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京子さん

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 20XX年8月25日。京子さんが投身自殺をする一日前。まさにその現場となるであろう理学部棟の建物の前に、私はいた。
 木に寄り添うようにして木陰に入り、照りつける8月の日差しを避ける。
 時刻は午後1時過ぎ。この時間、京子さんは林田助手に弁当を届けに来ているはずだ。それを届ける途中で私と出会い、傷の手当をしてくれたのだ。
 前回は林田助手と京子さんの語らいを邪魔するまいと席を外した。しかし今回はここで京子さんを待つことにする。弁当を渡し終えた彼女は夫との時間を終え、家路につくためにこの場所を通るはずである。
 弁当を届けに行く時までの京子さんに不審な点は無かった。しかし明日再び弁当を届けに来る彼女は確かにこの場所で自らの命を絶つ。
 だからその動機は、この時刻から明日のこの時刻までの間に存在するはずだ。
 私は顔を上げて理学部棟の出入口をにらむ。事情が事情なだけに、表情を緩めることはできなかった。
 しばらくの間落ち着かない気持ちのまま佇んでいると、目的の人影が姿を現した。
 童顔で、小柄で、まるで少女のような風貌。
 少し明るい黒色の前髪の間から見え隠れしているのは、間違いようのない京子さんの顔だった。
 私はその朗らかな顔つきに少しの安堵を覚えたが、同時に自分の行動の怪しさにどきりとした。
 京子さんからしてみれば、つい先ほど別れたばかりの初対面の女が出待ちをしていた、という状況だ。普通ならば警戒の一つもしてしかるべきであろう。
 自分の目的に集中するあまり、そんなことにも気が付かなかった。
 ところが、京子さんは私を見つけるやいなや手を振りながら近づいてきてくれた。
 私の傷の手当をしてくれたことからも分かる通り、この人も夫と同じでお人好しなのだろう。
「あら、またお会いしましたね。御用は済んだんですか?」
 夏の太陽に負けない笑顔で、彼女はそう言った。
「え、ええ……。これから駅に向かうつもりです。あんまり暑ので、木陰で一休みしてまして……」
「そうなんですか。私もこれから駅に向かいますけど、よければ一緒に行きませんか」
「は、はい! ぜひご一緒させて下さい」
 最寄り駅へ向けて、私達二人は構内を歩いて行く。黄色くなった銀杏の葉がわずかに散っている。たしか銀杏はこの大学を象徴する植物だったなと、ふと思い出す。
「夏ももうちょっとで終わりですね。早く涼しくなってくれるといいんですけど」
 そう言う京子さんの額には玉の汗が浮かんでいる。午後二時を間近に控えた時間帯の暑さは、やはりこたえる。
「そうですね。普段室内にいることが多いもので、たまに外にでると日光が厳しいです」
「そうか。学生さんだから、ずっと勉強しているんですね。そういえば、この時期は夏休みじゃないんですか?」
「学部の学生なら夏休みはすごく長いんですけど……私は院生なので、今年はほとんどもらえませんでした……」
 肩を落として私は言う。ちなみに夏休みがもらえなかったのは、もちろん10年後の夏のことだ。
「あら、そうなんですか。大変ですね……!」
 他愛もない話をしながら、私たちは正門を出た。最寄りの駅までは歩いて5分といったところだ。
 私は少し焦っていた。せっかく話をすることが出来たのだから、自殺の動機につながるような、京子さんの内心などを聞いておきたかった。
 私はどう切り出したものか悩み、黙りこんでしまう。会話が途切れ、居づらい空気が流れた。
 それを見かねたのか、京子さんが口を開く。
「そういえば、さっきの話なんですけど」
「はいっ。えーと何の話でしたっけ……」
「なんで生きてるのかって、おっしゃいましたよね」
「あ、あはは。すいません変なことを聞いてしまって……忘れて下さい」
 私がそう取り繕うと、京子さんはわずかに目を伏せた。
「いえ、いいんです。すこし考えてみたんですけど、やっぱり私もわからなくなってしまって。最近はお父さんのお世話に追われて、自分自身のことなんて考える暇もなかったですから」
「そういえばさっきもそんな風におっしゃってましたね。でも、結婚されて、旦那さんの世話を焼くというのもそれはそれで幸せなものとも思えますけど……」
「ふふっ。そうかもしれないですね。今が楽しくないわけじゃないんです。でもそれは『お父さんの生活のため』ってなってしまっているように思えるんです。『私がいないとちゃんとした生活を送れないから』っていう感じで。義務感て言うんでしょうか」
 京子さんはそこで一旦言葉を切ると、空を仰ぐように首を上げて続けた。
「結婚を決めた時には『私にとってもこれが最善』って思えていたような気がするんですけどね」
 京子さんは顔により一層の影を落としながら言った。
「お父さんとは見合い結婚だったんですよ。3年前の5月の大安吉日。お父さんの仕事が忙しいから、大学のすぐ近くの料亭ででした。その時は確かに覚えていたのに、今はもうなんにも思い出せないんです」
 そこで京子さんは言葉を切る。そうして、次の一言を放った。
「過去に戻れるなら、その時の私に聞いてみたいですね。お父さんに研究頑張ってもらわなくちゃ」
 おどけたようにそう言う京子さんは、どこか儚げに見えた。
 夫を愛する心情。いい年をして学生で独り身の私は、それを理解するには経験が足りなすぎた。
 私は返す言葉もなく、黙ってしまう。
 その間も私たちは、静かに駅を向かって歩み続けるのだった。

