17.穢れた英雄
誰かが呼んでいる。
誰かが呼んでくれている。
『俺』は目を覚ました。曇った目を何度か瞬いて、ようやくあたりがどうなっているのかわかった。
どろっとした夕焼け空が広がっていた。俺は地面に直に寝転んでいるようだ。
ぼさっとするなよ。
誰かがそう呼びかけてくれた。起き上がると兄貴がいた。
「兄貴……」
兄貴はチラッとこっちを見て、ぷいっと目を逸らした。わざわざ心配するまでもないだろ、早く立て。わざわざ言葉にしなくてもわかった。それが嬉しい。
立ち上がって、服の汚れを払って、ここがどこなのか悟る。校庭だ。でもどこの学校だろう? 俺の学校じゃないと思う。たぶん。うう、頭がぼんやりする。でもいまは目の前の敵を倒さないと。
そう、敵だ。
校庭の端っこ、普段は誰かが守っているはずのゴール。いまそこを守っているキーパーは、一匹の巨大な土蜘蛛だった。妖怪なんて初めて見る俺はびっくりして……びっくりして? いや、違う……俺はもうああいうのを飽きるほど見てきた。でもここにいる『俺』は初めてなんだ。どういうことだろう。ああ、ぼんやり。ぼうっとしながら、兄貴の腰にさがってるデッキケースに目がいった。無意識に自分の腰をまさぐる。
同じものがあった。俺はケースの留め具をパチンと外して、そこから一枚の花札のようなものを抜き取る。そこには花の絵を背景に俺の――そう、俺の――式神が描かれている。自分で描いた。でも俺は絵が描けない。どういうことだろう。どうでもいいか。
兄貴がえいやッと自分の札を土蜘蛛に放った。パシン、といい音がして、空中に縫い付けられた札から炎に包まれたライオンが飛び出す。ライオンは土蜘蛛の足にかみついてカクカクした細い足を引きちぎった。超かっこいい。あんな風にやりたい。ニヤニヤしているのが自分でもわかる。俺は自分でも札を放った。金属でできたSFチックなネズミが飛び出す。ああ、やっぱ修行とか鍛錬とか足りてないとへっぽこな式神なのかなあ――でも俺のネズミは頑張って土蜘蛛に噛みついていた。それを見て腕を組んだ兄貴が言ってくれる。悪かったなゴウト、才能がないなんて言って。よく頑張ったな。おめでとう、今日からおまえは俺のほんとうの弟だ!
弟。
そうだ、俺は兄貴の弟なんだ。血が繋がっている兄弟だ。兄貴がそう認めてくれた。才能がないからおまえには無理だと兄貴は言った。でも俺は頑張った。生まれながらにあやかしが見えてないようなやつはどうしたって使い物にならないと言われたけど、おまえに夢は叶えられないと言われたけど、どういうわけか、俺はこうして、陰陽師になっている。やったあ! これで俺も認めてもらえるんだ。
家族だ――って。
兄貴が新しい札を取り出して、ゴールポストをよじ登り始めた土蜘蛛を追撃しようとしている。俺も負けてはいられない。デッキから一枚抜いて、それを悪者めがけて叩きつける。
ずっと憧れていたように。夢にまで見た、俺の理想の通りに――
思った、通り、に――
「僕はこれから『あれ』を壊す」
『僕』がそう言うと、彼女は寂しそうな顔をした。おやつを取られた子供みたいに。でも仕方ない。そうしなければ彼女を助けられないんだから。
僕らは三階の教室にいた。勝手知ったる我らが2-B組だ。僕は窓際のいちばんうしろに座っていて、彼女は窓の格子を掴んで、外の天然の特撮劇を観戦している。彼女は興味なさそうな顔をして見下ろしていたくせに、いつの間にか情が移っていたらしい。
どうしても壊すのか? と彼女は聞いてくる。僕はうなずく他にない。そうする他になにもない。
「いま僕と彼は夢を見ている。夢をだ。あの校庭は彼の夢だ。そしてこの教室は僕の夢だ。譲れないものだ。諦められるくらいなら、最初から夢になんて見なければいい。夢と夢がその軌道にしたがって、ぶつかり合うというのなら、それがきっと運命なんだよ」
僕の言い回しが理解しにくかったらしい。彼女はすねた。むずかしいこと言いやがって、と頬をぷうと膨らませる。それを見ているだけで、自然と笑みがこみ上げて来る。
「きみはなにも心配しなくていいし、気負う必要もないんだよ? だって、きみはなにも悪くないんだから」
そう、彼女は悪くない。ただ巻き込まれただけだ。僕と言う名前をした災厄に。
「勝つのはどちらか一人――それがルールだ。もう後には誰も引けはしないんだ。いまここにある夢は僕と彼のものだけだったけれど、初めはもっとたくさんあった。もっと多くの手が、自分たちの夢を掴もうとしていた。ただ消えたくないという夢もあった。もう一度マウンドに立ちたいと願っていたやつもいた。僕と彼は、もう数え切れないほどの夢を潰して、いま、この夢を見ている。僕らは夢を見た。なにかが悪いというなら、それが悪かったんだ」
彼女は首を振る。優しいから。
僕も首を振る。もう決めたから。
「陰陽師になりたかったやつ。僕はそれを笑いもしない。認めもしない。どうでもいいと切り捨てる。死んで初めて霊の世界に触れられた、そして僕に勝ちさえすれば、一歩、夢に近づく彼の道、もし自分と関係のないどこかで展開していた物語だったなら――応援していたと思う。これは本当。嘘じゃない」
わかってるよ、と彼女は言ってくれる。
「ああ、わかって欲しい。わかって欲しいんだ。誰よりも、きみに。きみにわかって欲しい。怖いよ。寂しいよ。助けて欲しいよ。でもそれは無理だ。きみには無理だ。きみには僕を救えない。――絶対に」
彼女は黙って僕を見ている。夕陽がずれて、彼女の顔に一足早い夕闇が訪れていた。
「きみを助けたい。きみのためなら死ねる。きみのためだけにだ。僕のこの苦しみはすべてきみに捧げる。くれてやる。でも、ほんとうのきみは、いまの僕を見てどう思うだろう? なんて言うだろう? そう思うとさ、いっそ、負けたくなる。なにもかもやめたくなる。でも、いくよ。きみのために。そしてどうしようもない僕のために」
僕は席を立って、鉄格子の網目に指をかけて、鏡合わせのように、彼女と向かい合った。死んでしまいそうなほど遠くから、求めていた才能があったらいいなと素朴に願ったやつの夢の音が響いてきた。僕は彼女と見つめあう。
勝つよ。
きみのために。
目が覚めると、二人は別々の部屋で、同じ動作でがばりと起きた。ベッドから起き上がった少年を見て、そばにいた少女は無言でその横顔を見守った。
「胸糞悪い」と業斗は言って、立ち上がり、白ランを羽織った。
「なんでもない」といづるは言って、ベッドから膝を下ろして、仮面を片手で覆った。
二人は別々の場所で、同時に時計を見る。
決勝戦まで、あと三時間。
○
「阿呆、ブーツの紐が緩んでおるぞ。あっ、おまえ髪梳かしてないな? 面倒くさがるなと言っておろうに。まさか歯まで磨いておらんと言う気じゃなかろうな?」
狭い霊安室をくるくる踊るようにして甲斐甲斐しく世話を焼いてくる雪女郎を鬱陶しげに振り払いながら(歯は磨いたって!)、花村業斗は戦支度を整えていた。といっても、せいぜい精神を集中する程度。いくら四本腕で優位を持っていたとしても、気を抜けばやられかねない。相手は餓鬼の門倉いづる。餓えた鬼の名は伊達ではないはずだ。
だが、それも今日までだ。
「なあ、雪女郎」
業斗は無理やり櫛で髪を梳かして来る雪女郎に言った。
「もし俺が勝ってさ、陰陽師になっても、おまえのことは守ってやるよ」
癖のない髪をなでつけながら、死装束の少女ははぁとため息をつく。
「阿呆。守ってもらう必要などないわ。わらわを誰だと思っておる? そんじょそこらのひよっこお化けと一緒にするな。霊峰富士に雪を降らせるはわらわの役目、わらわの務め、わらわの誇り――雪女郎の美邦(みくに)と言えば泣く子も凍る大妖怪なのだぞ?」
「はいはい、わあってるっての」
いつも通りの雪女郎節が、これほど心地よく聞こえたことはない。いつも通りの、なんでもない会話。
失いたくない。
だから――
立ち上がって、拳の調子を確かめる。ぐーぱーぐーぱーぐーちょきぱー。もみもみ。ぐっ。
問題なし。
「うし。じゃ、いくか? ちょっと早いか」
「いんや、もう行こう。ゆっくり行けばよい」
「そうだな」
住み慣れた部屋を出る。人気のない通路を噛み締めるように歩いていく。
思えば魔王戦が始まってから、もう三ヶ月にもなる。フリーであくせく日銭を稼いでいた頃から数えれば、もう死んでからどれぐらい経ったのだろう。半年? 一年?
長かった。
長かった、この地下暮らしが、ようやく終わる。
勝っても負けても、この一勝負で。
「業の字」
「ん?」
隣を歩く雪女郎が、顔を伏せていた。
「……辞退する気はないのか?」
「辞退――逃げ出して、それでどうするんだよ」
「穏やかに、暮らせばよかろ? なにも好きこのんで危険に身を晒さなくてもよいではないか」
「ずっとここで地下暮らしをしろって? やなこった。天魔王になれば、向こう十年くらいの魂は稼げる。その間に陰陽師の修行を積むんだ。それに景品には妖怪退治に役立つ武器もあるみたいだし――」
「おぬしの魂分くらいなら、わらわがかっぱらってきてやってもよい」
そう言う雪女郎の頬はかすかに赤らんでいた。聞こえようによっては告白みたいなものだった。
業斗は仮面の奥で笑う。
「ありがとな」
「――まあ、その、なんだ。腐れ縁も大事にせんとな」
「うん。ほんと、ありがとう。でも駄目だ」
「業の字……」
「勝っても、負けても」
退けば、俺が俺じゃなくなる。
「客席で見ててくれよ、ミクニ。俺、勝つからさ。門倉いづる? なんぼのモンだっての。こっちは四本腕のアスラ様だぜ。三下に負けたらてめえの戒名が泣くっつの」
「業の字っ……!」
雪女郎のとん、と軽く肩を押して、ゲートに続く扉を開けた。闇に吸い込まれるように、業斗は通路を歩いていった。
「……莫迦者が」
雪女郎はきゅっと唇を噛み、追いかけたくなる気持ちを殺して、踵を返した。目を見開く。
「おぬしは……」
○
客席に出てみると、もうほとんどの席が黒ローブで埋まっていた。いづるはあたりを見渡して、見慣れたキャスケット帽子を客席の縁に見つけて、一瞬逃げようかと思った。が、観念して近づいていった。
キャス子がいづるに気づいた。仮面は外して膝に置いていた。
「はろー」
「……。はろー」
「マントできたよ。ほれ」
放られた白布を片手で受け取った。表面には例の見るものの遠近感を狂わせる『マヨイガへの道』とやらがエンドレスにびっしりと縫い付けられている。自分で頼んでいてなんだが執念を感じるいづるだった。
「ありがとう。えーと……がんばるよ」
「なにそれ」キャス子はなにもなかったかのように笑った。が、キャスケット帽がいつもよりもひどく斜めになっている。そんな自分の無意識の動揺を知ってか知らずか、
「ああ、それとね。電太郎に魂貨めいっぱいに食べさせておいたから」
座席の足元に手を伸ばして、いつもより毛並みがよくなっている電介(そして決して電太郎ではない)を持ち上げてみせた。その足元には、いままでいじって遊んでいたのか、電介の電気を浴びて磁石のようにがっちゃり固まった魂貨のかたまりが何個も転がっていた。
「あとはあたしがやっとくから。あ、でもたぶん電太郎の充電はまだまだ時間かかるよ。間に合わないかも」
「うん、それでいい。……ヅッくんは?」
「雪女郎を押さえにいった。心配いらないよ。あいつはあたしの言うことは絶対、聞いてくれるから」
周囲のさざなみのような喧騒が、二人を包む。いづるはマントを羽織り、キャス子は電介の手でワンツーを空中に放っている。
先に口を開いたのは、いづる。
「あのさ」
「はいな」
「……ごめん」
キャス子はしばらく何も言わなかった。
やがて、ははっと笑って、
「ごめん、じゃねーよ――って言ったらどうする? 曲げてくれる?」
「……いや」
「だよねえ」はあ、とため息をついて、俯く。
「まあ、いいや。恨み言は、あんたが帰ってきてからにする。駄弁ってたら間に合わなくなるから」
キャス子は電介を持ったまま立ち上がって、闘技場中央を顎でしゃくった。そこでは、天魔王会の優勝者へ送られる景品が黄金の船に乗せられて、四方のポールに繋がった鎖で吊るされようとしているところだった。鬼ヶ島にかちこみをかましたってこうはいくまい――そう思わせるに足る宝物がぎっしりと積み込まれていた。
その中でも、一際輝く刀が一振り見えるのは、それがいづるの求めるものだからだろうか。蓮の柄をあしらった、剣速をいまだ刀身に留めているかのように弧を描いた刃。気まぐれに波打つ刃紋は彼女の鼓動を表しているかのよう。
閻魔大王の娘、飛縁魔の愛刀、鬼切りの『虚丸』。
あれを取り戻せばすべてが終わる。
すべてが、元に戻せる――
「門倉」
「……ん?」
「気楽にやりなよ。あんた言ってたよね? こういう大会で、最後まで残ったことないって。だったら応援されたこともないんでしょ? 寂しいねえ。超寂しい」
だからさ、とキャス子は片手で仮面を持ち上げて、笑顔を見せた。
「あたしが見ててあげる。がんばれって言ってあげる。それでも怖いと申すかにゃ?」
しゅっしゅっ、と電介の腕をおもちゃにして、キャス子は笑っていた。
それを見ていづるの頬が自然と綻んだ。本当に、自然に。
「まさか」
そして、十分後、景品宝具を貯めこんだ箱舟が、試合場の真上に吊るし上げられた。その時、客席の何人かは、その中から「にゃあーお」という猫の鳴き声を聞いたような気がしたが、その疑問は闘技場に沸々と広がっていく熱気の中にいつしか溶けていってしまっていた。
花村業斗が、ゲートから入ってきた――
○
一陣の風が円い荒野に吹き荒ぶ。
土煙が巻き上がり、業斗は白ランに包まれた腕で顔をかばってから、自分が仮面をしていることを思い出した。いまだに、生きていた時のクセが抜け切らない。
急に寒気を感じた。腕を下げると、そこはもはや土がむき出しの闘技場ではなかった。点在する長方形の台、そこの間を縫って漂う冷気、足元の土には霜が下りていたが、なにより目についたのは、台に乱雑に突き刺さった包丁の群れ。
そこはもう、食用の家畜を解体する屠殺場だった。
最初に思ったのは、どっちのものかということ。
この景色、こんな薄ら寒い決意を胸に抱いてここまでやってきたのは、自分か、それとも?
