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◇08:冷えていく手

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 解消しなければならない疑問がある。
 複雑に絡み合った仮説の糸をときほぐし、その奥にあるものを引きずり出さなければならない。
 私は震える指で着信履歴の一番上の番号を選び、通話ボタンを押す。発信音が鳴る。一度、二度、三度。それが途切れることを願う一方で、いつまでも繰り返されていればいいのにとも思う。手を触れなければ、可能性は永遠に可能性のままだ。
 でもそれはやがて途切れる。
 雑音交じりの空気の音がしばらく続き、小さな声が聞こえた。
「……沙紀?」
 理衣子はとても落ち着いた声で問いかける。なぜ浅野君が、ミフジさんの番号を使って電話をかけることができたのか。それについての自分の仮説が正しかったことを知り、私は目を閉じる。
 理衣子はずっと近くにいたのだ。
 喉が詰まって声が出ない。声にならない言葉の代わりに、私はため息をつく。とても深く。
 沈黙が続き、理衣子がそれを引き取る。
「あなたの欲しがっているものはわかってる」
 そう、理衣子にはなんでもわかっている。
「明日の朝、あの図書室に来て」彼女は言った。
「欲しがっているものをあげる」
 そう呟いて電話は切れた。私の返事さえ待たずに。


 古びた鍵を差し込んで回す。乾いた音がして鍵が開いた。
 図書室の中は昔と何も変わっていなかった。
 早朝の静けさと、古い本の匂い。学校のどこからも人の気配はしない。ここを最後に訪れたときもそうだった。ただ、今は夏ではなく春だ。そして私は十五歳ではなく二十歳になっている。
 あれから私はこの図書室に一度も足を踏み入れなかった。それでも、理衣子が残していったこの部屋の合鍵を、決して手放せなかった。それが私に残された確かなかたちのある唯一のものだったから。理衣子はそれをわかっていて、ここに来るように言ったのだ。
 窓に近づき外を眺める。春の予感と雨の気配を含んだ、薄曇りの空が見えた。
 私は目を閉じる。そして理衣子を待った。あの夏休み、理衣子が姿を見せるのを一人で待ち続けていたみたいに。そう、私は待っていた。ずっと、いつまでも待ち続けていた。あの夏の日から心のある部分を凍らせて、決して変化させることのないようにして。それが私の望みだった。待ち続けること。そこに留まり続けること。
 どのくらい経ったのだろう。
 小さく扉が開く音がした。私は振り向かないまま、ゆっくりと目を開ける。
 扉を閉める音の後、控えめな足音が少しだけこちらに近づいて、歩みを止めた。
「あなたはまだ、賭けの条件を守っているの?」
 理衣子が静かに言った。
 私は外を眺めたまま答える。
「わからない」
 わからなかった。変わらずにいる、という理衣子の条件を、今の自分が満たせているのかどうか。
「私のこと、いつから知ってたの?」私は訊ねる。
「最初から。あなたが信一郎さんに出会った一番初めの時から」
 ミフジさんの下の名前を理衣子はとても自然に発音した。
「私があなたの名前を名乗ったから」
「そう。話を聞いて、すぐに沙紀のことだってわかった。少し驚いたし――そうね、嬉しいとも思ったわ。あなたが私のことを覚えていてくれて」
「じゃあ、どうして会いにきてくれなかったの」
 それを言えば、自分がよけいに傷つくことになるとわかっていた。でも言わずにはいられなかった。どうしても。
「それはもう終わったことだから」
 理衣子はとても簡潔に答えた。意外なくらい優しい声で。
「私にとっては、まだ終わってない」
 声が震える。
「そうね」
「終わらない。どうやって終わらせればいいのか、わからない」
「でも終わらせたいと思ったから、あなたはここに来たのよ」
「違う」
「違わない」
 理衣子は穏やかに言う。
「あなたが浅野君といるのを見て驚いたけれど、どこかで納得したの。あなたたち、少し似ているから」
「似ている?」私は小さく首を振る。「あの人はそういうんじゃない。ただ、理衣子とつきあっていたと知ったから近づいただけ。それ以外の興味なんてなかったし、今だってない」
「そうかもしれない。でも、似ているわ」
 似ている。そうだとして、それがなんなの? 浅野君に私を押し付けておけば、全部が丸く収まると思ってる?
 そんな言葉が口をついて出そうになる。違う。理衣子はそんなつもりじゃない。
「あのときのことを理衣子は忘れても、私は忘れられない」
 知らないうちに視界が歪んでいた。目を閉じると、涙が頬から首筋に伝っていく。
「忘れたことなんてないわ。だって忘れる必要なんかないもの」
「じゃあ、どうして一緒に居てくれないの?」
 その言葉に、理衣子は何も答えない。
 静かな朝の部屋に、涙で震える自分の呼吸だけが聞こえる。あの時と同じだ。息を吸い込むと、古い本の匂いが鼻腔をやわらかく満たす。その匂いが記憶を連れてくる。特別な匂い。特別な空気。特別な光。完結した、置き去りにされた世界に属するものごとたち。
「沙紀は、私たちとは違う」
 やがて、理衣子が静かに呟く。私は目を閉じたままそれを聞く。
「あなたは私と信一郎さんとは違うの。でもあの時は違うから必要だった。違うけれど同じところを持っていたから、とても強く惹かれた。ずっとそこに居続けることはできなかったけれど、でもだからといって、避けることだって出来なかった」
 そう。それは避けようのない出来事だった。結果として、致命的なまでに深く私を傷つけることになるとしても。
 別れの瞬間がやって来ていることを、唐突に知った。
 違う。これはもう随分前に終わっていたことなのだ。五年前のあの夏の日に理衣子が幕を引いた。でも私がそれを無理に引き延ばした。失うことを拒み続けていた。それだけだ。わかっていても、声を出すことができない。そして、この気持ちの塊に、どんな言葉を当てればいいのかもわからない。
 でもその戸惑いを、理衣子は静かに引き取った。
「終わってしまったとしても、それはある意味では終わらないことなの。ずっと続いていく」
 とても短く理衣子は表現する。曖昧に、けれどだからこそ正確に。
 いつもそうだった。私の探し当てられないものを理衣子はするりと見つけ出してしまう。言葉になる前の空気が、かたちになる前の気配が、正しく受け取られていく。私たちは確かにそうやって通じ合っていたのだ。いちばん初めから。
「信一郎さんから伝えるように頼まれたわ。もうこちらから連絡することはない。もしあなたが『それ』を必要とするのなら連絡をくれて構わない。でも、そうならない方がきっと望ましいだろう、って」
 理衣子はそう言って少し沈黙する。顔にはきっとあの微笑みが浮かんでいるはずだ。
「あなたは『娼婦』にしては優しすぎると思う。誰かを客扱いするにはね」
 優しい声がそう呟いて、小さな足音が三回。それから立ち止まり、彼女はこちらを振り向いて言う。
「あの日、一緒に来てくれてありがとう。あれがあったから、私は……」
 そこで理衣子の言葉が途切れる。
 その続きは声にされない。たぶん、一番正しいかたちをとるために。
「ばいばい、沙紀」
 唐突に、幼いくらいの無邪気さで、それは投げかけられた。
「さよなら」
 私は声を振り絞った。小さなかすれた声だった。でも彼女の耳はそれをきちんと拾い上げた。いつでもそうだったのと同じように。そしてそれを正しく受け取って、空気に染み込んでいくだけの時間をじっと待ってから、扉に手をかける。からからと小さな音が響く。長い黒髪を翻して廊下を歩いていく。振り返らなくても全てわかる。わかってしまう。
「さよなら、理衣子」
 もう一度私は言った。それから小さく振り返った。そこに理衣子の姿はない。
 私は窓に寄りかかって、静かに泣いた。そして朝の気配が完全に消えてしまうまでの間、ずっとそこで泣き続けた。




