帰ってきたれもん
七 帰ってきたれもん
「おおぉおおぉおォォ! れもん! れもんよォ!」
開け放しの玄関の扉からふらふらと入ってきたれもんに、火羽は抱きついた。
柔斗はその横で、腹を背に向けながら眠りこけている。火羽とずいぶん話し込んだせいで、いつのまにやら眠っていたのである。
「ほぉれおぬし! ちゃーんとれもんはワシのところに帰ってきたではないか!」
れもんの白いほおに自分のそれをめちゃくちゃにこすりつけながら、火羽は目をひんむいた。
彼がこんなに必死になっているのはわけがある。と、いうのも柔斗に自分の存在感と立場をしっかりとわからせてやりたいからだ。
一応お互いに話しあって理解は深めたものの、実際久しぶりに会う可愛いれもんを取られては大変。手出しは無駄であると言うつもりだった。
そのため、わざわざれもんの心に呼びかけていつもより早く帰ってきてもらったのである。
だが、当の柔斗はぐっすりと夢の中。火羽はムカついて柔斗の首根っこをつかみあげた。
「起きろっ! ワシとれもんの千年越しの信頼、縁、絆をその小さなメンタマによぉ~く刻みこんでおくんじゃ!」
「スー……スー……」
「き、貴様ぁ!!」
思わず柔斗を廊下の向こう側の小さなゴミ箱にフリースローしてやろうかと身構えたその時、れもんの手が肩に乗った。
「おじいちゃん……」
「おぉれもん! すまんな、ちょいと心をワシに惹き寄せさせてもらったぞい」
お互いのメンテナンスを行うれもんと火羽は、霊魂としてのつながりが強い。お互いの特性をよく知っているので、少しぐらい離れていてもテレパシーのように会話が出来る。
さらに、ちょっとだけなら本人の意志とは関係なしに操作することも可能なのである。
だが、火羽は寝起きのれもんが機嫌の悪いことを考慮していなかった。
「せっかく……せっかくたっぷり寝れると思ったのにぃいいい!」
ふわふわのソファーで眠れるはずが、お世辞にも並とは言えないボロい我が家に戻されてしまったのである。怒らないのも無理はない。
「おじいちゃん嫌い! マジで大嫌い!」
「な……」
れもんのダイレクトメッセージをその間十センチでモロに受けた火羽は、力無く膝から崩れ落ちてしまった。
彼の手元から転げ落ちた柔斗はようやくそこで目を覚まし、目の前に広がる異様な光景に目を見張った。
「ふぁ……あっと、こりゃなんだ」
鬼の形相のれもんとメデューサに見られたようにひざまずきうつむいたまま動かない火羽を見比べて、彼は本能的に危険を察知した。
「お、俺さんぽに行ってくる――」
玄関の引き戸の隙間から外に逃げようとしたその時。
「た、大変なの!」
「ぐえっ!」
突然隙間が広がり、甲高い声と一緒にそこから飛び出してきた靴により柔斗は吹っ飛ばされてしまった。
床の上をコロコロと転がる彼には、何が起きたのか見当もつかない。
「や、やだ! 私ったらこんな猫ちゃん蹴っ飛ばしちゃって……」
うめき声を上げて転がってゆく柔斗がようやく視界に入ったのか、声の持ち主の――年は三十代ぐらいに見えるその女性は柔斗をすかさず抱き上げた。
「ご、ごめんなさい。私、気が動転してて、気が付かなかったわ……」
「うぅ……」
フラフラする視界の先には、戸惑う様子のれもんがぼんやりと写り込んでいる。
そのれもんに、女性は言った。
「桃子が、桃子が誘拐されたの……!」
「えっ!?」
「何ッ!?」
騒がしい玄関が、一瞬にして凍りついたのが、柔斗にもよくわかった。
「ど、どいういうことなんですか?」
立ち尽くしたままで、れもんは目の前の女性――桃子の母親にたずねる。
桃子とはついさっき一緒に亜里沙の家に行ったばかりだ。まだ今なら、ゆっくりと二人で紅茶を飲んで話しているのだろうとれもんは思っていた。
