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10.泰山府君杯

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 うるさすぎてかえって無音だった。スタンドの向こうでは星の数のような群集が自分の未来を握り締めて声高に何かを叫んでいる。まるで強く祈れば結果が屈折すると本気で信じているようだ。熱が出るほど強く、拳が震えるほど強く、願えば、何かが変わると。
 彼らのことを馬鹿にはできない。
 少なくともいまはまだ、彼らのあらゆる未来は確定しておらず、彼らと未来の間には堂々たる「無限の希望」が広がっている。
 心あるものはみな無限に惹かれていく。なにかも予定調和に進んでいくことほど面白くないことはない。そして、ありもしない希望の花に蜜を求めるハチのごとく群がる。誰一人としてその滑稽さに気づかない。
 だから減らないのだ。
 馬鹿が。

 いま。
 鉄の檻のゲートが開き、十二人の馬鹿を乗せた十二柱の式神が弾かれたパチンコ玉のように飛び出した。

 歓声はもう誰にも届かない。木火土金水で形作られた48の蹄が赤茶けた土を蹴り上げて粉塵を巻き起こす。最初は一団となっていた馬群から、何頭かが先行し、また何頭かが遅れていく。ゆっくりとだ。人を轢殺できる速度で走っているとは思えない。均衡した速度の綱引き、そこに五行の糸が絡みつき、その力の相互関係を正確に測り取れる者はいない。式打の呪力、混在する五行が繰り返す相関と相克、常に変動する式神同士の距離と速度。まるで生きているかのように移ろっていく。
 レースが始まったばかりだが、ここで泰山府君杯についての簡単な説明を挟みたい。
 もともと、泰山府君とは道教の神の名であり、それは魂を司る神である。その神に捧げる儀礼として始まった呪術師同士の模擬戦が、現在まで続いてきた競神のはしりだったと伝えられているが、永い時間の流れと共にその正確なルーツは失われている。一説によれば、一千年前に安倍晴明が当時の帝を喜ばせるために部下を集めて適当にでっちあげた見世物が本格化したとも言われているし、また安倍晴明が宿敵だった蘆屋道満とケリをつけるために形式化した競争だという者もいる。陰陽道の名家は現在でも相当数残っているが、どういうわけか一族ごとによって口承された話がすべて食い違っていることから、やはりこれも正確なことはわかっていない。
 レースに戻ろう。
 光明駆る<闘蛇>は現在七着。燃える炎のたてがみに埋没するようにして光明が手綱を握っているのがお分かりだろうか。触れれば切れそうな目で前方の式神たちを睨んでいる。
 七着。
 できれば三着までにはつけていたかった。が、いま悔やんだところで仕方がない。出走できただけで僥倖だ。ただれた顔もいまは不思議と痛みが引いている。かえって怖いくらいだ。
 鉄檻に飛び込み、懐から引き抜いた競神用の式札を打った瞬間に鐘(ジャン)が鳴った。我ながら危ないところだったと光明は思う。ほんの刹那でも遅れていれば、外部からの妨害を防ぐための結界に弾かれて、観客席に叩きつけられていただろう。しかし間に合ってしまえばこっちのものだ。決着が着くまでの数分間、レースは結界に守られ完全不可侵となる。いまごろ客席で泡を食っているだろう陰陽連の連中にだって手出しはできない。もっともそんなことをすれば神券を買っている妖怪どもが黙っちゃいないだろうが。
 手綱を握り締める。式打と式神を呪的に繋ぐそのしなやかな革の綱は、光明から流れ出す力を帯びて熱く、タコのように光明の掌に吸い付いてくる。手綱を通して式神が呪力を求めているのだ。式神を維持できる呪力がなくなれば、式は解呪されてしまう。この速度で走行しているときに解呪したらば結果は無残の一言に尽きる。後続の馬に跳ねられれば運がよくて複雑骨折、悪ければ普通に死ぬ。レース場に寝転がっていると思ったらそばに白仮面が転がっていた、なんて笑い話の一つにはまだなりたくない。
 ちらっと後続を見やる。すぐ後ろに<六号>の弓削啓二がつけていた。
 競神では後続の式神がどう連なっているのか、その位置関係も重要となる。いまは、火の<闘蛇>を相生する木の<六号>が近くにいるので、<闘蛇>の調子はいい、ということになる。もっともそれだけでなく、木の<六号>が<金>によって相克されている場合、<火>への相生効果も減衰するなどの派生効果があるので、あぐらをかいているわけにはいかないのだが。
 それでも、有利であることに変わりはない。まだ全員が平等な位置にいるスタート直後に自分の背後にどの式神がつくかはこれはもうほぼ運だ。ビリヤードでいうところのブレイクショットのようなもので、本番は馬群がほどほどに乱れてから。
 前に向き直りかけると、誰かが自分を見ている気がした。
 上半身をねじって振り返る。
 <六号>の弓削が、腰に下げたケースから掌サイズの式札を引き抜いたところだった。来たか、少し早いが、と光明も応戦すべく腰に手を伸ばす。

 ない。

 額から汗が伝うのがわかる。脳裏を天墨のせせら笑った顔がよぎる。
 顔に火傷したりしたショックですっかり忘れていた。
 式札がないのも当然だ。いまもまだ、あの常雨通りの裏路地には、自分がばら撒いた四十六枚の式札が散らばっているはずなのだから。
 口元に苦い笑いが広がる。笑ってしまうほどのマヌケぶり。
 まずった。

「――――やあっ!」

 気合と共に放たれた弓削の式札から<水鷹>が召喚される。瞬間速度なら競神用の式神をも上回る水の鷹がその青く澄んだ嘴を輝かせて、一直線に光明の<闘蛇>の尻に突き刺さった。<闘蛇>が苦しげにいななき、振り落とされまいと光明は手綱にしがみつく。激突した<水鷹>は一瞬で蒸発し、蒸気となって後方に長く白い尾を引いた。身にまとう炎の勢いを弱めた<闘蛇>は速度を落としていく。その脇を弓削の<六号>があっさりと追い抜いていった。木の幹をくねらせてできた馬の鞍の上で、弓削がにやりと意味ありげに笑っていく。


 泰山府君杯は、競神の代名詞と言ってもいいタイトルで、そのレースでは、式打同士の妨害行為が認められている。障害レースとはそういう意味だ。
 しかしなんでもアリというわけでもない。式打は呪力を十二天将に割いているために、やたらめったらに式札を追加で打つことができない。そんなことをすればガス欠になり十二天将を維持できず後続に轢殺される。
 平均して、泰山府君杯において式打が使用できる式札は三枚が限度、とされている。



