「き、衣笠くん。その……き、来てくれてありがと……ぅ……」
屋上への扉がある踊り場に呼び出した彼女は、緊張感丸出しながらも俺の正面に立った。
この気持ちにしっかり答えてやろうとは思う。
ただ俺にも不安が脳内にどんどん積み上げられていくのが分かった。
衣笠悠樹、年齢は十七。彼女居ない歴は年齢を代入したもの。
つまりこの、青春の特設会場に立つのは人生史上初の体験だった。
「た、多分わかってるんだと思うんだけど、そのっ……呼び出した、理由」
恐縮してか、彼女の双眸が低い位置から俺の瞳を見る体勢を取った。
上目遣いの威力は漫画で見るそれよりも遥かに強力に感じた。
日常からかけ離れた状況に直面し大量生産される唾を一気に飲み込んだ。
ゴクリという音が二人だけの空間にこだまする。
もしかしたら彼女に聞こえてるんじゃないかと焦っても後の祭りだ。
顔が熱い。さっきから足の指の摩擦が気になって仕方ない。
今どんな話をしていたっけ。そうだ、呼び出した理由。
「こ、これだよねっ!?」
言葉と共に懐から手紙を取り出す。……最大限の冷静を取り繕ったつもりが逆効果じゃないか。
ノートの切れ端でもテストの問題文の裏でもなく、文通目的で使われるような封のついた種類。ご丁寧にピンクのハートがあてがわれたこれは、俺の席の引き出しにあった物だ。
青春を謳歌したいと願うごく普通の高校生には十分過ぎるインパクトがある代物。
「ここに来て、って書いてあったけど。あ、あはは……」
動揺をごまかす為にヒラヒラと便箋を泳がせる。ぴらぴらぴら、鉛筆が曲がって見えるような力加減で振るとなかなか揺れるな。
「……衣笠くんって、もしかしてこういうの慣れっこ? みたいな?」
と、彼女を見ると怪訝な顔を俺に向けていた。
逆効果だった。しまった何をしてるんだ俺は……とっさに首を左右に振る。
「……あたしだけ気張ってて、なんだかばかみたい」
「そ、そんな」
事無い、と続くはずだった。けれど彼女の視線が声帯にふたをかける。その表情には陰りと悲しみが満ちている気がした。
「いいの! こ、今回のこれも、友達に押されて……仕方なくやった事だし……それに」
「霧崎さん!」
「っ」
考えるよりも先に口から異議を唱えていた。今度は彼女が息をのみ、口を慎んだ。
「仕方なく、なんて投げやりな気持ちで新品の皺一つない手紙を書く君じゃない。一大事のイベントを友達のせいにして逃げるような人でも無い。中学の時からずっと見てたんだから、霧崎さんの事はよくわかってるつもりだよ」
あれ。俺、何言ってるんだろう。
彼女に何を伝えようと。
「え、と、衣笠くん……もしかして」
とっさに視線を明後日の方向へと反らした。
霧崎さんの声が聞こえる。でも顔を見たくない。
この後の展開が予想できる。
きっと俺と霧崎さんの目と目が逢う。どちらも第一声が出ないで沈黙の場が出来あがるけれど、手紙を出す勇気を振り絞れた霧崎さんから僕が一番聞きたい(聞きたくない)言葉が彼女の口から呟かれるんだ。そして深く考える事なく感情に身を任せて、俺はきっと。
今ならばまだ間に合う。恥じらいを込めて一歩下がるだけで彼女の期待に満ちた顔に雲が懸かるはず。
なら俺が今からすべき事は、なんだ。
頭で理解し、納得する。もう何も悩む要件は無い。
足に筋力が染み渡り、行動を起こす。
「霧崎……霧崎さん、俺は君が」
――視線を霧崎さんに向けるも、瞳には踊り場の壁しか映っていなかった。
……………………あ、れ?
