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◇05:光る雨の記憶①

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 本を読み終わったあとで、私はしばらくのあいだ目を閉じる。
 現実を離れて別世界に引きずり込まれてしまった心が、あちこちをさまよい歩いている。それをほんの僅かでも持続させたくて。
 ゆっくりと息を吸い、吐く。
 夢うつつでまぶたを持ち上げ、目線を上げる。
 図書室の窓から差し込む光の中、向かいの席では川原理衣子が頬杖をついて、微かな笑みを浮かべてこちらを見ていた。

「読み終わった?」
 彼女はどことなく愉快そうに言った。いつの間にか自分の本を読み終えていたらしく、本は閉じて机に置かれている。
 私はなにか気恥ずかしくなって、黙ったまま目を合わせずに頷いた。
「感想は言えそう?」
 理衣子が重ねて質問する。私は小さく首を横に振る。
「まだ、時間がかかりそうなのね?」
 頷く。
「理衣子は?」
 ようやく声が出て、ほっとする。本を読み終わったあとはいつもこうだ。まるで別の世界に感覚が飲み込まれたように身体の機能が一時停止してしまい、元通りになるまでに少し時間がかかる。
「そうだな……」
 理衣子は目線を少し外してじっと考え込む。こういう時、彼女は焦らない。ゆっくりと時間を使い正しい言葉を探す。私はそれを待っているのが好きだ。大切な瞬間をわかちあっている気持ちになれる。
 何度かまばたきをして、それから理衣子は口を開く。
「大阪の旧家の四姉妹の話なの。三番目の雪子は姉妹の中で一番の美人なのに、なぜか三十を越えても縁談が決まらない。いつも何か都合の悪いことが起きたり、雪子自身が嫌がったりして、まとまらないままずるずると過ごしている」
 理衣子は視線を落としたまま「細雪」の装丁を指で撫でる。
「彼女の縁談をまとめるために周囲が奔走する。それがこの話のほとんどで、あとは、いわゆる昭和の上方の上流階級の暮らしがつづられていく。時々『事件』は起きるし、それもえぐいと言っていいくらいのものだったりするんだけど、そこにもわざとらしい盛り上げや緊迫感の演出はなくて、なんとなく流されていくみたいに、日常が進んでいくの」
 彼女は少しだけ首を傾げるようにして、更に言葉の続きを探る。
「淡々と描かれているのに、人の心の一番暗いところをあっさりと汲み上げてしまう。そんな感じがする。それも、極めて女性的な部分を。男性が書いたとは思えない」
「……面白そう」
 素直にそう思った。私の言葉に理衣子は嬉しそうに目を細める。理衣子の表情の変化はとても鮮やかだ。さりげないのに人目を引く。空気の色が少し変わる。
「特にこの雪子っていうのが、ものすごく鼻持ちならない女なの。矜持が高い癖にものをはっきりと言わない。なんとなくの気配を周りが汲み取ってくれるべきだって思ってる。でも最終的に、自分の意見は絶対に通すの。男性とろくに喋れもしない。汚いことはしない、やらない。それと対照的に末の妹は『現代的』で奔放な性格で、駆け落ち沙汰まで引き起こす。雪子はそれについて何も言わないし、仲もいいんだけど、どこかで軽蔑してる。そういう女。でも私が思うに、多分この二人って――」
 そこまで言って、理衣子はふと思い出したように口をつぐむ。
 私はまばたきをしながら続きを待った。その期待をそっと封印するみたいに、理衣子は微笑む。
「続きは秘密。聞きたければ、また今度ね」
「秘密? どうして?」
「それも秘密。……気になったなら、読んでみて」
 理衣子は「細雪」をこちらに差し出す。私は黙ってそれを受け取ったけれど、たぶん寂しそうな表情をしていたのだと思う。
「そんな見捨てられた犬みたいな顔をしないで」
 理衣子がくすくす笑う。
「大したことじゃないの。本当に。ただ、今は喋らない方がいいと思うだけ」
 その言葉に私は少し傷つく。でもそれを表情に出さないように努めた。理衣子のことならなんだって知りたい、そう強く思うことを、醜い独占欲だと思われたくなかったから。