 外では雨が降り出していた。分厚い灰色の雲が空に重く垂れ込めて、冷たい雨を降らせている。校舎を出て、傘を差して歩き出す。何もかもに現実味がなかった。足の裏に踏みしめている地面さえ曖昧で、目に映るものは全部、遠い世界の誰かが現実に似せて作ったレプリカみたいに思えた。すれ違う人々がみんなそれぞれに心を持っているなんてとても信じられない。
 ――『娼婦』にしては優しすぎると思う。
 理衣子はそう言った。でも『娼婦』としての自分を剥ぎ取ってしまったあとで、私には何が残るのだろう。何が私を繋ぎとめてくれるのだろう。
 わからない。
 歩きながらどのくらい時間が経ったのか、雲の立ち込める空は薄暗く、時間の判断がつかない。その場所までは随分距離があった。でも電車に乗る気にはならない。何も考えずに足を動かし続けていたかった。迷いながら、それでもただ歩き続けた。もし今足を止めてしまえば、もう二度と歩けなくなってしまう気がしたから。
 雨は降り続けている。それはいつまでも降り続きそうに見えた。まるで、あらゆる人々が流せずに溜め込んできた涙の代わりみたいに。そしてこれから流されるはずの涙の予告のように。
 体が冷え切っているけれど寒さは感じない。あらゆる感覚が遠いせいだ。私はうつろな意識のままその小さな喫茶店を視界に捉える。窓際に座っている人物の姿がすぐに目にとまった。
 ――終わらせよう。
 そっと意識が呟いた。入り口に近づいて、扉に手をかける。その手を引いた瞬間に理衣子が囁いた。
「それはある意味では終わらないことなの」
 本当に?
「ずっと続いていく」


