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10.虫歯インフルエンス?(2011/6/6)

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「おかえり、安田くん。今日もきっちりきっかり、真っ直ぐ帰宅したようだね」
 玄関先で上着を脱ぐ義之の口元に、清美はわずかに腰を落として、ぬいっと顔を近づけた。
 この場面だけを切り抜いて画面化すれば、まるで他人が羨む夫婦のスキンシップの大定番・おかえりのキスでも始まるのかと思われるかもしれないが、実際はそうではない。
「き、清美? なに言ってるんだよ。ちゃんと寄ってきたってば」
「そうかね? その割には、きみの口辺からは全く薬の匂いが漂ってこないのだがね」
「いやいや、最近のはよく出来てるんだって。無臭なんて珍しくないんだぜ」
「では領収書を見せたまえ」
「……ぅが」
 詰問に怯んだ一瞬の隙を突き、清美は彼の口に指を入れてこじ開けた。視線の先にあるのは、凹部分が黒ずんだ義之の臼歯である。
「どこにも治療の痕跡無しだ。言い逃れることはあるか? 釈明したいことは?」
「あ、あいあひぇん」
 食後の熱いお茶を飲みづらそうにしていたのを契機として、義之に虫歯のあることが発覚したのがはや三日前。それから幾度となく歯医者へ行くよう清美が説得しても、結局避けられ続けているのが現状である。
「だから常より気をつけるべきだと言っているだろう。今更きみに、歯磨きを毎食後に逐一しろとは言わないが、せめて就寝と接吻の前には欠かさないでほしいものだな」
「苦言に混ぜて、さらっと乙女チックな要求をしてきたな」
「そこに反応せずともよい。いずれにせよ虫歯は予防が大切なのだ。普段の心がけを怠っているからそうなるのだぞ」
「ふふ、いいのかよ清美。そんなこと言ってて」
 何故かこの期に及んで、義之はにたりと笑みを浮かべる。
「安田くん、何が言いたいのかね?」
「マンガやアニメの世界だと大抵、そうやってガミガミと余裕発言してるやつに限って、最後は自分も虫歯になって痛い目みるものなんだぜ」
「架空世界の定理を現実に応用するでない!」
 とりあえず清美はキシリトール入りのガムを彼の口にねじ込んでやった。

 この微笑ましいやり取りがあって、明けた次の日。
 清美が昼食後に一息ついていたそのとき、来客を報せるチャイムが鳴った。ドアを開けるとそこには、長身で清潔そうな高級スーツの白人男性が申し訳なさそうに佇んでいた。
「お忙しいときに、失礼します」
「きみは確か……高美の恋人ではなかったか?」
「はい。憶えてくださって光栄です。リチャード=キングといいます。妹さんとお付き合いさせてもらっております」
「ふむ。それでキング氏が、わざわざ何用でここに来たのだ?」
「それなんですよ、キヨミさん。タカミが、こちらに、逃げてきては、いませんか?」
「逃げて? あいつがまた何か仕出かしたのか?」
 穏やかではない単語を耳にして、自然と清美の顔に緊張が走る。
「いえいえ。タカミは今、ムシ歯になっているのです。今日は、歯医者さんに行く約束をしていたのですが、迎えに行ったら、行方不明なのでした」
「なんだ、その程度のことか。行き先の心当たりなら、もちろんあるぞ」
「本当ですか、キヨミさん!」
「高美は夏の虫と同じで、煌びやかな場所や物に惹かれる傾向があるのだ。宝石店や服飾店を捜してみるとよい。実家から遠くない範囲であれば……」
 ほっと胸を撫で下ろした清美は、いくらかの誇張を交えて、妹の習性と具体的な潜伏予想先を教えた。するとリチャードは何度もお礼を言いながら、今日び生粋の日本人でもなかなか出来ないような美しいお辞儀をして帰っていった。
「安田くんがなったと思えば、今度は高美か。まあ、確かにあれも自己管理能力に欠けた人間ではあるが」
 そして清美は独り言を呟き、腕をまくって蓮華柄のエプロンを身に着けた。