 地下鉄のホームで、私たちは向い合っていた。
 京子さんと私が乗る電車は、反対の方向だった。そういうことにしておいた。
 私は京子さんと林田助手以外に用は無いので同じ方向を装っても良かったのだが、さすがにこれ以上一緒にいるのはためらわれた。
 あくまで私たちは今日知り合ったばかりの、他人なのだから。
 轟音を鳴らして電車がホームに滑りこんでくる。流れる風に吹き飛ばされそうなほど華奢な京子さんが、肩を押さえながら言う。
「それじゃ、私はここで。怪我したところ、大事にしてくださいね」
「え、えぇっ! もちろんです!」
 私は肘を隠すように押さえながら答えた。擦り剥いたはずの私の肘は、その時にはほとんど治ってしまっていた。あれからずいぶん長い時間旅をしたのだ。
 電車のドアが閉まる。ガラスの向こうで、京子さんはまだ手を振っていた。
 やがてその顔は平行にスライドしていき、私の視界から消えていく。
 轟音の余韻を感じながら、私は一つ息をつく。
 人気の少ないホームの端へと移動した。そうしてから目を閉じて精神を集中させる。
 数分前へ、私は跳ぶ。
 目を開いた時、私は地下鉄の改札にいた。改札のすぐ向こうには、数分前の私と京子さんがいる。
 二人に見つからないように顔をそむけ、急いで切符を買い直した私はそっと二人の後を追った。
 プラットフォームにて、私は二人が電車を待っている場所の、車両一つ分だけ離れた位置にいた。
 電車がやってきて、京子さんが乗り込む。それと同じ電車の隣の車両に、私も乗り込む。
 車内はそれほど混み合ってはいなかった。車両のつなぎ目付近に陣取った私は、ガラス越しに隣の車両の京子さんを見つめていた。
 このまま後をつけて、林田助手と京子さんの住む自宅まで行ってみよう。そう思っていた。
 教授の話が正しければ、二人は今晩喧嘩をするはずだ。その内容が明日の死に大きく関わっていると思われる。
 私は未来の教授に聞いた喧嘩のあらましを思い出していた。
『「どうした、何があった」と俺は聞いた。それに対して妻はこう言ったんだ。
「なんのために生きているのか、分からなくなった」とな』
 こんなセリフから、喧嘩が始まったはずだ。
 私はずっと感じながらも、目をそむけていた事実をようやく直視した。
 この京子さんのセリフは、私が引き出したものなのではないだろうか。
 京子さんと一緒に林田助手のところへ向かう途中で、私の口から思わず出たセリフ。それを偶然にも京子さんに聞かれてしまった。
 その結果が、さっきまでの会話だ。明らかに京子さんは気に病んでいる様子だった。
 私の視界がぐにゃりと歪んでいく。
 『なんで生きているのかわからない』
 このセリフは、京子さん→教授→私の順で伝えられたと思っていた。
 だがしかし、違ったのだ。京子さんの前にもう一つ矢印が入る。
 私→京子さん→教授→私→……。
 高校の数学で習う、無限数列。これはそれに似ている。
 ループをつなげてしまったのは、疑いようもなくこの私だ。
 まだそうと決まったわけではないが、自殺の動機に私の行動が大きく関わっている可能性がある。
 貧血にも似た視界の歪みを感じて、私は寄りかかっていた壁に体重をかける。
 京子さんの姿を片目で見つめながら、ため息をつこうとして肺をいっぱいに広げる。
 しかし、すぐに私の喉から出ていくはずのため息が、なかなか出ていかなった。
 身体が明らかな異変を感じている。
 電車内にも関わらずあまりも周囲が静かだった。全てが静止したかのように、何もかもが音を立てなかった。
 私はこの異変を知っている。これまで二度ほどあった。
 時間が止まっていた。あの男がまた来たのだ。
 あの男、空色オヤジが現れるのを私は今か今かと待った。そうしながら、私は今までとは一点違った部分があることに気がついた。
 身体が動かせない。
 これまでは周囲のものの動きが完全に止まろうとも、私自身の身体は難なく動かすことが出来た。
 しかし、今回は動かない。ため息がなかなか出ていかないのもそれが理由だった。
 私がこれまでに無い状況に戸惑っていると、どこからともなく声が響いた。
「やあ。また会ったね」
 目線は京子さんの方を向いて固定されてしまっているので見ることはできなかったが、そのダミ声は明らかに空色オヤジだった。
 車両の中ほどに現れたらしいそいつは、ゆっくりと私の方へ近づいてくる。
 私の視界にようやく入ったところで、彼はこちらを一瞥した。
「今回用があるのは君じゃないんだ。やはり時間遡行術を使える者は、時間を止めても意識までは失わないみたいだね」
 私は空色オヤジ言っている言葉の意味がわからなかった。
 意識を失わない? どういうことだ?
 用があるのは私じゃない? じゃあ誰に?
 そこまで考えたところで、私は自分の視界の端で何かが動くのを感じた。
 童顔で、小柄で、まるで少女のような風貌。
 先ほどまで盗み見ていた、京子さんだった。
 彼女も異変に気がついたらしく、周囲の様子を不安そうに見回している。席に座ったまま動かない乗客に、声をかけようとすらしているように見える。
 おかしい。おかしい。おかしい。
 空色オヤジもさっき言っていた。『時間を止めた』と。であれば、当然京子さんも動きを止めていないとおかしい。
 私の動揺をよそに、空色オヤジは車両のつなぎ目のドアに手をかける。
「ちゃんとこのドアは動くようにしてあるんだ。用があるものの時間まで止めちゃったら意味が無いからね」
 ドアが、それ特有の音を立てて開く。空色オヤジは隣の車両へと足を踏み入れていく。
 いま空色オヤジが言ったセリフをそのままの意味で取るならば、今回彼が用があるのはドアと、そして--。
 ドアがそれ特有の音を立てて、私の目の前で閉まった。
 吸い込んだ息を吐くことすらできない状況であるにもかかわらず、私の意識はとてもはっきりしていた。
 連結部のドアの向こうでは空色オヤジが京子さんに話しかけている。何故だか声は聞こえなかったが、様子は見ることができた。おそらく初めて私と出会った時のような説明を彼女にもしているのだろう。
 当然彼女も不審の色は隠せない様子だったが、周囲の状況を見れば結局は空色オヤジを信じざるを得ない。だんだんと警戒を解いて彼の話に耳を傾けていく様子がわかる。
 空色オヤジの目的は何なのだろう。私は疑問に思ったが、これまでの彼の行動を思い返せば候補は一つしか無かった。
 彼が私の前に現れるのはどんな時だったか。
 一回目、京都で私に時間遡行術・初級を教えてくれた。
 二回目、大学の構内で私に時間遡行術・中級を教えてくれた。
 彼が現れるのは、現代人に時間遡行術を教える時であるのは明白だ。その意味ではこの次の彼の行動も私にはわかりきったものだった。
 空色オヤジはしばらく京子さんとなにごとか話した後、懐から二本の瓶を取り出した。
 忘れもしない。私も京都と大学の構内で飲んだ、あの二本の瓶だ。リポビタンDとオロナミンCドリンク。
 『意識を変えやすくするお薬』京都で、未来から来た私にそう言われた。
 あれを取り出したということは、やはり彼の目的は一つだ。
 京子さんに時間遡行術を教えるつもりなのだ。
 一時は私が自ら命を絶とうとまで考えた、その原因となった技術を彼女に授けるつもりなのだ。
 身体を動かせない私は、声にならない声を上げる。しかし当然それに気がつく様子もなく、京子さんは恐る恐るその二本の瓶を手にとった。
 そして、少しためらうような素振りを見せた後に、二本とも一息で飲み干した。
 その後の展開は、何もかも私が体験したものと同じだった。
 京子さんのもとに一分後の未来の京子さんが訪れ、時間遡行術を教える。その練習によって、彼女も程なくして時間遡行術をマスターしたようだった。
 様子を見ることしかできない私には、彼女がそれを何に使おうとしているのかを知ることはできない。しかし、あの技術の習得が必ずしも良い方向に働かないことは私自身が体験したとおりだ。
 目的を果たしたであろう空色オヤジは、私の時と同じようにふらりと姿を消した。
 姿を消す瞬間空色オヤジは私の方に身体を向け、にんまりと笑った。
 