桃子の母親は、柔斗を抱く手に力を込めながら、視線を宙にさ迷わせて言う。
「電話が……あの子の携帯電話から、電話がかかってきたのよ。私、普通に受話器を取って、それで……」
火羽が、桃子の母親の怯える肩にそっと、手をそえた。
そして往年の名作映画で聞けそうなダンディボイスで、先をうながす。
「それで、どうしたというんじゃ」
桃子の母親は火羽のことをよく知っている。彼女にとって火羽は数年前にここに越してきた時からお世話になっている隣人だ。
困ったときにはお互い様の精神でやってきたからこそ、さっきの情けない姿から打って変わった落ち着きのある様子に安心できるというものである。
さらにいえば、この見た目からして健康そのもののジジ臭い言い回しをする男からは、いつも底知れぬ自信を感じられるから、というのもあるかもしれない。
「電話に出たのよ。そうしたら、桃子じゃなくて、聞いたこともない男の人の声が……」
「男の声、ですか?」
れもんもまた、首をかしげてよくよく思考をめぐらせ始める。
生活習慣が昼夜逆転している彼女にとって、夜というのは本番――マジな時間である。暗闇の中、落ち着く魂がそこにはあった。
「えぇ。男の声が、脅すように言ったの。『お宅の桃子ちゃんを返してほしかったら、桃子ちゃんの友達を連れてきなさい』って」
「……どこに、連れて来いとの指示ですかの?」
火羽の鋭すぎる眼光に、思わず柔斗はビビってしまう。単純で、しかし巨大な怒りがそこにあるのをありありと感じられた。
「私がきいたら、その男はこう言ったわ。『お宅の桃子ちゃんの友達が、知ってると思いますよ』って……」
戸惑う視線をれもんに向けて、桃子の母親は弱々しく言った。
(おい、れもん!)
柔斗はうつむいたままのれもんに語りかけた。火羽もまた、れもんの方を見やる。
「……わかりました。私、確かに知ってます。だから、私が行きます」
「れもん、ワシも一緒に行かせてもらうぞい。あの桃子ちゃんを誘拐するとはなんたる愚か者、一度、いや三度ほどブチのめさなければ気がすまん」
すかさず火羽は彼女にハンズアップを示す――が、れもんは首を振った。
「断る、おじいちゃん」
「なっ」
「多分、相手は私が一人で来ないとももちゃんを返してくれないと思うの」
考えていた言葉を慎重に並べるように、れもんは続けていく。
「それに、もしおじいちゃんがついて行ったとしても……ももちゃんが人質になってるから、意味が無いし――」
「――なるほど、あえて一人で行って油断させる、ってわけか」
桃子の母親にはわからないように、柔斗は小声でれもんに相槌をうつ。
「そうですね」
「……ふむ」
火羽は納得したように咳払いをすると、桃子の母親に言った。
「すみませんが、ここからはわしらに任せてくださいますかの。桃子ちゃんは必ずお助けします」
「は、はい。お願いします……!」
桃子の母親は柔斗をれもんに手渡してから深々と頭を下げ、そのまま帰っていった。
玄関に残された二人と一匹は、そのまま廊下の置くへと消えていく。
「作戦会議の時間ですね……」
「うむ、そのようじゃな」
異様なまでに落ち着いているれもんと火羽。柔斗も落ち着いているものの、その中身、性質は違っている。
(桃子ちゃん――だったよな。ダメだ、まだ実感とかそういうのが湧いてこないんだ……)
今彼を抱いているれもんの友達、桃子とも、それに火羽、れもんともこの数日で出会ったばかりなのだ。
それからすぐにこんな事件が起きてしまった。
まるでせわしない四コマ漫画のように、周りの環境がケラケラと姿を変えていって、彼の顔をはたいていくような、そんな状態である。
柔斗は何か、実感というものが欲しかった。
「おじいちゃん、私の部屋で」
「うむ」
れもんは部屋に入り、電気をつけてベッドに腰かけた。火羽は床にあぐらをかいた。
