第四話「終末記」
戦争のあった翌日、2人の住む街には雨が降った。
学校はいつもと何も変わらず、七岡少年は頬杖をついて、友達の話をぼんやりと聞いていた。ゲームの話、カードの話、あるいは他愛もない噂、冗談話。かつてはその輪の中にいる事で楽しいと感じられたが、今はそんな気分にもなれず、憂鬱は晴れなかった。
本の事と、マルちゃんランドの事はもちろん秘密だ。仲の良い何人かに打ち明ける事も最初は考えたが、知っている人間が多ければそれだけ秘密も漏れやすくなる。せっかく手に入れた物を、大人たちによって手の届かない場所に置かれてしまうのはなんとしても避けなければならない。七岡少年と衣奈の意見は一致し、秘密は守られた。
衣奈。衣奈は今、何を考えているのだろう、と七岡少年は思った。
あれだけ酷い光景を見て、七岡少年自身でさえ辟易して、放課後にお化けビルに行くという日課を果たす事さえ今は躊躇っている。人一倍に臆病な衣奈ならば、もう2度と一緒には行動してくれないかもしれない。そう思うと、ますます気が滅入った。
「……おい……おい、聞いてんのか、カケル」
「ん? ああ、聞いてる。……何の話だっけ?」
上の空の七岡少年にもちろん悪気はなかったが、友達の1人がちょうどいい茶菓子を見つけてしまった。じっくりと責めるような口調で、その友人は言う。
「そういえばさぁ、カケルって最近、上諏訪衣奈と一緒に帰ってるよな?」
七岡少年は、言葉の意味が一瞬分からずに呆けたが、周りを取り囲むにやにやの壁を見て、事を察した。
「ばっ、そんなんじゃねえよ!」
「本当かな~? それにしては最近付き合いも悪いし」
「もしかして、付き合ってんじゃねえの~?」
小学生男子特有の団結した煽りは簡単に止める事が出来ず、七岡少年の耳は真っ赤になった。
だが、こういう時はムキになって反論すればする程、噂に尾ひれがつくもので、最悪の場合は羽が生えて、別のクラスまで飛んでいってしまう事を良く知っていた七岡少年は、ポツリと一言だけ呟いた。
「……勝手にやってろ」
やがて始業のチャイムと共に担任教師が教室に入ってきた。
「えー、起立、着席、礼」
「『おはようございます』」
名簿を取り出し、1人1人の点呼が始まる。
「油木、井上、上田、宇賀神、江藤……」
呼ばれる度に返事がある。しかし「か行」に来て、異変は起きた。
「上諏訪……あれ? 上諏訪今日は休みか?」
「あ」
と声をあげたのは、出席番号34番の真辺さん。
「上諏訪さん、今日風邪で休みだそうでーす。連絡ノート預かってきましたぁ」
そして男子達と、先ほどの話が聞こえていた一部の女子達の視線が七岡少年に集中する。
風邪で休みというのが、本当の事だったなら良い。と、七岡少年は授業中に考えていた。
例えばもしも、昨日見た戦争の光景がショック過ぎて、熱を出して倒れたとなると、責任の一端は七岡少年にもあるのかもしれない。だとすれば、何が出来るとも分からないが、お見舞いくらいはすべきだ。それに、今日はやはりマルちゃんランドの行く気はどうしても起きない。神官を失った新しい国は確かに少し気になりはするが、今までのように何か知恵を授けたり、都市計画に参加したりは出来ないのだから、国にとって神がいる意味は全く無い。
試行錯誤の結果、放課後七岡少年は、衣奈の連絡ノートを届ける任を預かった真辺さんの後をこっそりと尾行する事が決定した。衣奈の家は知らないし、かといって真辺さんに仕事を代わるように頼むのも不自然だという事で、この形が一番という事になった。雨もあがり、天気も賛成してくれているようだ、と都合よく解釈した。
衣奈の家は、七岡少年が想像していた程に大きくはなかった。七岡少年が想像していたのが具体的にどの程度の家かというと難しいが、あの大人しい性格から、お嬢様とまではいわないまでも、上品でおしとやかな家庭がそこに収まるべき家、という漠然としたイメージがあった。だが実際の衣奈の家は、ゴローの住んでいる「あけび荘」とさして変わらず、ボロとはいえないまでも、年季の入ったアパートの一室だった。
チャイムを鳴らす真辺さんの後方10メートル。電柱の影に隠れた七岡少年は、息を殺して様子を伺いながら、衣奈に会ったらまず最初にかける言葉を探していた。励ましていいのやら、慰めていいのやら。それは柄の無いパズルをとく作業に似ていた。
悩んでいる間に、真辺さんは何度もチャイムを押していたのだが、どうやら返事は無かったらしい。真辺さんは、仕方なく連絡ノートを郵便受けに入れて、帰ってしまった。
七岡少年は不思議に思った。
当然、衣奈の家族構成などは知る由もない。昼間は家族がいないのかもしれない。だが、少なくとも衣奈は風邪で休んでいるのだから、家の中にいるはずだ。出てこないというのはおかしい。それとも、よっぽど病状が悪く、立ち上がる事すら出来ない状況なのだろうか。不安な妄想に突き動かされて、七岡少年は1歩を踏み出した。
チャイムを鳴らす。返事は無い。ドアをノックする。返事はない。少し勇気を出して、名前を呼びかける。返事はない。が、変化はあった。
「あれ? 衣奈の友達?」
後ろを振り返ると、そこにはビニール袋を両手に提げた30代半ばくらいの女性が立っていた。七岡少年はうろたえながらも、答える。
「そ、そうです」
その女性は、郵便受けに刺さったノートを見つけ、嬉しそうに言う。
「あら、連絡ノートを届けに来てくれたのね」
七岡少年に否定する暇も与えず、続けて言う。
「ああ、私は衣奈のお母さん。君、なんていうの?」
「えっと、七岡です」
「七岡君ね。うーん見た事はないわね。この辺じゃないの?」
「いや、まあ、その……」
「まあいいわ。連絡ノートありがとうね。チャイム鳴らしてくれればよかったのに」
衣奈とは違い、衣奈母の押して押して押すような喋りに押されっぱなしだった七岡少年は、ここにきてようやくまともに喋る事が出来た。
「さっきから鳴らしているんですけど、出ないんです」
「え?」
衣奈母は首を傾げ、「ちょっと持ってて」と片方の袋を七岡少年に渡し、鞄の中から鍵を取り出すと、扉を開けた。それから「衣奈ー、寝てるのー?」と呼びかけながら、部屋に入っていった。そして戻ってきて、
「……いないみたい。どうしたのかしら……」
七岡少年は尋ねる。
「風邪というのは本当ですか?」
「え? ええ。今朝あの子が『頭が痛くて寒気がする』って言って。熱は無いみたいだったけど、学校行きたくないとも言ってたの。あ、嘘をついて休むような子じゃないのよ?」
まるで七岡少年を説得するような口調で、衣奈母は言う。
「あの子が風邪ひいてるって言うから、せっかく仕事早く切り上げて帰ってきたのに。困ったわ。どこに行ったのかしら? 七岡君知ってる?」
七岡少年には1つだけ、心当たりがあったが、それを何の考えもなしに正直に言うほど判断力を失ってはいなかったので、黙ったまま首を横に振った。
「そうよね、知ってる訳ないわよね……」
衣奈母は心底不思議そうに、衣奈の事を心配した様子で、携帯を取り出すと、どこかにかけた。七岡少年は今すぐお化けビルに向かいたかったが、手には今渡された荷物がある。身動きがとれない。
「もしもし……あなた? 仕事中? そう。えっと、衣奈知らない? ええ。ええ。じゃあ、そっちには行ってないのね? ……ええ。いえ、なんでもないわ。ごめんなさいね、仕事中に。それじゃあ」
携帯を切る。七岡少年は尋ねる。
「お父さんですか?」
間を置かず、衣奈母はさらっと答える。
「ええ、『元』ね。離婚したのよ。それで、衣奈がお父さんに会いたくなったのかと思ってかけてみたのだけれど、見当違いだったみたいね」
七岡少年はなんと声をかけていいかわからず、たじろぐ。
「あ、ごめんなさいね。気にしないでいいのよ。ああ、荷物。ありがとう」
荷物を衣奈母に渡し、仕事を終える。
「それじゃあ、どこかで衣奈を見かけたら、『お母さんが心配していたから早く帰れ』って言ってやってね。私は私で探してみるから」
今度は喉元まで、「お化けビル」の名前がでかかったが、どうにか堪えた。もしも衣奈が、わざわざ仮病を使ってまでお化けビルに行っているのなら、何か理由があるはずで、それを確かめてからでも遅くはない。
「これからも衣奈と仲良くしてやってね」
七岡少年は「はい」とだけ返事をして、すぐに踵を返した。
