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16-01.マヨイガ

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 縫えと来た。
 キャス子は読んでいた月刊誌――競神専門誌『幽駿』の七月号――から顔を上げて、畏まって布切れを差し出している、まるで再三言われていたにも関わらずトイレにいくのをサボっておねしょの憂き目に遭ってしまった子供のような門倉いづるのつむじを見た。つむじはなにも言わない。これは一見すると全面降伏しているようではあったが、その実、このつむじは絶対に自分の言う通りにさせると断固として決意しているつむじであった。
 ふてえ野郎である。
「門倉、あんたちょっと勘違いしているらしいね」
「と、言いますと」
「あたしは確かにあんたをここに連れ込んだ張本人で、もちろんその分の手当てももらったし、あんたが勝てば勝つほど美味しい目を見てはいる。それは認める。でもその代わりにセコンドになってあげて、こんな風にひとりぼっちのあんたが寂しくって二度三度と死んだりしないように会いに来てあげて、あんたの部屋で雑誌まで読んであげてる」
 ひとり用ソファ(いづるに買わせた)の上に畳んで乗せているはだしをパタパタさせて、
「そのあたしに、この優しくて思いやりがあってとても可愛いこのあたしに、まだ何かしろと?」
「そりゃあもちろん」いづるは背筋を伸ばしてつむじを引っ込めて、
「きみが会いに来てくれるのは嬉しい。嬉しすぎて涙が出る。勝手に僕の霊安室の壁紙を張り替えたり、きみのモノしか入ってない箪笥を運び入れたり、通販で52インチの液晶テレビ注文したり」
「あんただって見てるでしょ?」
「いや、見てるけど、魂(かね)出したの僕だし……だから、そう、いや違う。そうじゃなくってさ、キャス子、僕はただ、きみがどれぐらい『お嬢様』なのか疑問になってきたんだ。突然だけど」
 仮面越しにでもわかる。キャス子の目つきが猛禽じみた。いづるはごくりと生唾を飲み込む。ここで退いたら――やりたくもない裁縫仕事が待っている。それは絶対にご免こうむる。いまだけはアンチ・フェミニスト。もともと持っていた男女平等主義の天秤を、ほんの少しだけ自分の方に傾ける。
 勇気を振り絞って言った。
「キャス子、生きてた頃は自分は深窓の令嬢で、華やかな外国の社交界にも顔が利いて、ドレスのスカートの裾を持ち上げてくれた従者が常に三人はくだらなかったとか言ってるけど――でもそれって結局成金だったってことじゃ」
 言い切る前に『幽駿』がハゲタカのように吹っ飛んできた。頭を下げてかわす。まったく表情の見えない相手の白仮面がかえって底知れぬ憤怒をうかがわせた。だが退かない。でなければ自分の指にマントを縫いつけることになる。
「――成金、だったんじゃないってことを、証明して欲しい。だってそうだろ? 僕の性格はご存知の通り矯正不能、言葉や詭弁じゃテコでも動かないんだから、そうなったらきみの能力を実践してもらうほかにない。ね? これはむしろ二人の未来のためなんだよ」
「二人の未来のために」キャス子の声はすっかり一巡して優しげでさえあった。
「あたしに、あんたの、雑用をやれと?」
「雑用? とんでもない。適材適所というやつだよ。僕は裁縫ができない――そしてキャス子は自分がお嬢様であることを証明したい。となれば、きみが裁縫してくれれば、僕のためにこの『マント』に相応しい刺繍をしてくれればだ、僕はもちろんきみを天下無敵のどこに出しても返品されるわけもない出戻り確率ほんのちょっとのお嬢様だと認めざるを得ない。そう、すべてはきみを信じたいがために、ってことで――」
 長口舌した挙句に、いづるはまた腰を折って握り締めた白布を差し出し、深々とつむじを晒した。
 しゃにむに頭頂部を見せればいいってものじゃない。
 だが、確かに、いづるにこういったちまちましたことは向いていないだろう。キャス子も伊達にセコンド役をこの三ヶ月近くやってきたわけではない。わかっている。いづるがとんでもない不器用だということくらいは。
 なにもできないわけではない。自転車には乗れる。箸も、持ち方はなにか恨みでもあるのかと思うほどに異常だが、一応ものを食べるには事足りている。
 だが、鶴が折れない。
 食べこぼしが冒涜的にひどい。
 定規が使えない。
