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2.二月の花見(2011/3/2)

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 テレビの天気予報が伝えるところによると、この週末は快晴が続くらしい。
 それを聞いた清美は丸ちゃぶ台に片肘をついて体重を預け、自由な一方の手でちょいちょいと、傍に寝そべっている義之の太ももを突っついた。
「なあ安田くん。今度の休みは、花見に行かないか?」
「うぉっ、花見? 花見ったって、まだ二月だぞ」
 不意打ちを食らった義之はくすぐったさに身をよじってから、起きてあぐらを掻く。
「そう言うと思ったよ。いや予想はしていたが、きみもまだまだ素人だな」
 そしてそんな彼が口に出した疑問符を清美は、ふふんと得意げに笑って受ける。
「じゃあなんだよ、花見の玄人って」
「花見と言えば、桜のことだと決めつけてはいないかね?」
「普通そうだろ?」
「確かに一般的にはそうだ。そして満開の桜の下で呑んだり食べたり、乱痴気騒ぎにふけるのが年に一度の風物詩。定番中の定番だとされている。もちろん私も桜並木の壮観さや、見事な一本桜の持つ情緒などが、世界にも誇れる日本の美に相違ないことは認めている」
 しかしだよ、と清美は置いて続けた。
「本当にそれだけかね? 季節の移ろいのしるべは、春を訪れを報せる恵みの花は、桜だけではあるまい。豆を撒いたりチョコを撒いたりするだけが二月の楽しみではあるまいよ」
「なんか清美の言い方だと、鬼にチョコ投げつけてる絵が浮かぶな」
 ともあれ義之には、清美の誘いを断る理由など無いので、別に文句も無くそのまま約束をするに至った。

 さて当日。清美は具体的な行き先は未だ告げず、経路だけを義之に教えた。弁当箱とタッパーを風呂敷に包みながら清美が言うことには「それは着いてのお楽しみだよ安田くん」とのことである。
 そうして用意した荷物はリュックに詰められ、それを義之が背負って歩く。初めに最寄の駅から電車に乗るまでは何の問題も無かった。
 しかし休日ということもあってか、乗り換えに使う駅は非常に混雑していた。構内は相当な広さであるにも関わらずあちらからこちらへ、またこちらからあちらへと沢山の人々が往来しており、一歩流れを誤れば方向を定めるのは難しいだろう。
 もちろんこの二人も例外ではない。それを分かっていながら義之は、ぎゅうぎゅう詰めの車両から吐き出されてほど無く立ち止まり、清美の傍を離れてしまった。
「おい、坊主。どうした?」
 それから、壁際で泣きじゃくっている男の子に声をかける。年の頃はおよそ五、六歳で、周りにその身内らしき大人は見えない。
 名前を訊いても分からない。お家を訊いても分からない。要領を得ない答えで、男の子は母親を求めて泣くばかりであった。代わりに見つけてあげようと考えるも、平均程度の背丈しかない義之では人混みの中から子供を探す女性を発見するのは無茶だった。
「しょうがねえな……これで見えるか?」
 ひょっとしたら母親はまだ近くにいて、この子を探しているかもしれない。そう思い至った義之は男の子を抱え上げ、自分の肩に座らせた。
 するとしばらくして、男の子は「ママ、ママ!」と喜びの声を上げる。
「じゃあな。もう迷子になるなよ」
 義之はその子を母親に返し、そう言って頭を撫でて見送った。
 ここでふと彼は、自分の近くに清美の姿が無いことにようやく気付く。見渡しても、どこにもいないのである。
「まいったな……清美のやつ、どこ行ったんだ?」
 頭をぽりぽり掻いて独り呟き、腕を組んで首を傾げた。そして清美の言葉を思い返した結果、目的地の駅は小さくて改札も一つしかないと聞いていた。
 この混雑の中よりは、そちらで落ち合うほうが合理的だろう。清美ならばそう判断するだけの頭の良さがあるはずだ。まあ、こんな日もあるだろう。
 そう考えた義之は、一人で納得して歩き出す。

