EX.『8ビットの砂漠』
給食を食べたあとの最終時限を教科書の隔壁でやり過ごし、慈悲深い放課後のチャイムが鳴り響くのを聞き、帰りの会をぶっちぎったガキどもの行く先は三つある。
誰かの家か、校庭か、駄菓子屋か。
駅前のゲームセンターは校則で禁止されていたし、中ではバーチャル闘士たちがセッターの煙幕とストレスの電磁波を放って鍛え抜かれた指先をレバーとボタンに捧げていたから、そんな修羅場に入っていけるのはクラスのなかでも名うてのゲームプレイヤーであり、かつ校則違反をものともしないごく一部の猛者だけだった。
駄菓子屋『あめよこ』の店主、里中トミ子は、だからその中学生が入ってきたとき「ああこいつはゲームの果てのいさかいに巻き込まれたのだな」とすぐにアタリをつけた。
御歳八十一歳、趣味はビリヤードとコンピュータ・ゲーム、地元のクソガキどもには『オババ』と呼ばれている彼女の観察眼が乾いた顔の奥でぎらっと光る。
その男子生徒は、唇の横をざっくりと切り、頬には倒れこんだときに路面でこすったと思しき細かい擦り傷と小さな石つぶてが残っていた。左目の上はふっくらと腫れあがり、ほとんど開いていなかった。
学校の同級生にやられたということはありえない。
オババはこのあたりのクソガキのことは名前から家族構成、惚れてるあいつから嫌いな先公のことまであますことなく網羅している。いじめの噂などは言葉にはなりにくいが雰囲気ですぐにわかる。いま、この街にある三つの中学校でいじめられているのは、こんなに青白く、こんなに静かで、こんなに傷だらけになっても涙ひとつ浮かべずに駄菓子屋にやってくるようなタフな中学生では決してなかった。
トミ子は菓子が並べられた棚の奥に腰かけている。いつも着用している前掛けの裾を無意識に直し、午後の陽光眩しい入り口のガラス戸のそばに立っている男子生徒に向かって毅然と言い放った。
「不良に売るものなんてウチにはないよ。さっさと帰りな」
男子生徒が、じっとトミ子の眼を見つめてくる。夏の井戸の底のような、それは暗い暗い眼差しだった。
トミ子は『あめよこ』の店主を五十年以上続けてきた。もともとは伯母の小さな道楽商売だったのを、彼女の死をきっかけに引き継いだのだ。その時代々々で、大人が見向きもしないチャチなお菓子の並べられた店先にはいろんな子どもが顔を覗かせた。坊主頭の野球少年もいれば、大きすぎる眼鏡をいつもかけなおす癖のある内気な子もいたし、女の子と見間違うような男の子、はたまた男の子と間違えてしまうような女の子もやってきた。名前や消息はもう思い出せないが、店を訪れた子どもたちの顔だけは一人残らずトミ子は思い出せる。ひとりひとり違っていたが、それでもみんな子どもらしい子どもだった。
その男子生徒の顔は、いままで見たどんな子供の顔とも違っていた。個性的というのではない。なんというか、種類が違うのだ。まったく第一歩の始めから、他の子たちと違っている。人の形をしているけれども、一皮向けば、その中身はぜんぜん違っていて、代わりになにか恐ろしいものが詰まっているのではないかと思われた。
トミ子は震えそうになる足をぎゅっと握り締め、弱気になりかける自分を鼓舞する。自分は『あめよこ』の店主だ。五十年以上、ガキども相手に商売を続け、ちょっとした小山のような背丈をした札付きのワルや、立ち退きを迫ってきた頬傷のついた極道連中、その誰にも退けは取らなかった。
その自分が、平日の昼下がりにふらっとやってきた手負いの男の子にびびっていてどうする。そんなことで駄菓子屋なんかが勤まるもんか。
「なにをぼさっと突っ立ってるんだい。はやく出ておいき! 子供はおとなしく学校へいきな!」
少年はもう何度も同じことを言われてきたかのように、力なく肩をすくめた。
「仕方ないじゃないか。追い出されたんだよ」
トミ子は眉をひそめる。少年の声を聞いた途端に、胸のなかから恐れが布で拭ったように消え去った。そこにいるのは、化物でも妖怪でもない、ただの中学生だった。よく見ればその制服にはあちこち穴が開いていた。そこから覗く肌にも、目を背けたくなるような赤く長い傷がある。
「追い出された? だれに?」
「体育の後藤」
体育の後藤。
トミ子でなくてもこの街の人間なら知っている有名な教師である。昔ながらの強面の教師であり、このご時勢にまだ竹刀を肩に乗せて校舎中をでかい図体でうろつき回り、その小さな目はどんな不正もごまかしも通用しない。柔道部の顧問であり、その太い腕に捕まれると金縛りにあったようにみな動けなくなる。それでも抵抗すれば待っているのは関節技による完全拘束だ。その技を喰らって湿布のご厄介になった犠牲者も多い。