 枠:前一 式神:闘蛇
 式打:土御門光明

 現在使用可能式札――ゼロ枚


 光明が潰れた隙間を突いて前へ出た<六号>の弓削だったが、出た先がよかった。四位に水行の<玄武>の赤石貴斗がつけており、これを相生、桃色の花を咲かせた<六号>はさらに加速。その加速で巻き起こった強風で、トレードマークのニット帽が飛ばされそうになるのを赤石が手で押さえた。
 <六号>は三位の<匂陣>を追い越して一位に迫る。一位を走っていたのは、水の<天后>を駆る竜宮冬葉。この少女、レースの最中だというのにヘッドフォンをつけたまま。自信があるのかやる気がないのか、そのけだるげなまなざしからは窺い知れないが、彼女の実績はその余裕も不敵さも実力に裏打ちされたものだと物語っている。競神界にデビューしてから二年半。三回に分けて一年に一度だけ行われる、二十歳以下にしか出場資格を与えられない泰山府君杯では古株になる今年で十九の駿才少女。
 <天后>の恵みの水の効果を受けた弓削の<六号>は冬葉をあっさり追い抜いてトップに躍り出る。冬葉はちらっとそれを見たきり、追いかけもしなければ後方に下がりもしない。<六号>の木製の馬体は相生支援を受けてすでに桜の花で満開。これで通常の三倍から五倍の走力は発揮している計算になる。
 自分の航路に花吹雪を残しながら二着の冬葉と三馬身以上の差をつけて<六号>は疾走する。
 そして、行く先の第一カーブ手前に<ゲート>が見えてきた。
 鉄製の<ゲート>に扉はついていない。ただ鉄の鳥居がコースの真上をまたいでいるだけだ。鉄の棒から和紙を人の形に切り取った人形がひらひらしているが、それも風に揺られてそよぐばかりで、顔さえろくに書かれていない。しかし、この<ゲート>こそが、泰山府君杯を障害レースとなしているもう一つの要素なのである。
 吊られた人形たちの足をかすめるようにして、弓削の<六号>が<ゲート>を通過した。途端、人形たちがはらりはらりと地面に舞い落ちる。<六号>は振り返りもせずに走り去っていく。
 何も起こらないかに見えた。が、かさりかさりと地面に落ちた人形たちが震え始める。和紙が緑色に染まった。瞬く間に手足がにゅうっと伸び、他の人形たちと手を重ね合わせると、そこが繋がっていく。
 一瞬前までゴミが散らかっていただけの<ゲート>下に、夏の庭先のような草むらができていた。
 そこに後続の式神たちが突進していく。
 草が、動いた。
 まるで猫の手のようにしなった草が、俊敏な動作で式神の足に絡みつき、引き落とすようなそぶりを見せる。それで何頭かの式神がよろめいたが、なんとか体勢を取り直し草を引きちぎって通過していく。竜宮冬葉の<天后>は憂鬱そうな乗り手とは裏腹に素早く的確に<草の手>をかわしていき、土御門烈臣の<匂陣>は木を相克する火の<朱雀>結城允の後ろにぴったりと張り付くことで草の手から逃れた。
 その後を紙島詩織、夜久野翡翠、空傘雨月が続いていく――かに見えた。
 災難に遭ったのは、<天空>駆る空傘雨月である。
 ショートボブにした黒髪、紫紺色の巫女服、袖口からは手作りの数珠が覗き、腰のケースのそばでは母が縫ってくれたお守りが揺れていた。競神デビューから一年、成績は中の下、最近正直ちょっと自信を失いかけている、そんな空傘雨月を乗せた<天空>の足が、草に絡みつかれた。そのまま草の手を千切り捨てて走り去るかに思えた。
 <天空>の足が、ぽこっと膨らんだくるぶしのあたりで破砕した。<天空>の土気が<草の手>の木気に負けたのだ。
 足首から先を失った<天空>は大きく傾いていき、流れる地面へと近づいていく。雨月はあわてて手綱を振るうが、もうそんなことでどうにかできる段階ではない。
 辛うじて地面に激突する寸前に腰のケースに雨月の手が伸びた。
 障害レースでは他の式神を相克するだけでなく、自分の馬を相生する式を打って補助することもできる。いまから<天空>の土気を増すように火の式を打てば、壊れた足首は再生する。そうすればレースを続行できる。なんの問題もない、こんなのよくあるトラブルのひとつ。それだけのこと。
 かえって自分を鼓舞したのがよくなかったのかもしれない。
 ケースから勢いよく抜いた式札が、まるで見えない誰かの手に引っ張られたかのように、雨月の指を嫌って、夕焼け空高くにすっぽ抜けた。
「あっ」
 遠ざかっていく式札が、雨月を笑っていた。少なくとも雨月にはそう思えた。そして、式札と一緒に、雨月の勝機もまた、そのとき彼女の指先から逃れていった。
 地面が迫る。
 背筋が凍る。
 できることは、何もなかった。
 <天空>は派手に地面と激突し粉々になった。雨月は鞍ごとコース上に投げ出され、そのままごろごろと転がって土煙の中に消えていった。幸いすぐにトラックの内側に滑り込めたようで、轢殺されずに済んだのが不幸中の幸いか。
 だが、乗り手がいなくなろうと式神はすぐに消滅したりはしない。それが厄介なのである。
 砕け散った<天空>のL字に曲がった前足と後ろ足が、高速の凶器となって後続の式神たちに襲いかかる。緩やかに回転する<天空>の左後ろ足が、そのとき七位だった赤石貴斗の<玄武>の水でできた首をまともに直撃した。<玄武>はいななく暇もなくただの水の塊へと還り、乗り手の赤石は落下する大量の水と共に膝から地面に落ち、そのままぬかるんだ泥へと顔面からしたたかに突っ込んだ。突き出た尻がぴくぴく震えているので、死んではいないようだが、屈辱で一週間はまともに眠れないだろう。地面に生えたケツと背中とニット帽の横を後続の式神が次々と通り過ぎていく。
 障害レースでは常にトップであることが重視される。本物の競馬でどうだかは知らない、だが競神においてそれは絶対のセオリーだ。
 <ゲート>を一位通過すれば、そこに自らの五行に準じた<罠>を設置できる。自分の呪力を消費せずにだ。これほど美味しい支援効果は他にない。<罠>で後続から来る誰かの式神を解呪させられれば、いま砕け散って四方一杯に迷惑をばら撒いた<天空>のごとく有効な妨害手段になってくれるし、またその際に発生する不幸な災害でいま消えた<玄武>のような敵対者の減数も狙える。だから誰もが<ゲート>を目指す。のんびりおっとり後方で様子を見ていたのでは勝機はない。
 競神は、逃げ馬のゲームだ。