逸る気持ちを抑えながら早歩きでお化けビルに向かうその道中、七岡少年は道端にてありえない物と遭遇してしまった。
日常の中に落とされた、一滴の黒いインクと銀の兜。4本腕にはシャーペンが握られている。
「マルフェール!」
「おや? これは神様。奇妙な所で出会いましたな」
返事をしたのは紛れも無く、全ての不思議の始まりでもある、本の中から出てきた自称勇者だった。
学校はいつもと何も変わらず、七岡少年は頬杖をついて、友達の話をぼんやりと聞いていた。ゲームの話、カードの話、あるいは他愛もない噂、冗談話。かつてはその輪の中にいる事で楽しいと感じられたが、今はそんな気分にもなれず、憂鬱は晴れなかった。
本の事と、マルちゃんランドの事はもちろん秘密だ。仲の良い何人かに打ち明ける事も最初は考えたが、知っている人間が多ければそれだけ秘密も漏れやすくなる。せっかく手に入れた物を、大人たちによって手の届かない場所に置かれてしまうのはなんとしても避けなければならない。七岡少年と衣奈の意見は一致し、秘密は守られた。
衣奈。衣奈は今、何を考えているのだろう、と七岡少年は思った。
あれだけ酷い光景を見て、七岡少年自身でさえ辟易して、放課後にお化けビルに行くという日課を果たす事さえ今は躊躇っている。人一倍に臆病な衣奈ならば、もう2度と一緒には行動してくれないかもしれない。そう思うと、ますます気が滅入った。
「……おい……おい、聞いてんのか、カケル」
「ん? ああ、聞いてる。……何の話だっけ?」
上の空の七岡少年にもちろん悪気はなかったが、友達の1人がちょうどいい茶菓子を見つけてしまった。じっくりと責めるような口調で、その友人は言う。
「そういえばさぁ、カケルって最近、上諏訪衣奈と一緒に帰ってるよな?」
七岡少年は、言葉の意味が一瞬分からずに呆けたが、周りを取り囲むにやにやの壁を見て、事を察した。
「ばっ、そんなんじゃねえよ!」
「本当かな~? それにしては最近付き合いも悪いし」
「もしかして、付き合ってんじゃねえの~?」
小学生男子特有の団結した煽りは簡単に止める事が出来ず、七岡少年の耳は真っ赤になった。
だが、こういう時はムキになって反論すればする程、噂に尾ひれがつくもので、最悪の場合は羽が生えて、別のクラスまで飛んでいってしまう事を良く知っていた七岡少年は、ポツリと一言だけ呟いた。
「……勝手にやってろ」
やがて始業のチャイムと共に担任教師が教室に入ってきた。
「えー、起立、着席、礼」
「『おはようございます』」
名簿を取り出し、1人1人の点呼が始まる。
「油木、井上、上田、宇賀神、江藤……」
呼ばれる度に返事がある。しかし「か行」に来て、異変は起きた。
「上諏訪……あれ? 上諏訪今日は休みか?」
「あ」
と声をあげたのは、出席番号34番の真辺さん。
「上諏訪さん、今日風邪で休みだそうでーす。連絡ノート預かってきましたぁ」
そして男子達と、先ほどの話が聞こえていた一部の女子達の視線が七岡少年に集中する。
風邪で休みというのが、本当の事だったなら良い。と、七岡少年は授業中に考えていた。
例えばもしも、昨日見た戦争の光景がショック過ぎて、熱を出して倒れたとなると、責任の一端は七岡少年にもあるのかもしれない。だとすれば、何が出来るとも分からないが、お見舞いくらいはすべきだ。それに、今日はやはりマルちゃんランドの行く気はどうしても起きない。神官を失った新しい国は確かに少し気になりはするが、今までのように何か知恵を授けたり、都市計画に参加したりは出来ないのだから、国にとって神がいる意味は全く無い。
試行錯誤の結果、放課後七岡少年は、衣奈の連絡ノートを届ける任を預かった真辺さんの後をこっそりと尾行する事が決定した。衣奈の家は知らないし、かといって真辺さんに仕事を代わるように頼むのも不自然だという事で、この形が一番という事になった。雨もあがり、天気も賛成してくれているようだ、と都合よく解釈した。
衣奈の家は、七岡少年が想像していた程に大きくはなかった。七岡少年が想像していたのが具体的にどの程度の家かというと難しいが、あの大人しい性格から、お嬢様とまではいわないまでも、上品でおしとやかな家庭がそこに収まるべき家、という漠然としたイメージがあった。だが実際の衣奈の家は、ゴローの住んでいる「あけび荘」とさして変わらず、ボロとはいえないまでも、年季の入ったアパートの一室だった。
チャイムを鳴らす真辺さんの後方10メートル。電柱の影に隠れた七岡少年は、息を殺して様子を伺いながら、衣奈に会ったらまず最初にかける言葉を探していた。励ましていいのやら、慰めていいのやら。それは柄の無いパズルをとく作業に似ていた。
悩んでいる間に、真辺さんは何度もチャイムを押していたのだが、どうやら返事は無かったらしい。真辺さんは、仕方なく連絡ノートを郵便受けに入れて、帰ってしまった。
七岡少年は不思議に思った。
当然、衣奈の家族構成などは知る由もない。昼間は家族がいないのかもしれない。だが、少なくとも衣奈は風邪で休んでいるのだから、家の中にいるはずだ。出てこないというのはおかしい。それとも、よっぽど病状が悪く、立ち上がる事すら出来ない状況なのだろうか。不安な妄想に突き動かされて、七岡少年は1歩を踏み出した。
チャイムを鳴らす。返事は無い。ドアをノックする。返事はない。少し勇気を出して、名前を呼びかける。返事はない。が、変化はあった。
「あれ? 衣奈の友達?」
後ろを振り返ると、そこにはビニール袋を両手に提げた30代半ばくらいの女性が立っていた。七岡少年はうろたえながらも、答える。
「そ、そうです」
その女性は、郵便受けに刺さったノートを見つけ、嬉しそうに言う。
「あら、連絡ノートを届けに来てくれたのね」
七岡少年に否定する暇も与えず、続けて言う。
「ああ、私は衣奈のお母さん。君、なんていうの?」
「えっと、七岡です」
「七岡君ね。うーん見た事はないわね。この辺じゃないの?」
「いや、まあ、その……」
「まあいいわ。連絡ノートありがとうね。チャイム鳴らしてくれればよかったのに」
衣奈とは違い、衣奈母の押して押して押すような喋りに押されっぱなしだった七岡少年は、ここにきてようやくまともに喋る事が出来た。
「さっきから鳴らしているんですけど、出ないんです」
「え?」
衣奈母は首を傾げ、「ちょっと持ってて」と片方の袋を七岡少年に渡し、鞄の中から鍵を取り出すと、扉を開けた。それから「衣奈ー、寝てるのー?」と呼びかけながら、部屋に入っていった。そして戻ってきて、
「……いないみたい。どうしたのかしら……」
七岡少年は尋ねる。
「風邪というのは本当ですか?」
「え? ええ。今朝あの子が『頭が痛くて寒気がする』って言って。熱は無いみたいだったけど、学校行きたくないとも言ってたの。あ、嘘をついて休むような子じゃないのよ?」
まるで七岡少年を説得するような口調で、衣奈母は言う。
「あの子が風邪ひいてるって言うから、せっかく仕事早く切り上げて帰ってきたのに。困ったわ。どこに行ったのかしら? 七岡君知ってる?」
七岡少年には1つだけ、心当たりがあったが、それを何の考えもなしに正直に言うほど判断力を失ってはいなかったので、黙ったまま首を横に振った。
「そうよね、知ってる訳ないわよね……」
衣奈母は心底不思議そうに、衣奈の事を心配した様子で、携帯を取り出すと、どこかにかけた。七岡少年は今すぐお化けビルに向かいたかったが、手には今渡された荷物がある。身動きがとれない。
「もしもし……あなた? 仕事中? そう。えっと、衣奈知らない? ええ。ええ。じゃあ、そっちには行ってないのね? ……ええ。いえ、なんでもないわ。ごめんなさいね、仕事中に。それじゃあ」
携帯を切る。七岡少年は尋ねる。
「お父さんですか?」
間を置かず、衣奈母はさらっと答える。
「ええ、『元』ね。離婚したのよ。それで、衣奈がお父さんに会いたくなったのかと思ってかけてみたのだけれど、見当違いだったみたいね」
七岡少年はなんと声をかけていいかわからず、たじろぐ。
「あ、ごめんなさいね。気にしないでいいのよ。ああ、荷物。ありがとう」
荷物を衣奈母に渡し、仕事を終える。
「それじゃあ、どこかで衣奈を見かけたら、『お母さんが心配していたから早く帰れ』って言ってやってね。私は私で探してみるから」
