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まとめて読む

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 知性とは、人を魅力的に見せる一種のスパイスである。
 そのことに俺が気づいたのは、なにを間違ってか、生まれてから二十年経ってからのことで。そして恋という存在を意識し始めたのも、同時期の事だった。
 大学二年生の時、俺は読書にのめり込んだ。友人が「俺の人格形成をしてくれた本だ」と借してくれた一冊の小説が、とても面白かったのだ。この歳にして見聞を広める事になろうとは思いもしなかったが。とにかく俺は、初めてテレビがやってきた昭和時代の人間よろしく、本を読みあさっていた。
 ゴールデンウィークが開けたばかりのある日、講義の前にちょっとだけ読んでおこうと、席を取った俺は、活字の海に飛び込んでいた。
「志賀」
 突然名前を呼ばれて、俺は文面ならぬ海面から顔を上げた。目の前にいなかったから、横に顔を向けると、そこには俺を読書の世界に引き込んだ、三島秀人が居た。読書家の友人で、芥川龍之介に憧れたらしく、真ん中分けの長髪。フレームレスのメガネと、黒と白のボーダーが入ったTシャツに、ベージュのチノパン。痩せ型で、確かに一見すればどこかの文学者に見えるかもしれない。彼自身、小説を書いているそうだ。まだ彼の小説は見せてもらったことはないが、見た目からして、なんとなく才能がありそうな気はする。
「どうだ、面白いか」
「ああ。すげー面白い」
「そうか。俺に教えられることがあれば、教えよう」
「あ、じゃあさ。オススメの本を教えてくれないか」
「オススメか。俺はどうも、オススメという言葉が好きになれない」
「なんでよ」
「オススメされて、あまり当たりを引いたことがないもんでな。しかし、面白い本を見つける、いい方法を教えてやろう」
 三島は、にやりと歯を見せて笑った。意外と綺麗な歯だ。
「なんだよ、それ」
「古本屋だ」
「ふ、古本屋?」
「そう。古書を扱う場所だ。巨大チェーンで買うのもいいが、些か大きすぎる」

「些か、なんて日常会話で使う大学生、お前しか知らねえ」
「茶化すなよ。……まあ、できるだけ場末の、商店街や住宅街の傍らにあるような場所がいい」
「なんでチェーンだとダメなんだよ」
「ダメではないが、初心者には小さな店を勧めたい。大きいと、全てのジャンルが満遍なく集まる。しかし、俺のオススメする古本屋は、小説類を多く取り扱っている」
「オススメは嫌いなんじゃねえのかよ」
「俺のオススメはいいんだ。――ちょっと待て、今地図を描く」
 やつは自分のリュックからルーズリーフを取り出し、道筋を思い出しながら簡素な地図を描いていく。見れば、大学の最寄り駅からだいたい十分ほど徒歩で行った、住宅街にあるらしい。地図を受け取って、俺はそれと同じくらい簡単な礼を言った。


 結局、講義の間も三島から借りた小説を読んでいた。おかげで半分ほど読了したが、ノートはまっさらなまま。今度三島からノートを借りよう。世話になりっぱなしだしな、今度飯でも奢ってやることを、心に決めた。神にお供え、三島におごり。俺の日常は、これで大概上手く行く。
 まずは大学を出て、最寄りの駅を拠点に、道を確認しながら、その古本屋――桜書房を目指した。
 さすがに五月ともなれば、ちょっと暑い。額に汗が滲んできた。閑静な、人の気配もあまり感じられない住宅街を通り抜けると、大きな木が一本伸びているのが見えた。住宅街には異質な木を追い、その根元に桜書房を見つけた。
 その木に寄り添うような古びた和風家屋。布張りの屋根に桜書房と書かれ、その下にガラス戸。印象としては、物語のロケーションには最適。という感じだ。
 ガラス戸をスライドさせ、中に入る。まず、目に飛び込んできた本棚に圧倒された。大体十畳ほどの広さの店内に、所狭しと本棚が並べられていて、人一人通るのがやっとという通路ができていた。床に入りきらなかった本が積み重ねられ、鼻腔を古本独特のすえた匂いがくすぐってくる。天井にある切れかけた蛍光灯も、この店内独特の雰囲気作りに一役買っているようだ。
 俺はこの雰囲気が嫌いじゃない。目についた適当な本を取り、適当に捲って、そこに書かれた文章を気に入ったら、買うことに決める。
 言葉はいつも書いたり喋ったりして使っているのに、どうして小説という舞台ではいつもと違う力を感じるのだろう。
 書かれた文章に心打たれたり、登場人物の心に浸ってみたりしながら、俺は一冊の本をピックアップして、本棚の隙間を縫い、店の奥にあるレジへ向かった。
 玄関先にレジを置いたような、金勘定ができればいいと言わんばかりの無愛想なそこに本を置き、一声奥に向かって声をかけた。
「はい」聞こえてきたのは、麗しい若い声。
 出てきたのは、凛々しい一本の桜を思わせる美女だった。黒真珠のように輝く髪は腰まで落ちていて、顔には能面のように表情がないものの、顎が細く、唇は小さく、華やかさを感じさせる美人。
 服装は、黒いTシャツにジーンズ。その上に桜書房とプリントされた、白いエプロン。
 エプロンを押し上げるバスト。紐で引き締まったウェスト。誘うようなヒップ。痩せた体が妙にセクシーで。
 俺は一瞬にして、心を奪われた。落とし穴に落とされたような、驚きと衝撃。
 彼女は俺が持ってきた本を掴み、背表紙に貼られた値札を確認。「百円です」
「あ、はい」
 財布から百円を取り出し、彼女が差し出してきた右手に乗せる。手が触れて、電気でも流されたみたいに体が痺れる。
「ありがとうございました」
 頭を下げ、彼女の髪が背中から落ちていくのを見て、俺は逃げるように店から出て行った。
 書庫の妖精。名前も知らない彼女を俺はそう呼ぶことに決め、酷く混乱した気持ちと本を抱えて帰路を走った。



