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最終話

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 気がつくと雨はほとんど霧のように細かく、柔らかいものになっていた。重く垂れ込めていた灰色の雲は風に流されて少しずつ薄まっていく。
 辺りは不思議なくらいの静けさに満ちていた。電車は遠く過ぎ去り、人の気配もない。微かな風が濡れた頬を撫でていく。


「……椎森」
 浅野君が足を踏み出した。
「待って」
 私はそれを小さな声で静止する。囁くような声だったけれど、彼はそれを聞いて足を止めた。そして静止の意味を確認するように私を見た。
 その視線が怖かった。
 彼はもう「客」じゃない。何を言えばいいのだろう。どんな姿で存在すればいいのだろう。わからない。それでももう、逃げることはできない。
 ここで自分自身を見失えば、もう二度と見つけられない気がした。
「私は怖いの」
 声はぎこちなく震えて、まるで他人のもののようにこわばっている。
「誰かと関わることが。何かが自分の世界に入り込んできて、それが重要な意味を持ってしまうことが」
 だってそれがなくなってしまったら、私は前よりもずっと一人になる。手に入れたものが大切になればなるほどに。
 続く言葉を口にしようとして私はようやく悟る。
 もう、それを認めなければいけないのだと。
「私はずっと、寂しくなるのが怖かった」


「僕も同じだよ」
 僕はそう呟きながら足元を見た。そこにはいつもと変わらないものがあった。踏み出せず、何かを支えるには少し頼りなさげだった足が。
「今まで理想だったり、極めて僕の希望に近いことしか考えてこなかった。それはつまり、僕の理解できる範囲での世界しか受け入れようと思ってなかったってことなんだ」
 吐き出された言葉は宙に散っていく。
「結局のところ、怖かったんだ。僕の分からない何かが、僕の中に入ってくるってことが」
 雨粒はそれらを抱くと、するりと落下して、地面に辿りつくと飛散した。
「そうやって逃げてきた。受け入れられなかったら失うかもしれないことから必死で……」
 抱き続けたものが解けていくのが分かった。そうか、僕はこんなにも臆病だったのかと実感に身が震えた。それを雨に濡れて凍えている振りをして、僕は強がり続ける。
 ここで、崩れてはいけないのだと思ったのだ。


 浅野君の静かな声は、それでもはっきりと耳まで届いた。
 それは他の誰かのためではなく私だけに向けられた言葉だ。娼婦ではない私。理衣子の影を払い落とした私。 浅野君の見ている「椎森沙紀」という、私。
 それがどんなかたちをした生き物なのか、今の私にはわからない。それは浅野君にしか見えていない。自分では見つけられない私のかたち。
「……理衣子が言ってた。私とあなたは少し似ているって」
 私は俯いて小さく首を振る。その言葉にはまだ朝の空気の匂いがこびりついて、生々しい別れの重さをまとっている。
「でも私には、その意味がよくわからないの」
 世界の内側に、理衣子だけをずっと探していた。彼女と同じものを見出そうとし続けていた。誰かの中に。娼婦という存在の中に。理衣子はこの世に一人しかいない。だからこそ焦がれ続けてきた。そしてそれ以外のかたちなど自分には必要ないのだと、意味を成さないのだと、思い続けてきた。
 だから私は彼のことを何も知らない。見ようとさえしてこなかったから。


「どこが似ているかなんて、その意味だって、僕も分からないよ」
 きっと僕らは、とても難しく考え過ぎていたんだと、今になって思う。それだけ物事を複雑にしなければ、自身を保つことなんて不可能であったのも確かなのだろう。
 そうやって幻影を否定することも、逃げることも、それを行い続けた結果何かが変わるのならばとっくにこの世界は姿を変えている筈なのだ。
「君が理衣子を追い求めていたように、僕は理衣子を重ね続けていたんだよ」
 僕は再び足を動かす。湿った足が小さく音を立てた。一歩、二歩、と歩いていき、線路の前で立ち止まった。多分、これ以上は歩いてはいけない気がした。
 だから、届かない距離を、言葉で埋めよう。
「今度こそ、僕は見ようと思っているんだ」
 いや、埋めたいと思った。
「椎森をね」
 線路の向こう側の女の子に向けて、僕は小さく微笑んだ。


「私は……」
 口を開く。でも言葉はそこで途切れてしまう。目を伏せると、足元の地面は濡れて微かに光っていた。
 ――少しだけ待って。
 心の中で呟いて、目を閉じる。
 この先に続く言葉を、きちんと見つけたいと思う。「椎森沙紀」としての言葉を。
 何かを留める続けることなんてできない。全ては移り変わっていく。身を寄せ合えば寄せ合うほど、離れたあとの空気はずっと冷たくなる。私は傷つけられ、そして誰かを傷つける。何かを失い、損なう。
 でも、それは終わらない。どこかへ続いていく。何かが損なわれるのと同時に、何かが生まれていく。人と関わることでどれだけ傷ついても、それがどれだけ致命的な痛みだったとしても、私は誰かを求め続ける。そうでなければきっと、私は「娼婦」にはならなかった。
 きっと、浅野君と関わろうとなんかしなかった。
 
 ゆっくりと目を開ける。

 空が見えた。
 薄灰色の雲は押し流され、空の向こうから春の夕暮れが訪れようとしている。薄青に僅かに紫を溶かし込んだ淡い色合いの空と、うっすらと白い日差し。
 そして雨が、静かに降っていた。細かな雨粒が日差しに透けてきらめいている。
 涙雨だ。
 
 口を開く。息を吸う。小さくのどが震える。
 言葉は相手にたどり着くだろうか。わからない。
 やがて雨は止むだろう。
 降り止んだ先の世界にその言葉がどう響くのかを、まだ私たちは知らない。

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