EX.『黒巫女』
構成員サルによる愚連隊に捕まった飛縁魔は、スクラップ置き場まで連れていかれ、ペシャンコになった車のボンネットの上に乗せられた。アロハは意外にもそうっと飛縁魔を扱ったが、それはたぶん、せっかく買ったケーキを崩さないようにするようなことと同じだった。
夕陽を隠すほどのゴミ山の輪のなか、中心で煌々と炎がゴミの塊をなめている。飛縁魔は霞んだ目でその炎を眺めた。
昔から、喧嘩っ早いところはあったが、それはけしていつも勝ってるということではなかった。むしろ負け越していた。負け負け負け負け勝ち。誰と殴りあってもひっかきあっても、不思議なまでに四対一の比率は変わらなかった。
背丈がいまの半分かそこらだった頃、五回戦やって四回は、飛縁魔はたんこぶや擦り傷をさすって家に帰った。一度だけ、家に帰る気力すら湧かないほど徹底的にぶちのめされたことがある。それは確かまだ本当に小僧だった一つ目小僧とやりあって、鼻から滝みたいに鼻血を流す羽目になったときだ。血はすぐに止まったが、涙はそううまくいかなかった。痛みと悔しさと悲しみが胸に広がっていた。
後にも先にも、なかなか帰ってこない娘の様子を見に父親がやってきたのはそのときだけだ。
沈まないはずの太陽が沈んで夜が来た。顔をあげると空を覆い尽くすように父親が立って、飛縁魔を見下ろしていた。恥ずかしくなって顔をそらした。
「誰にやられた」
「なんでもない」
「なんでもないわけがあるか?」
静かな問いかけが辛かった。怒鳴られた方がマシだった。
それでも飛縁魔はなにも言おうとせず、地面の砂利を睨んでいたが、父親はおもむろに娘の顎をつかんで正面を向かせた。
「いいから誰がやったか言え。お父さんがぶち殺してきてやる」
「いやだ」
べつに一つ目小僧がなます斬りにされるのがいやだったわけじゃない。ただ、なんとなく、それは違うと思った。飛縁魔は鼻水をすすって、弱気も一緒にすすりあげた。
「あんたにはかんけーない」
「娘を心配してなにが悪い? おれはおめえのおやじなんだぞ」
「知ってる」
「じゃ、言え。それは卑怯なことじゃない」
どう考えたってそれは卑怯だったし、どう見ても臆病だに思えた。
飛縁魔はがぶっと父親の指に噛みついた。閻魔大王はうっと呻いて手を放した。
「おい、おまえなあ……」
「うるさい! あたしは一人でやれる! あっちにいけ、どっかいけ、くたばっちまえ!!」
つんのめりながら、自分がどこへ向かうのかもよく見ずにがむしゃらに走り出した。
犯人探しなんてしてほしくなかった。そんなもの誰も頼んじゃいない。
よくやったな、と頭を撫でてほしかった。次は負けんなよ、と励ましてほしかった。
ただ、それだけでよかったのに。
○
誰かの胸当てが落ちていると思ったら自分のだった。はずした覚えはたぶんない。
毛むくじゃらの手が袂をまさぐっているのを、どこか遠い気持ちで捉えていた。もはや段差でしかない廃車のリヤに腰かけて飛縁魔をあすなろ抱きしているサルの荒い呼吸が、彼女の黒髪をふわふわさせる。二人のまわりで中学生ぐらいの体格しかない手下のサルどもが手を叩いたり口笛を吹いたりして、輪を作っていた。なにか言って来ても、異国の言葉のように思えて、飛縁魔の心には届かなかった。
「どうした、ずいぶん大人しいな。もっと抵抗しろよ、ほら!」
胸を鷲掴みにされても飛縁魔は声をあげなかった。アロハは不満げにフンと鼻を鳴らし、
「つまんねえな……でもまあいいか、それでおっぱいが縮むわけじゃねえし。え、おい、飛縁魔よ。せめていまどんな気持ちかくらい聞かせてくれよ。嬉しいか? おまえだって女だものな、殿方には立派にご奉仕しなくっちゃな。ああ?」
頬を乱暴に挟まれて、アロハの顔を鼻が触れ合いそうな距離まで寄せられる。湿った息が唇に当たって、気持ち悪い。
「なんだその目は?」
「…………」
「ははあ、わかったぞ? あのツレの死人のことを考えてるんだろう。惚れてんのか? あんな枯れ木みたいなやつのどこがいいんだ?」
「…………」
「へっ、身体は奪われても心は守りますってか。いつの時代の淑女だてめーは。胸糞悪いぜ。バカな女め、いまごろあいつだって消えちまう前にさくっと卒業できそうなチョロイ女を探してらァ」
「…………っ!」
アロハの左手がろくろに乗せた粘土を整えるように飛縁魔の太股をさすった。耐えがたい嫌悪が花火のように身体を駆けめぐり、飛縁魔の瞳が潤む。