 かと思えば、スリ師としての才覚を発芽させたり、麻雀を打たせれば誰よりも早くヤマを積んでいたりもする。まるきり不器用なわけでもない。キャス子はそばで見ていて――ずっと見ていて――その法則性をすでに掌握していた。
 一、興味のある分野では恐ろしいほどの集中力を発揮する。
 二、できることとできないことがはっきりと分かれていて、極限的に向いていないことはいくらやっても上達しない。
 つまり――とんでもないわがまま。
 この王様気質をどうにかしないといずれ取り返しのつかない駄目人間になってしまうだろう。ほっぺについた米を嫁に取ってもらわないと顔を洗うまでそのまんまでは洒落にならない。正直引く。
 だが。
 いま、切羽詰っているのもまた事実――
 キャス子は差し出された白布を、腕を組んで見下ろしながら思う。事情が事情、確かにそれはそう――この『マント』の使い道はすでにいづるから聞いている。べつにいまさら剣と魔法と王国の世界観に優勝候補の『餓鬼』門倉いづるが憧れ始めたわけでは決してなく、それがあの四本腕の業斗と魂の削り合いをする際に使う『隠し玉』のひとつだということも、わかっている――
 だからといって、甘やかすべきなのか、どうか?
 いまここで「はいはい」と受け取ってあげるのが、この子にとって、いいことなのだろうか――キャス子が悩んでいるのはそれだった。刺繍ぐらいできるのだ。それは、もちろん。確かに少し、忘れているかもしれないし、裁縫の本をどこかの屋台で調達する必要もあるだろう。場合によるとミシンを買う破目になるかもしれない。だがそれはいづるに隠匿すればいいだけのこと。ミシンで縫おうが手で縫おうが縫えればいいのだ。とどのつまりは。
 べつにやったこともない刺繍にびびっているわけでは、決してない。
 これは、この迷いは、ひとりの少年がひとりの男に成長する途上に出くわした者として、どう対応すべきか、というとても立派な逡巡なのだ。
「――――門倉、あんたね、いつまでもそうやってやりたくないことを人に押しつけてばかりじゃ立派なおとなになれないよ?」
「いや、ならないし、おとな。死んでるし」
「うん、そりゃあまあ、そうだけど……」
「できないならできないって素直に言えばいいじゃん。何を照れてるのさ」
「照れてる? あたしが? はっ、ジョーダン、裁縫なんて三歳の頃からやってたっての」おままごとで。
「ただね、あたしは、あんたのためを思って――」
「ありがたいけどさ、でも僕は裁縫無理なんだって。これはもう自分でもわかってる。むかし、ミシンで爪打ちぬいたことがあってさ。針を見ると具合が悪くなるんだよ」
「そこはほら、ファイトと度胸でどうにかこうにか」
 はあ。
 思い切り深いため息をついて、いづるは白布を手の中でまとめた。
「わかった。じゃあ他の誰かに頼むよ」
「えっ?」
「反響(こだま)喰いがヒマそうにしてたし、ちょうどいいや、久々に話してくる」
 キャス子の脳裏に反響喰いの容姿の映像が炸裂するように広がった。確か一月ほど前にいづるが勝手に知り合いになっていた妖怪で、いつも露店通りの横道に挟まるように座っていて、人のざわめきが通路に反響するのを喰うおとなしい――
 女の子の、妖怪。
 そして、彼女はいつも、守銭を中継しているテレビを荷台に積んだリヤカーのそばにいて――
 キャス子はハッと我に返った。
 手の中の白布を顔の前にかざす。白布は確かにそこにあった。
 開きかけた扉を抱くようにして、いづるが顔を出していた。
「ありがとう、キャス子。引き受けてくれて嬉しいよ。それじゃ、よろしく頼む。僕はこれから一稼ぎしてくるから。あ、なんかほしいものある?」
「――いらないうるさいどっかいけ!」
 キャス子が睨みつけると、うひゃあといづるは一人で騒いで出て行った。その足音がどんどん遠くなっていくのを全身で聞きながら、キャス子はゴン、と後頭部を壁にぶつけた。痛みが自分の声になって頭蓋の中を駆け巡る。バカなにやってんの結局引き受けちゃったじゃん。うるさい。うるさいじゃないよ針なんか自分じゃ持ったこともないくせにどうすんの? チューリップのワッペン貼りつけてドヤ顔したってしょうがないんだからねうるさいわかってるわかってるから黙れ。
 そう。
 わかってた。
 白布をぎゅっと握り締めて、頭上で殺菌できそうな白い光を振り撒いている蛍光灯を見上げる。
 笑えてきた。
「ほんっと……どうしようもないなぁ」
 ゴンゴン、と後頭部で壁を打って、思う。