 ポケットの中が震えたのは、義之が目的の駅でホームに降り立ったのとほぼ同時だった。
『安田くん? 私だ。どこにいる? 手洗いか?』
「ん、一応もう着いたけど? 清美はまだか?」
『着いた? 何を言っている?』
「いやだって、こっちのが人少ないからさ。お前なら先に行ってるかと思って……」
『安田くん。そこの改札口、よく見える場所で待っておれ。いいな?』
 危機感の無い呑気な態度で応答する義之に対し、清美の声はささくれ立っていた。
 通話を切ってから十五分後に到着した彼女は、人の流れの中を猟犬の如き素早さで歩み抜け、義之の姿を見るや大股で詰め寄る。
 その様子から直感的に義之は、殴られる、と咄嗟に身構えた。
「釈明があるなら聞こう、安田くん。それを私が飲み下すかどうかは別問題だが」
 直接に手を出すまでは至らないが、清美の細指は彼の襟元をがっしと掴む。
 義之は目を泳がせながらも、はぐれた理由に後ろめたさは無いと自分を信じ、迷子を見かけた件からここに至った経緯を詳しく話した。
 しかし清美は口を固く結んだまま、ローファーで足元をこつこつ踏み叩く仕草を止めない。
「俺一人で行っちゃったのはわるかったけどさ、そんなに怒らなくてもいいじゃねえか」
「安田くん。見知らぬ子供を助けたきみは立派だよ。だから私は、別に怒りを覚えているわけではない」
「じゃあなんだよ?」
 清美の足がぴたりと静まり、代わりに肩が震えた。
「この胸のわだかまりは、言葉にすれば無粋なのかもしれないが、努めて言おう。私が苛立っているのは、きみが何の断りも無く離れたこともあるが、勝手に先へ進んでしまったこととも関係するが、しかし何より、私がいざとなればそんな単純冷淡な合理的思考にのみ沿ってきみを放置したまま先を急ぐような人間であると、未だにきみに思われていることだ。それが最大の悔しさであり、嘆きであり、屈辱であり、心外であり、不甲斐なさなのだ。まったく、付き合って何年になる? 出会った当初の私ならいざ知らず、今の私は安田清美だぞ、安田くん。例えば『清美のことだから俺を心配して待っているに違いない』と、そのように、私の人情を信じてくれてもよいではないか!」
 彼女は喉から矢継ぎ早に言葉を搾り出し、やがてうな垂れた。
 長身のため義之の背と比べても引けを取らない清美は、簡単にはその顔を胸に埋めたり肩に寄せたりが出来ない。
「……ごめん。今日のは本当に俺が悪かった」
 まだ風が吹けば肌寒い季節。義之は清美をぎゅっと抱きしめた。