今度は喉元まで、「お化けビル」の名前がでかかったが、どうにか堪えた。もしも衣奈が、わざわざ仮病を使ってまでお化けビルに行っているのなら、何か理由があるはずで、それを確かめてからでも遅くはない。
「これからも衣奈と仲良くしてやってね」
七岡少年は「はい」とだけ返事をして、すぐに踵を返した。
逸る気持ちを抑えながら早歩きでお化けビルに向かうその道中、七岡少年は道端にてありえない物と遭遇してしまった。
日常の中に落とされた、一滴の黒いインクと銀の兜。4本腕にはシャーペンが握られている。
「マルフェール!」
「おや? これは神様。奇妙な所で出会いましたな」
返事をしたのは紛れも無く、全ての不思議の始まりでもある、本の中から出てきた自称勇者だった。
「我輩の生涯で、最大の不覚であります」
走る七岡少年の肩に乗ったマルフェールは、振り落とされないようにしがみつきつつ、つぶらな瞳としまりのない口ながらも精一杯深刻な面持ちでそう言った。今まで前にしか進まなかった国が、戦争という行為によって後退した事を伝えられたマルフェールの心情は、到底言葉では言い表せない。
マルフェールがもしもあの場にいたら、事前に戦争を食い止められたかもしれない。そう思うと、軽々しく「気にするな」とは言えない所が、七岡少年の辛い所だった。代わりに仕方なく、七岡少年は別の角度から質問をした。
「マルフェール、どうしてあんな道端にいたんだ?」
「我輩は魔王を探し出す為に旅に出たのです。国も発展し、我輩に出来る事など限られていると思い、今こそ当初の目的を達成すべきだと覚悟を決め、外の世界へと飛び出したのです」
七岡少年は、マルフェールと出会ったあの日の事を思い出した。その時確かにマルフェールは、「魔王を倒す」と言った。もちろん、この世界に魔王などいるはずもない、となれば、「魔王を作ればよい」ともマルフェールは言った。
しかし本が七岡少年に与えたのは魔王ではなく、神官と村人、つまり今の国の元となる物だった。国の為に働くマルフェールを見ていて、すっかり魔王の件など忘れたものだとばかり思っていたが、それはただの思い込みだったようだ。
「それで、魔王は見つかったか?」
「いえ、あいにくとまだ見つかりませんな」
「そうか……もしも魔王を見つけたら、倒すのか?」
「もちろんですとも。我輩はその為に、この世界へと来たのです」
七岡少年は、以前から気になっていた事を尋ねてみる。
「マルフェール、前にいた世界は、どんな世界だったんだ?」
マルフェールを含め、全ての国民、及び神官は、本の中から出てきた黒い物質から生まれている。七岡少年側から見れば、「前にいた世界」とは本の中でしかないが、一応こういう考え方も出来る。
あの本は、元々どこかの異世界に通じている本で、出てきた物や者、あらゆる現象は、異世界から一時的に召喚しているだけかもしれない。となれば、マルフェールにはその世界での記憶があり、何かを知っている可能性がある。あるいはその中に、戦争を防ぐ手段も。
マルフェールの答えは、こうだった。
「……覚えておりませぬ。我輩の覚えていたのは自分の名前と、魔王を倒すという使命だけでしたので」
「……そうか」
そう答えた所で、七岡少年とマルフェールは、お化けビルの前にたどり着いた。
階段を駆け上り、いつもの部屋にたどり着くと、そこには衣奈の姿があった。
「やっぱり、ここにいたか」
衣奈は伏し目がちに七岡少年を見つめ、両手に持った本をぎゅっと自らの体に寄せて、沈黙した。
「仮病使ってまで休むなんて、珍し……」
七岡少年が言いかけた所で、マルちゃんランドの全景に気づき、絶句した。
昨日まであれだけ広かった国は10分の1程度まで縮小し、残りの全てが高い壁に覆われていた。戦争によって破壊された中心部はほぼ復興していたが、国民の数は更に減ったようだ。そして囲まれた壁の外には、見た事のない凶悪な形をしたケモノがうろうろと徘徊していた。
「ど、どういう事だ……? 何が起きたんだ!?」
七岡少年は動揺を隠せず、衣奈に説明を求めた。衣奈はますます目を伏せて、本を抱きしめた。
たったそれだけの挙動で、七岡少年は衣奈のしてしまった事を察する事が出来た。
七岡少年は、言うまでもなく優しい少年である。困っている人が居たならば、まずは自分に何が出来るか考える。自分のした事が、相手にどのような影響を与えるか考える。小学生にして、この「なかなか出来ない当たり前の事」をやってのける超人である。
その七岡少年が、今出来る事は「何も聞かない事」そして「全てを忘れる事」しかないと判断したのだから、それは間違いではなかった。手段は分からないがとにかく、この国の惨状は、衣奈が導いた物に間違いない。
衣奈は取り返しのつかない事をした。許されざる事をしてしまったのだ。
状況が飲み込めないまま、2人を交互に見つめるマルフェールを肩からそっと降ろし、七岡少年は何も言わず、唇を噛み締めて、お化けビルを出ようとした。
先ほど、七岡少年は超人と述べたが、しかしながら衣奈は違う。七岡少年よりは遥かに幼く、時折訳も分からずに自分の心を傷つけてしまう弱さを持っている。普通の女の子だ。
「どうして何も聞かないの……?」
呼び止められた七岡少年は、深く俯き、呟く。
「……ごめん」
凍るような間があって、衣奈が叫んだ。
「私に……私に謝らせて!」
衣奈は、自分を取り囲むこの世界に対し、耐え難い事が1つだけある。
うさぎが死んで、特別学級会が開かれた時、衣奈は自らの危険を顧みずに事態を収めた。
村人達が初めてケモノの脅威に相対した時、衣奈はまず戦いを止めようとして、共存の道を探った。
そして止める事の出来ない戦争を前にした時、衣奈は涙を流してうずくまった。
衣奈の両親は、5年前に離婚している。
それまでいつも優しかった父と母が、目の前で醜い争いを繰り広げるのを、衣奈は見ていた。
衣奈にとって、争いは最も忌み嫌う物であり、周囲で起きてはならない事だった。人と人が争っているのを見ると、心が締め付けられるように痛み、胸が張り裂けそうになる。自分の力でどうにもならない時は塞ぎ込むしかないが、もしも平和をもたらす手段があるのなら、それがどんな手段であれ実行するしかないと思っていた。
あの日、七岡少年から本を借りた後、家に帰って本を開いてみると、次のページが開いていた。
そのページに描かれていたのは、雷と雨の時と同じ1つのマーク。黒く丸い、何を示しているのかわからない印だった。
衣奈は煽られた好奇心と、また戦争が起きてやしないだろうかという心配を堪えきれず、母が寝た後、こっそりと家を出てお化けビルに出向いた。
そして黒いマークを押してみると、思わぬ事が起きた。
1匹のケモノの姿が、マモノへと変化したのである。
マモノはケモノや村人とは桁違いの戦闘力を持っており、しかも衣奈の指示通りに動いた。
混乱の中で、衣奈は思いついてしまった。
『このマモノを上手く扱えば、戦争は避けられるかもしれない』
その後、衣奈は大量のマモノに国を襲わせ、国を囲むように城壁を作らせた。
生まれて初めて学校をずる休みし、つきっきりで観察していた。
今、マルちゃんランドの住民達は城壁の中に住んでいる。城壁を一歩出ると、凶暴なマモノ達が襲ってくるので、領土の拡大も、人口の増加も不可能となっている。となれば、前のような戦争は起きようもない。
無論、衣奈の召喚したマモノ達によって、沢山の命が失われた。しかし、人間の歴史を鑑みるに、これから幾度となく繰り返されていくであろう戦争を考えると、衣奈は行動せざるを得なかった。
例えば今も地球では、どこかで戦争が起きている。色々な理由で、様々なな都合で。しかしもしもある日、突然宇宙人がやってきて、人類に対して宣戦布告をしたならば、仲間同士でいがみあっている場合ではない。協力して、外部からやってきた敵をやっつけるべきだ、となるはずだ。
それを衣奈は、敵側の立場に立って実行した。
つまり、衣奈は自らが悪となる事によって、戦争を防ぐ事に成功したのだ。
衣奈は魔王になった。マルフェールから見れば、倒すべき、悪の親玉と化した。
走る七岡少年の肩に乗ったマルフェールは、振り落とされないようにしがみつきつつ、つぶらな瞳としまりのない口ながらも精一杯深刻な面持ちでそう言った。今まで前にしか進まなかった国が、戦争という行為によって後退した事を伝えられたマルフェールの心情は、到底言葉では言い表せない。
