序章――門倉いづる
序章 門倉いづる
半年前。
友達が、首から上をフッ飛ばして死んだ。
うちの高校の校舎裏には、一本の立派な桜の木がある。
樹齢何年になるのか誰も知らないけれど、戦争中にこの桜の下で旦那に別れを告げたお婆さんがいたというから、だいぶ昔からあったのだろう。
厳つくごつごつした樹皮は、男子がトイレで一服するのに重宝する百円ライターの火勢なんかではとても燃え上がりそうになく、節くれだった幹を切り倒せば年輪がどれほど重なっているのか見当もつかない。
外周を結界のようにぐるりと囲んだ緑色のネットと、ところどころ欠けたコンクリートの校舎に挟まれて、その桜はぽつんと置いていかれた子どものように立っていた。
ひとつのベンチと錆びた焼却炉があるきりの校舎裏に、春になると桃色のじゅうたんが広がる。風が吹くと、散った花びらが螺旋を描いて舞い踊る。
骨も皮もありはしないけれど、そんな桜の木が僕にとって、首藤星彦の墓だった。
腕時計の長針はコンパスのように頂点を指している。
薄暗い桜の木陰で、僕は焼きそばパンのビニールを荒々しく破いた。脇にはお茶のペットボトルと、バナナアップルジュースのパック。
赤ん坊の腕くらいの長さをした焼きそばパンをくわえながら、僕は紙パックの口を開けた。
このバナナアップルジュースというのは、『美味いもの足す美味いものは美味いとは限らない』という訓戒を僕に与えてくれたありがたいジュースなのだが、首藤星彦、あの混ぜるなキケンをすぐ混ぜたがる彼の性分と味覚のキャッチャーミットに剛速球でストライクを決めたらしく、知り合ってから終わりまで、首藤は飽きずに毎日これを飲んでいた。
だから、墓石に水やら酒やらをかけてやるよりも、昼休みの駄弁り場所として僕たち二人が好んで居座ったこの校舎裏に、この桜に、あいつが好きだった未知の液体をぶちまけてやる方が、よっぽど供養になる。そう思った。
今にもしゅうしゅう煙でも出しそうな怪しげなジュースを、根元にそろそろと零していく。後ろから見ると僕がまるで立ちションしているように見えるのではと戦々恐々なのだが、数年前に自殺者が出て以来、この校舎裏にわざわざやってくる生徒は少ないので気にしないことにする。
ちょぼぼぼぼぼ、と土の布団から首を出していたミミズくんにジュースをかけていると、うしろから思い切りスパコ――――ンと頭を殴られた。
「あのさ、そんなのかけたら木が腐っちゃうでしょ、門倉くん」
「紙島……」
偉そうに腕を組んで、僕を見上げているややチビな女子は、同じクラスの紙島詩織だ。変わったやつで、いつも真っ白いロシア帽を被っている。そこから溢れる豊かな栗色の髪はそよ風を受けて気まぐれに波打っている。
その手には、なぜか演劇部のものらしい台本が握られていた。それで僕の頭部を殴打せしめたらしい。ひどいやつだ。
「またピンチヒッターで部活の助っ人やってるのか? 暇人だねェ」
「環境破壊者に言われたくない」
「ちょっとちょっと、違うってば。破壊じゃない、供養だよ」
「無意味なところは同じだよ」
未練がましい、と紙島は吐き捨てる。
どうやらちょっと怒っているらしく、髪と同じ色をした澄んだ双眸は細められて輝きを増している。
「前にも言ったと思うけど」
「うん」
紙島に逆らっていいことはないので、素直に頷いておく。
誰かに言われたことを伝えるような、そんな心がどこかへ散ったような口調で、紙島は言った。