 空色オヤジが姿を消すやいなや、止まっていた時間が動き始めた。私は体感時間で数十分前に吸い込んだ息をようやく吐くことができた。
 苦しさにむせ返り、その場でひどく咳き込んでしまう。
 周囲の客からすれば、私が突然に咳き込み始めたように見えたのだろう。好奇や訝しみの視線があちこちから私に向けられる。
 ふと、咳き込む私の身体が進行方向に揺らいだ。電車が駅に止まるのだ。どうやら空色オヤジが現れたのは電車が停車を始める直前だったらしい。
 意識が朦朧としている私は必死で手すりにつかまり体勢を維持する。電車が完全に停止するまでの間が、嫌に長く感じられた。
 その時、私ははっと首を上げて、目線を隣の車両にやる。
 京子さんが、いない。
 ひどく焦りながら周囲を見回すと、今まさにドアから足を踏み出そうとしている小さなシルエットが間に入った。
 どうやらこの駅が目的地だったようだ。
 私は頭を振って意識をはっきりさせると、猛然と立ち上がりドアへと向かった。途中何人かの乗客にぶつかり迷惑そうな顔を向けられたが、そんなことに構っている暇はなかった。
 閉じる寸前のドアからなんとか滑り出し、ホームに降り立つ。焦りながら周囲を見渡すと、階段を登っていく京子さんの姿が見えた。
 降車した客自体はそこまで多くなかったが、ホームの狭さのせいで彼女を追うのは楽ではなかった。
 人ごみを掻き分けるようにして、前へと進む。
 階段を登り切ると、今度は女子トイレへと入っていく京子さんの姿が見えた。
 私はそれを見て、少しだけ気が緩む。
 少なくともこれで、京子さんが用を足して出てくるまでは余裕ができるからだ。
 私は女子トイレの出入口が見える場所の壁によりかかり、荒れた息を整える。
 頭に浮かんでくるのは、空色オヤジのことだった。
 これまでもずっとそうではあったが、彼の目的というものがまるでわからない。
 そもそも私に時間遡行術を教えた動機すらわからない。これまでなぜ私はそれについて熟考しなかったのだろうか。
 なぜ私に? そして、なぜ京子さんに?
 考えたところで、当然答えは出なかった。
 私は改めて女子トイレの方を見つめる。……京子さんはまだ出てきていないようだ。
 私は自分の腕時計に目をやる。京子さんがトイレに入ってから、すでに15分が経過しようとしていた。
 ……遅過ぎないだろうか。
 私の心に疑心が生まれ、そしてそれはじわじわと広がっていく。
 それが一定の値を超えた時、私ははじけ飛ぶように女子トイレの入り口へと向かった。
 女子トイレの中に入り、様子を伺う。少なくとも洗面台には京子さんはいなかった。
 個室のドアは4つあり、そのうち1つだけが閉まっている。当然、その中に京子さんがいるはずだ。
 私は閉まっている個室の隣の個室に入る。そして一瞬ためらってから、便器を足場に隣の個室を覗きこんだ。
「……!」
 個室はもぬけの殻だった。その状況を目の当たりにすれば、頭の働きが鈍い私でもわかる。
 彼女は、どこか別の時間に飛んだのだ。つい先程空色オヤジによって授けられた技術で。
 額からたれた汗のしずくが、閉ざされた個室にぽたりと落ちた。
32, 31

  

 空っぽの個室を見下ろしながら、私は自分の甘さを悔やんだ。
 時間遡行術なんて能力を手に入れたら誰だって試してみたくなるに決まっている。京子さんがそれをすぐに行うのは予想しなければならなかった。
 私はひとまず個室の仕切りから身体を下ろし、深呼吸を一つしてから思考を巡らせた。
 京子さんはどの時間へ跳んだのだろうか。
 過去か、未来か。それすらもわからない。
 何らかの目的を終えた京子さんが、どこの時間に帰るかも定かではない。
 もしも京子さんがこの時間のこの場所に帰ってくるつもりならば、姿を消した直後に再び姿を表してもおかしくない。それが起こっていない時点で、彼女がここへ戻る可能性は低いように思えた。
 このままここで待つ。
 今日の夜には自宅に戻るはずだから、自宅で待つ。
 追いかける。
 いくつかの選択肢を思いつくがどれが最善かを判断しかねて、私は俯いた。
 しかし、京子さんの死の原因を知るために選べる選択肢は最後の一つだけだった。跳んだ先で彼女が何を見るのか、知らなければならない。
 運の良いことに私も時間遡行の力を持っているのだから。
 問題はどこへ跳んだかだ。それさえわかれば追うことが出来る。
 私は京子さんとのこれまでの会話を頭の中で高速回転させる。その中に何らかのヒントがあったかもしれない。
 彼女が行きたがっていそうな時間、場所。その情報が無いかを検索する。
 彼女と話したのはたったの数回だ。大学構内で理学部棟へ向かう途中、理学部棟の林田助手の研究室の前、大学から駅までの道のり。
 行き当たったのはつい先程の記憶。大学から駅に向かう道のりの途中での会話だった。
『お父さんとは見合い結婚だったんですよ。3年前の5月の大安吉日。お父さんの仕事が忙しいから、大学のすぐ近くの料亭ででした。その時は確かに覚えていたのに、今はもうなんにも思い出せないんです』
『過去に戻れるなら、その時の私に聞いてみたいですね。お父さんに研究頑張ってもらわなくちゃ』
 この答えが正しいかどうかはわからない。しかし他にあては全くない。
 とにかく手当たり次第に行ってみるしかない。幸い私には無限の時間があるのだから。
 大安。それは日にちの吉凶を表す六曜の一つだ。他に先勝、友引、先負、仏滅、赤口がある。
 私は携帯電話をポケットから取り出した。私のいた時代では当たり前のそれも、おそらく10年前のこの時代ではオーバーテクノロジーのかたまりだろう。
 しかし今はそんな先進の技術など何も必要がない。私は携帯を操作し、カレンダーのアプリケーションを起動する。アイコンが画面全体に広がるようなモーションをして、縦横にシンプルに区切られた画面が現れた。
 それに目を落として私は落胆する。多くの携帯のカレンダーアプリがそうであるように、私のそれは六曜の表示に対応していなかった。
 どこかコンビニにでも行けば六曜の載っているカレンダーもあったかもしれない。しかし焦りに満たされた私はそんなことにも頭が回らず、呆然としてしまっていた。
 そんな時、画面の左上にある小さな設定ボタンが目に入った。確か、カレンダーの表示方法を切り替えられる機能がついていたはずだ。
 私はわらにもすがる思いでそのボタンに触れる。様々な表示方法の選択肢の中の、たったひとつに目が止まった。
 それは旧暦の表示機能だった。
 現在使われているグレゴリオ暦に重ねて、旧暦を表示することが出来るものだ。
 私は必死になって自分の記憶を手繰り寄せる。
 いわゆる六曜は先勝→友引→先負→仏滅→大安→赤口で一日ごとに切り替わる。大安は「旧暦の月と日を足した数がちょうど6の倍数になる日」という定義だ。
 すぐさま画面をスクロールし三年前の5月のページを表示した。そしてそこで、旧暦表示機能を使う。
 元々の新暦と、表示された旧暦を目で追う。そして5月22日日曜日という日付が私の目に止まった。この日は旧暦では4月20日になる。
4+20=24。紛れも無い6の倍数だ。
 それを認識した瞬間に私はその時間へと跳んだ。
 駅の中の女性用化粧室。その中に空っぽの個室は二つとなった。

