3-5『あの日のこと』
「……とりあえず、どこから話したらいいかな。
うん、まずは母親の話をしよう。
僕の母親は、すごく教育熱心な人だった。父親はそんなことに無関心だったから、なおさらがんばろうと思ったんだろうね。いろいろやってきたよ。
いや、やらされた、というほうがいいのかもしれない。
ピアノ。
習字。
剣道。
スイミングスクール。
器械体操。
あと、勉強。学校はもちろん、塾も行っていた。
母親は、必ず言っていた言葉がある。僕に、言っていた、魔法のような言葉だ。
『やればできる』
ずっと、その言葉を聞いていた。聞かされていた。
そう、僕は『やればできる』んだ。どんなことでも、不得意そうなことでも、僕なら『やればできる』んだ。
結局、どれもこれも中途半端に終わったけどね。
勉強。全国で上から数えて数十人目。
ピアノ。グレード6級止まり。
習字。浅い段位止まり。
剣道。弐段止まり。
スイミングスクール。一通り泳げる程度。
器械体操。せいぜい体育の成績が良くなる程度。
友達や教師、あと妹も言っていたよ。
「それで十分じゃないか。十分すぎるじゃないか」
たしかに、そう思うかもしれない。
勉強で困ることもないし、カラオケ行っても困らないし、字も下手ではない。礼儀作法も最低限備わったし、泳げるし運動神経も悪くない。
でも……十分なわけないだろう?
できてない、のに、どうして十分なんて言われるんだ?
僕にできないことがあってはいけないのに。
……ごめん、話を戻すよ。
で、ごく自然に残ったのが勉強。僕はそれに集中することにした。
順位はもちろん、点数は100点、それ以外に興味なかった。
ずっとずっと、がんばったよ。
『やればできる』んだから。
……ここからが、本題。
僕はおかしくなっていた時期があるらしい。記憶がないから、らしい、としか言えないけどね。
高校1年生の後半、ぐらいらしいけど。
そのころのことを友人に聞くと、僕はずっと何かをつぶやいていたらしい。
……うん、ここは、『らしい』じゃない。
ちゃんと覚えている。
『やればできる』。そうつぶやいていた。
まもなく、僕は学校を休むことが多くなった。さすがに家族は深刻に思ったのか、あちこちに相談したり、過剰なまでに僕を心配したりした。
……そうして、母親は1つの結論に至る。
『息子に無理をさせすぎた』と。
今になって思えば、そりゃあそうだと思う。人一人にあれだけ詰め込もうとしていたんだ、しかも「やればできる」という言葉と共に。
そして、あの日。
『今まで無理をさせすぎて、ごめんなさい』
母親は泣きながら謝ってきた。頭を下げ、ボロボロと涙を落としながら。
何度も、頭を下げていた。
何度も。
何度も何度も何度も。
小柄な母親が、一層小さく見えた。
僕はそんな母親を見て、思った。
『ああ、この人も人間だったんだな。
こんなにも傷ついて、泣きじゃくって、反省しているなんて。
良かった。この親はちゃんと人間だ』
そのころの僕は、とんでもなく母親を人外と見ていたらしい。
この出来事で、ちゃんと人間として見るようになった。
そんな母親を見て、僕は言ったんだ。
『もういいよ。気にしてないから』と。
……反省している相手を責めるような趣味、ないからね。
謝ってくれたなら、いろいろ思うところはあったけど、許そうかなって思ったんだ」