってきた。僕に励まされたことのお返しのつもりだろうか。
 僕は自分が二日も眠っていたことを聞いても、それほど驚いていなかった。むしろ、二度と目覚めなければよかったのに、とすら考えていた。だが、自分をこれだけ心配してくれる親友の存在には、少しだけ感謝していた。
「体のことは心配ない。そこまで言うなら、後で精密検査も受けるよ」
「……そうか」
 彼はそれで納得してくれたようだった。倒れた理由を話すことが、僕のプライドを傷つけてしまうと察してくれたのだろうか。
「じゃあ、君の忠告通り、俺は帰って休むことにするよ。まったく、五日も寝てないなんて、新記録だよ。さすがの俺も、今にも倒れそうだ」
「大丈夫? 私が送っていきましょうか?」
「いえ、ご心配には及びませんよ、お母様。こいつと一緒にいてやってください」
そう言って、彼はフラフラと立ち上がった。
「おい、本当に大丈夫か?母さん、やっぱりこいつに付き添ってやってくれ」
「大丈夫だって言っただろ? 寝不足には慣れてるんだ」
「慣れてる?」
「ああ、いつも演奏会やコンクールの前は、練習のために三日ぐらいは平気で起きてたからな」
「嘘をつけよ。君が目の下にくまを作ってるところなんて、初めて見たぞ」
「ああ、いつもメイクで隠してたからな」
 初耳だった。僕が驚いた顔をしていると、彼は恥ずかしそうな笑いを浮かべた。
「君にバレるのが嫌だったから、隠してたんだぞ? ああ、クソ。勢いで言っちまった。ずっと隠し続けるつもりだったのに。寝不足の変なテンションのせいだな、これは」
「……よくもまぁ、三日も寝ずにバイオリンが弾けるな。早死にするぞ?ただでさえ――」
 ただでさえ、君は悪魔に寿命を半分取られてしまったというのに。僕は言葉を濁したが、彼には何を言いたいのかが伝わったようだった。
「いいんだよ。言っただろう? 俺にはバイオリンしかないんだ。そのためなら、寿命の四十年や五十年ぐらい、いくらでもくれてやる。バイオリンのためなら、いくらでも、無理をしてやる。俺はバカだから、こんな生き方しかできないんだ。それに……君には、負けたくなかった」
 そのとき、僕は唐突に理解した。彼が悪魔の才能を持った僕を超えることができたのは、元から持っていた才能のためではない。努力したからだ。僕に負けたくない、という一心で。
 彼も僕に嫉妬してたのだ。そして、コンクールで僕より上位に入選したときは、優越感に浸ったに違いない。だが、彼は僕と違って、それらの感情全てをバイオリンを上達するためのパワーに変えたのだ。全てをバイオリンに注ぎ込んだのだ。それに対して、僕は勝っても負けても、一喜一憂していただけだ。それが、彼と僕との違いだ。本物と偽物の違いだった。
「でも君のせいで俺の寿命が縮んだなんて思うなよ。俺がバカなだけだから、気にするな。ああ、でも、こう言っても君は気にするんだろうな。今のは失言だったな。まったく、寝不足だと判断力が鈍って困るよ。悪いな、こんなこと言って」
「いや……いいよ。文字通りのバイオリンバカだ、君は」
 僕ら二人は、また笑いあった。
 多分そのとき、僕は泣きそうな顔をしていただろう。
 完敗したと思ったのに、君はまだ、僕に敗北感を感じさせるのかよ。僕なんかじゃあ、絶対に敵いっこないじゃないか。ここまで来ると、逆に笑えてくるよ。
 そんな泣き言を、僕は心の奥底に封じ込めた。
「じゃあ、帰るよ。俺が言うのもなんだけど、体は大事にしろよ」
「バカヤロウ。そっちがどんなつもりでバイオリン弾いてたって関係あるか。君が自分の健康に気をつかわないって言うなら、絶交だ……じゃないな、君が絶交だって言っても、付きまとって無理矢理、健康になってもらうからな。覚悟しておけよ」
「はは。また出たな、熱血漢。ああ、そういえば、あのときの礼を忘れるところだった。腕を怪我して、バイオリンを諦めそうになってた俺を励ましてくれて、ありがとう。今、こうして俺の健康に気を使ってくれていることも、感謝するよ。やっぱり、君は最高の親友だ」
「本当にそう思ってるなら、自分の体をもっと大事にしろ」
「……ああ、わかったよ」
 そう言うと、彼は病室を出て行こうとした。しかし、部屋のドアを開けた彼を、僕は引き止めた。
「待ってくれ」
「ん?なんだい?」
「今思いついたんだが、卒業演奏会で弾けなかった分を、一人でやってみようと思うんだ。できるかは分からないけど、学校のホールを貸し切って。僕は理事長には気に入られているから、多分、頼んでみれば難しいことじゃないと思う。君にも聴きに来てほしいんだけど、いいかな?」
「思い切ったことをするなぁ。答えは、もちろんイエスだ。楽しみにしてるよ」
 そう言って、僕の親友は部屋を出て行った。


「いい友達を持ったわね。まぁ、自分の体を大事にしないところだけは関心しないけど」
 彼がいなくなった病室で、母がそう言った。僕はそれに「ああ」と返事をした。
「なんだか、ごめんね。母さんが蚊帳の外みたいになっちゃって」
「ううん、気にしてないわ。それに、私が口をはさむ余裕なんて、本当になかったしね。まるで、兄弟みたいだった」
 兄弟か。そう言われて、悪い気はしなかった。僕はさしづめ、優秀な兄に追いつきたい弟と言ったところか。いや、弟の前でいい格好をしたい兄のほうだろうか。
 ふと彼が母を「お母様」と呼んでいたことを思い出して、少し納得がいかない気持ちになった。彼が僕と母の間にまで割り込んでくるようで心配になった。それは自分がマザコンだからか?
