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◆第一話「名前」(硬質アルマイト)

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「それで、晃は浮気相手といる彼女を見て、逃げるように帰ってきたのか」
 公園のベンチに二人並んで腰かけ、僕はコーヒーを、彼は炭酸飲料の缶を手にしていた。
 隣の彼は今現在僕の身に起きた状況を“親切”にも細かく口にしながら整理し、興味の色をした瞳でこちらを見つめていた。
「元彼女、な」
 僕は彼の発言のたった一箇所だけを修正すると、コーヒー缶をぐいとあおる。すうっと通るような苦みの後に、じわりとした甘みが広がる。
 数ヶ月前の出来事である筈なのに、それらは未だ僕の脳裏にこびりつくように張り付くその苦い映像は溶けて行くことはなかった。

 その日はやけに雨が強く降っていて、それが印象に強く残っていた。
 僕はあの人が他の男性といるところを見てしまい、彼女もそれに気づいてしまった。不安と疑問に埋め尽くされた僕は彼女を問い詰めたのだが、それが結果として別離を呼び起こし、それから先は本当にすんなりと決まっていった。
 思えば、その場に遭遇さえしなければがなければ今も彼女という存在に浸り続けられていたのかもしれない。
「まあいいんじゃないか。そういう女と長くいると搾り取られるだけ搾り取られて――」
「彼女はそういう人じゃない」
 彼の発言を強い口調で遮ると、じっと彼を見つめる。
 そんな人ではない。
 それだけは何が何でも否定しなければいけないような気がしたのだ。ここで一緒になってあの人に対して何かを言えばきっと気持ちは晴れたかもしれない。けれども、それは表層的なものであると思うし、それによって何がか吹っ切れるといったことはけしてないと思った。
――貴方に寄り添うことはいつでもできるけれども、それ以上を求めてくるのは私には重いだけなの。
 別れ際に残した言葉を思い出す。あの人は僕を恋人ではなく、一種の“客”のような存在だと言っていたのだ。
 肉体的な関係をけしてもつことはなく、ただ寄り添うだけの関係で、あの人は僕を満たしている気になっていたし、僕も満たされている気になっていた。
 あの人が提供するものを僕は喜んで手にする。それだけ。
 僕が提供するものを彼女は全て突っぱね、そして拒否した。
 あの人は、まるで通り雨のように僕の元を去って行ったのだ。
「お前がそう言うのならそれでいい。けれども浮気をされて、挙句の果てに振られたという事実は変わらないからな」
「分かってるよ」
 僕の強い視線に少したじろぎつつも彼ははっきりとした言葉で僕を貫き、そして僕から視線を逸らして炭酸飲料をぐびりと飲んだ。僕もコーヒーを思い切り口に詰め込むとごくりと一息に飲みこむ。

 その状況を変えたいと思ったとして、それが確実に実を結ぶことがあるのはきっと、歩き続けてから立ち止まるその日までの間で、多分数回程度なのだろう。

 数か月前、雨の中で僕が、現実から背を向けた時にふとそんな事を思ったのだ。
 それが自分を肯定したいからであったのか、それとも諦めの色に染まる自らをぼんやりと眺めていた結果であったのか。
 今となっては、解決することのできない謎として、僕の中へと沈んでいくのであった。

   ―第一話―

「飲みに誘ってやる。そこで知り合い作って元気出せ」

 彼はそんな言葉を残して行ってしまった。
そして数日後になると男性五人、女性五人の、形式上は「飲み」であるが、明らかに傍から見れば一つのワードが出てくるであろう企画が立案され、そしてトントン拍子にことは進んでいるようだった。
 実際のところ、女性の知り合いを増やすことで、振られたことを忘れさせるというのは口実であるということは容易に分かった。ただ単に騒ぎたいだけなのだ彼は。
 高校時代から何かにつけて騒ぎたがる奴であったと日時と場所の示されたメールをぼんやり眺めながら思う。
 意外と変わらないものなのだな、人というのは。
 携帯を適当に放り投げ、ベッドにあおむけに転がって後頭部で腕を組む。つけっぱなしのノートパソコンからは曲が流れ、僕の部屋に巣食う静寂と言う名の穴を懸命に埋めるべく音を鳴らしている。
 頭を横に捻り、大して利用もされずに埃まみれとなっている本達の収まる棚の上に置かれた時計を見る。時刻は十四時を差し、規則正しくカチリ、コチリと秒針を働かせ、時針と分針はじっと、そんな秒針を見つめていた。