薄気味悪かったが、ラッキーなこともあった。この決勝戦では、どうやら千両箱は使われないらしい。つまり回銭が使えない。回復手段がお互いに無いが、それでも不利なのは門倉いづるの方――やつはお得意のブラック・ジャックを作れない。
ふいに、頭上に影が差す。
業斗はばっと上空を振り仰いだ。そして見た。はためくマント。
客席の縁に片足を乗せて、こちらを見下ろしている少年――
「門倉、いづる……っ!」
「やあ、花村業斗。ようやく今日が来たね」
急角度で睨み合う二人。観客が、ごくりと生唾を飲み込み、「なんでこんなにノリノリなんだ……?」と呟いたが答える者は誰もいない。
業斗が叫ぶように言った。
「俺は土御門、だ。花村なんて名前は捨てた」
「ひどいな、自分の母親の姓だろうに。そんなに君は土御門光明が羨ましいのかい?」
「……なんだと?」
「言っておくけど、君がどんなに頑張ったって、きっと誰も君を家族になんてしてくれないよ。受け入れてなんてくれないよ。そんなことで家族になれるなら、誰も苦労はしないんだよ」
一発でプツンときた。
ちょいちょいと、お山の大将気取りのバカを手招く。
「とっとと下りて来いよ。お望み通りバラバラにしてやる」
「言われなくても」
試合開始の鐘が、があああんと打ち鳴らされる。
いづるは躊躇わずに、客席から飛び降りた。おおっ、とどよめく観客。客席の縁から地面は十メートル以上ある。まともに下りて痛みが足に伝われば、悶絶して戦闘不能、その場で一発敗北もありうる。
がんっ、と鈍い音を立てて、いづるが地面に着地した。遅れてマントが彼の背中を覆う。すっくと立ち上がり、業斗へ顔を向ける。
「幸先がいいじゃねえか。痛覚キャンセル」と業斗。
「いや、痛かったよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」いづるはゆっくり歩いて、業斗と距離を取りながら、
「六分の五の確率で動けなくなって、君に負けたら話にならない。痛かろうが痛くなかろうが、そんなの関係ないんだ。君に最初にわかっていて欲しくてさ? ……僕は退かない。痛みじゃ僕を倒せない」
「ぬかせ――四本腕の前で、何ができる? おまえはここに降り立った時、すでに敗北してんだよ、阿呆」
「どうかな。君が四本腕になるとは限らない」
「何をバカな――」そこまで言って、ハッと業斗はそのことに気づいた。
まさか。
ばっと振り向いて、客席を見上げる。首を千切れんばかりに振って、探す。
いない。
ミクニが、いない――
「てめえ……あいつに何をした?」
「さあ? いないだけかもしれないね。でもひょっとするともっと悪いことになっているかもしれないね。さあさあお立会い。どっちだと思う? ねえねえ、どう思う?」
「ふざけんな。てめえ、あいつに指一本でも出したら承知しねえぞ……!」
「怖いなあ」やれやれと首を振り、
「彼女がそんなに大事かい? 人の夢を自分の夢で押しつぶしてきた人間が、よくもまあ正義や倫理を振りかざせたものだね」
「――――それとこれとは関係ねえ。てめえがやってるのは、畜生以下のやり方だ」
「そう思うなら、力でどうにかするしかないな。約束するよ、業斗。君がズルさえしなければ、彼女には決して手を出さない。指一本、君の聖域に触れたりはしない。僕が言うのもなんだけど、フェアにやろうよ」
「……。おまえが約束を守る保証は?」
「それは――」
尋ねる業斗に、いづるはすっと半身になって、拳を上げて、構えを取った。
「僕の拳に、聞いてくれ」
「……いいぜ、わかった」
業斗はおもむろに、自分の仮面をはぐった。そしてそれをパッと落とし、ブーツの踵で、踏み抜いた。客席がどよめく。
「こんなやつに、こんな卑怯なやつに、負けてたまるか……」
憤怒に顔を染めて、ぐりぐりと割れた破片を踏みにじりながら、業斗はいづるを睨みつける。
「俺はおまえに勝つぜ、門倉。ズルなしで、正々堂々、おまえをバラす。おまえを徹底的に打ちのめし、その仮面を剥ぎ取って俺のものにしてやる」
「おお、いいねえ、グッと来る。そういうのがいい。やるなら、そういうのじゃなきゃ駄目だ」
「もう黙っとけ」
業斗は一瞬身体を屈め、右手を突き出す形で敵めがけて突撃した。が、あと少しでその身体を掴めると思った次の瞬間、白地に不規則な黒線がびっしり書き込まれたマントが視界を遮り、掌が空を切った。ぴくっ、と顔を歪ませ、振り向きざまに掌を打ち出す。だが、向こうもそうしていた。
吼える。
空中でお互いの貫手が衝突し、音を立てて砕け散る。辺り一帯に真っ赤な硬貨が炸裂し、右手先を失くした守銭奴二人が一瞬、至近距離で見つめあう。フリーになっているお互いの左手は、いづるの方がわずかに、的(てき)に近い――そう二人が思った時にはもう業斗の長い足がいづるの鳩尾にめり込んでいた。
客席から歓声があがり、いづるの身体が文字通り吹っ飛ぶ。が、両足で地面を擦って、よろけながらも倒れずに踏みとどまる。足が若干震えていたが踏みとどまる。
「痛っ……く、ない……ぜ、全然痛くない。これっぽっちも、効いちゃいないね……」
「嘘つけ、顔が白いぜ」
「嘘でも、いいのさ。ホントにしてやるだけだから。さァ、無駄口叩いて痛みも引いた――どうした? かかってきなよ。チャンスだったのに、何してるんだ?」
「!」
咄嗟にカッと業斗の頭に血が昇る。右腕を振って、掌を作り直し、
「うるせえ――――ッ!!」
一気に距離を詰める。多少のカウンターは覚悟で右手を突き出す。が、またも視界を遮る白黒マント。
だが、関係ない。
(鬱陶しいボロキレごと貫いてやる!)
空に突き出したままの右腕をそのまま顔と胸を覆うガードへ変化させ、その下から左の貫手をマントめがけて突き出した。距離感からして、その向こうにいるはずのいづるを直撃するはず――だが、左貫手は何にも触れなかった。
それどころか、目の前にあるマントにすら触れられず――
わけがわからぬまま、マントの下から飛来した門倉いづるの貫手に応対することもままならないまま、逆に業斗は水月をズブリと刺し貫かれていた。
じゃらり、と。
「ぐ――――あ」
身体の中に潜り込んだ、門倉いづるの貫手が、業斗の中身を握り取る。
まずい。
このまま縫い止められていれば、すぐに左手が飛んで来る。業斗は痛みを怒りでねじ伏せて(黙ってろ!)足を跳ね上げていづるの身体を蹴り返した。今度は届いた。いづるは吹っ飛ばせたが、威力はさっきほどの半分も出ていないし、足では魂貫ができないのでダメージはゼロ。
だが、貴重な距離(モラトリアム)は勝ち取れた。
「くそっ……!」
業斗は腹を抱える。指で探ると肉ではなく金属に触れた。服ごと魂化させられて、中のぎっしり詰まった魂貨が剥き出しになっていた。今も魂貨が数枚、掌から零れて、地面を金管に乾いた音を立てていた。
「この……野郎……ッ!」
いづるもまた腹を抱えていた。
「くそ……あいつ足長いな……」
ひとりぼやく頭に、上から叱声が降ってくる。
「かっどくらぁ――――なあにやってんの――――ッ! そんなチキン野郎とっととぶっ飛ばしちゃえってば――――ッ!」
「あ、あぶねえぞ姉ちゃん!? 落ちっぞ!! あ、やばいやばいみんな手ぇ貸せ、うわ、わわ、うおおおおおおおおっ!?」
客席で起こっているらしい一騒ぎに、ふと一瞬、いづるは気を抜いた。
視線を上げて、周りの客に引き上げられているキャス子を見、顔を前に戻した時にはもう、腹の傷も治さぬままに、業斗が懐に飛び込んできていた。
(しまった――!)
咄嗟に、解体台に刺さった包丁に手が伸びた。考える前の反応だった。正確に柄を握った手が閃き、突撃してきた業斗の左手、その指を四本まとめて切り落とす。
散らばる赤金(あかがね)、
が、
業斗の掌底は、止まらない。
(まさか、こんな、時に――)
(六分の一、痛覚――キャンセルッ!?)
わかったところで、対応できる速度じゃない。
業斗の指なし左掌底が、いい角度で、右顎から左こめかみへ抜けた。固い音がして、顔面から仮面が剥がれて吹っ飛び、内壁に突き刺さる。
が、
「ま――だ――ま――だァ――ッ!!」
打ち抜いた左手を戻す捻りをそのまま右手の推進力へと変化させ、業斗が右貫手を発射した。顔面から魂貨をじゃらじゃら垂れ流し、意識も一瞬吹っ飛びかけていたいづるだったが、なんとかギリギリで、というよりもよろめいたと言っていいほどのひ弱さでバックステップを取った。
が、かわし切れない。
心臓のあった位置、そのすぐ下に、業斗の揃えた指が根元が刺さる。そのまま業斗はぐっと拳を握り締め、魂貨を鷲掴みにする。
いづるの身体はそのまま後方へ流れ、貫手を打った姿勢のまま立つ業斗の右手には、しっかりぎっしり、魂貨が握られていた。手を放すと、じゃらじゃらと魂貨が地面に垂れ流された。
「う……」
よろめきながら立ち上がったいづるを見て、業斗がにやりと笑った。
「足手まといに足をすくわれたな、門倉さんよ」
いづるは、ぼそぼそと何か小さな声で呟いた。
「…………ろ」
「あ? 聞こえねんだよ、臆病者が。てめえにできることは、とっととミクニを解放して消え失せることだけ……」
「撤回しろ、花村」
がりがりがりがり。
握ったままだった包丁を、すぐ後ろの内壁に見もせずに逆手で突き刺し、がりがりとそのまま引き下ろすいづる。その顔は、己の敵をまっすぐに捉え歯を剥き出しにし、目を血走らせて、遮二無二怒っていた。
吐いた言葉を噛み砕きかねない調子で叫ぶ。
「キャス子のせいじゃない……断じて違う。いまのは僕のミスだ。彼女に非はない。撤回しろ、花村業斗!」
「土御門、だ!」
「名前なんぞどうでもいい――そんなものどうでもいい――おまえは言っちゃいけないことを言った。絶対に言ってはいけない言葉を言った」
「だったら――どうするってんだよ」
業斗が構える。いづるが壁に刺さった包丁から手を放す。
「僕が甘かったみたいだな。君にどこかで同情してた。僕と出会いさえしなければ、見逃してやれたのにと思っていた」
「……てめえ、何様のつもりだ? いったいいつ、どうして、俺がおまえなんぞに見逃してもらわなければならねえんだ! はっ、一丁前に人情家ぶりやがって、人質取るやつが言えたことか!」
いづるが構える。両目を濡れたようにぎらつかせて。
「もう、さがらん」
「それはこっちのセリフなんだよッ!!」
業斗は、切り落とされた指の付け根を鬱血するほどに押さえて、絞り出すように指を生やした。再生は魂貨を著しく消費する。だが、それに見合うだけの価値はあった。いづるの仮面を吹き飛ばし、その奥にある素顔を曝け出させることに成功した。仮面がなければ顔面への攻撃はダイレクトに伝わる。それに、いま、右顎から左こめかみへ抜けたはずの衝撃は決して小さくない。いまもじゃらじゃらと、顔面から赤い魂貨が零れ落ちている。業斗の指の損失と比べても、ダメージはおそらく、向こうが上。
――勝てる。いや勝つ。勝たなくちゃならない。
勝たなきゃ、
(意味が、ないんだ!)