47, 46

  



 二柱脱落によって、漁夫の利を得るものもいた。<天空>、<玄武>が潰れたそのとき最下位まで落ち込んでいた土御門光明は、自動的に十位に浮上した。また、自分を相克する水気の<玄武>が脱落したことによってより走りやすくなり、土気の<天空>も<闘蛇>で近寄れば相生してしまうやりづらい五行だったので、つまりいま消えた二柱は光明にとって両方消えてくれて都合のいい五行だったというわけだ。
 とはいえ、まだ先頭集団は遥か彼方。普通の騎手だったなら、べつに競神でなくても、光の中をひた走る一位の背中とその後にうじゃうじゃと群がる後続たちが目に入れればウンザリしているところだったろう。
 仮に、一人抜いたとする。それはいい。天晴れだ。抜かなければ話にならない。レースとは一位を目指すものだ。だが、格下でも相手にしていない限り、一人抜くというのは相当の気力を要する。気焔を上げて身体中のすべてのエネルギーを費やして、抜いたその一人が、振り返ってみればビリッケツの一つ前。その時ふと思うのだ。
 あと何人抜かなければならないのか。
 あと何回気焔を上げなければならないのか。
 人間の情熱もガスや鉱石となんら変わらない天然資源であり、その数と量と質には限りがある。
 最下位とは、つまりそういうことである。奇跡か、それに順ずる好都合が訪れない限りは、まァ勝算はない。何、やる気が足りない。ふむ、頑張ればなんとかなるかもしれない。おっしゃるとおりだ。決着がついていない限り、一位が鼻面をゴールラインに突っ込むまでは、確かに勝負はなにひとつとして確定していない。ひょっとしたらゴール直前に小型隕石が降ってきて先頭集団が軒並みくたばるかもしれない。あるいはコースの土をどこかの頭のおかしい馬鹿が監視員の目を盗んで掘り返して棺桶サイズの落とし穴を作ってくれているかもしれない。そうとも、月にウサギがいるかどうかの確率は二分の一であるし、それに比べれば最下位ぐらいどうってことはない。そうおっしゃりたいか。
 だが、そんなあんなこんなも、走っているやつだけが口にできることだ。べつに勝負師だの陰陽師だのじゃなくてもいい、そこらの鼻水たらして公園で遊んでいるガキのかけっこだろうと同じことだ。外野がいくら勝てる勝てるといったところで、そんなものはどこにも届かない声援なのだ。いつだって真剣なのは走っている本人だし、そして前を行く自分より決して遅くはない連中の背中を見て自分には決して勝ち目がないと悟るのも本人だ。勝つも負けるも本人の問題なのだ。スタジアムで見ている恋人から名前を呼ばれて、たわみかけていた手綱を握り直すと途端に俄然とファイトが湧いてきた――なんてのはちゃんちゃらおかしなことなのだ。そんな程度のことで湧いてくるファイトなら最初から出し惜しみせずに出せというのだ。そんなものは八百長よりもひどく胸糞の悪くなる茶番だ。出来レースだ。
 出せるファイトを全部出して、体中の穴という穴から血を噴き出しそうなほどに祈り念じて、それでも差が詰まらない。奇跡も歓喜も訪れず、まるで負けるために走っているかのよう。なぜ自分がここにいるのかわからなくなる。手綱を握るということを忘れてしまいたくなる。
 おそらくそれは、最下位に限ったことではない。二位以下の選手みなが同じ気持ち、同じ焦燥、同じ苦しみの中にいる。過ぎ去っていく景色が溶け出すほどに粘っこい時間の流れるここで、同じ苦痛に溺れている。
 この、勝者しか認めてはくれない大海原で。




 ○



 未練がましく、光明は腰のホルダーに手をやっていた。が、何度確かめてもそこには一枚の札も残っていない。ホルダーの留め金がかちゃかちゃと空しく光明の腰を叩く。
 まだ終わってない。無論そうだ。だが、式札が一枚もないのはいかんともしがたかった。少なくともこれから先、障害レースのセオリー上、一度は攻性式札を総動員した『合戦場』が待ち受けているのは間違いない。式札を温存しておく時期と、使うべき時期が入れ替わる瞬間。そのとき、式打たちの焦りと我慢が限界を迎え、馬上でめまぐるしく式の札が交錯する。
 そのときに、<闘蛇>をブーストさせて加速させる札も、相克札を相克し返すカウンター札もないのでは話にならない。
 せめて一枚だけでもいい、札が欲しかった。光明は白い歯を噛み締める。こんなことになるなら、たかが天墨ごときに陰陽師同士の白兵戦における奥義を見せてやらなければよかった。ツイてない。狩衣のどこかに余った式札が貼りついていやしないだろうか。おそらくない。陰陽師は競神用の十二天将以外の使い捨てる式神はすべてケースに仕舞っておく。その内訳も木火土金水それぞれ十枚で計五十枚のデッキと相場が決まっている。一千年前からおおよそそういうことになっている。光明もそれに倣っていた。まったくもって慣習というやつはいつも自分の邪魔をする。こんなことならデッキを二つでも三つでも用意しておけばよかった。