「門倉くんがどう思っていようとも、その桜の下に首藤なんて埋まってないし、その幹にあいつの心なんて宿ってないし、バナナアップルジュースは絶対木に悪いんだよ」
「――――」
「とにかくもうやめて。その桜が枯れちゃうと怒られるのは美化委員の私なんだから」
そう言って紙島はぐいっとロシア帽の位置を直した。
ぱちぱちと瞬きしながら送られてくる視線に責められ、僕はふいっと顔を背けた。
「桜って嫌いなんだ」
彼女とは時々、今でもこの桜の下で出くわすことが多いが、この話題に触れるのは初めてだった。
紙島は興味無さそうに流し目だけを送ってきた。
「へえ……珍しいね。興味ないとかじゃなくて嫌いなんだ」
「ああ。だってさ……日本の花といえば、桜だろ?」
詩織は空を見上げて、そうかも、と頷いた。
「そこが嫌なんだよ。パッと『今答えろ!』と枕詞をくっつけて尋ねたら、みんながみんな桜って返すだろ。日本には元々、松だの、梅だの、藤だの、菖蒲だの、牡丹だの萩だの芒だの菊だの柳だの桐だの、ほかにもたくさん固有の花があるのに、どれかひとつといったらいつも桜だ」
紙島は生返事しかしてくれないが気にしない。
「それってなんかひどくないか。忘れ去られた花が可哀想だぜ。だから僕は桜なんか嫌いだから枯れたっていいんだ。首藤の墓参りのが大事だぜ」
「首藤が好きだったものを枯れさせて平気なの?」
はぁ、と大きなため息を紙島が零した。呆れを通り越して微笑んでいる。
「そんなこと考えながら桜を見上げるのは門倉くんくらいだろうね」
「変かな」
「変だよ」
「でも君だって変だぜ」
僕の反撃に、紙島はまた、へぇと気の無いようなフリをする。フリだと思いたい。
「どこが変なのか言ってみてよ。まあ、門倉くんからしたらフツーの人ほどヘンに見えるんだろうけど」
「うん。――君はさっき、美化委員として僕の行動が許せないとか言ったよな」
「言ったけど?」
「ホントにそうか?」
「――――は?」
「そんなの建前なんじゃないのか。ホントは、死んだ幼馴染の面影が残ってる場所が傷ついて欲しくないから、ってのが本音なんじゃないのか」
いつの間にか紙島は、ぞっとするほど人形に似た顔つきになっていた。
怒っている。確実に。
でも僕は、自分の言葉をいまさら引っ込めるつもりはない。
「だったら何?」
「僕は――首藤に戻ってきてほしいわけでもないし、悲しくも悔しくもない。僕からすればあいつはただの友達で、頭のおかしい馬鹿が張ったピアノ線にバイクで突っ込んで首を三百メートル彼方までぶっ飛ばした珍しい死に方をしたやつで、いい暇つぶしの相手だった。それだけ。――未練がましいのは君の方だろうが」
いい音が鳴った。
頬に触れるとじんわりと熱を持っていた。
手の平を振り切った姿勢のまま、紙島詩織は、キッと僕を射殺す勢いで睨みつけた。
「門倉くんには、わからないだろうね」
立ち去る紙島の背を見送りながら、いま言われたセリフを反芻する。結構響く言葉だな、と僕は胸に手を当てた。誰もいない校舎裏で、誰に言うでもなく呟く。
「ああ、そうだよ、わかるもんか」
しかし、なるほど環境破壊か。
僕は咲き誇る桃色の、自然の傘を見上げた。
確かに僕は、この桜を破壊しようとしていたのかもしれない。
傷だらけの幹を見るたびに、たったひとりの友達を失ったという思いがするのは事実だ。
ああ、そうだ。
この気持ちを、敗北感と呼ぶんだろう。
首藤星彦が死んでから、僕の毎日は、味気ないにもほどがある。
他に友達、いないし。