予想を超えた事態が起こっていた。
門倉いづるが、押している。
下馬評ではほぼ勝率ゼロ――むしろ賭けは両者の勝敗ではなく、門倉いづるが何分持つか? という内容でなくては成立しないような試合展開になるだろう、と言われていたのだ。
それがどうだ。花村業斗の突きはさばかれて空を切り、その度に門倉いづるのパワーはないが正確無比の指先が魂貨を宙にばら撒いていく。
観客たちは顔を見合わせながらも、沸々と沸き起こってきた熱狂に釣られて拳を振り上げ声援を送っていた。普段のけだるさなど感じさせない熱の入りようだった。安全牌で業斗に賭けて、1.1倍の配当を啜ろうとしていた連中の喉からも慌てたように業斗を叱咤する怒鳴り声が弾けた。
そう、押している。
キャス子はじっと、最前列の手すりを両手で掴んで、それにしがみつくようにしながら、戦況を見下ろしていた。
押してはいるが――
「決め手に欠ける、ってところですかい、キャス子のお嬢」
「――誰?」
「おお、こいつァひどい。散々あっしからしぼり取っていった癖に、用が済んだらポイですか。女ってぇのは魔物ですな、まったく」
そう言ってキャス子ににやっと笑いかけたのは、いつぞやのドリンク屋だった。地下からラジオで競神を中継し、その胴元を受けていた死人だ。洒落者風に下半分を弧型に切り落とした仮面から覗く口元には空腹じみた笑みが浮かんでいる。キャス子はにやにや笑いをするやつが嫌いだった。
「いやらしい言い方しないでくんない?」
「気にしなさんな、あっしたちにとっては慣用句みたいなもんでね。それにあっしは、いづるの兄ィが天下分け目の決戦だっていうから、応援に来たんですよ。といっても、あっしが張っているのは、あの白ランの方ですが」
「なんでもいいから黙っておいてやってよ。今のあいつに一番効くのはあたしの声なんだから」
「ハハハ、そうなんですか?」ドリンク屋はひょいと首を伸ばして眼下を見下ろし、「それにしちゃあ、どうやらあんまり効いちゃいないらしい」
一切の予備動作なしに、キャス子の右腕が動いた。いきなり高圧の電流を流されて痙攣したかのように跳ね上がった腕はドリンク屋の喉を引き裂いたかに見えたが、ドリンク屋はいつの間にか一歩下がっていて、キャス子が引き裂けたのはドリンク屋の冷や汗くらいのものだった。
「ちょ、ちょっとちょっとお嬢。なにもあっしは敵ってわけじゃありませんよ」
「あたしバカじゃないよ。あんたがあたしをバカだと思ってることがわかるくらいにはバカじゃないもん」
「いやいやいや」ドリンク屋は両手を振って、
「これはとんだ誤解ですよ。あっしはね、ただ事実を言ったまでです。お嬢、あんただってわかっているはずでしょうが」
ドリンク屋は腕を振って、井戸の底で戦い続ける二人を示す。業斗が貫手を放ち、いづるがそれをマントでさばいて、盗むように魂貨を削り取る。そのパターンがループのように繰り返されていた。
だが、少しずつ変化が起こっていた。手すりを握るキャス子の掌に、ぎゅっと力が入る。
業斗の貫手を、いづるはかわす。かわす。かわす。
かわすだけ。
いつの間にか、反撃の手が休んでいた。それどころか、宙を舞う数枚の魂貨は、業斗の貫手でいづるから削り落とされたものに見える。
この段階で、業斗が二つの関門を突破していづるに攻撃を当てていることは明白だった。その関門とは、『迷い家マント』と『背中受け』の二つ。マントについては言うまでもなく、白と黒の色彩とその模様に込められた呪によって、業斗の遠近感を狂わせ、貫手の正確性と命中率を低下させている。
「ですがあのマント、攻略法は実に容易いんですね、これが」
「……」
「迷い家の道を呪に転用するってぇのはいい案です。誰の入れ知恵か知りませんがね。ですが、あれは距離感は狂っていても、方向はそのままなわけです。べつにマントを貫いたら門倉兄ィが背後に回っているわけじゃない。いるんです、そのまま向こうに。ただ狙った位置よりほんのちょっと遠いだけ。それなら果敢に突撃すればいずれゴールへは辿り着ける。容易くね」
眼下で、また業斗の貫手が功を奏し、いづるの肩口から真っ赤な飛沫が上がった。耳をつんざく歓声と、下世話な口笛が吹き鳴らされた。
「でも」とキャス子はもつれあっては離れるを繰り返す二人から顔を背けずに言った。
「それだけなら、まだ門倉は優位に立っているはず」
そう、なにもいづるはマントだけを頼って鬼退治に望んだわけではない。しっかりとした下地を敷いてきたのだ。それは守銭において奥義とも言える戦術。基礎中の基礎、ゆえに真髄。
背中受けだ。
死人の背中側から、その魂を抜き取ることはできない。ゆえに、通常の守銭では背中は追い詰められた時に見せて距離や時間を稼ぐための保険として使われることが多いが、門倉いづるはそれを実際に魂のやり取りをする最中に組み込んだ。相手の攻撃を受ける際に、身体を捻り、背中を見せ相手の魂貫を防御する。実際には背中というよりも後方の肩の角度を使って捌く。いづるは自分を実験台にして、死人の身体がいったいどこからが前面でどこからが背中なのかを熟知している。一歩間違えればそのまま肩をえぐられているかもしれないギリギリの角度で、業斗の貫手を逸らしている。
しかしそれも、普通ならば無理な体勢の不利を突かれて、相手からラッシュを喰らってしまったり、足払いを受けてよろめいてしまえば、かえって逆効果となるリスクある戦法。努力に対してリターンが薄い、それが守銭奴たちに『背中受け』が受け入れられていない、実践的ではない戦術として捨て置かれている原因だった、が、いづるはこの点をマントでクリアした。
いづるは身体をマントでゆったりと覆い、足元も隠して、『背中受け』をしていることを敵の目から欺いた。首を前に向けていれば、業斗はいづるが身を捻っているとは思わない。だから身体めがけて貫手を放っても、背中に弾かれて魂貫できずに逆に反撃を受けてしまう。
そういう手はず、のはずだった。
だが、現にいまいづるは攻撃を受けている。攻勢から防戦へと移行しつつある。それでは駄目だ。正面から打ち合えばいづるは勝てない。それは覆せない、歴然としてそこにある魂の総量の差。
あの世出版刊行『ぎゃんぶる宝典』の編集部一座による調査によれば、《餓鬼》門倉いづるの魂の残高は七月一日づけで三百万超。対して、《破天公》花村業斗の残高は七百五十万炎以上、と推測されている。測定方法は謎だが、どこからともなく真実を発掘してくる腕利き記者たちが書いた記事に誤謬は決してない。ソースは不明なのに怖いくらいに正確無比、それが『ぎゃんぶる宝典』があの世博打渡世人たちに広く親しまれている理由だ。
そして、魂の残高はそのまま魂貫の攻撃力に直結する。
まともに打ち合えば、門倉いづるは花村業斗に、勝てない。
だからこそ、用意した。せめてまともに打ち合えるまでに業斗の残高を削れるだけの策を。
なのに――
「どうして攻撃が当たるのか、と思うでしょ、お嬢。あっしも上で見ていて謎だったんですがね、確実なのは、業斗が背中受けに気づいてるってことです」
「気づいてる……そう、確かにそうかも。でも、気づけても、対処できるわけがない。いづるは体位を常にマントの下で変え続けていて、業斗が遮二無二飛びかかっても、背中で受けるか、あるいは不安定な姿勢を崩そうとしても、その時は正面を向いていて難なくカウンターを打てるかもしれない。あのマントには自分の姿勢を隠すという意味もある。門倉に抜かりはなかったはずなのに――」
「とっころがどっこい、完璧というやつも魔物でね、だいたいそうではないんです。必ずどこかに縫い目がある。天衣無縫は神様だけの言葉なんですよ。門倉兄ィは見誤った」
「何を」
「花村業斗の夢見る力を、です。――あっしはお嬢や兄ィの博打の世話をさせてもらいました。こういう胴持ちの博打を受け持っているとね、自然と人を見る目ってのが培われてくるんです。お嬢、確かに門倉兄ィは強い。まさに博打をやるために生まれてきたような人間です。ですがね、兄ィには夢がない」
「そんなことない。門倉は、ちゃんと、自分の意思で闘ってる」
「足りないんですよそんなんじゃ。兄ィは強い。でも、それだけです。あの人は競神のラジオを聴いている時、お嬢のように熱狂したりはしなかった。一瞬、最後のゴール間際くらいには熱っぽくなる気配もありましたが、それも時化た煙草みたいなもんで、結局は大した火じゃないんです。兄ィは強い、勝たねばならぬ事情もありましょう、決意もありましょう、ですがそれだけです」
「それだけ、って……そんな」
「それを上回る力。それは夢を見る力です。それが不可能であればあるほど、燃え上がろうとする狂熱。兄ィにはそれがなく、そして花村業斗にはそれがあった。それがいま、業斗に、意識しているかどうかはともかく、目を与えている」
「目……?」
ドリンク屋は口だけで笑い、
「そう、勝ちの目であり、気づく目です。お嬢にはわかりませんか? 簡単なんですよ。タネをバラしてしまったら二度と使えないくらいに。ねえお嬢、よく見てごらんなさい、門倉兄ィはいまマントの下で、身を捻っていますか? それとも普通に立っていますか?」
「……そんなの、わからないよ。わからないように、訓練したんだし」
「いいえ、おそらく近くで、それこそ白兵戦の最中にある花村業斗には見えているはずですよ。――身をひねっている間、兄ィの身体のシルエットは、少しだけ細くなっているはずです」
「え……? だって、マントはゆったりつけてて、身体の輪郭に沿っているわけじゃ……」
「お嬢、場所が悪かった。ここには冷気がある。風がある。時々マントがそよいでいますね。風が吹いてマントがはためいた時、ねえ、『あるべき場所に肘がなかったら』どうします? ぺたりと、兄ィの胴に沿ってマントがくっついたら、どう思います?」
「――――」
「逆に」ドリンク屋は喜色を隠そうともせずにやりと笑って、
「風が吹いた時に、兄ィの肘がマントを下から突っ返しているでっぱりが見えたら――もうわかるでしょ? かァんたんなんですよ、かァんたん」
キャス子は唇を噛み締めた。
門倉。
確かに見えてきてはいた。だが、なにも頭を捻ってはじき出したお行儀のいいやり方なんかでは決してなかった。あえて言うならカンのようなもので、人に口でおまえの考えていることを説明しろと詰問されたら業斗は押し黙るしかなかっただろう。
白黒マントを照る照る坊主のようにまとったいづるが、一間の間合いをコンパスで計ったように移動しながら業斗の貫手を捌く。業斗は首をひねって、ぼおっと焦点を外しかけた目でいづるを視界に捉え、そして名状しがたい確信の元に、さきほどから弾かれてばかりいる貫手を放った。一間の間合いよりももう少し深く踏み込んで、肘が伸びきる前にいづるの腹部に当たってしまうように見えた貫手がいづるの腹を貫通。手ごたえは、いづるの背骨のあたりまで埋まった指先から返ってきた。強力なぜんまい仕掛けのように身を捻って、大量の魂貨を握り取った左手を引き戻す。
指の間から零れる魂貨を、可能な限り掌から吸い込みながら、業斗は思う。大切なことは二つだけだと。ひとつは、あのマントがどうも自分に幻を見せているらしいということ。しかしそれは完全なものではなく、実際に見えている像よりも一歩ほど踏み込めばちゃんと当たる。要は常に乾坤一擲の気合で進めばいいだけのこと。
二つ目は、門倉があのマントの中で巧みに背中、というよりも側面を向けて魂貫をかわしていること。水面下の白鳥のように相当辛い姿勢のはずだが門倉は顔には決して出さない。だがその小細工にも慣れてきた。見ているうちに一定の法則性に思考よりも先に視角が気づいたらしい。
「そして三つ目」
業斗は大切なことをひとつ増やした。結局、大切なことはそれだけだ。
あいつは、ミクニを拉致った糞野郎だ。
そう、大切なことはたったのそれだけ。たとえ誰が門倉いづるを擁護しようと、その一点をもってして、花村業斗はその虚飾を唾棄できる。あいつは間違っているのだと信じられる。だから迷わない。迷うのは自分じゃない。他の誰かの仕事だ。
業斗といづるはお互いに軽く指を開いた掌を顎と胸の前に構えて、解体台越しに睨み合った。縦幅越しなので手を伸ばしても届かない距離だ。包丁は刺さっていない。だがその言葉を思い出しただけで業斗は背筋があわ立つ思いだった。指をいきなり四本詰められた痛みを受けて、自分が正気を保てていたかどうかは自信がない。救いを賭けたロシアン・ルーレットは二度とゴメンだった。
じり、と業斗は解体台の横に回り込もうと一歩踏み出した。対角線上でいづるが同じように動く。そうして二人して台を回っていけば、いつかは両手が届き合う距離まで接近することになるわけだ。
業斗は目玉を固定したまま解体台を見た。
木製の台に、コの字形の金属板を上からかぶせた台だった。なんだか前時代的というか、まだ鉄が貴重だった時代の代物のようだ。木の台そのものはほとんど腐りかけていた。心の中を映した風景の中に腐ったものがあるというのは非常に気が滅入る。この風景が門倉いづるの報われぬ魂から産まれたものであると信じたい。
業斗が次の接近へとまた一歩を踏み出すと同時に、いづるが動いた。いきなりマントをはぐって、台に足をかけ、それを業斗の方へと放った。視界が一瞬にして奪われる。業斗の予想通りに。
頭からマントをかぶせられたまま、業斗は左足で腐りかけた台の脚を蹴り壊した。台が傾き、ごんと鈍い音がした、その方向へすかさず右足を放り込む。ぎゃっという悲鳴と鈍い肉の感触が返ってくる。頭からマントをはぐってそれを真っ二つに引き裂き、業斗は傾いた台の上に飛び乗った。
これで完成。門倉いづるは傾いた台の下で頭を打って悶絶しているだろう。そして、業斗が台の上に飛び乗った際に残った足も軽く裂け、台は半壊しその下から出口は角度にして九十度以内に限定された。つまり、いま業斗が見ている方向だ。
あとは、いづるがのこのこと出てきたところを嬲るだけ。背中を見せていようと、髪を掴んで無理やりこちらを向かせてマウントを取る。
勝った。
業斗は傾いた台の頂に立って、いづるがのこのこと現れるのを待った。が、なかなか出てこない。しいんとしている。だが、業斗はさほど焦ってはいなかった。業斗の体重で残った台の脚もぎしぎし鳴り始めた。直に折れるだろう。その時、完全に台に潰されて、より一層の苦境に立たされるのは自分ではない門倉いづるだ。それが嫌なら、意を決して出て来るほかにない。勇気を出して、我武者羅に。最後までせいぜい足掻くといい。
業斗は待った。
だが、いづるは出てこない。そのうち観客たちからもブーイングが巻き起こり始めた。
重たい耳鳴りのようなその音は業斗の苛立ちを増長させた。うるさすぎる。これでは何か物音がしても聞き取れない――たとえば、門倉いづるが背後から迫って来る足音なんかが。
振り返る。
誰もいない。
当然か――とまた業斗は開かれた動物の顎のような台の上から、下を見下ろす。
手が出ていた。
とうとう尻尾を出したな、と悦に入るよりは、むしろ戦慄した。一瞬だ。業斗が振り返ろうと思ったのも、実際に振り返ったのもたった一瞬。下からその様子が見えるわけがない。なのに、門倉いづるはその一瞬に感づいた。形容しがたい『何か』を察知し、暗がりから這い出ようと手を伸ばした。もし、業斗があと二秒でも長く振り返り続けていたら背後から下へ引きずり落とされてマウントを取られていたのは業斗の方だったろう。恐ろしい。門倉いづるは、何をするのかとことんまでわからない男だった。
だが、それもここまで。ずいぶん長く手間取らされたが、それも終わりだ。
引きずり出してやる。
業斗は台の下から見える裸の左腕を掴んで、思い切り引っ張った。
軽すぎた。
跳ね上がるようにして台の下から出てきたのは、左腕だけ。傷口から、真新しい魂貨が飛沫を上げる、それを見た時にはもう業斗の横顔は台の下から伸びてきた右のフックに見舞われていた。台から転がり落ちて上か下かもわからぬ回転に見舞われる。
やられた。
(自分の腕を囮に――!)