 ○



 十柱の式神が、第一カーブを誘導ミサイルのように曲がっていった。
 トップは引き続き弓削啓二(六号)。
 十二天将はかつて安倍晴明が使役した式神の称号だが、本物の六号は中華服を着た背の低いウサギだったと言われている。その名残なのか、六号の木で出来た馬面に二点輝く両目はウサギのように赤い。
 その少し後ろにつけているのは、竜宮冬葉の<天后>。本当は一思いに<六号>を追い抜いてしまいたいのだろうが、速度を抑えている。水の<天后>が木の<六号>に近づけば相生してしまい、余計にトップを手助けする結果にさせてしまうからだ。
 泰山府君杯に出走するほどの式打ともなれば、先頭集団にいても後続で誰が何をしていたかに気を配るものだ。そして弓削が光明に対して一枚札を使ったことを冬葉含め、先頭集団の面々は知っている。極端な話、まだ一枚も式札を使ってない面子からすれば、弓削は最悪でも「火の式×3」で潰すことができるのだ。無論、そんなことをすれば残り枚数ゼロになって自分が危険になるわけだが、状況次第ではそれも可能。ゆえに先頭集団の面々に焦りはさほど見えない。むしろ弓削の方が嫌そうに時々振り返っているくらいだ。
 弓削は潰せる。それはよろしい。
 問題は、誰が弓削を潰すか、である。
 潰したあと、誰がトップを切るか、である。
 現在、五位までの走行順位は弓削(木)―冬葉(水)―結城(火)―ヒミコセカンド(金)―烈臣(土)。
 なかなか難しい形になっている。二着目の冬葉=天后(水)は一着の弓削=六号(木)を相生してしまってなかなか抜くことができない。三着目の結城=朱雀(火)は一着の六号(木)をこそ相克できるが、自らを相克する冬葉が目の前にいて抜け出せない。
 四着のヒミコセカンド=陽炎(金)もまた三着の朱雀(火)に相克され出れない。五着の烈臣もまったく同じ理由で膠着している。五行相関だけが競神の行く末を決定するものではないが、それが軸であることは間違いない。
 そしてこういう膠着状態が訪れると、だいたいのやつは札を抜くものだ。
 <朱雀>の結城允が腰のホルダーから抜き取った札を右斜め前方一馬身の位置につけていた竜宮冬葉めがけて、打った。結城の朱雀は火、ゆえに札を使わずとも弓削を相克できる。ならば邪魔な二着目を潰してしまおう、という目論見であろう。
 それに冬葉がぴく、と反応した。そして背中で跳ねる長い黒髪を喰らうようにして振り返り、こちらも札を抜き放って式を打ち返す。
 ――ふむ。
 ここで結城允は考える。浅黒く運動焼けした顔を歪めて、
 ――俺が打った式が<土>であることは冬葉は見抜いているし、やつが返してくれるのはこっちの<土>を相克する<木>だ。この時点で未来は二つある。
 ――その1.冬葉の式を俺の式が打ち破る。
 ――万歳万歳。この場合、冬葉はまともに<土>を喰らって大幅なダメージをこうむるだろう。
 ――その2.冬葉の式が俺の式を打ち破ってしまう。
 ――通常なら式を打ち破られるのは望まざる展開だが、冬葉が打ち返してくるのは<木>だ。それは俺の<朱雀>を相生する。相生されていれば、たとえ前方にいるのが苦手な<水>の式だろうと追い抜くことは難しくない。
「五行相関における<先制優越の法則>……お袋にさんざ叩き込まれたっけな。最初は戸惑ったけど、べつにそんな難しいことじゃない」
 結城はにやっと笑って、
「いつの時代も先手は必勝ってこと。そんでもって――」
 第二カーブ前のゲートはもうすぐそこ。
 冬葉を潰して、自分が<ゲート>を通過する。
 もちろん、
「一位で、だ!」
 冬葉と結城の式が展開する。じわり、と周囲の光が歪み、その向こうからやってきた二人の式神は――二柱とも、<土>の式。
「なっ……」
 思わず目を見開く。
 ――<土>? 土だと? そんな馬鹿……いや確かに悪い選択肢じゃない。同じ土行なら式打の実力勝負だ。打ち勝ったときに相手を相生することもない。ついつい有利になる相克を基点に考えてしまいがちだが、なるほど真っ向勝負か。
 ――いいだろう、受けてやる。俺が打ち勝てばおまえは二倍の土行を喰らって再起不能は免れないぜ――!
 式札から召喚された結城の<土蛙>が、そのあぎとを開く前に。
 冬葉の<土蛇>が<土蛙>を丸呑みにした。土くれで出来た蛇の胴体を、丸い膨らみが腹の方へと動いていく。
「くそっ!」
 思わず呻いた。だが、まだだ。サバききればいいだけの話。やってやる。結城一門の名は穢さねぇ。
 しかし、身構える結城のそばを、あっさりと<土蛇>は通過していってしまった。
「えっ?」
 結城は振り返る。結城を無視した<土蛇>は身をくねらせてレースを逆行していき、
「あっ――」
 遅かった。
 想定してしかるべきだったろうか、と結城は思う。無理だったろうな、と自分で悟る。
 <土蛇>は結城の<朱雀>から四馬身差でつけていた四位のヒミコセカンド駆る<陽炎>の鋼鉄のボディに派手に激突した。頭に髪で作ったドーナツを二つくっつけたヒミコセカンドは、目を白黒させ、何が起こったのかわかっていないようで、馬上でパニックに陥りかかり、とっさに手綱をしっかと握り締めて身を硬くした。
 結果的にそれがよかった。
 結城と冬葉、二人分の<土>に相生された<陽炎>が、火の点いたロケット花火みたいに急加速して飛び出した。その加速で馬体が伸びたように見えた。ヒミコは、上半身が馬の背に沿いそうになるほどに身を反らしてやっとのことで手綱にしがみついている有様だった。あぶみからブーツを履いた足が外れかかっていて見ている方が気が気ではない。驚いてわけがわからなくなっていたのと、空気ですれて目が乾燥しているのとで、目尻から涙が少しだけ溢れ、雫が横向きの力に引っ張られて流れていった。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!」
 あれよあれよと言う間に<陽炎>は結城の<朱雀>の相克をモノともせずに追い越した。そのままぐんぐん加速していき、冬葉の<天后>もそうして抜き去るかに思われた。
 冬葉がちらりと振り返る。その目に、いまにも落馬しそうなヒミコの泣き顔が映る。
 寝不足なのか濃い隈の浮かんだ冬葉の目尻に、笑い皺が刻まれた。


 ――よしよし、ちゃんと来たね。
 ――あたしの、蜘蛛の糸。



 一瞬の出来事だった。
 <陽炎>に追い越されるその瞬間、冬葉が<天后>を接触ギリギリにまで寄せた。膝と膝ぐらいなら触れ合ったかもしれない。
 触れれば腕ごと持っていかれそうな速度で走る<陽炎>の金気に、<天后>の水気が相生された。<天后>と<陽炎>が不可視の糸で連結される。
「く――――――――――――――――――――――――――――――――――――はァ」
 大気に首を絞められるような、加速。まともに目を開けていられない。手綱を握っているのが精一杯だ。
 冬葉の背筋を恐怖と興奮が駆け抜ける。どこか冷静な自分が、いま振り落とされたら死ぬな、と考える。たまらない。
 土を身にまとって原石のように純度を増した金属の馬と、その金属の冷たさに惹かれた水の馬が、花と蔓をまとった美しい樹木の馬へと突っ込んでいく。乗り手はなんとか振り切ろうとするが、その動きは追う二体に比べてあまりにも遅すぎた。
 すれ違いざまに、結城と冬葉二人分の呪力で二重相生された<陽炎>に、ゼロ距離で相克された<六号>はその身体を維持していた式を破壊され、無数の無残な木片と化した。薪を割ったときのような音を立てて、夕焼けに散華する。そのときにはもう騎手の弓削は自分と呪で繋がった式神の解呪によって失神しており、空高々へと打ち上げられていた。
 だが、騎手たちの中に、彼の行く末に気を配った者など一人もいなかった。誰もいなくなって土埃だけが散った道に、気絶した騎手と砕けた木片の雨が降った。
 敗者など最初からいなかったかのように、
 式神と陰陽師たちを孕んだ土煙が、どんどん遠ざかっていく――