 理衣子と放課後の時間を図書室で過ごすようになったのは高校一年生の夏のことだ。
 その夏までは彼女と言葉を交わしたことさえなかった。同じ中学に通っていた頃も、そして同じ高校に進学してからも、まったく接点はなかった。
 学校の中での川原理衣子という存在は、「異物」だった。彼女にはなにか同年代の女子を警戒させるものがあって、中学でもはっきりと浮いていた。普段の口数は少ないけれど、時に物怖じせずきっぱり自分の意見を言う。勉強も運動も普通よりずっと出来たし、ピアノも上手く弾いた。女子のグループには近づきたがる様子さえ見せず、上級生の男子と平気で喋る。そういう目立ち方は場違いな感じさえした。鳩の群れの中に一匹だけカラスが居るみたいに唐突だった。女の子たちはみんな理衣子が苦手みたいだった。ずっと年上の男の人とつきあっているとか、何人も彼氏がいるとか、そういう噂がまことしやかに流れていた。「もう処女じゃない」とも。
 でも彼女自身はそんな何もかもを、まったく意に介していないみたいに見えた。
 それに比べれば、私は随分と目立たない存在だった。教室の隅で、同じようにおとなしい女の子といつも小さな声で話をしているような。誰かの悪口を言わない、なるべく周りに合わせて物を言う、目立つことを極力避けたがるような女の子たち。大抵のことを曖昧に笑って誤魔化してしまう。その無害さが、私には安心できた。周囲の女の子たちはよく「川原さん」の悪口を言っていたけれど、彼女たちと居ればそれに参加する必要もない。話題に合わせて頷いていればなんの問題も起きない。
 その頃の私からは、「川原さん」は自分とはまるで違うところで息をしているように見えていた。
 高校に入ってしばらくすると、放課後の時間を図書室で過ごすようになった。中学の頃に比べて高校の図書室にはあまり人が来ない。みんな部活で忙しいのだろう。私はどんな部活にも興味を持てなかった。毎日のように部室に行ったり、緊密な人間関係の中で過ごしたりすることを考えるだけで疲れてしまう。これ以上、日々を過ごしていくためだけの人間関係を増やしたくなかった。たった一人になりたい。それに、家にも帰りたくない。
 その頃から、本の世界は私にとってなくてはならないものになっていった。乾いた土が水を底なしに吸収するみたいに、どんな本でも手当たり次第に読んだ。どれだけでも読めたし、選び抜かれた言葉の羅列はことごとく心を揺らした。そこはたった一人きりでありながら、誰と話すよりも正直に語り合える世界だったのだ。
 でもその夏、そんな私の世界が小さく崩されることになる。
 いつの間にか、「川原さん」が図書室に姿を見せるようになっていた。彼女は週に何度か現われて、ぼんやりと本に視線を落としながら時間を過ごし、夕方になると帰っていく。
 そのことに気がついてから、彼女が来ないかを気にするようになっている自分がいた。本を読みながらも、誰かが来るたび入り口の方に目をやってしまう。それなのに、実際に彼女が現われると顔も上げられない。本の陰からそっと姿を窺い見ては、目を逸らす。
 自分でもおかしいと思うくらいに彼女を意識していた。多分、中学生の頃から意識していたのだ。話をしてみたい。どうすればそんな風に、他人から嫌われることなんか気にせずに振舞えるのか、聞いてみたい。
 でも実際に近づくことなんか出来なかった。きっとうまく話せなくてつまらない子だと思われてしまう。そもそも同じ中学だったからといって、彼女が自分のことを認識しているかどうかも自信がなかった。私の名前さえ知らないかもしれない。そう思うだけで喉はからからに渇いて、手のひらに汗をかいてしまう。
 だからある日、彼女の方から話しかけられた時には、何が起きたのかをしばらくの間把握できなかった。
「ここ、座ってもいい?」
 ひそひそ声の問いかけ。反射的に目を上げると、そこには「川原さん」がいた。彼女は返答を待たずに椅子を引き、すとんと腰を下ろす。
「ねぇ、いつも何を読んでいるの?」
 その質問に、私はまるで声を失ってしまったみたいに反応できない。こういう機会を何度も想像していたはずなのに。そしてなんと答えるべきか、もっとも印象的な答えを用意していたはずなのに、それがどんなものだったのか少しも思い出せない。
 私は黙ったまま本の背表紙を見せた。彼女はそれをじっと見て、
「夏目漱石、『こころ』」
 抑揚のない声でそう読み上げた。私はまた頷く。
「漱石が好きなの?」
「ううん、そういうわけじゃなくて、単にこの作品が好きなんだけど……」
「へえ、面白い?」
「……たぶん」
 どうして彼女は私に話しかけてくれるのだろう。私はなんとか言葉を続ける。声が震えていなければいいけど、と願いながら。
「私は面白いと思うけど、どうしてなのかうまく説明できないし……みんな同じように感じるかは、自信がないんだけど」
「たとえば、どんな部分が好き?」
 彼女は覗き込むように上目遣いで私を見る。鋭いくらいまっすぐな視線に、私は動揺する。こんな風に物を訊かれるのは初めてかもしれない。それから少し焦ってページを開いた。好きな部分はたくさんあったし、何度も読んだから大体覚えている。最初に目に付いた箇所を開いたまま、文庫本を彼女に向かって差し出した。
 しばらく、彼女はじっと本に目を落としていた。


