ボクにはもはや、何が本当で何が嘘だったのか判別する力が無い。さっきボクと別れた時、君はボクに向かって何と言った? いくつか違う言葉をボクは思い出してしまう。それらの言葉のうち、君がボクに向かって言ったのは、どの言葉だったのか?
君はボクに、明日の待ち合わせ場所を伝えたのではなかったか。いや、単にさよならの台詞を言ったのであったか。君はボクを好きだと、恥ずかし気に言ったのか。それともボクに永遠の別れを予期させる言葉を放ったのか。…ボクには、これらのうちどれもが事実だったように思えるし、どれもがボクの瞬間的な妄想であったようにも思えるのだ。
今から君に電話をかけて、さっきの真相を確認してみようか。やめておこう、場合によっては、君を失望させてしまうかもしれないから…ボクはひとりで真実をつきとめるため、さっきの別れ際よりも前へと時間を頭の中で巻き戻して、駅の改札を、君が先、ボクが後に抜けたところから、記憶を辿ってみることにしよう。
君は振り返ってボクを見た。君は笑っているものというボクの予想に反して、君は無表情に近かった。ボクは瞬時に自分を反省した。君が無表情なのはボクのせいだと思ったからだ。きっとボクが、それまでずっと君の表情を窺い自分の振りを直すことに徹してばかりで、君を楽しませることなど考えていなかったから、君はその時無表情だったのだ。いや、違う。ボクは今日、君を楽しませることだけを考えていたじゃないか! それが固定観念となってボクを縛り上げ、むしろボクの方が一日を楽しめなかったくらいなのだ。なのに今日のこの日のボクの配慮は功を奏さなかったのだ。君が無表情だったのだから。ボクは馬鹿だ。君の無表情を目にした時、ボクはそう思ったのだった。
駅を出たところでボクは失敗をした。ボクは何か考えごとに囚われて、その場に立ち尽くし、君をタクシー乗り場の手前で退屈そうに待たせてしまったのだ。馬鹿なことをした。ボクがこんな愚かなどうでもいいことをしでかしたのは、直前に君の無表情を見たからなのだ。その瞬間に色々な想念が浮かんでは消えた。いや、それは想念というより映像(イメージ)だった。複数の映像が同時に再生されたようだった。どうでもいい映像(例えばボクが君の分までドリンクを貰いに人ゴミを掻き分けて進んで行った時に、何者かに足をかけられて僅かに屈辱を味わったという数秒間の映像)、ボクの重大な失敗の映像(ボクは君が興味を持たないような昔の人物に関する知識を長々と披露し、君が退屈そうな(軽蔑混じりだったかもしれない)微妙な笑みを浮かべたのを見て初めてそれと気付き、この失敗を埋め合わせるためにすかさず聴き手に回るべく君に質問をした(何の面白味もない質問を)。その質問の言葉を吐くボクの情けない虚ろな笑顔の映像)。映像の数珠つなぎが頭の中で展開し、ボクはその時、下を向いて歩くことしかできなかった。そして、いつの間にか我に返っていて、タクシー乗り場の手前で携帯電話をいじっている君を見ていた。
君の次の行動は何だったか? とりあえず君は携帯電話を閉じた。そしてボクの方を向いた。もしくは正面に顔を上げ(ボクは君の顔を横側から見ていた)、君は何かを見た。君の視線の先には犬を連れた中年女性がいた。いや、違う。君は確か女友達二人に出会ったのだ。君とその友達二人とは、互いに両手を身体の前で振りながら駆け寄った。君たちは互いの今を説明し合う。君は当然、今までボクと一緒にいたことを友達二人に説明した。君はボクのことを、君にとっての何者であると言ったのであったか。恋人であると言ったのか…いや、自分の口からそんなことは言うまい。君はボクを友達と言い、女友達二人のうち一人がからかい混じりにそれを打ち消した。違う。君はボクになど言及しなかった。君にとって、あの二人はそれほど親しい人達ではなかったからだ。いや、違う、やはり彼女たちは君の親友で、君はやはり、ボクについて言い及んだのだ。君はボクの名前まで口にした。なぜなら君は、既にあの二人にボクの名と君と僕の関係とを知らせていたから。そして、ボクの名を聞いたあの二人は、ボクの方を向いた。
君の友達は去り、ボクは君に近づいた。ボクは駅の売店でガムを買い、それを噛んでいた。そのガムをボクがいつ買ったかは定かではないが、そんなことは今どうでもいいことだ(いや、まだボクはガムを買っていなかった。ガムを噛んでいるのは今のボクであり、ガムは君と別れてから買ったのだ)。ボクはその時、もはや何の希望も心のうちに抱いてはいなかった、ただ一つを除いては。ボクは、せめて次の瞬間に君が微笑んでくれることだけを願っていたのだ。その笑顔は別に表面上のものでもよかった。ただ笑ってくれるということだけで、ボクは次回への最低限の希望を君に抱き続けることができるのだから。君は笑ってくれた。その笑いには疲れが混じっていた。もしくは解放への消極的な喜びが。もしくはボクと同じように、次回の一日への程度の低い希望が。
続く