<リタイア>

<天空>空傘雨月
<玄武>赤石貴斗
<六号>弓削啓二



 一方その頃。歓声罵声入り乱れる客席上方では、いづると志馬の二人が手すりにもたれて観戦していた。いま、二人の眼下では<六号>弓削が脱落したところである。
「――同じ五行の式をぶつけて増幅させて、後ろにいたヒミコの式神を加速。さらにそれで自分を引っ張っていってもらう、か。あのヘッドフォンの子、一歩間違えれば落馬だったのに」
「冬葉か。あいつは見かけと違って荒っぽいが、腕は立つぜ。ただあいつに張ると配当が少ない。だから俺は嫌いだ」
 頑張ったから嫌われてしまうのでは騎手も割りに合わない商売である。
「でも、ヒミコを相生させたのはいいけど、一番は譲ってる状態だね。このまま逃げ切られたらどうするんだろう」
「そんなことは想定済みだろ。よく見とけ」
 志馬が白蛇のような指を第二ゲートに向けた。鉄塊を無理やり溶接してできたような<陽炎>と、それに続いて<天后>がゲートを通過する。すると例によってゲートに吊られていた人形がぐにゅぐにゅと形を変え、小さなうす緑色の鐘の連なりになった。鐘が走り去っていく二柱と迫る後続集団を祝福するように、ごぉんごぉんとお互いにぶつかりあった。いづるが志馬を見る。
「で、あれはなんなわけ」
「だからよく見ろって言ったろ。ほれ、冬葉の<天后>の身体に、小さなさざ波が起こってるだろ。わかるか。あれがさっきよりも大きな波紋になってるだろう。<金の鐘>に相生されたときの水の式神の反応らしいぜ」
「ははあ。自分を相生させる金の式にゲートを潜らせて、さらに相生してもらうって腹か」
「ああ。それにヒミコをカッ飛ばした<土蛇>の影響も時間を追うごとに減っていくしな」
 言っているそばから、ヒミコの<陽炎>が息切れを起こし始め、ゆっくりと冬葉から離されていった。第二カーブを冬葉の水の式が、氷でできた蹄で駆け抜けていく。
「冬葉のやつも抜け目ないぜ。ヒミコセカンドはまだ新人で、ほとんどろくなレースに出ていない。相生させてもまかれる心配がないと踏んだからやつを牽引車に選んだんだろうな――おい聞いてんのか門倉?」
「うん?」
 いづるは背後のスタジアム内へと続く通路に仮面を向けていた。
「聞いてる」
「嘘つけこら。――あの火澄とかいうやつのことが気になってんのかよ」
「誰かさんのせいでね」
「はっはっは。おい門倉」
「何」
「そんなんだから死ぬんだよ」


 ○


 冬葉が先行し、第二カーブも終えたところで、後続集団が焦れた。一人が式札を抜くと後はドミノ倒しだった。ヒミコを追い抜いて二位につけていた土御門烈臣は陶器じみた<匂陣>の首根っこに火の式札を直接打って加速。二重相生した先のヒミコほどではなかったが、さすがは土御門家の長兄といったところか、ぐんぐんと先行する冬葉に迫っていく。式神は五行の精を元に陰陽師の手によって製造される、言わば人造の妖怪だが、その出来栄えは製造者の呪力によって大きく異なり、また式神を作る呪力に長けたものもいれば、式神を操る呪力に秀でたものもあり、その差異も競神をコクのあるものにしている一因だ。
 烈臣が弟含む後続を置き去りにし、さァ後続も追いかけるぞ、とは行かない。みな式札を抜きはしたものの、素直に自分の式神に相生打ちするとは限らない。そう見せかけて憎き競争相手に攻撃を仕掛ける。主に「合戦」や「小競り合い」などと呼ばれる展開だ。
 まずイの一番に後続に紛れ込んできたヒミコが狙われた。式札を使うだけの呪力は、まだヒミコには残っていたが、後続から飛んできた火の式神は四体だった。<火鼠>を<水燕>が殺し、<火犬>を<水猿>が殺し、<火飛蝗>を<水カブト>が殺したが<火鹿>が止められなかった。
 燃え盛る<火鹿>の一瞬ごとに枝葉が移ろう大きな角に鉄の身体を貫かれた<陽炎>は、名の通りにぐずぐずに揺らめいて溶け出した。解呪こそしなかったものの、<陽炎>は土煙に巻かれてすぐに見えなくなる。
 さて、そういうわけでヒミコが大幅に後退してしまったが、そんなものは序の口に過ぎない。むしろヒミコを攻撃した四人が窮地に立たされていた。一度に一つの式しか打てないがゆえに、ヒミコを攻撃した四人は他の連中から攻撃される立場に置かれたのだ。その上でヒミコを殺したわけだが、それにはそれなりのメリットがあるがゆえ、と推測されるのが道理である。つまり、ヒミコ(金)に相克されるか、ヒミコ(金)を相生してしまう式神の乗り手が攻撃に回ると予想される。つまり土と木だ。
 実際には、ヒミコ(金)を攻撃したのは久遠(土)の小鳥遊奏、稀人(天)の夜久野、白虎(金)の紙島、青龍(木)の葉吹の四人。攻撃しなかったのは闘蛇(火)の土御門光明と朱雀(火)の結城允。この二名が攻撃しなかったのは、火がわざわざ式札を消費せずともヒミコに対して有利だからだ。
 そして、残っているメンバーが減少したことによって、ここに偏りが生まれた。攻撃予想されていたのは青龍(木)の葉吹と久遠(土)の小鳥遊。そして攻撃をしなかったのは、火の二人。
 脱落したヒミコの代わりに後続集団での先頭に立った葉吹は内心でほくそ笑んでいたはずである。青龍の木は、火を相生する。だから、ヒミコへ式を打って無防備になりはしたが、攻撃を受けるのは火が相生してしまって鬱陶しい土の久遠の方である、と。
 だが、それが誤算だった。
 風を切る音がして、青龍の幹でできた馬体に、謎の<金>の破片が突き刺さったのだ。
「なっ」
 青龍の身体は解呪こそされなかったものの、大きく傾ぐ。<金>の破片が向かってきたのと逆方向に。
 そのラインに、示し合わせたかのように<久遠>がいた。<久遠>は結城允からの式をなんとかかわしきり、これからさァ加速というところだった。
 葉吹と小鳥遊の目が同時に見開かれる。
 かわす余裕は、なかった。
 <青龍>と<久遠>は激しく激突し、その衝撃で<青龍>の<金>の破片によってできた傷が完全に開いた。ばかっと真っ二つに割れた馬体が<久遠>に降りかかり、その陶器で焼かれたような身体が粉々に砕け散る。騎手が投げ出され、瞬間、コース上に土と木の式の破片のアーチができた。
 その中を。
 土御門光明の<闘蛇>が駆け抜けた。
 破砕した木の式の相生効果を利用し、一気に加速。アーチを潜れるラインを走っていなかった結城允の<朱雀>を追い越してぐんぐんと先頭集団めがけて伸びていく。十二天将を解呪したときに残骸から得た五行相関の効果は、通常の式札に宿った式のそれよりもいくらか強力である。
 しかし、なぜ、式札を一枚も持っていなかった土御門光明が<青龍>を攻撃できたのか。あの謎の<金>の破片はなんだったのか。
「――ん?」
 光明は<闘蛇>の鞍の上で、自分がいまだ手綱との間にものを挟んでいることに気づいた。ぱとっと掌だけを手綱から浮かせて、それを手放す。
 煙の中に消えたそれは、吊られていた糸を千切られ、真っ二つに割られた<金の鐘>のもう片方だった。
「さてと」
 光明は右半分の焼け爛れた顔の中で、愛嬌のある狐目をすうっと細めた。
「置き去りにしてやっか」
 一位の冬葉と、二位の兄貴は、もうすぐそこで尻を振っている。




