20.じゅぶないる
闇ドンが、六つ鳴った頃のことである。
海の見える沿岸を、鉄鼠が走っている。四つ足でとことこ、ではなく、前足と後ろ足でがっしり挟んだ火車がアスファルトを噛んでがりがりと、走っている。
乗っているのは、志馬と飛縁魔。
あの世の果てで遊んできた帰りだった。あの世の南西端はどこへ続くとも知れない海になっている。その入り口には、ひとつの島があり、一本の橋が大地とその浮島を接続している。
桃源郷とも、鬼ヶ島とも、呼ばれている。
そこで、思い出というものを造ろう、と志馬は思ったのだった。
人並みの、普通の、生きている高校生というものが送ってなんの咎めもない、そういう時間を過ごせばきっと、どこにある臓腑だかもわかりはしない心の腑というものが満ち足りて、あったかくなるはずだった。
そう聞いていた。
アクセルを回しながら、志馬は、自分の腰に回された飛縁魔の両腕の感触を意識する。
結論から言えば、何も感じなかった。
おかしいのだ。それはずっと感じていた。飛縁魔を式札に封じ込めた瞬間の、あの安堵とも後悔ともつかない感覚が、時が経つにつれて失われていった。そんな馬鹿なことがあるものかと思った。だが、どれほど焦っても戸惑っても、手で水をすくうように、志馬の中から何かが零れていくのは止まらなかった。
怖かった。
その失われていく何かが、最後のひとかけらまで出尽くしてしまったら、自分はどうなるのだろう。やっと見つけたと思えた、人間らしい縁(よすが)が絶たれてしまったら、自分は、何を頼りに永遠に続く今日を進んでいけばいいというのだろう。
ここまできて、どうして、一番大事だと思ったものを、失う羽目になんて遭わなければならないのか。
俺は飛のが好きだ、と志馬は思う。
なのに、彼女とどこを歩いても、どこへいっても、何を話しかけても、何も感じない。自分が何を語ったのか、何を聞いて欲しかったのか、それさえも記憶の霞みが覆い尽くして、こうしている今も消えていく。
満たされるべきなのだ。
何一つとして、欠けているものなんかないのだ。
これが人生というやつで、これこそ自分が望んだもので。
これ以外に欲しいものなど一つとしてなかった。
勝ちも負けもない、白も黒も溶けて消える優しい感覚。人間らしい心。愛でも信でもなんでもいいが、とにかく、自分が死ぬまで得られなかった生きがいだ。
なのに、どうして、何も感じないのだろう。
この、意識だけがゆっくりと冷たく柔らかい手に絞め殺されていくような感覚。満たされているというよりも、じわりと眠い。
なにもかもがどうでもよくない理由が、咄嗟に思いつかない。
「飛の」
呼びかけると、腹の上で飛縁魔の手がぎこちない手つきで上下を組み替え直した。
「飛の――」
返事はない。
自分が、そうしたのだ。
○
二人は横丁に戻ってきた。無人の、誰もいない通りを鉄鼠に乗って走っていく。
ちら、と志馬は後ろを見やった。飛縁魔は相変わらずそこにいて、自分にしがみついている。表情は仮面に隠され、その表面を狂ったように黒髪がなぶっていた。式神に下してからだいぶ、髪が伸びていて、今ではもう背中にまで毛先が届いている。
切ってやろうか、と思った。切れなくはない。死ぬ前は、敗戦直後の路上で辻切り床屋をやって糊口を凌いでいた時期がほんの少しだけある。おかっぱ頭にぐらいにならしてやれる。
志馬は速度を緩めて、足で土を蹴って方向を変えた。腰にかかった手が問うように悶えた。
死ぬと、人は、やはり生前一番馴染んだものにすがるらしい。
何もそこまでしなくても、と誰が言っても当人たちはどこ吹く風で、料理人なら料理を、絵描きなら作品を、そして床屋ならば髪を切ることを求める。その名残で、あの世横丁にはどんな種類の廃屋でもある。志馬は勝手知ったる横丁の通りを駆け抜けて、一軒の店の前まで鉄鼠を走らせた。