足元の砂利を跳ね飛ばしながら回転から踏み留まり、ふらふらと立ち上がったが、治したての左腕にまたごっそりと胸の表面をえぐられて後方へよろめく。だがやられてばかりはいられない。このまま押し切られてたまるか。
遮二無二突き出した右の貫手と、敵の左貫手が再び衝突する。が、いづるはすうっと業斗の指先を自分の指の背を使って逸らし、その指に絡みつき――腰を捻ってねじ切った。
今度は見逃してもらえなかった。
キャパシティオーバーの痛覚が電撃のごとく業斗の脳天から爪先まで駆け抜けた。自分で悲鳴をあげたかどうかもわからない。ただわかっていたのは、門倉いづるが攻撃をやめないであろうということ。この好機を絶対に逃したりはしないだろうということ。
業斗は両腕を交差させて辛うじて急所を守った。
守る、というのがそもそも間違いだったと言える。門倉いづるを前にして、いったい何を守ればよかったというのか。いづるはなんの躊躇も躊躇いもなく、その顔を鉄壁の意思で塗り固めたまま、無造作に業斗の交差した両腕をそのまま下に引き下ろした。想定外のベクトルからの力にあっけなく開門を許した業斗のガードの向こうにあったのは、恐怖に染まった顔。
その鼻っ柱に、門倉いづるは掌底を叩きつけた。
鼻血の代わりに垂れ流される赤金を見ても、その顔はなんの感情も表さない。右、左、右、左――と連続掌底を小刻みに喰らわせて、下りてきた業斗の膝頭に靴底を蹴り込み無理やり立たせてまで魂貫の乱舞をやめようとはしなかった。手を広げて猫のように切り裂きながら、屈めた指を髪に引っ掛けて面(つら)を上げさせていたことに気づいたやつがその場に何人いたか。
とどめの胸の一撃は実にいい音がした。
観客の半数以上がそれで勝負が着いたと思った。
胸にいづるの貫手が刺さったまま、業斗はふらあっとうしろへ倒れこむ。いづるもまた腕に引かれて前のめりに倒れていく。
ぎょろり。
業斗が閉じていた目を見開き、いづるの腹を下から思い切り蹴り上げた。業斗の足だけが支えになっていたいづるは身動きが取れずにそのまま投げ飛ばされ、天地を失い、生きていたら死亡している角度で首から落ちた。
ごぐっ、と嫌な音が業斗の耳にも届いた。
そして危機は去り、訪れるは好機。
業斗は立ち上がり、身体を捻った。いまならまだ、門倉は怯んでいるかも知れない。いくらなんでも首から落ちて、平然としていられるはずがない。
構えながら振り返る。
鏡かと一瞬思う。
門倉いづるは、もうすでに双掌を構え終えていた。
何もなかったかのように静かなまなざしで、それでもその眉と目元がひくついていたのは、耐え難い痛みを抱え込んでいたからかもしれない。いつ拾ったのか、もうマントまで羽織り終えている。もっとも真っ二つにされて、背中しか隠せていないが、それでもいつ拾っていたのか業斗にはわからなかった。
がりがりがり、と業斗は確かにその音をその時聞いた。
心が削られていく音だった。
「いやあ、お強い! あれじゃあどう頑張っても勝てませんわな」
内壁に身を乗り出して突き刺さっていた仮面を取ろうとやっきになっているキャス子の尻にドリンク屋が言った。
「門倉兄ィはあれがあるから怖い。人が意識せずについ見逃す一手を平気で打ってくる。常識の埒外とか自分の苦痛などは度外視する。効けばいい。それだけで腕も落とすし立ち上がろうとする相手を平気で突っ転ばす。いやいや、本当にあっし、守銭奴にならないと決めてよかったと思いまさァ」
「うるさい馬鹿」
「うるさかろうと喋りますわ。どうやらあっしの解説に耳を傾けてくれている皆様もいるようですし」
自分を見上げて来るあやかしたちをちらっと見やり、
「今の連打も見事も見事。今ので花村の気合は朝起きて小便漏らしてるのに気づいた餓鬼ぐらいに萎え果てたと見えます。ですがね、それじゃあ駄目でさ。今ので決めないと」
いづるの仮面を壁から抜き取ったキャス子が畳んでいた身体を起こして、ドリンク屋に冷たい白面を向けるがドリンク屋はどこ吹く風だ。
「お嬢、いまので一体何発門倉兄ィが入れたと思います? 十三発でさ。それもほとんどが致命傷になっていておかしくないクリティカルな一撃ばかり。なのに花村は立っていて、よろけちゃいるがピンピンしてる。――いま戦意を殺がれているのは果たしてどちらですかね」
「…………」
「あっしは弱い。だから弱いものいじめが好きでね、お嬢、今は調度よくここにいるあんたをいじめさせてもらいます。チャンスだったんですよ、今のが。それも唯一無二の。あれで決めなければならなかったんだ、兄ィは」
「まだ勝負はついていない」
「お嬢ほどの方が勝負のイロハがわからんわけじゃないでしょう。もう勝負は着いたんですよ。花村がまだ立っていることがその証明なんです。やつはなぜ倒れない? 胸を何度も突かれたはずです。頭にだって何発も喰らった。なのに今、やつは恐怖に駆られているだけで済んでいる。直にそれも落ち着くでしょう。そして思う。――はて自分は後何発喰らえば負ける? いや、何発喰らっていられるんだ? ……とね」
「…………」
「そして思うはずです。これほどの乱撃は二度と受けない。受けてはならない。なら――残った自分の魂の残高を感じて、気づくはずです。門倉いづるに花村業斗を倒す力は最初から無かったんだと」
「それは……」
「もちろんここにやってきた時の門倉兄ィの残高で魂貫すれば今の花村なら倒せるでしょう。しかしここに来るまでに、門倉兄ィも敵と同じくらい消耗してきたんです」
「わかってる! そんなこと……でも、」
「落ちてる魂貨を拾えばいいとでも言いますか? 甘いですなァ実に甘い。なぜ落ちてるのを守銭奴が拾わないかって拾ってる間に攻撃を受けるからですよ。しかも闘技場内に落ちた魂貨はバラバラに散らばりすぎていて一箇所で集めたってタカが知れてる。そんなこと金色夜叉と歌われた元魔王のお嬢にはおわかりのはずだ」
ドリンク屋は満面の笑みを浮かべて、言った。
「門倉兄ィは、負けます。彼には何もない。夢も、力も、武器も、奇跡も。そして花村には少なくとも断固突撃を敢行し続ける動力源がある。燃え盛る炉が胸ン中にね」
噛み締めるような沈黙を置いて。
キャス子は、ヒビが入ったままの仮面をよく喋る死人に向けた。
「――で、ずいぶん色々とくっちゃべってくれたけど――結局あんた、何が言いたいの?」
「と言いますと?」
「あんたやっぱりあたしのことバカだと思ってんでしょ。確かにそう見えるだろうし実際そうかもしれないけど、でもあんたがただ日頃のストレス解消にあたしを嬲ってると思うほどもうろくしちゃいないんだよ」
キャス子は、相手の口と自分の額がぶつかるほどに顔を近づけて、
「あたしにどうして欲しいわけ?」
ドリンク屋は満足そうに頷いた。
「それでこそ金色夜叉、堂島アンナ様ですよ。何、簡単です。門倉兄ィがあと何分で負けるかあっしと一番勝負といきましょう」
キャス子は何も言わない。
「残念ながらお嬢がその手に握っておられる白仮面も、大魂張った大事な券も、無駄になってしまうことは確実です。しかしだからと言って泣き寝入りするのは博打打ちの恥というもの。せめて負けた元ぐらい取り返さなければ泣くに泣けませんでしょ?」
「……まあね」
「だったら迷うこたァありますまい」
ドリンク屋は背を折って、コツンと自分の仮面をキャス子のそれにぶつけた。
「門倉兄ィへの義理で丸損したって面白くないでしょ? さ、何分で負けると思います? 五分ですか? 十分ですか? あっしはそれより早く負ける方に賭けますから。今にもやられておかしくないんでね」
「あんた、もう少しいいやつかと思ってた」
「おふざけはよろしくない。賭場で会った人間同士が、仲良くしようなんてのがそもそもキチガイ沙汰なんでさ」
「そうみたいだね。――いいよ、賭けよう。ただし勝負の条件は変えさせてもらう。賭ける額も」
「は――内容次第ですが、考えてみましょう。何、あっしも生前死後共にノミ業でたあんと喰ってきた人間です。お嬢はお得意さんでしたし、ひとつふたつの譲歩は多めに見ますよ」
ありがとう、と呟いて、キャス子はその条件を口にした。
「門倉いづるが花村業斗に――
十分以内で『勝つ』、に全部賭ける」
最初はひきつけでも起こしたようだった。
ドリンク屋は喉を押さえて、くつくつと呻き、終いには仮面をぺしんと叩いて大声で笑い始めた。
「ははははははは!! 勝つ? 勝つですって? あんな手ぶらのチンピラに何が出来るというんです! 持っているのは己の身のみ! 陰陽師が使うような式神も、対あやかし用の武具も、なあんにも持っちゃいないじゃありませんか! 後悔しても知りませんよ? あっしはもう受けましたからね。いいですか、もう駄目ですよ、絶対駄目ですよ、はい受けました!」
くどいなあ、とキャス子はぼやき、
「あとさ君、あたしと勝負する時は受けたじゃなくてはっきり言って欲しいな」
キャス子は客席にどっかと腰かけて足を組み、笑う死人を見上げた。
「花村業斗が門倉いづるにどうしても、何をやっても、とうとう最後まで勝てなかったら――ぼくは潔く薄汚れた小銭にならせて頂きます、って」
笑いが止んだ。
代わりに今度はキャス子がくすくす笑う。
「それに、門倉に打つ手がないかどうかなんて、まだわかんないじゃん?」
言われて。
ドリンク屋は、内心ひやっとするのを抑えられなかった。
――何か秘策でも持ってんのか、こいつら?
いいや、そんなわけない。どんなイカサマが出来るっていうんだ? あんな闘技場のど真ん中で、誰の助けも得られずに?
ありえない。
くすくす笑い続けるキャス子を見て、自分が間違っていない理屈を頭の中でかき集めながら、ドリンク屋は最後の防壁を組み上げて己の心の安寧を守った。
惚れた男にすべてを捧げるというのは、いかにも馬鹿な女の考えそうなことではあった。
攻撃が効いていないことを誰よりも痛感していたのは、撃破必至と信じて乱打を放ったいづるを措いて他になかった。
いづるの胸の内に、じぃんとした悲しみが広がる。
無念。
できることなら、今のでケリをつけたかった。自分で言うのもこそばゆいが、あれほどの連携は練習でも見せたことがない。本番では普段の三割も力を出せないとよく言うが、それは嘘だといづるは思う。むしろ退くに退けない本番だからこそ、普段は眠っている自分の本当の部分というのが曝け出されるのだ。そうでなければ永遠に本番なんてやらずに一生練習に明け暮れていればいい。
だから、今のが、自分の限界だ。
そして、それを相手は耐えた。耐えられた。
勝てない。
喜びよりも嬉しさよりも、馴染んだ気持ちを心で噛む。電信柱を木刀で切れるだろうか。切れない。切れたとしてもそれはきっと正体を探れば木刀が木刀でないか、電信柱が電信柱でないか、その両方か。全身全霊を賭すとか賭さないとかいう話ではなく、それはそれがそれであるがゆえの必然。
それは確かに悲しかったが、同時にひどく懐かしい。
勝てない、と思う時、いづるは玄関の土間に足をつけた時のような安堵を覚える。勝てない、勝てない、と口の中で何度も呟き、脳がもたれるまで頭蓋の中を反響させる。
勝てない。
だが、これほど愉快なことがあるだろうか。
勝てないというのは、そんなに悪いことだろうか。
いづるはそう思わない。
大抵勝てない時というのは正道すぎるやり方に縛られているためだ。物事は裏表どころか三百六十度いろんな角度から口を開けているわけで、そのすべてを試した末に吐く勝てないなんて言葉はいづるは聞いたことがない。そもそも真剣勝負で十手も百手も打ってはいられない。その半分より遥か少ない手数でほとんどカタがつく。
だから、自分が勝てるか勝てないか、なんていうのは、所詮永遠にわかりっこないのだ。自分が選ばなかった一手が勝ちへ続いていたかもしれず、自分が選んでしまった一手が唯一の負け目だったかもしれない。悩むだけ無駄だ。
今、正面切って素手で叩き潰す目が消えた。だったら手口の格を落とすまで。
いづるは何度も足を組み替えて、遥か射程の外にいる花村業斗を牽制する。
少しだけ呵責をまだ感じる。
よちよち歩きの馬鹿を始末するには、いくらか不意打ちのようなやり方になる。だが、仕方ない。仕方ないとしか言えない。今の自分は身ひとつというわけじゃない。返さなければならない貸しがあり、清算しなければならない負い目がある。
それが、もうすぐ消える。
もうあと数分で、ラクになれる。
いづるはふと、自分と似たような素性の男を見やる。
可哀想にな、と思う。
野蛮人に生まれればよかったのだ。
そうしたら、
妾の子も糞もなかったというのに。
頭上で披露されたドリンク屋が浮かべたニタニタ笑いの予測を裏切り、業斗は門倉いづるに対して自分の優位に少しも気づけないでいた。ただ身体から零れた魂貨を靴の裏で感じるたびにさっきの乱打を思い出し、次に喰らったら終わりかもしれない、そのことばかり考えていた。実際にその時の双方の残高を比べれば、業斗はさっきのような一方的な連撃を手の指の数ほど受けても立っていられたし、逆にいづるの残高はその時もはや火の車と化していた。だが、業斗は遮二無二突っ込もうとはしなかった。門倉いづるが双掌を掲げたまま動かないことにまだ意味を見出してもいなかった。
業斗が見ていたのは、壁だ。
やりあっているうちに、屠殺場を小回りに一周したらしく、業斗の正面には包丁の刺さった壁が迫っていた。そして、門倉いづるは気づいているのかいないのか、その壁のすぐ前にいた。三歩も後退できはしないだろう。壁にいづるを背中から叩きつけることができれば、それはまたとないチャンスになる。抜き放題だ。
だが、
誘っているのかもしれない。
門倉いづるは足を小刻みに入れ替えてはいるが、その場からは動かない。業斗から突進すれば、自然といづるは受けに回る。何か待ち受けているのかもしれない。これまでの抜き合いと、そして積み重なってきた《餓鬼》の噂が、業斗に不安と心もとなさを与えていた。何をしてくるかわからないが、とにかく、相手は自分を上回るだろう――そう思わされたら出来ることなど何もなくなる。その時、人はただのサンドバッグに成り果てる。
(俺は、サンドバッグにはならねえ)
それは、そのまま通りの意味だけではなかったろう。
業斗は足に力を込め、自分か相手かどっちが落としたものとも知れない魂貨を踏みつけ、門倉いづるの目を見ようとし、失敗して視線を足元へ下ろし、そして気づいた。ようやく気づいた。門倉いづるがなぜその場を動かずに『待ち』に入っているか。
いづるの足元に、魂貨が集められていた。
足を組み替えているように見せていたのは、散らばった魂貨を一箇所に集めるためだったのだ。その目的は考えなくてもわかる。
ブラックジャックだ。
門倉いづるが決勝戦へ上がって来るまでに風呂敷や麻布に包んだブラックジャックを愛用していたというのは業斗の耳にも入っているし、実際に闇市通りのモノクロテレビで眺めもした。最初はただの布を闘牛士よろしく振り回しているだけなのだが、いつの間にか千両箱から銭をかっさらって、遠近中どの距離からでも敵の脳天を一撃の下に打ち砕く。
もちろん、門倉が守銭でブラックジャックを使用して以降、にわか仕込みのフォロワーは雨後のたけのこのように殖えた。が、どの使い手も結局は慣れない武器に逆に翻弄されて敗退していった。
ブラックジャックには三つのデメリットがある。ひとつは包む魂貨をケチると攻撃力が減退してしまうこと。二つ目は、投げたはいいものの受け止められれば相手の利を与えてしまうこと。そして三つ目は、そもそも投げてもなかなか当たらないこと。
特に相手に利するかもしれない、というのが不評を買った。近距離でリーチを稼ぐために使おうとしても、そもそも低額では素手で魂貫した方が金額的に優位なのは間違いなかった。
たったひとりの守銭奴を除いて、誰も、両箱からいつの間にか魂貨をごっそりかっぱらう技術も持たず、ましてや威力が足りないとあらば、自分の中の魂貨をも費やしてまで、その使いづらい武器に拘泥する者はいなかった。