マルフェールがもしもあの場にいたら、事前に戦争を食い止められたかもしれない。そう思うと、軽々しく「気にするな」とは言えない所が、七岡少年の辛い所だった。代わりに仕方なく、七岡少年は別の角度から質問をした。
「マルフェール、どうしてあんな道端にいたんだ?」
「我輩は魔王を探し出す為に旅に出たのです。国も発展し、我輩に出来る事など限られていると思い、今こそ当初の目的を達成すべきだと覚悟を決め、外の世界へと飛び出したのです」
七岡少年は、マルフェールと出会ったあの日の事を思い出した。その時確かにマルフェールは、「魔王を倒す」と言った。もちろん、この世界に魔王などいるはずもない、となれば、「魔王を作ればよい」ともマルフェールは言った。
しかし本が七岡少年に与えたのは魔王ではなく、神官と村人、つまり今の国の元となる物だった。国の為に働くマルフェールを見ていて、すっかり魔王の件など忘れたものだとばかり思っていたが、それはただの思い込みだったようだ。
「それで、魔王は見つかったか?」
「いえ、あいにくとまだ見つかりませんな」
「そうか……もしも魔王を見つけたら、倒すのか?」
「もちろんですとも。我輩はその為に、この世界へと来たのです」
七岡少年は、以前から気になっていた事を尋ねてみる。
「マルフェール、前にいた世界は、どんな世界だったんだ?」
マルフェールを含め、全ての国民、及び神官は、本の中から出てきた黒い物質から生まれている。七岡少年側から見れば、「前にいた世界」とは本の中でしかないが、一応こういう考え方も出来る。
あの本は、元々どこかの異世界に通じている本で、出てきた物や者、あらゆる現象は、異世界から一時的に召喚しているだけかもしれない。となれば、マルフェールにはその世界での記憶があり、何かを知っている可能性がある。あるいはその中に、戦争を防ぐ手段も。
マルフェールの答えは、こうだった。
「……覚えておりませぬ。我輩の覚えていたのは自分の名前と、魔王を倒すという使命だけでしたので」
「……そうか」
そう答えた所で、七岡少年とマルフェールは、お化けビルの前にたどり着いた。
階段を駆け上り、いつもの部屋にたどり着くと、そこには衣奈の姿があった。
「やっぱり、ここにいたか」
衣奈は伏し目がちに七岡少年を見つめ、両手に持った本をぎゅっと自らの体に寄せて、沈黙した。
「仮病使ってまで休むなんて、珍し……」
七岡少年が言いかけた所で、マルちゃんランドの全景に気づき、絶句した。
昨日まであれだけ広かった国は10分の1程度まで縮小し、残りの全てが高い壁に覆われていた。戦争によって破壊された中心部はほぼ復興していたが、国民の数は更に減ったようだ。そして囲まれた壁の外には、見た事のない凶悪な形をしたケモノがうろうろと徘徊していた。
「ど、どういう事だ……? 何が起きたんだ!?」
七岡少年は動揺を隠せず、衣奈に説明を求めた。衣奈はますます目を伏せて、本を抱きしめた。
たったそれだけの挙動で、七岡少年は衣奈のしてしまった事を察する事が出来た。
七岡少年は、言うまでもなく優しい少年である。困っている人が居たならば、まずは自分に何が出来るか考える。自分のした事が、相手にどのような影響を与えるか考える。小学生にして、この「なかなか出来ない当たり前の事」をやってのける超人である。
その七岡少年が、今出来る事は「何も聞かない事」そして「全てを忘れる事」しかないと判断したのだから、それは間違いではなかった。手段は分からないがとにかく、この国の惨状は、衣奈が導いた物に間違いない。
衣奈は取り返しのつかない事をした。許されざる事をしてしまったのだ。
状況が飲み込めないまま、2人を交互に見つめるマルフェールを肩からそっと降ろし、七岡少年は何も言わず、唇を噛み締めて、お化けビルを出ようとした。
先ほど、七岡少年は超人と述べたが、しかしながら衣奈は違う。七岡少年よりは遥かに幼く、時折訳も分からずに自分の心を傷つけてしまう弱さを持っている。普通の女の子だ。
「どうして何も聞かないの……?」
呼び止められた七岡少年は、深く俯き、呟く。
「……ごめん」
凍るような間があって、衣奈が叫んだ。
「私に……私に謝らせて!」
衣奈は、自分を取り囲むこの世界に対し、耐え難い事が1つだけある。
うさぎが死んで、特別学級会が開かれた時、衣奈は自らの危険を顧みずに事態を収めた。
村人達が初めてケモノの脅威に相対した時、衣奈はまず戦いを止めようとして、共存の道を探った。
そして止める事の出来ない戦争を前にした時、衣奈は涙を流してうずくまった。
衣奈の両親は、5年前に離婚している。
それまでいつも優しかった父と母が、目の前で醜い争いを繰り広げるのを、衣奈は見ていた。
衣奈にとって、争いは最も忌み嫌う物であり、周囲で起きてはならない事だった。人と人が争っているのを見ると、心が締め付けられるように痛み、胸が張り裂けそうになる。自分の力でどうにもならない時は塞ぎ込むしかないが、もしも平和をもたらす手段があるのなら、それがどんな手段であれ実行するしかないと思っていた。
あの日、七岡少年から本を借りた後、家に帰って本を開いてみると、次のページが開いていた。
そのページに描かれていたのは、雷と雨の時と同じ1つのマーク。黒く丸い、何を示しているのかわからない印だった。
衣奈は煽られた好奇心と、また戦争が起きてやしないだろうかという心配を堪えきれず、母が寝た後、こっそりと家を出てお化けビルに出向いた。
そして黒いマークを押してみると、思わぬ事が起きた。
1匹のケモノの姿が、マモノへと変化したのである。
マモノはケモノや村人とは桁違いの戦闘力を持っており、しかも衣奈の指示通りに動いた。
混乱の中で、衣奈は思いついてしまった。
『このマモノを上手く扱えば、戦争は避けられるかもしれない』
その後、衣奈は大量のマモノに国を襲わせ、国を囲むように城壁を作らせた。
生まれて初めて学校をずる休みし、つきっきりで観察していた。
今、マルちゃんランドの住民達は城壁の中に住んでいる。城壁を一歩出ると、凶暴なマモノ達が襲ってくるので、領土の拡大も、人口の増加も不可能となっている。となれば、前のような戦争は起きようもない。
無論、衣奈の召喚したマモノ達によって、沢山の命が失われた。しかし、人間の歴史を鑑みるに、これから幾度となく繰り返されていくであろう戦争を考えると、衣奈は行動せざるを得なかった。
例えば今も地球では、どこかで戦争が起きている。色々な理由で、様々なな都合で。しかしもしもある日、突然宇宙人がやってきて、人類に対して宣戦布告をしたならば、仲間同士でいがみあっている場合ではない。協力して、外部からやってきた敵をやっつけるべきだ、となるはずだ。
それを衣奈は、敵側の立場に立って実行した。
つまり、衣奈は自らが悪となる事によって、戦争を防ぐ事に成功したのだ。
衣奈は魔王になった。マルフェールから見れば、倒すべき、悪の親玉と化した。
「我輩、ついに魔王を見つけましたぞ……まさか神様の1人が偽物で、実は魔王だったとは……盲点でしたな」
下を向けば、そこに小さな生き物がいる。
黒い体は頭と一体になっていて、銀色に光る兜を被り、その下から生えた4本の腕で、シャーペンという名の神槍を構えた1人の勇者。その名はマルフェール、使命は魔王を倒す事だった。
「マルフェール、よせ」
七岡少年はそう言いながらも、マルフェールにその刃を収めさせる有効な手段が思いつけずに焦る。
衣奈は両目に涙を溜めながらマルフェールを見つめ、どうしたら良いのか分からずに、ただ本を抱えて震えていた。
まずい、と七岡少年は思う。
マルフェールは唯一、あちら側の生物でありながら、こちらの世界に干渉出来る存在である。神官は、初代の神官も含め、その帽子と杖を持って、神と接触する事を可能にしていたが、マルフェールだけはそうではない。手に乗せる事が出来たのもそうだし、住処が必要になった時、七岡少年の提供したランドセルを認識できたのもマルフェールだけだった。現に今こうして、元々は七岡少年の物だったシャーペンを携え、衣奈に狙いを定めているという事自体が、こちらの世界への接触が可能な事を示している。
となると、マルフェールがその気になれば、こちらに危害を加える事も可能だという事だ。また、逆にこちらがマルフェールを殺そうと思えば、それも出来る。いや、果たして出来るのだろうか?