<リタイア>

<久遠>小鳥遊奏
<青龍>葉吹雅

49, 48

  



 火炎にくるまれた馬が真っ赤な蹄の跡を残していく。その先にいるのは、縮尺の狂ったような陶器製の馬と、空か海をガラスに詰め込んだような青い馬。
 光明は気合を入れてガンガン突っ走っていた。手綱から呪力をありったけ注ぎ込み、とっくのとうに貧血一歩手前の有様になってまで頑張っているが、残念ながら、彼の努力はひょっとすると何の甲斐もなく無駄に終わる。というのも、この状況がすでに火の式にとって非常に美味しくないからだ。
 現在、第三カーブ前の直線を突っ走っている先頭集団だが、暫定一位は変わらず竜宮冬葉の<天后>。これは火を相克する水なので、ゲートを潜られると水の式が溢れ返り光明の<闘蛇>は、いくらかのダメージを受けることは避けられない。
 では一位になろう。そう思っても、二位の土御門烈臣駆る<匂陣>の属性は土。近づけば闘蛇の火の粉からなる灰でもって相手を相生してしまう。
 光明は、様子を見ても駄目、攻めても駄目のどん詰まりに追い込まれていた。
「――――」
 一位を競るときに、自分を相克する相手と自分が相生してしまう相手、どちらと走る方が有利なのかは、競神が現世で行われていた頃からいまだ答えの出ていない問題でもある。競神の騎手は、どちらを好むかで『攻め』か『受け』に区別され、予想紙に情報として載ることもある。それほど戦局を左右する重要な選択なのだ。
 光明はオールラウンダー。どっちでもいい、というちょっと雑なタイプだ。光明は常々こう思っている。――そりゃあ前もって自分の好みというやつがあれば、決断するときに楽だろう。それでバランスというやつが取れることもある。しかし、あるレースのある状況である相手二人どちらと競るか決める状況はそれこそ無限にあり、それをシステム化して予め決めておいたところで実際のところは大して役に立ちはしない。あるケースでは答えの出ている問題であっても、実戦で正反対の解答が出てしまうなんてのは勝負事に限らずザラにあることだ。だから大切なことはいつも考え続けて、いつも悩んでいなければならない。それが耐えられないやつが、システムだの流儀だのと愚にもつかないことを言い出すのだ。いつだって、結局フタを開けてみれば自分が楽をしたいからそういう風に逃げるのだ。
 俺は違う。俺は悩むし、いま決める。
 ――――冬葉を、潰す。
 光明は手綱を振るった。呪力が怖いくらいに手綱に吸われていく。掌にぽっかり空いた穴から、何か尊くて清い液体が流れ出しているような感覚。
 <匂陣>のうしろにつける。まるで毛嫌いでもしているように、陶器の馬が火炎の馬から離れていく。陶器の表面に、五行相生の証である焼き紋が浮かび上がった。
 ちらっと、馬上の土御門烈臣が光明の方を見やる。
 別々に育てられたがゆえに、烈臣と光明は兄弟としてのつながりはほとんどない。正月と盆に親戚一同が会する際に遠目で会釈する程度の仲。それにそもそも光明は遺伝子操作によって産まれているので、烈臣とは千年ばかり遺伝子的に遠距離な存在なのだ。
 言わば烈臣は、歴史を掘り返さずに産まれた正当な土御門家の末裔。過去から引っ張りあげてこられた光明と気が合わないのも当然なのかもしれない。
 <匂陣>が先をゆく<天后>へ接近する。じわり、と<天后>の澄んだ水に泥が混じり始めた。五行相克。冬葉は例のごとく隈の浮いた不健康そうな顔で烈臣を睨むが、そんなことしたってどうにもならない。
 第三ゲートを目前にして、ぴたり、と示し合わせたように烈臣と冬葉の式神の鼻面が一直線に並んだ。やや遅れて後方に光明。観衆たちの注目と怒号は先頭の二人に集まっている。目を覆いたくなるような緊張がその場にいる皆に走った。
 <匂陣>と<天后>が、まったく同時に第三ゲートの鉄の鳥居を潜った。だが競神に同着はない。コンマ一秒、コンマ零零一秒まで、ゲートが張り巡らせた測定用の結界によって弾き出される。鳥居から吊るされた人形がひらひらと揺れるのを、誰もが固唾を呑んで見守った。
 人形が、ゆらり、と大きく揺れたかと思うと、今度はぷくりと膨らむ。空気を入れられたかのように平面から立体へと変化した人形たちは、茶色い土くれの人形と化し、鳥居から放たれた。走っていく三柱へと猛然と突っ込んでいく。
 わずかの差で鼻面を第三ゲートへ先に突っ込んだのは、烈臣の<匂陣>だった。
 泥人形の追尾弾群は、<匂陣>と<闘蛇>に当たりはしたものの影響を与えるまではいかなかった。問題は<天后>だった。馬群入り乱れて、とはいえないこの少数精鋭の先頭集団で無数の泥人形にまともに体当たりを食らえばいくら本命の期待を背負った竜宮冬葉と<天后>といえども無事では済まない。前を向き続け、ひたすら走る。まるで逃げ切れることを期待しているようにも見える。だがそんなに甘いものではない。冬葉の背中に、両手を伸ばした泥人形たちが猛然と迫っていく。
「――――」
 冬葉が手綱を振るった。途端、手綱に縫いこまれた刺繍が青い光を放ち、冬葉の呪力を式神へと伝導させる。<天后>の馬体が大きく沈んだ。馬の背中に這うように乗った冬葉の身体がどんどん流れる地面へ近づいていく。沈む、沈む、まだ沈む。冬葉の身体は、もう地面すれすれまで沈んでいた。<天后>が地面に埋もれている。