とうとうブラックジャック使いはたったひとりの守銭奴を残して絶滅し、そして今、花村業斗の前にいる。
ブラックジャックだ。
間違いなく、やつはブラックジャックを作ろうとしている。
最後の勝負で、己の武器を頼ろうとするのは、想像するに難くない。
そしてよくよく見れば、いづるの左手はいつの間にか構えを解き、制服のポケットの縁に指を添えている。そこに魂貨を包む風呂敷か何かが入っているに違いない。
足元の小銭は緩やかな丘になっていた。
ブラックジャックを作る時、門倉いづるはしゃがむ。
いづるの思惑に気づけていなければ、一瞬対応が遅れていただろう。だが今は違う。今は、やつが何を考えているのか業斗にはわかる。
業斗は身構え、次の一手を考える。――いづるがしゃがんだと同時に、その顔を蹴り上げることにしよう。魂貫はできないが、いづるは背中から壁に叩きつけられる。壁は婉曲していてボクシングのコーナーほど便利ではないが、絶対に逃がさない。
次でカタをつける。
じりじりとした睨み合いの果てに、先に痺れを切らしたのは、
いづる。
ポケットから愛用してきた藍染の風呂敷を抜き出し、その場にしゃがんで魂貨をかき集めようとしたが、機会到来を業斗が見逃すはずもなく足元に散らばっていた魂貨を数枚いづる目がけて蹴飛ばした。即席の散弾と化した魂貨がいづるの全身を打ち耳障りな金属音を立て続けに響かせる。魂貨が身体から弾け飛ぶ。それが地面に落ちる時はまだ遠く、詰め寄った業斗の横薙ぎの平手がいづるの横顔へと打ち込まれる。
外した。
業斗の読みでは、いづるはもう少し集めた足元の魂貨の山に拘泥するはずだった。が、いづるはブラックジャックの材料たりえるどちらのものとも知れなくなった赤金の薄い盛り上がりにあっさり見切りをつけて真上に跳んでいた。
主を失った風呂敷が風に乗る。
時が止まる。
いづるが下りてこない。ああ、と業斗は思う。これがかの有名なアドレナリンの過剰分泌による時間感覚の遅滞というやつか。死んだぐらいじゃ肉体の経験から人間は逃れられないらしい。
いづるは両膝を屈めて、まるで襲い掛かる山猫のような体勢で、中段に腰を落とした業斗の斜め上から見下ろして来る。気に喰わない。
おまえの悪運もここまでだ。
時が止まっていようが動いていようが回避不能の一撃を、アッパー気味の掌底をいづるの胸へと放つ。絶対に、空中にいるいづるは、あとは落ちるしかないいづるは、なすすべもなく胸を貫かれる。
が、
いづるは再度、空中で跳んだ。いづるがいなくなって初めて業斗の目にはそれが映る。業斗はそれがあったことを思い出す。
壁に刺さった出刃包丁。
ご丁寧に、峰がきちんと上にされている。
背後でざっ、と霜を被った土を踏む音。
完全に、
背中を取られていた。
振り向かなくても脳裏に映る。渾身の捻りを加えて、拙いけれども害意だけは満載した貫手が来る。
喧嘩のご法度は二つある。
背中を見せること。
しゃがみこむこと。
業斗は不良時代に培った無意識に従って、一も二もなく振り返ろうとした。
どうしてそれを途中で止められたのか、最後の最後まで自分でもわからなかった。
振り返らず、向けたままの背に、どんと突き立つ敵の指。
○
反応に賭けた。
そして、不慣れさにも賭けた。
いづるの左貫手が、業斗の背中を貫くことなく、静止している。
こと守銭奴としての経験に置いて、《餓鬼》と《破天公》なら餓鬼にまだ軍配が上がる。それは『ぎゃんぶる宝典』編集部の手によるコラムにもはっきりとそう書かれていたし、地下街をうろつく誰に聞いてもそりゃそうだという返事が戻ってきたはずだ。だが、彼らはきっとそのすぐ後に付け足すだろう。だからなんだ、と。そんなことで引っくり返る差じゃあない、と。
いや違う、といづるは思っていた。そこはちゃんと付け入る隙になる。業斗は実力はどうあれまだ守銭奴ではない。その心はまだ人間らしさを留めている。この、対戦相手を削り潰して自分の時間へ鋳造せしめる地獄の底において、やつはまだその真底を舐めてはいない。自分は舐めた。舐めてきた。
だから、完全に不意を突いて背後を取れば、業斗は必ず振り返るに違いない。防御しようとするはずなのだ。敵に背中を向けたままが、少なくとも正面を向いているよりは安全なのだという守銭奴の基本通念をやつは頭でわかっていても魂にまで刻めてはいない。
そこが隙だ。
自分が相手より上回っている箇所はたとえ針先ほどの差異だろうと利用する。
花村業斗は自分から飛び込んでくることになる。
倒してくださいと言わんばかりに、自分の貫手の目の前に。
そうなるはず、だった。
自分が間違っていたとは思わない。
ただ、いろいろ細かなことが積み重なっただけだ。
そして、
細かいことが、すべてだった。
上下双方からの力強い掌底が、牙よろしくいづるの左腕を噛み千切った。
根元から鉄血を振りまきながら回転する自分の腕をどこか遠く焦点のぼけた瞳が映す。
視線がずれ、迫って来る双掌とその奥にいる少年の熱っぽい双眸。
魔の手が迫る。
(――捌けるかな)
わからなかった。
マントが音もなく外れ落ち、二人の靴に踏み潰される。
バックステップを取っていればいつまでも逃げ切れると思ったら大間違いだ。差があるのなら詰めればいいだけのこと。
相手が下がるよりも速く進めば、ボディはまだそこにある。
業斗はその一歩を踏み込んだ。手を伸ばせば抱き締められるような距離から、横裂きのブローを打ち込む。心臓部を狙わなかったのは残った右腕が逆手に防御していたからで、頭部を見逃してやったのは首を逸らしてかわされるかもしれなかったから。だが面積の大きい胴体はそうそう容易く動かせない。
喰らえ。
躊躇なく打った。
肋骨にめり込む指先に、米俵にでも手を突っ込んだような感触。指が食い込んだところから、さざ波のように魂貨が溢れる。そのまま右手を一閃。
宙を舞う砕けた魂の欠片。
ようやっと勢いのついたバックステップで、いづるの身体が後方へと吹っ飛んでいく。業斗は振り抜いた腕越しにその顔を見た。
あの目だ、と思う。
いま自分が攻撃を受けたことを本当にわかっているのだろうか? まるで塵芥が風に乗って飛んでいくのを見送るように、二の腕から千切れた左腕と、胸に刻まれた赤い金属の傷跡を見下ろしている。そして顔を上げ、水の底にいるかのような気だるい時間の中で、業斗を見てくる、
あの目。
責め立てるような、失望しているような、呆れ返っているような、惜しんでいるかのような、目。
あの目が胸の中の怒りを無性にかき立てる。自分が何か間違ったことをしている気がしてきて、自分の足元をしっかりと支えてくれていたはずのいろんなものが、音もなく崩れ落ちていくような幻覚。
そんなものがあっていいわけもない。
撃ち砕かなくてはならない。欠片ひとつも残さずに。
振り抜いた右腕を引き戻しながら、さらにもう一歩踏み込み、左のストレート。今度は顔面を狙う。いや、それより少し下、首のあたり。首は魂貨の重積率が高くなかなか刎ね飛ばすわけにもいかないが、負傷し残高を減らした今の門倉いづるの首なら落とせるかもしれない。落とせば終いだ、決着だ。
これで決める。
左貫手を放つ。
もしいづるが右(いづるから見て左)に避けたとしても、そのまま横ブローの追い討ちへと変化させる。いや、そもそも右にかわせばブロー云々以前にどこかへ攻撃が当たるだろう。かといって左(いづるから見て右)へかわすには身体が追いついてこない。
貫手がいづるへと迫る。刻一刻とその距離を零へ近づける。
業斗はいづるが逃げると思っていた。回避を取ると思っていた。
違った。
いづるは、その場で足を捻った。くん、と左足首を内側に旋転、身体が沈みこみ、業斗の貫手はいづるの左肩をさらに短くして、流れた。
右から来る攻撃を、右へとかわした。
零距離。
あっと思ったが間に合わない。
いづるの残った右手がほとんど抱き合うような近さから業斗の胸へと打ち込まれた。どよめく観衆、呻く業斗、吐き出される呼気、
だが、
その掌は大して業斗の胸にめり込むこともなく、ほとんど魂貫もできずに、その身体を吹っ飛ばしただけで終わった。それはほとんどもう、いじめられっ子が最後の抵抗に相手を突き飛ばしたようなものだった。まるで力が感じられないその一打に観客は悟った。
門倉いづるには、もうそんな魂も残ってはいないのだと。
そして、花村業斗もそれを悟った。
勝った。
もはや防御する必要さえない。
刀で言うなら、欠けたのだ。刃こぼれしたのだ。斬れなくなったのだ。もう何もできなくなったのだ。
そして自分は、まだまだ闘える。そうとも、こんなところで愚図愚図してはいられない。自分の足元には道があり、その道は遥か遠く、まだまだ先まで続いている。こんなところで木っ葉のような小鬼ごときにてこずらされている暇はない。
交差気味になっていた腕を引き、覆っていた視界を開く。だが、その目が獲物を見つけることはなかった。
正面に照明があった。その光が一瞬、目を焼く。素早く瞬き、
いづるがいない。
咄嗟に左へ首を回す。それが仇となった。内壁まで続く距離のどこにもいづるの姿はなく、屠殺台が散らかった玩具のように点在するだけ。
振り向く。
いた。
ちょうど景品を満載した吊り船の真下にいづるはいた。左腕は再生しておらず、残った右腕を腰の後ろへ回している。斜めに傾いだ身体が重力に沿って倒れこんでいかないように見えるのは業斗の時間がとっくのとうに沸騰しきっていたからだ。
二歩で詰められる距離。
業斗は一歩を踏み出しかける。いづるの右手が制服の裏から戻って来る。ゆっくりと。何か握っている。
紐、紐、紐、紐、麻袋。
ブラックジャック。
息を呑む業斗を目がけて、待ったなしに、
ありったけの魂を詰め込んだブラックジャックが紐の唸りと共に解き放たれた。
仕込みブラックジャックを見た瞬間、業斗の胸に零したインクのように絶望感が広がっていった。まったく予想していなかった。あらかじめブラックジャックを用意して隠し持っていたなんて考えもしていなかった。いや、当たり前だ。考えるわけがない。業斗はここに何も準備しては来なかった。勝って当たり前、むしろ相手が可哀想、ぐらいの気持ちでやってきたのだ。門倉いづるが何を考えているのか、何を思っているのか、何をやろうとしているのか、まったく眼中に入っていなかった。さすがに思う、馬鹿だった。だが、それ以上に、この門倉いづるが特別だった。門倉は、喧嘩慣れしているわけでも、格闘技を下地に敷いた動きをしているわけでもない、だが、こいつは『守銭』を知っている。知り尽くし、もっとも効果的な戦法を取り入れてきている。おそらくは、何人か、味方の知恵も動員して。こいつの動きには洗練さがある。相手(じぶん)を殺しにかかってくる気迫がある。
もし、これが普通の喧嘩だったら、秒殺できる。だが、守銭では無理だ。
こいつは、守銭を知っている。
自分が何をするべきかを知っている。
そして、目的のためにズルをして、ただ勝ちを求め続けた自分には『ノウハウ』が、ない――
それでも、最後の最後に、間に合った。
門倉の投げたブラックジャックは弧を描いて業斗の左側頭部めがけて飛来して来ている。が、ギリギリで、そのガードのために左腕を辛うじて上げることができた。奇跡だった。とてももう一度やれと言われてできるとは思えない。最初で最後の超反応だった。
これさえ防げば、勝ちだ。
これが頭部にでも当たらない限りは、勝ちなのだ。
これさえ、
防げば――!!
ブラックジャックが緩やかな軌道を描いて迫る。だが、軌道は収束するものだ。そのラインは必ず読める。ただ速すぎて気づけないだけ。しかし今の業斗になら、全身全霊を賭して突き進む今の業斗になら見える。足でも腕でも胸でもない。あのぎっしり詰まった凶器の行く末は、自分の左側頭部。他にはない。
もう手を伸ばせばブラックジャックに触れられる、そんな間近でようやっとガードが間に合った。腕を二本交差させて左側頭部を守る。どれほど魂貨を詰めていたとしても腕二本を貫通して頭部まで破壊させられはしない。間に合った。
これさえ凌げば自分の――
だが、
いつまで経っても一撃がやってこない。衝撃に備えて細めていた目を開けた。
交差越しに紐が見える。
紐だけが、
自分の後頭部の方へと――
目の端が、いづるの手の先を捉える。いづるは右手を振り切っていた。
開かれた掌には、二重に絡みついた紐。
もし、今手首を捻れば、絡みついた紐はほどけて、
距離は、
伸びる、
「!」
間に合わない。
凶悪な風切音が聞こえたと思った時にはもう、射程を誤魔化された紐が腕から首筋へと絡みつき弧を描いた軌道が、
衝撃。
右側頭部で魂貨が弾ける。
「………………」
いづるの右手から、解けた縄がはらりと落ちる。
掌には青い痣。瞳には空虚な光。まるで痛みでも堪えているような面構えで、ふらつく敵を見る。
ぐらり、と。
業斗の身体よろめいて、倒れこみ、
踏み出した足が、
身体を支える。
花村業斗は倒れなかった。
一瞬、意識が断ち切れていた。
業斗がハッと自分を取り戻した時にはもう、自分の重ねられた両手を見上げていて、何が起こったのかはとうとう手遅れになるまで気づけなかった。
真っ白い腕。
一度も日に焼けたことのない腕が、自分を守っている。
掌に感じる麻袋の感触は紛れもなく現実で、じゃらじゃらと出の悪い湧き水のように零れ落ちている魂貨がブラックジャックに詰まっていたものだと脊髄のどこかで思う。
――君が、
脳裏にいづるの声が、その脊髄とやらの中を反響する。
――君がズルさえしなければ、彼女には決して手を出さない。
――君が、
――ズルさえ、しなければ。
あれ?
俺、何してんだろ。
これって、確か、やっちゃあいけないことだったよな。
あれ?
俺、本当に、
何、やってんだろ――
何度瞬きをしても、雪のように白いあの子の笑顔が目玉の裏に貼りついて離れてくれない。
自分は、
自分は果たして本当に正しいことをしているのだろうか。本当に、これでよかったのだろうか。何か大事なことを忘れている気がする。何か大切なことを捨ててしまった気がする。
そこまでして、俺は夢を叶えたかったんだろうか。
目を逸らしていた事実が心の隙間から流れ込んで来る。そもそもいまやったことは、果たして初めて犯した罪なのか? いままで勝って喰ってきた連中にだって、自分は同じことをしてきたんじゃないか? ただ目を背けていただけで、俺はとっくに――
――夢も希望もないやつが、おめおめと居残っている方が間違いなのよ。
あの女はそう言った。自分もそうだと思った。でも、そう思いたかっただけじゃないのか? 自分が倒してきた連中に夢も希望もなかったかどうか、どうして俺にわかるんだ? どうしてあの女にわかるんだ? 誰にもそんなことわかりはしないのに。
怖くなる。
何かを踏み台にして、前へ進むということが、初めて指の先まで実感できた。
思えば自分は、
自分で食べたローストチキンの一羽とて、手前で絞め殺して喰ったことなどなかったじゃないか。
ああ――
無理だ。
自分にはできない。何かを犠牲にしてまで前へは進めない。そうまでして進まねばならない『前』とはなんだったのか、もうわからない。思い出せない。どうにもできない。
嫌になる。
どうしていつも、手遅れになってから気づくんだろう。
自分はもう、前へ進んでしまったというのに。
もう、四本腕を晒してしまった。引き返すことはできない。
ああ、どうして。
手に持ったままの麻袋を投げ捨てて、業斗は駆け出した。目に映っているのはただひとり、こちらを見返す守銭奴の影。
あいつのせいだ、とは思わなかった。
本当にいづるがミクニを殺すかどうか、が問題ではなかった。
殺すと言われてなお約束を違えた自分が、業斗にはただ、恐ろしかった。
俺は、
本当に、ここまでして、夢を叶えたかったんだろうか?