止まった三色の回転灯はほこりをかぶり、曇ったガラス戸にはCLOSEDの札が下がっている。それをOPENにひっくり返し、連れの手を引いて志馬は中に入った。かさこそと動き回るまっくろくろすけを足払いで掃討し、飛縁魔を散髪椅子に座らせた。ふと見ると鏡が曇っていたので、ポケットに入っていたいつ突っ込んだかも覚えていないしわくちゃのハンカチをさっと濡らし、拭うと輝きが戻った。
「髪、切ってやるよ」
「…………」
飛縁魔は何も言わない。志馬も答えを期待なんてしていない。事務所と物置をかねているらしい一角を漁ってハサミを探し出した。久々にそれを手の中でくるくると弄ぶ。
カッティングクロスを飛縁魔に上からばさぁっとかけた。ちゃんと手が出るようにしてやる。雑誌が入った果物籠は一応、あるにはあったが、どれも骨董品もののファッション雑誌ばかりで、飛縁魔は見向きもしなかった。
志馬は鏡の中の飛縁魔に笑いかけて、どうしたい、と聞きかけたが、やめた。
黙って、薄く微笑みながら、髪を梳かし、ハサミを入れた。
ちょきん、と切ったか切らないかもわからないほどの毛先を切った時、なんともいえない気持ちになった。楽しみにしていた何かに手をつけてしまったような気分だった。べつに、彼女の髪を切ってやる、なんてことは今まで一度も楽しみにしたことなどなかったし、これからいくらでも時が続く限りそれこそ無限にやってやれるというのに。
こんなこと、なんでもないことなのに。
ちょきん、ちょきん、とハサミが閉じるたびに飛縁魔の流れ水のような髪がカッティングクロスを滑り落ちていく。
背中にまで届く髪は、ばっさりやることにした。飛縁魔は、肩に届くか届かないかぐらいのショートヘアが、一番似合うと思ったから。
出会った頃の飛縁魔が、一番可愛いと志馬は思ったから。
久々の散髪で、しかもこんなに綺麗な髪に手を加えるのは初めてだったから、興が乗って志馬の手さばきもどんどん速くなっていった。
志馬と過ごした時間を遡るように、飛縁魔の髪が短くなっていく。
志馬にはもう、何も思い出せない。
大切なことばかりが、記憶からかき出されていく。残るのは、うす暗く湿った思い出だけ。生きていた頃のことばかり。
あの当時、別段珍しい話じゃなかった。
志馬は捨て子だった。
悲劇でもなんでもない。やりたい盛りの男女がやって、降ろし損ねたか気の迷いか、女が産んで、そしてどちらかが、あるいは両方かが頷きあって寺の石段の下に捨てていった。籠の中にぼろきれ一枚入れてくれただけでも、人間扱いしてくれたのだろうと志馬は思っている。
志馬を拾ってくれた寺は、陽闇寺、といった。
博打寺だった。
今は低額の賭博なら見過ごすか、年に一、二度の定期的なガサで済ませているが、当時の法度は今日びのヒヨった法とは桁が違った。そもそも手慰みで小銭を賭けるやつなどほとんどおらず、無教育で数字から縁遠かった男たちは「勝ち続ければ勝ち続ける」という愚にもつかない夢物語をまだ心の底から信じ、大金にこそ、おのが運命を張っていた。
大の男が一年間、汗水垂らして稼ぐ金と同額の紙切れが、泡のように毎夜毎夜に飛び交った。それでも人死には滅多に出なかった。寺は筋者の傘下ではなかったから、指を詰めたりすることはあまりなかったが、その代わり徹底的な取立てや身売りなどが多かったように、志馬には思える。
そこで子供ながらに勝ち越した、とでも言えれば格好のひとつふたつもついたのだが、生憎と、見ていただけだ。夜なべしてホンビキや、まだルールの紆余曲折の最中にあった黎明期の麻雀に明け暮れる男たちのために茶漬けや握り飯などを作って持っていくことはあっても、金を持っていない、毛も生え揃っていない坊やをまともに相手にしてくれる物好きな博徒なんていなかった。腕一本賭ける、と言っても鼻で笑われ足で蹴られて終わりだったろう。血は金にならないし、もしそうするならナタで腕を落とすよりも注射針の方がいいに決まっていた。