「でも、あなたのほうこそ、体は大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫。もし自分でも気が付いてないことがあっても、精密検査は受けるつもりだから、心配ないよ」
 僕の言葉に、母はひとまず安心してくれたようだった。しかし、僕は自分の胸に引っかかりを感じていた。それを何とかできるのは、今しかないとも思えた。
「……母さんには話していいかな。僕が倒れた本当の理由」
 嘘をつくつもりはなかったが、全てを話すつもりもなかった。悪魔のことと、自分の才能が偽物であることは、一生の秘密だ。しかし、たとえ事実の一部分だけでも、僕は母に話を聞いてもらいたいと思った。
「僕が舞台に立ったとき、客席に父さんがいたんだ。母さんの隣に」
 僕の言葉に、母はハッとした表情をした。
「嘘じゃないよ。確かにいたんだ。表情までは分らなかったけど、僕のほうを見てた」
「多分、嬉しそうな顔をしてたと思うわ。あなたの晴れの姿ですもの」
 そう言って、母は穏やかに微笑んだ。僕は自分の目の奥のほうから、抑えられないものが込み上げてくるのを感じた。
「でも、彼が僕の前にあんな演奏をしたから……母さんも聴いたでしょ?あんなスゴイ演奏は、僕の人生で初めてだった。それで打ちのめされてたんだ、僕が敵うはずないって。でも、父さんの前だったから、負けられないと思って、頭に血が上って、気が付いたら倒れてた」
 僕は泣きそうになっていた。半分は演技で、半分は本当に泣いていた。そんな僕の頭を、母はやさしく撫でてくれた。ずっと昔、幼かった僕をあやしてくれたように。
「ダメだ……僕、せっかく父さんが来てくれてたのに……がっかりさせちゃったんだよ」
「そんなことないわ。今まで、こんなに頑張ってきたあなたを見て、がっかりなんてしない。彼の演奏もすごかったけど、あなたにも素晴らしい才能があるじゃない」
 母は僕の頭を抱き寄せた。その胸に顔をうずめて、僕は泣きだした。
 この歳でこんなことをするなんて、やっぱり僕はマザコンだ。気持ち悪い。
 そんな僕を慰める母の声が聞こえた。
「大丈夫よ。一人で演奏会をするんでしょう?きっと、お父さんも、また天国から見に来てくれるわ」
 父は数年前に死んでいた。僕が在学中のときだ。
 死因は拳銃自殺。バイオリンの公演のために、外国に行ったときのことだ。
 なぜそんなことをしたのか、理由は分らなかった。
 


 母が家に帰って、夜になった。
 二日も眠っていただけあって、僕はちっとも眠れなかった。いつのまにか、時計の針は深夜の二時を指していた。
 そのとき、僕の足元の側にあるベッドの柵の間から、誰かがこちらを覗き込んでいることに気が付いた。
 悪魔だった。
「やぁ、来ないかと思って焦ったよ」
 僕が挨拶をすると、悪魔は柵の上によじ登った。その顔には、相変わらず意地の悪い笑みが浮かべている。
「一人で演奏会をするつもりだってことは、そういうことでいいんだよなぁ。契約してくれるってことで」
「ああ、頼むよ」
 気絶してしまったせいで、悪魔との契約はまだだった。自分の中のバイオリンの才能がなくなっていることは、なんとなくだが分かっていた。胸の下辺りが、妙に軽い気がしていた。
「なんだぁ? 意外だな。もっと憎しみのこもった目で睨み付けられると思ってたのに、悟りを開いたような顔をしちゃって。坊やのお友達の寿命を奪ったのは、俺なんだがねぇ」
「憎くないわけないだろ。お前のせいで、人生を狂わされた」
「おっとぉ、言いがかりはよくないぜ。バイオリンの才能を望んだのは坊やだし、左腕を治してほしいと望んだのも、あのお友達だ。俺は願いを叶えてやっただけだぜ? 自分の仕事に忠実だっただけさ」
 悪魔は挑発するような口調でそう言ったが、僕はもう怒る気力も失せていた。どうせ選択の余地はない。
「僕からも、寿命の半分を奪うのか?」
「いいや、坊やにとって、死ぬことは苦しみからの解放でしかないからなぁ。わざわざ楽にしてやるつもりはないよ。苦しみながら、天寿をまっとうするんだな。その代わり、死んだ後は極上の地獄用意しといてやるよ。ひひひ」
