研究家族
四 研究家族
れもん達の帰った後、女の子は子猫を自分の部屋でいとおしそうに撫でていた。
「ほんとに、よかった……」
ベッドの毛布の上で丸くなり、身を寄せ合って眠る三匹の子猫たち。
数日前、研究者の父が電話口で言った言葉を、彼女は――有明亜里沙(ありあけ ありさ)はまだはっきりと覚えている。
『ヤマト……あの黒猫か? あいつも死んだ。実験は失敗だ』
その一言だけで、その死体はどこへ運んだのか、どう処理したのかについては何も教えてくれなかった。
しかし、亜里沙もその言葉に食い下がろうとはしない。
父は、有明明(ありあけ あきら)はいつもそうだったからだ。
亜里沙の母が事故で命を落としてから、明はずっと町外れにある国立の研究室にこもりっきりで、最近は顔すらほとんど合わせていない。
時たまかかってくる電話だけが、彼の生きている証拠となっていた。
だが、そんな父でも亜里沙は嫌いになることはできないでいる。
父のことを、亜里沙は好きなのだ。
嫌われたくなかったのかもしれない。
単に本当は性格の優しいお父さんだということを、自分が一番知っているという自負があるからだけかもしれない。
過去の記憶が、彼女を締め付けているのだけは確かだ。
だが結局、自分でもよくわからない。
とにかく、母が死んでから家族がバラバラになりそうで、亜里沙は怖かった。
だから、こうしてなんとか今この状態を保てているなら、それでよかったのだ。
もしかしたら、逃げているのかもしれない。
だけど、何から逃げているのかは分からない。
電話越しの父の声が、日を追う毎に無感情になるのを亜里沙は気付かない振りをした。
いつもと変わらない父を、電話の向こうに築き上げる努力をした。
そんなことを続けていたある日突然、研究所の職員達が家にやってきて亜里沙と一緒に暮らしていた動物を皆連れていってしまったのだ。
カナリアや犬、ハムスターに亀。
大小ほとんどの動物が、父の実験に駆り出されてしまった。
幸いにも、亜里沙がとっさに押し入れに隠していた子猫三匹は何とか難を逃れることができた。
ところが、その三匹もヤマトの死んだあと、家を出て行ってしまったのである。
恐らく、ヤマトの身に何かあったことを、彼女の様子で知ったのだろう。
よどみない瞳で、じいっと見つめられていたあの日。
亜里沙はただ、受話器を抱いて泣いていることしか出来なかった。
「でも、ホントによかった……」
今日の出来事は、亜里沙にとって本当に夢物語だった。
失踪した子猫達と、死んだはずのヤマトがこの家に戻ってきてくれたのだ。
彼等を連れてきてくれたあの二人の女の子たちは、一体何者だったのだろう。
あの時見たヤマトは弱ってはいたが、確かに生きていた。
あれは、間違いなくヤマトだった。
「お礼……しなくっちゃ」
あんまり嬉しかったので、ろくにお礼も出来ずに返してしまったが、亜里沙としてはちゃんとお礼を言いたい。
あのほっそりとして色白の女の子は、ヤマトを治療していると言っていた。
なら、今度もまたこの家に連れて来てくれるのだろうか。
わずかに浮き上がった淡い期待を、彼女は子猫達と一緒に抱きしめる。
窓の外では、星がいつもより沢山光って見える。
幻想的な光景に目を奪われて、亜里沙はしばらくぼうっとしていた。
部屋の照明は既に暗くしてある。
このまま子猫達と一緒に、自分も寝よう。
そう思って、体をベットに寝かせようとしたら、電話が鳴った。
枕元にあるそれを手にとって、耳に当てる。
父からの電話だった。
「もしもし、お父さん?」
「一つ答えてくれ」
「え? 何?」
父にしては珍しく、いつもの淡々とした声調とは打って変わって荒い息使いが聞こえてくる。
思わず亜里沙は聞き返してしまったが、それに構わず父は言葉を続ける。
「今日、お前の所にヤマトが来たそうだな」
「えっ」
「そのヤマトを連れてきた女を二人、覚えているな?」
「ど、どういうこと?」
何もかもを知っているような口ぶりに、亜里沙は恐ろしくなってしまい、思わず言ってしまった。
「なんで、そんなこと」
「覚えているんだな!?」
「ひ……」
途端、父は罵声を上げて彼女に冷徹な言葉を浴びせる。
「自宅の玄関の監視カメラに、映っていたのを見つけたんだ! あれは間違いなくヤマトだったんだな!?」
「う、うん」
おどおどとうなずきながら答えると、父の声は少し上ずった。
「そうか……そうか!」
「お父さん……?」
父が何を考えているのか分からない。
ただ、それがとても恐ろしいことだというのは、嫌になるほどよく分かる。
「おい亜里沙。そこに子猫が三匹いるようだが」
「え……?」
一瞬戸惑ったが、恐らくあの場の一部始終を見ていてすべてお見通しなのだろう。
亜里沙は何も言えずに沈黙した。
「その三匹の猫を、今度実験に使う」
「え? そんな……!」
非情なまでに冷徹な言葉が、亜里沙に突き刺さった。
電話の向こうでは、父が低い笑いを響かせている。
「嫌か?」
「い、いや! 絶対いや!」
こんな子供の猫たちまでを実験で殺そうというのだろうか。
亜里沙はベッドの横で眠りこけている彼等に目をやる。
あまりに平和で可愛らしい、その寝顔。
とても、実験に連れていかせることなど、できない。
「やめて、お願い」
亜里沙は目に涙を浮かべて懇願した。
いつもなら絶対にしない、ある種の反抗。
怒鳴り返され、罰が与えられることは覚悟していた。
だが、意外なことに父は間を置いて、一言告げた。
「ひとつ、提案がある」
「え?」
「お前が今日会った女二人を、捕まえろ」
父が何を言っているのか、彼女には最初わからなかった。
「ど、どういうこと?」
「さもなくば、直ちに子猫は研究所に連れて行く」
それは、交換条件だったのだ。
あまりにも醜悪な、どちらも真っ黒に染まった選択肢を持つ、交換条件。
それが、亜里沙の前に提示されていた。
「できるだけ荒々しい手段は使いたくない。お前が家に誘い込んで睡眠薬で眠らせろ」
「や、やだ」
ヤマトの命の恩人に、まるでしっぺ返しのようなことをしろと言うのか。
そんなこと、できるはずがない。
首を振って否定すると、父は冷たい溜息をついた。
「馬鹿か。こちらは今すぐにでも子猫を実験に使ってもいいんだぞ」
「やだ……」
「お前は見ず知らずの人間のために、大事な子猫の命を生贄に捧げると言うのだな」
まるで宗教家のようなことを、科学者であるはずの父は口走る。
なんの根拠もない、ねじ曲がった定理を振りかざされているのが、よくわかった。
亜里沙は耳をふさぐようにして、否定する。
「や……」
「別に俺はその二人を殺すとは言っていない。ちょっと実験に参加してもらうだけだ」
「でも……」
父は次第に声色を変えていく。
「これ以上多くの動物を実験には使いたくないんだ。わかるか? 亜里沙?」
「…………」
演技だとわかっていても、本当に久しぶりに耳にする父の優しい声に、亜里沙はついに負けてしまった。
涙が自分の膝にポタポタと落ちていくのがわかる。
込み上げた感情は、静かに決壊を始めていた。
「……わかりました」
電話を切って、亜里沙は横になった。
横になって、泣き続けてシーツを濡らす。
その夜、涙が止まることは無かった。