ただ、その時から、ずっと、闘うということ、失うということ、憎むということ、そして愛するということの中に身を置いていたことには変わりはない。
今でも、あの博打寺の中で交わされた金の魔力とその戦争が、志馬の心臓深くに茨のように絡みついて離れてくれない。志馬にとって、生きるということは相手を蹴落とすことだった。友愛も交情も相手を騙し、利用するためのものだった。笑いながら敵を憎み、そして、勝つためには愛することさえいとわない。愛する、というのは、理解する、ということだ。相手の気持ちを読みきったやつが勝つ。何もかも愛したやつこそが、勝つのだ。志馬はそう信じた。
ひょっとすると、志馬が社会の中に流れる模範的な愛というものに共感を抱けなかったのは、この闘争の中でしか発生しない戦闘愛のようなものの烈しさを、最初の最初で嗅ぎ覚えてしまったからなのかもしれない。
憎むにしろ、愛するにしろ、それは闘争の中のことで、志馬は結局、平和というものを知らないまま幼少期を過ごした。
戦時中だった。
一応、学校へ通わせられていた志馬は、少年兵として徴兵はされなかった。中学生だったからだ。その代わりに勤労工員として工場で働かされた。時々、米軍の戦闘機が工場を襲撃してきて、工員たちと逃げ回った。
過ぎ去った記憶となった今では、それほど苦ではなかったと、志馬は思う。
そして戦闘が終わり、志馬は陽闇寺へ学生服のまま戻ってきた。
寺は木っ端微塵になっていた。
生き残りを探すこともせず、志馬はそこから去った。それが生家とも言える陽闇寺との別れだった。
志馬は、浮浪児になって、上野の不忍池のほとりで寝起きした。戦争が終わって、残暑のおかげで凍死せずには済んだが、とにかく食い物が無かった。焼き芋ひとかけらでさえ、どこにあるのかもわからない始末だった。
毎日、行き倒れの足に蹴躓いた。男も女も、若いのも年寄りも、あらゆる種類の死体を志馬は見た。だが、そばを通り過ぎていく誰も埋葬してやろうとか、荼毘に付してやろうとか、そういうことを言い出さなかったし、しなかった。明日は我が身で、それどころではなかったのだろうし、すでに誰かに身包みを剥がされたただの裸でしかない死体に、誰も貨幣価値を見出したりはしなかった。
志馬はたまに、ほんの小さな子供のなきがらだけ、焦土の中に埋めてやった。その程度なら、手で土を掘れたからだ。可哀想だ、とは思わなかった。ただ、そうした。誰もそうしなかったから、そうした。
拾ったハサミで辻切り床屋を始めたのは、この少し後だ。志馬はその頃まだ、性根通りの無口で無愛想な少年だったが、客を相手にしている時だけはやけに弁が立った。後々おのれを振り返って見るに、おそらく、客は敵であり、敵との接し方は志馬が覚えている数少ない技術のひとつだったから、すっと発揮されたのだろう。むしろこの時、ありはしなかったが、誰か大人に「一緒に暮らそう、家族になろう」とでも言われていたら、二の句が継げなくなって黙り込んでいたはずだ。
床屋は、小遣いにもならない額だったが、いくらかの小銭にはなった。それで細々と喰っていくことは、いつまで続けられたかはともかく、その時はできた。
志馬はそうしなかった。
客の間で、こんな噂が流れていたからだ。
――不忍池のどこかで、博徒が集まっているシキがある。
レートはどうでもよかった。
勝てば金になる。
それだけだった。
志馬はそこを探し出して、座に入れてもらった。それから彼は二、三年生きて、麻雀打ちの中でも新進気鋭の若手として顔を売ったが、結局のところ、最初の最初に博打集落を見つけてしまったことが、遡っていえば死因ということになる。
最初にやった博打はチンチロリンで、死ぬ間際までやっていたのは、麻雀だった。