桜野高校に入学した去年の春、僕と紙島詩織、そして首藤星彦は同じクラスになった。
僕たちの担任はその年に初めて自分のクラスを受け持つことになったとかで、生徒よりもガチガチに緊張して、見えないハンガーで吊られているようだった。早く友達が作りたくって調子に乗った誰かが『まさか本当にひっかかりはするまい』と仕掛けた黒板消しの落下トラップにひっかかりマトモに白粉にまみれ、黒板消しを頭のてっぺんに乗っけたまま何事もなかったかのように授業を始めたのは気合の入った現実逃避っぷりだった。
去年いっぱいで教師をやめてしまったのが残念でならない。
その一件でクラスメイトたちの強張った首筋もいくらかほぐれたのか、誰もが気乗りしないであろう自己紹介もスムーズに進んでいった。
首藤星彦がなんと自己紹介していたのか、実はそれほどよく覚えていない。ただ漠然と背高いなあ、ぐらいのことは思ったかもしれない。
首藤は身長一八〇センチ。雑巾を絞ったように鍛えられた筋肉を持っていて、髪は短髪、眼だけがやたらと子どものようにきらきらしているやつだった。
僕の隣に座っていた木村が「すごいイケメン……」と恍惚した表情で呟いていたので、「きみだってイケメンだよ」と耳打ちしてやったら新品の上履きに早くも靴跡をいただく羽目になった。木村とは中学が一緒だったので今でも時々喋る。バレーボール一筋で背中よりも長く髪を伸ばしたことがないらしい。男みたいな団子っ鼻をしょっちゅう気にしていた。
斜め前の席で鏡のようにピカピカの机にアンパンマンの絵を描き始めた首藤を見ながら、こういうやつがモテる顔なわけか、と僕は頬杖をついてその横顔を眺めていた。
友達を作るためにあれこれ努力するのが億劫で、入学してから二月ぐらい僕はぼんやりと過ごしていた。球技大会もその打ち上げもすっぽかしてマイペースな人、もとい協調性のないつまらんやつとの称号を頂戴した僕は、そのまま静かに高校生活を締めくくることになる、と自分でも思っていたし、そうなるはずだった。
気がついたら、首藤と友達になっていた。
なにがきっかけだったのか、べつに隠してるわけではないけれど、本当に覚えていない。まあ友達との馴れ初めなんてのはそんなものなんだろう。かはっ、かはっ、と妙な笑い方をするやつがいたので横を見たら首藤がいた、という感じ。
僕と首藤は、来る日も来る日も校舎裏の桜の木の下でくだらないことを五限が始まるまでの五十分間を費やして喋り続けた。
彼の幼馴染の紙島詩織は僕とウマが合わないらしく、昼休みに姿を現したことはほとんどなかった。
退屈だったが、穏やかだったことも確かだ。
ある日、首藤がこんなことを聞いてきた。
「いづる、おまえ来世って信じる?」
僕は早くも飽き始めた購買のパンをくわえながら、
「来世? 信じてない」
「え、なんで?」
べつに信じてなきゃいけないわけでもないだろう、と思ったが、まあ許してやることにした。
「だってさ、死んだら消えなきゃずるいじゃん」
首藤は腕を組んで小首をかしげて、全体的に斜めになりながらうーんと唸った。
「ずるいって何さ」
僕はこっそり首藤の弁当からから揚げを盗み取りながら答えた。
「シューティングゲームやってて、残り一機で、あと一発でボスを倒せる! ってときにやられちゃって、ああくそまた最初からかよぉって思ってたら、なんかしらないけどバグって数秒間無敵になってボス倒せても、それってずるいじゃん」
「あー」
首藤は牛のように口をだらんと開けた。マヌケ面だってわかってんだろうか?