 ――どうせ勝てやしないのに。

 混沌を音に固めたらこんな感じだろうといつも思う。溢れかえった釜の湯気のような雑種多様の気配の中を歩いていると、寂しいとか、恐ろしいとか、そう言った気持ちが火で炙ったように溶けて崩れていく。たとえ周りを行き交っているのが、死人、妖怪、怨霊の類だとしても。
 キャス子は露店通りをてくてくと歩いていた。蟻塚は置いてきた。あいつに相談すると「私がやりましょうお嬢様」の一言で解決してくるから嫌いだ。それじゃなんの解決にもなっていないのだ。さあ貸してごらんなさいじゃないのだ。蟻塚は優しい、けれど、その優しさには毒がある。本人さえも気づいていない致命的な、毒が。
 キャス子は通りをジグザグに放浪した。ゴザを敷いて、本棚を置きその中に古書を突っ込んだだけの古本屋を冷やかす。店主と思しきボロ布をまとった、ただれた肌をした妖怪は勝手に棚を漁るキャス子に何も言ってこない。キャス子もあれこれ世間話など吹っかけずに客に徹して、その中から目当ての本を見繕った。医学書並みの分厚さをした『裁縫大全』に、『猿でもみるみるうちにそれなりになる刺繍手本』に、ちょっと薄めの『草原の女――その作法』を重ねて脇に抱えて、財布から出した赤金を足元の欠けた茶碗に放り込んだ。ちゃりりりん、と碗が鳴って、店主は黙って一礼した。キャス子はちょっと感激する。粋なひとだ。でも少し寂しい。
 手持ちの本を片手抱きにして、中身をちょっと覗いてみる。『裁縫大全』は詳細に書かれているけれどイラストが少なめ。専門用語も多い。でも基礎は『猿みる』でカバーできそうだ。こっちでまず勉強して、ステップを整え、いっぱしになってからこの辞書みたいな本を切り崩しにかかろう。『草原の女』はべつにいらなかった。
 中身を確認し終えたので、キャス子は足元を見渡した。お目当ての連中はすぐに見つかった。大小長短入り混じった足群れの中に、小型のリヤカーを引いたコロポックルたちがいた。アイヌのものらしい民族衣装を着て、額にはねじり鉢巻。ハタから見るとどう見ても裁縫の練習として犠牲となったフェルト製の人形にしか見えないが、もちろん彼らは生きていて、仕事をして魂を稼いでいる。キャス子は声をかけて彼らの注意を引き、手持ちの本を指差して、彼らのリヤカーの荷台にそっと乗せた。仕事柄と言うべきか、彼らは住処を持っているもののねぐらがどこにあるか熟知していて、ちょっと買い物を張り切りすぎた時などに手荷物を持って帰ってくれるのだ。鍵なしでどうやってあの分厚い鉄扉を抜けて品物を届けてくれているのかは神のみぞ知るところだが、便利な上に仕事熱心な彼らに対して文句を言うやつはどこにもいない。お客のプライドがのるかそるかがかかっている荷物を乗せて、えっさほっさと去っていくコロポックルたちに(一台につき2~3人がふつう)小さく手を振って見送りを済ませると、キャス子は腕時計に視線を注いだ。
 帰ろうか、と思ってから、まだ肝心要の用を足していないことに気がつく。マントへ刺繍するその模様が決まっていない。ため息をついて、いづるから手渡されたマントをジャケットのポケットから取り出す。どこからかっぱらってきたのか、いい生地だ。畳みやすいし。
 このマントに求められている模様。それは華やかさでも、優美さでもない。門倉いづるの依頼はただひとつ――遠近感を狂わせること。
 守銭は原則として持ち込み自由。だから武器だけではなく防具だって持ち込んでもいい。ただ、この地下闘技場には武器は売っていても防具はほとんど置いていない。これは守銭において急所とされている頭部と胸部を徹底的にガードして、勝負を味気ないものにさせないための主催者側の配慮。ならば残った手段は、誰かに防具を配達してもらうか、自分で作るか。いづるは第二の選択を取り、さらに我流でアレンジ(他人任せ!)した。その結果がいまキャス子の手の中にある厄介事の正体だ。
 遠近法を狂わせる、というと、騙し絵のようなものが本来は必要なのだろうが、不幸中の幸いなことがひとつある。ここがあの世だということだ。キャス子の周りを見てみれば、この世界でいかに物理法則が軽んじられているかがよくわかる。出所不明の風にいつまでも乗り続けている一反木綿に、ひっくり返ってくるくる回っている中華風の絵皿。キャス子は手を伸ばして羽を生やしたビー玉を掴もうとしたが、するりと指先から逃げてしまった。
 こんな具合であるゆえに、この世の理では不可能なことでも、あの世の理に即してみれば割合簡単なのである。だからもちろん、人間の目を通してみた時にくらっとするような絵柄も探してみるが、原理から手繰るよりも結果から遡った方が速いかもしれない。なにせ死後の世界――あるはずのない、世界。そこで、過去の習慣や常識にしがみついていたって、なんの支えにもなってくれはしない。