「恋は罪悪ですか」と私がその時突然聞いた。
「罪悪です。確かに」と答えたときの先生の語気は前と同じように強かった。
「何故ですか」
「何故だか今に解ります。今にじゃない、もう解っている筈です。あなたの心はとっくの昔から既に恋で動いているじゃありませんか」
 私は一応自分の胸の中を調べてみた。けれども其処は案外に空虚であった。思い当たるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それ程動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私のところに動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。然しそれは恋とは違います」
「恋に上る段階なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものがまったく性質を異にしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられないでいるのです。それから、ある特別の事情があって、尚更あなたに満足を与えられないでいるのです」……


 彼女がそれを読んでいるあいだ、私の落ち着かなさは不安に変わり、逃げ出したい気分にさえなっていた。本の感想を誰かと共有できたことなんて今までなかった。だからずっと一人で好きな本ばかりを読んできたのだ。自分には面白いと思えるものでも、相手にはなんの興味も抱けないものかもしれない。つまらない子だと思われてしまうかもしれない。
 彼女は本からそっと目を上げた。そしてしばらく黙っていた。私は沈黙の中で言葉を待つ。
「なるほどね」彼女は小さく呟いた。「漱石って、もっと堅いのかと思ってた。恋は罪悪……か」
 彼女の目は興味深そうに光り、口元には愉快そうな笑みが浮かんでいた。
「面白いわ。椎森さんってこういうのが好きなんだ」
 彼女がさらりと私の名前を口にしたことに驚きながらも、それ以上に嬉しくなった。何かが直接繋がるみたいに、とてもまっすぐに、感覚を共有してもらえたような気がしたのだ。
「小説が好きなのね」
 彼女は文庫本をこちらに向かって差し出す。受け取りながら、私は黙って二度頷いた。
 そこで唐突に話が途切れてしまう。
 けれど彼女は沈黙を決まり悪く感じるそぶりも見せずに、持っていた本を広げて、いつものようにくつろいだ様子で読み始める。
 川原さんは何を読んでいるの、と訊こうと思った。でも訊けなかった。彼女の本を読んでいる姿に私は見惚れていた。いつも本の陰から見ていたのと同じように。
 その内に、私の視線に気がついた彼女が目を上げる。
「ここ、座っていてもいいのよね?」
 私は慌てて頷いた。もちろん、と。
 その時、彼女はそっと微笑んだ。何か特別な秘密を共有している相手に投げかけるように、ひっそりとした親密さを含ませて。本当に小さな、口の端を上げて目元を緩ませるだけの微笑。
 同年代の女の子がそんな風に微笑むのを、私はその時初めて見た。


