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傷つける女の子の場合

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 冷たいドアノブや金属の擦れる嫌な音は、ドアが私をこの空間に入れないように思えて仕方ない。
 しかし、ドアを開け、私は自分だけの空間に潜る。
 放り出すようにスニーカーを脱ぎ捨て、電気はつけず、何日も放置された食事の後のモノが放置された台所を通り、居間へ着くなりそそくさと部屋着に着替えテレビのスイッチを入れた。
 ブラウン管からは砂嵐が流れている。しかし、そんなの関係無い。兎に角、静寂が嫌だった。それだけの理由。
 一人では少し大きすぎるクッションに座ると、私はため息を一つした。
 鬱蒼とした空気がこの空間を包んでいる。
 かつて、ここは暖かい空気で満ちていて、とても居心地のいい空間だったはずなのに、今はただ居る事が不快でたまらない。
 でも、私にとってはお似合いだ。
 そんな自虐的なことを思って、すこし歪な笑みをうかべる。
 部屋の真ん中にある小さなテーブルの上には薄っすらと紅色を吸い取った剃刀の刃が散乱していた。
 ふと、頭をよぎる自傷による快楽への衝動、
 私は、それらに手を伸ばすが、今日はもうアルバイトで疲れたからそんな気も、失せてしまった。
 寝室には行かず、私は固いクッションに身を沈める。
 目覚ましかけておかないと…そう思ったときにはもう闇の中。

 気がついたら午後の昼下がり、携帯電話の無機質な画面がそれを教えてくれた。
 テーブルに置かれていた目覚ましに手を伸ばしてみる。
 目覚ましが示していた時間は午前八時三十六分。
 この目覚ましはあの時から時を刻んではいない。たぶん、これからも刻むことはないだろう。だって私が決めたことだから。
 
 バイトは夕方からだけどそれまでの時間は結構あった。
 昨夜からつけっぱなしのテレビからは賑やかな声が聞こえてくる。
 「やめて」
 チャンネルを探したが、見当たらない。
 ブラウン管からは笑い声、笑顔、楽しそうなお喋り、何がそんなに楽しいのだろう、
 笑わないでほしい、
 また笑った、
 また、
 ある衝動に駆られ、テレビの電源コードをコンセントから乱暴に引っこ抜く。
 テーブルから何枚か刃を乱暴に取り、指が切れようがお構い無しに私は、その刃で手首を切り刻んでいく。
 
 やめて、ヤメテ、やめて、何で笑ってるのよ。
 笑わないで、ワラワナイデワラワナイデワラワナイデワラワナイデワラワナイデ
 
 滴る血を眺めていた。
 カーペットにも滴り落ち赤い水玉模様の染みができるがそんなこと関係無い、
 紅く、ひたすら紅く、私に流れているそれは、カーペットを紅く染めていく。
 この赤だけが今の私の心に安心をくれる。
 この赤が、
 私の中に流れているこれが全て無くなったら、私は、あの人のところに…
 「…いけるの?」
 返事は聞こえてはこなかった。
 空虚さと静けさだけが雰囲気で返事をするだけ。
 
 
 苦しい。
 

 あらかじめセットしておいたアラームの音が、沈んでいた意識を現実に繋げた。
 もう時間、
 ついさっきまで夢を見ていた気がする。
 どこか懐かしい感じのする誰かと歩いている夢、
 何かしていた気がするんだけど、上手く思い出せない。
 外はもう夕日のオレンジ色に染められていて、少しの雲と夕日のコントラストがあまりにも美しくて、窓を開け、風に当たるとその風もどこか心地よい。
 少し気分がよくて鼻歌なんか歌いながら私は着替えた。
 口ずさむ歌は昔の私が大好きだった歌、今はそんなに好きではないけど、それでも。
 
 そして、それは恋を歌った歌。
 
 部屋の鍵を閉めて、私はまた「ミンナ」のいる世界に放り出される。
 仕事…バイト先に着くと店の外にある自動販売機が低いため息をもらした。
 どこかの飲料メーカーを強調しているロゴの電球が切れかかっていてあまり調子がよさそうに見えなかった。私が来たのがそんなに嫌なのだろうか。
 私は店に入り、着替えた。

 「いらっしゃいませ…」
 蚊のような囁き、とバイトの人たちは私が働き始めたとき、私に聞こえるように言っていた。
 手を動かしながらも私は意識を別の世界に持っていく。
 これが私の、およそ数年で得た「ミンナ」の世界で生きていく方法。
 だって、現実は、この世界はあまりにも汚く、酷くて、それでもさっきの夕日のように美しすぎるから。
 
 そして、私は今日も自分の世界に戻っていく。

 ただ日々の繰り返し、
 人間は死ぬために生きてるとか、死ぬって、生きるって、とかそんな難しいことも今は考えもしない。
 考えるのは、あの人の、彼のことばかり。
 だけど、そんな彼も、もうこの世界の何処とも繋がってはいない。
 私と彼はもう同じ空間、同じ世界にはいない。それが堪らなくもどかしくて、それでも、臆病な私にはその状況を変えるための行動もできはしなかった。
 突然の苛立ちを部屋の隅にある机にぶつける、とっくの昔に用途を失ったその机の上から無機質な音を立てて写真立てが、かつての記憶が落ちた。

 そこには眩しすぎるほどの笑顔の私とあの人。
 落ちたそれを拾い上げるのに、少しの恐怖と戸惑いを覚えたが、
 私はそれをそっと机の上に伏せて、置いた。
 様々な感情がお腹のあたりで消化不良を起こしている、失っていたはずの様々な思いがこみ上げてくる。
 嗚咽を抑えることができなくなった。
 幾つもの、幾つもの感情が溢れてくる。
 あの時の思い出が、
 
 海に行ったり、
 星空を二人きりで眺めたり、
 同棲すると決めたとき、
 一緒のマグカップを買ったとき、
 あまり豊かとは言えなかったけど、楽しい生活の日々が、
 彼の温もり、
 彼の笑顔、
 

 私の笑顔。

 
 静かな夜、この前、買い物の後に近所でやっていた祭りでなんとなく買った風鈴が、小さく控えめに音を鳴らす。
 少し開けた窓の隙間から流れてくる風は、夏の夜にはとても気持ちのよいものだった。
 涙の残滓に涼しい風が抜けるたびに気持ちが少し落ち着く。
 そして、私は瞼を閉じて、眠りにつく。
 小さい頃、夢中になって読んだ眠り姫の様に、そして、起こしてくれる王子様を待つ様に。
  
 そして、今日もいつもと同じ一日、
 部屋の鍵を閉めて、また私は「ミンナ」の世界に放り出される。
 私は私だけの世界と「ミンナ」の世界を行き来している。今日も、そして、たぶん明日も
 この世界での生活はしばらく続きそうだ。
 もしかしたら永遠に、

 それでもいいのか、わからない。
 でも、今日から少しだけ前を向いて歩けそうな気がした、
 歩いていこうと思った。
 私の色々な思い出と一緒に、

 「いらっしゃいませ」
 今日の声はいつもより少し大きい。
 そんな気がする。
2

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