過酷で深刻な問題に対して、改めてじっくりと悩んでいる時間は与えられなかった。マルフェールはまるで拳銃の引き金でもひくように、構えたシャーペンを一度後方に引きこみ、ギリギリまで張った弓の弦のように蓄えた。無論、狙いは魔王、つまり衣奈にある。
「やめろ! マルフェール!」
七岡少年が危険を察し、咄嗟に手を伸ばした。
マルフェールの4本腕から解き放たれたシャーペンは、まさしく拳銃にも弓にも劣らないような速さで、七岡少年の手の平に突き刺さった。貫通こそしなかったものの、その威力は絶大だった。
瞬間に、七岡少年の神経が激痛を伝える。
「七岡君!」
それは、七岡少年にとって、これまでの人生で1度も経験した事のない程の肉体的な痛みであると同時に、精神的な痛みも伴っていた。条件を揃え、場所を提供し、数多の知恵を授け、共に生きてきた親しい友人が、急に鋭い牙を剥いて襲いかかってきたのだからそれも仕方が無い。
「ぐ……くぅ……」
シャーペンは確かに一度、マルフェールの元を離れたが、4本腕の1本は解き放った瞬間にも絡まっており、七岡少年が痛みに喘ぎ、左手に受けた傷を右手でかばった時には既に、シャーペンはマルフェールの元に戻っていた。
「神様! 何故邪魔をされるのですか!? 我輩は魔王を倒さなければなりませぬ! まさかもう1人の神様も、魔王の仲間だとでも言うのですか!?」
七岡少年はドクドクと流れ出る自らの血を見ながら、それでもなおマルフェールに対して反撃をする気が起きない自分に気づいた。相手は小さい、それにこちらは2人だ。シャーペンの射出攻撃は厄介だが、本気で戦えば勝つ方は目に見えている。しかしだからこそ、気軽にそれをしてはいけないのだ。
「待て、待ってくれマルフェール……」
懸命に、1つ1つ丁寧に言葉を紡ぐ。
「衣奈は……いや、もう1人の神様は、少し手段を間違えただけなんだ。誰にだってある事だ。仕方ない事なんだ……」
衣奈も決して馬鹿ではない。自分が間違えた事をしているという事には気づいていたが、それでも、戦争を止める手段はそれしかないと思っていた。七岡少年の言葉を聞いて、揺ぎ無い現実に直面し、心に何かが渦巻く。
七岡少年は振り返り、今度はマルフェールに向けてではなく、衣奈に対して言葉を発する。
「誰だって間違えるんだ……だから、たまに戦いになるんだろ? 戦いになりさえすれば、勝った方が正しいって事になって、負けた方が間違えた事になる。簡単な事さ。……でも、上手く言えないけど、それっておかしいと思わないか? だって……誰だって間違えるんだから。間違える事が悪い事だというなら、地獄はすぐに満員になっちまう」
言い終えた後、七岡少年は衣奈に向かって微笑んだ。
ここ数年、衣奈の胸中にはずっと得体の知れない、形容しがたい、嫌な物が常に蠢いているような状況だった。七岡少年の言葉は、それを少しだけ、いや随分と軽くした。「間違い」を認め、それによって生じる全ての愚かな事も認める。衣奈には無い、大きな発想だった。
「私……私……」
衣奈に嗚咽がこみ上げる。困惑気味のマルフェールは、それを振り払うように声を張り上げる。
「我輩には使命があります! それは国民を脅かし、平和を破壊する魔王をこらしめる事であります!」
再び、マルフェールがシャーペンを構える、先ほどの一撃がまた飛んでくる予感。
「逃げよう!」
七岡少年が叫び、血に濡れた右手で衣奈の手を掴んで走り出すと、衣奈の背後をシャーペンがかすめた。
下を向けば、そこに小さな生き物がいる。
黒い体は頭と一体になっていて、銀色に光る兜を被り、その下から生えた4本の腕で、シャーペンという名の神槍を構えた1人の勇者。その名はマルフェール、使命は魔王を倒す事だった。
「マルフェール、よせ」
七岡少年はそう言いながらも、マルフェールにその刃を収めさせる有効な手段が思いつけずに焦る。
衣奈は両目に涙を溜めながらマルフェールを見つめ、どうしたら良いのか分からずに、ただ本を抱えて震えていた。
まずい、と七岡少年は思う。
マルフェールは唯一、あちら側の生物でありながら、こちらの世界に干渉出来る存在である。神官は、初代の神官も含め、その帽子と杖を持って、神と接触する事を可能にしていたが、マルフェールだけはそうではない。手に乗せる事が出来たのもそうだし、住処が必要になった時、七岡少年の提供したランドセルを認識できたのもマルフェールだけだった。現に今こうして、元々は七岡少年の物だったシャーペンを携え、衣奈に狙いを定めているという事自体が、こちらの世界への接触が可能な事を示している。
となると、マルフェールがその気になれば、こちらに危害を加える事も可能だという事だ。また、逆にこちらがマルフェールを殺そうと思えば、それも出来る。いや、果たして出来るのだろうか?
