「貴方は、私の客でしかないの」
あの日、僕に対して川原理衣子はただ一言そう言った。そのあまりにも感情のこめられていない言葉に、僕は動揺を覚えた。
―――――
待ち合わせ場所にやってきた彼女は、それまでとまるで違う姿をしていた。口元に引かれた鮮やかな色のルージュ、黒を基調とした服装、それら全てが僕が見たことがない姿であったからか、とても新鮮に見えていた。それこそ理衣子であるかを疑ってしまったほどに。
今日の君は、なんだかいつもと違うね。
その突然の変化に対する疑問に、理衣子は一度笑って見せて、それから。
「いつもはどんなふうに見えていたの?」
そう、どこか距離を感じさせる一言を口にした。
「いつもの君は、なんていうか、もっと……」
「あなたの理想に近い人物だった……と?」
突如突き付けられたその言葉に、僕は口を噤み、目を見開く。理衣子は非常に冷静に僕を見つめ、それから一度小さな溜息を吐きだし、首を振る。その挙動の全てがとてもなめらかで綺麗だったからか、僕はその姿に思わず見とれてしまう。
「貴方にとって私は、理想のステータスをもった人形かなにかなのかしら?」
彼女はすっと僕の目の前まで歩み寄ると、数センチも距離のないところまで近づくと微笑む。
「私は浅野君の事、とても良い人だと思っているわ」
理衣子はそう言うと僕の頬をゆっくりと撫でる。きめの細かい肌の感覚だけが頬に残り、そしてその感覚もやがて消えていった。たった一瞬の心地よさに僕は目を細める。
それだけのことなのだ。それだけのことなのに、僕はぼんやりとした視線のまま彼女から目を離せなくなってしまう。心が強く締め付けられ、その圧迫感が脈を強く鼓動させる。
「けれども、私は貴方一人を見ていることはできないの」
頬を撫でていた手を自らの胸へと充てると、唇の両端を釣り上げるようにして微笑む。
それまで化粧気を感じさせなかった以前の彼女とは違う姿。
それが、僕という存在に対する興味が完全に失せたということを、それとなく伝えているのだと気付いた。
それまで理想として存在し続けていた彼女の姿は幻想でしかなくて、ただ彼女が僕に合わせていただけであることに気づかないまま、僕はここまでやってきていたのだ。
本当に僕は幼稚で、馬鹿な男だと思う。
「……僕には君しかいないんだよ」
目の前に現れた理解という言葉にぎゅっと強く蓋をしてから、懇願に近い言葉を絞り出す。
認めてしまえばこれ以上傷つくことはない。それくらい分かっているのだ。あがいても傷が更に深くなるだけだということくらい、単純な僕だって分かっている。
それでも、認めてしまったら、これ以上進むことができなくなってしまうような、そんな気がしていた。
現実に背を向け、理想を理想のままに留め続けておきたい。
けれども、それが僕のただの望みであると理解しているからこそ、今目の前で面倒くさそうに視線を揺らしている彼女の目も、つまらなそうに手をいじる仕草も、苛立ちを隠すようなその身体の揺らし方も、その次に吐きだされるであろう言葉も。
全てが僕の理想から外されているその姿を見れば――
「貴方に寄り添うことはいつでもできるけれども、それ以上を求めてくるのは私には重いだけなの」
十分に予測できた。
理衣子は先程まで形式上でも「恋人」という関係にあった僕を、まるで近寄りがたい何かでもあるかのような視線で一瞥し、そして身を翻すと一度もこちらを振り返らずに駅へと消えていった。
理衣子の姿が見えなくなるまでその場に立ちすくんだまま見送った後、僕も踵を返して数歩歩いてから、目を閉じた。
――気にすることはない。単なる一つの失恋劇だ。
愛されていると勘違いし、良い気になって自らを精一杯捧げた哀れな男と、愛されていると知り、都合の良い人として僕を見ていた女。
なんだかひどく視界が歪むけれども、泣いているわけではないと自らに必死に言い聞かせて袖で目元をぬぐった。
携帯を開き、映った液晶の男女二人をじっと見つめる。呆け顔の男の姿を見て、思わず笑ってしまう。