「なんとなくわかる」
「だろ。勝たなきゃダメだけど、勝ってイマイチ納得できないってすごくつまんないぜ。だから死んだら消えなきゃいけないんだよ、潔く」
「おまえはすげえなあ」
首藤はにへらっと笑った。
「俺はそんなにサッパリはできねーや。ずるくてもなんでも、このまま死んだらすげえ困る」
「困る? なんかやりたいことあるのか?」
「いや、ないけどさ、やりたいこととか、好きなこと見つかってねーのに死んじゃうなんて嫌だろ」
「まあねえ……。何だよ、それで来世の話を振ってきたのか?」
「うーん、そうかも……でもたぶん違うな」
だって、と首藤は笑った。
「来世があろうとなかろうと、俺が俺じゃなくなっちまったら、意味ねえもんな」
どこか首藤には、僕に通じるものがあったように思う。
あいつも同じことを思っていたのかもしれない。
そうだとしたら、なんだかちょっと、気恥ずかしいけど。
夏休みの終わり頃だったと思う。
補習に呼ばれて長い坂を登って登校すると、首藤が顔面を腫らしていた。眼の上に青タンが出来上がっていて、それを見た途端、思わず僕はゲラゲラ笑ってしまった。すると机に腰かけていた紙島がキッと睨んできた。
「何が面白いんだよ、門倉くん」
当の本人の首藤こそヘラヘラのんきに笑っていたのだが、それを言い訳にすると余計にひどい目に遭いそうだったので僕は肩をすくめ、首藤の前の席に逆向きに座った。
「痴話喧嘩でもしたの?」
「なっ――」
紙島が夏でも外さないロシア帽をぐっと引き下げて、目元を隠す。
そんなおめでたい態度を取られてしまっててっきり図星かと思えば、にこにこと首藤が首を振った。傷だらけの面が破顔しているのは思い返しても不気味の一言に尽きる。
「実はさ、昨日、目の見えないおじいちゃんが公園で不良に絡まれててさ」
「目が見えないって――知り合いだったのか?」
「いや、でも白杖持ってたし。それに視界が俺らと違う人って、やっぱ首の動かし方とか、微妙な雰囲気違うじゃん。差別するわけじゃないけど、わかっちゃうだろ」
「ああ――それで?」
それでも糞も答えは判り切っていたのだが。
首藤はかはっ、と笑った。
「助けてみた」
「捨て猫を拾ったみたいな軽い言い方しないでほしい」と紙島がぷんすかしている。イラついてるなら牛乳でも飲んでろというのだ。
「五人ぐらいいたんだけど、まあなんとかなるかーと思って飛び込んだまではよかったんだけど、いやあスタンガンは出てくるわバイクで轢かれかけるわ――まァ俺もバイク乗ってたから最初のひとりは轢いたんだけど――」
首藤は無免許で、兄のバイクをよく乗り回していた。四つ年上の兄貴とは一度だけ会ったことがあるのだけれど、瓜二つと言っていいほど似ていたので教師が首藤を発見しても弟かどうか判別できた試しはついになかった。
「で、勝ったのか?」
「門倉くん、そんなスポーツみたいに――」
「うん、じいちゃん守ってやったぜ」
グイっと首藤は親指をあげて誇らしげだ。
「そりゃよかったな、おめでとう」と褒めてやるとまた不気味に破顔する。
「ああ、一度やってみたかったんだ、人を助けるって」
「ふうん。で、感想は?」
うるさい蝉が鳴く外を見やって、首藤は目を細めた。
「思ってたよか、つまんねえ」
「だろうな」
それからすぐ、首藤は死んだ。
バイクで橋を渡る際に、張ってあったピアノ線に気づかずに通過したのだ。
フルスロットルで突っ込んだ首は、くっつきそうなほど綺麗な断面をさらして、後日、三百メートル先のゴミ捨て場の中から発見された。
誰かがそこまで運んだのではないか、犬や狐がくわえて持っていったのではないか、いろいろ噂は立ったものの、それもすぐに立ち消えた。
僕は本当に、首藤の首は夜空高くを舞い上がり、ゴミ袋の海に特攻をかまし生ゴミの飛沫を高々とブチ上げたのだと思っている。
それが一番、あいつの死に様としては、面白い。
ひどいやつだと自分でも思うけれど、僕は少なくとも、死んで周りにめそめそされるより、笑い話にでもしてもらった方が辛気臭くなくっていい。