想像の範疇を越えた事態に、この状況が理解できなかった。というか目が痛い、やたら眩しい。
原因はすぐに分かった。屋上への扉が開いて、夕日が直接差し込んできていたらしい。
となれば。霧崎さんは屋上に? なんで?
疑念を頭に抱えながら、特に警戒するでもなく屋上への一歩を踏み入れる。
――カザト、カザト、キリムルト。
あまり屋上に来た事は無かった。せいぜい新入生の頃の学校案内の時に踏み入れた程度。
――果てなき天空に願いをかけて、悪魔の朝日をこの手に握る。
空には夕焼けが地表を照らしつけていた。部活動のしてる生徒も帰る頃合いだろう。
――私の左腕は力の証、私の右腕は支配の恐怖。
視線を空から校舎に戻す。別に夕日が見たくてこんな所に来たんじゃない。
――肉体が血しぶきを上げるか、精神が粉々に踏み潰されるか、貴方はどちらがお好みかしら?
すぐに霧崎さんは見つかった。金網に張り付くように、身体をこちらに向けて……、
「その眼前にそびえる黒き影は、邪なる神であるぞ?」
彼女の全身が妙な黒い影に縛りあげられて、苦悶の表情を浮かべていた。
咄嗟に思い付く言葉が口から出てこない。ということに気付いた。
かつて銀行強盗の現場に巻き込まれ、犯人が脅し道具として中華包丁を女性職員に差し向けていた時ですら「せめて刺せる形状にしろよ」とツッコミを入れた経験があったのに。
そんな捏造情報が頭を飛び交う程に、困惑の渦に閉じ込められていた。
視線の奥に真っ黒の影が立っている。
ちゃんと二足歩行出来そうな人型を象ってる影。これだけでも充分ミステリーだ。
……楽観視している場合ではない。
黒き影は少女を金網に固定するように絡め取っている。少女の名は霧崎岬だ。
「少年。言葉は分かるな?」
「……あ」
影が揺らめき言葉が聞こえる。無意識の内に飲み込んだ唾が返答の証となった。
「少年に選択権並びに拒否権は無い。ただ受け入れるだけでいい…………さもなくば」
「お、おい! やめろ!」
あの黒い影が俺に何をするのかは分からない。だけど霧崎さんに何かさせる訳にはいかない。
義憤、だろうか。その心意気のおかげで言葉を発する勇気が出た。一生懸命感謝する。
その時、黒い影がこちらを見た。
「選択権は無い、と」
「知るかそんな事! 霧崎さんに手を出したらどうなるか――」
分かってるんだろうな、と力強く言おうとした。分かっていないのは俺だったらしい。
認識した時には目の前に出現した黒い影が手を伸ばして、俺の口に容赦なく突き入れた。
口に侵入する黒い影はそのまま喉を押さえこみ、気道を確実に閉鎖していた。
「少年は気が短いようだ。手短に済まそう」
言葉と共に喉に突っ込まれた異物が引きぬかれた。本能的に起こる嗚咽は一向に収まらない。
影が寄ってくる。身体はまだ自由が効かないが、眼球だけは黒い影をにらみつける事が出来た。
視線だけで人を殺せたらと今ほど願った事は無い。
片思い同士の相手をこの手でを守る事も出来ずに、俺は。
俺は。
俺は。
「強い意思……根幹……少年は欲しいのだな」
途端に、心臓の鼓動が一層強くなった。
収まるどころかますます活発化していく鼓動に、胃の中身が嗚咽と共に口から吐き出される。
「すべてを」
なんだ、これ。
俺はただ霧崎さんのラブレターに書かれた通りに放課後に行っただけなのに。
「それも……神である我までも欲するか……実に面白い」
青春の特設会場は屋上へと舞台を変えて、再スタートと思ったら地獄の宴が始まって。
「少年には、――――"単細胞"がお似合いだ」
人には思えない可憐で儚げな黒い少女が、俺を"単細胞"と呼んだのだった。