南三局だったな、と志馬は時々思い出す。その前局、九連宝燈をアガっていた。
無論、神様に恵んでもらった役満など、ただの一度もアガったことがない夕原志馬の九連宝燈だ。
殺されるに決まっていた。
――いつの間にか、志馬は頭の中で記憶を掘り返すだけでなく、それを飛縁魔に喋っていた。気づかなかった。無意識だった。
飛縁魔は、ぴくりともしない。
「髪、洗うから立ちな」
志馬はカッティングクロスを外してやって、飛縁魔を洗髪用の寝椅子へと連れていった。飛縁魔は盲人のように手を引く志馬のなすままになっている。
横たわらせて、蛇口をひねり、髪を洗ってやった。顔を布で隠す必要はなかった。仮面があったからだ。
それを、外してみたい衝動に駆られる。
だが、それを外すことは、飛縁魔を自分の式から解放するということだ。
まだ、できない。
飛縁魔に斬られるならそれでもいい。だが、その後、彼女がその足で誰に会いにいくのかと思うと、どんな時でも、志馬の目玉に炎が宿る。
あいつだけは。
あいつだけは、必ず殺す。
もう死んでいる相手に使うべきでない動詞を自分が用いていることに志馬は気づいてはいない。
――決めた。
明日、門倉いづると決着をつけて、そうしたら、飛縁魔の仮面を外そう。
それで、彼女は言葉と表情を取り戻す。
その果てに斬られるというのなら、それでもいい。
そう、明日。
明日、すべてが終わる。
志馬はタオルで飛縁魔の髪を拭いてやりながら、鏡の中の自分を見た。
金髪。
昔、二十年ほど前、高校生の死人と知り合いになった。その時、そいつは髪を金色に染めていて、そっちでは流行ってるのかと聞くと、
――ああ、もう俺たちくらいのトシで黒髪なんかいねえよ。制服だって改造したり、自分の色にしたりするんだ。紫とか、赤とか。
――ふうん、それが普通か。
――ああ。染めなきゃ恥ずかしくって学校にもいけねえよ、ほんと。
学生の死人は、数が少ない。死ぬのは老人の役目なのだから、当然でもあった。
志馬がその嘘に気づくのはかなり後だったが、今となってはもうかえって馴染んでしまっていて、自分が派手すぎる格好をしているとわかっているが、直す気にもならない。
世間というものは、いつも、志馬を置き去りにして勝手に変わり、勝手に流れた。もうそんなものには懲り懲りだった。
平和だ。
自分は、平和を掴むのだ。
そして自分の闘争に染まりきった生涯に清算というやつをつけてやるのだ。
きっとできる、きっとなれる。
彼女と一緒なら。
ぽんぽん、と志馬が出来上がった飛縁魔の頭を叩くと、彼女はくすぐったそうに首をすくめた。
そして、まったく意識することなく、志馬の口からこんな一言が出た。
「可愛いぜ。みんなに見せてこいよ」
それは、たぶん。
志馬が喋ったセリフの中で、一番優しい声音をしていた。
飛縁魔は一瞬、固まって白仮面をあるじに向けていたが、すうっと誰かに手を引かれたように、表へ出て行った。
志馬はしばらく、呆然としていた。が、やがて自嘲気味に笑うと、今まで飛縁魔が座っていた散髪台に座って、目を閉じた。
好きだと思った女の子のぬくもりが、まだいくらか残っている。
疫病噛、というあやかしがいた。名前の通り、吉兆を呼ぶ代物ではない。
ひとの首筋に噛みついて、魂を吸う、トカゲとヒルの合いの子のようなあやかしだった。音もなく足から身体を這い登っていって、取りつくのだ。それがたまたま、床屋から出てきた飛縁魔の火澄の首筋にガブリとかぶりついた。ちゅうちゅう魂を吸いながら、疫病噛は獲物のことを考える。どれぐらいで勘付くか。五分か十分か、それ以上か。どちらにせよ消すほど吸えば見つかって袋叩きの目に遭うことは明らかで、その前には退散しなければならない。
疫病噛が、自分が取りついたのが志馬お気に入りの火澄であることに気がついたのは彼女が仮面をつけていることに気がついたからだ。白仮面つきのあやかしはあの世横丁のどの小路を探しても、たったひとりしかいない。