そう思う。
今日はクラブに顔を見せる気分にもなれず――僕だってギャンブルしたくない日ぐらいある――ひとりで家路についた。
僕の帰り道には一本の十字路がある。
桜の木が街路樹として植えられていて、春になるとあまりの花びらに車がワイパーを使って通るほどだ。
よく十字路には魔が出る、といういわれがあるが、首藤が首なしライダーになってから三ヶ月くらい、実際の死亡現場と離れているにも関わらずこの辻にあいつの幽霊が出るという都市伝説が伝染病のように流行した。
地元の小学生があまりにも怯えるので(実際、見たという子どもが何人もいたらしい)、通学路として使用されなくなったほどだった。
そんな噂もすっかり雪と一緒に溶けてなくなってしまったように思えるけれど、世に心配性の絶えた試しはなし、いまだに人気は少なく閑散としたままだ。
まあ、どんな噂や迷信が蔓延しようと、べつに首藤が生き返るわけでもなし。もし本当にあいつの亡霊がいるなら、見世物にしたいところだ。
我ながら不届きなことを考えているのにも飽き、ふと横断歩道の向こう側を見やった。
赤信号から、青信号へと切り替わる。電子音のとおりゃんせが横断歩道に流れ出す。
木から溢れかえった桜の花が、風に煽られて僕の顔をしたたかに打つ。子供の手にまとわりつかれているようでうっとうしいその風の向こうに、誰かがいた。
背が高く、精悍な顔つきで、どこか子どもっぽく輝く両目。
思わず右手を伸ばした。
あいつは向こう岸で、にやにや笑っている、ように見えた。
どうして……。
そのとき、象の鳴き声を聞いた。
とうとう頭がおかしくなったのか、と横を見ると、突っ込んできたのはインド象でもなんでもなく、青いトラック。
運転席で、うとうとと船を漕ぐ運転手。
あッ
五メートル下で僕が死んでいた。
白と黒の縞模様のど真ん中に、ひしゃげた卍のようになって倒れている。
轢かれたときの衝撃で学校指定のローファーが両方とも見知らぬ明日に向かってぶっ飛んでいた。
鴉色のブレザーから、じわじわと血だまりが広がっていく。アスファルトに血の気を吸われて、顔色はどんどん白くなっていく。
もう助からないのは間違いない。
そんな自分自身をどういうわけか僕は見下ろしているのだった。横を見ると青く点った信号機が顔のまん前にあった。複眼のようなシグナルが目に痛い。
まだ足があるか心配になって身体を見下ろすと、腹のあたりから血が滲み出していた。手で撫でてみたが痛みはない。
トラックが横転して、その余波で波のような桜吹雪が巻き起こっていた。
午後の白い日差しを浴びて、花びらは気持ちよさそうにひらめいている。
ああ、もし来世があるなら花になるのも悪くない。桜は嫌だから、あやめにでもなろうか。
そのとき、名前を呼ばれたような気がした。振り返る。
きょろきょろした挙句に、眼下の死体を僕よりも近い距離で見下ろしているやつがいた。
紙島詩織だった。
「門倉――くん」
囁き声は本当に幽かで、そこから感情の色は何一つ読み取れない。
まさか悲しむわけはあるまい。できれば救急車でも呼んでほしいところだけれど、手遅れなのが実に残念だ。
桜に似た薄い唇が、何か言っている。
だがその言葉は、小さすぎて聞き取れない。
いや。
僕の耳が、何も聞き取らなくなっているのだ。
視界が四隅から、白くなっていく。
ゆっくりと鈍く、なまくらになっていく感覚。
ああ、やっぱり死ぬのね。
やり残したことが、何もないっていうのも、寂しいかな。
まあそれもひとつの人生。そうそう上手くもいかないさ。
僕が万感の思いを籠めて死を受け入れようとして――
「おい」
鈴の鳴るような声に、邪魔された。
赤に点った信号機をベンチ代わりにして、妙な女の子が座っていた。
