俺の成績表では、アヒルがあちこち泳いでいる。
つまりは五段階評価の「2」が大半を占めているということなのだが、それは問題ない。いや、問題ないことはないが、誰も問題にしない。
母親も、担任も、もちろん俺も、学期の終わり毎に見られるこの現象をやるせなく受け入れていた。
しかし、その中に一匹だけヘビだかミミズだかが紛れ込んでいるのは大問題だ。
つまりは、よほどのことでないと下されないはずの最低評価「1」があったということ。
諦めの境地に至った俺の、開き直った授業態度が数学教師の怒りの琴線に触れたのかもしれない。
というかそうだろう、「因数分解が何の役に立つんだよ!」なんて言ってしまったあの日を思い出す。
そのとき確か、授業の残り時間の約半分を費やしての因数分解の実用例講座が開かれたはずだが、俺は内容をよく覚えていない。
真面目に授業を受けている他の生徒たちにしてみれば、はた迷惑だっただろう。
そのことに関しては、負い目を感じなくもない。
だけど俺は、どうしても数学ができないし、好きになれないのだ。
五十分間授業を受け続けるだけでも相当の苦痛なのである。
他の教科はまだなんとかなる。
だけど、数学だけは根本から分からないから、授業中に指名されても誤魔化しようがない。
適当な数字を言えばいいのかもしれないが、その「適当」が思いつかない。
変なところで真面目に、それらしい答えをあれこれ考えてしまうのだ。
この成績表は、両親には絶対見られたくない。
学校では、「俺数学1だったwwwwやべえwwww」などとネタにしてウケを取る材料にできるのだが、自宅でそんな真似をしようものならもれなくゲームとパソコンを取り上げられるだろう。
ああ、どうにか成績表を見せずにおく方法はないのだろうか。
終業式からの帰り道、俺はそんなことを考えながら、いつもより格段と遅い足取りで帰宅していた。
寄り道回り道を繰り返しながら、すでに三十分が経過。
これが無駄な足掻きであることは百も承知だ。
だけどやらずにはいられない。
審判の時を、少しでも先延ばしにしたい。
こんな気持ちは入学直後、中一の癖に厨二病を発症させて、護身用と称したナイフ(というほど上等なものではない、ただの彫刻刀)をベルトに差して登校し、移動教室中、女子が後ろに大勢いるときにわざと落として、「それ何……?」と聞くように仕向け、「ん? ああ、護身用だよ。自分の身は自分で守らなきゃな」と(自分的には)シニカルに微笑んだ結果、後で担任にチクられて死ぬほど怒られ、「夕方、お前ん家行くから」という宣告を受けたあの日以来だ。
「どうすりゃいいんだ……さすがに1はやべえよ……あー、キンクリ使いてー」
ボソボソ呟きながら人気のない道を歩く俺。
「どうやらお困りのようだね」
「だ、誰だ!?」
どこからともなく聞こえた声に軽くパニクる俺。
みっともなくキョロキョロしたが、辺りには誰もいない。
「き、気のせいか……」
「気のせいじゃないよ、失礼しちゃうなあ」
「!!」
ようやく気付く。
その声は……俺の頭の上から聞こえていたのだ。
「な、なんなんだよ」
「僕は数字の妖精マクロだよ。よろしく」
「す、数字の妖精ぃ?」
そいつは俺の頭の上から、ピョンと飛び降りて俺の目の前に着地した。
なんだ、願いを叶えてあげるから魔法少女になれって展開か。
俺は頭から食われて死ぬのは御免だぞ。
ていうか。
「妖精っていうか、お前俺の成績表じゃん」
「僕は裏次元の住人だからね。表次元では、表次元の物を器として借りないと生きられないんだよ」
「へー」
「やる気のない相槌だなあ。この光景を目の当たりにして、まだ信じられないっていうのかい?」
どうでもいいが、喋るたびに成績表をパタパタ開くのをやめろ。恥ずかしい。
「ていうか数字だったらマクロじゃなくてナンバーだろ」
「英語は少しは分かるんだね」
「俺をどこまで馬鹿だと思ってるんだ」
「だって英語2じゃん」
「さすがに数字の英訳くらいは分かるわ」
ちなみに保健体育は4な。そこちょっと自慢。
「ていうかアレだ、信じてないわけじゃないけど、いきなりすぎて付いていけねえよ」
「そうかもねー。僕もまだまだ表次元のことは勉強中だし。やっぱり習うより慣れろ、実地研修が必要だね。君を裏次元に招待するよ」
「は?」
聞き返す暇はなかった。
次の瞬間には、俺は眩い光に包まれていた!
そのまま失われる意識!便利な場面転換!
「はっ!夢だったのか!」
「夢じゃないんだなあこれが」
「!!」
どうやら俺は裏次元とやらに拉致されたらしい。
目に映る光景がおかしい。シャフトの演出みたいになってる。
「な、なんだってんだよ!?」
「怖がらなくてもいいよ。ここが裏次元。そしてここでなら、僕も本当の姿でいられる」
嬉しげにそう言った妖精さんの姿は、プレーリードッグかフェレットのようだった。
数字の妖精にしてはずいぶんとファンシーなことで。
「ここは、数字が支配する世界なんだよ」
「どういうことだよ」
「そうだなあ……じゃあ、問題。『1+1』は?」
「そんなの2に決まってるだろ。俺を馬鹿にしす(ry
シュンシュンシュン。
くるくる回りながら、空から一本の剣が降ってきた。
それが、変な色の地面に突き刺さる。
「は……?」
「この世界では、君たちの世界で言うところの算数や数学の問題を解かなきゃ生きていけないんだよ。
スーパーでは問題を早く解けば解くほど新鮮な野菜が手に入る。新発売のゲームの抽選も早押しクイズ」
「なんだよそれ……俺、相性最悪な世界じゃん」
「大丈夫大丈夫!僕が付いてるって!この世界である程度生活してれば、嫌でも数学得意になれるから!表次元で自慢できるね!これで夢の数学5だ!」
「か、帰してくれぇ!」
こうして、俺のめくるめく数学ライフが始まったのだった。