「久しぶり。学校でも全然会わなかったけれど、ちゃんと来ていたのかい?」
 浅野君の言葉はとても遠い。
 私は何も答えない。向かいの席に座ったまま、彼をじっと見る。でも目が合っているという感じはしない。うまくなにかを見つめられない。冷たい雨のせいで意識まで凍り付いてしまったみたいだ。
「正直、顔が見えた時、ほっとしたんだ」浅野君は静かに言葉を続ける。「僕は多分、君が来ないという可能性も考えていたんだ。何も解決しないまま、全てが有耶無耶になって終わることを、ね」
 解決。いったい私たちの間の何を解決するべきなのだろう。
「僕は、嫌だったんだ。全て終わりにするにしても、できることなら互いに引け目を感じるような別れ方はしたくない」
「……引け目?」
 自嘲的な笑みが浮かぶのを、なんとか自制する。
「少なくとも、浅野君が私にそんなものを感じる必要なんかないと思うわ。それに、もうこれは終わっていることなんだと思ってた」
 私はようやく目の前に置かれた湯気のたつ紅茶のカップをとり、一口飲んだ。熱い液体が喉を流れ、意識が少し現実味を取り戻す。
「あなたも私も理衣子を追いかけていただけだった。だから元々重なるはずのなかった線が、また元に戻っただけなのよ」
 それが私の認識だった。なぜ浅野君が未だに私に関わろうとしているのか、その理由がわからない。
「確かに、そうかもしれない。けれども僕は、交わったのならば、その交わりに対して責任を持ちたいんだよ」
 責任。
「それが何になるの?」私は訊く。
「ただの自己満足だよ」浅野君は答える。
 彼はこちらをまっすぐ見ていた。そして言う。
「僕は君をちゃんと知りたい。例えその結果がどうなろうとも」
 私は沈黙でそれに答えた。
「今まで、僕がどれだけ君を見ることができていたのかを思い出してみた。確かに僕は椎森のことなんてほとんど知らないも同然なんだ」
 彼はゆっくりと、慎重に探るように言葉を連ねていく。
「ただ、椎森と知り合っていく中で、感じていたものがあったんだ。……君から感じるのは、いつも必死さだったり、寂しさだったり、そんな感情が多かった」
 ――寂しい?
「私のどこが、寂しそうなの?」
 反射的に言葉がこぼれる。それが強い調子になってしまうのを抑え切れなかった。
 だって、浅野君に対して今までそんな自分を曝した覚えなんかない。確かに私は必死なのかもしれない。そして、寂しがっている。でもそれを指摘されることに耐えられなかった。
「そんなの、浅野君の勝手な印象でしょう。そう感じたからって、それがなんになるの?」
「なにもならない。ただそれだけなんだ」
 浅野君は静かに答える。
「そんな印象だな、という程度で僕は終わっているんだ。それだけのことしか感じることができていないんだよ。それは勝手な印象に過ぎないのかもしれない。要するに今の僕は、あらすじだけを読んで、わかった気になってるだけなんだ。だから、今度こそ僕は見ようと思うんだよ。僕の手じゃ収まりきらないのかもしれない。けれども、僕は、できることならしっかりと読み込んで、そして欲を言えばそれらを受け入れたい」
 その長い台詞を全て聞き終えた後で、私は一度目を閉じる。
 少しの間息を止めてから、それをゆっくりと吐き出した。
 生のままの言葉が内側に侵入しようとする。その気配に、心の奥底が動揺して震えている。それを必死に抑えようとする。
 まっすぐ過ぎるのだ。何もかもが。
「あなたに、それが受け入れられるとは思えない」
 私は浅野君の目を見据えた。
「私がしていたことをわかってる? 『娼婦』としての私が何をしていたかなんて、知りたいと思う? 知ってしまって、それが受け入れがたいものだったのならどうするの? 私はそんな覚悟をあなたに求めてない。それはあなたに理解できるものじゃないから。『娼婦』のことも、理衣子とのことも」
 恐らくは、誰にも理解されないだろう自分の領域。けれど、それでよかった。誰かにあの記憶を汚されるくらいなら。
 でも。
「僕に理解できるかどうかは、椎森が決めることじゃない」
 静かで強い言葉。
 浅野君は目を逸らさずにこちらを見ていた。意志のこもった強い視線だ。返す言葉を見失う。重たい石を胸元に投げ込まれたみたいな気がした。
「もしも本当に僕に理解できないと思っていたなら、椎森はここに来なかったと思う」
「どうしてそう思うの?」問い返す声は、勢いに反してとても小さい。
「僕がどうでもいいなら、無視してしまえば済んだことじゃないか。終わったことだと思っていたなら尚更。どうして椎森はここに来たんだ?」
 その言葉に答えようとして、答えようがないことに気がつく。なぜ私はここに来たのだろう?
「僕だって理衣子のことを引きずっていたのは認める。でも、椎森はずっとそうやっていくつもりなのか? 理衣子を追い続けて、誰とも関わらずに生きていく。本当にそんなことを続けていけるのか?」
 そんなこと、言われなくたってわかってる。
 理衣子を失い、『娼婦』としての自分も失った。何もかもが限界なことくらい、わかってる。
「何も、知らないくせに」
 投げつけるようにそう言った。私はもうほとんど浅野君を睨みつけていた。
「何も知らないよ」
 彼は少しもたじろがず静かに言う。
「だから、知ろうとしてるんだ。椎森沙紀を、知りたいんだよ」
 彼はそう言ったきり、私の言葉を待っている。
 外の世界には雨が降っていた。春の空気を重く染める、冷たい雨。ガラス越しの景色を歪め、滲ませている。それは理衣子と過ごした夜を思い出させた。二人でどこかに行こうとしたあの夜。電車のガラスに映る滲んだ風景。十五歳の私。誰かを深く知ろうとして、でも全てを受け止めることも、受け止められることも叶わなかった。
「勝手よ」
 私は呟く。その声はとても弱い。
「私の全てを知るなんて、そんなことできるわけない。結局のところ皆そうできてるの。どんなに解ったつもりなっても、そこに居続けるなんてできないのよ。そこは、一時的な居場所にしかならない」
 ――どこにも居場所なんかない。逃げようがない。誰と触れ合っても、ただ通り抜けていくだけみたいに思える。みんな客のようなものなの。誰かがやって来て、ほんの少しのあいだ居場所を共有する。留まり続けることはできない。それは必ず終わってしまう。
 かつて理衣子はそう言った。きっとそういうものなのだ。たとえ重なり合う瞬間があっても、それは容易く剥がれ落ちていく。留まることなんか誰も本当にはできない。握り合った手はいつか離れる。握り締めていても死んで冷えていく。私たちはみんな指先で触れ合うように関わりあいながら、錯覚し続けることしか出来ない。
 私の言葉に、浅野君はしばらく黙っていた。遠い場所で降る雨の音を聴き取ろうとする人のように、じっと口を閉じて。
「椎森は、どう考えているのさ」
 彼は小さな声で、けれどはっきりと言った。
「僕は理衣子じゃなくて、椎森自身に聞いてるんだ」
 私はそれに答える言葉を持たない。