 京子さんからすれば三年前、私からすれば十三年前の世界に、私は来ていた。現在は一年一昔などと言われているが、少なくとも私にとって十年前と十三年前に大した違いは感じられなかった。
 私は再び京子さんの言葉を思い起こす。彼女が本当に林田教授の見合い会場に向かおうとしているのなら、その目的地は大学の近くの料亭であるはずだ。
 大学の周囲には学生向けの低価格な飲食店こそ数多くあったが、見合いの会場となるようなある程度格式の高い料亭となると私はひとつしか知らなかった。
 その料亭の目の前に私はいた。古めかしい木造の看板には「やまもと」と書かれている。この看板は私のいた十三年後の未来でも健在である。
 いわゆる日本的な料亭だ。老舗だけに都内にしては敷地が広く、中庭には池やちょっとした広場もある。
 お見合いにつきものの、「若い二人だけで散歩にでも……」をやるにも好都合な場所なのだろう。
 もちろんお見合いなどしたことのない私の妄想に過ぎないが。
 私は物陰に身を隠し、周囲を見渡した。万一京子さんと鉢合わせなどしたら面倒な事になる。
 私としては彼女を追ってここまで来たのですべての事情は把握しているが、彼女はそうではない。
「過去に跳んだら元の時代で知り合いになった女と鉢合わせした」。そういう状況になる。
 その場合彼女がどのようなリアクションを取るかわからない。出会わないまま一方的に監視するほうが良いだろう。
 しばらく周囲の様子をうかがっていた私だったが、やがて一つの小さなシルエットが店の門のあたりに現れた。
 果たして偶然なのか、それとも必然なのか。
 間違いない。それは私の知っている京子さんだった。
 先ほどまでいた、この時代の三年後。そこで着ていた服と全く同じ普段着。これから見合いに赴くこの時代の京子さんではあり得なかった。
 門まで来ておきながら、彼女はどうしたら良いかわからなくなったらしい。キョロキョロと周囲を見回している。なんとも言えない愛らしさだった。
 少しの間そうしていた彼女だったが、意を決したように恐る恐る料亭へと足を踏み入れた。私も当然その後をつけていく。
 どうやらこのまま店内に入るのではなく、庭園の方に回るようだ。
 ししおどしの定期的な音が響く中、彼女は庭園の中程の植え込みに姿を隠した。
 私もまた、その植え込みが見渡せるようなスペースに身を隠す。
 拙い二人の侵入者。私と、京子さん。
 このあと私たちは、一体どんな場面に遭遇するのだろうか。
 息を殺しながら、私はそんなことを考えていた。
 料亭にたどり着いてから十数分。私は下手くそな潜伏を続けていた。目線の先には同じように下手くそな潜伏をする京子さんがいる。5月らしい陽気で、太陽が高い。しかし先程まで真夏にいた私にしてみれば、非常に涼やかなように感じられた。
 そろそろお見合いは始まったのだろうか。料亭は静かなもので、建物の中に人がいるかどうかすら定かではなかった。
 京子さんは相変わらず建物の方を見つめている。真剣な面持ちで、動き出す気配はない。
 彼女は今何を考えているのだろうか。物静かな横顔からは何も読み取ることはできなかった。
 私は少しだけ身体から力を抜く。明らかに気持ちが弛緩してきてしまっているのがわかる。
 ここからの京子さんの行動の全てが明日の自殺につながっている。そう考えて、私は気持ちを引き締め直した。
 そんなことを考えるうちに、建物の方からにわかに物音がし始める。
 縁側の床が軋む音だ。
 規則的に伝わるそれから、ふたり以上の人間が歩いてくることがわかった。
 京子さんも顔を上げて、音のする方へと目をやっている。
 少しして、私と京子さんの目は歩んでくる二人の人影を捉えた。それが誰なのかはもうわかっていた。
 一人は林田教授、一人はこの時代の京子さんだ。便宜上、林田氏と京子さん(旧)と呼ぶことにする。
 私は二人の姿を見た瞬間に息を飲んでしまった。
 まず、目に入ったのは京子さんの華やかさだった。お見合いかくあるべし、と言いたくなるような艶やかな和服が、凹凸の少ない彼女の身体にぴったり合っている。短い髪はおとなしく整えられ、頭頂部に近い位置に緑色のかんざしをしている。目を凝らすと、その緑が葉桜の模様であることがわかった。
 林田氏は、なんと言っても若かった。私がいた時代よりも13歳若いので当たり前ではあるが、10年前の世界の林田助手よりも明らかにハツラツとしている。林田教授の年から逆算するに、林田氏の年は二十代後半のはずだ。しかし目の前の彼は、若さどころか幼さすら感じさせた。
 二人は付かず離れずの距離で横並びになって歩いてくる。どちらも緊張が隠せていない顔色で、口数は少なかった。
 京子さん(旧)は必死に何か喋ろうとしていたが、林田氏はそれに二言三言返すだけで口をつぐんでしまう。典型的な『女性と話すのが苦手な男』という感じだ。
 庭に潜んでいる私達にかなり近い位置まで来たところで、林田氏と京子さん(旧)は立ち止まる。そこまで来た時には、もう彼らの声も聞き取れた。
「き、きょうこ、さん。疲れませんか? 良ければ少しや、休んで行きましょう」
 林田氏の声はところどころ震えている。三年後にはすっかりバカップルになっているとは思えないぎこちなさだ。
「そ、そうですね。じゃあ少し座ってお話しましょうか」
 京子さん(旧)は濃度70%くらいの笑顔でそう返すと、縁側の床を手でかるく払って腰を下ろした。それに習い林田氏もそのとなりへ座る。二人は庭へと足を投げ出したような形で、隣り合って座っていた。
「和希さんは大学ではどんな研究をなさっているのでしたっけ……?」
 空いた間を埋めるように、京子さん(旧)は、おずおずと切り出した。ちなみに和希さんというのはもちろん林田氏の下の名前である。
「あ、はい。自分は時間遡行物理学というものを学んでおりまして、遡行、と言っても決して遡ることのみを対象にしているわけではなく、時間の流れというものをより定量的に理解することでその振る舞いを把握し、それを応用することを考える学問であるわけで、それを利用すれば未来に行く事ももちろん可能なはずですし、まだまだ未知の部分の多い学問ではありますが、近年面白い論文が発見されたこともありまして、これからますます発展の兆しを見せているところでして……」
 研究内容はなんですか、というのは、話下手な研究者に聞いてはいけない質問ナンバーワンである。とくとくと語り続ける林田氏に、京子さん(旧)は笑顔のまま額の汗だけを増やしていく。
「へ、へえ~。すごく意義深いことをやってらっしゃるんですね~」
 そう言った京子さん(旧)はもはや目が死んでいた。この二人が結婚するとは、未来から来た私達しか予想できないだろう。
 京子さん(旧)の言葉を真に受けたのか、林田氏は照れて頭をかいている。間違いない。この奥手である意味天然な感じは、私の知っている林田教授その人と同じだ。
 ちらりと京子さん(新)の方を見ると、彼女もじっと目を見はって二人の方を見つめている。こころなしか口元が緩んでいるようにも見えた。