 それから二人は並んで歩き、広い駐車場を横切って大門を潜った。
「これは、梅……か?」
「そうだよ安田くん。今は五分咲きといったところだな」
 目に一面、白と紅との入り交じった花々が映る。
 かつて大名屋敷であった頃の面影を残すこの庭園には、代々の主が好んだ梅園が今も守られている。早咲きの品種は立派に自らを主張して栄え、遅咲きの品種は小さなふくらみのまま控えめに迎えていた。
 砂利道を進んで観賞しつつ、清美は他の観光客に会釈をしてすれ違う。
「でもまだ咲いてないのも結構あるぞ。もうちょっと待ってから来たほうがよかったんじゃねえの?」
「確かに満開の、一揃いの色が咲き誇っている壮観さは素晴らしいが、このまばらな具合もまたよいではないか。それにほら、これは珍しいぞ」
 清美はつついっと一本の木に寄って、青みがかった枝先に点々となるつぼみを指差した。
「これは《月影》という品種で、今が見頃なのだ」
「咲いてねえのに?」
「つぼみの薄緑色が特徴でな。この色合い、この時機がよい。花が開いてしまうと独特の風情が薄れてしまうのだ」
「なるほど、つまりロリ……おぼふっ」
 清美の後ろからそれを覗いていた義之は、みぞおちに肘を叩き込まれて悶絶する。
「このご時勢だ、安田くん。言葉は慎重に選びたまえ」
 また進み、今度は目を見張るほどの色彩を放つ木に出会う。他の多くは白か薄桃色――梅を形容するのに桃を引き合いに出すのは失礼だ、と清美ならば言うのだろうが――の花弁を持っているが、その品種は一段と濃い紅色を見せていた。
「私はこの《緋梅》も好きだ。何と言っても力強い」
 それからも清美は、あれやこれやと梅のよさをそれぞれ説明し、義之を導いていった。時折ぼんやりしながらもついて行った彼は、よそ見をした瞬間に出っ張った枝とぶつかりそうになる。
「うぉ、びびった」
「いくら花見と言っても、さすがに前は見ておかないと危険だぞ」
「いや、知らなかったんだけどさ。梅って結構、背が低いんだな」
「私が梅を好むのも、その点なのだよ安田くん。桜の大木を見上げるのと違って、梅は近くに見える」
 不意に清美は立ち止まり、振り向いて義之の手を取った。離れないように。
「すぐ手の届くところにそれがある。よかろう?」
「だな。俺も梅を見直したよ」
「だろう? それでこそ連れてきた甲斐があったというものだ。実際、日本人と梅の関係は桜よりも古いのだ。奈良時代の貴族は、梅にまつわる歌をよく詠んだというからな。安田くんも何か詠んでみるかね?」
「俺にはそういう、高尚な趣味は合わねえよ」
「それではそろそろ、花より団子といこうか」
 ベンチを探して座り、間に風呂敷を広げる。
 弁当箱に詰められていたのは義之の好物である味噌入りおむすび、ふわふわの卵焼き、そして丁寧な作りの白菜の塩漬け。簡素ながらも味は確かだ。
「おお、旨そう!」
「もちろんこれだけではないぞ」
 さらに清美が誇らしげに別のタッパーを開けると、そこには肉じゃが。持ち運びのために汁気は抑えてあるが、つややかさは損なっていない。これも彼の好物の一つである。
 盛んに手を動かして口に入れる彼の仕草は、まさに「頬張る」という表現がふさわしいだろう。
 途中、水筒に用意された緑茶を一服して、義之は思い返すように言った。
「ところで清美。この肉じゃが、味付け変えた? いつもより甘い感じがする」
「分かってくれたか安田くん。さすがだね」
 すると彼女も、ぱぁっと花咲くように微笑んだ。
「この辺りでは珍しい肉が手に入ったのでね。一つ試しに作ってみたのだよ。口には合ったかね?」
「うん、旨い……で、これ何の肉?」
 ちょっと心配そうに訊ねた。
「気に入ってくれたようで何よりだ。実はね、馬肉だよ。馬の肉じゃがだ」
「よかった、まともなやつだ」
「得体の知れないものを黙って食べさせるわけがないだろう」
「そうだよな、うん。ん……そう言やさ、馬肉って、何て言うんだっけ?」
 もう一口、義之は頬張る。
「何、とは?」
 清美はお茶をすする。
「ほら、別の言い方があったろ? 清美なら知ってると思うんだけど」
「ああ、隠語のことか。猪肉ならば『ぼたん』。鹿肉ならば『もみじ』。そして馬肉は……」
 得意げに語り始めた清美の言葉は、そこでぴたりと止まった。それからわずかに眉をひそめて隣に咲いている梅の花を見て、義之を見て、再び梅を見て、最後に青空へ目をやって悔しそうに呟いた。

「馬肉は……『さくら』だ」
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