 いや、違う。<天后>の足元の地面がぬかるんで、即席の泥沼と化しているのだ。
 冬葉のつややかな黒髪のすぐ上を、泥人形たちが走り去っていった。目標を咄嗟に失った泥人形たちは、そのまま四方八方の客席へと飛び出していって観戦していた妖怪たちを巻き込んで爆散した。客席から怒号と歓声が一際大きくあがった。
 冬葉は何事もなかったかのように先頭を走っていく。第四ゲートを通って、最終直線を走り抜ければ、そこが終点。
「くそっ!」
 烈臣と光明が同時に毒づいた。それも仕方のないこと。冬葉を一位から引きずり下ろすには、土のゲートの障害効果を頼るのが最も効果大の戦術であるはずだった。
 それが破られた今、勝敗はなかば決した。
「――糞がァ!!」
 烈臣が苦し紛れに土の行の式を立て続けに二枚打った。しかし、冬葉はこちらを見向きもせずに、右腰のホルスターから二本の指で札を抜きゴミでも捨てるように式を打ち、こともなくこれを迎撃した。烈臣は第一ゲートで木のトラップを回避するために一枚札を使っていたため、もはやレースを完走するだけの呪力しか残っていない。攻性にせよ防性にせよ式札使用可能枚数はゼロ。それは光明とて同じだ。後方二人が式札を使えないのでは話にならない。
 冬葉を勝たせないだけなら、光明の火で列臣の土を補強し、冬葉の水を汚染するという戦法も取れた。だが距離がそう残ってはいないこの状況で烈臣を補強する、ということは烈臣を一位にするのと同義だ。勝つために負けていたら世話ない。
 万事休す。
 光明がわなわなと震え、思い切り手綱をねじって、左隣を走る<匂陣>に体当たりをかました。その余波で<匂陣>はよろけつつも相生されて少し先行する。
「何しやがる!」と烈臣が吼える。
「うるせえ!」光明も負けじと叫び返す。
「てめえがちゃんと冬葉を仕留めねえからだ! ボサボサしやァがって、この役立たずがァ!」
「よ、よくもそんなことぬけぬけと言えたな! だったらおまえがなんとかしろよ!」
「ああ、そうするさ! ちょっとどいてろ!」
 勝ち目が薄くなって腹も立っていたのだろう、素直にどいた烈臣の「恥かいて死ね!」という罵声を背に受けつつ、光明は意識が途切れそうになるのをなんとかこらえて、腹腔に溜め込んだ呪力をありったけ<闘蛇>に注ぎこんだ。頭のどこかで何かの管が切れる音がし、視界が赤く染まったが、おかげで冬葉と一馬身差まで近づけた。最後のゲートが近い。ここで冬葉が消えてなくなってくれなければ、光明の<闘蛇>を待っているのは、冬葉が通過した後のゲートによる水の相克を受けて瓦解する暗澹たる未来だ。
「知ってるよ」
 冬葉が前を向いたまま言った。
「あんたが最初から、一枚も式札を持ってないこと」
「どうかな」光明はすっとぼける。
 冬葉は首をゆるく振って、
「見たんだ。あんたのホルスターの留め金がゆらゆらしてんの。札、追手の誰かに使っちゃったの? 聞いたよ、あんたさ、妖怪同士の博打でイカサマ仕掛けたんだってね。なんでまたそんなことを?」
「ずいぶん余裕だな、まだレースの途中だぜ?」
「もういいでしょ、べつに。あたしが勝つし、最後まで頑張るとかマジ無意味。一回戦と同じ。あんたはあたしに負けるんだ」
「そうかな」
「そうだよ」
「じゃ、確かめよう」
 中身のない強がりを、と鼻で笑おうとして。
 べちゃっ、と。
 冬葉の顔にどろりとした熱い何かが、かかった。
「何――?」
 手で拭う。指先に、茶色く粘り気のある泥がへばりついていた。
 振り返る。
 土でできた蛸が、冬葉の顔にすぼめた口を向けていた。その向こうで、燃える馬の上で、土御門光明が笑って白紙になった札を木魚でも打つように振っている。
「もし生まれ変わったら、おれコソ泥になるよ。ふふふ、まったくさ、持つべきものは短気で間抜けなお兄様だぜ」
「つ、つちみか――――」
「悪いがこのレース、この俺一着の大穴で決まりってわけだ」
 手綱を強く振るい、
「――――あばよっ!」
 冬葉が再び<天后>を泥の中へと沈めた。だが、もともと土の中に潜れば天然の土行によって多少速度が落ちる。腰の札に指が触れる。いけるか、四枚目、だが、
 ――間に合わない。
 ぴたりと狙いをつけた土ダコの口から噴射された土石流で水の胴体を射抜かれた。
「ち、く、しょ、お――――!!」
 怨嗟の声をあげるも空しく、冬葉の<天后>を馬の形に固めていた視えない力が砕け散った。水の馬はただの水へと戻る。手綱を握ったままの冬葉が鞍ごと後方へと消える。
 光明は前へ向き直った。
 第四カーブを綺麗にまがり、そのすぐ後に待ち構えていた第四ゲートの鉄鳥居をぶっちぎりの速度で抜けた。人形たちがぼっと燃え上がり、鳥居のまわりをひゅんひゅん飛び回る。
 まるで、彼らもまた愚かにも賭けに興じる阿呆かのように。
 火人形たちは喜びと苦悶のダンスを踊った。
 そんな可愛らしい火人形の一枚が、地面すれすれを飛んでいたのを、一柱の式神の蹄が踏みつけた。
 くっきりと地面についたU字の足跡に、焦げた人形の燃えカスだけが残される。




 <闘蛇>は駆ける。
 残るは直線、最終ストレート。




<リタイヤ>

<天后>竜宮冬葉

51, 50

  