 時間は止まってはくれない。

 はっとした時には二十四時間分肉体が変化していく。それが進化であるのかはたまた老化であるのかは別として、一秒たりとて同じ自分がいることはないのだ。
 僕はベッドから起き上がって一度背を伸ばすと洗面所へと向かう。
 蛇口から思い切り冷水を放出させると、僕はそこに頭ごとつっこみ、シャツの襟が濡れていくのを感じながら、それでもひたすらに水を浴び続ける。
 流れろ、流れろ。
 流れてしまえ。
 まるで誰かを呪うように、一言、二言、三言と何度も僕は言葉を吐き出す。忘れてしまえばいいのだ。出会ってもいなければ付き合ってすらいないと思えばいい。
 愛情を注ぎ、そしてそれで満たされる都合の良い相手を求めていただけなのだ。
 そんな人物がいれば誰でもいいし、何人とでも良いのだ。
 そんな女性の事を考えて何になるのだ。
 けれども、考えれば考えるほど、頭に冷たい刺激が降り注げば降り注ぐほどあの人の姿はより鮮明に瞼の裏側に移り、つい先日まで感じることができた感触が手に、頬に、背に、胸に、次々と浮かんではほろりと消えていく。
 その感覚がとても切なくて、僕は歯を食いしばった。
 もう感じられない感覚を想った。

   ―――――

 冷水によって無理に引き上げられた意識を引っ提げて外へと出る。時間通りに出てきたおかげで遅刻することはなさそうだ。
 こういった会合にさしたる興味を感じないことと、そういった出来事を催す者が周囲に少ないからか、それほど飲みというものに参加したことがない。その為今日も正直なところ、行って何をすべきかと多少考えてしまう。
 別に何もしないという手もあるのだろうし、苦手な空気ならば出て行ってしまうのも悪くはないだろう。いや、十中八九出て行くことになるのは目に見えているのだが……。
「もう来てたか」
「やあ」
 数人を連れてやってきた彼の声に僕は手を挙げる。眺めて見たところ大体僕を入れて丁度予定していた面子になるようだった。
「こいつ、浅野晃。俺の高校の時からの友人」
 彼は屈託のない笑顔を浮かべると僕の肩に手を置いた。僕は適当な挨拶をするとぎこちない笑顔で彼らを見て回る。誰も彼も人の良さそうな笑みを浮かべているが、そこか作りっぽさが浮き彫りになっていた。いや、それはこちらも同じではあるのだが。
 そんな中、一人だけ憂鬱そうな顔を浮かべる女性を見つけた。
 物静かな空気を纏い、周囲の者達に比べるとそれといって派手でもなく、そこに混ざっている、という表現が似合うような、そんな女性。
 容姿、としては似ているわけではないし、周囲に異を唱えるように立つ姿はとても“正反対”と言った印象であるのだが、僕は何故か彼女に少しだけ興味を持った。多分僕と今現在全く同じ思考でいるのだろう。
 ふと、目が合う。
「……」
 彼女は無言のままじっと僕を数秒見つめたあと、すっと横に視線を逸らしてしまった。
そんなこともあったからか、暫く僕はぼんやりと彼女のことを見ていた。だが主催者の彼が歩きだしたことと、他の面子が声をかけてきたこともあり、彼女から視線を外さざるを得なくなった。
 憂鬱そうな顔に、あまり人に寄りつかなそうな風体。全てにおいて先日別れたあの人と逆であるのに、何故僕は彼女を視界に入れてしまうのだろうか。