火澄はしきりに髪を片手で梳りながら、あてもないように横丁を歩いていた。疫病噛はくんくん鼻をひくつかせてあたりをつけた。――どうやら散髪した帰りらしい。髪の毛から洗剤のいいにおいがした。
どこかで誰かが太鼓を叩いている。笛の音も聞こえる。風が吹くような囁き声と、葉がこすれるような笑い声。いつものあの世横丁だった。
火澄が、何を目当てにして歩いているのか、疫病噛にはようやくわかった。
食べ物のにおいだ。
どこかで肉を焼いているらしい。そのにおいに火澄は釣られているのだ。
とても食欲があるようには思えない足取りで、火澄は通りを曲がる。だが疫病噛は知っていた。これはにおいだけのあやかしで、『迷い香』といい、それに釣られて歩く者の魂をこっそりと吸ってしまう、一種の呪いだった。火澄がそれを知らないはずがない。もうずっと、生まれて今までこの赤い町で暮らしている彼女が知らないはずがない。
疫病噛は、ふと、自分が何に噛みついたのかわからなくなって少しだけ恐ろしくなった。
火澄は歩いていく。においのあやかしも、火澄のおかしな様子に気づいたのか、去っていた。
やがて火澄の草履が、細かい砂粒の道を踏んだ。
不転池(ころばずいけ)のほとりだった。
あの世横丁の北西にある湖だ。いつも霧が立ち込めていて、先日の爆発騒ぎがあってからは誰も立ち寄らなくなっていた。ボート小屋があった場所には、いまは、ただ砕けた木材があるだけだった。
火澄はふらふらと池に近づいていく。疫病噛は退散しようかと思ったが、そのままくっついていった。
ほとりに、大きな蓮が浮かんでいた。ちら、と疫病噛は火澄が腰に佩いている刀の柄を見やった。蓮獄文字虚丸、二尺四寸八分の刀身はいま、朱塗りの鞘で眠っている。柄ごしらえは金の蓮。
池に浮いている方の蓮のそばに、ぼろきれをまとった誰かが膝を折って蹲っていた。顔は、頭からかぶったぼろきれの影になっていて、見えない。
乗るかい――と、洞穴から吹き上げて来る淀んだ大気のような声でそいつが言った。火澄はしばらくその場に佇んでいたが、頷いて、蓮のひとつに草履を乗せた。そしてぼろきれをまとったあやかしの手に、いつの間に握っていたのか、小銭を少し降らせた。あやかしは軽く会釈して、そっぽを向いた。
火澄がしゃがむと、ゆっくりと蓮が岸からひとりでに離れていった。水面を蓮が進むと、波紋が跡に残った。
疫病噛はそろそろ本当に退散時だと思い、自分が跳ねられる限界の地点で四つ足をたわめた。が、その時を狙っていたかのように火澄の手が伸びてきて、むんずと捕まってしまった。アッ、と思ったがもう遅い。疫病噛は花のやくのあたりに転がされた。
白い仮面に、見下ろされる。疫病噛は逃げようとするのだが、そのたびに火澄が尻尾をつまんで引き戻してしまう。そうしてころころと花弁の中でもんどりうつ様が見たいらしい。疫病噛がぶすっとしてそのまま動かないとデコピンを喰らわせて無理やり悶えさせる。どうしても、放っておいてはくれないらしい。疫病噛は観念した。逃げられないならいっそ道化になってしまおう。そして彼が横丁のどこかで見覚えしてきた踊りを渋々披露すると、火澄は全然関係ない方を向き、ついに疫病噛は激怒の極地に達しかけた。が、どうやら火澄は無視しているのではなく、何かに目を奪われているようなのだった。
ふたりを乗せた蓮は、湖の対岸近くまで、来ていた。霧が濃く、手を伸ばせば白い闇に埋もれてしまいそうなほどだった。
ただ、岸の方の霧はいくらか晴れていて、向こうからこちらは見えないかもしれなかったが、こちらからは辛うじて見渡せた。
誰かがいた。
紺色のブレザーを着ている。学生だ。男子。ところどころ服に血が滲んでいるのは、死んだ時の名残だろう。