 とりあえず、動いてみよう。
 ドリンク屋にいって競神でもやるか、それとも青空雀屋に顔でも出して、久々に牌でも握っちゃおうか――そう思って足を踏み出しかけた時、誰かが自分を見ていることに気がついた。首筋がかゆくなった方向をチラリと見やる。
 老婆だった。
 車椅子に乗っている。露店同士の間、ちょっとした空間になっているところに車椅子を乗りつけて、左手をホイールに、右手を膝掛けの上に乗せて、じっとこちらを見ている。どこかの森の奥深くに生える大樹のように乾いてささくれ立った顔をして、やはり赤い目を熾き火のように光らせて――
 キャス子は気配の河の真ん中で立ち止まり、同じように微動だにしない老婆と向き合った。
「――なに、おばあさん。あたしに用でもあるの?」
「用があるのは、おまえの方だろ?」
 老婆の声は掠れていて、聞き取りにくかったが、不思議と耳に残った。
「探し物をしているようだな。それも――誰かのための、探し物。おまえは代理というわけか」
「ははあ」キャス子は声でにやにやした。
「それって占い? あたしそういうの信じないクチなんだ、悪いけど。誰にでも当てはまりそうだもんね、探し物、なんて」
「いや、おまえが探しているのはたったひとつだ。それ以外にはないはずだ」
「そりゃあそう言われてしまえば、そうかもしれない。誰でもいつでもどこでもなんでも。あたしの言ってることわかる?」
 老婆はキャス子の挑発を無視して続けた。
「おまえの望むものは私が持っている……ついてこい」
「え?」
「案内しよう……私の『家』へ」
 自分でホイールを回して路地を進み、横道に入ってしまった老婆を追いかけるべきか、キャス子は一瞬だけ迷った。が、結局、動くことだ――と思った。動かなければなにも始まらない。たとえこれが吉なる出会いか、それとも災呼ぶ出会いか、どちらにせよ、引き返せば、それっきり。望むものは持っている? だったら確かめさせてもらおうじゃん……本当か、どうか?
 キャス子は足を踏み出して、軽い地響きさえ感じる露店通りから、闇が溢れる通路へひょいと滑り込んだ。老婆の車椅子が、すぐ目の前を進んでいた。
「あのー、おばあさん」
「…………」
「もしもーし?」
 ちっとも答えてくれない。ムッとして、逆に何か言うまで徹底的に絡んでやろうかとも思ったが、やめておいた。勝てなかった時が泣ける。
 先をゆく老婆の車椅子が、スッと消えた。一瞬ひやっとしたが、なんてことはない、右折しただけだ。キャス子も後を追って角を曲がると、通路が少し広くなっていた。老婆は相変わらず、闇の中にぼうっと浮かび上がって、キコキコとホイールを回していた。かと思うとまたスッといなくなる。今度は左折だ。その時、キャス子はフイに妙な予感に捕らわれて、老婆を見失うまでの時間を使って、周囲を見渡した。完全な闇ではなかった。通路の壁も天井も、見える。
 丁字路だった。右手は壁、老婆が進まなかった直進方向は闇に包まれていて見えない。キャス子は老婆を追った。老婆は十字路を右折するところだった。
「ねえ、まっすぐいったら駄目なの?」
 老婆は答えない。だめだこりゃ、とキャス子は従順に老婆を追った。
 直進、左折、左折、そして右折。
 行き止まりだった。
「おや……」老婆は聳え立つ壁を見上げて、
「歳かね、間違えた」ぶつぶつ言いながら戻る。元の十字路に出ると、そのまま直進。また壁。
「むう……」老婆は黄土色の壁を見上げて、
「いけない、間違えた」またぶつぶつ言いながら戻る。元の十字路に出て、今度は左折。
 車椅子の後を従順にくっついていたキャス子は思った。
 きなくせー。
 超アヤシイ。

77, 76

  