 それから私たちは、放課後の図書室で少しずつ言葉を交わすようになった。いったん緊張が解けてしまうと、むしろ私は普段よりもよく喋った。理衣子はあまり多くは喋らない。いつも私の話を聞きたがった。彼女は人の話を聞くのがとても上手かった。適切なリズムで相槌を打ち、とても気持ちよさそうに小さく頷く。音楽の調べを楽しんでいるみたいにくつろいだ様子で。
 そんな心地よい相槌にするすると引っ張り出されていくように、私は色々な話をした。本の感想をお互いに話し合うこともあったけれど、それよりは、自分の話をすることの方がずっと多かったと思う。学校がつまらないとか、周囲の考えに馴染めないことだとか、そんな些細なこと。それでも、誰かに語るべきことが自分の内側にこんなにも隠されていたなんて、それまでまったく知らなかった。それはとても意外なことに思えた。普段は寧ろ口数が少なく、思ったことをあまり口に出さない方だったから。
 言葉がまっすぐに受け取られること。それに率直な答えが返ってくること。本を相手にしているのとはまるで違う種類のものごと。自分がずっとそういうものに飢えていたのだと、初めて知った。
 気がつくと、週に何度かの理衣子との時間は私の中で特別なものになっていた。
「沙紀は毎日図書室に通ってるの?」
 あるとき、理衣子が尋ねた。その頃には、私たちはお互いに下の名前で呼び合うようになっていた。
「ほとんど毎日。もちろん、来ない日もあるけど」
「どうして?」
「それは……家に、帰りたくないから」
 理衣子はいったん軽く息を止める。沈黙。図書室に他の生徒はいない。遠くのカウンターには司書の先生が座っているけど、囁くような声はそこまで届かない。
「家は、あまり居心地のいい場所ではない?」
 私は頷く。
「学校も大して好きじゃないけど」
 理衣子は同意をこめて小さく苦笑する。
「学校で勉強してるって言えば文句も言われないし。あの人と顔を合わせてると、気分が暗くなってくるから」
「『あの人』」理衣子は鋭くまばたきをする。「母親?」
 私はまた頷く。
「厳しいの?」
「厳しい方だとは思う。でもそれが嫌なんじゃなくて……なんていうか、物をはっきり言わないから。前に理衣子が言ってたみたいな、『細雪』の――」
「雪子」
「そう。その話を聞いたとき、母親に似てるなって思った。いつも不満で一杯なのに、言うときにはものすごく遠まわしにしか言わない。そういうのがすごく嫌いなの。昔からずっと嫌だった。きっと相性が悪いんだと思う。それに向こうも、私に関心なんてないみたいだから」
「成績さえ良くて、世間に対して体面が保てればそれでいい」
 理衣子が言った。私は黙ったまま彼女を見る。
 彼女は私の視線を受け取って微かに微笑む。いつもより気持ち控えめに。
「うちの母親もそうだから、わかるの」
 理衣子は少し目線を下げて、何度かまばたきをして、
「私も、できれば家には帰りたくない」
 小さな声でそう言った。
 理衣子が自分の気持ちをそんな風に語るのは初めてだった。私は少し息を呑む。
「なんていうか……母親といると、やり切れない気分になるの。この親の血が自分の中に流れてるんだと思うと、怖くなる」
「いつか自分も、親と同じようになってしまうかもしれないって思うから」
 思わず言葉が零れる。
 理衣子は少し驚いたように私を見て、それから苦笑気味に頷いた。
「沙紀には、わかるんだ」
 わかる。
 私はゆっくりと、深く頷く。
 その感覚を誰かと共有するのは、初めてのことだった。多分理衣子も初めてなのだろうと思った。空気を通してそれがわかる。
 私と理衣子は、同じ理由で図書室に来ていたのだ。
「ちなみに、父親は居ない。私が小さい頃に亡くなったから」理衣子が言う。
「小さい頃から単身赴任ばかりで、一緒に過ごした覚えがほとんどない」私は答える。
 お互いに顔を見合わせて、苦笑してしまう。
「変な共通点」
「でも、なんとなくそんな気はしてた」と理衣子が呟く。
「そうなの?」
「そう。きっと何か似たものを共有しているんだって。たぶん、ずっと前から……中学の時からかもしれない」
 その意外な言葉に驚く。あの頃の理衣子が自分を意識していただなんて、考えたこともなかった。
「理衣子は私のことなんか、知らないと思ってた」
「話したこともなかったしね」
「あの時話しかけてくれなかったら、たぶんずっとそう思ってたんじゃないかな」
 一番最初、図書室で理衣子が私に声をかけてくれた時のこと。
「ああ……あの時ね。私、すごく歯痒かったの」と、理衣子が笑う。
「歯痒い? どうして?」
「だって沙紀はいつもこっちをちらちら見てるくせに、少しも話しかけてくれないから。それで痺れを切らして、私から話しかけたの」
「気づいてたの?」
「すごくわかりやすかったもの」
 頬が熱くなる。それを誤魔化すために、私は俯いて本を読もうとする。
 理衣子は読みかけの本を広げて持ったまま、視線を横に逸らしていた。考え事をするときの彼女の癖。
「どうしてだろう。そういうのって、単なる予感なの。なんの根拠もない。ただ、見た瞬間にわかる。名前を知らなくても、話をしたことがなくても、お互いにどこかで繋がっているような……そういう感覚」
 理衣子が微笑む。空気の色が変わる。私はそれに見惚れる。いつものように。
「私も」
 ずっとそう思ってた。
 そう言おうとしても、全部は音にならない。でもきっと、言わなくたって、理衣子はわかっているはずだと思った。私と理衣子は、どこかで繋がっている。胸の奥の一番深いところで。それも単なる予感でしかない。でも互いにその予感を信じている。
 それは生まれて初めて出会う感覚だった。繋がっていること。自分の言葉が、自分以外の誰かに自然に染み込んでいき、ただしく掬い上げられていくこと。普段よりもずっと深く、はるか遠くまで響くこと。誰かに受け取られることで新しいかたちを与えられること。そして、言葉にならないものさえも。

 どんなに短くささやかなものだったとしても、それは確かに特別な時間だった。
 優しい雨のようにきらきらと光の粒が降っているような。
 少なくとも私には、本当にそう思えたのだ。


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