一から十まで必死にカッコを付けていた男がアホ面を下げて満面の笑みを浮かべ、それからどうなるのかを知らず、自分は幻想に恋をしていたのだと気付いていない姿がそこにいるのだ。笑いたくなる。
「バカみたいだ」
小さく呟いてみる。本当に酷く滑稽だ。僕は震える声で更にそう呟くと、駅の隅で小さくうずくまる。
もう、何も考えたくなかった。
―――――
目が覚めた時、授業は終了しており、生徒達は講堂から出て行くところであった。ああ思い切り居眠りをしてしまったのかと現状を大体把握してから、僕は荷物をてきぱきとまとめて講堂を出る群れの一人へと混じる。
ふと、携帯が震えた。僕はその振動に瞬時に反応する。
「メールマガジン、か」
一瞬だけ抱いた期待は、結局期待のまま終わってしまった。僕は溜息をつく。
値引き、セール、新発売商品の告知、全てがどうでもよくて、その行為に大した意味はないと理解していながら、僕はそのメールをわざわざ削除してから携帯を閉じた。
分かっているのだ。もうメールが来ないことも、いつも出口で待ってくれている彼女の姿を見ることがないということも。
彼女はすがすがしい程に淡々と僕がいわば「客」の一人のようなものだということを告白した。僕がどれだけ表面的な部分で彼女を好きになっていたのか、深くまで知ろうとしていなかったのかを丁寧に、それでいて辛辣に伝えたのだ。
結局僕はその程度の存在だったのだ。
彼女には一つを独り占めしたいという感覚はなかった。自らを愛してくれるものは全て受け入れるというような、そんな理念のもと動いていたのだ。
ぽつり、ぽつり。
生ぬるい液体が僕の肌に小さな塊として降り、肌を濡らす。まとわりつくような水滴はやがて落ちてきた別の一滴とまとまり、そしてそのまとまりがまた次の一滴と合わさり……それを繰り返しているうちに、肌は液体に満たされて行く。
――冷たくもなければ熱くもない、中途半端な感覚。
はっきりとしないということを嫌うのは、いけないことなのだろうか。選択をはっきりとさせたいと思うのはこの世界では悪なのだろうか。
さて帰ろう。
僕はすっかり濡れた髪を軽く手で払い、頭を振って水滴を飛ばすと一歩を前に出した。
戻れば、すぐそこに屋根がある。
けれども、僕はあえて帰路を走ることにした。
水滴が次々と視界を埋めていく。時には目を濡らし、僕は思わず手で目を拭った。顔を払った。そして次々と降り注ぐその雨を全身に受けながら足をひたすら前に動かす。生ぬるさはあいかわらず僕を濡らしていくし、まとわりつくような雨粒の感覚が走ることで吹き飛ぶわけでもない。
それでも戻りたくはないのだ。認めたくないのだ。自分がまだ想いを胸に秘めていることも、彼女を求めていることも、できれば独り占めしたかったというその想いも、例え客の一人であったとしても、一緒にいたかったという矛盾した気持ちも。
全て、洗い流してしまえ。
僕は天を仰ぎみて唇を固く噛みしめてそう心の中で叫ぶ。今口を開いてしまえばこの視界をゆがませるものが一体なんなのか、理解してしまう気がしたから声は出せなかった。
雨のせいにさせてほしいのだ。
通り雨に濡れただけと思わせてくれ。
踏切の警鐘が鳴り、僕は立ち止る。服はすっかり肌に張り付いていて、呼吸は乱れ、ぐるりと揺れる視界に思わず崩れ落ちそうになってしまった。
そして、そのぼんやりとした視界でとらえた光景が、また僕の心に絡みついた。
踏切の向かいで彼女は、川原理衣子はスーツ姿の男性と二人で傘を差して、そして笑っていた。つい先日までその隣にいた筈なのに、僕はどうして今一人で雨にぬれているのだろうか。
「――」
ふと、彼女と視線があった気がした。いや、確実に目が合っていた。こちらに気付いた彼女は、静かにこちらに笑みを向け、そして頭を傾ける。
風を切る音を連れてやってきた電車が僕らの間を切り裂く。
僕は踵を返すと地面をけり上げ、踏切から逃げ出した。
向き合いたくなかったのだ。すれ違いたくなかったのだ。
現実と。