 そもそも最初の右折はいいとして、次の直進(右折したときの直進方向から見ると左折)は何? と思ってしまう。歩いた歩数でわかる。あの直進で出るのはすでに通った道のはず。壁があったから戻ってきたが、どうにも不自然だ。少なくとも家に帰る道を間違えるというのが(しかも連続で)あやしすぎる。
 超きなくさい。
 だが、むくむくと好奇心が湧いてきた。どうもこの婆ァ何かを企んでいるようだ。閻魔が代替わりしてからの超課税体制で普段は温厚な妖怪たちも魂の荒稼ぎに借り出されている節があるようだし、ひょっとするとこれはひょっとするかもしれない。
 よし、とキャス子は決めた。ちょうど今までの道筋も暗記していることだし、これから先の道なりも覚えておこう。自分の身は自分で守る。
 老婆は次の十字路を直進。その次も直進。そこで左折――行き止まり。
「ちょっと」キャス子は試しにドスを効かせてみた。
「もうろくしすぎなんじゃない? あたしもヒマってわけじゃないんだけど?」
「おまえが望んでいるものを」老婆の声は微塵も動じてはいなかった。
「求めぬというなら、止めはしない。勝手に帰り、勝手に迷え。おまえに出口があるならな」
「……どういうこと? 出口がないって? まさかこの迷路、一度入ったら出られませんプギャー! ……とか言わないよね? 言うってんなら、あんただけは道連れにしてやるかんね」
「出口があることは」老婆はホイールを回し、腕を組んだキャス子のそばを通り過ぎながら、赤い瞳で流し見て、
「おまえが一番知っている……」
「……。イミフメー」
「安心しろ。この迷路は、6×6のブロックに分かれている。無限になんて、続いてない……」
「……あっそ」
 老婆は進んでいく。キャス子は新しい情報を頭に刻み込みながら(ろくろくさんじゅーろく?)、情報として扱いかねる抽象的な発言について思いを馳せた。
 老婆は、キャス子が道順の暗記を始めたことを指しているのか、それとも他の意図を隠しているのか。キャス子にはまだわからなかった。ぶつぶつ文句を垂れ流し、頭のゆるめな女子高生風の演技を続けながらも、車椅子を追いかける。が、その時、足元が暗いためだろう老婆の車椅子が瓦礫のひとつに乗り上げて、倒れかかり、キャス子はそれを受け止めようとして――派手に二人まとめて転倒した。それでもなんとか老婆の身体だけは庇いきる。
「おまえ……」老婆が意外そうな顔をした。キャス子はなんだかむずがゆくなって、
「は、早くどいてよ! 重いのっ!」
 と叫んでしまった。待ってましたと言わんばかりに襲い掛かってくる後悔――ああ、ちがう、そんなことを言うつもりでは――
 キャス子が苦悶している間に、老婆はさっさと車椅子を立て直して(時間がかかりそうなものなのに、老婆はキャス子が立ち上がるよりも早くクッションに尻を落ち着かせていた)、キャス子がついてくるのを待ってから、進み出した。
 二人の彷徨は続く。
 右折、左折(行き止まり)、戻って直進、右折、右折、(ああ紙とペンがあればいいのに!)、直進、直進――そこでハタとキャス子は気づいた。
 直進?
 頭の中に、地図を描き出して(そう、不覚にも、全体を俯瞰したのはこの時が最初だった――細部は正確だという自負があっても)、唇を噛む。
 直進なんて、できない。
 突き抜けている。