 この悪魔め、と僕は思った。
「彼も死んだ後は地獄行きか?」
「ああ、悪魔と契約した人間に、例外はないからな」
「どうにかならないのか?僕が肩代わりするとか」
「無理だね」
 救いはなかった。せめて、僕が犠牲になることで彼が助かるならと思ったが、結局それは僕の心が救われることを意味していた。悪魔はそれを見抜いていた。
「じゃあ、さっそく契約してもらうぜ。宣誓しな。バイオリンの才能を得る対価として、自分の命を悪魔に捧げると」
「バイオリンの才能を得る対価として、僕の命を悪魔に捧げる」
 すると、悪魔の指先から赤い光の粒が飛び出して、僕の体の中に入っていった。体の芯が少し熱くなる。
「これで正真正銘、その才能は坊やのものだ。せいぜい大事に使うことだな」
 悪魔はそう言って笑った。 
 次の日、僕は病院で精密検査を受けた。特に体に異常は見られなかった。少し残念に思った。
 その日の午後には、僕は病院を退院していた。
 さっそく、理事長に会いに学校へ向かった。卒業演奏会を台無しにしてしまったことを謝ったあと、ホールを貸してほしいとお願いした。自分でも虫のいい話だと思ったが、理事長は快諾してくれた。普段、優等生ぶっていたおかげだった。
 僕の個人演奏会は、三日後に決まった。


 
 もっと人を呼ぼうかとも考えたが、演奏会の観客は彼と母だけにした。さもなければ、学校の生徒のほとんどが集まってしまい、個人演奏会の意味がなくなる。
 演奏会の当日、人のいないホールに来た彼は、歓声を上げた。目の下のくまはない。どうやら、睡眠はしっかりと取れたようだ。
「ははは、いやぁ、つくづく君は思い切ったことをする男だなぁ。本当に貸切にしてしまうとは、恐れいったよ。ある意味、一番の特別待遇じゃないか。こんなことなら、俺もあのとき一緒に倒れていればよかったんじゃないか」
「問題児の君じゃ無理だよ。理事長、僕より君の登場の仕方に怒ってたぞ。伝統ある演奏会を何だと思ってるんだ、ってさ」
「ははは、そいつはマズいな」
 僕ら二人は、いつものように笑いあった。けっして、長年ため込んできた彼への感情が消えたわけではない。けれども、彼は僕の親友だ。僕にはそんな資格はありはしないけれど、彼がそう望んでくれる限り、それに応えようと思った。
「今日は来てくれて、ありがとう」
「こちらこそ、こんなすごい演奏会に招待してくれて、光栄だね。さすがは僕の親友だ」
「……ああ、まぁね」
 それからしばらく二人で他愛もない話をしていると、今度は母がやって来た。
「ごめんなさいね、待たせちゃって」
「いや、大丈夫だよ。まだ予定の時間には、なってないから」
「俺もさっき来たばかりだから、気にしないでください。さぁ、お母様、こちらの席へどうぞ。荷物は俺がお持ちしますよ」
「あらやだ、気が利くのね」
母をエスコートする彼に、僕は小声で話しかけた。
「君って、そんなキャラクターだったっけ?」
「何言ってるんだ。紳士たるもの、レディを気遣うのは当然だろう?」
 そう言えば、今まで意識したことはなかったが、彼は女にモテるんたっけ。今度、女の子の口説き方の一つでも教えてもらおうか。
「今日は一段とお美しいですよ、お母様」
「あら、お世辞でも嬉しいわ」
「いえ、本当にお綺麗ですよ。デートにお誘いしたいぐらいだ。どうです、今度お食事でも?」
 僕は呆れた顔をした。それはいくらなんでも、節操がなさすぎる。仮にも親友の母親だぞ?僕は再び小声で話しかけた。
「君、いつの間に母さんとそんなに仲良くなったんだ? ちょっと慣れ慣れしいぞ?」
「まぁ、二日も君の看病を一緒にしていればな」
「ああ、そういうことか……でも、それにしたって、親友の母親を口説くなんて悪趣味な冗談だろうが」
「冗談? 失礼だな、俺は至って本気だ。君とはずいぶん親密になったしなぁ、そろそろ家族になっても良いんじゃないか?君にお父さんと呼ばれる日が楽しみだよ」
 母に見えないように、彼は悪趣味な笑いを浮かべた。もちろん、彼がふざけているということは分かっていたが、僕は少し寒気がした。やれやれ。