 ぐつらぐつらと煮立つ鍋の中身に、味見をしながら砂糖を加えていく。丁度よい塩梅になったところで再びチャイムの音を聞いた。
 清美がいったん火を止めて玄関に向かえば、桜模様の眼帯をした女子中学生が一冊の本を抱えたまま彼女を見上げている。
「こんにちは、清美さん。これ、お借りしてたやつッス」
 受け渡されたのは新渡戸稲造の著作『武士道』だ。
「吉瀬か。どうであった?」
「うーん。格好よさそうだと思って読んだんッスけど、やっぱりあたしにはまだ難しかったッスね?」
「新しい生き方の指針になればと思ったのだが、まあよかろう」
「えへへ……ん?」
 恥ずかしそうにはにかんだゆかりは、ふと家の中から漂う甘酸っぱい香りに鼻を動かす。
「なんか美味しそうな匂いッスね。お菓子でも作ってるんッスか?」
「さくらんぼのジャムを作っている。出来上がったらお前のところにも分けよう」
「あーごめんなさい。気持ちはうれしいんッスけど、遠慮しておきます。お父さんは甘いもの好きじゃないですし、あたしもちょっと、今は口の中が痛くって」
「まさか、また殴られたのではあるまいな?」
「あ、いや、違うッス。歯が痛くて、虫歯になっちゃったんッスよ」
 清美の拳が固まったのを見て、ゆかりは慌てて言い直した。
「いちおう歯医者には行ったんッスけどね。気付かないうちにけっこうやられちゃってたみたいで、しばらく甘いもの禁止ッスよ」
「そ……そうか、大事にな」
 身近で同じ症状が三人目ともなると、さすがの清美も驚きを隠せない。

 ゆかりを見送ってから清美は言いようの無いむずがゆさに襲われていたが、携帯電話のけたたましい着信音で我に返った。おもむろに取ると、着信以上にかしましい怒声が響いてくる。
『お姉さまの裏切り者! 私が医者嫌いなのを知って、リチャードに居場所を密告するなんて、非道ですわ! オニ、アクマ! あ、何をするの、リチャード! そんなことをしたら後で承知しな、ツー、ツー、ツー』
「……キング氏は無事に使命を果たせたようだな。さて、こちらも実力行使に移るとするか」
 小生意気な妹の声は、逆に冷静さを取り戻させた。


 例によって例の如く義之は自分から治療に臨むことはしなかったので、日曜日、清美はリチャードに倣って力づくで連行することにした。
「俺は、俺は、麻酔の匂いといい、ドリルの音といい、歯医者が死ぬほど嫌いなんだ! それを知ってて無理やり連れて行くなんて、非道だ! オニ、アクマ!」
「安田くん、きみの思考回路と語彙辞典は高美と同程度か。嘆かわしい」
「清美、お前はあれだろ。どうせ虫歯になんかなったことないんだろ? 他人の痛みが分からないから、平気でそんなことが言えるんだー。冷血女ー」
「案ずるな、安田くん。私は眼前の夫が病魔に蝕まれゆくのを黙って見過ごすほど冷たい女ではない」
「なんか微妙に会話が噛み合ってねーぞ!」
「虫歯は自然治癒をしないのだぞ!」
 道ですれ違う近所の奥様方の嘲笑をかわしつつ、駅近くのデンタルクリニックへ進む。