柔斗はれもんの腕から降りて、ベッドに横になる。
「なぁ、二人とも。ちょっと聞きたいんだけど」
「なんじゃ」
険しい表情をしたまま、火羽は柔斗に顔を向けた。
「俺が――俺がここに来たから、れもんに出会ったからこんなことが起きたのか?」
「違います、ニュート先輩」
すかさずれもんが柔斗の毛むくじゃらの背中をそっとなぜた。その優しい手つきに柔斗は思わず身震いしてしまう。
「私達、こういうことに巻き込まれるのは慣れっこなんです」
その手つきと比べて、れもんの声は恐ろしく冷徹に聞こえた。
柔斗は首をかしげて聞き返す。
「……どういうことだ?」
「不老不死じゃよ。昼に話したじゃろう」
「そう、不老不死ですニュート先輩。おじいちゃんから話は聞きましたよね?」
「あぁ、聞いたけど」
キョンシーの、火羽やれもんに関するルーツの話を柔斗は思い返す。
数千年にもわたる嘘のような話で、彼自身いまだに信じきれないところもある。
「世の中にはの、秦の始皇帝のように生に執着する者が後を絶たぬ。それゆえ、ワシらのような存在はよく狙われるのじゃ」
「不老不死の研究を、大マジ目にやってる人は今の時代も結構います。かつて中世において錬金術が研究されたように」
れもんはどこか遠くを見るようにして続ける。
「私達は生まれてからずっと、この世界を逃げ回らなければいけないんです。それが、輪廻転生の枠からはみ出してしまった者の宿命です」
「でも、れもん。それならいっそ……」
「この入れ物の体を壊したとしても、死ぬことは出来ないんです。むしろ、動けなくなってしまったら誰に見つけられて研究材料にされてしまう危険があります」
「恐ろしいものなんじゃよ、不老不死というものは。世の中のルールを根底から覆してしまう、末恐ろしいものなんじゃ」
「……」
二人の真剣なまなざしを受けながら、柔斗は今更ながら後悔した。
どうして自分は、こんな世界に足を突っ込んでしまったのだろう。
れもんに出会っても、知らない振りをして世の中をさまよい続ければよかった話だ。そうすればこんなことにはならなかった。
こんな、厄介なことに巻き込まれずにすんだのに――
「……ニュート先輩」
柔斗の表情から察したのだろう。れもんはうつむく柔斗に顔を近づけて言った。
「先輩が私と出会ったのは、偶然かもしれません。でも、こっちの世界に首を突っ込んでしまったのには理由があるのかもしれないんです」
言われている意味が分からず、柔斗は煩わしさを強く感じた。
「どういうことだよ。どうして俺が猫に入ったことに理由があるんだよ。亜里沙のことも、猫のことも俺には関係無いことだろ。どこに必然があるんだよ」
「忘れてしまっているんです。特に、死ぬ直前の記憶なんてそこから波紋のように消えていってしまいます。だから、あなたは覚えていない――」
れもんは、そこからゆっくりと、付け加えるようにつぶやいた。ためらいの色がわずかににじんでいることに、柔斗は気付く余裕がなかった。
「有明亜里沙が、あなたの死と深く関わっていたということを、覚えていない」
「……!」
その瞬間、柔斗の視界は真っ暗になった。
彼はすぐに自分が意識を失い始めていることに気づいたが、そのまま目をさますことなくベットの上で動かなくなった。
ぼんやりと大きな渦に巻き込まれるような心地が、永遠に続くようにぐるぐる感じられる。
猫に入った魂入が体が元の人間の体に戻って、それからぐるぐると、ぐるぐると回り続けて――
――彼は、交差点の上に立っていた。
「あれ? 俺何をしたんだっけ……」
教科書を詰め込んだカバンを背中に背負いながら、柔斗はつま先をトントンと踏み鳴らして周りを見回した。
交差点の向こう側に、亜里沙がいる。
(あれ? どうして俺はあの子の名前を知ってるんだ?)