 気がつくと足が動いていた。喫茶店の扉を開けて外に出る。小降りの雨の中を走って人波に紛れ、行き交う人の間をすり抜けるように必死で走った。
 逃げ出してどうするのだろう。わからない。ただ、衝動に任せて足を動かし続けた。雨が服を濡らしていく。目に入り、頬を流れる。あるいは私は泣いているのかもしれない。
 後ろから、浅野君が私を呼ぶ声がする。私は振り返らずに走り続けた。でもその声は少しずつ距離を縮めて近づいてくる。
 息が切れて、鼓動が上がる。手足が痺れるように熱い。私は何から逃げているんだろう。浅野君から? 本当にそう?
 でも今、気づいてしまった。
 彼がこうして追いかけてくることが私にはわかっていたのだと。
「椎森!」
 浅野君の声がはっきりと聞こえる。目の前にはちょうど踏切があった。警報が鳴り、遮断機が下りてくるのが見えた。それを潜り抜ける。電車の音が迫っていた。踏切を越えて、振り返る。浅野君がいた。
 彼はもう一度何かを叫ぶ。でもそれは電車の轟音にかき消された。途端、私たちの間を電車が分断する。けたたましい警報。電車が通り過ぎていく。
 本当に終わらせたいのならここで振り切ってしまえばいいのだと、思った。


 電車が通り過ぎる。少し遅れて、警報が止む。辺りが唐突にしんとする。遮断機が天に向かって上がっていく。
 線路の向こう側に男の子が立っている。雨に濡れた髪から、雫が垂れている。彼は私をじっと見ていた。肩で息をしながら、彼はとても小さな声で、私を呼んだ。
「……椎森」

 私は、そこに立ち尽くしていた。

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