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(しまった)
 思っても、もう遅い。足元が抜けていくような、不気味な浮遊感がキャス子を襲った。何食わぬ風に前をゆく老婆を睨むが、睨んだってどうしようもない。
 どこかで煙に巻かれたのだ。だが、どこで? 何度も繰り返されたあの不毛な道間違いの時か、それともやはり、老婆が躓いて転んだ時? ああ、考える、時間が、ない――
 老婆が角を曲がろうとしている。決断の時だった。
「――――くっ」
 思考を止めろ。考えるのはよせ。
 これ以上、不確定な情報を増やすな。一歩を踏み出せ。老婆に追いつけ。
 置いていかれるつもりか? この迷路に。
 ――老婆が右に曲がった。ブーツのかかとをヤケクソ気味に叩きつけて、キャス子は車椅子を追った。その次の十字路を直進。右折。行き止まり(死ね!)。戻ってさらに直進。
 丁字路。
 左折。
 丁字路に沿って進むと、ぽっかりと右手に道が開けている場所に出くわして、当然のように老婆は右折。しばらく進むと、通路が下へと続く傾斜路になっていた。しかし、その上には依然として道があり、どこかへ続いているようなのだが、闇が深くて見えない。老婆はスロープを下りていき、キャス子もそれに続いた。スロープは男ひとりと半分ほどで水平を取り戻して、そしてそこがそのまま老婆の部屋になっているようだった。老婆は暗闇の中を勝手知ったるという風に車椅子を操り、ロウソクを刺した燭台にマッチで火を点けた。ぼう、と枯れ果てた顔が闇に浮かび上がる。
「かけなさい」
 老婆に言われて、はじめて、キャス子は自分と相手の間に樫の食卓があることに気づいた。クッションの効いた椅子に座り、老婆と向かい合う。
「おまえが欲しているもの」老婆はキャス子、ではなく壁にかかっている馬の頭部の骸骨(頭部からは、一本の角が生えている)を見上げて言った。
「おまえが否定しないいまの答えは、刺繍の模様の手本――そうだな?」
 老婆は答えを待たずに、
「すでに用意してある――見ろ」
 老婆が手を振ると、いつの間にか(キャス子は瞬きもしていないのに)卓には四枚の羊皮紙が置かれていた。それぞれに、単調とも思われる一本線による図が引かれている。それぞれ似ているが違う模様が、雷文のように循環して、全体として複雑な図と化している。
「わーお」キャス子が両手を挙げてみせるが、老婆はやはり取り合わない。
「もうわかっているとは思うが――これは、我が隠れ家へと続く道の図だ。この図に従って、仮にいま、誰かが正しい地図を見て進めば、我が家――『迷い家(が)』へと辿り着けるというわけだ」
「この四枚のうち、どれかひとつの道筋を選べば――でしょ?」
「そう、そうだ」老婆は沈痛な表情を浮かべて何度も頷いた。