本当に、大切なものって、
なんだったんだろう――
その答えを教えて欲しくて。
業斗は走る。
いづるは背後に手を回し、再びブラックジャックを放つ――が、この土壇場で足元の霜に足を滑らせて暴投、ブラックジャックは遥か頭上の吊り船めがけて吹っ飛び去り、観客は声にならない叫びを上げ、業斗の四本の手が救いを求めるようにいづるへと殺到しかけ、そして、
業斗の視界を闇が覆った。
○
いづるは背後に手を回し、二発目のブラックジャックの麻紐を握り締める。
――よちよち歩きの馬鹿を始末するには、呵責を感じる手を打つ時がついにやってきた。
ブラックジャックなどは所詮その一手の前座に過ぎない。ありったけの魂貨が詰め込んでいるとはいえ、ガードを超えて頭部を打ち砕けるわけでもなし、ハナからこんなオモチャに期待などしていない。それでもできることなら先のブラックジャックでケリをつけたかった。呵責を感じるのは、業斗に対してだけではないから。
それでもその瞬間はやってきた。
それならそれで、受けて立つ。
いづるの心はどんどん冷えていく。涙さえ凍るような冷たさだ。心が、自分の明日のために誰かの今日を殺せるにようになっていく。
自分の明日が、こいつの今日より上か下かはどうでもいい。
そんなものに優劣はない。そんなものを誰かが決めるなんて元々できはしないのだ。明日がいいものかどうかはわからない。ただ、今、ここで最後の一手を打った後、俺かこいつの明日が消える。
そして残った方が、明日へ行く。
それだけのこと。
いづるは身体が沈むほど左足を踏み込み、霜で足を滑らせつつも上を向き、最後のブラックジャックを頭上高くに打ち上げた。
外した。
○
四十五枚。
それがいづるが費やした戦術ノートの枚数。
昔の人は言う。勝敗は戦う前にすでに決していると。本当にそうかどうかはともかく、いづるもまた手ぶらで闘技場の土を踏むわけにはいかず、部屋にいる時は大抵ノートに鉛筆を持ってソファに座っているのが常だった。
そもそも足りないと思うのだ。いづるは自分の指先を自分で軽く魂貫して、一枚の魂貨を取り出して見る。このちっぽけな欠片が勝負の趨勢をいつもその数で決めている。自分が相手より多いか少ないか、まるで天秤にかけられる重石になった気がする。
果たして、自分よりも確実に『重い』相手をひっくり返すことができるのだろうか。
無論、やり方次第と言うは容易い。確かに戦局次第では小は大を殺す。その前提があるからこそ、いづるとて鉛筆片手にごしごし心に浮かんだ案を紙切れに書きとめているのだ。
だが、それでもなのだ。
人質を取り、四本腕を封じ、迷彩マントを羽織って仕込んだブラックジャックを背に隠し持ち、放ったブラックジャックを相手がガードをあげたと同時に紐を緩めて射程を伸ばし後方からの奇襲へ変化させる。
それで足りるかもしれない。花村業斗に届くかもしれない。正確なことは実際にやってみなければわからない。ひょっとしたら、ブラックジャックを頭部に当てただけで、あるいはもっと早くにこの右手で相手の胸か頭を貫けるかもしれない。
でも、いづるは思う。
足りない。
あと一手、用意できなければ、おそらくきっと勝てないままだ。
勝つには、『勝てない』という前提をぶち壊さなければならない。
「死にそうな顔をしているぞ、門倉」
と、見えてもいないくせに蟻塚が言う。
蟻塚は、他人のベッドの上に断りもなく腹ばいになって、目の前で眠っている電介を眺めている。あの堂々とした狼藉以降、どこかへひとりで姿を消すことが多くなったキャス子のせいで蟻塚は自分の役目を失いフラフラとしていたが、結局は唯一の知り合いと言ってもいいいづるの部屋に入り浸っていた。べつに部屋に居つくのはいいが、ことあるごとに電介を持ち逃げしようとするのだけはやめてほしいといづるは思う。その時もよせばいいのに寝ている電介から放たれている放電の間隙を縫って寝背中をなでようと虎視眈々狙いをつけていた。懲りないやつである。
いづるはため息をつき、
「そりゃあ死にそうな顔にもなるよ。どうにも負け戦が濃厚だ。雑誌にも書いてあったけど、僕とやつの残高は百か二百の差があると思う」
蟻塚は一瞬、仮面をこちらに向け、
「そんなにか」
百と二百ではかなり話が違ってくる。一般に、自分より二倍の額を抱え込んでいるやつと揉め事を起こしたら背中を見せて逃げ出すべきで、一・七倍で一太刀返してすぐ逃げるのがせいぜい、一・五倍で悪戦苦闘の果てに勝つか負けるか、と言われている。
最悪、戦況次第で魂貫が不能になるほどの差が出る可能性がある。そうしたらお手上げだ。素手の勝負で素手じゃ勝てなくなる。
あと一手、あればそれで満足する。
だが、その一手が思いつかない。
四十四枚の試行錯誤の果てに花村業斗を相手にしてノーダメージ・ノックアウトができないという結論に達した以上、それが正しかろうが正しくなかろうが、あと一手が必要なのだ。何か案はないものかと思う。いづるは仮面の向こうに垣間見る。円形の闘技場のど真ん中で、ふらふらになりながらも、倒れることなく二本の足で立っている敵の姿を。そして打つ手をなくして立ちすくむ自分の影を。どうにもそれが現実になる気がしてならない。
だから、あと一手。
それだけでいい。
キャス子は怒るかもしれないが、これが生涯死涯合わせて最後の博打になる覚悟はできていた。そうするだけの価値は、この闘いにはあるのだと思う。
だから、あと一手でいい。なのに頭はふわふわと空転するばかりで、むしろ気合を入れれば入れるほど大切なものが零れ落ちていくような錯覚。ボケの毒が回る心地とはこういう気分なのかもしれない。
押し黙ったいづるに、蟻塚は肩をすくめてみせる。
「そう焦るな。好機は寝て待て」
「そんな時間ないよ」
「知っている。だが、私はそれほど心配してはいない」
「どうして?」
「これまでの三ヶ月でわかったことがあるからな」
蟻塚は身体を起こし、とうとう寝ている電介を抱き上げてあぐらをかいた自分の股座の中に鎮座させるという暴挙に出た。一瞬寝ぼけた電介は焦点の合わない目で虚空を見つめ哲学家のような面を晒していたが、自分がどんな屈辱的姿勢をとらされているかに思い至ると激烈に抵抗し、
「フシャ―――――――!!」
だが蟻塚は気にせずに電介を抑えこみ、話を続ける。
「門倉、おまえはちょっと真面目すぎる」
いったい誰が言ったのかと思った。
「……は? いや、そんな、どこが? 僕はこれでも性格が悪いんで有名だったんだ」
「ああ、そうだろうな」
無駄だと知りつつも蟻塚は自分の指からひねり出した魂貨を電介の口元に寄せる。電介は嫌々をしているが腹が減っているのか電撃のキレが悪く拘束からなかなか逃れられない。
「それでも門倉、おまえは真面目だ。キがつくほどにな。おまえは勝つたびに辛そうな顔をしている。通りをゆくあやかしから小遣い銭しか入っていないがま口財布を掏り取るたびに苦虫を噛んだような顔をしている」
「ちょっと待ってよ。だからなんでヅッくんに僕の顔が見えるのさ。冗談も大概にしてくれよ、僕だってたまには怒る」
「三ヶ月もお嬢様の周りをウロウロされたら嫌でもわかってくることぐらいある。門倉、おまえはそろそろ悟った方がいい」
「何を」
「おまえがおまえだと言うことをだ」
仮面をつけていてこれほど助かったと思ったことはない。
いづるは声が震えないようにするのに必死だった。
「……君に何がわかる? 普通に生きてきた君に?」
「さあな。私もなんでこんなことを言っているのか自分でもようわからん。だが門倉、いい加減少しは自分を許してやったらどうだ。何をしたのか知らないが、おまえは充分に償いはしたと私は思う」
いいじゃないか、と蟻塚は続けた。
「人非人でも、おまえはおまえだろう?」
その時、バチリと音がして、蟻塚の人差し指の先が吹っ飛んだ。その一瞬の隙を突いて電介はベッドから飛び降り、ドアも開けずにそれこそ稲妻のような速度で霊安室から出て行った。蟻塚は先を失った自分の指を見て、
「やりすぎてしまった。申し訳ないことをした。彼に謝っておいてくれ」
「ヅっくん……」
蟻塚は電介の後を追うように、霊安室の扉に手をかけ、半面だけ振り向いた。
「それとな、門倉。そんな変なあだ名を無理やりつけなくとも、私とておまえのことを友人ぐらいにはとっくのとうに思っている」
返す言葉がなかった。
一人になって、置物のようにソファに身を埋めながら、いづるは見るともなしに、蟻塚が落としていった指先が魂化していくのを眺めていた。
人非人でもいい? おまえはおまえ?
馬鹿じゃないのかと思う。
人非人でいていいはずがない。人でなしはいてはいけないのだ。人の気持ちがわからずに、彷徨うだけの狂人はいない方がいいのだ。いても誰かを傷つけるだけで、自分の孤独を嵩に着て、自分と同じ気持ちを味わえとばかりに不幸の種子をあたり一面にばら撒くのがオチなのだ。
だから、そう思ったから、ここまで頑張ってきたのだ。
僕の気持ちは変わらない、といづるは思う。
飛縁魔を取り戻し、人非人たる自分が撒いたあらゆる不幸の苗を根こそぎ葬り去って、今度こそ消えるのだ。
何もかもを無かったことにはしてやれない。それが本当に申し訳ないと思う。それでも、逃げ出すわけにはいかず、忘れるわけにもいかず、闘い続けるしかない。
彼女のために、あとほんの少しだけ、自分は人非人であり続ける。
彼女のために。
彼女を取り戻すためには、勝つしか――
「おまえは、真面目すぎる、か」
いづるは髪に指を差し込んで、ふっと笑い、
「言われたことあったっけ、そんなこと……」
部長が聞いたら笑い出すだろうな、と思い、さっきまで蟻塚がいた空間を見つめ、そしていづるの脳裏に閃光が突如ほとばしった。それまで考えていたことが一発でどこかへ消し飛んだ。
立ち上がり、卓をぐるっと回って、ベッドに近づく。しゃがみこんで、蟻塚が落としていった指先を拾い上げた。指先はもうとっくに魂化し終えていて、ただの歪んだ小銭の塔になっていた。
いづるはその小さな、風変わりなチェスの駒のようなそれを引き剥がそうとして、失敗した。再度挑戦して、やっと塔は二つに別れた。
磁石のように。
悟る。
そう、問題は最初から距離だった。
彼女と自分を隔てるのは常に距離だった。
それを殺してやればいい。ことは簡単だった。が、あまりに単純すぎて、なかなか考えつかないことでもあった。
おまえは真面目すぎる。
まさにそうだった。懸かっているものが飛縁魔でなければ、もっと早くにそうしようと決断していたはずだった。
問題は距離。
地上からは、吊り船を吊る鎖はあまりに遠すぎた。少なくともいづるはブラックジャックでそれを撃ち抜く自信はなかった。練習する時間も、する距離を作るスペースも足りなかった。だったら補助してもらえばいい。
電介が自分に懐いていてくれて本当によかったと思う。自分に都合がいいからじゃない。これで彼女を救えるからだ。
門倉いづるを救えるものは、残念ながらどこにもいない。
門倉いづるは、死んでいるから。
だが、あの子はまだ生きている。
それだけのことだ。
だから、
魂貨をたらふく喰わせて元気いっぱい、空気中に溢れんばかりに放電している電介が寄り添う吊り船の鎖めがけて、いづるは二発目のブラックジャックを撃ち放った。
当たらなくてもいい、磁界に引っかかるだけでいい。業斗が迫って来る。予想より足腰がしっかりしていて速度が速い、間に合うか、間に合わないか、この期に及んで口に笑みが浮かんでしまう自分の性根が心底憎い、
ガラスが割れるような音。
傾いた吊り船から景品が転がり落ちてくる。
壷だの甕だの鎧や槍なにかの機械、人間の魂を千人分貢いだって足りない宝物が降って来る、だがそれのどれもこれもが今はガラクタだ、今この時、決着の瞬間において重要なことは落ちてくるものが『何』かだ。
業斗が四本腕をたわめる。その顔は怒りというよりも戸惑いと恐怖、何よりも後悔で満ちていた。
優しいやつだな、といづるは思う。
業斗は友達よりも自分の夢を選んだことを心底悔いている。悔いながらも、止められず、結局できたのは飾り気も糞もない真正面からの突撃だ。突撃、それが花村業斗の最後の一手だった。
周りが見えていない。
業斗はその時、視力や視界はともかくまぎれもなく目盲(めくら)だった。
吊り船から落ちてきた黄金の甕(かめ)が、曲芸的な回転の果てに業斗の首をスポンと飲み込んだ。どうせめくらならそのまま突き進めばいいものを、ことここに至ってロクに機能していなかった視界が闇に包まれて業斗は怯んだ。急制動をかけてその場に立ち止まったのだ。
構わず前へ突き進み、その掌からなる四撃をいづるが立っているところへ解き放っていれば、業斗は勝っていた。勝ち、魔王(わからずや)の称号と栄光を手土産に土御門家の門を潜れていたはずだ。その果てにあったのが、馬鹿のひとつ覚えの拒絶にしろ、手の平返しの歓迎にしろ、業斗はその門を潜ることまではできたはずだ。
業斗はそれを逃した。
最後の好機が訪れた。
いづるは、頭上を見上げ、最後のバックステップで距離を取る。
とすっ。
一振りの刀が霜の下りた地面に軽く刺さった。朱塗りの鞘に蓮をあしらった柄、柄巻の鮫革は馬鹿のひとつ覚えに練習を繰り返したであろう持ち主によって擦り切れていた。
鬼切りの虚丸。
鬼を切れるなら、死人を切っても差し支えなかろう。
勝った。
まるでおまえが抜けとばかりにいづるの目の前に突き立った虚丸の柄をいづるは右手で握り、左手で刀を収めた鞘を、
左手?
首を左に向ける。
そこには虚空があるだけだった。
左手をあがなう魂(かね)は、とっくのとうに使い果たし切っていた。
鞘を抜くことが、できない。
この期に、
この期に及んで、口に笑みを浮かべてしまう自分の性根が心底憎い。
視界の端で、業斗が甕を顔から外して投げ捨てるのが見える。
時間はない。
距離もない。
あの腕のうち一本が右腕を押さえつければ、残った三本が自分の頭へと殺到する。
鞘を、
鞘を抜かなければ、
抜くんだ、鞘を、
鞘、
(母さん)
(母さん、あのさ、僕は母さんの仕事は天職だと思うな。そう、向いてると思う。なぜかっていうとね――え?)
(にんぴにん?)
