TOO MUCH PAIN
廃車置場でセックスしていた僕らの足元にたかる、やたらとでかい蟻を潰していたら、「別れよ?」と彼女が言うので、僕は蟻を潰すテンポを早めた。
聞くことから、考えることから逃げて耳を塞ぐ僕を見ながら彼女は口を動かしている。僕は目を閉じる。彼女は僕を揺さぶって、耳を塞いだ手を貫いて僕に罵声を浴びせてくる。それからまた僕らはセックスをして、全身を蚊に咬まれて、後悔も面倒になって、その日を最後に会わなくなった。
そんなことを夜のコンビニで思い出しながら、一番安いコンドームを選んで買い、店の外に待たせていた女の元へ向かう。吸っていたタバコをその場で捨てた女の髪を掴んでタバコを拾わせると、むくれた顔をしながらも女は従ってくれた。頭を軽く叩いた後、手を繋いで僕らは小便臭い路地裏へ向かい、立ちながらセックスをした。
「名前は?」と聞くたびに女は違う名前を答え、そのたびに僕は女の名前を忘れた。
首筋に中途半端に彫られた蝶のタトゥーを指で強く押さえても、女は少し苦しがるばかりで息絶えることはなかった。
パトカーのサイレンが遠くから聞こえてきたので僕はさっさと済ませてズボンを履いた。「うちらには関係ないよ」と女は言った。残りのコンドームを置いて僕は歩き出した。女が何か叫んでいたが、この国の言葉ではなくなっていた。
夜中に光り輝く自動販売機の灯りに吸い寄せられた蛾が、酔っ払いの拳で潰されていく。スーツ姿でありながらズボンの裾がぼろぼろの酔っ払いは通りすがりの僕の胸倉まで掴んで来る。何を言っているかは分からない。遠くから聞こえてくる誰かの歌声はやけに陽気で、僕らの醜態からはほど遠い。蛾の死骸で汚れた手で頬を叩かれる僕の耳には、昔廃車置場で聞こえてきた音が響いて来る。僕と彼女の吐息、自動車の部品の崩れ落ちる音、野良犬たちの争い合う声、滴り続ける漏れたオイル。あれらは、全て歌だった。
年老いた酔っ払いを殴り倒した拳が血で濡れている。水で流しながら、その血は自分が流していたものだと気が付いた。酒と煙草と女と血の臭いを消臭スプレーで隠した後、妻と娘の待つ部屋を開ける。僕を見た途端喜びを爆発させる娘は現在九か月で、僕の罪状を何一つ知らない。
「ただいま」と僕が言う。
「おかえり」と言ってくれる妻の声にはいつも愛情と殺気がこもっている。
それから僕は、娘を乗せる馬になる。
(了)