「……ところで和希さんとは、今回どういったご縁でお会いできたんでしょう。世話人の方からは、実はあまり詳しくお聞きしていないもので……」
 京子さん(旧)が露骨に話題を切り替える。さすがにこれ以上研究の話を聞くのは辛かったのだろうか。
 ちなみに世話人というのは見合いを取り持つ人のことだ。いわゆる見合い写真を持って、双方に了解を取りに行く人のイメージで概ね正しい。
「世話人の方が私の父と懇意なもので、そのつてのようです。なかなか身を固めない僕に父が業を煮やしまして……」
 林田氏はバツが悪そうに鼻の頭をかく。一人称が安定しないのも、緊張のせいだろうか。
「あら、そうなんですか。それなら私と似たようなものですね。私は世話人の方の姪と仲良くさせてもらっていますから、そのつながりです。でも息子の結婚相手を心配してくださるなんて、いいお父様ですね」
「そうですね……父には感謝しています。男手一つで、僕をここまで育ててくれましたから……。こんなことまで迷惑かけちゃいけませんね」
 少し不自然に笑う林田氏は声のトーンを落として続ける。
「多分心配なんだと思うんですよ。父自身が、母に逃げられてしまってるから……。息子の僕が幸せに結婚することが、人生の目標の一つだと言ってました」
「そうなんですか……。じゃあ和希さんはたくさん幸せにならなきゃいけませんね」
「そうですね……! でも、もちろん親父のために『幸せにならないと!』って気負っているわけではないですよ。むしろ、幸せな家庭を持ちたいっていうのは僕自身の気持ちですね。自分と家族が幸せでいられる場所っていうのを作りたいんです」
 そこまで言って、林田氏は我に返ったように顔を赤くした。
「な、なんかすみません。しめっぽい話とか、夢みたいな話ばかりしてしまって……。そ、そういえば京子さんは、看護婦をされているんですよね。お仕事、お忙しそうですね」
 今度は林田氏が話題を替える番だ。京子さん(旧)は空気を変えるように、少し大げさなくらいの笑顔で話し出す。
「忙しいは忙しいですね! でも、毎日がとっても楽しいですよ。やっぱり病院に来る人っていうのは、なんらかの苦しみを抱えている場合が多いんです。そういう人達が、できるだけストレスなく病院にいられるように。自宅にいるような、安心できる居場所を与えられるようにしたいなぁって……」
「なるほど……。居場所、ですか」
 そこまで聞いたところで、私はふと京子さん(新)の方に目をやった。そして、その表情に驚愕した。
 彼女はぼたぼたと涙を流していた。
 まるで幼児がそうするように頬を真っ赤にして、鼻水を垂らしている。嗚咽を漏れさせまいと口元を手で覆っている。
 私は何がなんだかわからなかった。
 『その時は確かに覚えていたのに、思い出せないんですよ』
 以前彼女が言っていたセリフだ。林田教授と結婚することを決めた、その理由。それを思い出すべく彼女はここにいるはずだ。
 まだお見合いをしている二人は、他愛もないことしか語っていないように思えた。彼女の琴線に、いったい何が触れたのだろうか。
 当人たちしかわからないことがある、と言ってしまえばそれまでではある。なにしろ京子さん(新)だって、立派な当人なのだから。
 動揺する私をよそに、泣きはらした京子さん(新)は姿を消した。
 その消え方に、私はさらに焦る。時間跳躍だ。
 縁側では未だにお見合いの二人が語らっている。なんの余韻も引きずらずに、京子さん(新)は去ってしまった。
 わけがわからないまま、私はひとまず三年後の世界に跳ぶのだった。
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 いつもように吐き気がするほど乱雑な空間を通りぬけ、気がつけば私は地下鉄のトイレの個室にいた。
 私が元々いた時代の10年前。林田氏と京子さんが見合いをした3年後。
 すなわち京子さんが亡くなる時代。20XX年8月25日だ。
 時間跳躍して姿を消した京子さんに追いかけるべく、とりあえず私はこの時代に戻ってきた。
 まさに、とりあえず、である。彼女がついさっきまでいた三年前の世界から、どこの時代に跳んだのかということは全くわからないからだ。
 なんとなく、元いた時代に帰ってきているような気がしてこの時代に戻ってきただけだ。なんの理論も確証もない。
 しかしいずれにしても、この日の夜に京子さんは自宅で林田教授と口論をするはずだ。
 彼女が別の時代に跳んだとしても、最終的に今晩の口論を目撃することはできる。私はそう思い直して個室の扉に手をかけた。あまり新しくない個室の扉はきしんだ音を立ててゆっくりと開く。
 確か出口は右だったような気がする。
 個室から出た私はうつむいて右へと身体を回す。その時だった。
 ごつん、と鈍い音がして、私の目の前に火花が走る。
 何が起こったのかわからないまま、私は一瞬つむってしまった目を開いた。
 そこには額を抑えてうずくまる京子さんがいた。ただでさえ小さい彼女がうずくまっているものだから、私が彼女を見下ろすような形になる。
 私はようやく状況を理解し始める。おそらく、私と彼女はほぼ同じタイミングで隣同士の個室から出てきたのだろう。
 私は左の個室から。彼女は右の個室から。
 そして私は右に出口があると思って右へ。彼女は左に出口があると思って左へ。それぞれ身体を向けた時の事故だったということだろう。
 結局のところ出口は私の視線の先にあるので、出口の位置の認識が正しかったのは私の方ということになる。
「きょ、京子さんっ!」
 私はじんじんと痛む額を片手で押さえながらそう言った。京子さんの方もようやく状況が飲み込めてきたようで、私を上目遣いで見上げた。
「あ、あなたは先程の……! え、えーとその、すいませんぶつかってしまって……!」
 京子さんは見たままに随分と動転しているようだった。
 初めて時間遡行術なんていうSFを実践したばかりなのだから、ある意味で自然といえば自然かもしれない。
「いえいえ、こちらこそ……! ぐ、偶然ですね、あはははは……」
 私は適当にごまかしてそそくさとその場をさろうとする。なぜなら―
「あ、あれ。というかさっき反対の方向の電車に乗りませんでしたっけ私達」
 京子さんは再び心底不思議そうに私を見上げる。そうだ。そこを突っ込まれたくなかったから、できるだけ早くこの場を後にしたかったのだ。
「え、あ、あはは。実はあの後こっちの方に用があったのを思い出しまして……すいませんお騒がせしました!」
 最後のセリフを後ろに残して、私は脱兎のごとくかけ出した。
「ま、待ってください!」
 私の背中に京子さんの言葉が突き刺さる。
 私はピタリと歩みを止め、振り返らずにその場にたたずんだ。
「な、なんでしょうか……?」
 私は首だけで振り返り、中途半端な笑顔でそれだけ聞いた。
 京子さんはうずくまったまま、私の目をきっと見据えて口を開く。
「わたしっ! さっき言いましたよね。『今はもうなんにも思い出せない』って!」
 空間に京子さんの声が響く。たまたまそこに居合わせた見ず知らずの人達も何事かと遠巻きに京子さんの方を見ていた。