すべてを決する一瞬間、
いづるは、右手に握った刀を自分の胸へとまっすぐに突き刺した。
瞬間、あらゆる神経の先々端まで燃え盛る光のような痛みが何もかもを焼き尽くして走り抜ける。激痛なんて言葉では言い表せない、笑ってしまいそうになるようなそれはもはや衝撃だった。意識なんてものはもうほとんど残っていなかったが、それでもなけなしの力をかき集めて、いづるは業斗を見る。
目が合う。
所詮、逃げることはできない。
どうすることもできない。
気に喰わないことがあろうと黙って受け入れるしかない。
それができないなら徹底抗戦で、
それが許せないなら最終戦争で、
そうしてお前が僕の前までやってきたというのなら、
そうしてお前が現実からどこまでも逃げ続けるというのなら、
この僕が、お前と夢との最後の門だ。
超えていきたければ超えていけばいい。
お前が夢見た嘘が、僕の向こうにはあるんだろう。
それでも逃げ出すことはできない。振り切ることはできない。
『死』からは。
もはや斬るも突くも間に合わず、
右手にやけにひっかかる鮫革の感触だけを頼りに、身体に埋まった鞘から白刃を走らせ、そのまま柄頭を掌底で押し付けるようにして虚丸を投げ放った。これで駄目なら笑って死ねる。顔を打つ無遠慮な照明が祝福のように感じる。何も見えない。何もわからない。
「――――に」
耳元で囁く声がして、いづるは閉じかけていた目を開けた。霞んでいた視界が焦点を結ぶ。
胸に根元まで刀を刺した業斗が、目の前に立っていた。二本の右手がいづるの腹部と胸部の手前で稼動限界を迎えたように止まっている。左腕は二本とも下からの掌底を打ち上げる途中で、やはりガス欠を起こしたように停止したまま。
勝負はついていた。
お互いに、わかっていた。
業斗は焦点の合わない目で、いづるにというよりも、その向こうにある照明に向かって喋った。
「ミク……ニに……。ごめん……って……言っ……てくれ……」
「うん」
「――――あ、れ?」
業斗はゆっくりと足元から崩れ落ちていく。
「俺、どこに行こうとしてたんだっけ――」
「もう、どこにも行かなくていいんだよ」
ああ、そっか。
子どもみたいに笑って、業斗は目を閉じた。
次の瞬間、その身体が内側から吹っ飛び、赤い土石流と化した魂貨がいづるを呑み込んだ。気の狂いそうな騒音の中、赤い流れに弄ばれながらも、いづるは右手を伸ばした。もう失くすのはごめんだ。三ヶ月以上かかった。もう一度やれと言われてもごめんこうむる。切った張ったで言えば自分は張る側の人間で、こんな跳んだり跳ねたりする博打は――絶対、君の方が向いている。
いづるは持ち主の馬鹿正直さが伝わってきそうな鮫革の柄巻を赤い闇の中からもぎ取った。
今度は離さなかった。
誰もいない。
闘技場をぐるりと囲んだ客席に寄り集まっていたはずの黒ローブたちはひとり残らずどこかへと去ってしまっていた。囁き声ひとつしない。物売りが売り歩いたパンを包んでいた紙袋も凍ったように動かず、赤い魂貨の山へのスポットライトと化した照明の光は、時間が流れ出そうとするのをせき止めているかに思える。
勝負は終わった。
いづるは勝った。
耳を澄ませば、どこか遠くから、震えに似たざわめきが聞こえてくるような気もするが、それは五時の鐘が鳴ってまた明日と別れた友達の声がいつまでも耳に残響するのに似すぎていて現実なのか夢幻なのか判断がつかない。
誰もいない客席。
だが、二人はそこにいた。
ドリンク屋は手すりに肘を乗せて、眼下の光景をぼんやりと眺めていた。いつもは貼り付けたようなお追従笑いを浮かべている口元が今度ばかりは引き締められ、仮面にペイントされた泣き笑いの顔も今日ばかりは本当に泣いているようにしか見えなかった。それでもドリンク屋の心までが泣いていたかといえば決して違う。
どうやら自分は負けたらしい。
アテが外れた。ツイてなかった。言葉はいくらだってあるが、結局どう言い繕おうが負けたのだ。だが自分は何に負けたのだろう。ドリンク屋は博打で強い弱いを言い出す馬鹿が死ぬ前から嫌いだった。博打の胴元をやれば誰もが気づく。所詮博打の強弱など幻想だと。もちろんゲームの習熟度に差は出て来るが、そんなものは理不尽なまでの横殴りの暴運の前になすすべもなく潰されるばかりで、かえってにわかかじりの似非博徒の方が素人衆にカモにされるなんていうのは昔からさして珍しいことではなかった。そして一時の勝ちを拾ったとうしろう連中だって海千山千の外道どもの中でしのいでいけるわけもなく手持ちのあぶく銭を溶かし切ったやつから消えていき、そうして残った連中とて金持ちになったわけでもなく、賭場から離れられないのも他の生き方をろくすっぽ知らないからだけに過ぎない。博打に強いも弱いもない。手を出したやつはひとり残らずいつか負けて終わるのだ。だから、自分は負けたが、そのことで誰かに恥じ入るつもりは毛頭ない。
ただ、思うだけだ。
そんなのありかよ、と。
ドリンク屋は半分残った仮面と意地を手すりにごん、と打ちつけた。
「お嬢、どうやらあっしの負けのようです」
「みたいだね」
キャス子はいづるの仮面をポイ、と魂貨の山へ投げ捨てた。持ち主は魂貨の山からポン刀一本握った腕を晒して、残りは完全に埋まっていて誰かに助けを求めているのだろうが、いまのところキャス子は助けにいく気がないらしい。
ドリンク屋は隣で同じように下を見下ろしているキャス子を見やり、首を振った。
「いやはや、参りました。ええ、降参ですとも。門倉兄ィは確かに強い。あっしが思っていた以上に、そしてあっしが思っていたよりもずっと異常に。勝って手に入る話のものを勝負中に分捕るなんて、博打がどうのというよりも、往生際が悪すぎます」
「あれが愛の力……ってやつだよ」
ひとりウンウン頷いているキャス子をドリンク屋は無視しようかと思ったが、
「……愛?」
「そう、愛よ愛。おかしい?」
「おかしかないですが――」
「あいつはね、とんでもない天邪鬼の癖して妖怪の女の子を好きになっちゃって、その子を助けたいってあんな頑張ってんの。笑いたきゃ笑えばいいよ。でもね、あいつ見てると、結構そういうのも本当は悪くないのかなって気がしてくんの。そんでもって、あたしもそういうの悪くないのかなって思い始めてんの。おわかり?」
わからなかった。
だが、ストンと何かが腑に落ちた。
そういうものかもしれない。
結局、理屈ではないのだ。
理屈で割り切れないものがあるから、自分だって今、こうしているんじゃないのか。
オール・イン。
博打じゃないとでも思ったか。
自分の間抜けさがつくづく笑えて来る。
ドリンク屋は、ぐずぐずと魂貨のかたまりへと変わっていく自分の掌を見つめた。
言おうか言わずにおくか迷ったが、言った。
「お嬢、あっしはね、自分で何かに賭けたことはこれまで一度もなかったんですよ」
「へえ――? じゃあ、どうして」
「どうしてですかね。別に困っていたわけじゃないんですよ。悠々としていたわけじゃ無論ありはしませんが、それでも今すぐお嬢や兄ィをどうこうして稼がなきゃならないほどじゃあなかった。馬鹿なことをしたもんです」
「馬鹿なこと。それがわかったんなら君も立派な博徒の仲間入りができたってわけだね。おめでとう!」
「どうもありがとうございますですよ、まったく。ああ、博打なんぞをやるような負け組にだけはなるまいと思っていたのにね。ずっとバランスを取って暮らしてきたのが、ひょんなことからこのざまだ。ツイてないや」
ふと、ドリンク屋はキャス子が仮面を外して、にやにやした素顔を晒していることに気がついた。
「なんです」
「いや、ツイてないだのこのざまだの言ってるわりには、どうして笑ってるのかと思ってさ」
笑ってる?
俺が?
ドリンク屋は口元に手をやった。掌に感じるシワは、確かに笑っているように歪んでいた。
「笑っていますね、確かに――」
「笑っているよ、確かに――」とキャス子も返す。
ドリンク屋はふふんと笑って、
「俺はね、結局羨ましかったんだと思いますよ。今までたくさん人間を見てきたが、生きていても死んでいても、あんたたちほど馬鹿馬鹿しいやつらはいなかった。俺は確かに、博打の胴元をやって、控除率の数字に守られて喰ってきた男です。数字の上下で生きてきた男です。だが、やっぱり、あんたたちと同じ側に座って、自分の流儀で何かを賭けて、生きてみてえと思わないほど乾いていたわけじゃなかったらしい」
俺は、とドリンク屋は、きらきらと闘技場の中央で輝く一振りの刀を見つめて、言った。
「あれほど何かを欲しいと思ったことがありません。だが、あの時、俺が賭けた馬があんたの馬に負ける瞬間、思いました。思わされましたよ。負けるな! ――って。がんばれ! ――って。誰かをあんなに応援したのは生まれて初めてです。たとえそれが自分の保身のためでも、ね」
ドリンク屋はよっと手すりに尻を乗せて、キャス子を見下ろした。キャス子は帽子のつばを上げて、まっすぐに見つめ返して、言った。
「楽しい宵だったね、名前も知らない誰かさん」
「ええ」
ドリンク屋はウンウン頷いて、ゆっくりと空中に倒れこんでいく。
「楽しい宵でしたよ。ほんとに楽しい、いい宵だった」
ドリンク屋の姿が消える。すでに積もっていた魂貨の上に、また新たに赤金がぶちまけられるいい音がしたが、その反響もすぐに消えて、静かになった。
キャス子はしばらくそのままそこにいた。が、背後から慌しく足音が迫ってきて、振り返ると蟻塚が背を丸くして立っていた。
「お嬢様、申し訳ありません」
「何が?」
「取り逃がしました――」
「取り逃がしたって、誰を?」
「雪女郎をです。申し訳ありません、隈なく探したのですが見つからず――」
「ふうん」
「ふうんて。お嬢様、門倉が負けてなんとも思わないのですか?」
「勝ったよ」
「へ?」
「門倉が勝ったって。それに、雪女郎もここにはいなかった。いたら人質にならないし……まァ業斗は最後に四本腕を使ったけど」
「それは、ええと、どういうことになるんでしょうか――」
「わかんない。けど、いなかったってことは、何か用事があったんでしょ」
「たとえば、誰かと会っていたとか?」
「もしそうなら」
キャス子は頬を手すりに頬をつけて、言った。
「問題は誰が、ってことだよね」
答えは見えなかった。
荷造りは必要なかった。
虚丸以外の景品はすべて換魂してしまい、必要なものなんて他に何も思いつかず、どれもこれもが手に余るようにしか思えなかった。
ほとんどキャス子が持ち込んだ家具に囲まれながら、いづるは空虚な気持ちでテーブルの上の刀の鞘をさっと撫でた。膝では電介がねぎらうように掌をなめてくる。あまりに熱心になめてくるのでいつか喰われるんじゃないかとさえ思う。
キャス子と蟻塚には黙って行くことにした。
なぜと言われても上手く答えられない。ただそうした方がいいという漠然とした、しかし断固とした予感だけがあって、そうすることに迷いはなかった。
たったひとつ残った景品を無造作に掴んで、勝手知ったる自分の棺同然だった部屋を一瞥もせずに出た。通りには人気も妖気もなく、どこか遠くで耳鳴りのような歓声が、この地下に住む彼らが新しいオモチャを見つけて熱狂していることをいづるに伝えて来る。昨日のチャンプも引退したらそれでおさらばだ。彼らが求めているのは永久に闘い続ける存在であり、それはきっと自分ではない。
ガッ。
そんなことを考えているからぬかったのだろう、足元を綺麗に払われ、いづるはものの見事に顔から床に突っ込んだ。そのつむじにニヤけたいつもの声が降る。
「やあやあやあ! いったい君は何をしてるのかな?」
「……。キャス子。仮面が割れたらどうするんだ?」
「んー」とキャス子は片手で自分の仮面を剥がし、
「割れればいいんじゃない?」
ひれ伏したいづるの顎を靴の爪先で持ち上げるキャス子。この女いつかしばくといづるは心に固く誓う。そばで肩を震わせて笑いを堪えている黒執事も同罪だ。
「君ら、こんなところで何してるんだ? 僕の代わりを探しにいかなくていいのか?」
「ああ、プロモーター稼業ならもうやめた。たっぷり稼いだし、ちょっと休暇でも取ろうと思って」
「休暇? どこで」
「あんたが行く場所で」
即答。
いづるは蟻塚に救いを求めたが、黙って首を振られるばかり。
「いいか、この際はっきり言うけど、僕は君が――」
「君が?」
キャス子は言えるものなら言ってみろとばかりに顎をしゃくる。いづるもいくらかムキになって、
「好きじゃ、ない」
「気のせいだよ」
「うんそうだね気のせい――うえぇ?」
情け容赦なくいづるの背中を何度もぶっ叩いて、キャス子はその首に腕を絡めた。
「まァまァまァ。もうめんどくさい流れはよそーよ門倉。どうせあたしは諦めないし、あんたはあたしを止められない」
そうはっきり言われてしまうとそんな気がしてくるから不思議だ。
「それにホラ、前向きに考えればいいじゃん? あたしも蟻塚もあんたが魂を貸せって言ったらいつでも貸してあげるよ。地上に戻ったらまた三度のご飯よりも大好きなギャンブル三昧に洒落込むんでしょ? その時にあたしらがいたら重宝しますぜ旦那」
「お生憎様、そんなこと言いませんよ。この刀を人手に任せたら綺麗さっぱりに消えてやるんだ。もうクタクタだもんな、僕だって安らかに眠りたい時ぐらいある」
「はいはい」
割と大切なことを口走った気がするのだが、あっさり流されていづるはズルズルとキャス子に引きずられていく。蟻塚がとうとう笑い出して、すぐに笑い声は三人分になり、暗い路道にいつまでも木霊していた。
そのまま誰にも会わずに、三人は闘技場を出た。試合場を、ではなく、建物自体からだ。鬱蒼とした城壁の上に出ると夜明け前のような冷たく澄んだ空気が満ちていた。
「はあ。やっと出られた」
「ご苦労さん。長かった? それとも一瞬だった?」
「さあ、どっちかな。少なくとも自分を騙したやつと出る時も一緒だとは思ってなかったよ」
「えっ! 騙したって誰が……ねぇ蟻塚知ってる?」
「さて。どうせまた門倉の被害妄想でしょう。もはや夢も現もわからないようですね」
「まあ! なんてこと……ただでさえホイホイ知らない人についていっちゃうばかなのに……」
「……。もういいよ……これからまた上まで歩いていかなくちゃいけないんだ、無駄話なんかしてたら日が暮れるよ」
「上まで?」
仮面を被り直したキャス子が素っ頓狂な声を出した。
「なんで歩いていかなきゃいけないわけ?」
「え、だって……」
と、地上へと続いている遥かな城壁を振り返ったいづるの目の前に一台のバスが停車した。とっとと乗り込んでしまうキャス子と蟻塚をいづるは呆然と見上げる。
「バスなんて出てたの……?」
「うん、この城壁の上はね。でも行きは出くわさなかったねー。あんたってほんと変にタイミング悪いンだなァ」
「門倉、おまえはラッキーなのかそれとも悲惨なのか、一体全体どっちなんだ? はっきりしろ」
「僕が知るか」
「はいはい、さっさと乗っちゃって。ほら乗車賃は五百炎だよ」
高っ、と叫びかけて、青っ白い顔をした運転手にぎろりと睨まれたので、いづるはぺこぺこしながら大人しく魂を払う。他の乗客はおらず、三人は一番後ろの座席に陣取った。バスが緩やかな重力を孕みながら発進する。
「時に門倉」顔はキャス子の膝に乗った電介に向けたまま蟻塚が言う。
「おまえ、天魔王会の賞品はどうしたんだ?」
「売った」
「売った? 売ったって、全部か? 馬鹿な、あれはただの骨董品じゃないんだぞ」
そうそう、とキャス子が電介の喉を撫でながら相槌を打つ。
「四次元に通じてる壷とか、好きな顔になれるお面とか、狙った目が絶対出せるサイコロとかあったでしょ? それ全部売っちゃったの?」
「うん。だっていらないし。これさえあればいいから」
いづるは肩にもたれさせた刀にコツンとこめかみを当てて、