 乾杯の言葉と同時にジョッキグラスが卓上を飛び交う。僕も流れに身を任せ、隣の者や対面する者と適当にグラスを交わし、そして適当に飲み干す。これだけの行為でも彼らは気持ちを昂ぶらせ、熱を上げていく。単純であるが、羨ましいものだとも若干思ってしまう。
 飲み終わったビールを置くと一息つく。こういうことに参加するのもいいが、疲労以外の何物も生まれないところから見ると、やはり僕はこういったことに興味はないようだ。
 あまり大勢と絡むことが得意ではないのだ。一対一である際に自分自身をもっと出せているかと言われればそういうわけではないが、それでも大勢は苦手だ。
「あまり飲まないね」
 ぼんやりと泡の残ったグラスを眺めていると、隣に誰かが座った。
 視線を横にずらすと、先程の憂鬱そうだった女性がいた。相変わらず現状に全く興味を示していないような、そんな表情で手にしていたグラスを口にする。
「こういうところ苦手なんですよ」
 僕は困ったような笑みを浮かべ、声の主へとそれを向ける。
「なんとなく、そんな気がしてた。私も苦手なの。同じですね」
 その言葉に思わず固まる。意識の共有という感覚に嫌な気持ちはないのだが、今は僕にはそれがあまり良い物とは感じとることができていなかった。意識の隅にもぐりこむようにして入ってくる “感覚”を既に経験しているからなのだろうか。
「どうしたの?」
 僕の視線に彼女は首を傾げる。いえ、と言葉を呟くとすぐに顔を逸らし、頭を掻く。
 近くに来られて、少しだけ興味の正体が姿を現した気がした。
「本当は、馴染めた方がいいんだろうなとは思うんだけど」
 僕は頭を振って、浮き沈みするその感覚から逃げる。
「そうね。でも、苦手なことを無理してまでやらなくてもいいのかな、とも思うし」
「……そうかもしれない」
「私も話をするのは得意じゃないけど、あんまり人を避けないようにしてるの」
「へぇ」
「だって誰かの本当の姿なんて、ぱっと見ただけじゃわからないでしょう? その人が本当はどんな人で、何を考えているのか。だから」
 そう言って彼女は顔を近づける。
 今、彼女は僕が何を考えているのかを探っているのだろうか。いや、だとしても分かるわけはない。その人物の姿、性格、思考を知っていなければ、けして理解することのできないものであるから。 
 少し接しただけでは分からない。
「それは良い事なんだろうね」
 たった数センチだけの距離に僕は戸惑い、かろうじて吐き出すことのできた言葉と共に彼女から離れた。彼女は暫く僕をじっと見つめてから、喧騒の中に紛れて消えてしまった。思わず胸に手を当ててみると、やはりというか、なんというか、鼓動はいつもよりも早いテンポを刻んでいた。

   ―――――

「ふぅ……」
 電灯と、時折横を通り過ぎていく車が照らす夜道を、僕はのんびりと歩く。最近では星の明かりもよく見えなくなっているし、夜を彩るものといえば周囲に点在する建物の灯りくらいなものだ。
 飲み会はすぐに出た。暫くぼんやりと酒を飲んでいたのだが、結局最後までその空気に馴染むことができなかったのだ。
 彼女の名前くらいはなんとか聞いておくのも良かったかもしれないなとふと思った。
 何故、ここまで興味をもってしまうのだろうか。
 彼女はどうしてか、憂鬱そうにしながらも、誰かのことを知ろうとしている。何も欲しそうではない素振りを見せつつ、実際に喋ってみると関わりをそれとなく望んでいた。
 彼女は、本当に孤独が好きなのだろうか。今までひたすらに見続けてきていたのが共有を望む女性であったからか、孤独を好むということに違和感を感じてしまう。
 そんなことを考えていて、ふとああ僕は本当に引きずっているのだなと自己に対して嫌悪の念を覚える。
「名前くらい、知りたかったな……」
 もう一度溜息、そして――
「浅野さん、でしたっけ?」
 その興味を抱いた声が、背後から聞こえた。
 振り返ってみると、そこには少しだけ息を切らした先程の“憂鬱そうな”女性の姿が、そこにはあった。
「どうしたんです?」
「あの雰囲気が、やっぱり私には合わなくて。それに、浅野さんが出て行くのが見えたから」
「いつも行ってるんじゃないんですか?」
 彼女は首を振ると、何度か大きく深呼吸を行って息を整える。
「ううん。人数合わせに連れてこられただけなの」
 大分呼吸が落ちついてきたのか、余裕をもってそう答えた。その言葉を聞いて僕はどこか納得の色を見せる。彼女は多人数と話すよりは、一対一だったり、個人的なものであるほうが良いのだろう。
「じゃあ、僕と同じだ」
 随分と彼女に対して色々な感情を覚えるものだ、と僕は微笑んだ。


 無言のまま並んで夜道を歩いてみる。冷静な風を装ってはいるが、意外と内心は穏やかではなかった。
 言葉を探さなくてはと思うのだが、どうしてもなにも見つからないのだ。日常的な言葉の数々が浮かんでは消え、そうして残るのは文字の粒だけ。それでもここまでの状況で、ただ帰るだけなんてことはしたくなかった。
「あの……」
「はい?」
 無言の圧力に耐え切れず、僕は絞るような声で彼女に言葉をかける。砕けて底へ沈殿していく文字たちを必死で掬いとりながら。
 興味を持ったのなら、それなりの想いをもって動くべきだ。
「そういえば、名前を聞いていないなと思って」
 彼女は一度だけ目を瞑り、そして口を開く。
「椎森沙紀と言います」

 踏み出してみることくらいは僕にだってできるのだから。


   つづく
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