アロハはそれをのぞき込んで、にいっと笑った。
「いいねえ、そのまま、そのまま……」
「兄貴」
「黙れ」
「兄貴」
「うるせえな、いまいいとこなん」
「陰陽師です」
アロハは急に冷静になって飛縁魔をボンネットに突き飛ばした。そして仁王立ちになって、手下の輪の向こう側を三白眼で睨む。
「おまえ……」
黒い巫女、が立っていた。
黒装束に青い袴、頭には白いロシア帽をかぶって、その縁からウェーブした蜂蜜色の髪が肩口あたりまで伸びている。血管が透けて見えそうな薄く白い肌を確かめて、アロハの喉仏がごくりと上下した。
「知ってるぞ、おまえ、最近きたばかりの新米の陰陽師だろ? 名前は……し、し、」
「紙島詩織」
と陰陽師は言った。
○
子供が散らかした部屋を見る親のような目つきで、紙島詩織はサルの愚連隊を見回した。指先で、
「ひ、ふ、み、の……」
と茶色い頭を数えていく。
アロハが廃車から鉄クズでできた地面に降り立った。
「陰陽師大先生が我々になんのご用ですかね。私どもはいま大変忙しいのですがね、できればもっと違った夕闇で出会いたかったものですな」
「それは悪かったね。でも、わたしはいまこのとき以外にあんたたちとかかわり合いにはならなかったと思うよ」
きしゃあ、と手下の一匹が歯茎をむき出しにして詩織を威嚇する。アロハはそれを手で制した。
「よせ、よせ。おまえらはほんとにバカだな。大先生がせっかく自分もこのパーティに参加したいと仰ってくださっているというのに?」
おおおーっ、と手下たちがどよめき、ぱちぱちと歓待の拍手をした。指揮するように、またアロハがそれを手の一振りでやめさせる。
「さて、ではまず私と踊ってくださいますか、お嬢さん?」
「……毒虫が」
詩織は袴の腰に吊したカードケースの封を開ける。目つきが一層危険な光を帯びた。
アロハは残念そうに肩をすくめる。
「ならば戦争しかないな、人間女」
投げ放たれた網のように、サルどもが詩織に飛びかかった。飛縁魔は錆びたボンネットに横たわりながら、一部始終を見ていた。
詩織は身を屈めさせると、すれ違うようにサルどもの隙間から包囲網をすり抜ける。そのときに、嘲るように、一匹のサルのわき腹をライダーグローブに覆われた手のひらで撫でた。
額をぶっつけあって怒り心頭のサルどもが喚いたが、突然、一匹のサルの脇腹が爆発した。
一気に広がった静寂のなかで、深刻な虫食い状態になったサルがどうっと横倒しになって、それきり動かなくなる。アロハがぎりぎりと歯を噛みしめた。
「てめえ、なにしやがった」
「さあ。夢でも見てるんじゃないの?」
「ふむ。おいてめえら、こいつ絶対にブッ殺しだ」
サルどもが性懲りもなく飛びかかる。しかしやはり、飛びかかってみれば、詩織はサルどもの背中側におり、一匹のサルがまたしても爆発し倒れ伏すのだった。アロハは死んで大量の硬貨に変わっていく同胞をじっと見つめ、それか詩織をにらみ、おもむろに叫んだ。
「そいつにさわられるな! 爆発するぞ!」
「その命令がなにを意味しているのかわからないなら、きみに指揮官は向いていない」
詩織は堂々と飛縁魔に歩み寄り、しゃがみこんだ。あッとアロハが間抜けな声をあげる。
「大丈夫?」と詩織は囁いた。
「すぐ助けてあげるよ。ちょっと待ってて」
そう言うと、背後から忍びよっていたサルの手を振り向きざまに捻り、ぼきっと嫌な音をさせて折った。怯む愚連隊を見て、にいっと笑う。
「逃がしてくれないなら叩き潰すしかないね。つきまとわれるのも鬱陶しいし」
「やれるもんならやってみろ。おれたちは天下無敵のアマガサ一家だぜ」
アロハはぴっと人差し指を黒い陰陽師に差し向けた。
「いけっ!」
手下の小猿どもが詩織にふたたび飛びかかる。今度はすり抜ける隙間ができないように爪の伸びた手を左右に広げている。弱まった夕陽の残骸が彼らを真っ赤に染めている。
詩織は一番先に手を出してきた猿の腕を掴んで、そのまま彼の懐にぴたりと背中を合わせた。
「あっ」
ほかの猿どもが勢いあまって、詩織をとらえていた仲間の背中を切り裂き、血しぶきがあがった。どうっと小猿が倒れる。
「わ、悪いだいじょうぶか」
倒れた仲間に一匹が近づく。うう、と血を流した猿が顔をあげると、その身体がいきなり爆発した。すでに爆発を起こすよう式札を貼られていたのだ。上半身を吹っ飛ばされた猿の下半身は、腹から硬貨をばらまきながら傾いていき、地面に激突するとがちゃあんとけたたましい音を立てて、赤と青と緑の硬貨の残骸に変わった。