だが、トミ子や、卒業生たちは後藤が本当は生徒のことを第一に考えている優しい人間だということを知っている。彼はいつも、生徒と口論になった最後には「出て行け!」と怒鳴るが、生徒が本当に出て行くと慌てて後を追いかけていく。少し荒っぽい面も目立つが、悪い人間ではない。
その後藤が、生徒をここまで徹底的にボコボコにし、お決まりの「出て行け!」をぶちかまして、それっきり追いかけてこない。
そんなことは、ありえなかった。
トミ子はよほどその男子生徒が嘘をついているのではないかと思った。
なにか少年の嘘を歌っている証拠が身体のどこかに付着していないか視線でぐりぐりと探した。
たとえば、ポケットからきらりと顔を見せるゲームセンターのメダルや、取ったはいいがどこに仕舞うわけにもいかずに腰からヒモでぶら下がった可愛いぬいぐるみとか。
なにもなかった。それどころか、少年の傷はまだ真新しく、駅前のゲームセンターからやってきたにしては血が綺麗すぎた。中学校から、まっすぐにここにやってきたとしか思えない。
信じたくはなかったが、自分の見たものを疑うことはトミ子にはできない。そんな風に心根を弱くしてしまったら、ガキのエネルギーを跳ね返せるほどのパワーとタフさの必要な駄菓子屋稼業はやっていけないのだ。
トミ子は信じざるをえなかった。そして、信じるのは簡単だった。
後藤の気持ちなんてものは、最初からトミ子にだってわかっていたのだ。
この少年の醸し出す、この不気味で不調和で邪悪な雰囲気。それが後藤のリミッターを狂わせてしまったのは想像するに容易すぎる。
少年の眼は、宇宙のように暗くもあるが、その黒さの分だけ澄んでいて、まるでこちらを責め立てているような、哀れんでいるような、そんな超越性を孕んだまなざしなのだった。それが熟練教師であったはずの後藤の理性を一発で吹き飛ばし、原因不明の狂気へと駆り立てたのだ。
きっと後藤の目に留まった少年のミスや態度は、それほどのものではなかったはずだ。誰よりもいま、驚き、戦慄しているのは、きっと教員室で拳を組み、いつものようにどたどたと重い身体を揺すって追いかけることもできず叱られた子供みたいに机に座って、周囲の教師の視線と疑問を浴びている後藤教諭自身だろう。
その情景は、まるで実況中継されているようにトミ子の脳裏に鮮明に浮かんできた。
少年は、両腕をだらりと垂らし、足を引きずるようにして、木の箱に詰まった飴やふがしを切れ長の瞳に映していったが、その目がぴたりと店内の一隅へと据えられた。
トミ子も釣られてそっちを見た。
そこには、一台のアーケード・ゲームの筐体があった。
忘れ去られたように、影の薄いクラスの不人気者のように、その筐体はひっそりとそこにあり、平たい画面は瞼を下ろしたように暗闇を映していた。
それは、一時期、日本中を大ブームに巻き込み、数々のバグや裏技でゲームプレイヤーをそれまで出会ったことのなかった8ビットの戦場へと引きずり込んだ伝説のアーケード・ゲームだった。けれど最近の子どもたちにはすっかり飽きられ見向きもされず、いまではコンセントも抜かれ、布もかけてもらえずに放置され埃が薄く積もっていた。あの頃、これに熱中していた子どもたちはみんなもう大人になってしまった。
少しぼけっとしてしまった。
ハッとして顔を向けると、少年がじっとトミ子を見つめていた。
「やってもいい?」
と、筐体を指差す。
だめだ、とトミ子は言おうと思った。
だいぶ使っていないし、埃まみれのコンセントがショートしたら大変だし、そもそもトミ子はまだ少年を『あめよこ』の客として歓迎した覚えはない。
けれど口からはなんの言葉も出てこない。喉にモチをつかえさせたように、トミ子はなにも言えなかった。
少年は口をすぼめてふーふーとそこらを吹き払い、かえって綿のような埃を巻き上げてしまい、けほけほ咳き込みながら筐体から伸びたコードをコンセントに差して、パチッと電源を入れた。ぴろろろん、と懐かしい音がして、ドッドッドッドッと鼓動を思わせるBGMが流れ出す。
「ああ、聞いたことある、これ」
少年は傷ついた顔をにこっとほぐして、肩越しにトミ子を振り返った。
「前にテレビで、名人がやってるのを見たんだ」
なんでもない、ただ、知っている曲が流れて嬉しいというだけのその言葉が、表情が、トミ子には恐ろしく思えた。