「さぁ、招待客はそろったんだし、演奏会の準備を始めてくれよ。それまで、お母様と楽しくおしゃべりしながら待ってるからさ」
 そう言って、彼は僕の背中を叩いた。
「悪乗りしすぎだ、まったく」
「ふふ、すまない。君の演奏が聴けるのが、ちょっと嬉しくてね。それで、ついテンションが上がっているんだよ。さぁ、今度こそ、良い演奏を期待しているよ」
「……ああ、任せろ。君のに負けない演奏を聴かせてやるさ」
 

 僕は自分のバイオリンの入ったケースを持って、舞台の裏に回った。リハーサル室でバイオリンの調弦をしながら、今日は父も来てくれているだろうかと考えた。彼が母を口説いているところを見たら、父はどんな顔をするだろうか、とも思った。父の反応は想像はできなかったが、そのシチュエーションを考えると、笑いが込み上げてきた。そういえば、自分は父と母の馴れ初めについてほとんど知らないな、ということにも気が付いた。今度、聞いてみようか。
 バイオリンの演奏の直前に、そんな下らないことを考えたのは初めてだった。
 それまでの僕は、バイオリンしか見えていなかったのだろう。バイオリンと関連づけることでしか、他人のことを考えることができなかった。彼がプレイボーイだということや、両親の若いころの話には、興味すら持てなかった。
 そういったことを考える余裕ができたのは、僕が大人になった証拠なのだろうか。
 僕はずっと、バイオリンに囚われた子供だった。
 傲慢で、弱くて、自意識過剰な子供だった。自分の気持ちのことしか、考えていなかったのだ。
「僕は変われたのか?」
 独り言を呟いてみたが、答える者はいなかった。


 舞台に出ていき、いつものお辞儀をすると、まばらな拍手が起こった。
 二人は客席の最前列にいた。母は感動して少し目を赤くしていた。彼は僕に向かってウインクをした。「うまくやれよ」と言われているのが分かった。僕は少し笑いそうになった。
 バイオリンを構えて目をつぶると、観客が二人しかいないせいで、周囲はいつも以上に静かだった。
 心臓の鼓動は、少し早くなっていた。今さらの緊張だった。しかし、嫌だとは感じなかった。
 目を開いて、頭の中で念じると、僕の両腕は自動的にバイオリンの演奏を始めた。いつも通りだった。
 数分間の演奏の間、僕は自分の手元をずっと見ていた。客席にいる二人を見るのが怖かった。
 演奏が終わって、僕は大きく息を吐いた。
 自分は上手くやれたのだろうか。いつも通り、二人を騙し切ることはできただろうか。
 お辞儀をすると、また、まばらな拍手が起こった。ちゃんと、二人分。今まで浴びてきた中でも、おそらく一番小さな拍手だった。しかし、自分には、それで十分すぎると思えた。
 頭を上げて二人を見ると、母は完全に泣いており、彼のほうも少し涙目になっているようだった。その間も、二人はずっと拍手を止めなかった。
 泣いてはだめだと思ったが、もしかしたら僕も少し泣いていたかもしれない。記憶があいまいだ。
 自分はバイオリンを弾く人形でいいと思った。
 少なくとも、それを聴いてくれる相手は二人ほどいる。いや、もしかしたら、三人かもしれない。 
「父さんは、来てくれたかな?」
 舞台を降りてそう質問する僕に、顔をくしゃくしゃにした母はひたすら頷いていた。
 「最高の演奏だったよ。俺は卒業演奏会では、なかなかの演奏ができたと思ったが、やっぱり君には敵わないな」
 そう言った彼は、嘘をついているようには見えなかった。僕は「ありがとう」とだけ答えた。
 自慢の息子と最高の親友のフリを続けていくことは、何とかできそうだ、と思えた。
 僕は自分の人生を、他人のために使うことにした。
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龍宇治 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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