高校に入学してから間もない、まだ桜が花びらを散らし終えてない季節。
朝妹から食パンを奪って、小規模の喧嘩を起こし、収めてから小走りで柔斗はここまでやってきた。
今、信号は青になっている。
と、亜里沙がこちらの様子に気づいたらしい。柔斗の方を向いて、桜の花のような笑顔を浮かべて彼女はそのままこちらに渡ってきた。
(あれ、どうしてこっち来るんだ?)
見ず知らずの人間の元へ向かってくるなんて、どうかしてるんじゃないかとすら思う。
ただ、無視をするわけにもいかないのでその場で待っていることにした。
そして、亜里沙が道路の真ん中辺りに差し掛かった時、車が突っ込んできた。
危ない。その直感で柔斗は走りだして亜里沙を突き飛ばし、そのまま車に跳ね飛ばされた。
遠くで聞こえる悲鳴。薄れていく意識。
光田柔斗は、死んだ。
はずなのに、周りの様子がまだ認識できる。横になった自分のまま、見える範囲で認識出来ている。
「そんな、柔斗君……」
駆け寄ってきた亜里沙の瞳に涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい……私のせいで、私のせいでこんなことに……」
よく見ると、亜里沙も唇を切って血を流している。彼女もまた地面に転んだようだった。
ガタガタと異常なまでに震える手で、柔斗は抱き起こされた。だが、首が重力に従い力無く垂れて、血が滴り水たまりのようになってゆく。
誰が見ても、これは死んでいる。
「柔斗君、死なないで……死なないで……」
亜里沙は懇願するたびに顔がくしゃくしゃになる。止めどなく溢れ出る涙が柔斗の血まみれの顔を濡らして、そこで映像はピシャリと途絶えた。
(これ一体なんなんだよ……)
疑問を抱えたままで、柔斗は再びぐるぐると回る渦の中に身を任せていった。
◯
「……ん」
「お、起きたかの」
横から火羽の声が聞こえてきた。柔斗は体を起こす。いやに汗をかいているのがよくわかった。
今のは夢だったのだろうか。いや、夢じゃなかったら自分は死んでいる――いいや、もう死んでいるのか。じゃああれはなんだったのだろう。
柔斗は目をしばたいて首を回す。考えてもわからないから、夢という枠に囲んでおくことに決めた。
「俺……どうなってた?」
「うなされておったぞ。おまえさんの小さな体がジタバタともだえているのを見るのは、中々面白かったの」
意識を失う前と同じ、ベッドの上にいるらしい。柔斗は丁度顔の辺りだけ見える火羽の方に自分の鼻先を向けた。
「れもんは?」
「有明亜里沙の家に行って――もうかなり経つ。おっと、心配は無用じゃ。ワシの可愛いれもんが弱いわけ無いじゃろう。殺されかかったら十中八九殺すのがれもんじゃ」
「鼻ほじりながら物騒なこと言うなよ……おい、まさか亜里沙の首でも持ってくるってわけじゃないだろうな」
夢の中で助けた亜里沙。自分と亜里沙の関係はどういうものだったのかはわからない。だが、夢が正しいとすれば柔斗は亜里沙を助けて代わりに死んだということになる。
(命を助けた人間が命を落とすのは、やめてほしいよなぁ……)
最悪の事態が起こっていないことを祈りつつ、柔斗はぽけーっと天井を見ている火羽の返事を待った。こういう所はやっぱりジジ臭いと思える。
「それは知らん。というか、おまえさんが一番よく知っているんじゃないのか?」
「……らしいんだけど、覚えてないんだよねこれが。でも、多分大切な人だったんだと思う」
「それだけ分かれば十分じゃろ。ほれ、早く亜里沙の家に行ってこい」
面倒くさそうに、わざとらしく大きなあくびをして火羽は横になってしまった。
「わかった。行ってくる」
柔斗はベッドに面した壁の窓枠にひょいと登り、外の冷たい空気を一度吸い込んだ。
日はすっかり落ちて、そのかわりに月が煌々と闇夜を照らしている。
「……亜里沙」
夢の続きはもう終わった。
今は現実と勝負する時なのだと心に刻み込み、彼は山道を走り始めた。