「このアマっ!!」
「…………」
猿たちはきいきい喚いたが、いまの惨状を見ておいそれと襲いかかっていけるわけもない。アロハから叱咤する罵声が飛んだがそんなものに意味はなかった。
詩織はカードケースから引き抜いた十数枚の式札を扇状に構え、ばっと自分と小猿一派の間にばら撒いた。舞い上がった札の表と裏がひらひらと入れ替わる。猿どもの視線と思考が舞う札とともに宙にある間に、詩織は一気に間合いをつめて掌底を札に次々とたたきつけた。固い音を立てて、式札は次々と小猿たちの身体に張り付いては爆発し、絵柄そっくりの赤い花が咲き乱れる。悲鳴と怒号があがったが、それもすぐにチップの散らばるいい音に変わった。
詩織は小さな山になったチップの山をじゃり、と踏んで、生き残った小猿たちに一歩近づく。その蜂蜜色の瞳はモルモットを見る科学者のように冷たく、遠い。
もはや三分の一以下にまで減った小猿がきびすを返して悲鳴もあげずに駆けだした。
「て、てめえら、おれたちは天下無敵のアマガサーー」とかなんとかアロハが言うが誰もそんなことは聞いちゃいない。命あっての物種だ。義理人情は生存を買う担保にはなってくれない。
先頭を走っていた小猿の足下で「かちっ」と綺麗な音が鳴った。ぴたり、と猿どもの動きが止まる。十年の時を浴びたように頬がげっそりとこけている。
顔を下げると、自分の裸足の足の端から、札がちらりと見えていた。
その札には、赤い炎を背景に、凸型の地雷が描かれている。
筆で描かれた、鋼色のクレイモア。
「ちょ、ちょっとだけタンマ――」
待ったなしだった。
地雷札は無慈悲に爆発し、小猿どもを吹っ飛ばしてチップに両替し、戦闘は終わった。
燃えるチップを呆然と眺めていたアロハは、陰陽師の少女もまた自分を見ていることに気がついた。たらっと嫌な汗が首筋を伝う。苦い味のする生唾を飲み込んで、
「ま、待ってくれ」
少女は首の力が弱いのか、小さな頭を重たげにもたげて、はすにアロハを見上げてくる。
「許してくれ。あんたの強さはわかった。いや見事なもんだ。うん、ここに散らばってる連中のカネはすべてあげるよ。それが当然ってもんだ」
「その子を解放して」
「飛縁魔? もちろん! 煮るなり焼くなりしてくれよ、おれが言うのもなんだがこいつは相当のワルでね、消滅しちまった方がいいくらいなんだ、うん。みんなのためってやつだな」
そのときアロハは、詩織の背後で、燃えるチップの山がもぞもぞっと動くのを確かに見た。ずるずると、血塗れになった小猿が這いだしてくる。アロハは勝機を見た。
「と、ところでどうして飛縁魔を助ける? あんたになにかメリットでも?」
少女はなにか言いかけた。が、生き残りの小猿が彼女の細い腕をねじ上げ、桜色の唇から出てきたのは短い苦痛の叫び。
「よくやった! そのまま押さえておけよ」
顔をしかめた詩織が、ぎらっとアロハを睨み、ぺっとなにかを吐いた。
「おれが直接ヤキを入れ」
る、と言ったアロハの喜色満面にべちゃっと濡れた何かが張り付いた。指で頬にくっついたそれを剥がして見る。
赤い炎と黒い爆弾が、
「やっぱりちょっとタン――!!」
バン
飛縁魔は一部始終をボンネットに打ち上げれた魚みたいに横たわりながら見ていた。だが、途中からはだんだんと意識が薄れていって、なにがなんだかわからなかった。爆発するたびにちゃりちゃりと小猿どもが両替されていくのはわかったが、その音も風も遠く、水の膜を通して伝わってくるようだった。実際、失ったカネが多すぎて、衰弱してしまっていたのだ。なんだかすごく寒いし息もしづらい。意識の表面を黒い染みが広がっていく。
死んじゃうのかな。
助け起こされている、ということがわかっても、飛縁魔は安心できなかった。飛縁魔の身体の下に膝を入れて、頭に手を添えてくれている黒い陰陽師は飛縁魔の知らない人。誰か知ってる人にそばにいてほしい。飛縁魔はもうなにも考えられない。まともなことはなにひとつ思い浮かばない。寒い。眠い。
――ごめんね。
飛縁魔は最後の力を振り絞って瞼を開けた。ぼやけてかすんだ夕暮れと飛縁魔の間に、外国の人形みたいな顔した女の子がいて、その子はいまにも――
限界がきた。ふっと髪を誰かに引っ張られたような気がして、そのまま飛縁魔は暗闇に落ちていった。その闇は、最初だけだまし討ちみたいに薄かったのに、恐ろしいほどあっという間に無限に濃くなっていって、
そして、