傷が痛まないわけはないだろうに、明るく笑うその顔は、全身の裂傷なんて少しも感じていないようで、まるで、
まるで、
無邪気な悪魔、みたいで。
その妄想を振り払い、駄菓子屋の店主である自分を取り戻すために、トミ子は尋ねる。
「おまえさん、名前は?」
少年は、百円硬貨をスロットに入れた。ちゃりん、と硬貨が筐体のなかを滑り落ちていく。これから始まるゲームに気を取られているのか、答える声は素っ気なく、どうでもよさそうだった。
「門倉いづる」
知らない名前だった。
トミ子の情報網にさえ一度も上がってきていない名前。そんな子は、いままで一人もいなかった。
ひょっとしたら、この子は幽霊なのかもしれない。
8ビットの戦場に昂ぶる好奇心を出撃させた少年の小刻みに揺れる背中を見ながら、トミ子はそう思った。
聞いてみる勇気は、ない。
『スペースインベーダー』は二方向に動くジョイスティックとたったひとつのボタンで遊ぶゲームである。
『あめよこ』にあったのは昔インベーダー喫茶に置いてあったような平たい筐体の中央に画面が埋め込まれたタイプで、いづるはやや前かがみになってプレイしていた。初めてプレイしたであろうに癖というのもおかしなものだが、いづるは人差し指と中指の股にスティックを挟み、ボタンはしっかりと親指で押すのが癖らしい。スティックを左右に振り、画面上の自機が迫り来る侵略者の大群からの攻撃をかわすたびに、ガガッとスティックが力強くきしんだ。
トミ子のところからは画面はあまり見えないが、少年の体の脇から少し覗いている部分と、ピコピコしたSEを聞いていればだいたいの情勢はわかった。
これでも昔は来るガキ来るガキがとり憑かれたようにプレイするものだから、ためしに自分もやってみたらハマってしまったトミ子さんである。UFO撃墜任務から外れて久しいが、その腕はいまだ衰えていない。
いづるはへたくそだった。
初めてやったにしては上出来かもしれないが、トミ子は初プレイでいづるよりも上手くエイリアンを撃滅せしめた子を何人も知っている。
それがいづるの隙と思えたのか、トミ子の肩から力が抜けた。そうして背中を見る限り、なんの変哲もないただの中学生である。駄菓子屋にいる時間が少々おかしいだけで。
いづるは一面もクリアできずに自機を爆裂散華させた。
ちゅどーんと軽い音が流れて画面にGAME OVERの八文字が浮かび上がる。コンティニューするためには百円玉を費やさなければならない。
いづるは筐体の上に置いた財布から百円玉を取り出す。その財布は哀れなくらいペッタンコで、どう見ても何度も何度もリトライできる資金があるとは思えなかった。
トミ子はさらに安心した。少なくとも小一時間もすればこのおかしな男子生徒とはおさらばできそうだ。居座られたら困るが、そのときは無一文をダシにハタキでも振り回して追い返せばいい。
トミ子は丸椅子の上でうとうとし始めた。
壁にかかった小ぶりな振り子時計を見ると、二時を少し回ったところだった。いまごろ常連客の斉藤や中島は睡魔に負けて机に突っ伏しているだろうし、理沙や真美、榎本あたりは内輪ネタを書いたメモでも回しあってくすくす笑っているかもしれない。
駄菓子屋に来る子どもたちは、たいていお小遣いが少ない子たちだ。ゲーム機も買ってもらえず、漫画も回し読み、携帯なんてもってのほか。
高校に入ればまた違ってくるのだが、このあたりの中学生は比較的厳格に教育されている。そのおかげでトミ子は駄菓子屋を続けていられるし、毎日を退屈しないで済んでいる。二人の子どもと旦那に先立たれているトミ子にとって、若い客たちは家族も同然だった。
しばらく、穏やかに時間が流れ、なにかが足りないことに気づく。
トミ子は少し考えて、眠たげにおろしかけていた瞼をぱっと開けた。
『ちゅどーん』が聞こえてこないのだ。
見ると、いづるはもう一面をクリアしていた。
それどころか、全八面のうちの六面にまで辿り着いていた。さきほどとはまったく動きが異なっている。誰かが乗り移ったかのように、スティックとボタンの操り方は洗練されていた。
トミ子の眠気は一発で覚めた。
最初からできる、ならまだいい。稀にそういうゲームの申し子のような子はいる。だが、あれほどのへたくそっぷりから、わずかな時間でここまでの変貌を遂げた子はいなかった。まるでなにかの植物の成長を早回しに再生したビデオのよう。長年ゲームをする子どもたちを見てきたトミ子の目は、本人の望むと望まぬとに関わらず、門倉いづるのゲームプレイヤーとしての異様さを浮き彫りにさせた。