過酷で深刻な問題に対して、改めてじっくりと悩んでいる時間は与えられなかった。マルフェールはまるで拳銃の引き金でもひくように、構えたシャーペンを一度後方に引きこみ、ギリギリまで張った弓の弦のように蓄えた。無論、狙いは魔王、つまり衣奈にある。
「やめろ! マルフェール!」
七岡少年が危険を察し、咄嗟に手を伸ばした。
マルフェールの4本腕から解き放たれたシャーペンは、まさしく拳銃にも弓にも劣らないような速さで、七岡少年の手の平に突き刺さった。貫通こそしなかったものの、その威力は絶大だった。
瞬間に、七岡少年の神経が激痛を伝える。
「七岡君!」
それは、七岡少年にとって、これまでの人生で1度も経験した事のない程の肉体的な痛みであると同時に、精神的な痛みも伴っていた。条件を揃え、場所を提供し、数多の知恵を授け、共に生きてきた親しい友人が、急に鋭い牙を剥いて襲いかかってきたのだからそれも仕方が無い。
「ぐ……くぅ……」
シャーペンは確かに一度、マルフェールの元を離れたが、4本腕の1本は解き放った瞬間にも絡まっており、七岡少年が痛みに喘ぎ、左手に受けた傷を右手でかばった時には既に、シャーペンはマルフェールの元に戻っていた。
「神様! 何故邪魔をされるのですか!? 我輩は魔王を倒さなければなりませぬ! まさかもう1人の神様も、魔王の仲間だとでも言うのですか!?」
七岡少年はドクドクと流れ出る自らの血を見ながら、それでもなおマルフェールに対して反撃をする気が起きない自分に気づいた。相手は小さい、それにこちらは2人だ。シャーペンの射出攻撃は厄介だが、本気で戦えば勝つ方は目に見えている。しかしだからこそ、気軽にそれをしてはいけないのだ。
「待て、待ってくれマルフェール……」
懸命に、1つ1つ丁寧に言葉を紡ぐ。
「衣奈は……いや、もう1人の神様は、少し手段を間違えただけなんだ。誰にだってある事だ。仕方ない事なんだ……」
衣奈も決して馬鹿ではない。自分が間違えた事をしているという事には気づいていたが、それでも、戦争を止める手段はそれしかないと思っていた。七岡少年の言葉を聞いて、揺ぎ無い現実に直面し、心に何かが渦巻く。
七岡少年は振り返り、今度はマルフェールに向けてではなく、衣奈に対して言葉を発する。
「誰だって間違えるんだ……だから、たまに戦いになるんだろ? 戦いになりさえすれば、勝った方が正しいって事になって、負けた方が間違えた事になる。簡単な事さ。……でも、上手く言えないけど、それっておかしいと思わないか? だって……誰だって間違えるんだから。間違える事が悪い事だというなら、地獄はすぐに満員になっちまう」
言い終えた後、七岡少年は衣奈に向かって微笑んだ。
ここ数年、衣奈の胸中にはずっと得体の知れない、形容しがたい、嫌な物が常に蠢いているような状況だった。七岡少年の言葉は、それを少しだけ、いや随分と軽くした。「間違い」を認め、それによって生じる全ての愚かな事も認める。衣奈には無い、大きな発想だった。
「私……私……」
衣奈に嗚咽がこみ上げる。困惑気味のマルフェールは、それを振り払うように声を張り上げる。
「我輩には使命があります! それは国民を脅かし、平和を破壊する魔王をこらしめる事であります!」
再び、マルフェールがシャーペンを構える、先ほどの一撃がまた飛んでくる予感。
「逃げよう!」
七岡少年が叫び、血に濡れた右手で衣奈の手を掴んで走り出すと、衣奈の背後をシャーペンがかすめた。
お化けビルの階段を落ちるように降り、外に飛び出した2人を待ち構えていたのは、ゴローだった。
「やっと出てきたか……って、どうした!?」
尋常ではない七岡少年の状態を見て、ゴローは驚きの声をあげる。
「ゴロー兄ちゃん!」
七岡少年は後ろを振り返る。追いかけてくる様子はない。おそらく、捕らわれた国民を解放する為に、マルフェールは街の城壁を囲むマモノの群れを相手に戦っているのだろう。
衣奈の片手にある本と、七岡少年の手の怪我を見てゴローは叫ぶ。
「お、お前ら、最終段階まで進めちまってたのか!?」
「最終段階?」
「説明は後だ。とにかく病院に行こう」
突きささった場所が良かった、と医者は言った。手術は1時間ほどで終わり、縫ったのも10針で済んだ。抜糸は2週間後だそうで、後は少しだけ残るかもしれないという。
両親の質問攻めからようやく解放され、手の平を包帯でぐるぐる巻きにされた七岡少年が、ゴローと衣奈の待つ七岡古書店に戻ってきたのは、夜の7時頃だった。
普段は店主の七岡つるがテレビを見るだけの小さな居間に、ゴローと衣奈がちゃぶ台を挟んで座っていた。
「なんて言い訳したんだ?」
ゴローがにやにやしながら尋ねると、七岡少年は「転んでたまたまシャーペンがある所に手の平がいったんだ」と答え、「それは無理があるなあ少年」と笑われた。衣奈は俯いたまま何も言わず、表情は暗い。
「さて、どこから話そうか」
と、ゴローは顎を指でかく。七岡少年はちゃぶ台の前に座り、「1から頼むよ」と言った。
「よしきた。じゃあ、俺が本の事を調べて教えた途端に、お前さんが逃げ出した所からだな」と嫌味を言って、話は始まった。
「まず初めに、これは何だと思う?」
ゴローが取り出したのは、衣奈が大事そうに抱えている、「魔界の開拓史」とそっくり瓜二つの本だった。魔法の本で、伝説の本であるあの本が、もう1冊あったとは。狐につままれたような顔をする七岡少年に、ゴローは得意げに続けた。
「結論から言うとだな。お前らが持っていた本、あれは下巻だ」
「やっと出てきたか……って、どうした!?」
尋常ではない七岡少年の状態を見て、ゴローは驚きの声をあげる。
「ゴロー兄ちゃん!」
七岡少年は後ろを振り返る。追いかけてくる様子はない。おそらく、捕らわれた国民を解放する為に、マルフェールは街の城壁を囲むマモノの群れを相手に戦っているのだろう。
衣奈の片手にある本と、七岡少年の手の怪我を見てゴローは叫ぶ。
「お、お前ら、最終段階まで進めちまってたのか!?」
「最終段階?」
「説明は後だ。とにかく病院に行こう」
突きささった場所が良かった、と医者は言った。手術は1時間ほどで終わり、縫ったのも10針で済んだ。抜糸は2週間後だそうで、後は少しだけ残るかもしれないという。
両親の質問攻めからようやく解放され、手の平を包帯でぐるぐる巻きにされた七岡少年が、ゴローと衣奈の待つ七岡古書店に戻ってきたのは、夜の7時頃だった。
普段は店主の七岡つるがテレビを見るだけの小さな居間に、ゴローと衣奈がちゃぶ台を挟んで座っていた。
「なんて言い訳したんだ?」
ゴローがにやにやしながら尋ねると、七岡少年は「転んでたまたまシャーペンがある所に手の平がいったんだ」と答え、「それは無理があるなあ少年」と笑われた。衣奈は俯いたまま何も言わず、表情は暗い。
「さて、どこから話そうか」
と、ゴローは顎を指でかく。七岡少年はちゃぶ台の前に座り、「1から頼むよ」と言った。
「よしきた。じゃあ、俺が本の事を調べて教えた途端に、お前さんが逃げ出した所からだな」と嫌味を言って、話は始まった。
「まず初めに、これは何だと思う?」
ゴローが取り出したのは、衣奈が大事そうに抱えている、「魔界の開拓史」とそっくり瓜二つの本だった。魔法の本で、伝説の本であるあの本が、もう1冊あったとは。狐につままれたような顔をする七岡少年に、ゴローは得意げに続けた。
「結論から言うとだな。お前らが持っていた本、あれは下巻だ」
魔界の開拓史は上下巻で1セットだったのだ。
七岡少年を取り逃がした後、ゴローは七岡古書店に行き、本棚を片っ端からひっくり返して、上巻を探した。一応、店主である七岡つるの許可はもらったが、本人はゴローが店に来た事すら未だに気づいていないかもしれない。だが普段から貸切状態なので、ゴローの探索は誰の邪魔も入らずにスムーズに行われた。
それから6時間ほどかけ、店中の本に埃まみれにされたゴローは、ついにその本を見つけた。
そしてつい先ほど、ようやく翻訳し終えて、七岡少年の姿を探していた所、ビルに入っていく2人を見かけ、外で待っていた、という経緯だった。
「さて、俺の分かる範囲で説明させてもらおうじゃないか。分からない事があっても質問はするなよ。俺だって良く分からんのだからな」
魔界の開拓史。この奇書は、今から100年以上前に、とあるドイツ人の天才作家が、ある日突然現れた悪魔から買った魔法のインクで書いた本だという噂がある。真偽の程は定かではないが、そうでもない限り、本によって引き起こされたあらゆる事象に対する説明はままならない。
魔法のインクを手に入れた作家は、歴史に残る作品を書きたかった。志のある大抵の作家がそうであるように、彼もそうだった。自分の作った作品が、今までの、そしてこれからのありとあらゆる作品の中で「最高」である事。それは究極の理想だった。