 到着した先で清美が診察の手続きを済ませている間、当の義之はあろうことか、待合室で若い女の一人に話しかけていた。相手は身体の線を隠す地味な格好で、眼鏡をかけている。
「あれ、もしかしてチナツちゃん?」
 チナツと呼ばれた女性は一瞬きょとんとしていたが、義之の人懐っこい笑顔を見せられてようやく合点がいったように口を開いた。
「あぁ、安田さん? うゎチョーびっくりしたぁ! どうしたんですこんなところでぇ?」
「俺は虫歯でさ、かみさんに連れてこられたんだ。チナツちゃんも?」
「わたしもそうです。前に行ったところがヤブだったんですよぅ。友達から口コミで、ここのは腕がいいからって……っていうか安田さん、よくスッピンなのに、わたしだって分かりましたねぇ」
「ん、ああ俺、名前を聞いた女の子だったらみんな顔まで覚えられるからさ」
「え、それって何気にスゴくないですかぅわ!」
 二人は知り合いだったらしく、意外な場所で出会ったことで盛り上がる。そんな彼らの間にわざと割って入るようにして清美は、受付でもらった問診表を彼の鼻先に突きつけた。
「随分と親しげな様子だが、安田くん、その女の素性を教えてはくれないかね?」
「おう、この子はチナツちゃんって言って、イエロー……」
 紙と鉛筆を受け取りながら義之は眼鏡の彼女を紹介しようとするも、途中まで言いかけたところで、これは危うい質問だと気付いて止まる。
「よ、よく行くお店で働いてる子だよ」
「店の業種は?」
「い、飲食店」
 嘘は言っていない。女性従業員が一年中水着を着用しており、フルーツの盛り合わせが最低でも5,000円からというだけの話だ。
「それだけかね」
「そりゃあ、そうだよ」
 野球拳のチケット欲しさに、高級酒を何本も頼んだとまでは口が裂けても言えない。今度こそ、腕一本が犠牲になるかもしれない。
「ならばなぜ目を逸らす?」
「いや、まあ、それは、あれだ」
「どれかね」
 むんずっと頬を掴み、清美は義之の顔を自分に向けさせた。すると鏡と見合ったガマのように、彼は冷や汗を流し始める。
「まあよかろう。ここは人目もあるからな。後で、私の気が済むまで訊かせてもらうぞ」
 しかしこのままでは埒が明かないと判断し、清美は束の間の猶予を与えてみた。

 さて元から仲がいいのだろうが、義之とチナツは同じ痛みを共有していることでさらに和気あいあいと話を弾ませている。チナツが、相手に奥さんがいても全く動じない度胸の持ち主だということも理由としてはあるだろう。清美、義之、チナツの順で一列に座っているせいで清美は彼らの会話に口を挟むことが出来ず、しかも「まあよかろう」と自分から言った手前、今さら引き離すことも出来なかった。
「俺の、もう凄いぜ。もうギアガの大穴かっていうくらいぼっこり開いちゃってるぜ」
「あはは、なんですかそれぇ」
 それでも義之が自分の口を開けて虫歯を見せようとし、チナツもそれに応じて覗き込もうとしたときには、いよいよ清美も自制が外れそうになった。もしそのタイミングで看護師が二人の名前を――ただしチナツは、チナツではない名を――呼ばなければ、義之は首根っこに深い爪痕を付けられていたに違いない。
 二人が診察室に入ると、清美は待合室にぽつねんと取り残される。
「やはりあの女、源氏名か」
 チナツの後姿を見やって、清美は歯痒そうにぼそりと漏らした。
 それから腕を組み、椅子の背もたれに体重を預け、指で二の腕を叩いて時間を潰す。やがて居た堪れなくなり、席を立って受付に足を運んだ。

 とりあえずの診察を済ませた二人と入れ違いに、清美が呼ばれる。
「あれ、清美も診てもらうのか? お前はいらんだろ」
「……念のため、万全のためだ」
 言うなりぷいっと顔を背けて、清美は診察室に入った。
 さて、清美を担当した歯科医の見立てによると、彼女は歯並びから口内環境まで完璧であり、写真に撮って保健の教科書に載せたいほど見事に健康な歯だという。しかし太鼓判を押されたはずの清美は、何故か浮かない顔をしていた。


 その夜、居間で呑気にバラエティ番組を観ている義之の横に、パジャマ姿の清美が膝を突いて寄った。
「安田くん。今日の診察で歯科医から聞いた話なのだが、虫歯の原因菌というものは、人の口から口へと伝染するものなのだそうだ」
「うん? そうなのか?」
「唇を借りるぞ」
 豆知識を突然ひけらかされる意図が分からない。そんな義之が戸惑ったわずかの隙に、清美は目を閉じて次の動作に移る。

「ん……、…………、…………っ…………、………………………………………………ぷはっ」

 糸をたなびかせながらも舌を離し、おもむろに目を開けた彼女のすぐ前では、不意のことに驚いた義之がほんのり耳を赤くしている
「……清美、俺……まだ歯ぁ磨いてねえぞ」
「だからよいのだ。では安田くん、おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
 そしてまだ呆気にとられている彼を尻目に、清美は小さな胸の高鳴りを抱いたまま、寝室へと続く襖を開けた。
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