「おまえはそういうやつだ。だからこそ、おまえにはわかっているはずなのだ……」
「えっ? ああ、うん、もちろん! あたしは、答えに辿り着く。着きますとも」
「ちがう。……おまえはもう答えを知っている」
 老婆はまた意味深なことを呟き、どこからともなく取り出したノートと筆記用具をキャス子の方に放った。シャープペンシル、消しゴムに加え、ご丁寧に三色マーカーまである。キャス子は礼を言ってそれに手を伸ばしながら、考える。
 答えはもう、知っている?
「待て」
 キャス子がペンを持ってノートを開き、いままさに書きつけようとした時、老婆が手を挙げてそれを制した。
「まだ聞いていなかった――おまえの決意を」
「ああ。魂? いいよ、どれぐらい? まさかオールインじゃないでしょ」
「いや、全部だ」老婆は頑として言った。
「勝負を決するなら、前へ進むならば、分け隔てすることはできない。なぜならおまえが賭けることのできる魂はひとつだけだからだ。金ではないからだ。たとえできることが同じであろうと、その価値が金よりも低い時が確かに存在していようとも――魂とは、本来ひとつきりのもの。分割など、できない――」
「は――何を言うかと思えば、結局は自分の強欲をポリシーだって言い張りたいだけ? さすが死に損ないだね。でもあたしは嫌だ。オールインなんてしたくない」
「門倉いづるが大切だからか?」
「……は? なんであいつがいま出て来るわけ。ていうか、あのバカと知り合い?」
「おまえは」
 老婆はキャス子を指差して、
「私だ」
「さっきから、なに言って……?」
「おまえに悔いなどないはずだ――思い出せ、堂島アンナ」
 その名が、キャス子の胸を貫いた。
「なんで、あたしの名前を……」
「おまえは私だ」老婆は繰り返した。その目を昏く昏く輝かせて、
「さあ、賭けろ。おまえにはそれができたはずだ。呪われた魂の担ぎ手よ――おまえは、私だ。私も賭けよう! この魂を、一銭残らず……だが、勝負に乗れば、おまえは消える。おまえにもはや道はない――このまま進めば」

 このまま進めば、
 道は、ない――

 どうしてだろう。
 握ったペンが、震える。

「おまえはわかっていたはずだ――アンナ。だから、おまえの取るべき道は、ただひとつ――去ることだ。何もかも捨てて逃げることだ。それだけが、おまえの残存方法なのだ。おまえがそのペンを手に取り、私と闘うことは間違っている。門倉いづるがおまえを誤らせている。もう一度言う」
 頭に響く声で、老婆は言った。
「逃げろ。いまなら見逃してやる。そして私は、おまえの味方だ。私に背いて、何になる? 思い出せ――」

 思い出す。
 思い出す――

81, 80

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