「他のは全部、僕には使い道が思いつかないから、言い値で河童のおっさんに売ってやった」
「河童!? ……ちょっと待ってなんか嫌な予感してきた。あんたそれで諸々をいくらで売り飛ばしたの? キャス子お姉さんに教えなさい」
「三万二千炎」
「……。わんもあぷりーず」
「三万にせ」
「千の位なんぞどうでもいいわあ――――いっ!!」
キャス子が吼えた。
「さ、三万!? 三万!! あんたバッカじゃないのあれ全部合わせたら一千万近くは絶対なにがなんでもいくはずよだってあたしが勝った時に売っ払ったらそんぐらいいったもん! それが! それがぁ!! さささささんまさんま」
ずるずると尻から床に崩れ落ちていくキャス子を慌てて蟻塚が引っ張り上げた。
「ああ、お嬢様、しっかり!」
「だって蟻塚。一千万あったらね、三年はあの世に留まっていられるよなって、キャス美思うの」
「へえー。じゃあ一年留まるには三百万ちょい稼げばいいのか。なんだか普通に生きていくのと似たような感じだねぐえー」
余裕ぶったいづるの態度がキャス子の導火線を完全に消し炭にした。胸倉を掴んで鼓膜があったら破りかねない勢いで、
「あんたほんっとに馬鹿じゃん!? 一体全体なに考えてんのよ! ああもう、こんなことだったら最初からあたしが全部管理するって手はずにしておけばよかった……手数料だけでもあたしは二年は稼げたのに……」
「管理するだけで三分の二も持って行くのか? それはちょっと……」
「何がちょっとよこのどアホ!!」
その一喝の風圧で、いづるの仮面が吹っ飛んだ。
「一千万のお宝を三万で売り払ったのはどこのどいつよ! 河童!? 河童ですって!? あははあは蟻塚ー河童だってーかっぱかっぱあははははははははははは」
「なんとかしろ門倉。お嬢様がぶっ壊れた」と蟻塚が顔を上げるといづるは膝を抱えて震えていた。それにしてもすごい絵面である。
「女の子ってこわい。こわいものきらい。……なあ、電介、おまえもそう思うだろ?」
「なお」
すっかり怯えていづるの陰に隠れていた電介が、錯乱するキャス子をムッと睨んだ。相棒が頼んで来るなら仕方がないとばかりに鼻を一発すんすん鳴らし、次の瞬間、目も眩まんばかりの電撃が笑い狂ったキャス子を襲った。
「あはははあはあはははははははウギャーッ!!」
ものすごい絶叫を最後にキャス子は黒こげになり、ぷすぷすと黒煙をくゆらせて、そのまま座席の下に消えていった。今度は蟻塚は拾い上げようとせずに、両前足で顔を洗い始めた電介のたたずまいをじっと見つめることに忙しい。
「よし、危機は去った」
いづるはひとり呟き、汗ばんだ額を拭った。せっかくバスに乗っているのだから、のんびり景色でも眺める時間ぐらい欲しいというもの。外は暗かったが、青白く光る葉を茂らせた奇妙な木々のおかげで夜明け前ぐらいには周囲が見渡せた。バスは両側を雑木林に挟まれて結構な速度で走っていた。だから彼女とすれ違ったのはほんの一瞬のことだったが、いづるははっきりとそれを見た。
青味がかった銀髪。
真っ白な着物。
結晶のような透明なまなざし。
(ミクニ……)
いつも傍にいた幽霊を失った妖怪は、一回りも縮んでしまったようで。
とても声をかけられるような時間はなかった。ただ、確かに目は合った。それで何かが伝わったかどうか、いづるにはわからない。床に落ちていた自分の仮面を拾って被り直し、呟く。
「キャス子」
キャス子はごろりと床で寝返りを打って、仮面を外した。じろりと睨む。
「何よ」
「何かを好きになるのって、怖いね」
「……どうして?」
「好きになることは、みんないいことだって言う。でも本当はそんなに綺麗なことじゃないんだ。執着してしまえばその途端、目端は利かなくなるし耳だって遠くなる。好きだなんて思わない方が誰にとっても平和だし穏便なんだ。でも、それはあまりに寂しい。どうしてもそこにひとりきりではいられない。あいつらだけじゃない。僕もだ。僕でさえも、ただひとりではいられなかった……」
「門倉……」
「博打はいい。金がそれを代理してくれる。一番簡単なやり方で決済がつく。破産したら死ねばいい。すべてがそれで済むなら、どんなにラクだったかと思うよ」
キャス子から答えは来なかった。
○
途中でバスを降り、梯子や階段を昇降し続けてとうとう無視していた飽きが回ってきた頃に外に出た。
真っ赤な町は、あいも変わらずにそこにあり、残影のような黒い切れ目が、通りを揺らぐように歩いていく。
あの世横丁。
あれから、もう何千年も経ったような気がする。
右手に握る刀の柄を強く強く握り締める。
帰って来た。
帰って来たんだ。
感極まっているところを、どかっとキャス子に後ろから蹴られる。
「何ぼさっとしてんの、とりあえずどっか行こうよ。蟻塚、近くに何か軽く食べられる場所ある?」
蟻塚はソムリエのごとく周囲を吟味してから言った。
「どくろ亭でしょうな。阿呆が多くてお嬢様がたむろするには似つかわしくありませんが」
「あ、でも僕、たぶん指名手配中なんだけど……」
「だあいじょうぶだって。どうせみんなあんたのことなんか忘れてるよ! さ、いこいこ」
だが、キャス子が腕を引っ張っても、いづるは動かなかった。その顔は通りの一点に向けられたまま。
「あいつ……」
「どしたの――あっ!」
キャス子の手を振り払って、いづるは走った。そしてひとつの人影に駆け寄ると物も言わずにその横顔に拳を一発叩き込んだ。
「ぶうぇあ!」
人影がどう、と地面に倒れこんで土煙を巻き上げる。だがその人影も負けてはいない、よろけながら立ち上がるとまだ晴れ切ってもいない煙幕の中から手馴れた一発をいづるの横っ面に返した。
「げふぁ!」
「てんめえ、いきなり何すんだ! この俺を誰だと――」
「知、ってるよ。僕はただ届けものを届けただけだ」
ずれた仮面を顔にはめ込み直しながら、いづるは立ち上がり、人影に向かって言った。
「久しぶり、みっちゃん」
呼ばれて。
土御門光明は、包帯を巻かれた顔を怪訝そうに歪めた。
「門倉? おまえなんで――」とその目がいづるの背後にいる二人に向けられるやいなや、カッと見開かれた。
「あ、あ、あ」
キャス子を震える指先で指し示し、光明は叫ぶ。
「アンナちゃん!?」
○
そのまま一行はどくろ亭にぞろぞろと雪崩れ込み、いい感じに酔いの回っていた狼男と年増の赤頭巾たちを路頭に蹴りだして場所を作り、積もる話を重ねに重ねた。紙島詩織による門倉いづるの指名手配はもう警戒を解かれていることをいづるが聞いた時に酒を注文していたキャス子は、いづるが光明に彼の弟の話をし終える頃には泥酔しきって蟻塚の膝の上で完全にぶっ潰れていた。
キャス子の手に握られて揺れる酒瓶を複雑そうに見ながら、光明は呟く。
「土御門業斗、ね……」
「会ったことは?」
「あるよ。一回だけな。俺んちまで来て、弟子にしてくれって頼み込んできた」
その時のことを思い出しているのか、光明はすうっと目を細めた。
「熱心だったけどさ、なりたいってものがものだったし、すっぱり諦めさせた方がいいだろうと思って結構キツく言ったんだよな。陰陽師ってさ、修行でどうにかできるもんじゃねえんだ。ガキの頃からどこもかしこも幽霊だらけってぐらいに見えてなきゃ、とてもこんなあの世まで生身で来れやしねえんだよ」
「……だろうね」
「それが……」
光明は深々とため息をついた。
「それが、そうか、幽霊になって守銭奴に……。やつは自殺だったのか?」
「いや、聞いた話だと殺されたらしい。なかば事故みたいな感じだったって話だけど、詳しくはちょっと」
「まあ、自殺じゃないならよかった。もしそうなら俺が殺したみたいで後味悪いぜ」
「僕は今でも充分胸糞悪い」
「ああ、そうか、そうだな、いや悪い。でも助かったよ。すまねえな、身内の不祥事をおまえに解決してもらっちまった」
バンバンと光明はいづるの肩を叩いて、気まずそうに笑った。
「あいつ、強かったか?」
「当たり前だよ。死ぬかと思った」
そうか、とまた言って、光明は黙っていたが、どうやら微笑んでいたらしい。それにしても、と続けて言う。
「陰陽師になりたい、か」
光明は腰のホルスターからデッキを取り出して、それをカウンターにぶちまけた。色とりどりの花を背景にした五色の魔獣たちを描いた式札が砕けたように散らばった。
「これが、こんなものが、そんなに羨ましかったのか。こんなの身体は辛いし、潰しはきかねえし、いいことねえよ。クレジットカードだって簡単には作れねえしよ」
いづるは、散らばった札から一枚抜き取って、それを真上で提げられたカンテラの光に照らして見た。
綺麗だった。
「それでも、これがよかったんだろ、あいつは」
光明は一瞬、深く深く押し黙ったが、首をぶんぶん振ると元気よく叫んだ。
「辛気くせえな、柄でもねえや。親父ぃ、アツカンおくれ!」
「阿呆」ガシャドクロの親父がぎろりとミイラ少年を睨む。
「未成年にくれてやる酒はねえ」
光明は背後を親指でぐいと指差した。
「あそこでへべれけになってる馬鹿はいいのかよ」
「アンナはもう十年もあの世にいるじゃねえか。それに死んだら健康も糞もあるか。光坊も死んでからまた来いや」
「その前に成人してるってんだよ糞爺ィ。……あ、いや、その、糞爺さま? 糞おじいちゃん? えへへ、包丁向けるのはやめてね? あっ、ちょっ、やだっ」
割と冗談抜きに客を刺突し始めた店長を横目に、いづるは身を捻って背後を振り返った。
「ヅッくん、キャス子って……前回の魔王会の優勝者、なんだよね」
「そうだ」下敷きでキャス子の火照った素顔をパタパタと仰ぎながら蟻塚は頷く。
「十年前、お嬢様は十七歳であの世へ来て、その年の魔王となった。それから後のことは、もう話したと思うが」
「もっと最近のことだと思ってたよ。みっちゃんとは、その時に?」
「ああ、英才教育としてあの世を訪れていた光明くんが迷子になったことがあってな。その時、不幸にもお嬢様の目に止まり……」
「ひでえ目に会ったぜ」と光明が割り込んできた。
「アンナちゃんめ、死んで気が立ってたんだろうな。年端もない俺のことをオモチャにしやがって……やれ火の馬を三頭出せだの今度は氷の鳥が五羽見たいだの、七歳のガキに我がまま放題だぜ? 女の子ってこわいんだってその時知ったよ」
「わかるよ」いづるは万感の思いをこめて頷いた。「すんごいわかる」
「しかしまァ」
光明は身を乗り出して横たわったキャス子を見下ろした。
「十年ぶりに会ってみれば、結構かわいいなこいつ」
「それは罠だよみっちゃん」
「そうかあ。そうだよなあ。うん、やっぱりやめておこう。身が持ちそうにねえわ」
「しかし、いづるよお――」と、ガシャドクロ店主がおもむろに話を振ってきた。
「よくおまえも顔を見せられたもんだよな。最後にここに来た時のおまえさんのグレっぷりったらなかったぜ」
いづるはぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。
「ごめんよ。あの時は気が違ってたんだ。僕はいつも気狂いだけど、あの時は自分でもわかるくらいひどかった。でも、もういいんだ。僕は逝くことにしたから」
みっちゃん、といづるは光明に向かって神妙に座り直し、立てかけておいた刀を差し出した。
「実は、この刀にとあるあやかしが封印されてるらしいんだ。でも、そんなことって本当にあるの?」
「あるよ」刀を受け取りながら、こともなげに光明は言った。
「実体化してるのは魂貨を喰うしな。まァおまえら死人ほどじゃないんだが、弱ったあやかしが物に化けるのはさほど珍しいことじゃねえ。……にしても業物だなこりゃァ。売ったらいくらになるんだろ」
「さあね。持ち主と交渉してくれ。とにかくよろしく頼むよ」
「わかったよ。帰って調べてみる」
式札一枚分ほど覗かせていた刀身をチン、と鞘に収めると、光明は笑った。
「逝くのか、門倉」
「うん。――みっちゃん、いろいろあったけど、ありがとう。助かったよ」
「ああ、こっちこそ。業斗のこと、マジでありがとな。もし――もしあの世の向こうに『どこか』があって、そこにやつがいたら――言葉が過ぎたって言っといてくれねえか」
「わかった」
いづるは頷いて、蟻塚を振り返った。
「ヅッくん。申し訳ないんだけど、キャス子のこと――」
「言われなくても、私はおまえがちびっこだった時からこの方の従者だ。いつまでも、そうだ」
「はは。すごいね、君は。尊敬しちゃうよ――じゃあ、元気でね」
「おまえも、達者でな」
「うん――うん?」
いきなり、いづるの足を小さな何かがぎゅむっと踏んできた。見下ろすと電介が何か聞きたそうな目をしていづるを見上げていた。
「電介――おまえはいつまでも僕の相棒だからな。何か困ることがあったら、そこの変態執事とか、みっちゃんとか――飛縁、魔とか、頼るんだよ? わかった?」
なーお、と電介はわかったのか、最初から人間の言葉なんてひとつだってわかってはいなかったのか、大人しくいづるの足から下りてテーブルの隙間に消えていった。
いづるはそのまま、しばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
「さて、辛気くさいのは僕も嫌だ。そろそろ本当に消えるとするよ」
「ちょっと待て」掌を見せて止めたのはガシャドクロの親父。
「店ん中ではやめてくれ。魂貨が溢れかえって収集がつかなくなっちまう。申し訳ねえが外で頼むよ、いづる」
「ああ、そうだね。うっかりしてたよ。飛ぶ鳥あとを濁さず。どこか邪魔にならないところで――」
いづるが言いかけて立ち上がった時、バァンと店の引き戸が音を立てて開かれた。一同何事かと振り返ると、四角い枠の中で、膝に手を当てて少女がぜいぜい息を荒らげていた。綿雲のような金髪に逆さに被った王冠のような鉄輪(かなわ)、夏空のような青い着物とてけてけ柄の腰帯。
アリスだった。
「あ、アリス? どうしたのそんなに慌てて――」
「いづる!! 今までどこ行ってたの!?」
いづるが答えようとする前に、アリスは髪を振り乱して叫ぶ。
「志馬が――志馬が――」
「志馬? 志馬がどうしたの?」
何かを必死に伝えようとアリスが口をぱくぱくさせるが、上手くそれが言葉にできないのだろう。その様子からいづるはひとつの推測を閃いた。
「ひょっとして、志馬に博打でお小遣いでも巻き上げられたの?」
アリスの表情がその一撃で凍りついた。
いづるはその意味に気づかない。
「ううん、あいつのことだからズルしたのかもしれないね。よし、じゃあこうしたらいいよ。実はもうすぐ飛縁魔が復活することになったから、そしたらさ、みんなで志馬に殴りこみをかければいいんだよ! そしたらさ、いくらあいつでも虚丸を首に突きつけられたら借りてきた猫みたいになるよ」
「い、いづ」
「本当は僕が行ってひとこと言ってやりたいんだけどなあ、僕、もう逝くところなんだ。残念だけど、決心が鈍らないうちに消えようと思うからさ。あ、そうだ。アリスがいいや。ねえ、飛縁魔が元に戻ったら、伝えておいてよ、ごめんって――あはは、なんかみんな最後に伝えたいのは謝ることばっかりだね」
「いづる!!」
今度は、いづるが凍りつく番だった。
アリスの目から、大粒の涙が零れ落ちていた。
「――どうしたの。ねえ、アリス、どうして泣いて、」
「飛縁魔? 刀に封印されてる? あんた、まだそんなこと信じてたの?」
アリスは泣きながら、顔を笑う直前まで歪ませて、首を傾げた。
「飛縁魔なら、もういないよ」
「え?」
「飛縁魔なら、もういないよぉ!!」
うわああああああ――――
その場に崩れ落ちて、アリスはわんわん泣き始めた。誰も何も言えなかった。誰もそこにいないようだった。
丸椅子に突き飛ばされたように座って、アリスの慟哭を全身で聴きながら、いづるは天を仰ぐ。
思う。
神様。
もう、やめてくれませんか。