野犬ビリーヴ
野犬ビリーヴは群馬県子持山中腹で産み落とされ、ほどなく意識を失った。彼を産んだシベリアンハスキーは我が子等の世話よりも自身の餌漁りを優先させた。五匹の子が産まれ、その内の四匹が通りがかりの浮浪者の胃袋を満たすために殺された。父犬であるジャーマンシェパードは既に子持山から離れ、別の山の中で猪の子を喰らっていた。
浮浪者は日本人ではなかった。彼は昔話に出てくる赤鬼に少し似ていたがまだ人間であった。
「I believe...」と彼は呟いた。人の世を捨て、異国の山中で暮らす彼が何を信じているのか、殺され損なった子犬に分かるはずもない。だがその声を聞いて目を覚ました瞬間から、この物語の主人公は自分はビリーヴなのだと確信した。鬼のなり損ないの手から与えられた兄弟の血を、未発達の舌で舐めた。一度も吠えることのなかった同胞の遺言が血を通して彼の体に流れ込んだ。
「食え」と兄は言った。
「走れ」と姉は言った。
「狂え」と弟は言った。
「生きろ」と妹は言った。
「信じろ」とこれは少し遅れて、外国人浮浪者が言った。
ビリーヴは妹の遺言以外は全て忠実にこなした。乳の味を知らないビリーヴは無知ゆえの強引さから兄弟達を腹に収めた。生後一週間も経たない内に驚異的な脚力で近隣の山にまで足を伸ばした。すれ違った父犬シェパードはそれを自分の息子とは気付かなかったが、初めて自身の老いを自覚した。ビリーヴは容易く狂って飼い主である偽赤鬼を喰らった。彼の最後の言葉もやはり「Believe!」であった。犬であるビリーヴには最後まで彼の信じた対象が何か知ることはなかった。
残念ながら世間的、生物学的常識から外れた生物が長く生き残れるほど、世間も生態系も彼に甘くはなかった。人肉の味を覚えたビリーヴはたびたび人を襲い、そのため人から襲われた。あらゆる生物から憎まれたビリーヴはどこを寝床としても地面や樹上から毒素を浴びせられた。
それでもビリーヴは三年生きた。
偽赤鬼が寝起きしていた山小屋に数年振りに来訪者があり、彼の白骨死体を発見する。それはかつて故国の神学校では最優秀生徒だった男のなれの果てであった。第一発見者である彼の恩師は涙は流さなかった。彼の為に流した涙はもう枯れきっていたから。
愛弟子の骨を抱えて老師は山を降り、どこへ通報することもなく、少しばかり遅すぎる速度でレンタカーを運転して空港へ向かおうとした。ビリーヴはそれに轢かれて足を潰し、歩くことが出来なくなりやがて飢えて死んだ。
あまりにのろのろとしていたせいでそれを脅威とは感じずビリーヴが油断したのか、積み荷と自分との関連性に勘付いて自ら身を差し出したのか、知る者はおらず、結論もない。
ビリーヴを轢いた直後、老師は慌てて車から飛び出し、神の名を口にした。ビリーヴにとっては初めて聞く言葉だった。
(了)