『結婚を決めた時には「私にとってもこれが最善」って思えていたような気がするんですけどね』
『3年前の5月の大安吉日。お父さんの仕事が忙しいから、大学のすぐ近くの料亭ででした。その時は確かに覚えていたのに、今はもうなんにも思い出せないんです』
『過去に戻れるなら、その時の私に聞いてみたいですね』

 彼女が言っているのは、きっとこの一連の言葉のことだろう。周囲の反応を気にもとめない様子で、京子さんは続ける。
「思い出せましたからっ……! 何があったかは言えないけど、信じてもらえないと思うけど、確かに思い出せましたからっ!」
 ついさっき過去の世界で流したのと同じ涙を、彼女は流していた。
 うつむく彼女に、私は狼狽して駆け寄った。肩に手をおいて、小さな子をあやすかのようにじっと彼女を見つめる。
 そのかいあってか、彼女は少しだけ落ち着きを取り戻した様子で私を見上げた。目尻にはまだ少し涙が残っている。そんなことはお構いなしに、彼女は打って変わって静かな口調で話し始めた。
「私は、お父さんの……林田和希の居場所になってあげたかったんです」
「これまでたくさん悲しみや苦労を経験してきたお父さんとだからこそ、きっと明るくて楽しい家庭が作れるって、そう思ったんです」
 彼女は一言一言を噛み締めるように紡いでいく。
「どうして忘れちゃってたんだろう……」
 おそらく、過去から戻ってきたことで感情が高ぶってしまっているのだろう。少し話しただけの私に、感情の塊をがんがんとぶつけてくる。
 私は彼女が落ち着くまで、彼女の肩に手を置いて、じっとその場で彼女を見つめ続けた。
 
 暫くの間、私は京子さんの肩に手を置いていた。まるで赤ん坊のようにしゃくりあげる彼女は、息荒く顔を赤らめている。そんな場合ではないとわかっていたが、彼女はとてもかわいらしく見えた。
 数分後ようやく落ち着きを取り戻してきた彼女は、目元の涙を指でぬぐって私の目を真っ直ぐに見た。まだ目尻に涙を残したままだったが、その目線は力強く、なにか吹っ切れたように見えた。
「ようやく色々と思い出せました……。なんだかモヤモヤしてたのが、吹っ飛んじゃいました」
 彼女はそう言ってにっこり笑った。なにか吹っ切れたようなその笑顔は、長い時間旅行に疲弊した私の胸のしこりすらも溶かしていくように思えた。
「なんだかごめんなさい。急に泣き出したりしちゃって……もう大丈夫です! 今日家に帰ったら久しぶりにお父さんと色々話そうと思います。今度こそ忘れないために……」
 林田助手と京子さんはこの夜に口論をするはずだった。『なんのために生きているかわからなくなった』という切り出し方を考えても、口論の原因は私と空色オヤジと過去への時間旅行にあったに違いない。
 しかしわからないのは、今この状態の京子さんはとても自殺などするようには思えないということだ。過去へと跳んだことで漠然とした現状への不満の原因がわかり、林田助手とのこれからの生活を前向きにとらえている。数時間後に死を考えるには、彼女の笑顔はあまりにもまぶしすぎた。
「詳しい事情はわかりませんけど……良かったですね。今の京子さんの笑顔はとても素敵だと思います」
 私は今考えていたことをそのまま口にした。それを聞いて京子さんは少し恥ずかしそうに笑った。
 やはりその笑顔に含むところは無さそうに思えた。
 