仮面はつけていない。なぜか左目だけが赤く、額の奥から、一角獣のような角が、30センチほど伸びている。
――いづる。
と、誰かが囁いたように疫病噛には思えたが、見上げた火澄の顔は相変わらず白い仮面に覆われたままで、彼女は喋ることができないはずだった。
視線を少年に戻す。
少年は釣りをしていた。粗末な木の棒同然の竿はきっとそのあたりで拾ってきたものに違いなく、黒っぽい釣り糸は彼の髪を結び重ねたものだろう。岸に腰をおろして、脇には釣った獲物を入れるためか、古びた水がめが置かれている。
流れ続けていた蓮の動きが、止まった。
火澄は、少年へ顔を向けたまま、動かない。疫病噛は、ふたりを見比べた。
くん、と少年の釣り糸が揺れた。ひょいっと竿が引かれて、飛沫があがった。
釣り糸の先には、何もない。
少年は右手を拳にして、開いた。真新しい一炎玉が現れていて、それを釣り糸にくっつけると、また竿を振りかぶって、一炎玉を池へと投げ込んだ。
たぶん、不転池に棲む毒魚を釣ろうとしているのだろう。疫病噛も噂には聞いたことがある。この池に棲む魚は、とても大きく、とてもうつくしく、身の肉は筆舌に尽くしがたいほどの美味で、それを肴に酒でも飲めば天をも堕ちるほどのよろこびを味わえるのだという。ただ、その魚には毒があり、生きているものが食べればすぐに死んでしまう。
あやかしにしか食べられない魚なのだ。
それも滅多に釣れるものではない。百年に一度、釣竿にひっかかれば上等と言われていた。
それを釣りたいのだろう。
少年は手に力をほとんど入れずに、足の間に竿を立てて、水面を遠く見つめていた。時々、見えない誰かの手のような風が吹いて、少年の髪をなぶった。少年は何にも動じず、何も感じていないかのように、ずっとそうしていた。時間から切り離されてしまったように見えた。
少年は、ひとりだった。
そばには、誰もいない。
ぎゅっと、火澄が蓮のふちを掴んだ。
少年は、こちらに気づかない。見えていても、気づかないのかもしれなかった。
ふたりは、ずっとそうしていた。
何度も、少年は餌だけを食われては不毛な賭けを繰り返し、火澄はしがみつくようにそれを見ていた。
声でもかければ、少年はこちらを向いたかもしれない。だが、火澄には声が出せなかった。
疫病噛には、わからない。
火澄が苦しいのは、声が出せないことじゃなかった。
火澄が苦しいのは、志馬の人形にされているからじゃなかった。
火澄が苦しいのは――――……
少年は、ひとりで釣りをしている。釣れるかどうかもわからない魚を探して。
やがて、深い霧と風が立ち込めて。
ふたりの間を、白い闇が阻んだ――
結局、釣れなかった。
まァいい、といづるは思う。べつに魚なんか好きじゃない。ただ、酒の肴に、とも言うし、一度魚を肴にして酒を飲んでみたかった。それだけのことだ。ただまァ、悔いが残ってしまったのは、後味が悪くもあるが、それが自分らしくも思えた。
黄泉ノ湯に帰ってくると、西日が照りつけていた。いつも夕陽はそこにあるのに、なぜかいづるには、それが本当に遊びつかれて帰って来たときに見る、本当の夕陽に思えた。
門をくぐって庭先に入る。
最初、何が奇妙なのかわからなかった。すぐにわかった。
誰もいない。
猫町が仲間になってからというものの、庭にはコロポックルたちが始終うろうろしていたし、孤后天の監督の下、ヤンと猫町は決戦に向けて何が待っているにしろ役に立たないはずはないということで竹刀を振り回させられていたし、光明はのん気にそれをスケッチして、キャス子がそれを小馬鹿にする。そういった日常が見当たらない。
たった三日、そこにあった日常が消えただけで、いづるは心臓に穴が空いたような気持ちになった。ああ――と思う。自分もまだまだ、甘いのだ。
暖簾をくぐる。
半ば予期しながら、釣り道具を庭先に置いて、自分にあてがわれた座敷へ向かった。
みんなが待っていた。