 翌日。俺は大学の教室で、書庫の妖精について情報を集めるべく、三島に桜書房の話を持ちかけた。
「三島。お前、桜書房にいる妖精と知り合いか?」
 前の席に座る三島は、訝しげな顔をして、俺の目を見る。まるで正気を確かめるみたいな、失礼極まりない態度。
「志賀……。お前、女性に対して淡白だとは思っていたが、桜書房にいる店主はどう見ても妖怪って感じだぞ」
「何を言う。あの麗しい姿は、まさに妖精だぞ」
「はぁ?」
「え?」
 なんだろう。俺と三島の間に、食い違いを感じるんだけど。
「一つ訊きたい」左手で壁を作って、右手で眉間を押さえる三島。「お前が見た桜書房の店主は、六十歳くらいの女性ではなかったか?」
「いんや。俺らと同い年くらいだったぞ」
「ふうむ……」
 わざとらしくため息を吐いて顎を撫で、三島は「アルバイトだろうか」と独り言のように呟いた。なるほど、三島が知らない間に雇われたアルバイトなら、今の食い違いに納得が行く。
「しかし、妖精とはまた、恥ずかしげもなく言ったな」
「お前の影響かもしれない」
「俺はそんな恥ずかしいセリフは言わん」
 どうだか。俺はそれを言うかわりに、三島から借りていた本を返した。「お前の心を見た様な気がしたよ」という、感想の言葉と共に。まんざらでもなささそうな笑顔で、「俺の心を作った一冊だからな」と言った。
 心を作った一冊、か。
 俺もいつか、そんな一冊に出会いたい物だ。



 俺がその一冊に出会うとすれば、おそらくは桜書房でだろう。早く桜書房に行きたくて、昨日の本を早々に読み切ってしまった。
 講義終わりに大学を出て、桜書房へ向かう。目印を知った俺は、地図がなくても迷うことなく桜書房にたどり着くことができた。
 からからと音を鳴らしスライドするガラス戸をくぐると、俺はできるだけレジに近い本棚を陣取った。書庫の妖精が出てきて、目につくように。
「また来たのね」
 すると、書庫の妖精がすぐに出てきた。ついてる。今日の俺は波に乗ってるな。
「あなた、本読むの」
 しかも向こうから話しかけてくれた!
 これは百年に一度あるかどうかのビックウェーブじゃないか?
「えぇ。最近読むようになって」
 嘘じゃない。桜書房に来ているのは、妖精に会いたいからで。
「……ふうん」
 すると妖精は、興味を失ったように、椅子を引っ張ってきて座り、カバーされた文庫本を読み始めた。
「あのー……」
 無視されるのは寂しいので、話しかけてみると。彼女は氷柱のような鋭い視線で俺を睨む。心臓が跳ねて、嬉しいやら悲しいやら。
「読書の途中に話しかけないで。それとも、お買い上げかしら」
「あ、いや。ここ、友達から教えてもらったんですよ」
「それで?」
「ここの店主、六十歳くらいの人って聞いたんですけど……あなたは?」
「その店主は私の母。腰を壊して自宅療養。私が引き継いだのよ」
 なるほど、そういうことか。
「ちなみに、名前なんか訊いちゃったりしても……。俺は志賀智也っていいます」
 彼女は文庫本を閉じて立ち上がると、ひどくぶっきらぼうに、俺なんか相手にしないぞと言わんばかりの表情。
「桜と桃って書いて、桜桃(さくら)。筒井桜桃。――これでいいかしら」
 俺は嬉しさをこらえて、ドラマか何かで名前を知っていた小説を二冊彼女へ差し出した。
 桜桃。それが彼女の名前。
 この世に生まれて、人の名前を素晴らしいと思ったことはない。彼女に相応しく、美しい名前じゃないか。
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