そんじょそこらの女子じゃないことは一目瞭然で、彼女は昭和を終えて二十余年を経たこの無明の時代に、武者か忍者のように古風な格好をしていた。青い衣を着て、すらりと伸びた手足を手甲、篭手、すね当てがそれぞれ守り、鉄と革でできた胸当てが胸元を覆っていた。青い衣と赤い武具をまとった姿は、動脈と静脈が絡み合ったようだ。
腰には朱鞘の太刀を佩いている。気分次第では斬ってやってもいいんだぞ、と言いたげに左手が柄に置かれていた。
格好こそ時代錯誤だが、その目つきは戦士のそれだ。腰の太刀で斬ってつけたかのような眼光炯々とした双眸、筆で引いたように細く整った眉、すっと通った柔らかそうな鼻筋――そんな怪少女が、信号機に足を組んで座っていた。
一度見たら焼きついてしまって、二度と忘れられない記憶になりそうな予感がした。もったいないことに人生にセーブデータは一つしかない。どんなに消したい跡でも、リセットは効かないのだった。
眠気はとうの昔に吹っ飛んでいた。
地上五メートルで、ふわふわ浮いたまま、僕は少女と見つめあった。
「……なんだよ」
眉をひそめて少女が居心地悪そうに信号機に座りなおすが、それはこっちのセリフだ。
「きみ、そんなところに座ってたら、信号が見えなくて下の人が困」
「そんなに太ってやしねぇッ!」
ガァンと篭手に覆われた拳が僕の顎を撃ち抜いた。一発で頭ん中に火花が炸裂した。見事なアッパーカットだ。できれば受ける側ではなく見る方に回りたかったけれど。
身体をくの字に折って顎をさすりながら苦悶に呻いていると、まだ怒り足りないのか殴り足りないのか、少女は拳をぶんぶん振っている。
「人間のくせに生意気なやつだ」
心なしか、肩口で乱雑に切られた髪が怒気を孕んで膨らんでいるように見えた。まるで鬼だ。
「人間……って、なんだ、じゃきみは人間じゃないっていうのか」
僕が疑問を口にすると、少女は信号機に再び腰を下ろし、少し得意気な顔をした。ドヤ顔が様になっている。これは間違いなく親に甘やかされて育ったタイプだ。
「あたしは死んだてめえら人間をあの世に連れて行ってやる心優しい妖怪だよ」
「ふうん」
妖怪だか老害だか知らないが、心優しい人はすぐ人を殴ったりはしないはずだ。
僕の反応が期待値に比べて鈍かったのが気に入らないのか、少女はぐっと顔を突き出して、下から鋭く見上げてきた。スカートの長いセーラー服を着せたらスケバンが絶滅から再生するだろう。彼女はぴっと手甲に覆われた手で眼下の死体を指差した。
いつの間にか救急車がやってきて、ぐったりした僕の体は担架に乗せられている。そばには紙島が付き添っていた。どうやら彼女の手配らしい、お礼を言いたいが、あいにく死んでいる。
「てめえはトラックにドカーンされてバターンなったからそれを見てたあたしがぴゅーってやってきたわけだ」
夕方頃に三チャンネルでやってる子ども向け番組のガキどもがこんな喋り方をしていたような気がする。
「よくわかる説明だ」
「だろ?」
「で」
ドヤ顔を華麗にスルーして、
「僕はどうなるんだ?」
死んだら心は消えるものと思っていたので、正直この状況にはいささか面食らっている。空中にあぐらをかいてあくびをかみ殺しながら答えを待った。
妖怪は、びっと僕の眉間を指し示した。
「おまえら人間は最近、科学とかいうわけわからんモノを信仰するようになって忘れちまったらしいが、人間ってのはな、死ぬと魂がぽこっと出てくる。その魂は、死んでから七日間、あの世をウロウロした後、記憶と自我をなくして魂だけになる」
「魂が、魂だけになる?」
「うん」少女はうなずき、「おまえらが生まれてくる前に『だったもの』、そいつに戻る。もうその頃にゃあ何の苦しみも悩みもない。自分が誰だったのかさえわからない。永遠に記憶喪失さ。魂だけになった人間は、やがて転生してまた生き物として生まれる。気楽なもんさ」
「へえ」
「なんだおまえ」
妖怪が不服そうに目をすがめる。
「ホントにわかってんのか?」
「わかってるよ」
「嘘つけ、ぜんぶ説明してないんだからわかるもんか」