歴史に残る作品。良く良く考えてみれば、なんとも無謀な定義である。
言うまでもなく、人間には未来が分からない。予測する事は出来るが、予知は出来ないし、寿命は限られている。その作品が歴史に残ったかどうか、それを確かめる術はない。今更説明しなくとも当たり前の事だ。
それでも作家はその無謀な願いを本気で叶えたかった。何せ自分の魂を売ってまで手に入れた魔法のインクだ。ただ良く出来た作品を書くには何とももったいない。
そこで、作家はこう考えた。
必ず歴史に残る作品を書くには、その作品で歴史を終わらせればいい。
しかし歴史が終わり、人が誰もいなくなってしまったら、それは果たして歴史に残ったと言えるのだろうか。
矛盾。たかが1人の人間風情に、神の如き所業をさせぬ為に作られた茨の罠のように思えた。
だが、作家は天才だった。そして同時に、狂人でもあった。
魔界の開拓史の上巻は、勇者マルフェールの冒険記が躍動感たっぷりにしたためられている。1行1行が強烈に記憶に刻み付けられるかのような力強い物語で、それは確かに名作といえた。
そして本の最後で、筆者は読者に選択を迫る。滅びを選択し、物語の続きを読むか、それとも本を閉じ、全てを忘れるか。
ゴローは手にした上巻の最後のページを開き、2人に見せた。そこにはちょうど手の平の形に文字がびっしりと書かれており、禍々しい雰囲気が感じられた。
「ここに手を当てると、世界が滅びるらしい。まあ、どう滅びていくのは分からんがね。巨大な地震でもくるのか、はたまた隕石でも降ってくるのか」
事もなげにゴローがそう言ったので、七岡少年は確認する。
「世界って、こっちの世界の事?」
「ああそうだ。俺達の住むこの世界の事だ」
とんだ黙示録もあったものだ。ネクロノミコンよりタチが悪い。
「人間ってのはなんとも恐ろしいもんだ。時に、悪魔よりも自分勝手な事を考える奴がいる」
魔界の開拓史の下巻。それは、そのタイトルに忠実な内容となっている。
作家は歴史に名を残したかった。その目的を達成する為には、世界を滅ぼすだけではまだ足りなかった。しかし作家がとれる手段など、創造にしかありえない。
あとは、ここ数日、七岡少年と衣奈が遭遇した冒険に照らし合わせて考えてみれば分かりやすいだろう。奇妙な生物は人間の知恵を求め、苦難を克服し、発明と発展を繰り返し、革命戦争を起こした。創られたのは、紛れも無く人間の歴史そのものである。そして最後には、魔王が襲撃し、勇者マルフェールが立ち上がる。見事に魔王を討ち取って、新しい世界はハッピーエンドを迎え、物語もそこで終わる。最終段階、とはここの事だ。
つまり、この本は人間の歴史を終わらせ、そして新しい歴史を創る為の本だったのだ。作家の書いた作品はその終わりと始まりに位置し、未来永劫に残る。歴史を作品に刻み付けると同時に、作品に歴史を刻みつける。
果たして、その「ぶっ飛んだ」発想力に、困ったのは魔法のインクを売った悪魔の方だった。
仕方なく、悪魔は本に呪いをかけた。作品の製作には協力する。が、読者の保障まではしない。まさに古からある、悪魔流の、由緒正しき取引作法に則って、本は封じられ、いわくがつき、そして闇から闇へと深く深く埋まっていった。100年の時を経て、本の封印が解かれた時、それを手にしていたのは3人の日本人だった。
「……つる婆ちゃんの本屋は一旦ちゃんと調査した方がいいな。他にも一体何が埋まっているのか、分かったもんじゃない」
この数日、ゴローはインターネットを総ざらいし、隣の県まで大きな図書館を見に行き、古美術に詳しい大学の教授を訪ね歩き、様々な手段を用いて、魔界の開拓史について調べていた。言ってしまえば金の為なのであるが、それとは別に、童心から来る知的好奇心もあった事は否定できない。
その努力によって掘り起こされた代物は、まったくもって荒唐無稽な、狂人のうわごとのような話だったが、それは語ったゴロー本人も分かっているようで、「まあ、所詮は噂と想像と推察を組み合わせた話だ。どこまでが本当だか分かりゃしないがな。俺の見た所、かなりの部分が真実らしい」と、ゴローは七岡少年の手の平を指さした。
七岡少年はまだ麻酔の切れない手をさすった。
「それにしても、骨折り損のくたびれ儲けとはまさにこの事だ」
ゴローは衣奈から本を受け取り、ぱらぱらとめくった。
不思議そうに見つめる2人に、ゴローは説明する。
「下巻はこの通り、お前らが読んじまったせいでほとんど白紙になっちまった。これじゃ本物かどうか判定も出来ないし、売れないだろうよ。気づいていたか? お前らの作った国ってのは、お前らにしか見えないんだ。他人に証明のしようがない。つまり売れやしないって事さ」
「なら、上巻の方は?」と七岡少年。
「阿呆か。世界を滅ぼす本なんて、売る訳がない。少なくとも、金よりゃ命の方が俺はいい。これはどこかで俺が責任とって燃やすとするさ」
ゴローの話を聞き終えた七岡少年は、なんとも言えない脱力感に襲われた。が、まだ何も終わってない。
七岡少年は衣奈の方は決して見ずに、くやしそうに尋ねる。
「ゴロー兄ちゃん、俺は……どうすればいい?」
その質問によって、七岡少年は自分の非を認めた。ちょっと知っている事を教えただけで、マルフェールや神官、村人達に神と崇められ、その気になっていた自分を深く恥じる気持ちがあった。得体の知れない物に衣奈を巻き込んだ事も、大きな失敗だった。あの本は、そして自分のした事は、小学生の限界を遥かに超えていた。結局はこうして、大人に泣きつくしかない自分の情けなさを侮蔑し、それでもなお、何か出来ないだろうかと考えたのだ。
ゴローは答えた。
「何もしなくていい」
七岡少年は噛み付くように叫ぶ。
「どうして!?」
途端、ゴローは心底嫌そうな顔をして、こう訊き返した。
「ただ本を読み進めて、神と魔王の役割を人間にやらせるには、1人で十分だよな? どうしてわざわざ『2人で』なんて条件をつけたんだと思う?」
七岡少年と衣奈の頭の上に、疑問符が浮かぶ。
「……はぁ。まあいいさ。とにかく、当分あのビルには近づかない事だな。あとはもう知らんよ」
ゴローはそう言うと、ふてくされながら部屋から出て行った。
残された2人は、ゴローの言葉と態度の意味がまだ分からず、沈黙を続けた。
罪悪感に押しつぶされそうになっている衣奈の表情を見ていて、七岡少年は何か言葉をかけなければならないと思った。しかし、何の言葉をかけても良いのやら……と、その時七岡少年の頭に天啓が舞い降りた。
「今更かもしれないけど……ウサギの件、ありがとうな」
エピローグ
学校は夏休みに突入した。七岡少年は飼育係として、衣奈は新しい本を借りる為、学校に足しげく通っている。……というのはお互いに言い訳だった。
「自由研究の方は順調?」
と、すっかり元気を取り戻した衣奈が七岡少年に尋ねる。
「んー……順調といえば順調だけど、やっぱ物足りないな」
蟻の観察、というベタな物を自由研究のテーマとしてチョイスした七岡少年も七岡少年だったが、何せ一国を築き上げた後の事だ。何をした所で物足りなく感じる。
「そういえば、衣奈は自由研究何にしたんだ?」
「私? 私は……この町の歴史を調べて、年表を作ろうと思っているの」
「真面目だなぁ」
「ふふ、そう?」
衣奈は良く笑うようになった。七岡少年と一緒にいる時も、そうでない時も。友達も増えたようで、雰囲気も少し変わった。
「だけど、もう3ヶ月か……」
七岡少年が太陽を見つめて、そう呟く。
ゴローに言われた通り、あれからお化けビルには近づいていない。マルフェールが衣奈の事をまだ探しているとしたら、何か対策を立てるべきだと七岡少年はゴローに提案したが、それは否定された。曰く、「お前らが仲良くしてさえいれば現れんさ」との事で、これには2人とも首を傾げた。
そしてゴローの言葉通り、今の所マルフェールは2人の前に現れていない。現れる気配もない。物語は、魔王の逃亡という形で決着したという事だろうか。
「七岡君、それじゃ、また明日ね」
「ああ。また明日」
と返事をした七岡少年は、「本を読み進めるのに2人でなければならない理由」をまた考え始めるが、その答えが分かるのはまだもう少し先の事だった。
七岡少年を取り逃がした後、ゴローは七岡古書店に行き、本棚を片っ端からひっくり返して、上巻を探した。一応、店主である七岡つるの許可はもらったが、本人はゴローが店に来た事すら未だに気づいていないかもしれない。だが普段から貸切状態なので、ゴローの探索は誰の邪魔も入らずにスムーズに行われた。
それから6時間ほどかけ、店中の本に埃まみれにされたゴローは、ついにその本を見つけた。
そしてつい先ほど、ようやく翻訳し終えて、七岡少年の姿を探していた所、ビルに入っていく2人を見かけ、外で待っていた、という経緯だった。