あっという間に六面、七面、とクリアし、最終面である八面に辿り着く。が、あっさりとやられてしまった。
ちゅどーん。
ガガッとスティックを動かしていた左手が止まる。
いづるはスティックとボタンから手を放し、しげしげと己の両手を眺めた。
義手の馴染みを確かめるように、手の平をゆっくりと開閉させる。
その両手が自分のものじゃない、と言わんばかりのそのしぐさに、トミ子は腰を抜かしそうになった。ン十年ぶりに目に涙が浮かんでくる。
怖かった。不気味だった。背中とわずかばかりの横顔を向けているいづるが、わざと思わせぶりな動きをして、トミ子の老いた心をからかっているのではないかとさえ思った。そして、そうであるならどんなにいいだろうと思った。これがこの子の自然体だなんてことの方が、よほど恐ろしく、むごたらしく、救われない。
恐怖と謎と、そしてほんの少しの同情。それがトミ子の口を辛うじて動かした。
「あんた……」
「……親に相談しろって? 今日のことを?」
いづるはトミ子の呟きを誤解して受け取ったが、トミ子はあえて訂正しなかった。
いづるはそのまま、新しいゲームに没入していきながら、喋り始めた。
「無理だよ。だってこの頬の擦り傷、これだけは後藤にやられたんじゃない。ゆうべ、母さんに突き飛ばされてできたものなんだからさ」
僕の母は娼婦なんだ、と門倉いづるは言った。
「詳しいことはわからないけど、自分で決めた道ってわけじゃないらしい。いろいろと家族がらみでモメてきた人生らしいし、僕の父親も誰だかわかんないらしいしね。僕はそんなのぜんぜん気にしてないんだけど、母さんはすごく気にするんだ。ご飯のたびに言うんだぜ、こんな母親で申し訳ない、とか、産んでしまってごめんね、とか。勘弁して欲しいよ。だから僕は言ってやったんだ」
画面の中で、凸型の機体が障壁の隙間から出たり入ったりしてエイリアンたちを次から次へと殺していく。
「僕は母親が娼婦だなんてことを気にかけたことはないし、むしろ尊敬してるって。だってそうだろ? 性産業なんて若いうちは絶対に食いっぱぐれないぜ? 需要はこの世に人間がいる限り発生し続ける。うちの母さん、才能なのかな、どんな年代にも好かれるし、どんな年代になってもたぶんやっていけるんだよ。今年四十になったところなんだけど、ぜんぜん仕事減ってないみたいだし。天職なんだね、きっと」
「……そう、言ったのかい。じ、自分の母親に?」
「うん。だって、そう思ったからね」
いづるはバグ技を駆使して、最前列よりひとつうしろのエイリアンを撃滅していく。完全に遊んでいた。ゲームに勝つには、もっと効率のよいやり方があるはずだった。
「なのに、そういったら、突き飛ばされてさ。花瓶は割れるし、唇は切るし、母さん、感電した猫みたいになっててさ。ハハ。母さんが言うには、そんな風に親を見下すなんてありえないんだって。耳がどうかしてるんじゃないかと思ったよ。僕の言葉のどこに、母さんを見下してる部分があったっていうのかな」
ガガガガガッ、とスティックが一瞬も止まることなく左右に振られる。いづるの考えている、いづる望んでいる動きに、筐体が、ゲームが、追いついていない。
「でもベッドのなかで考えてわかったんだ」
「……なにを?」
「母さんは、僕に責めて欲しかったんだって。罵って欲しかったんだって。だってそうだよね、そうじゃなきゃ説明がつかない。わかったんだ。母さんはね、自分が覚悟してた負け方を、僕が与えなかったから、心配したり覚悟を決めたりした時間と労力を『損した』って思ったんだよ。だから、それが気に喰わなくって僕に当たったわけさ。わけわかんないよ。理屈がわかったって、意味がわかんないよ。どうして、そんなことを求めるんだろう。どうかしてるよ、負けたいなんてさ。僕にはわからない……僕はただ」
ゲームは八面に到達していた。いづるは、さっきよりも十七秒ほど善戦したあと、粉々になって死んだ。
GAME OVERの文字が出てからも、財布に手は伸びなかった。暗くなっていく画面を、俯いて覗き込んだまま、
「僕はただ、母さんに悲しんで欲しくなんか、なかっただけなんだよ」
薄っぺらい財布のなかに、もう百円玉は残っていない。リトライはできなかった。
だが、まるでまだゲームが続いており、いづるにだけはそれが見えているかのように、彼は綿のはみ出た丸椅子から腰を上げようとはしなかった。
いつまでも、そうしていた。
了