 ひとごこちついた時になって、私たちは自分たちが駅のトイレにいることに今更ながら気がついた。こんなところで泣いたり語ったりしてしまったせいでトイレにいた人たちの注目を随分集めてしまっていた。きまり悪くそそくさと出ていく私達の背中には、好奇の視線がビシビシと突き刺さっていた。
 私たちは駅のホームでもう一度別れた。今度こそ京子さんは帰宅するはずだ。私は例によって彼女の後をつけていく。
 林田助手と京子さんの家の最寄り駅に到着する。今度は電車の中で空色オヤジが現れるようなことも無かった。
 山手線の一駅。地下鉄も一路線乗り入れ、都心にほど近いにも関わらず、住宅が多く立ち並び商店街にはお年寄りや子供があふれている。華やかな場所ではないが、住みやすい落ち着いた街だ。
 そんな夕暮れの街を、京子さんは一人歩いて行く。一度商店街でスーパーマーケットに立ち寄った以外は、特に寄り道もしない。生活感溢れる街に異常なほど彼女は溶け込んでいた。
 そんな彼女の後ろを、気取られない程度の距離を置いてついていく影があった。
 ……もちろん私だ。
 経験などあるはずもないので電信柱やポストの裏に隠れるといった稚拙な尾行である。京子さんの勘が鋭ければ見つかってしまったに違いないが、幸いそんなことはならなかった。彼女は後ろを振り返りもせずに自宅を目指している。
 おそらく早く家に着きたくて仕方がないのだろう。遠目にも彼女が浮かれているのがわかる。林田助手と早く語り合いたいのだろう。
 程なくして、京子さんは古い日本風の平屋建ての家屋の門をくぐった。若い二人の住居にしてはかなり大きいほうだと思う。てっきりアパートやマンション暮らしだと思っていただけに、少し意外だった。
 幸い門は鍵のかからないタイプだった。京子さんが家に入るのを見届けて、少し時間を置いてから林田邸に侵入する。玄関ではなく家の裏手へと周り、縁側の見える庭に出た。
 先ほどの料亭の時よろしく、手近な物陰に腰を下ろして身を隠す。とりあえず家の中を伺いながら、林田助手が帰宅するのを待つことにする。
 京子さんは料理を始めたようだった。開け放たれた窓から包丁の小気味良い音が聞こえてくる。
 夏の夜、日本家屋、料理の音。
 ここに住んだことがあるわけでもないのに、妙な懐かしさに包まれる。私は自分の目的を一時的に忘れて、なんとなく落ち着いた気分になっていた。
 林田助手が帰宅するまでの間、私は都会らしい明るい夜の空をぼんやりとみあげていた。

 程なくして、玄関の方から引き戸を引くような音が聞こえてくる。
 林田助手が帰宅したのだろう。未来の世界の林田教授の言葉が正しければ、京子さんは玄関で彼を迎えるはずである。
 日本家屋の壁は思ったよりも薄かったらしい。私の耳にも彼らの言葉がわずかに聞こえてくる。
『今日……なんで生きているのかわからない……と思ったんです』
 京子さんの声は明るい。だが急にそんな話を切り出された林田助手はそうではなかったようだ。明らかに取り乱したような狼狽の声が聞こえてくる。
 二人の会話はそこまで険悪なものには聞こえなかった。場所を玄関から居間に移して、彼らは話し続ける。
 口論というよりは京子さんの独白と言った感じだった。
 今日私と話したこと、どうして結婚に踏み切ったのかわからなくなっていたこと、そしてそれを思い出せたこと。
 さすがに過去に帰った、などという突拍子もない話はうまくごまかしていた。林田助手は終始言葉少なで、京子さんの言葉に真摯に耳を傾けているように思う。
 ……この口論が、明日の京子さんの自殺の原因なのだろうか。
 私にはどうにもそうとは思えなくなっていた。もっと喧々諤々の、後味の悪い口論を想定していただけに、ホッとするような拍子抜けするような複雑な気持ちだった。
 段々と更けていく夜も厭わずに、二人は対話を続けていく。同じ話を何度も繰り返しながら、自分たちの足元を見返すように、お互いの気持ちを確認しあっていく。
 私は不思議と眠くはならなかった。
 二人の不器用な、お互いにお互いを補完し合うような会話は、何故か私の心に染み入り続けていった。
 
 そうして朝が訪れる。訪れてしまう。
 二人の心温まる、不器用だがかけがえのない、そんな最後の会話が終わる。
36, 35

  

 私は眠い目をこすりながら、相変わらず林田邸の庭に潜んでいた。空も白み始めている。真夏の朝方らしい、少し涼しい空気が私の顔を撫でた。
 林田助手と京子さんの喧嘩、というよりも話し合いは、結局夜通し行われた。未来の林田教授に聞いていた通りである。
 結局のところ、京子さんの自殺につながるようなやり取りというのは全く無かった。最初から最後まで、険悪な雰囲気になるようなことはなかった。京子さんが林田助手と添い遂げようと決めたその時の気持ちを、二人で確認し合っただけだ。
 そんな話し合いもそろそろ終わろうとしていた。二人は疲れきったような、それでいて満足したような、そんな表情で見つめ合っていた。
「結局、夜通し話しちゃいましたね」
「そうだな……だが、お前の気持ちが聞けて良かった。たまにはこういう機会も必要なのかもしれん」
 林田助手は少し照れくさそうに、頬を赤らめている。
「もしもこれからまた悩むことがあれば、こうやって話しあおう。喧嘩する度に仲直りしよう。そうすればきっとうまくいくだろう」
 未来の林田教授からは、とてもこんなセリフを吐いている姿は想像できない。
 だが、人には多くの一面があるということなのだろう。
 家族の前では愛情深い一面も見せる。そんな林田助手を、私はとても素晴らしいと思った。
「そうですね……。また喧嘩すると思うと、ちょっと不安ですけど」
 京子さんは少しの不安と少しの安心を含んだような、複雑な笑みを浮かべた。それを感じ取った林田助手も、困ったような表情を浮かべる。
「ま、まあそうは言うが、二人一緒なら――」
「でも、未来のことはわからないですからね! 不安は不安ですけど、二人一緒に頑張れば、きっと大丈夫でしょう」
 京子さんは林田助手の言葉を遮ってそう言った。セリフを取られてしまった林田助手は一瞬きまり悪そうにしていたが、すぐに笑顔になって応えた。
「……そうだな。頑張っていこう」
「はいっ!」
 最後は二人とも笑顔で見つめ合う。
 なんの問題も、なんの障害も無い。お互いを信頼した笑顔が、夏の朝日に照らされていた。