「さて、俺の分かる範囲で説明させてもらおうじゃないか。分からない事があっても質問はするなよ。俺だって良く分からんのだからな」
魔界の開拓史。この奇書は、今から100年以上前に、とあるドイツ人の天才作家が、ある日突然現れた悪魔から買った魔法のインクで書いた本だという噂がある。真偽の程は定かではないが、そうでもない限り、本によって引き起こされたあらゆる事象に対する説明はままならない。
魔法のインクを手に入れた作家は、歴史に残る作品を書きたかった。志のある大抵の作家がそうであるように、彼もそうだった。自分の作った作品が、今までの、そしてこれからのありとあらゆる作品の中で「最高」である事。それは究極の理想だった。
歴史に残る作品。良く良く考えてみれば、なんとも無謀な定義である。
言うまでもなく、人間には未来が分からない。予測する事は出来るが、予知は出来ないし、寿命は限られている。その作品が歴史に残ったかどうか、それを確かめる術はない。今更説明しなくとも当たり前の事だ。
それでも作家はその無謀な願いを本気で叶えたかった。何せ自分の魂を売ってまで手に入れた魔法のインクだ。ただ良く出来た作品を書くには何とももったいない。
そこで、作家はこう考えた。
必ず歴史に残る作品を書くには、その作品で歴史を終わらせればいい。
しかし歴史が終わり、人が誰もいなくなってしまったら、それは果たして歴史に残ったと言えるのだろうか。
矛盾。たかが1人の人間風情に、神の如き所業をさせぬ為に作られた茨の罠のように思えた。
だが、作家は天才だった。そして同時に、狂人でもあった。
魔界の開拓史の上巻は、勇者マルフェールの冒険記が躍動感たっぷりにしたためられている。1行1行が強烈に記憶に刻み付けられるかのような力強い物語で、それは確かに名作といえた。
そして本の最後で、筆者は読者に選択を迫る。滅びを選択し、物語の続きを読むか、それとも本を閉じ、全てを忘れるか。
ゴローは手にした上巻の最後のページを開き、2人に見せた。そこにはちょうど手の平の形に文字がびっしりと書かれており、禍々しい雰囲気が感じられた。
「ここに手を当てると、世界が滅びるらしい。まあ、どう滅びていくのは分からんがね。巨大な地震でもくるのか、はたまた隕石でも降ってくるのか」
事もなげにゴローがそう言ったので、七岡少年は確認する。
「世界って、こっちの世界の事?」
「ああそうだ。俺達の住むこの世界の事だ」
とんだ黙示録もあったものだ。ネクロノミコンよりタチが悪い。
「人間ってのはなんとも恐ろしいもんだ。時に、悪魔よりも自分勝手な事を考える奴がいる」
魔界の開拓史の下巻。それは、そのタイトルに忠実な内容となっている。
作家は歴史に名を残したかった。その目的を達成する為には、世界を滅ぼすだけではまだ足りなかった。しかし作家がとれる手段など、創造にしかありえない。
あとは、ここ数日、七岡少年と衣奈が遭遇した冒険に照らし合わせて考えてみれば分かりやすいだろう。奇妙な生物は人間の知恵を求め、苦難を克服し、発明と発展を繰り返し、革命戦争を起こした。創られたのは、紛れも無く人間の歴史そのものである。そして最後には、魔王が襲撃し、勇者マルフェールが立ち上がる。見事に魔王を討ち取って、新しい世界はハッピーエンドを迎え、物語もそこで終わる。最終段階、とはここの事だ。
つまり、この本は人間の歴史を終わらせ、そして新しい歴史を創る為の本だったのだ。作家の書いた作品はその終わりと始まりに位置し、未来永劫に残る。歴史を作品に刻み付けると同時に、作品に歴史を刻みつける。
果たして、その「ぶっ飛んだ」発想力に、困ったのは魔法のインクを売った悪魔の方だった。
仕方なく、悪魔は本に呪いをかけた。作品の製作には協力する。が、読者の保障まではしない。まさに古からある、悪魔流の、由緒正しき取引作法に則って、本は封じられ、いわくがつき、そして闇から闇へと深く深く埋まっていった。100年の時を経て、本の封印が解かれた時、それを手にしていたのは3人の日本人だった。
「……つる婆ちゃんの本屋は一旦ちゃんと調査した方がいいな。他にも一体何が埋まっているのか、分かったもんじゃない」
この数日、ゴローはインターネットを総ざらいし、隣の県まで大きな図書館を見に行き、古美術に詳しい大学の教授を訪ね歩き、様々な手段を用いて、魔界の開拓史について調べていた。言ってしまえば金の為なのであるが、それとは別に、童心から来る知的好奇心もあった事は否定できない。
その努力によって掘り起こされた代物は、まったくもって荒唐無稽な、狂人のうわごとのような話だったが、それは語ったゴロー本人も分かっているようで、「まあ、所詮は噂と想像と推察を組み合わせた話だ。どこまでが本当だか分かりゃしないがな。俺の見た所、かなりの部分が真実らしい」と、ゴローは七岡少年の手の平を指さした。
七岡少年はまだ麻酔の切れない手をさすった。
「それにしても、骨折り損のくたびれ儲けとはまさにこの事だ」
ゴローは衣奈から本を受け取り、ぱらぱらとめくった。
不思議そうに見つめる2人に、ゴローは説明する。
「下巻はこの通り、お前らが読んじまったせいでほとんど白紙になっちまった。これじゃ本物かどうか判定も出来ないし、売れないだろうよ。気づいていたか? お前らの作った国ってのは、お前らにしか見えないんだ。他人に証明のしようがない。つまり売れやしないって事さ」
「なら、上巻の方は?」と七岡少年。
「阿呆か。世界を滅ぼす本なんて、売る訳がない。少なくとも、金よりゃ命の方が俺はいい。これはどこかで俺が責任とって燃やすとするさ」
ゴローの話を聞き終えた七岡少年は、なんとも言えない脱力感に襲われた。が、まだ何も終わってない。
七岡少年は衣奈の方は決して見ずに、くやしそうに尋ねる。
「ゴロー兄ちゃん、俺は……どうすればいい?」
その質問によって、七岡少年は自分の非を認めた。ちょっと知っている事を教えただけで、マルフェールや神官、村人達に神と崇められ、その気になっていた自分を深く恥じる気持ちがあった。得体の知れない物に衣奈を巻き込んだ事も、大きな失敗だった。あの本は、そして自分のした事は、小学生の限界を遥かに超えていた。結局はこうして、大人に泣きつくしかない自分の情けなさを侮蔑し、それでもなお、何か出来ないだろうかと考えたのだ。
ゴローは答えた。
「何もしなくていい」
七岡少年は噛み付くように叫ぶ。
「どうして!?」
途端、ゴローは心底嫌そうな顔をして、こう訊き返した。
「ただ本を読み進めて、神と魔王の役割を人間にやらせるには、1人で十分だよな? どうしてわざわざ『2人で』なんて条件をつけたんだと思う?」
七岡少年と衣奈の頭の上に、疑問符が浮かぶ。
「……はぁ。まあいいさ。とにかく、当分あのビルには近づかない事だな。あとはもう知らんよ」
ゴローはそう言うと、ふてくされながら部屋から出て行った。
残された2人は、ゴローの言葉と態度の意味がまだ分からず、沈黙を続けた。
罪悪感に押しつぶされそうになっている衣奈の表情を見ていて、七岡少年は何か言葉をかけなければならないと思った。しかし、何の言葉をかけても良いのやら……と、その時七岡少年の頭に天啓が舞い降りた。
「今更かもしれないけど……ウサギの件、ありがとうな」
エピローグ
学校は夏休みに突入した。七岡少年は飼育係として、衣奈は新しい本を借りる為、学校に足しげく通っている。……というのはお互いに言い訳だった。
「自由研究の方は順調?」
と、すっかり元気を取り戻した衣奈が七岡少年に尋ねる。
「んー……順調といえば順調だけど、やっぱ物足りないな」
蟻の観察、というベタな物を自由研究のテーマとしてチョイスした七岡少年も七岡少年だったが、何せ一国を築き上げた後の事だ。何をした所で物足りなく感じる。
「そういえば、衣奈は自由研究何にしたんだ?」
「私? 私は……この町の歴史を調べて、年表を作ろうと思っているの」
「真面目だなぁ」
「ふふ、そう?」
衣奈は良く笑うようになった。七岡少年と一緒にいる時も、そうでない時も。友達も増えたようで、雰囲気も少し変わった。
「だけど、もう3ヶ月か……」
七岡少年が太陽を見つめて、そう呟く。
ゴローに言われた通り、あれからお化けビルには近づいていない。マルフェールが衣奈の事をまだ探しているとしたら、何か対策を立てるべきだと七岡少年はゴローに提案したが、それは否定された。曰く、「お前らが仲良くしてさえいれば現れんさ」との事で、これには2人とも首を傾げた。
そしてゴローの言葉通り、今の所マルフェールは2人の前に現れていない。現れる気配もない。物語は、魔王の逃亡という形で決着したという事だろうか。
「七岡君、それじゃ、また明日ね」
「ああ。また明日」
と返事をした七岡少年は、「本を読み進めるのに2人でなければならない理由」をまた考え始めるが、その答えが分かるのはまだもう少し先の事だった。