誰かが死ぬ物語が大嫌いだった。
具体的にいえば、誰かが死ぬところがクライマックスで、そこから主人公なりヒロインが立ち直るお涙頂戴のやつ。
実際に立ち直れる人間ってどれくらいいるのだろう、
意味わかんない、
ワケわかんない、
私はそんなスーパーマンじゃないので、立ち直れるはずが無かった。
周囲にも自分にも八つ当たりしてみたけど、やっぱり、その喪失感を埋める事は出来ず、どうしようもなかった。
試しに、お酒に溺れてみたけど元々強くなかったらしく、すぐにアルコール中毒になり、病院に担ぎ込まれ、周囲の人間に厳重にそれを止められた。
元々お酒好きじゃなかったし、仕様が無い。
次はクスリに手を出したけど、すぐに捕まった。
初犯だから、という理由で処分保留で釈放されたけど、たぶんこれにはもう手を出さないだろう。
だって、注射は嫌いだし、お金ないし。
周囲の人間は、私のことを「メンヘル」と呼んだ。
たしかに、的を得ている気がする。
病気なのだろう。
そう思うようになってから、私は家に引き篭もった。
でも、と考える。
心の病というのは治るものなのだろうか、
この喪失感がいつかは埋まり、私は新しく何かを始めることが出来るのだろうか、
想像がつかなかった。
彼と過ごしたあの日々は、私にとって最上の宝物である。
大袈裟かもしれないが、一日たりとも彼との日々を忘れたことは無い。
それと並ぶもの、
そんなのがあるのだろうか、
教えてもらいたかったけど、それはどこを探しても見つかるわけも無く、
私は、早々に答えを出すことを諦めた。
引き篭もるのも意外と大変らしく、
兎に角、一日が永遠のように思えた。
これといって無趣味な私は、没頭できるものなどなく、ただひたすら、起きて、何かを適当に食べ、寝る。
それの繰り返しをした。
案外、地獄はこんなものなのではないか、と想像したが、苦笑するほどの元気も湧くことなく、ただ、ため息をするだけだった。
両親は私のことを心配してくれているのだろう、時折、
アレをしたらどうか、コレをしたらどうか、
などと助言なのか、世間体を気にしているだけなのか、多分両方なのだろう、そんなことをまるで腫れ物を扱うように語りかけてくるのであった。
私は外に出ないかわりにパソコンの中に世界を求めた。
今まで家にパソコンはあったのだけれども、たまに触る程度で、特に気にもしていなかったのだが、
どうして中々、
こちらの世界には私のようなのが沢山いるらしく、根拠はまったく無いのだけれど、安心した。
どうやらこの世界では日記が書けるらしい、
そういえば、まだ、私が正常だったころ、
ブログがどうとか、ツイッターがどうとか、
そんなことを言っていた人たちがいたような気がする。
ちょうどいい時間つぶしが出来そうな気がした。
しかし、日常の起伏に乏しい私に人様を惹きつけるような日記が書けるわけも無く、また、私自身、まったく書く内容など思いつかず、
それでいて、時間は有り余っている所為で、小学生の夏休みの宿題のように、
「今日も何も無かった」
の一言を書くばかりになってしまった。
正直飽きてはいるのだが、それ以外の何かがあるわけでもないので、
パソコンに何時間も向かうのだが、その一文に全てが集約されてしまう。
かといって、何かをしようとする衝動はまったく残念なほど起きず、
やはり、変化は無いのであった。
「今日も何も無かった」
日付も変わるか変わらないかの境界の時間帯、私は今日も日記を更新した。
既にこの行為にも意味は無いのだが、
強いて意味を持たせるのであれば、生存報告。
それは一体、誰に対するものなのだろう、
わかんない。
あるブログが目にとまった。
デザインはシンプル、というか、たぶんデフォルトのままなのだろう、タイトルも「日記」と、いたってシンプルである。
ある意味、シンプルを貫き通した書き手のこだわりなのかもしれないな、と思ったのだが、
内容も驚くほどにシンプル、であった。
「今日も何も無かった」
すげぇシンプルだ。
そして、さらに驚いたのが、たったその一行を毎日更新していることであった。
どこかの変態が毎日更新するようにプログラムした何かの類かとも想像したが、
よく見てみると、更新時間もまちまちで、昼に更新しているときもあれば、夜遅くに更新していることもあった。
プログラムとかそんなことにめっぽう弱い自分であったが、たぶん、これは人が書いているのだろうと、
穴だらけの予測で、そう結論付けた。
しかし、不思議である。
その日記は、
今からちょうど二ヶ月前に、
更新が止まっていた。