「おおよそ把握していれば大抵はなんとかなる。これからきみにあの世に連れていってもらって、七日間経ったら僕は消える。その後のことはわからない、野となれ山となれ人となれ、ってんだろ」
「う、うん」と彼女は目を瞬かせる。たぶん、これ以上一気にまくし立てるとフリーズする。
勢いをつけて、ブランコから飛び降りるようにして赤い少女は信号機から宙に降り立った。足場なんてなにもないのに、少女は恐れもせずに宙に足をつく。
「それだけわかってりゃあいいや。わかってなくても連れて行くしな。ま、百戦は一撃にしかずだ」
「百戦もしてればね」
「あん? なんか言ったか?」
「いいや。じゃ、いこうか。ところであの世ってここから何分くらい?」
「歩いて十分くらいだな。駅から近いぞ」
あの世は意外と身近にあった。
ひょいひょいひょい、っと妖怪は薄暗く埃っぽいビルの隙間を縫って進んでいく。その俊敏な背中を追うだけで、僕は息が切れてしまった。運動不足も甚だしい。改善したいのは山々だが、それを解消する機会はもはやない。
首だけで振り返り、妖怪は僕の醜態をせせら笑った。
「だらしねえなあ。それでもおまえ男かァ? そんなんじゃ嫁さんもらえねえぞ」
「死んでるしね」
「あははっ、そりゃそうだ。ざまァ」
彼女の笑い方はとても子どもっぽい。えくぼを作って、そこにいるだけで楽しくて仕方ないという笑みだ。うらやましいものだ。僕は思い出せる限り、そんな風に笑った記憶はあんまりない。
○
僕たちはあの世とやらを目指しているわけだけれど、妖怪の話によれば、あの世とはこの世の各地で繋がっており、そこを介して行き来ができるのだという。
このあたりでは、駅前の路地裏迷宮がそのスポットらしい。
いつもは行き場を失った怪しい素性の連中が蠢いている路地に、なぜか今日に限ってねずみ一匹ごろついてはいなかった。狭いビルの外壁を乱反射した風が不気味な音を立てて通り抜けていく。
「ああ、そうそう」と少女がどこからともなく一枚のお面を取り出した。それを受け取り、目に近づけてみる。何も刻まれていない。つるつるしたその仮面にはまぬけに伸びた僕の顔が映っているばかりだ。
「それ被っとけ」
「なんで?」
「それ被ってないと、七日間経っても魂が浄化されないときがたまにあんだよ。鬼とか自縛霊なんかになりたくないだろ?」
「自縛霊は嫌だなァ。堅苦しそう」
被ってみると、ばかでかいコンタクトレンズをつけたように視界は良好なままだった。
「まァでも鬼ならいいかな」
「バカ言うなよ。鬼になった魂はこの世に未練たらッたらで、あたしらが退治しなきゃいけねーんだぞ。おとなしく浄化されてくれりゃただで魂が手に入るんだから余計な真似されたくねーの」
「きみは素直なバケモンだね」
「妖怪な……おまえ喧嘩売ってんの?」気づけよ。
思わず破顔一笑してしまったが、いくら笑って見せても、仮面に阻まれて妖からは見えないことに気づいた。
「あの世には、きみみたいな妖怪がたくさんいるの?」
「いけばわかるよ」
「ふうん――」
いつの間にか道が下り坂になっている。けれど、路地裏に坂なんてあったろうか。首を向けると左右の建物は斜めに傾いでいた。ゴミ箱が滑り落ちることもなく四十五度で固定している。
ゆっくりと暗い奈落へと続く坂道を、僕たちは下っていった。
「ねェ、妖怪さん」
ゆっくり闇に喰われながら、僕は尋ねた。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「あんだよ」
姿はもう見えない。声だけが、波紋のように反響して返ってくる。
「半年くらい前にさ――首のない男が来なかった?」
少女はいるかいないかを答えずに、
「友達か?」
とだけ聞き返してきた。
僕は答えなかった。
○
ふと耳を澄ませば、どこからともなく、音が聞こえてきた。
その音はだんだんと大きくなっていく。
どんどん――ちゃか――どん――
ああ、これは祭囃子だ。
どこかで祭がやっている。
どんどんちゃかちゃか
どんちゃかちゃ――――