ヤン、猫町、アリス、コロポックルたち、河童の親父、手の目、朧車、煙々羅、孤后天、光明、キャス子、電介。
電介は、いまでは一匹の虎になって、みんなの中央で身体を横たえている。
「やあ」
アリスが言った。
「みんなお待ちかねだよ、大将?」
「どうしたのさ」
いづるはその場にあぐらを組んで、笑った。
「そんな畏まっちゃって」
「そりゃあもう、明日は決戦だからね。気合を入れもするよ」
アリスは、すっと、いづるの前に茶封筒の束を差し出した。いづるの目が照準するようにそれを捉えた。
「みんなから、いづるんへの激励の手紙――」
「遺書だろう」
いづるは間髪いれずに言った。もう笑ってはいない。その目は悲しいほどに鋭かった。
「受け取らないよ」
「いづるん――」
アリスは苦笑している。
「あたしたちね、死なずに、生きてきたの。望めば、何百年でも、一千年でも、生きていける」
「だからといって、死ななきゃならないわけじゃない。いや、君たちこそが、生きていかなくちゃならないんだ。この優しい場所で、ずっと」
「そう言わないでってば。思ったんだ。たまには、きみらみたいに生きてみようか、って。あたしも、ヤンも、猫町もみんなも。いづるんを見てて、そう思った」
「僕がそう仕向けたのさ。僕は卑怯者だ。僕は君たちを利用したんだ。君たちは馬鹿だから扱いやすかった。だから、遺書なんて、僕によこすのはやめろ」
「あたしたちが決めたんだよ、いづるん」
「僕にはそんなものを受け取って、したり顔をする資格なんてないんだ」
「それでも、受け取って。ね、いづるん。火澄がいなくなって、寂しいのは、いづるんだけじゃないよ。みんなが火澄に戻ってきて欲しがってる。だから、いづるん。あの子のために、明日勝って。あの子のために、あたしたちは、明日死んでもいい」
「やめろよ――」
「あたし、いづるんに会えてよかった。いづるんが死んでくれて、ここにこの時いてくれて、よかったって思うんだ」
いづるは歯を噛み締めていた。呼吸が震えていた。
あやかしたちがひとりずつ、いづるの肩を叩いて出て行った。後には、キャス子だけが残った。
いづるは、膝元にある九通の茶封筒を握り締めた。その姿は、小さくて、今にも崩れてしまいそうなほど、弱々しかった。
「キャス子」
キャス子は何も言わずに、立ち上がっていづるを背中から抱き締めた。いづるの手が、キャス子の手を痛いほど握り締めた。
「どうして、こうなっちゃったんだろう……どうして、こんなこと、しなくちゃいけなかったんだろう……教えてくれよ、キャス子。僕は、僕はこんなの嫌だった、嫌だったんだよ」
「うん」
「僕は……こんな辛いなら、死んでそのまま消えたかった。あのまま、消えてしまえばよかったんだ。僕も、志馬も」
「あたしも、ね」
「キャス子はちがう」
「同じだよ。あたしも、もう死んでる」
「キャス子――」
「ちゃんと清算しよ、いづる」
キャス子が仮面を外して、いづるの首筋に顔を埋めた。
「あたしたちわがままだったね。生きてた時のこと否定したくて、もっと何かあったはずだって足掻いてた。でも今は、あたしはそれは違うんだってわかる。どんな人生でも、どんな死に方でも、あたしにはあたしを追いかけてきてくれたやつが生きてた時からずっといたんだ。蟻塚が、いたんだ。それを無かったことにしちゃいけないんだと思う。だから、あたしは今、なんの苦しみもないよ」
「キャス子……」
「あたしが見ててあげるから。最後まで、あんたのそばにいてあげるから。だから、頑張って」
二人は長い間、そうしていた。
やがてキャス子の白い手が伸びて、封筒の一通一通を開けていった。子供が夜、母親に絵本を読んでもらうように、キャス子はいづるのそばで、九通の遺書を読み上げてやった。
あの時から七発目の闇ドンが、最後の手紙を読み終わってすぐに鳴った。
八発目は、ない。