 私は京子さんの自殺の動機についてもう一度考えていた。未来の林田教授の口ぶりでは、この口論こそがその動機であったはずだ。
 しかし、二人の話し合いはこうして円満に解決してしまった。
 私が彼女たちに出会ったことで、何らかの修正が効いたのだろうか。
 いや、違う。一瞬浮かんだ楽天的な考えを、私は自分自身ですぐに否定する。
 私とのそのような接触は織り込み済みで、彼女は死を選ぶはずなのだ。私は彼女が死ぬ未来からこの時代へとやって来た。その事実が変わることはないはずである。
 今の段階の彼女はとても自殺をするようには見えない。つまり今日の午後までに、彼女を死に走らせる何かが起こるはずなのだ。
 その時の私には、その理由は皆目検討もつかなかった。
 しかしそれはその後すぐにわかることで、この時の私が十分に考えを巡らせたならたどり着きうる答だった。
 『でも、未来のことはわからないですからね!』
 彼女は一体どんな気持ちでその言葉を口にしたのか。それさえもっと考えていたならば。

 その後、林田助手はシャワーを浴びてから着替えを済ませると、再び大学へと向かったようだった。一睡もしていなかろうが、仕事を休むという選択肢はないのだろう。そういえば未来の林田教授も仕事を休んでいるのを見たことがない。
 京子さんはそんな林田助手を玄関まで見送ってから、台所へと向かったようだった。包丁がまな板を叩く音や、ガスの火をつける音が聞こえる。
 きっと林田助手の弁当を作っているのだろう。
 少しして、京子さんは居間へ姿を現した。どうやら弁当づくりは終わった様子である。エプロンを外して、丁寧にたたみ始める。
 時刻は午前九時くらいだろうか。人心地ついた京子さんは、眠たそうな顔で居間のちゃぶ台の脇に座っている。
 弁当を届けに行くまでには少し時間があるはずだ。その時間を使って、少し寝たほうがよさそうに見える。あんな様子で外に出たら、自殺する前に交通事故にでもあってしまいそうだ。
 私の余計なおせっかいをよそに、京子さんは座りながらぼんやりしている。
 いや、一瞬前まではしていた。
 その時、京子さんは何かいい考えを思いついたような、しかしその考えの後ろめたさに戸惑うような、そんな複雑な表情を浮かべていた。
 例えるならば、テスト中にカンニングの方法を思いついた小学生が、それを実行するかどうか迷っているような、そんな表情だった。
 しばらくそんな様子で考え込んでいた彼女だったが、不意に決心したようにコクリと頷いた。
 そして、次の瞬間。
 彼女の姿はその場から消えていた。

 一瞬の間、現状を把握しきれない私の脳が停止してしまう。
 そうしたあとで、私はすぐに悟った。
 彼女は、跳んだのだ。
 過去か、未来か、それはわからないが。
 事態を理解した私に、これでもかというほどの焦りが押し寄せる。
 一体どこに! いや、いつの時代に! 今すぐに追いかけるべきだと思いながらも、どの時代に追いかけていいか全くわからなかった。
 どうすればいい、どうすればいい、どうすればいい。
 働き始めた私の脳の回転は遅い。
 しかしそんな私の焦燥感は、次の瞬間にすっかりなくなってしまう。
 京子さんが再び居間へと姿を現したのだ。
 時間旅行を終えて、自分が出発した時刻へと帰ってきたのだろう。彼女が姿を消していたのは、時間にすればわずか数秒の間だったに違いない。
 私は一瞬安堵したが、その後すぐに事の重大さに気がついた。
 私は京子さんに目をやる。
 そこには、先程までの笑顔は無かった。夫と意見をぶつけあって、すっかり不満を吐き出して、そうして再び仲直りをした、その笑顔は無かった。
 あるのはただひたすらの、絶望だった。
 よく見てみれば、着ている服もつい一瞬前までと比べて随分乱れている。
 少しだけコケた頬からは、かなりの長期間、時間旅行をしていたことが推し量れた。
 私は確信する。彼女を自殺に追い込む何かが、このひと刹那の時間旅行にあったのだ。
 そこで一体何があったのか。それを知るためには、彼女がどの時代へと跳んだのか知る必要がある。
 私は必死で考えを巡らせる。いつだ、いつだ、いつだ、いつだ、いつだ。
 かつてない焦りが私を襲う。彼女の自殺、その肝心かなめの動機が、時間跳躍にあるなんてことは考え付きもしなかった。私は自分自身の足りない頭を呪った。
 感情と思考の嵐が私の頭の中で荒れ狂う。手の付けられない規模のそれは、同じ所を堂々巡りで少しも前には進まなかった。
 しかしその嵐は、一瞬にして消え去った。うなだれる京子さんの表情をもう一度見た、その瞬間に。
 見覚えがある。
 あの絶望の表情は、どこかで見たことがある。私はそう思った。
 いや、その表現も適切ではない。表情と言うよりも、にじみ出ている感情。もう本当に、本当に手の尽くしようのないことに直面した時の、そんな絶望の感情に覚えがあるのだ。
 それを思い出した時、私の中ですべての糸がつながった。
 
 あれは、私だ。

 私はこれまでの旅路を振り返る。
 京子さんの死の運命を変えるべく、この時代にやってきた。
 その運命が変えられないことを知った。
 空色オヤジの力添えで、いくつかの平行世界を旅した。
 それでも逃れ得ぬ、死に直面した……!

 その時の深い絶望が再び私を焼いた。京子さんから感じた絶望は、まさにそれだったのだ。
 そんな絶望を感じた私は、その後にどんな行動をとったのか。
 屋上。フェンス。地面。浮遊感。涙。
 なんのことはない。京子さんの死の動機は、私が身をもって体験したことだったのだ。
 私は彼女の言葉を思い出す。
『でも、未来のことはわからないですからね!』
 彼女は気づいてしまったのだろう。自分ならばそれがわかるということに。
 そして、未来へと旅立ったのだ。
 未来の自分が果たして幸せなのか。林田助手とは上手くやっていけているのか。
 それをほんの少しだけ知りたいと、そう思ってしまった彼女をどうして責められようか。
 しかし、私は知っている。彼女は未来へと跳ぶことはできない。
 なぜなら彼女は、今日この日に死ぬ運命にあるからだ。彼女には今日より先の未来はない。
 彼女はきっと、何かの間違いだと思っただろう。何度も時間跳躍を試しただろう。もしかしたら、空色オヤジから並行世界の存在すらも教えられたかもしれない。この私がそうだったように。
 それでも逃れ得ぬ死の運命に、彼女は今うちひしがれているのだ。
 
 私は全てを理解した。何よりも、私には何もできないということを理解した。
 この後死を迎えるだけの彼女を見ていたくはなかった。
 私はその場から逃げるように時をかけた。
 こぼれ落ちた涙だけを、その場に残して。
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パ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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