 第四ゲートを潜り抜けて、勝負はほとんど決していた。二柱残っている金の式はゲート通過による火のガードで封殺できると見る。
 残る対抗馬は火に相生される土の烈臣だが、彼はスタミナに難のある騎手で、後半になると必ずバテる。最終直線までに追い越しているか、至近距離にいれば光明の敵ではない。ひょっとすると後退して金の式を相生させる羽目にまで陥り、ヒミコや紙島の後塵を拝しているかもしれない。わざわざ振り返って見る気もしないが。
 と、いうわけで。
 なんだかあっけないようだが、もう<闘蛇>はゴールまでの数十秒間、敵なしの状態なのであった。
 まァ勝つときなんてこんなもの、かえって見栄えしないくらいがちょうどいい、と光明は思う。何事もロマンティックにはいかないものだ。

 ぼおっと、馬上から観客席を埋め尽くす妖怪と死人の群れを見渡す。こうして見るとその数は圧巻である。楕円形のスタジアムの中にいると、自分が容器の中でうごめく微生物か何かになったような気がしてくる。ゴールの向こうの西日が容赦なく光明の目を焼く。
 夕陽の逆光で真っ黒になった観客たちの中で、きらりと輝くものがあった。見ると、ウェーブした金髪をふわふわと風に揺らした男が最上段から、光明に白い仮面を向けていた。赤いブレザーを着ている。なぜか、仮面をつけているにも関わらず、そいつと目が合ったように思えた。なんとなく気まずくなって、視線を逸らす。
 その隣にいたのは、紺色のブレザーを着たのっぺら坊。
「――あいつは」
 わあっ、と歓声が大きくなった。
 慌てて前に向き直る。気づかぬうちにゴールしたのかと思った。だが、まだ最終直線は半分ほど残っている。到着まであと十数秒というところか。
 歓声の理由が思い浮かばない。いや。
 本当は、知っていた。
 振り返る。
 そこに、そいつはいた。
 西日を受けて、金色の胴体にまばゆい光の粒子をまとわりつかせた式神。
 それを駆るのは黒装束に青袴、白いロシア帽を被った少女。競神デビューから八ヶ月。新人戦でぶっちぎりの一位を獲り、新進気鋭と持て囃されたのも今は昔。冬葉にぶつかった途端に成績を下げ、優秀だけれどいまだ無冠の騎手。
 紙島詩織が、<闘蛇>とほんの半馬身差までにつけていた。
 残っている時間と距離をかんがみれば、逆転勝利は充分に射程距離の内だ。
 だが、それも五行がせめて影響しあわない同行だったらば、の話。
 夕陽の支援を受けているかのようにますます盛んに燃え盛り、もはや背に乗る光明を埋め尽くさんとしている<闘蛇>の渦を巻く火炎のたなびきに、詩織の<白虎>の鋼鉄の身体はぐにゃりと溶け始めていた。おそらく光明を追い越そうとすればするほど、その被害は大きくなるだろう。<闘蛇>の影響範囲外から迂回して追い抜こうとすれば、時間が足りずに一位を獲られる。
 だから、なんの問題もないはずだった。
 勝つのは、自分のはずだった。
 だのに、光明は迫ってくる詩織から目が離せなかった。前を向いて、知らん振りすることができなかった。なぜなのかはわからない。ただ、何かがおかしい、と思った。違和感がある。それが何かと聞かれれば黙るしかない。逆に教えて欲しい。
 この嫌な気分はなんなんだ、と。
「――――」
 詩織が札を抜く。眩しげに細めたその瞳には、うっすらと、ゴールの鉄鳥居が映っていた。
 光明も、烈臣からギッた札の残りを構える。火を仕留めるなら打ってくるは水。烈臣からギッた札は土三枚。勢い余って詩織の式にまで攻撃してしまうと相生してしまうが、そんなヘマを打つほど光明の指は鈍らではない。
 だから、大丈夫。
 問題は、ない。
 はずだ。
 自分は勝つ。勝つはずだ。勝たなければならない。
 絶対に。
 詩織が札を打った。光明も同時に札を返す。
 だが、詩織が式を打ったのは、自分の式神に対して。金属のボディに貼りついた式札から淡い光が漏れた。青白くて冷たい光。
 ぴりり、と空気が震えて。


 ――――ぃん



 光明の打った<土亀>が、何もない空間を突進していって、観客席にまたも突き刺さった。悲鳴があがる。
 光明はそれどころではない。冷や汗が焼けた顔を伝って痛む、それさえも霞んでいる。
 ――詩織がいない。消えてしまった。
 首が急にポンコツになってしまって、ぎぎぎ、と軋み、前を向いてくれない。いやそれは嘘だ。
 認めたくないだけだ。
 金縛りを無理やり解くようにして、前を向いた。
 最後の鉄の鳥居のすぐ下を、金の馬の背に乗った黒い巫女が駆け抜けようとしていた。

 待て。
 待てよ。
 そんなのおかしいだろ。

 歓声がもう聞こえない。世界の解像度が一気に落ちて、色彩は全部白と黒になり下がる。手綱から手を伸ばした。前を往く者へ。

 だって、負けたらどんな顔をすればいい。
 笑って、俺なら大丈夫、って言ってくれたあいつに、なんて顔すればいい。
 これは、俺の生き甲斐なんだ。
 式神の背の上だけが、世界でただひとつ、誰にも負けないと信じられる場所なんだ。
 そこで負けたら、どうしたらいい。
 おかしいだろ。どうかしてんぞ。なんだあれ。式札でどうこうってレベルじゃねえよ一瞬でここからラストまでの距離を零にするなんて時でも止めなきゃ無理だろうが競神は逃げ馬のゲームのはずだろおかしいよおかしいんだよ絶対にどうかしてんだよだから待てよ待てってなァ待てよ。

「待てって、言ってんだよォ――ッ!!」

 身を乗り出しすぎた。
 股下から自分を支えてくれた力が、ふっと抜けた。
 それが、詩織の<白虎>の加速の余波で<闘蛇>が解呪されたからだと、炎の断片と共に落下しながら気づいた。
 流れる地面に打ちつけられた身体が、ゴム鞠みたいに弾んで、冗談みたいに浮き上がった。時間がゆっくり優しく流れる。打ち上げられたぼろぼろの身体が宙を流れるままに、光明は、それでも手を伸ばす。遠い背中に、自分を置き去りにしていく何かに向かって、

 なあ。
 頼むよ。









 なんでもないことのように。
 最初から最後まで退屈そうな顔のまま、紙島詩織が一位で鉄鳥居を潜り抜けた。
 栄光と、共に。









 結果発表


 一着 <白虎>紙島詩織
 二着 <稀人>夜久野翡翠
 三着 <陽炎>ヒミコセカンド


 オツカレサマデシタ



52

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